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2004.11.27

ペルー旅行記5日目

2004年9月21日(火曜日)

 早起きしてマチュピチュに持って行く一泊用の荷物と、クスコに置いていく荷物を作った。
 5時から朝食が食べられると聞いていたので、その時間に1階に降りて行く。扉は閉まっていたけれど朝食の準備は済んでいて、もう少し早い時間からでも大丈夫そうな感じだった。
 それでも流石に温かいもの(スクランブルドエッグとかポテトとか)はまだ用意されていない。時間もないので、パンケーキとコーヒー、フルーツを食べた。
 友人の誕生日が近かったので、二人で絵はがきを書いて、フロントの横にあったポストに入れる。誕生日には間に合わないだろうけど、気は心だ。

 道子さんとは5時半にフロントで待ち合わせである。
 このホテルに預けて行くスーツケースをエレベーターなしで4階からかついで降りる自信がなく、昨日のお兄さんに降ろしてもらった。

 ホテルからマチュピチュ行きの電車が出る駅までは、車ですぐだった。昨日迷い込んだバラックを立ち退かせる工事のために囲ってあるんじゃないかと思った一角が、駅前の市場であることが判明する。
 駅に着くとすでにビスタドームが待っていた。ペルーレイルという会社が運行しており、車体は青く、シンボルマークもついている。ホームで記念撮影をする。
 この電車は、日本の電車のように車両間で乗り移ることはできない。だから各車両にサービスの係員さんが四人くらいずつ乗っている。料金が高くなるわけである。

 シーズンの割に空席が多い。聞いてみたら途中のオリャンタイタンボから乗る人も結構多いそうだ。
 道子さんとしゃべっていたペルー人のお兄さんは日本語ガイドさんだった。彼のお客さんは日本人で、オリャンタイタンボで乗車するという。
 そんなことを話している間に、(多分)定刻通りの6時に発車した。

 電車はまずはクスコを囲む山を登って行く。スイッチバックだ。日本でもスイッチバックの電車に乗ったことがなかったので、ひたすらスイッチバックの様子を眺める。
 後方の車両に乗っていた係員さんがスイッチのところで下車する。電車はそのままスイッチを通り過ぎて止まる。スイッチを切り替えると電車は逆方向に走り出し、元前方(今は電車の向きが変わったので後方)の車両に係員さんを乗せるために停車、そしてまた進み始める。
 正しい説明かどうかは微妙だけど、そんな感じで四回スイッチバックを繰り返して電車はゆっくりと進んだ。

 電車の窓の位置と線路沿いの家の屋根の位置がちょうど合っていて、家の屋根の上にシーサーのようなものが乗っているのが見える。十字架とピューマは定番で、後は雑多なものがとりあえず飾ってあるように見える。さっきのペルー人のガイドさん(道子さんはフィコと呼んでいたので、以後そう呼ぶ)が言うには、シャンパンなんかもお供えしてあるらしい。
 「もったいない!」と叫んだら、「家の屋根に飾るのは安いシャンパンで、高いシャンパンは家ができたときのお祝いに飲むんだ」ということだった。

 スイッチバックが終わると途端に周りの景色は田園風景になる。電車はループを描いて今登った山を下り、そのまま谷を走り出す。
 お手洗いに行こうとして車両の後ろに行ったら、フィコがいて「今お手洗いは人が使っている。」と言う。そのまま彼の隣の席にお邪魔して日本語でおしゃべりする。
 日本のどこに住んでいるか質問されて答えたら、「知っている。」と言う。フィコが前にガイドした人に同郷の人がいたのかしら、などと思って追求したところ、フィコが8年前に我が家の近くの大学に留学していたと判明した。日本語がぺらぺらな理由も、やけにローカル情報に詳しい理由も、これで納得である。

 わが家から歩いて10分もかからないところにある大学に通っていた人と地球の裏側のペルーで会うなんて変な感じである。そういえば、何年か前にわが家の近所にできたばかりのアパートのほぼ全部屋をペルー人の団体が借りていたことがある。確か彼らは働きに来た人々で、家族で来ている人も多かったと記憶している。もしかしてその中にフィコがいたのかもしれない、と思うとさらに面白い。
 調子に乗ってさらにおしゃべりを続ける。

 そのうち、窓の外に一瞬、物見櫓のようなものが見えた。フィコは「バンジージャンプだ。」と言っていたけど、本当だろうか? ペルー人とバンジージャンプというのは今ひとつつながらない。フィコ自身も「やりたくない。」と言っていた。
 私が勝手にペルー人というイメージを持っているのと同じように、フィコにも「日本人」のイメージが確固としてあるらしい。
 まずは隣の席に座ろうとして「お邪魔します。」と言ったときに「日本人ですね。」と言われた。「日本人らしいですね。」という意味だったんだろう。お辞儀(私の感覚では会釈だ)をするところが日本人っぽいそうだ。

 日本人ぽいと言えば、フィコより私の方が2歳年上だということが判り、「どうせ私は落ち着きがないですよ。」と言ったら、フィコがあっさりと「そうですね。」と言う。
 あまりにも速攻で頷かれたので、「ちょっと待った。落ち着きがないっていうのは日本人にとっては褒め言葉じゃないよ。判ってる?」と自分の落ち着きのなさを棚に上げて追求してしまう。「落ち着きがない」というのは喜ばれる褒め言葉だと勘違いしているんじゃないかと思うほどの速攻加減だったのだ。

 でも、フィコは「知っている。」とさらにあっさりと答える。続けて「でも、ペルーでは元気がいいというのは褒め言葉です。落ち着いているとか静かだっていうのは病気みたいでしょ。エネルギーがないというのはいいことではありません。」とおっしゃる。とりあえず決してけなしているつもりではないことは理解した。
 ところが、けなしているつもりではなかったらしいフィコをフォローするつもりで「まあ、確かに私は日本人っぽくないかもしれないね。」と言って、やっぱり速攻で「あれ、自覚はあるんだ。」と言われたときには天を仰いだ。
 何だかもの凄く失礼なことを言われた気がする

 身長の話になったときもそうだ。私が170cmで「あんまり身長は高くない方が良かったな。」と言ったら、「ペルーではそういう考え方はしない。男の人も女の人も身長は高い方がいいと考えている。だって、身長が高いということは進化したということでしょう?」と言われた。
 目からウロコだ。
 ペルー人のみんながみんな「身長」と「進化」なんてことを日常的に結びつけて考えているとは思えないけど、そういう考え方もあるんだなと思った。ペルーならではなのかフィコならではなのかは未だに判らないけれど、これはかなりの発見だった。

 しばらくしゃべっていたら、電車はポロイの駅に到着した。電車が止まっているときにはトイレに行ってはいけないと言われていたので、発車するのを待って(そのタイミングならトイレを使っていた人もいないわけだ)お手洗いに行った。
 車内サービスで朝食が配られ始めたので、フィコに「またね。」と手を振って席に戻る。

 車内サービスの朝食は運賃に含まれている。ホテルで朝ごはんを食べたけれど、もちろん頂く。
 ツナのようなものを挟んだサンドと、レモンクリームのようなものが入ったタルト菓子、フルーツに飲み物というメニューを完食する。配っているお兄さんお姉さんは簡単な日本語を操って「コカ茶?」などと聞いてくれる。かなり日本人の乗客が多いのだろう。

 ごはんも食べ温かいコカ茶も飲んで落ち着いたところで、車窓から見える畑や、アドベの煉瓦で作られた家が集まった街や、やっと晴れて来て顔を覗かせた雪山などの写真を嬉々として撮る。
 ポロイの駅から30分くらい走ったところでもう1回スイッチバックがあった。窓を開けて身を乗り出し、係の人がスイッチを切り替えるところを観察する。

 ビスタドームはしばらくウルバンバ川沿いを走る。街や村の近くでは必ず汽笛を鳴らしている。そうして通り過ぎた中に、昨日ワイポ湖からの帰りに通った街もあった。人家の近くでは必ず汽笛を鳴らすことになっているそうだ。
 汽笛の音を録りたいと思いつつ失敗を繰り返している間に、ウルバンバ川を渡り、窓の向こうにオリャンタイタンボの遺跡が見えてきた。8時くらいにオリャンタイタンボ駅に到着した。
 ビスタドームはクスコを出てポロイとオリャンタイタンボにだけ停車し、この後はアグアス・カリエンテスまで直行する完全な観光用列車だ。

 ポロイ駅ではほとんど停車時間もなかったけれど、オリャンタイタンボ駅では乗り込む人も結構いるので5分くらいは停車していたと思う。
 その停車時間を利用して、線路の中にとうもろこしをゆでたものなどの食べ物や、織物やバッグなどを抱えて売りに来ている人がいる。窓越しに交渉することになり、停車時間の見当もつかない私たちにはなかなか買い物も難しい。でも、わざわざ電車を降りてとうもろこしを買ってきている欧米人のお兄さんがいた。

 オリャンタイタンボ駅で、テレビクルーのような集団が乗って来た。物凄い荷物だ。
 フィコが言うには、このテレビクルーの主役はリマで数軒のレストランを経営しているシェフだそうだ。彼のお父さんは国会議員か何かで、息子を政治家にしようとアメリカ合衆国に留学に出したのに、息子の方は何故か料理に目覚めて料理人としての修行をして帰国したらしい。お父さんとしてはショックだったんだろうけど、今のところ彼はシェフとして成功しているようだ。

 そのシェフに席を取られてしまったらしいフィコは、空いていた私の隣の席に移ってきた。お客さんの女の子達は通路を挟んだ斜め後ろの席に並んでいるから、そういう意味でもちょうど良かったんだろう。しかし、そのお客さん達を放っておいて私とおしゃべりしているのはどうかと思う。

 オリャンタイタンボ駅を過ぎると、しばらくはアンデネス(インカ時代に作られた物と、最近作られた物とでは石組みの色が違って見える)が川岸に連なっている。それが消えたりまた現れたり断続的に川の対岸に見ることができる。次第に川幅が狭くなり、川と線路との距離も近くなってくる。
 ビスタドームは停まらないけれど、88Km地点に駅とインカ時代の橋と階段があった。ここから3泊4日のインカ道トレイルが始まるそうだ。そして、線路と並行して走ってきた道路もここで行き止まりになり、この後アグアス・カリエンテスまでの交通手段はこの電車だけになる。

 カメラクルーはシェフが窓の外を眺めているところを撮ったり、窓からビデオカメラを出して「世界の車窓から」風の映像を撮ったりしている。
 1日トレッキングの開始地点である104km地点を通り過ぎる。
 駅から川に降りていく階段はインカ時代に作られたそうだ。また、ウルバンバ川に架かる橋の橋桁もインカ時代に作られたらしい。対岸の崖を登って行く道があり、ポツポツと歩いている人の姿が見える。

 道子さんに「歩いたことがありますか?」と莫迦なことを聞いたら、「何百回もある。」というお返事だった。「大変なんでしょう?」とさらに聞いたら「そうでもない。」と言う。
 後になって道子さんの「大変じゃない」という台詞を信じてはいけないと判ったけれど、このときは「やっぱりインカ・トレイルを歩くコースにすれば良かったかな」と思った。

 本当に川岸ぎりぎりを電車は走って行く。線路は単線複式で、1回だけ、駅ではない森の中でアグアス・カリエンテスから来たローカル電車とすれ違った。
 森の中には国旗を揚げている家もあった。赤白赤の縦縞3本の旗だったので、「あれは何?」とフィコに聞いたら「ペルーの国旗だ。」と言う。「ペルーの国旗って、真ん中の白いところにエンブレムがついてるでしょう?」と聞いたら、国家機関のようなところを除けばエンブレムは省略してもいいことになっているそうだ。
 確かに、一般家庭であのエンブレムを再現するのは面倒だけど、赤白赤の縦縞国旗なら作るのも簡単だ。

 線路沿いにヘルメットを被った工事の人が目立つようになってきた。この路線は7月にも崖崩れで埋まったばかりで、その復旧工事が行われているという。
 「復旧途中なの?」と聞くと、フィコは、「1年に1度は大きな崖崩れがあるんだ、今年は7月に起きたからもう心配ない。」と言う。心配ないと言われてもその根拠が薄弱すぎる。川から線路までの距離は短いところは短いし、山側に崖崩れの跡が見えるところもある。

 ウニャワイニャの遺跡を始めとするインカ道トレイル沿いにある遺跡が川の反対側に見えてきた。ここまでくれば、アグアス・カリエンテスの駅まではすぐだ。
 アグアス・カリエンテス駅到着はほぼ定刻通りの9時半過ぎだった。

 道子さんは行動が早い。
 ビスタドームがアグアス・カリエンテス駅に近づいてスピードを落とし始めると、さっと立ち上がって荷物置き場に置いてあった私の荷物を持ってきてくれた。
 停車するや否や私たちを促して一番に電車を降り、大混雑のホームを抜け、線路の上を歩いて、マチュピチュ遺跡入口に向かうバスが何台も停まっているところまでほぼ先頭を切ってたどり着いた。
 一番前のバスの一番前の席に座る。バスにどんどん人が乗り込んできて、満員になると発車だ。

 出発前に見たWebページの中に「マチュピチュに向かうバスの一番前に座れば写真が撮れるかも」と書いてあったけど、それは無理だということが判る。しばらくは川沿いの舗装された道を走ったけれど、川を渡ると日光いろは坂ばりの九十九折りの道が続く。これがハイラム・ビンガム・ロードだ。
 この九十九折りの道は舗装されていない。そして、カーブの部分を除くとバス1台がちょうど通れるくらいの幅しかない。
 窓から足元を見ると、道の端にところどころ石が埋めてあり、ぎりぎりのところを走っている。遺跡入口から戻ってくるバスとすれ違うときにはカーブのふくらみを利用して、何度も切り返す。かなりスリリングだ。

 20分くらい走り、マチュピチュ遺跡入口にあるサンクチュアリロッジに到着した。
 ハイラム・ビンガム・ロードの上にあるホテルは、このサンクチュアリロッジだけ、完全独占経営だ。だからかなりいい宿泊料を取る。
 サンクチュアリロッジに泊まると言ったら、響子さんが一言「ゴージャス!」と言ったくらいだ。
 お値段がとんでもないのは重々承知の上で、「マチュピチュ遺跡入口にある唯一のホテル」という条件は捨てがたく、ツアーに申し込みをするのと同時にサンクチュアリロッジ宿泊のアレンジもお願いした。出発の2ヶ月くらい前の時点でキャンセル待ちで、「サンクチュアリロッジが取れた」という連絡が旅行社から入ったのは8月も半ばを過ぎてからだ。

 サンクチュアリロッジのレストランに入り、ウエルカムドリンクのジュースをいただきつつ、ホテルカードに記入する。パスポートも預ける。
 このロッジはクスコからの電車とバスの時間に合わせてチェックイン・アウトの時間を設定しており、10時半にはチェックインすることができる。
 宿泊用の荷物を部屋に置きに行くと、部屋は中庭に面していて、部屋の前にデッキチェアとテーブルがあった。その先が芝生の中庭で、電車で一緒になったテレビクルー一行が早速撮影を行っている。
 見ていると、シェフの彼が料理の作り方を伝授するという内容のようだ。せっかくなので、こっそり部屋の中から撮影風景の写真を撮ってから道子さんが待つロビーに戻った。

 遺跡の入口は、ホテルから徒歩30秒といったところだ。
 しかし、遺跡の入口から遺跡本体までが結構遠い。コンクリートで作られた通路からマチュピチュ遺跡を見る。
 このマチュピチュ遺跡は山の背に作られているからだろう、遺跡内に段差も結構ある。
 アンデネスの脇に作られた階段を上り、水路を復元した石を眺め、まだ水が流れている水汲み場で水に触れてみる。
 その近くの陵墓と言われている場所には三角形の石室があり、贄を置いたのだろう台が削られている。この陵墓は太陽の神殿の下部にあり、階段を上がると太陽の神殿である。着いた頃には早くも息が切れていた。

 太陽の神殿は、マチュピチュで唯一カーブを描いた壁を持つ建物だ。石組みもかなり精巧で美しく、だからこそ「神殿」のうちでも最も位が高い(?)「太陽の神殿」と呼ばれているのだと思う。
 やはり神殿というか宗教地区にある建物は、住居地区や倉庫地区に比べてはるかに石組みが丁寧できれいになっているようだ。これは、マチュピチュに限った話ではなく、インカ帝国時代の遺跡全般に言えることらしい。

 この後、私は小学生のように「これは何?」と聞いては、道子さんに「○○と言われている。」とやんわりと言われるということを繰り返した。
 インカの人々は文字を持っていなかったと言われ、少なくとも現代に解読可能な形では伝わっていない。したがってマチュピチュの遺跡の「太陽の神殿」や「王女の宮殿」「日時計」「主神殿」などと呼ばれている数々の建物の名前も使われ方も意義も、すべてが推測に過ぎない。
 そこに、一問一答、白黒はっきりさせてくださいみたいな質問を繰り返したのだから、呆れられて当然である。

 ハイラム・ビンガムがマチュピチュ遺跡を発見したと言われているけれど、それも正確な事実ではないらしい。
 ハイラム・ビンガムは、そもそもマチュピチュ周辺に暮らしていたペルー人に案内されて遺跡にたどり着いたそうだ。そのとき、マチュピチュ遺跡のアンデネスでは一部で農耕も行われていたらしい。
 道子さんは、「ハイラム・ビンガムはマチュピチュ遺跡を学術的に初めて紹介し、研究した」というのが正しいと強調していた。

 道子さんが、最初に太陽の神殿を目指した理由はすぐに判った。
 見張り小屋(ワイナピチュをバックに遺跡が佇む定番の写真を撮ることができるフォトスポットだ)やマチュピチュ遺跡の中で最も高いところにあるインティワタナなど、人が鈴なりになっているのが見える。太陽の神殿の辺りにはちらほらしか人がいないのとは対照的だ。
 やはり日帰りでマチュピチュ遺跡に来ている人たちは真っ先に全景が見える場所に行くのだろう。

 太陽の神殿、その隣にあるマチュピチュで唯一の2階建ての建物である王女の宮殿、精巧な石組みで作られた通路を抜け、水盤、倉庫街などを案内してもらう。
 当時使われていたお手洗いもあって、建物の隅の一角に小さな穴が掘られ、そこに向かって地面が傾斜している。この穴は一体どこへ通じているのだろう、と思う。

 途中で、今朝マチュピチュで結婚写真を撮ったという日本人のカップルとすれ違った。すでにウエディングドレスからアウトドアの服装に戻っている。
 マチュピチュでウエディングドレスにタキシード姿で写真を撮ろうと考えつくのも凄いし、それを実行に移す行動力も特筆ものだ。きっとマチュピチュ遺跡に強い思い入れがあったのだろう。
 その新婚カップルをガイドしていた日本人男性と道子さんは知り合いらしい。何やら情報交換していた。

 道子さんの顔の広さは本当に驚異的で、ご本人はあっさりと「長くやっているから。」とおっしゃるけれど、マチュピチュ遺跡で発掘と整備をしている空色のヘルメットを被ったペルー人のおじさんからも「ミチコ ナントカカントカ。」と声をかけられていた。スペイン語の彼の台詞はまったく聞き取れなかったけれど、我々にも「ミチコに案内してもらってるんだね。」という感じでニコニコ話しかけてくれる。

 コンドルの神殿で「どこをコンドルの頭と見立てたんだろう」と話し合い、牢獄だったと言われる半地下部分を覗いてから上に回る。コンドルの神殿は、上から眺めた方が大きな岩を組み合わせていることが判るし、第一コンドルらしく見える。
 そのまま技術者の居住区と言われる一角を通り、一度外に出てはるか下まで続く階段を上り直す。一直線に続く階段は、一歩足を滑らせれば下まで転がり落ちそうで少し怖い。ステップが石の組み合わせででこぼこしているのもまたその恐怖を煽る。
 貴族の居住区に入ると、丸い石が二つ並んでいる家があった。雨が降っていたのか水を張った状態になっている。ガイドブックなどでは「石臼」と紹介されているけれど、こうなると「水盤」という印象が強い。これは一体何に使われていたのだろう。

 そのままマチュピチュ遺跡の奥、ワイナピチュへの登山口に向かった。
 向こうに見える山の稜線を模した岩が置かれている。マチュピチュ遺跡の中には、こうした、自然の岩を自然の山などに模して多少の手を加えたものがいくつかあるそうだ。
 比べてみると、確かに向こうに見える山と手前の岩とは同じような線を描いている。
 ワイナピチュの登山口には、パワーがもらえるという大きな岩があり、ぺたっと張り付いてみる。パワーが手に入ったかどうかは判らないけれど、その岩はとても暖かかった。

 この辺りで友人が「お腹空いた!」と一言叫んだ。確かにお腹が空いている気がする。朝は早かったし、今日はまだ長いし、今は正午くらいだ。
 もう少し遅くなると日帰りの人たちでレストランも混み始めるという話なので、早めにお昼にすることにして、サンクチュアリロッジまで戻った。
 今日のお昼はサンクチュアリ・ロッジのレストランである。ビュッフェ式で、冷たいもの、温かいもの、デザートと飲み物がある。料理の載ったテーブルの中にはお兄さんがいて、豚の丸焼きを切り分けてくれる。「これ何?」と聞くと「サケ」とか「トリ」とか何故か日本語で答えてくれる。

 窓に近い席に陣取って、ワイナピチュを眺めながら食べる。窓は開けてあってなかなか風が気持ちよい。
 お客さんが増えてきた頃、レストランの奥ではフォルクローレの演奏が始まった。
 私たちは混雑を避けて再びマチュピチュ遺跡に向かう。マチュピチュ遺跡の入場券はその日のうちなら何回でも出入りすることができる。

 午後一番で見張り小屋に向かった。
 マチュピチュをクスコからの日帰りツアーで見学する場合、10時くらいに遺跡の入口に着き、遺跡内を観光して13時過ぎくらいから遅めの昼食をとり、15時過ぎの電車でクスコに帰るというスケジュールになることが多いらしい。
 日帰りツアーで来る人が多いらしく、お昼ごはんを食べ終わって遺跡に戻ったら、だいぶ人は減っていた。

 見張り小屋は遺跡全体から見てかなり高い位置にある。「見張る」ための小屋なのだから当然だ。
 つまり、遺跡入り口から見張り小屋まではかなり高低差がある。
 見張り小屋までの階段を上るだけで息切れした。
 でも、見張り小屋の少し上、アンデネスの日陰に座って眺めたマチュピチュは、これぞ定番というアングルで、日光が当たって、正にマチュピチュだった。疲れていたこともあったし、何より「マチュピチュに来た!」という感じで、30分以上ぼーっと眺めていた。

 近くではマチュピチュで飼われているリャマたちがのんびりと草を食べていた。
 リャマが意味ありげに遺跡を眺めている写真を撮りたかったけれど、リャマは本当に怠惰で、食べているか寝ているかで全然首を上げることがない。
 マチュピチュのアンデネスにもモライの農業研究所にあったような石組みから突き出た石の階段がある。段差が一定でなくおまけに高いので、下手をするとよじ登るような格好になる。カメラを一々しまうのが面倒で手に持っている私には、これが結構面倒くさかった。

 見張り小屋の方まで歩いて行くと、生贄台のような石がある。その更に奥、インティプンクに向かう道が斜めに延びていて、その途中には葬祭の場と言われている大岩が見える。
 そこまで来たところで急に思い出し、インカの橋が見たいと道子さんに訴え、連れて行ってもらった。

 測候所のようなところを通り、そこに立てかけてあった「標高2563m」と書かれた看板を見て、クスコに比べて暖かいわけだと納得する。マチュピチュでは半袖のTシャツに綿の長袖シャツを羽織るくらいで十分だ。
 インカの橋に向かう崖沿いの道を歩きながら、イチゴを探したりお花の名前を教えてもらったりする。あのイチゴは美味しかったのだろうか。

 ガイドブックには20分くらいで着くとあったけど、そうやって寄り道していたせいかもうちょっと時間がかかった。
 何人かの人とすれ違いつつ進み、行き止まりだ、大きな岩があって欧米人のお姉さん二人がくつろいでいる、と思ったところがインカの橋が眺められるポイントだった。

 インカの橋は、がけっぷちに石組みを積んで作られた山道にかけられた橋だ。
 石組みをわざと一部積まないでおいて、そこに木の橋を渡してある。敵が攻めてきたときにはその橋を落とし、それ以上敵が進めないようにしたらしい。
 崖沿いの道は、昔は続いていてインカの橋まで行けたらしいけれど、今はその道も崩れ、離れたところから眺めるしかない。私たちが進んできた道は崖にぶつかって終わり、その崖沿いに鉄筋の残骸が見える。
 インカの時代(1500年代半ばくらい)に鉄筋の技術があったとは思えないから、元々のインカの道はすでに失われていて、その後で観光用に作った道が何かで崩れてしまったんだろう。そう考えると、一部とはいえまだ残っているインカの石組みの堅牢さは信じがたい。

 そもそも、「インカの橋」という発想自体、道なき断崖絶壁に石組みを積んで道を作る技術がなければ成立しない。
 唖然として眺めてしまった。
 欧米人のお姉さん二人組みが帰った後、大きな岩に登って寛ぐ。背中側は結構な崖になっていて、ちょっと怖い。はるか下の方にウルバンバ川も見える。

 インカの橋を満喫してマチュピチュ遺跡に戻ると、更に人が少なくなっていた。
 遺跡の残り半分を回り始める。
 現在の遺跡の入口は後から作ったもので、インカ時代はインティプンクからの道がマチュピチュに入る正規ルートだったらしい。インティプンクからの道の延長上に「太陽の門」と言われる門がある。ここが正門だ。
 門越しに写真を撮っていたら、道子さんが「このもうひとつ奥の門から撮ると広場のグリーンが入って綺麗よ。」と教えてくれる。

 その門に行く前に、石切場に向かった。石切場は見張り小屋とインティワタナ(日時計)とのちょうど中間くらいにある。
 この石切場から切り出した石を使ってマチュピチュ遺跡は作られたらしい。今もかなり大きな石がごろごろと転がっている。

 石切場を通り過ぎて、もう一度太陽の神殿に向かう。朝一番で来たときは外側からカーブの美しい石組みを見ており、今度は上からのぞき込む。少し前までは太陽の神殿の中に入ることができたけれど、今は立入禁止になっている。内部を見るには上からのぞき込むしかない。
 太陽の神殿を上から眺めると、その向こうにはアンデネスが連なり、はるか下のウルバンバ川とアグアス・カリエンテスの駅まで見下ろせる。

 その後、やっと人が引いた 「三つの窓の神殿」や、「主神殿」を臨む広場に向かった。もう16時近い。
 主神殿(と言われている建物)は、地震のために崩れ始めている。当然、立入禁止だ。三つの窓の神殿(と呼ばれている建物)も立入禁止になっている。

 遺跡の中央にある広場(木が1本だけ生えている緑の広場だ)も現在は立入禁止になっている。道子さんは、「人が入らない方が緑がきれいだからでしょう。」と言っていた。
 私は、この「広場に残った1本の木」は記念樹のような形で残されたか植えられたものと思っていた。でも、これもまた私の勝手な思い込みで、「ハイラム・ビンガムが来た頃にはマチュピチュ遺跡は木と草で覆われていた。遺跡を崩さないように木や草を取り除いて今の姿になった。あの木はそうしてたくさん生えていた中の1本で、なんとなく残したのだろう。」と道子さんは言う。どうも私はあらゆるものに意味を求めすぎるらしい。

 遺跡保護にはかなり神経が使われていて、例えば遺跡内ではステッキは禁止されている。歩行が不自由で杖を使わなければならない人などは大目に見てもらえるけれど、その場合でもステッキの先にゴムのカバーをつけて遺跡を傷つけないようにしなければならない。
 インカ道トレイルを歩いて来た人などが持つストックはもちろん持込禁止だ。また、ガイドブックには「食べ物の持込禁止」とあったけれど、本当は「飲食禁止」というのが正しいらしい。飲食の「飲む」部分に限って大目に見ている、ということのようだ。

 主神殿の隣の丘の上に、インティワタナ(日時計)がある。
 冬至には、インティプンクからインティワタナの石の突き出た部分に朝日がまっすぐに射すそうだ。そして突き出た石の対角線を太陽光が通過する。それで、一枚岩から切り出したこの妙な形の岩が「日時計」と呼ばれることになったらしい。この岩も昔は触ることもできたけれど、今はロープで囲まれてしまっている。
 ここがマチュピチュ遺跡内部の最高地点で、かつ遺跡の中でもかなりの人気スポットだ。それでも、アグアス・カリエンテスに向かうバスの最終便が迫るこの時刻には、辛抱強く待てば自分たちとインティワタナだけという時間が持てる。

 主神殿とインティワタナのすぐ横はアンデネスになっている。ここまで狭いと「アンデネス」ではなくて「土止め」としての役割しか果たしていないらしい。
 太陽の神殿ほどではないにせよ、カーブを描いている石組みがあったりしていて興味深い。

 インティワタナだけでなく、マチュピチュの遺跡は自然の石をあるがままに使った石組みが多い。妙に大きな石が、コンドルの神殿になっていたり、石組みの一部を構成したりしている。足りないところを切り出してきた石で埋めていることも多い。

 インティワタナの丘を抜けて広場の外縁に沿ってさらに奥に行くと、ワイナピチュの入口に着く。
 ワイナピチュに登ったまま降りて来ない人がたまにいるそうで、ワイナピチュに登るときには氏名を登録しなければならない。そして帰りに「降りてきました」のチェックをするそうだ。
 昨日(9/20)は300人くらいの人がワイナピチュに登ったらしい。山頂は狭いし、登山開始時間も朝から14時くらいまでに限られているので、かなりの混雑状況だ。
 私たちがたどり着いた時間はもう登り始めることはできなかったけれど、降りてくる人はまだ結構いるようだった。

 その降りてきた人の休息用か、ワイナピチュ入口のパワーをもらえる岩の前には、2軒の家が建っている。石組みの家に草葺きの屋根がかかり、一方の壁は抜かれてベンチが並んでいる。
 夕方の風も強くなって、整備のお兄さんが水を撒きに来ていたところを、しばらく休憩した。この遺跡の中のアップダウンが運動不足の身には結構堪える。

 道子さんと整備担当のお兄さんがスペイン語でおしゃべりしている。通訳してもらったところ、「どこから来たのか。」「何歳か。」「結婚はしていないのか。」といった質問が矢継ぎ早に繰り出されていたようだ。適当に(でも、何故か本当のことをつい)答えていると、最後の彼のセリフが「そしたら、ペルーでペルー人と結婚すればいいのに!」だったらしい。
 友人と二人、声を揃えて「うるさーい!」と叫んで、道子さんに笑われてしまった。

 道子さんが「しーっ。」と指を立てながら貴族の家のひとつを覗いている。
 横から覗くと、そこにはウサギのようなネズミのような動物がいた。名前をちゃんと教えてもらったのに、またしても覚えていないのが情けない。2匹出てきている。
 あんまり動かないけれど、時々伸びをしたりしてかわいい。夕方になって人が少なくなると出てくるそうだ。柱の影からしばらくじーっと見て堪能し、それから近づいてみる。かなり近づいても意外と逃げないで、そこでじっとしている。

 空もだいぶ曇ってきたし、風も冷たい。そろそろロッジに戻ろうと歩いている途中に屋根を復元した家があった。
 マチュピチュ遺跡の家々はほとんどが草葺きの屋根だったらしく、今では全く残っていない。こうして、一部の家の屋根が当時のように復元されているのみである。岩に刻まれた穴や突起を使って木の梁を渡し、草で屋根を葺いてあるのだ。

 遺跡の入口まで戻ってきて、アルパカセーターのお店があることに気づいた。そろそろ店じまいのようだ。
 明日の朝一番はいくらなんでも二人だけで大丈夫だろうと、道子さんとは8時半くらいにロッジの入口で待ち合わせることにした。それから、ワイナピチュかマチュピチュに登る予定である。二人でどっちにしようか行きの電車の中で相談し、道子さんとフィコと二人ともがお奨めするマチュピチュに登ろうかと思う。

 サンクチュアリロッジのお部屋に戻ったのは17時過ぎだった。
 部屋にはカナッペが用意されている。とりあえず水出しのお茶と一緒に頂いて一息つく。
 中庭に出ると、ワイナピチュが暗くなり始めている空に浮かび上がっていた。
 ほとんどこのために持ってきた三脚を取り出し、シャッタースピードをできるだけ遅くし、ISO感度を上げ、ホワイトバランスも色々と変えてワイナピチュの写真を撮る。そうこうしている間にも空はどんどん暗くなり、完全に夜になった。

 先にシャワーを浴びてから、ホテルのレストランに夕食に行く。昼食を食べたレストランの反対側に別のダイニングがあった。
 ムードは高級だけれど、そこにいる人々が自分たちも含めてやたらとカジュアルな格好をしているのが妙な感じだ。サンクチュアリロッジなら大丈夫だろうと鱒のカルパッチョを前菜で頼み、メインは鶏の焼いたものを頼んだ。ピスコサワーも頼んで乾杯する。友人は、ここで飲んだピスコサワーが一番美味しかったと言っていた。

 食事が終わって部屋に戻ったら、お部屋の掃除がされていて、バスタオルやバスローブが全部取り替えてあった。それを見て、洗濯しようと思い立つ。バスタオルに巻いて踏んでしまえばかなり乾くのだ。
 また、やたらと大きなろうそくが部屋に増えていた。ろうでできた行灯(?)の中でさらに小さなろうそくに火が灯っている。多分、虫除けを兼ねているのではないかと思う。

 明日はまず朝一番で朝日に照らされたマチュピチュ遺跡の全景を見ることにして、起床時間を5時に決めた。起きてすぐに日の出を見に行き、戻ってきて朝食、その後道子さんとマチュピチュに登る心づもりである。
 疲れていたこともあり、かなり激しく降っている雨音を聞きながら、早めに就寝した。

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コメント

 樫村さま、コメントありがとうございます。

 マチュピチュを案内していただいたガイドさんのメールアドレス等は存知上げないのです。申し訳ありません。
 ペルーでお世話になった「NAO TOUR」という旅行社さんのホームページがありますので、そちらでマチュピチュ遺跡についてお聞きしたら、もしかしたらお答えがいただけるかも知れません。
 NAO TOUR http://www.naotour.com/

 樫村さまのホームページにお邪魔しようとリンクをクリックしたのですが、エラーが出てしまい飛べませんでした。もしよろしければ、もう一度お教えください。
 よろしくお願いいたします。

投稿: 姫林檎 | 2007.03.05 21:49

始めました。私は東京豊島区に住む樫村慶一と申します。貴殿の旅行記を楽しく懐かしく拝見させていただきました。ところで、少々お願いがございます。「ペルー旅行記5日目」のマチュピツの記事の中に「広場に残った1本の木」という文章があります。私はこの木に大変興味を持ち、以前からこの木が何時植えられたか、名前は?、1本だけ植えた目的はなど、色々伝手に頼んでいるのですが、確たる返事がもらえません。1977年に発行されたマチュピチュの観光案内書には写っていません。貴殿の知り合ったガイドさんにも問い合わせてみたいのですが、もし、メールアドレスなどご存知でしたら是非教えていただきたくお願い申し上げます。もしお暇がありましたら、私のHPも是非一度ご覧下さるようお願いいたします。では、宜しくお願いいたします。***

投稿: 樫村 慶一 | 2007.03.04 11:12

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