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2004.11.19

ペルー旅行記3日目

2004年9月19日(日曜日)

 久しぶりに普通の時間に起きる。7時にモーニングコールだ。目が覚めたら、昨夜はあんなに食べたのにお腹が空いていて、今日も引き続きお世話になる響子さんには「7時半にレストランで」と言われていたけれど、起きてすぐにレストランに向かった。
 ソル・イ・ルナホテルの庭はお花がたくさん咲いていて綺麗だし、朝だから比較的空気も澄んでいて山も綺麗に見える。写真を撮りながら歩く。

 朝食はビュッフェ形式で、パン、ホットケーキ、フレンチトースト、ジャガイモ、ベーコン、卵、ジュース3種(これはその後どこに行っても同じで、オレンジジュースとパパイヤジュースとパイナップルジュースだった)、シリアル、ヨーグルト、フルーツ、コーヒーなどが並ぶ。まだ高山病が心配だったので朝からコカ茶を飲んだ。
 シリアルのところにはキヌアも並んでいた。ペルーの人はシリアル代わりに食べることはないそうなので、これは観光客向けのサービスだろう。
 酸味と甘みがちょうど良い凄く美味しいジャムがあって、響子さんに「アマイ・ワント」という名前だと教えてもらった。

 8時を少し回ったくらいの時間に出発した。まずは、チンチェーロに向かう。
 チンチェーロはウルバンバよりもクスコよりも標高が高く3700mくらいだそうで、車は上り坂を登って行く。
 途中の道から見える畑と、その奥の雪山がとても綺麗に見える。焼き畑の煙でやっぱり少し霞んでいたけれども、それはそれで「幽玄」といった趣がある。
 ベロニカ山(クスコでは聖なる山と言われているそうだ)、チコン山が、その威容と高さと姿の良さで目立つ。ドライバーのダニエルに3回くらい教わって、3回くらい違う山を「あれがベロニカ?」と聞いて「違う。」と首を振られ、それでやっと憶えることができた。

 チンチェーロの手前で、道端で大きく手を振るペルー人の女性がいた。車はかなり彼女を通り過ぎてから停まる。
 何かと思ったら、クスコ近郊の遺跡では外国人だけではかなりチェックが厳しくなるので、今日は1日ペルー人のガイドさんに同行してもらうということだった。これで車の中は、ツアーに参加している私たち二人に対して、ガイドさん二人にドライバーさん一人というえらく贅沢な布陣になった。

 この日は日曜日だったので(チンチェーロの市が見たくて、この日が日曜日に当たるように出発日を選んだ)、まずはチンチェーロの市に向かった。
 塀と門がある広場の真ん中に屋根と床だけの建物があり、そこには主に野菜や食べ物や雑貨などの日用品を扱っている人たちが陣取っていた。
 その周りに、布を地面に広げ、民芸品などを商っている人たちが陣取っている。
 日用品を商う人々と民芸品などを商う人々と、半々くらいの割合だったと思う。昨日のピサックの市場と比べて、民族衣装を着た人たちが多いし、値段も安い。チンチェーロの日曜市も観光化されつつあるのだろうけど、ピサックに比べればまだまだ素朴な感じの市だ。

 リャマの毛で編んだベルトをたくさん売っている女の子がいて、そこに捕まった。
 響子さんが聞いてくれて、彼女(15歳くらいに見えた)は山の上にある村から売りに来ているということが判る。
 茶色、紺色、黄土色のベルトが目立つ。焦げ茶と白でハートの連続模様を編み込んだベルトを1本買うと、根本の方はまだ編みっぱなしになっていて、その場で端の始末をしてくれた。
 響子さんに教わってその場で結んでみる。ベルトの結び方も色々とあるらしい。

 屋根付きの一角は、緑色が目立つ。野菜ももちろんだけれど、クイのえさにする草が大量に積まれている。
 食べ物屋さんもあって、パンやお酒(色々な薬草酒があって、それを混ぜてコップに入れてくれる)を売っている。
 響子さんが笹のような葉で包んだ、マッシュポテトのような蒸しパンのようなものを買ってくれた。原材料も名前も教えてもらったのに思い出せないのが情けない。

 さらに奥には、リャマの毛の織物や民芸品を並べた露天が並んでいた。
 底からお水を入れてひっくり返してもこぼれない、不思議な構造のポットを売っていた。私が興味を示したのを見て、おじさんが実演してくれる。洗剤で洗ったりせず、使う前にしばらく米のとぎ汁を入れておくといいそうだ。土鍋と同じね、と納得する。
 説明を聞いて眺めているうちに欲しくなり、太陽と月の絵のポットを試すがめつしていると、おじさんが「これはあとそれ1個しかない」。と言う。なかなか商売上手なおじさんだ。
 ここにあるポットは全部自分が作ったんだよ、と売り込んでくる。確かにポットの底にはおじさんのサインが入っている。ハンドメイドに弱い外国人観光客のツボを心得ているらしい。

 市で私たちを野放しにしておくときりがないと思ったのだろう。響子さんに「先に遺跡を見に行って、また帰りに寄りましょう。」と言われ、その場を離れた。
 市を出て、「えー、ここを登るの!」と言いたくなるような急坂の入り口でチケットを切ってもらう。
 このチケットはクスコ市内と近郊10箇所の遺跡や博物館を見ることのできるチケットで、10ドルだ。何から何までガイドさんに全部やってもらっていると、物の値段やお金の使い方に無頓着になってしまっていけない。

 かなり急な坂道を登って行く。アドベよりも黄土色っぽい色の家々や塀が並んでいる。道の途中にもぽつぽつとお土産物屋さんが並んでいる。
 坂道を登り切ると広場になっていて、そこにも露天の市が並びつつあった。
 広場の脇には二重窓の石組みがあり、その上にスペイン人が建てた教会がある。響子さん曰く「ヨーロッパ人は教会が好きだからみんな入って行くけど、別にいいですよね。」ということで、そのまま奥の広場に進む。

 二重窓は重要な建物の印だという昨日の響子さんの説明通り、教会の土台となっている部分は丁寧に石を積んである。けれど、その奥の住居地区の石組みはかなり雑に見えた。
 土を盛ってそこに石をはめ込んで作る方法を「ペルカ」というそうで、チンチェーロの遺跡の住居地区はこの「ペルカ」で石組みが組まれている。

 緑の草が生えている広場に座り込んで、響子さんに解説してもらう。
 チンチェーロの遺跡は、インカ帝国のマンコ・カパックという最後の皇帝が一時暮らしたと言われているそうだ。大きな広場は、お祭りや儀式に使われていたと考えられているらしい。マンコ・カパックを始めとするインカの人々は、ここからさらにオリャンタイタンボに落ち延びて行ったのだ。

 緑の草が綺麗だったし、標高に負けて少し胸苦しかったので、その場で寝ころぶ。
 空が結構綺麗で、寝ころんだ姿勢のまま空だけの写真を撮る。「世界の中心で愛を叫ぶ」のドラマを思い出して、「セカチューごっこしているんじゃないよ。」と言ってみたら、響子さんはセカチューを知らないと言う。
 「世界のへそ」の話をしたら、響子さんは、「クスコも世界のへそって言われているんですよ。」と対抗心を燃やしていた。何だか響子さんのペルーへの愛が感じられて、楽しい気分になる。

 教会下の広場に戻ると露天市の数が増えていた。
 2本目のベルト(色々なインカの意匠が編み込まれた、黄土色と紺色の組み合わせのベルト)を買い、さっき買ったベルトと2本とも巻く。
 この広場には、普通の人のおうちのような「MUSEO」があったけど、残念ながら入場しなかった。何が展示されていたのだろう?

 ゆっくりゆっくり坂を下り、響子さんに「さっき迷った物だけ。」と釘を刺されつつ市にもう一回行く。
 リャマの毛の織物で作ったクッションカバーが気になったけれど、家のクッションのサイズを覚えていなかったので、「測ってくれば良かった」と思いつつ断念する。
 その代わり、先ほど散々迷った太陽と月の意匠のポットを買った。ウルバンバのホテルの名前にもなっているし、何かの意味があるのだろうと思っていたところ、太陽と月の意匠はそのまま男女は常に一対のものであるという思想の元となり、また象徴的に表していると説明があった。
 そういえばピサックの市場のパチャママとパチャパパもどれも二人一組で作られていた。

 ポットの取っ手に飾られていたピューマにも意味があって、これは地面というか地上を表している。
 ピサックの市場のお土産物屋さんには、水中又は地中を表す○○の上に地上を表すピューマ、その上にコンドルを重ねた置物がたくさん売っていた。
 この一番下にいた動物がどうしても思い出せない。亀だったような気もするし鰐だったような気もする。平べったくて四つ足の動物だったような気がするけど、もしかしたら蛙だったのかもしれない。
 ピサックに向かう途中、蛙の形をした丘を見たときに、蛙はペルーでは神聖な動物とされているという説明を受けた。多分雨の前になると姿を現すからだろう。

 響子さんもチンチェーロの日曜市に来たのは初めてだったらしく、私たちを牽制しつつも「こんなに楽しいとは思わなかった。」を連発していた。帰りがけには「女の人のお客さんと市に行くのは楽しい。」と言いながら大きめのリュックを買っていた。「いえ、私の方がお二方につられて普段はしないお買い物をしています。」と思って、ちょっとおかしかった。

 車に乗る前にトイレに行く。紙もあったし清潔けれど便座がない。便座がないトイレはここが初体験だ。股の内側の筋肉が鍛えられる気がした。
 この日はデニムのスカートにスパッツという格好をしていた。ズボンよりもトイレでは気を遣わずに済むような気がする。響子さんには「今日は少し歩きますけど。」と心配してもらったけれど、スパッツのおかげで階段をよじ登るような場面でも特に問題なかったし、図々しく遺跡の原っぱで寝ころんでも平気。なかなか旅行向きのスタイルだということを実感した。

 チンチェーロを後にし、モライ遺跡に向かう。私があまりにも「写真、写真」と騒ぐのに呆れたのか、こちらから何も言わなくてもダニエルが自主的にフォトストップしてくれるようになった。申し訳ないけど嬉しい。
 チンチェーロに向かっているときは人っ子一人いない畑だったけれど、この時間は農作業をする人々と家畜動物がたくさん畑にいる。豚や羊などがちょうど繁殖の時期らしく、本当に生まれてすぐくらいの赤ちゃんが群れの中にいて、とても可愛い。

 モライの村を抜けて遺跡に向かう途中、民族衣装を着て赤ちゃんを抱っこした女の人が車を止めた。何かと思ったらヒッチハイクだという。響子さんに「モライの遺跡まで行きたいそうなんだけど、乗せていい?」と聞かれた。
 車は大きいし、席は余っているし、もちろんOKである。やりとりの間はその女性しか姿が見えなかったけれど、車に乗り込んできたのは男の人(多分、旦那さん)も一緒だった。ヒッチハイクは女性が車を止めて交渉するのがセオリーなのね、と思って何となくおかしい。

 しばらく行ったところで、今度は小さな男の子が車を止めた。今度は何だ? と思っていると、「何かちょうだい。」と言っているらしい。ダニエルと響子さん経由でそう通訳してもらい、友人がパンをあげていた。
 彼は学齢前でまだスペイン語を習っていないから、ケチュア語でしゃべっていたそうだ。この男の子に会ってから遺跡までも上り坂をかなり進んだけれど、私たちが遺跡の見学を終えて駐車場に戻ってきたとき、彼は遺跡の入り口で遊んでいた。物凄い健脚だと思う。

 モライの遺跡の手前で親子3人とお別れした。 
 途中から舗装されていないガタガタの道だったとはいえ、村から遺跡までは車でも結構な時間がかかっている。少なくとも10分や15分では到着していない。この人たちは車が通りかからなかったらずっと歩いて行くつもりだったのかしらと驚いた。結構アップダウンもあったし、歩いたら何時間かかるのだろう?

 モライの遺跡はインカ帝国時代の農業研究所ではないかと言われているけれども、記録があるわけでもなく、実際のところはよく判っていないそうだ。
 農業研究所と言われている所以は、同心円を重ねたような遺跡が真ん中に行くほど深く掘られている、この形状にある。底に下がるほど温度が上がり、様々な気候(気温)で作物がどのように育つのか育たないのかここで実験していたのではないか、という仮説が立てられている。
 確かに石組み壁には人が上り下りする階段の他に水路が切られている。

 一段一段の畑は石組みで支えられていて、石組みから飛び出た石を階段に見立てて降りて行くことができる。
 降りて行く途中は風がかなり冷たくて、赤いコートをTシャツの上に着込んでちょうどいいくらいだった。
 底まで降りると、風が遮られたせいもあって、言われてみれば上よりも暖かい気がする。
 一番上の端でヨーロッパ人らしい団体が説明を受けている声が底にいても聞き取れた。声が通るように何らかの計算がしてあるのかも知れない。

 降りた階段は上らねばならず、カメラをリュックに詰め込んで両手を空け、石組みから突き出た歩幅も高さもバラバラの階段を手足全部を使ってよじ登った。階段が終わると、そこからさらに坂道を登らなければならない。
 モライの遺跡も標高3600mくらいあるそうで、ただでさえ運動不足の身体にこの負荷はキツイ。一番後ろから休み休み登って行く。
 流石にペルー人のガイドさんの足取りは確かで、気が付くとずっと先を行くのが見えた。

 モライの遺跡見学後はマラスの村に向かった。
 出発前に読んだWebページでは「モライの遺跡からマラスの塩田まで、ゆっくり下り道を歩いて1時間くらい」と書いてあったけど、本当だろうか? 舗装していないガタガタ道を車でかなり飛ばして、やっぱり10分や15分では着かなかったと思う。

 マラスの村に入ると道は細かい石畳に変わった。
 家々の門の上に太陽など様々な意匠が彫ってあって、それは屋号のような役目を果たしているそうだ。ダニエルがわざわざ車のスピードを落として、門の上を指さして教えてくれる。
 家の塀や壁は黄土色で、やっぱり農村部で見るアドベの家の色とは違っている。

 マラスの村を抜けて舗装していない道に入ると「塩田まで8km」という看板が出ていた。響子さんは村から塩田まで2時間くらいで歩けると言う。
 塩田の手前、塩田全体を見晴らせる場所でフォトストップしてもらう。眼下に見える白い塩田に唖然とする。棚田があって、ところどころは茶色いけれど、概ね真っ白だ。あぜ道も白い。それが結構大きく広がっている。

 この塩田は山と山の間にあって、下に広がるウルバンバの谷からはほとんど見ることができず、発見されにくくなっているそうだ。だから盗まれたりする危険性も低い。そういう場所に塩田を拓いたのだろう。
 とはいうものの、翌日にオリャンタイタンボに行く途中に見えたマラスの塩田はかなり白く光って目立っていた。もっともこれは乾期だからこそで、雨期になると塩田全体が茶色くなってしまうらしい。

 ここでポツポツ雨が降り出し、響子さんに「本格的な雨になるようだったらこの後歩くのは止めましょう。」と言われたけれど、そこから車で1〜2分の塩田入り口では雨は降っていなかった。この「歩く」が、塩田を抜けてウルバンバの街まで歩く、という意味だったことが後で判る。

 塩田の入口で時計を見たら13時だった。
 それにしてもガタガタ道を車で揺られるとどうしてトイレに行きたくなるのか。塩田の入り口でトイレを借りる。今回のペルー旅行を通じて、ここのトイレが一番インパクトがあったかと思う。
 ドアがちゃんと閉まらなかったし、便座とトイレットペーパーはもちろんない。でも水は流れたし、用を足す分には問題なかった。

 入口に学校の机ひとつ分くらいの売店があり、ここの塩田で作られたお塩や、製塩の過程の塩を連ねた見本などを売っていた。
 製塩の作業自体はウルバンバの街中の工場で行い、そこで詰められた塩をまた持ってきて売っているらしい。
 とにもかくにも産地直送の塩である。もちろん購入する。マラスの塩田で塩を買うことは、今回のペルー旅行ショッピング編の私の唯一の目標だったので、それが適って凄く嬉しい。

 塩田に入って歩き始めた辺りから、カメラの調子がおかしくなった。電池が切れて電池交換をしたら、何故か動かない。電池を入れ直してみても結果は一緒だ。しばらく放っておけば直るかと、予備のデジカメをリュックから取り出す。
 そんな作業を、塩の結晶が固まった細い(15〜20cmくらい)あぜ道の上でやっていると、不安定なことこの上ない。あぜ道は平らではなく真ん中が山形に盛り上がっているので、あまり安定感が良くないのだ。

 あぜ道のすぐ横はもちろん塩田で、塩田というのは要するに稲のない田んぼに塩の結晶が浮かんでいる状態だ。
 かなり時間のたった塩田は塩の層も厚く固まって上に乗っても大丈夫そうだけれど、仮にも食べ物を靴で踏む気にはなれない。
 若い塩田はもちろん塩水に塩の結晶が浮かんでいる状態だから、そんなところに足を踏み入れようものなら底なし沼状態に違いない。
 みんなよりかなり遅れて慎重にゆっくりと進む。

 あぜ道の横には水路があって、山の上から塩分を含んだ水を引き、各塩田に入れているらしい。水路を流れる水は何故か温かい。その水に触った手をそのままにしておいたら、手の指に塩の結晶ができた。
 このマラスの塩田も、チンチェーロの遺跡もモライの遺跡も、不思議と鳥の声がしない。私たちがしゃべっている声以外に音があまり聞こえてこない。
 マラスの塩田などあまりにも静かすぎて、水路を流れる水音が物凄く大きく感じられたくらいだ。

 塩田を抜ける途中、水路からの水を止めて日干しを行っている塩田や、もう完全に結晶になった塩を収穫している塩田があった。水を張ってから塩が取れる状態になるまで大体1ヶ月くらいかかるという。
 逆にこれから塩の結晶を作り出す、今はまだ茶色く見える水が張られているだけの塩田もあった。それで、遠くから眺めると真っ白な中に茶色いまだら模様がポツポツあるように見えていたようだ。

 塩田を抜け、そのまま片側が川に向けて崖になっている道をウルバンバの谷に向けて下りて行く。
 ペルー人のガイドさんがたったか歩いて行くのを私たちがのんびりゆっくり追いかける、という歩き方になる。
 下に見えている川はマラスの塩田から流れている塩水の川だそうで、その両岸は塩の結晶で白くなっている。塩田の近くではまだ魚は住めないらしい。流れ落ちる間に結晶になった塩分が抜けて行き、ウルバンバの川に流れ込む頃には問題ない濃度にまで薄まるそうだ。

 ウルバンバ川を渡ったところでダニエルと車と再会し、車に乗り込んでウルバンバの街中に向かう。
 途中のバスターミナルでペルー人のガイドさんが車を降りる。チンチェーロの手前で落ち合ったからてっきりこの近くの人だと思っていたけれど、実は彼女はクスコ在住で、今日はここからバスでクスコに帰るそうだ。
 だから時間を気にしていたんだな、知っていればもっとパキパキと歩いたり動いたりしたのに、と反省する。彼女はバスの時間に間に合ったのかしらと心配になった。

 クスコ発着の聖なる谷1日ツアーでもお昼を食べるという、ウルバンバの街中のキンタレストランで昼食になる。レストランに入った時点で14時をかなり回っていた。
 響子さんが「ここのレストランは野菜が多いからいいの。」と言うとおり、ビュッフェ形式で、野菜のコーナーと温かいもの(お肉とポテトが多い)のコーナーが同じくらいのボリュームである。
 食前酒としてピスコサワーが小さなグラスで供された。ペルーに来て初めて飲んだお酒は口当たりも良くて美味しかった。

 鶏肉の鉄板焼きが美味しい。ゆでただけの野菜がたくさん並んでいて、それも美味しい。
 デザートにブラウニーとバナナケーキとプリンを食べ、ペルー風のコーヒーもここで初めて飲んだ。
 ペルーのコーヒーは、小さなポットにどろっとしたコーヒー液のようなものが入っていて、それをカップに注ぎ、適当にお湯で薄めて飲むのが一般的なようだ。コーヒー液をどれくらい入れればいいのか悩んでいると、響子さんが作ってくれた。見ていたら、カップに1/4くらい入れていた。
 飲んでみるとかなり苦い。ミルクを半分くらい入れて何とか飲めるくらいだ。香りが飛んでしまっているのが残念である。

 今日も市で買い物をしてソルの手持ちが少なくなってきたので、飲み物代をドルで払いたいと頼んだら、2ドルと50センティモだと言われた。どうして端数だけペルーの通貨が指定されるのか、謎である。
 響子さんに聞くと、ペルーで流通しているのはドル「紙幣」だけだそうだ。しかもドル紙幣の場合は少しでも破れていると受け取ってもらえず、コインは全く流通していない。だから端数分はペルーのお金で要求されたという訳だった。

 両替をしたいと頼んで、街中の両替屋さんを何軒か回ってもらったけれど、どこもお休みだった。両替屋さんだけでなく、お店は軒並み閉まっている。
 そういえば今日は日曜日だ。ホテルのフロントで両替してもらうことになった。
 昼食を食べた頃から始まった頭痛が、ホテルに戻って安心したからかまた酷くなってきたので、そのままバファリンを飲んでまたベッドに倒れ込んだ。多分16時少し前だと思う。
 それでも昨日よりは進歩していて、目が覚めたら18時だった。今日も夕食は20時からでお願いしてあったので、ホテルの写真を撮ったり、日記を書いたりして過ごす。

 今日の夕食からガイドさんが道子さんに交替した。ホテルのレストランで待ち合わせして、「よろしくお願いします。」とご挨拶する。
 このホテルのレストランは日替わりでプリフィクスのお料理が食べられ、しかも何でも美味しい。
 今日は寒かったので、前菜に穀物のスープを頼み、メインはます(ティティカカ湖の名物と聞いていたので、一度食べてみたかった)のバター焼き、デザートにフルーツカクテルを選び、ほぼ完食した。
 まだ高山病が怖かったのでお酒は自粛し、飲み物にはガス入りのお水を頼んだ。このお水が、240mlだと1.5ドル、750mlだと2ドル、2.5lだと3ドルという値段だったのがどうしても解せない。道子さんのアドバイスで、もちろん大きなペットボトルでもらうことにした。

 食事中に、別のツアーのガイドに付いていたらしい直子さんと顔を合わせた。土曜出発の8人のツアーについていたらしい。道子さんのところに男性のガイドさんが来て話している。道子さんはペルーでのガイド歴が20年以上だそうで、この後も思ったけれど本当に顔が広い。

 頭が痛いと言いつつ健啖家ぶりを発揮した私は、具合が悪そうで食事もあまり進んでいなかった友人に呆れられた。
 道子さんに「頭痛がするのは高山病のせいでしょうか。」と聞いたら、「こんなに食欲のある高山病患者はいない。」と断言された。何だか釈然としない。
 ゆっくり夕食を食べ、ぬるめのシャワーを浴びて、0時前に就寝した。

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