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2004.11.27

ペルー旅行記の6日目を書き始める

 ペルー旅行記の6日目を書き始めた。

 マチュピチュの夜明け(日の出、とは言い難い部分がある)を堪能し、朝食を食べてサンクチュアリ・ロッジもチェックアウトしてから、マチュピチュ山頂を目指し、ほぼコースタイムで山頂に立てたものの雨が降り出し、傘を差しての下山途中に思いっきりコケて尾てい骨を打ち、それでも何とか遺跡まで戻ることができた。雨のマチュピチュは鮮やかなビニル製のポンチョを着た人で溢れている。バスでアグアス・カリエンテスまで降りてこれから昼食、というところまでたどり着いた。
 ペルー滞在中は何故か昼食が遅めの時間になることが多かったのだけれど、この日も昼食を食べたのは2時過ぎである。

 というわけで、旅行記中のペルー滞在時間は112時間というところである。

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ペルー旅行記5日目

2004年9月21日(火曜日)

 早起きしてマチュピチュに持って行く一泊用の荷物と、クスコに置いていく荷物を作った。
 5時から朝食が食べられると聞いていたので、その時間に1階に降りて行く。扉は閉まっていたけれど朝食の準備は済んでいて、もう少し早い時間からでも大丈夫そうな感じだった。
 それでも流石に温かいもの(スクランブルドエッグとかポテトとか)はまだ用意されていない。時間もないので、パンケーキとコーヒー、フルーツを食べた。
 友人の誕生日が近かったので、二人で絵はがきを書いて、フロントの横にあったポストに入れる。誕生日には間に合わないだろうけど、気は心だ。

 道子さんとは5時半にフロントで待ち合わせである。
 このホテルに預けて行くスーツケースをエレベーターなしで4階からかついで降りる自信がなく、昨日のお兄さんに降ろしてもらった。

 ホテルからマチュピチュ行きの電車が出る駅までは、車ですぐだった。昨日迷い込んだバラックを立ち退かせる工事のために囲ってあるんじゃないかと思った一角が、駅前の市場であることが判明する。
 駅に着くとすでにビスタドームが待っていた。ペルーレイルという会社が運行しており、車体は青く、シンボルマークもついている。ホームで記念撮影をする。
 この電車は、日本の電車のように車両間で乗り移ることはできない。だから各車両にサービスの係員さんが四人くらいずつ乗っている。料金が高くなるわけである。

 シーズンの割に空席が多い。聞いてみたら途中のオリャンタイタンボから乗る人も結構多いそうだ。
 道子さんとしゃべっていたペルー人のお兄さんは日本語ガイドさんだった。彼のお客さんは日本人で、オリャンタイタンボで乗車するという。
 そんなことを話している間に、(多分)定刻通りの6時に発車した。

 電車はまずはクスコを囲む山を登って行く。スイッチバックだ。日本でもスイッチバックの電車に乗ったことがなかったので、ひたすらスイッチバックの様子を眺める。
 後方の車両に乗っていた係員さんがスイッチのところで下車する。電車はそのままスイッチを通り過ぎて止まる。スイッチを切り替えると電車は逆方向に走り出し、元前方(今は電車の向きが変わったので後方)の車両に係員さんを乗せるために停車、そしてまた進み始める。
 正しい説明かどうかは微妙だけど、そんな感じで四回スイッチバックを繰り返して電車はゆっくりと進んだ。

 電車の窓の位置と線路沿いの家の屋根の位置がちょうど合っていて、家の屋根の上にシーサーのようなものが乗っているのが見える。十字架とピューマは定番で、後は雑多なものがとりあえず飾ってあるように見える。さっきのペルー人のガイドさん(道子さんはフィコと呼んでいたので、以後そう呼ぶ)が言うには、シャンパンなんかもお供えしてあるらしい。
 「もったいない!」と叫んだら、「家の屋根に飾るのは安いシャンパンで、高いシャンパンは家ができたときのお祝いに飲むんだ」ということだった。

 スイッチバックが終わると途端に周りの景色は田園風景になる。電車はループを描いて今登った山を下り、そのまま谷を走り出す。
 お手洗いに行こうとして車両の後ろに行ったら、フィコがいて「今お手洗いは人が使っている。」と言う。そのまま彼の隣の席にお邪魔して日本語でおしゃべりする。
 日本のどこに住んでいるか質問されて答えたら、「知っている。」と言う。フィコが前にガイドした人に同郷の人がいたのかしら、などと思って追求したところ、フィコが8年前に我が家の近くの大学に留学していたと判明した。日本語がぺらぺらな理由も、やけにローカル情報に詳しい理由も、これで納得である。

 わが家から歩いて10分もかからないところにある大学に通っていた人と地球の裏側のペルーで会うなんて変な感じである。そういえば、何年か前にわが家の近所にできたばかりのアパートのほぼ全部屋をペルー人の団体が借りていたことがある。確か彼らは働きに来た人々で、家族で来ている人も多かったと記憶している。もしかしてその中にフィコがいたのかもしれない、と思うとさらに面白い。
 調子に乗ってさらにおしゃべりを続ける。

 そのうち、窓の外に一瞬、物見櫓のようなものが見えた。フィコは「バンジージャンプだ。」と言っていたけど、本当だろうか? ペルー人とバンジージャンプというのは今ひとつつながらない。フィコ自身も「やりたくない。」と言っていた。
 私が勝手にペルー人というイメージを持っているのと同じように、フィコにも「日本人」のイメージが確固としてあるらしい。
 まずは隣の席に座ろうとして「お邪魔します。」と言ったときに「日本人ですね。」と言われた。「日本人らしいですね。」という意味だったんだろう。お辞儀(私の感覚では会釈だ)をするところが日本人っぽいそうだ。

 日本人ぽいと言えば、フィコより私の方が2歳年上だということが判り、「どうせ私は落ち着きがないですよ。」と言ったら、フィコがあっさりと「そうですね。」と言う。
 あまりにも速攻で頷かれたので、「ちょっと待った。落ち着きがないっていうのは日本人にとっては褒め言葉じゃないよ。判ってる?」と自分の落ち着きのなさを棚に上げて追求してしまう。「落ち着きがない」というのは喜ばれる褒め言葉だと勘違いしているんじゃないかと思うほどの速攻加減だったのだ。

 でも、フィコは「知っている。」とさらにあっさりと答える。続けて「でも、ペルーでは元気がいいというのは褒め言葉です。落ち着いているとか静かだっていうのは病気みたいでしょ。エネルギーがないというのはいいことではありません。」とおっしゃる。とりあえず決してけなしているつもりではないことは理解した。
 ところが、けなしているつもりではなかったらしいフィコをフォローするつもりで「まあ、確かに私は日本人っぽくないかもしれないね。」と言って、やっぱり速攻で「あれ、自覚はあるんだ。」と言われたときには天を仰いだ。
 何だかもの凄く失礼なことを言われた気がする

 身長の話になったときもそうだ。私が170cmで「あんまり身長は高くない方が良かったな。」と言ったら、「ペルーではそういう考え方はしない。男の人も女の人も身長は高い方がいいと考えている。だって、身長が高いということは進化したということでしょう?」と言われた。
 目からウロコだ。
 ペルー人のみんながみんな「身長」と「進化」なんてことを日常的に結びつけて考えているとは思えないけど、そういう考え方もあるんだなと思った。ペルーならではなのかフィコならではなのかは未だに判らないけれど、これはかなりの発見だった。

 しばらくしゃべっていたら、電車はポロイの駅に到着した。電車が止まっているときにはトイレに行ってはいけないと言われていたので、発車するのを待って(そのタイミングならトイレを使っていた人もいないわけだ)お手洗いに行った。
 車内サービスで朝食が配られ始めたので、フィコに「またね。」と手を振って席に戻る。

 車内サービスの朝食は運賃に含まれている。ホテルで朝ごはんを食べたけれど、もちろん頂く。
 ツナのようなものを挟んだサンドと、レモンクリームのようなものが入ったタルト菓子、フルーツに飲み物というメニューを完食する。配っているお兄さんお姉さんは簡単な日本語を操って「コカ茶?」などと聞いてくれる。かなり日本人の乗客が多いのだろう。

 ごはんも食べ温かいコカ茶も飲んで落ち着いたところで、車窓から見える畑や、アドベの煉瓦で作られた家が集まった街や、やっと晴れて来て顔を覗かせた雪山などの写真を嬉々として撮る。
 ポロイの駅から30分くらい走ったところでもう1回スイッチバックがあった。窓を開けて身を乗り出し、係の人がスイッチを切り替えるところを観察する。

 ビスタドームはしばらくウルバンバ川沿いを走る。街や村の近くでは必ず汽笛を鳴らしている。そうして通り過ぎた中に、昨日ワイポ湖からの帰りに通った街もあった。人家の近くでは必ず汽笛を鳴らすことになっているそうだ。
 汽笛の音を録りたいと思いつつ失敗を繰り返している間に、ウルバンバ川を渡り、窓の向こうにオリャンタイタンボの遺跡が見えてきた。8時くらいにオリャンタイタンボ駅に到着した。
 ビスタドームはクスコを出てポロイとオリャンタイタンボにだけ停車し、この後はアグアス・カリエンテスまで直行する完全な観光用列車だ。

 ポロイ駅ではほとんど停車時間もなかったけれど、オリャンタイタンボ駅では乗り込む人も結構いるので5分くらいは停車していたと思う。
 その停車時間を利用して、線路の中にとうもろこしをゆでたものなどの食べ物や、織物やバッグなどを抱えて売りに来ている人がいる。窓越しに交渉することになり、停車時間の見当もつかない私たちにはなかなか買い物も難しい。でも、わざわざ電車を降りてとうもろこしを買ってきている欧米人のお兄さんがいた。

 オリャンタイタンボ駅で、テレビクルーのような集団が乗って来た。物凄い荷物だ。
 フィコが言うには、このテレビクルーの主役はリマで数軒のレストランを経営しているシェフだそうだ。彼のお父さんは国会議員か何かで、息子を政治家にしようとアメリカ合衆国に留学に出したのに、息子の方は何故か料理に目覚めて料理人としての修行をして帰国したらしい。お父さんとしてはショックだったんだろうけど、今のところ彼はシェフとして成功しているようだ。

 そのシェフに席を取られてしまったらしいフィコは、空いていた私の隣の席に移ってきた。お客さんの女の子達は通路を挟んだ斜め後ろの席に並んでいるから、そういう意味でもちょうど良かったんだろう。しかし、そのお客さん達を放っておいて私とおしゃべりしているのはどうかと思う。

 オリャンタイタンボ駅を過ぎると、しばらくはアンデネス(インカ時代に作られた物と、最近作られた物とでは石組みの色が違って見える)が川岸に連なっている。それが消えたりまた現れたり断続的に川の対岸に見ることができる。次第に川幅が狭くなり、川と線路との距離も近くなってくる。
 ビスタドームは停まらないけれど、88Km地点に駅とインカ時代の橋と階段があった。ここから3泊4日のインカ道トレイルが始まるそうだ。そして、線路と並行して走ってきた道路もここで行き止まりになり、この後アグアス・カリエンテスまでの交通手段はこの電車だけになる。

 カメラクルーはシェフが窓の外を眺めているところを撮ったり、窓からビデオカメラを出して「世界の車窓から」風の映像を撮ったりしている。
 1日トレッキングの開始地点である104km地点を通り過ぎる。
 駅から川に降りていく階段はインカ時代に作られたそうだ。また、ウルバンバ川に架かる橋の橋桁もインカ時代に作られたらしい。対岸の崖を登って行く道があり、ポツポツと歩いている人の姿が見える。

 道子さんに「歩いたことがありますか?」と莫迦なことを聞いたら、「何百回もある。」というお返事だった。「大変なんでしょう?」とさらに聞いたら「そうでもない。」と言う。
 後になって道子さんの「大変じゃない」という台詞を信じてはいけないと判ったけれど、このときは「やっぱりインカ・トレイルを歩くコースにすれば良かったかな」と思った。

 本当に川岸ぎりぎりを電車は走って行く。線路は単線複式で、1回だけ、駅ではない森の中でアグアス・カリエンテスから来たローカル電車とすれ違った。
 森の中には国旗を揚げている家もあった。赤白赤の縦縞3本の旗だったので、「あれは何?」とフィコに聞いたら「ペルーの国旗だ。」と言う。「ペルーの国旗って、真ん中の白いところにエンブレムがついてるでしょう?」と聞いたら、国家機関のようなところを除けばエンブレムは省略してもいいことになっているそうだ。
 確かに、一般家庭であのエンブレムを再現するのは面倒だけど、赤白赤の縦縞国旗なら作るのも簡単だ。

 線路沿いにヘルメットを被った工事の人が目立つようになってきた。この路線は7月にも崖崩れで埋まったばかりで、その復旧工事が行われているという。
 「復旧途中なの?」と聞くと、フィコは、「1年に1度は大きな崖崩れがあるんだ、今年は7月に起きたからもう心配ない。」と言う。心配ないと言われてもその根拠が薄弱すぎる。川から線路までの距離は短いところは短いし、山側に崖崩れの跡が見えるところもある。

 ウニャワイニャの遺跡を始めとするインカ道トレイル沿いにある遺跡が川の反対側に見えてきた。ここまでくれば、アグアス・カリエンテスの駅まではすぐだ。
 アグアス・カリエンテス駅到着はほぼ定刻通りの9時半過ぎだった。

 道子さんは行動が早い。
 ビスタドームがアグアス・カリエンテス駅に近づいてスピードを落とし始めると、さっと立ち上がって荷物置き場に置いてあった私の荷物を持ってきてくれた。
 停車するや否や私たちを促して一番に電車を降り、大混雑のホームを抜け、線路の上を歩いて、マチュピチュ遺跡入口に向かうバスが何台も停まっているところまでほぼ先頭を切ってたどり着いた。
 一番前のバスの一番前の席に座る。バスにどんどん人が乗り込んできて、満員になると発車だ。

 出発前に見たWebページの中に「マチュピチュに向かうバスの一番前に座れば写真が撮れるかも」と書いてあったけど、それは無理だということが判る。しばらくは川沿いの舗装された道を走ったけれど、川を渡ると日光いろは坂ばりの九十九折りの道が続く。これがハイラム・ビンガム・ロードだ。
 この九十九折りの道は舗装されていない。そして、カーブの部分を除くとバス1台がちょうど通れるくらいの幅しかない。
 窓から足元を見ると、道の端にところどころ石が埋めてあり、ぎりぎりのところを走っている。遺跡入口から戻ってくるバスとすれ違うときにはカーブのふくらみを利用して、何度も切り返す。かなりスリリングだ。

 20分くらい走り、マチュピチュ遺跡入口にあるサンクチュアリロッジに到着した。
 ハイラム・ビンガム・ロードの上にあるホテルは、このサンクチュアリロッジだけ、完全独占経営だ。だからかなりいい宿泊料を取る。
 サンクチュアリロッジに泊まると言ったら、響子さんが一言「ゴージャス!」と言ったくらいだ。
 お値段がとんでもないのは重々承知の上で、「マチュピチュ遺跡入口にある唯一のホテル」という条件は捨てがたく、ツアーに申し込みをするのと同時にサンクチュアリロッジ宿泊のアレンジもお願いした。出発の2ヶ月くらい前の時点でキャンセル待ちで、「サンクチュアリロッジが取れた」という連絡が旅行社から入ったのは8月も半ばを過ぎてからだ。

 サンクチュアリロッジのレストランに入り、ウエルカムドリンクのジュースをいただきつつ、ホテルカードに記入する。パスポートも預ける。
 このロッジはクスコからの電車とバスの時間に合わせてチェックイン・アウトの時間を設定しており、10時半にはチェックインすることができる。
 宿泊用の荷物を部屋に置きに行くと、部屋は中庭に面していて、部屋の前にデッキチェアとテーブルがあった。その先が芝生の中庭で、電車で一緒になったテレビクルー一行が早速撮影を行っている。
 見ていると、シェフの彼が料理の作り方を伝授するという内容のようだ。せっかくなので、こっそり部屋の中から撮影風景の写真を撮ってから道子さんが待つロビーに戻った。

 遺跡の入口は、ホテルから徒歩30秒といったところだ。
 しかし、遺跡の入口から遺跡本体までが結構遠い。コンクリートで作られた通路からマチュピチュ遺跡を見る。
 このマチュピチュ遺跡は山の背に作られているからだろう、遺跡内に段差も結構ある。
 アンデネスの脇に作られた階段を上り、水路を復元した石を眺め、まだ水が流れている水汲み場で水に触れてみる。
 その近くの陵墓と言われている場所には三角形の石室があり、贄を置いたのだろう台が削られている。この陵墓は太陽の神殿の下部にあり、階段を上がると太陽の神殿である。着いた頃には早くも息が切れていた。

 太陽の神殿は、マチュピチュで唯一カーブを描いた壁を持つ建物だ。石組みもかなり精巧で美しく、だからこそ「神殿」のうちでも最も位が高い(?)「太陽の神殿」と呼ばれているのだと思う。
 やはり神殿というか宗教地区にある建物は、住居地区や倉庫地区に比べてはるかに石組みが丁寧できれいになっているようだ。これは、マチュピチュに限った話ではなく、インカ帝国時代の遺跡全般に言えることらしい。

 この後、私は小学生のように「これは何?」と聞いては、道子さんに「○○と言われている。」とやんわりと言われるということを繰り返した。
 インカの人々は文字を持っていなかったと言われ、少なくとも現代に解読可能な形では伝わっていない。したがってマチュピチュの遺跡の「太陽の神殿」や「王女の宮殿」「日時計」「主神殿」などと呼ばれている数々の建物の名前も使われ方も意義も、すべてが推測に過ぎない。
 そこに、一問一答、白黒はっきりさせてくださいみたいな質問を繰り返したのだから、呆れられて当然である。

 ハイラム・ビンガムがマチュピチュ遺跡を発見したと言われているけれど、それも正確な事実ではないらしい。
 ハイラム・ビンガムは、そもそもマチュピチュ周辺に暮らしていたペルー人に案内されて遺跡にたどり着いたそうだ。そのとき、マチュピチュ遺跡のアンデネスでは一部で農耕も行われていたらしい。
 道子さんは、「ハイラム・ビンガムはマチュピチュ遺跡を学術的に初めて紹介し、研究した」というのが正しいと強調していた。

 道子さんが、最初に太陽の神殿を目指した理由はすぐに判った。
 見張り小屋(ワイナピチュをバックに遺跡が佇む定番の写真を撮ることができるフォトスポットだ)やマチュピチュ遺跡の中で最も高いところにあるインティワタナなど、人が鈴なりになっているのが見える。太陽の神殿の辺りにはちらほらしか人がいないのとは対照的だ。
 やはり日帰りでマチュピチュ遺跡に来ている人たちは真っ先に全景が見える場所に行くのだろう。

 太陽の神殿、その隣にあるマチュピチュで唯一の2階建ての建物である王女の宮殿、精巧な石組みで作られた通路を抜け、水盤、倉庫街などを案内してもらう。
 当時使われていたお手洗いもあって、建物の隅の一角に小さな穴が掘られ、そこに向かって地面が傾斜している。この穴は一体どこへ通じているのだろう、と思う。

 途中で、今朝マチュピチュで結婚写真を撮ったという日本人のカップルとすれ違った。すでにウエディングドレスからアウトドアの服装に戻っている。
 マチュピチュでウエディングドレスにタキシード姿で写真を撮ろうと考えつくのも凄いし、それを実行に移す行動力も特筆ものだ。きっとマチュピチュ遺跡に強い思い入れがあったのだろう。
 その新婚カップルをガイドしていた日本人男性と道子さんは知り合いらしい。何やら情報交換していた。

 道子さんの顔の広さは本当に驚異的で、ご本人はあっさりと「長くやっているから。」とおっしゃるけれど、マチュピチュ遺跡で発掘と整備をしている空色のヘルメットを被ったペルー人のおじさんからも「ミチコ ナントカカントカ。」と声をかけられていた。スペイン語の彼の台詞はまったく聞き取れなかったけれど、我々にも「ミチコに案内してもらってるんだね。」という感じでニコニコ話しかけてくれる。

 コンドルの神殿で「どこをコンドルの頭と見立てたんだろう」と話し合い、牢獄だったと言われる半地下部分を覗いてから上に回る。コンドルの神殿は、上から眺めた方が大きな岩を組み合わせていることが判るし、第一コンドルらしく見える。
 そのまま技術者の居住区と言われる一角を通り、一度外に出てはるか下まで続く階段を上り直す。一直線に続く階段は、一歩足を滑らせれば下まで転がり落ちそうで少し怖い。ステップが石の組み合わせででこぼこしているのもまたその恐怖を煽る。
 貴族の居住区に入ると、丸い石が二つ並んでいる家があった。雨が降っていたのか水を張った状態になっている。ガイドブックなどでは「石臼」と紹介されているけれど、こうなると「水盤」という印象が強い。これは一体何に使われていたのだろう。

 そのままマチュピチュ遺跡の奥、ワイナピチュへの登山口に向かった。
 向こうに見える山の稜線を模した岩が置かれている。マチュピチュ遺跡の中には、こうした、自然の岩を自然の山などに模して多少の手を加えたものがいくつかあるそうだ。
 比べてみると、確かに向こうに見える山と手前の岩とは同じような線を描いている。
 ワイナピチュの登山口には、パワーがもらえるという大きな岩があり、ぺたっと張り付いてみる。パワーが手に入ったかどうかは判らないけれど、その岩はとても暖かかった。

 この辺りで友人が「お腹空いた!」と一言叫んだ。確かにお腹が空いている気がする。朝は早かったし、今日はまだ長いし、今は正午くらいだ。
 もう少し遅くなると日帰りの人たちでレストランも混み始めるという話なので、早めにお昼にすることにして、サンクチュアリロッジまで戻った。
 今日のお昼はサンクチュアリ・ロッジのレストランである。ビュッフェ式で、冷たいもの、温かいもの、デザートと飲み物がある。料理の載ったテーブルの中にはお兄さんがいて、豚の丸焼きを切り分けてくれる。「これ何?」と聞くと「サケ」とか「トリ」とか何故か日本語で答えてくれる。

 窓に近い席に陣取って、ワイナピチュを眺めながら食べる。窓は開けてあってなかなか風が気持ちよい。
 お客さんが増えてきた頃、レストランの奥ではフォルクローレの演奏が始まった。
 私たちは混雑を避けて再びマチュピチュ遺跡に向かう。マチュピチュ遺跡の入場券はその日のうちなら何回でも出入りすることができる。

 午後一番で見張り小屋に向かった。
 マチュピチュをクスコからの日帰りツアーで見学する場合、10時くらいに遺跡の入口に着き、遺跡内を観光して13時過ぎくらいから遅めの昼食をとり、15時過ぎの電車でクスコに帰るというスケジュールになることが多いらしい。
 日帰りツアーで来る人が多いらしく、お昼ごはんを食べ終わって遺跡に戻ったら、だいぶ人は減っていた。

 見張り小屋は遺跡全体から見てかなり高い位置にある。「見張る」ための小屋なのだから当然だ。
 つまり、遺跡入り口から見張り小屋まではかなり高低差がある。
 見張り小屋までの階段を上るだけで息切れした。
 でも、見張り小屋の少し上、アンデネスの日陰に座って眺めたマチュピチュは、これぞ定番というアングルで、日光が当たって、正にマチュピチュだった。疲れていたこともあったし、何より「マチュピチュに来た!」という感じで、30分以上ぼーっと眺めていた。

 近くではマチュピチュで飼われているリャマたちがのんびりと草を食べていた。
 リャマが意味ありげに遺跡を眺めている写真を撮りたかったけれど、リャマは本当に怠惰で、食べているか寝ているかで全然首を上げることがない。
 マチュピチュのアンデネスにもモライの農業研究所にあったような石組みから突き出た石の階段がある。段差が一定でなくおまけに高いので、下手をするとよじ登るような格好になる。カメラを一々しまうのが面倒で手に持っている私には、これが結構面倒くさかった。

 見張り小屋の方まで歩いて行くと、生贄台のような石がある。その更に奥、インティプンクに向かう道が斜めに延びていて、その途中には葬祭の場と言われている大岩が見える。
 そこまで来たところで急に思い出し、インカの橋が見たいと道子さんに訴え、連れて行ってもらった。

 測候所のようなところを通り、そこに立てかけてあった「標高2563m」と書かれた看板を見て、クスコに比べて暖かいわけだと納得する。マチュピチュでは半袖のTシャツに綿の長袖シャツを羽織るくらいで十分だ。
 インカの橋に向かう崖沿いの道を歩きながら、イチゴを探したりお花の名前を教えてもらったりする。あのイチゴは美味しかったのだろうか。

 ガイドブックには20分くらいで着くとあったけど、そうやって寄り道していたせいかもうちょっと時間がかかった。
 何人かの人とすれ違いつつ進み、行き止まりだ、大きな岩があって欧米人のお姉さん二人がくつろいでいる、と思ったところがインカの橋が眺められるポイントだった。

 インカの橋は、がけっぷちに石組みを積んで作られた山道にかけられた橋だ。
 石組みをわざと一部積まないでおいて、そこに木の橋を渡してある。敵が攻めてきたときにはその橋を落とし、それ以上敵が進めないようにしたらしい。
 崖沿いの道は、昔は続いていてインカの橋まで行けたらしいけれど、今はその道も崩れ、離れたところから眺めるしかない。私たちが進んできた道は崖にぶつかって終わり、その崖沿いに鉄筋の残骸が見える。
 インカの時代(1500年代半ばくらい)に鉄筋の技術があったとは思えないから、元々のインカの道はすでに失われていて、その後で観光用に作った道が何かで崩れてしまったんだろう。そう考えると、一部とはいえまだ残っているインカの石組みの堅牢さは信じがたい。

 そもそも、「インカの橋」という発想自体、道なき断崖絶壁に石組みを積んで道を作る技術がなければ成立しない。
 唖然として眺めてしまった。
 欧米人のお姉さん二人組みが帰った後、大きな岩に登って寛ぐ。背中側は結構な崖になっていて、ちょっと怖い。はるか下の方にウルバンバ川も見える。

 インカの橋を満喫してマチュピチュ遺跡に戻ると、更に人が少なくなっていた。
 遺跡の残り半分を回り始める。
 現在の遺跡の入口は後から作ったもので、インカ時代はインティプンクからの道がマチュピチュに入る正規ルートだったらしい。インティプンクからの道の延長上に「太陽の門」と言われる門がある。ここが正門だ。
 門越しに写真を撮っていたら、道子さんが「このもうひとつ奥の門から撮ると広場のグリーンが入って綺麗よ。」と教えてくれる。

 その門に行く前に、石切場に向かった。石切場は見張り小屋とインティワタナ(日時計)とのちょうど中間くらいにある。
 この石切場から切り出した石を使ってマチュピチュ遺跡は作られたらしい。今もかなり大きな石がごろごろと転がっている。

 石切場を通り過ぎて、もう一度太陽の神殿に向かう。朝一番で来たときは外側からカーブの美しい石組みを見ており、今度は上からのぞき込む。少し前までは太陽の神殿の中に入ることができたけれど、今は立入禁止になっている。内部を見るには上からのぞき込むしかない。
 太陽の神殿を上から眺めると、その向こうにはアンデネスが連なり、はるか下のウルバンバ川とアグアス・カリエンテスの駅まで見下ろせる。

 その後、やっと人が引いた 「三つの窓の神殿」や、「主神殿」を臨む広場に向かった。もう16時近い。
 主神殿(と言われている建物)は、地震のために崩れ始めている。当然、立入禁止だ。三つの窓の神殿(と呼ばれている建物)も立入禁止になっている。

 遺跡の中央にある広場(木が1本だけ生えている緑の広場だ)も現在は立入禁止になっている。道子さんは、「人が入らない方が緑がきれいだからでしょう。」と言っていた。
 私は、この「広場に残った1本の木」は記念樹のような形で残されたか植えられたものと思っていた。でも、これもまた私の勝手な思い込みで、「ハイラム・ビンガムが来た頃にはマチュピチュ遺跡は木と草で覆われていた。遺跡を崩さないように木や草を取り除いて今の姿になった。あの木はそうしてたくさん生えていた中の1本で、なんとなく残したのだろう。」と道子さんは言う。どうも私はあらゆるものに意味を求めすぎるらしい。

 遺跡保護にはかなり神経が使われていて、例えば遺跡内ではステッキは禁止されている。歩行が不自由で杖を使わなければならない人などは大目に見てもらえるけれど、その場合でもステッキの先にゴムのカバーをつけて遺跡を傷つけないようにしなければならない。
 インカ道トレイルを歩いて来た人などが持つストックはもちろん持込禁止だ。また、ガイドブックには「食べ物の持込禁止」とあったけれど、本当は「飲食禁止」というのが正しいらしい。飲食の「飲む」部分に限って大目に見ている、ということのようだ。

 主神殿の隣の丘の上に、インティワタナ(日時計)がある。
 冬至には、インティプンクからインティワタナの石の突き出た部分に朝日がまっすぐに射すそうだ。そして突き出た石の対角線を太陽光が通過する。それで、一枚岩から切り出したこの妙な形の岩が「日時計」と呼ばれることになったらしい。この岩も昔は触ることもできたけれど、今はロープで囲まれてしまっている。
 ここがマチュピチュ遺跡内部の最高地点で、かつ遺跡の中でもかなりの人気スポットだ。それでも、アグアス・カリエンテスに向かうバスの最終便が迫るこの時刻には、辛抱強く待てば自分たちとインティワタナだけという時間が持てる。

 主神殿とインティワタナのすぐ横はアンデネスになっている。ここまで狭いと「アンデネス」ではなくて「土止め」としての役割しか果たしていないらしい。
 太陽の神殿ほどではないにせよ、カーブを描いている石組みがあったりしていて興味深い。

 インティワタナだけでなく、マチュピチュの遺跡は自然の石をあるがままに使った石組みが多い。妙に大きな石が、コンドルの神殿になっていたり、石組みの一部を構成したりしている。足りないところを切り出してきた石で埋めていることも多い。

 インティワタナの丘を抜けて広場の外縁に沿ってさらに奥に行くと、ワイナピチュの入口に着く。
 ワイナピチュに登ったまま降りて来ない人がたまにいるそうで、ワイナピチュに登るときには氏名を登録しなければならない。そして帰りに「降りてきました」のチェックをするそうだ。
 昨日(9/20)は300人くらいの人がワイナピチュに登ったらしい。山頂は狭いし、登山開始時間も朝から14時くらいまでに限られているので、かなりの混雑状況だ。
 私たちがたどり着いた時間はもう登り始めることはできなかったけれど、降りてくる人はまだ結構いるようだった。

 その降りてきた人の休息用か、ワイナピチュ入口のパワーをもらえる岩の前には、2軒の家が建っている。石組みの家に草葺きの屋根がかかり、一方の壁は抜かれてベンチが並んでいる。
 夕方の風も強くなって、整備のお兄さんが水を撒きに来ていたところを、しばらく休憩した。この遺跡の中のアップダウンが運動不足の身には結構堪える。

 道子さんと整備担当のお兄さんがスペイン語でおしゃべりしている。通訳してもらったところ、「どこから来たのか。」「何歳か。」「結婚はしていないのか。」といった質問が矢継ぎ早に繰り出されていたようだ。適当に(でも、何故か本当のことをつい)答えていると、最後の彼のセリフが「そしたら、ペルーでペルー人と結婚すればいいのに!」だったらしい。
 友人と二人、声を揃えて「うるさーい!」と叫んで、道子さんに笑われてしまった。

 道子さんが「しーっ。」と指を立てながら貴族の家のひとつを覗いている。
 横から覗くと、そこにはウサギのようなネズミのような動物がいた。名前をちゃんと教えてもらったのに、またしても覚えていないのが情けない。2匹出てきている。
 あんまり動かないけれど、時々伸びをしたりしてかわいい。夕方になって人が少なくなると出てくるそうだ。柱の影からしばらくじーっと見て堪能し、それから近づいてみる。かなり近づいても意外と逃げないで、そこでじっとしている。

 空もだいぶ曇ってきたし、風も冷たい。そろそろロッジに戻ろうと歩いている途中に屋根を復元した家があった。
 マチュピチュ遺跡の家々はほとんどが草葺きの屋根だったらしく、今では全く残っていない。こうして、一部の家の屋根が当時のように復元されているのみである。岩に刻まれた穴や突起を使って木の梁を渡し、草で屋根を葺いてあるのだ。

 遺跡の入口まで戻ってきて、アルパカセーターのお店があることに気づいた。そろそろ店じまいのようだ。
 明日の朝一番はいくらなんでも二人だけで大丈夫だろうと、道子さんとは8時半くらいにロッジの入口で待ち合わせることにした。それから、ワイナピチュかマチュピチュに登る予定である。二人でどっちにしようか行きの電車の中で相談し、道子さんとフィコと二人ともがお奨めするマチュピチュに登ろうかと思う。

 サンクチュアリロッジのお部屋に戻ったのは17時過ぎだった。
 部屋にはカナッペが用意されている。とりあえず水出しのお茶と一緒に頂いて一息つく。
 中庭に出ると、ワイナピチュが暗くなり始めている空に浮かび上がっていた。
 ほとんどこのために持ってきた三脚を取り出し、シャッタースピードをできるだけ遅くし、ISO感度を上げ、ホワイトバランスも色々と変えてワイナピチュの写真を撮る。そうこうしている間にも空はどんどん暗くなり、完全に夜になった。

 先にシャワーを浴びてから、ホテルのレストランに夕食に行く。昼食を食べたレストランの反対側に別のダイニングがあった。
 ムードは高級だけれど、そこにいる人々が自分たちも含めてやたらとカジュアルな格好をしているのが妙な感じだ。サンクチュアリロッジなら大丈夫だろうと鱒のカルパッチョを前菜で頼み、メインは鶏の焼いたものを頼んだ。ピスコサワーも頼んで乾杯する。友人は、ここで飲んだピスコサワーが一番美味しかったと言っていた。

 食事が終わって部屋に戻ったら、お部屋の掃除がされていて、バスタオルやバスローブが全部取り替えてあった。それを見て、洗濯しようと思い立つ。バスタオルに巻いて踏んでしまえばかなり乾くのだ。
 また、やたらと大きなろうそくが部屋に増えていた。ろうでできた行灯(?)の中でさらに小さなろうそくに火が灯っている。多分、虫除けを兼ねているのではないかと思う。

 明日はまず朝一番で朝日に照らされたマチュピチュ遺跡の全景を見ることにして、起床時間を5時に決めた。起きてすぐに日の出を見に行き、戻ってきて朝食、その後道子さんとマチュピチュに登る心づもりである。
 疲れていたこともあり、かなり激しく降っている雨音を聞きながら、早めに就寝した。

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2005年5月21日 写真へのリンクを追加

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2004.11.24

「ペルー・インカの音色 土への祈り」を見る

 NHKのBS-2で今朝8時15分から再放送された、世界・わが心の旅「ペルー・インカの音色 土への祈り」を録画して、家に帰ってきてから見た。
 「世界・わが心の旅」というこのシリーズは、いつ放送しているのか把握できないままあまり見たことはないけれど、実は結構好きな番組である。簡単に言ってしまうと、ある旅人がその人にまつわる場所をその人にふさわしいテーマで旅をする、という内容だ。

 今回は、オカリナ奏者の宗次郎さんが、オカリナの原型だと思われる「オカリ」という楽器が生まれたアンデスの土でオカリナを造り、アンデスの地で作曲した曲を演奏する、というのがテーマだった。番組の中で演奏されたその曲が「パチャ・ママ」というタイトルだったのも、何だか嬉しかった。
 クスコ周辺で撮影されていて、何となく空とか畑とかの感じが似ているなと思っていたら、やっぱりこの旅が行われたのは9月だということだった。(放映されたのは1997年12月である。)

 行ったところも行っていないところも、映っている景色も人も全てが懐かしい感じがした。

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2004.11.22

ジャムの名前を教えてもらう

 ペルーで買ってきた食べ物は、職場のお土産にしたピスコのボンボンと、マラスの塩田で買ったお塩と、クスコのスーパーで買ったハーブティーと、クスコのジャム屋さんで買ったジャムの4つだ。

 ウルバンバのソル・イ・ルナホテルの朝食で食べて惚れたジャムを、クスコでジャム屋さんまで買いに行った。このジャム屋さんはMiskyという名前(だったと思う)で、スーパーなどでもこのメーカーのジャムが並んでいた。
 袋入り500gのジャムを買ったのは良かったのだけれど、ビニルの袋には何の表示もなく、気が付けば何という果物のジャムを買ったのかすっかり忘れ果てていた。お店(メーカー)の名前もうろ覚えである。
 一緒にペルーに行った友人に尋ね、今日やっと果物の名前が判った。

 ジャムになる前の実の状態では見たことがないのだけれど、ほおずきのような大きさと形をしていて、ジャムがオレンジっぽい茶色っぽい色になっているところから考えて、多分色もほおずきに近いのではないかと思う。名前は「アワイ・マント」。
 友人曰く「ペルーで食べたときほどの感動はない。食べ物はやっぱり現地が美味しい。」ということだけれど、でも、お勧めである。

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2004.11.21

ペルー旅行記4日目

2004年9月20日(月曜日)

 昨日、標高の高いところを歩いたのが響いたのか、この日は1時間おきくらいに目が覚めてあまりよく眠れなかった。私の場合は、旅行に出て目覚まし時計が鳴るまでぐっすり眠れることの方が珍しいから、これが高地酔いのせいかどうかは判らない。
 6時くらいに起き出し、荷物整理を始めた。2泊したソル・イ・ルナホテルとも今朝でお別れである。
 今日は、オリャンタイタンボの遺跡を見学してからワイポ湖を通ってクスコに戻る。

 セーフティボックスからパスポートを出そうとしたら、何がいけないのかまた開かない。
 到着した日にセーフティボックスがおかしかったのも私が壊したんじゃなくて元々調子が悪いんじゃないかと疑いながら、あとでガイドの道子さんに頼んでホテルの人に開けてもらおうと思う。
 約束の7時半より少し前にレストランに行って朝食をいただき、道子さんにお願いしてセーフティボックス問題も解決したので、出発時間までホテル内を散歩した。
 これまではコテージのある一角だけしか見ていなかったけれど、その奥に建設中のスパや、テニスコート、厩舎まであって10頭を超える馬が飼われている。ウルバンバやユカイはインカ帝国皇帝の保養地だったそうで、今でも滞在型のリゾートなんだな、と思う。

 9時にホテルを出発して、クスコとは反対の方向に向かって川沿いに進む。お天気も良くてドライブ日和だ。
 クスコで有名な「VIVA! PERU」の文字と同じように、道沿いの山肌にも様々な文字が刻まれている。
 数字だけのものは学校のナンバーで、生徒達が作るそうだ。シンボルマークのようなものは政党が選挙活動の一環で作った物らしい。

 一昨日お邪魔したマルガリータさん宅の前を通り過ぎ、川沿いの平らな道をしばらく進んで、オリャンタイタンボの遺跡に到着した。
 村を抜けて、遺跡の入り口まで行く。
 結構な高さの遺跡で、そこを休み休み階段を上って行く。風も強くて帽子が役に立たない。段々畑のようになっていて、その間を階段(ここは石組みから飛び出した階段ではなくて、階段状になった階段だった)でつないである。

 一番上まで上り切ると、そこに有名な6枚の大岩があった。
 眺望も開けていて、近くにペルーレイルの駅が見える。直子さん達一行は今朝早くにオリャンタイタンボ駅からマチュピチュに向かったそうだ。そう聞いて、私たちが参加したツアーはどうしてそういう日程にしなかったんだろうと少し疑問に思う。クスコよりもオリャンタイタンボの方がずっとマチュピチュに近い。

 駅のさらに奥には川を挟んで石切場がある。
 オリャンタイタンボの遺跡を作った石は、その石切場から運んできたそうだ。谷の反対側の山すそに位置するから、距離も結構あるし、そもそもオリャンタイタンボの遺跡自体、高さがある。間には川もあるし、車輪を持たなかったインカの人々が、いったいどうやってこんなに大きな石をこんなにたくさん運んできたのだろう。コロはあったといっても重労働であることに変わりはない。

 オリャンタイタンボの遺跡全体がピューマの形になっていると言われていたり、遺跡から見える反対側の崖には食糧倉庫が並んでいて、その横に見ようによってはひげのおじいさんの顔に見える部分があったりする。道子さんが「そういう説を唱えている研究者がいる」と教えてくれて、写真なども見せてくれる。
 どこがどうとは言えないけれど、オリャンタイタンボの遺跡は気持ちの良い場所だった。
 オリャンタイタンボはインカ最後の皇帝が立て籠もったところで、本当に急な崖に食糧倉庫を造ったのも、盗まれないためだったという。

 遺跡の上部をぐるっと歩き、細い道を伝って一軒だけ離れたところに復元されていた家を見て、遺跡から降りる。
 遺跡の下部には水路が切られていて、小さな川沿いに今も水が流れている。
 「王女の水浴び場」と言われる場所も残っている。
 どういう仕組みになっているのか、水の出口を指で押さえると水が流れなくなったり勢いよく流れるようになったりする。私が試してみても、確かにそうなるのが不思議だ。

 遺跡の入り口にあるトイレを借りる。入り口におじさんがいて、何とかと言っていたけれどよく判らない。
 道子さんに聞いたら「お心のままに」と言っている、と言う。料金が決まっていない有料トイレだ。2ソルを渡したら、紙をくれた。ここのトイレも清潔で問題なかった。

 遺跡の入口前の広場は少し前までは駐車場だったけれど、今はお土産物屋さんの屋台市のようになっている。
 帰る頃にはぼちぼちと店開きをする屋台が出始めて、クスコやウルバンバの谷の「見立て」を説明している「CUSCO AND THE SACRED VALLEY OF THE INCAS」という本が売っていたので購入した。英語版だからいつになったら読むか自信はないけれど、図版は眺められる。

 その後、少しオリャンタイタンボの村を散歩した。この村は、インカ時代の石組みの中に人が住んでいる唯一の場所だ。
 オリャンタイタンボの村もやっぱり全体的に黄土色だった。街は黄土色で、農村部はアドベの赤茶色なのだろうか。

 車に戻って、クスコに向けて出発する。
 ワイポ湖に向かう途中で雪山が綺麗に見え始め、道子さんに頼んで車を停めてもらう。やっとベロニカ山とチコン山くらいは形で見分けられるようになった。
 遠くに見える雪山と手前の滋味豊かな感じの畑のコントラストがいい。ついでに、近くの畑で牛を使って農作業をしているおじさんもこっそり撮影させてもらった。

 途中から未舗装道路に入った。しばらく走ると小高い丘と水が見えてくる。チンチェーロからモライに向かう途中でもとても青い水面が見えていて、それがワイポ湖だ。
 ワイポ湖の横の道路をダニエルは快調に飛ばし、ワイポ湖をゆっくり眺めることなく通過されちゃいそうな気がしたので、道子さんに頼んで車を停めてもらった。

 湖の周りでは種をまく準備をしているようだ。湖の水をホースとポンプを使って汲み上げて畑に撒いている。
 道路に溝を掘ってホースを通し、車にホースを踏まれないようにしている。道路に溝なんて掘ってしまっていいのだろうか。
 畑仕事をしているのは概ね男の人と男の子だった。女の人たちが集団で歩いていて、彼女たちはお昼ご飯を持って来たところのようだ。途中、お弁当を広げている一家を見かけた。
 ワイポ湖も綺麗だし、ワイポ湖畔から遠くに見える雪山とその手前に畑の広がる風景が気持ち良かった。

 ワイポ湖から離れるとだんだ人家が増えて来て、線路沿いの街に出た。かなりにぎやかな街で、道沿いに屋台がたくさん出ているし、学校帰りらしい集団と何組も出会った。アイスクリームを食べている子が多い。制服が違っていたから、きっと三つの学校がその街にはあったと思う。

 クスコの街に到着したのは14時近かった。
 アルマス広場で車を降り、プカラというお店でお昼ごはんを食べる。ビュッフェじゃないメニューのあるお店(ホテルのレストランを除く)でご飯を食べるのは初めてだ。何を頼んでもいいと言うから太っ腹なツアーである。
 周りのテーブルを見ると、結構なボリュームのお皿が並んでいる。野菜スープを友人とシェアし、私はロモ・サルタードを頼んだ。フライドポテトが牛肉やタマネギやパプリカと一緒に炒めてある。
 まだアルコールを飲んで高山病に負けない自信がなかったので、パパイヤとオレンジのミックスジュースを頼む。

 お昼ごはんの後は、アルマス広場の周りを歩きながら両替のお店を教えてもらい、そこで絵はがきも買う。「ホテルのフロントで投函を頼めますか?」と聞いたら答えはノーだった。両替屋さんで切手も売っているらしく、道子さんが聞いてくれる。
 「切手がいいわよね。」と道子さんに聞かれて何のことかと思ったら、国際郵便の値段が上がったためにちょうど良い額面の切手がなく、今は日本の料金別納郵便のようなスタンプが主流だそうだ。スタンプではなくペルーの切手を貼って手紙を出したいわよね、という意味だった。
 その時点で何軒か回っていたので申し訳ない&図々しいと思いつつ、「はい。」と答える。更に何軒か回ったところで、切手とスタンプの組み合わせで売ってくれるお店があった。こんなに切手を買うのが大変ならと、少し数に余裕を見て切手を買った。

 スーパーにも連れて行ってもらう。スーパーが必ずしも安いというわけではないんだけど、ということだった。そこは韓国系のスーパーで、えびせんも売っていた。とりあえずお水だけ購入する。
 アルマス広場からクスコで泊まるホテル・ロス・アンデス・デ・アメリカまでの道筋を教えてもらい、ここからはフリータイムだ。
 今日の夕食はツアーにはついていないけれど、ホテルで1泊目だけは夕食がつくと教えてもらう。ホテルの1階ロビーではセルフサービスでコカ茶が飲み放題だ。

 ホテルの部屋は4階だった。エレベーターがないので4階まで上ったら息が切れた。私たちのスーツケースを持って上がってくれたホテルのお兄さんもかなり大変そうだった。
 4階は屋根裏のような造りで、天井も斜めだし2部屋しかない。その代わり、部屋を出たところにソファセットとダイニングテーブルがあり、雑誌も置いてあって、リビングスペースとして使える。そのリビングスペースからはアルマス広場のカテドラルも望める。なかなか見晴らしの良い居心地の良い場所だ。

 16時を回っていたけれど、お昼ご飯も大量に食べたばかりだし、腹ごなしも兼ねてクスコの街の散策に出た。
 NAO TOURでもらった地図に載っているジャム屋さんに向かう。道子さんには「Miskyのお店だから、スーパーで売っているのと同じものよ。袋入りのジャムが売っているかも知れないけど。」と言われたけれど、地図を見たときから「ここでジャムを買う」と決めていた我々二人には通じない。

 日が暮れて肌寒くなり始めたクスコの街を歩き出す。
 ジャム屋さんはホテルから見てアルマス広場とは反対の方向にあるらしい。街の中心から離れるせいか、何となく街の雰囲気が悪くなっていく気がする。それは言い過ぎにしても、歌舞伎町っぽい感じになってくる。
 この道で合っているのか、行き過ぎたんじゃないかと思った頃にジャム屋さんを発見した。店構えが小さかったし、周りのお店は歌舞伎町系だし、そのジャム屋さんがMiskyというメーカーのお店だと聞いていなかったら多分発見できなかったと思う。

 お店では女の人二人が店番をしていて、ジャムの味見もさせてくれた。「rico(おいしい)!」と言ったら二人に笑われてしまった。巻き舌が全くできない私がRを発音しようとすると、ペルーの人には物凄くおかしく聞こえるらしい。
 お目当てのアワイ・マント(ほおずきのような果物)のジャムは、ソル・イ・ルナホテルで食べたジャムとちょっと味が違ったけれど、勢いで500g入りの袋を購入した。

 そのままお店を出ようとしたら、お店のお姉さん達に「カメラをしまえ。」と言われた。言っている内容はスペイン語だから全く判らないけれど、身振り手振りでそう言いたいらしいことが判る。
 この辺りはあまり治安が良くないんだなと思い、カメラを首から提げたままコートの中にしまう。「これでいい?」と日本語で聞いたら、笑って頷いていた。親切な二人だった。

 アルマス広場に戻り、お土産を探して広場を一周する。お土産物屋さんよりもレストラン、それもイタリアンが多い。お店の前でお兄さん達が呼び込みをしている。
 ソル・イ・ルナホテルの内装にも使われていたタイル製品を売っているラ・マミータというお店を発見があった。セミナリオさんが制作しているセラミック製品のお店だ。
 スイッチカバーや時計やモビールといった室内装飾品、食器、アクセサリーまで売っている。
 外側がカーブを描いて鼓のようなラインの取っ手のないお花模様のついたマグカップを購入した。お店の人はこれ以上はないというくらい丁寧に包装してくれる。

 お店を出ると外は真っ暗で、アルマス広場のライトアップが始まっていた。相当長い時間、私は迷っていたらしい。友人が焦れていたのにも納得する。優柔不断で申し訳ない。
 黄色っぽい暖かい色のライトアップで、とても綺麗だった。三脚を立てるわけにもいかず、何枚もシャッターを押すけれど手ぶれしてしまう。ホテルに戻り、4階からさらに何枚か撮影した。

 お昼も遅かったし、ホテル内のレストランで食べられるので、今日の夕食も20時くらいに食べ始めた。
 レストランに降りると10人くらいの日本人の団体客もいた。割と日本のツアーでも使われるホテルらしい。
 前菜とメインとデザートから一品ずつ頼めるプリフィクスで、私は、アスパラガスのクリームスープ、チキンの焼いたもの、フルーツカクテルを頼んだ。
 スープは野菜の味が生きていて美味しい。鶏肉も、タマネギとパプリカと一緒に塩こしょうで炒めてあるだけなのに、それがとても美味しかった。

 午後になっても頭痛がしなかったことに安心し、昨夜眠れなかったことも忘れて、二人ともアルコールを頼んだ。
 友人はピスコサワー、私はクスケーニャ・ビールだ。四谷のペルー料理屋さんでもクスケーニャ・ビールを飲んだけれど、クスコで飲むクスケーニャ・ビールは一際美味しい。

 

 明日はマチュピチュに向けて出発である。スーツケースは持って行けないので、1泊用の荷物を準備する。
 6時の電車に乗るので5時半にホテルを出ると道子さんに言われている。ホテルの朝食は5時から食べられるそうなので、4時半に目覚ましをセットし、お洗濯もパスして早めに就寝した。

 

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2004.11.19

ペルー旅行記3日目

2004年9月19日(日曜日)

 久しぶりに普通の時間に起きる。7時にモーニングコールだ。目が覚めたら、昨夜はあんなに食べたのにお腹が空いていて、今日も引き続きお世話になる響子さんには「7時半にレストランで」と言われていたけれど、起きてすぐにレストランに向かった。
 ソル・イ・ルナホテルの庭はお花がたくさん咲いていて綺麗だし、朝だから比較的空気も澄んでいて山も綺麗に見える。写真を撮りながら歩く。

 朝食はビュッフェ形式で、パン、ホットケーキ、フレンチトースト、ジャガイモ、ベーコン、卵、ジュース3種(これはその後どこに行っても同じで、オレンジジュースとパパイヤジュースとパイナップルジュースだった)、シリアル、ヨーグルト、フルーツ、コーヒーなどが並ぶ。まだ高山病が心配だったので朝からコカ茶を飲んだ。
 シリアルのところにはキヌアも並んでいた。ペルーの人はシリアル代わりに食べることはないそうなので、これは観光客向けのサービスだろう。
 酸味と甘みがちょうど良い凄く美味しいジャムがあって、響子さんに「アマイ・ワント」という名前だと教えてもらった。

 8時を少し回ったくらいの時間に出発した。まずは、チンチェーロに向かう。
 チンチェーロはウルバンバよりもクスコよりも標高が高く3700mくらいだそうで、車は上り坂を登って行く。
 途中の道から見える畑と、その奥の雪山がとても綺麗に見える。焼き畑の煙でやっぱり少し霞んでいたけれども、それはそれで「幽玄」といった趣がある。
 ベロニカ山(クスコでは聖なる山と言われているそうだ)、チコン山が、その威容と高さと姿の良さで目立つ。ドライバーのダニエルに3回くらい教わって、3回くらい違う山を「あれがベロニカ?」と聞いて「違う。」と首を振られ、それでやっと憶えることができた。

 チンチェーロの手前で、道端で大きく手を振るペルー人の女性がいた。車はかなり彼女を通り過ぎてから停まる。
 何かと思ったら、クスコ近郊の遺跡では外国人だけではかなりチェックが厳しくなるので、今日は1日ペルー人のガイドさんに同行してもらうということだった。これで車の中は、ツアーに参加している私たち二人に対して、ガイドさん二人にドライバーさん一人というえらく贅沢な布陣になった。

 この日は日曜日だったので(チンチェーロの市が見たくて、この日が日曜日に当たるように出発日を選んだ)、まずはチンチェーロの市に向かった。
 塀と門がある広場の真ん中に屋根と床だけの建物があり、そこには主に野菜や食べ物や雑貨などの日用品を扱っている人たちが陣取っていた。
 その周りに、布を地面に広げ、民芸品などを商っている人たちが陣取っている。
 日用品を商う人々と民芸品などを商う人々と、半々くらいの割合だったと思う。昨日のピサックの市場と比べて、民族衣装を着た人たちが多いし、値段も安い。チンチェーロの日曜市も観光化されつつあるのだろうけど、ピサックに比べればまだまだ素朴な感じの市だ。

 リャマの毛で編んだベルトをたくさん売っている女の子がいて、そこに捕まった。
 響子さんが聞いてくれて、彼女(15歳くらいに見えた)は山の上にある村から売りに来ているということが判る。
 茶色、紺色、黄土色のベルトが目立つ。焦げ茶と白でハートの連続模様を編み込んだベルトを1本買うと、根本の方はまだ編みっぱなしになっていて、その場で端の始末をしてくれた。
 響子さんに教わってその場で結んでみる。ベルトの結び方も色々とあるらしい。

 屋根付きの一角は、緑色が目立つ。野菜ももちろんだけれど、クイのえさにする草が大量に積まれている。
 食べ物屋さんもあって、パンやお酒(色々な薬草酒があって、それを混ぜてコップに入れてくれる)を売っている。
 響子さんが笹のような葉で包んだ、マッシュポテトのような蒸しパンのようなものを買ってくれた。原材料も名前も教えてもらったのに思い出せないのが情けない。

 さらに奥には、リャマの毛の織物や民芸品を並べた露天が並んでいた。
 底からお水を入れてひっくり返してもこぼれない、不思議な構造のポットを売っていた。私が興味を示したのを見て、おじさんが実演してくれる。洗剤で洗ったりせず、使う前にしばらく米のとぎ汁を入れておくといいそうだ。土鍋と同じね、と納得する。
 説明を聞いて眺めているうちに欲しくなり、太陽と月の絵のポットを試すがめつしていると、おじさんが「これはあとそれ1個しかない」。と言う。なかなか商売上手なおじさんだ。
 ここにあるポットは全部自分が作ったんだよ、と売り込んでくる。確かにポットの底にはおじさんのサインが入っている。ハンドメイドに弱い外国人観光客のツボを心得ているらしい。

 市で私たちを野放しにしておくときりがないと思ったのだろう。響子さんに「先に遺跡を見に行って、また帰りに寄りましょう。」と言われ、その場を離れた。
 市を出て、「えー、ここを登るの!」と言いたくなるような急坂の入り口でチケットを切ってもらう。
 このチケットはクスコ市内と近郊10箇所の遺跡や博物館を見ることのできるチケットで、10ドルだ。何から何までガイドさんに全部やってもらっていると、物の値段やお金の使い方に無頓着になってしまっていけない。

 かなり急な坂道を登って行く。アドベよりも黄土色っぽい色の家々や塀が並んでいる。道の途中にもぽつぽつとお土産物屋さんが並んでいる。
 坂道を登り切ると広場になっていて、そこにも露天の市が並びつつあった。
 広場の脇には二重窓の石組みがあり、その上にスペイン人が建てた教会がある。響子さん曰く「ヨーロッパ人は教会が好きだからみんな入って行くけど、別にいいですよね。」ということで、そのまま奥の広場に進む。

 二重窓は重要な建物の印だという昨日の響子さんの説明通り、教会の土台となっている部分は丁寧に石を積んである。けれど、その奥の住居地区の石組みはかなり雑に見えた。
 土を盛ってそこに石をはめ込んで作る方法を「ペルカ」というそうで、チンチェーロの遺跡の住居地区はこの「ペルカ」で石組みが組まれている。

 緑の草が生えている広場に座り込んで、響子さんに解説してもらう。
 チンチェーロの遺跡は、インカ帝国のマンコ・カパックという最後の皇帝が一時暮らしたと言われているそうだ。大きな広場は、お祭りや儀式に使われていたと考えられているらしい。マンコ・カパックを始めとするインカの人々は、ここからさらにオリャンタイタンボに落ち延びて行ったのだ。

 緑の草が綺麗だったし、標高に負けて少し胸苦しかったので、その場で寝ころぶ。
 空が結構綺麗で、寝ころんだ姿勢のまま空だけの写真を撮る。「世界の中心で愛を叫ぶ」のドラマを思い出して、「セカチューごっこしているんじゃないよ。」と言ってみたら、響子さんはセカチューを知らないと言う。
 「世界のへそ」の話をしたら、響子さんは、「クスコも世界のへそって言われているんですよ。」と対抗心を燃やしていた。何だか響子さんのペルーへの愛が感じられて、楽しい気分になる。

 教会下の広場に戻ると露天市の数が増えていた。
 2本目のベルト(色々なインカの意匠が編み込まれた、黄土色と紺色の組み合わせのベルト)を買い、さっき買ったベルトと2本とも巻く。
 この広場には、普通の人のおうちのような「MUSEO」があったけど、残念ながら入場しなかった。何が展示されていたのだろう?

 ゆっくりゆっくり坂を下り、響子さんに「さっき迷った物だけ。」と釘を刺されつつ市にもう一回行く。
 リャマの毛の織物で作ったクッションカバーが気になったけれど、家のクッションのサイズを覚えていなかったので、「測ってくれば良かった」と思いつつ断念する。
 その代わり、先ほど散々迷った太陽と月の意匠のポットを買った。ウルバンバのホテルの名前にもなっているし、何かの意味があるのだろうと思っていたところ、太陽と月の意匠はそのまま男女は常に一対のものであるという思想の元となり、また象徴的に表していると説明があった。
 そういえばピサックの市場のパチャママとパチャパパもどれも二人一組で作られていた。

 ポットの取っ手に飾られていたピューマにも意味があって、これは地面というか地上を表している。
 ピサックの市場のお土産物屋さんには、水中又は地中を表す○○の上に地上を表すピューマ、その上にコンドルを重ねた置物がたくさん売っていた。
 この一番下にいた動物がどうしても思い出せない。亀だったような気もするし鰐だったような気もする。平べったくて四つ足の動物だったような気がするけど、もしかしたら蛙だったのかもしれない。
 ピサックに向かう途中、蛙の形をした丘を見たときに、蛙はペルーでは神聖な動物とされているという説明を受けた。多分雨の前になると姿を現すからだろう。

 響子さんもチンチェーロの日曜市に来たのは初めてだったらしく、私たちを牽制しつつも「こんなに楽しいとは思わなかった。」を連発していた。帰りがけには「女の人のお客さんと市に行くのは楽しい。」と言いながら大きめのリュックを買っていた。「いえ、私の方がお二方につられて普段はしないお買い物をしています。」と思って、ちょっとおかしかった。

 車に乗る前にトイレに行く。紙もあったし清潔けれど便座がない。便座がないトイレはここが初体験だ。股の内側の筋肉が鍛えられる気がした。
 この日はデニムのスカートにスパッツという格好をしていた。ズボンよりもトイレでは気を遣わずに済むような気がする。響子さんには「今日は少し歩きますけど。」と心配してもらったけれど、スパッツのおかげで階段をよじ登るような場面でも特に問題なかったし、図々しく遺跡の原っぱで寝ころんでも平気。なかなか旅行向きのスタイルだということを実感した。

 チンチェーロを後にし、モライ遺跡に向かう。私があまりにも「写真、写真」と騒ぐのに呆れたのか、こちらから何も言わなくてもダニエルが自主的にフォトストップしてくれるようになった。申し訳ないけど嬉しい。
 チンチェーロに向かっているときは人っ子一人いない畑だったけれど、この時間は農作業をする人々と家畜動物がたくさん畑にいる。豚や羊などがちょうど繁殖の時期らしく、本当に生まれてすぐくらいの赤ちゃんが群れの中にいて、とても可愛い。

 モライの村を抜けて遺跡に向かう途中、民族衣装を着て赤ちゃんを抱っこした女の人が車を止めた。何かと思ったらヒッチハイクだという。響子さんに「モライの遺跡まで行きたいそうなんだけど、乗せていい?」と聞かれた。
 車は大きいし、席は余っているし、もちろんOKである。やりとりの間はその女性しか姿が見えなかったけれど、車に乗り込んできたのは男の人(多分、旦那さん)も一緒だった。ヒッチハイクは女性が車を止めて交渉するのがセオリーなのね、と思って何となくおかしい。

 しばらく行ったところで、今度は小さな男の子が車を止めた。今度は何だ? と思っていると、「何かちょうだい。」と言っているらしい。ダニエルと響子さん経由でそう通訳してもらい、友人がパンをあげていた。
 彼は学齢前でまだスペイン語を習っていないから、ケチュア語でしゃべっていたそうだ。この男の子に会ってから遺跡までも上り坂をかなり進んだけれど、私たちが遺跡の見学を終えて駐車場に戻ってきたとき、彼は遺跡の入り口で遊んでいた。物凄い健脚だと思う。

 モライの遺跡の手前で親子3人とお別れした。 
 途中から舗装されていないガタガタの道だったとはいえ、村から遺跡までは車でも結構な時間がかかっている。少なくとも10分や15分では到着していない。この人たちは車が通りかからなかったらずっと歩いて行くつもりだったのかしらと驚いた。結構アップダウンもあったし、歩いたら何時間かかるのだろう?

 モライの遺跡はインカ帝国時代の農業研究所ではないかと言われているけれども、記録があるわけでもなく、実際のところはよく判っていないそうだ。
 農業研究所と言われている所以は、同心円を重ねたような遺跡が真ん中に行くほど深く掘られている、この形状にある。底に下がるほど温度が上がり、様々な気候(気温)で作物がどのように育つのか育たないのかここで実験していたのではないか、という仮説が立てられている。
 確かに石組み壁には人が上り下りする階段の他に水路が切られている。

 一段一段の畑は石組みで支えられていて、石組みから飛び出た石を階段に見立てて降りて行くことができる。
 降りて行く途中は風がかなり冷たくて、赤いコートをTシャツの上に着込んでちょうどいいくらいだった。
 底まで降りると、風が遮られたせいもあって、言われてみれば上よりも暖かい気がする。
 一番上の端でヨーロッパ人らしい団体が説明を受けている声が底にいても聞き取れた。声が通るように何らかの計算がしてあるのかも知れない。

 降りた階段は上らねばならず、カメラをリュックに詰め込んで両手を空け、石組みから突き出た歩幅も高さもバラバラの階段を手足全部を使ってよじ登った。階段が終わると、そこからさらに坂道を登らなければならない。
 モライの遺跡も標高3600mくらいあるそうで、ただでさえ運動不足の身体にこの負荷はキツイ。一番後ろから休み休み登って行く。
 流石にペルー人のガイドさんの足取りは確かで、気が付くとずっと先を行くのが見えた。

 モライの遺跡見学後はマラスの村に向かった。
 出発前に読んだWebページでは「モライの遺跡からマラスの塩田まで、ゆっくり下り道を歩いて1時間くらい」と書いてあったけど、本当だろうか? 舗装していないガタガタ道を車でかなり飛ばして、やっぱり10分や15分では着かなかったと思う。

 マラスの村に入ると道は細かい石畳に変わった。
 家々の門の上に太陽など様々な意匠が彫ってあって、それは屋号のような役目を果たしているそうだ。ダニエルがわざわざ車のスピードを落として、門の上を指さして教えてくれる。
 家の塀や壁は黄土色で、やっぱり農村部で見るアドベの家の色とは違っている。

 マラスの村を抜けて舗装していない道に入ると「塩田まで8km」という看板が出ていた。響子さんは村から塩田まで2時間くらいで歩けると言う。
 塩田の手前、塩田全体を見晴らせる場所でフォトストップしてもらう。眼下に見える白い塩田に唖然とする。棚田があって、ところどころは茶色いけれど、概ね真っ白だ。あぜ道も白い。それが結構大きく広がっている。

 この塩田は山と山の間にあって、下に広がるウルバンバの谷からはほとんど見ることができず、発見されにくくなっているそうだ。だから盗まれたりする危険性も低い。そういう場所に塩田を拓いたのだろう。
 とはいうものの、翌日にオリャンタイタンボに行く途中に見えたマラスの塩田はかなり白く光って目立っていた。もっともこれは乾期だからこそで、雨期になると塩田全体が茶色くなってしまうらしい。

 ここでポツポツ雨が降り出し、響子さんに「本格的な雨になるようだったらこの後歩くのは止めましょう。」と言われたけれど、そこから車で1〜2分の塩田入り口では雨は降っていなかった。この「歩く」が、塩田を抜けてウルバンバの街まで歩く、という意味だったことが後で判る。

 塩田の入口で時計を見たら13時だった。
 それにしてもガタガタ道を車で揺られるとどうしてトイレに行きたくなるのか。塩田の入り口でトイレを借りる。今回のペルー旅行を通じて、ここのトイレが一番インパクトがあったかと思う。
 ドアがちゃんと閉まらなかったし、便座とトイレットペーパーはもちろんない。でも水は流れたし、用を足す分には問題なかった。

 入口に学校の机ひとつ分くらいの売店があり、ここの塩田で作られたお塩や、製塩の過程の塩を連ねた見本などを売っていた。
 製塩の作業自体はウルバンバの街中の工場で行い、そこで詰められた塩をまた持ってきて売っているらしい。
 とにもかくにも産地直送の塩である。もちろん購入する。マラスの塩田で塩を買うことは、今回のペルー旅行ショッピング編の私の唯一の目標だったので、それが適って凄く嬉しい。

 塩田に入って歩き始めた辺りから、カメラの調子がおかしくなった。電池が切れて電池交換をしたら、何故か動かない。電池を入れ直してみても結果は一緒だ。しばらく放っておけば直るかと、予備のデジカメをリュックから取り出す。
 そんな作業を、塩の結晶が固まった細い(15〜20cmくらい)あぜ道の上でやっていると、不安定なことこの上ない。あぜ道は平らではなく真ん中が山形に盛り上がっているので、あまり安定感が良くないのだ。

 あぜ道のすぐ横はもちろん塩田で、塩田というのは要するに稲のない田んぼに塩の結晶が浮かんでいる状態だ。
 かなり時間のたった塩田は塩の層も厚く固まって上に乗っても大丈夫そうだけれど、仮にも食べ物を靴で踏む気にはなれない。
 若い塩田はもちろん塩水に塩の結晶が浮かんでいる状態だから、そんなところに足を踏み入れようものなら底なし沼状態に違いない。
 みんなよりかなり遅れて慎重にゆっくりと進む。

 あぜ道の横には水路があって、山の上から塩分を含んだ水を引き、各塩田に入れているらしい。水路を流れる水は何故か温かい。その水に触った手をそのままにしておいたら、手の指に塩の結晶ができた。
 このマラスの塩田も、チンチェーロの遺跡もモライの遺跡も、不思議と鳥の声がしない。私たちがしゃべっている声以外に音があまり聞こえてこない。
 マラスの塩田などあまりにも静かすぎて、水路を流れる水音が物凄く大きく感じられたくらいだ。

 塩田を抜ける途中、水路からの水を止めて日干しを行っている塩田や、もう完全に結晶になった塩を収穫している塩田があった。水を張ってから塩が取れる状態になるまで大体1ヶ月くらいかかるという。
 逆にこれから塩の結晶を作り出す、今はまだ茶色く見える水が張られているだけの塩田もあった。それで、遠くから眺めると真っ白な中に茶色いまだら模様がポツポツあるように見えていたようだ。

 塩田を抜け、そのまま片側が川に向けて崖になっている道をウルバンバの谷に向けて下りて行く。
 ペルー人のガイドさんがたったか歩いて行くのを私たちがのんびりゆっくり追いかける、という歩き方になる。
 下に見えている川はマラスの塩田から流れている塩水の川だそうで、その両岸は塩の結晶で白くなっている。塩田の近くではまだ魚は住めないらしい。流れ落ちる間に結晶になった塩分が抜けて行き、ウルバンバの川に流れ込む頃には問題ない濃度にまで薄まるそうだ。

 ウルバンバ川を渡ったところでダニエルと車と再会し、車に乗り込んでウルバンバの街中に向かう。
 途中のバスターミナルでペルー人のガイドさんが車を降りる。チンチェーロの手前で落ち合ったからてっきりこの近くの人だと思っていたけれど、実は彼女はクスコ在住で、今日はここからバスでクスコに帰るそうだ。
 だから時間を気にしていたんだな、知っていればもっとパキパキと歩いたり動いたりしたのに、と反省する。彼女はバスの時間に間に合ったのかしらと心配になった。

 クスコ発着の聖なる谷1日ツアーでもお昼を食べるという、ウルバンバの街中のキンタレストランで昼食になる。レストランに入った時点で14時をかなり回っていた。
 響子さんが「ここのレストランは野菜が多いからいいの。」と言うとおり、ビュッフェ形式で、野菜のコーナーと温かいもの(お肉とポテトが多い)のコーナーが同じくらいのボリュームである。
 食前酒としてピスコサワーが小さなグラスで供された。ペルーに来て初めて飲んだお酒は口当たりも良くて美味しかった。

 鶏肉の鉄板焼きが美味しい。ゆでただけの野菜がたくさん並んでいて、それも美味しい。
 デザートにブラウニーとバナナケーキとプリンを食べ、ペルー風のコーヒーもここで初めて飲んだ。
 ペルーのコーヒーは、小さなポットにどろっとしたコーヒー液のようなものが入っていて、それをカップに注ぎ、適当にお湯で薄めて飲むのが一般的なようだ。コーヒー液をどれくらい入れればいいのか悩んでいると、響子さんが作ってくれた。見ていたら、カップに1/4くらい入れていた。
 飲んでみるとかなり苦い。ミルクを半分くらい入れて何とか飲めるくらいだ。香りが飛んでしまっているのが残念である。

 今日も市で買い物をしてソルの手持ちが少なくなってきたので、飲み物代をドルで払いたいと頼んだら、2ドルと50センティモだと言われた。どうして端数だけペルーの通貨が指定されるのか、謎である。
 響子さんに聞くと、ペルーで流通しているのはドル「紙幣」だけだそうだ。しかもドル紙幣の場合は少しでも破れていると受け取ってもらえず、コインは全く流通していない。だから端数分はペルーのお金で要求されたという訳だった。

 両替をしたいと頼んで、街中の両替屋さんを何軒か回ってもらったけれど、どこもお休みだった。両替屋さんだけでなく、お店は軒並み閉まっている。
 そういえば今日は日曜日だ。ホテルのフロントで両替してもらうことになった。
 昼食を食べた頃から始まった頭痛が、ホテルに戻って安心したからかまた酷くなってきたので、そのままバファリンを飲んでまたベッドに倒れ込んだ。多分16時少し前だと思う。
 それでも昨日よりは進歩していて、目が覚めたら18時だった。今日も夕食は20時からでお願いしてあったので、ホテルの写真を撮ったり、日記を書いたりして過ごす。

 今日の夕食からガイドさんが道子さんに交替した。ホテルのレストランで待ち合わせして、「よろしくお願いします。」とご挨拶する。
 このホテルのレストランは日替わりでプリフィクスのお料理が食べられ、しかも何でも美味しい。
 今日は寒かったので、前菜に穀物のスープを頼み、メインはます(ティティカカ湖の名物と聞いていたので、一度食べてみたかった)のバター焼き、デザートにフルーツカクテルを選び、ほぼ完食した。
 まだ高山病が怖かったのでお酒は自粛し、飲み物にはガス入りのお水を頼んだ。このお水が、240mlだと1.5ドル、750mlだと2ドル、2.5lだと3ドルという値段だったのがどうしても解せない。道子さんのアドバイスで、もちろん大きなペットボトルでもらうことにした。

 食事中に、別のツアーのガイドに付いていたらしい直子さんと顔を合わせた。土曜出発の8人のツアーについていたらしい。道子さんのところに男性のガイドさんが来て話している。道子さんはペルーでのガイド歴が20年以上だそうで、この後も思ったけれど本当に顔が広い。

 頭が痛いと言いつつ健啖家ぶりを発揮した私は、具合が悪そうで食事もあまり進んでいなかった友人に呆れられた。
 道子さんに「頭痛がするのは高山病のせいでしょうか。」と聞いたら、「こんなに食欲のある高山病患者はいない。」と断言された。何だか釈然としない。
 ゆっくり夕食を食べ、ぬるめのシャワーを浴びて、0時前に就寝した。

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2004.11.16

虫除けスプレーをリサイクル(?)する

 ペルーに出かける前にアロマオイルを4種類ブレンドし、無水エタノールと精製水で虫除けスプレーを作った。作り方はこちら。100ml作ったのだけれど、虫除けスプレーを100mlも使う訳がない。90mlくらいはそのまま持ち帰ってきたと思う。
 持ち帰ってきた虫除けスプレーは、そのままエアーフレッシュナーとして私の部屋で活躍している。

 ブレンドしたアロマオイルも、もちろんたっぷりと残っていた。
 あんまり置いておくのも心配なので(アロマオイルの消費期限というのはどれくらいなのだろう?)、無印良品で無味無臭のバスソルトを買ってきた。あちこちのWebサイトを覗くとどうも1回の入浴でアロマオイル5滴くらいが上限のようなので、バスソルト30gに対して5滴のアロマオイルを加えて、プラスチックボトルに入れてシェイクした。少し馴染むのを待って使うことにしよう。

 そういえば、ペルーにも温泉がある。マチュピチュの麓の「アグアス・カリエンテス」もまさしく「熱い水」である温泉がその名の由来である。
 旅行中にガイドさんに「クスコ近郊にある温泉に入りに行く日帰りツアーもある」と教えてもらった。今回は日程的にとても無理だったので悔しくなり、疑似体験だけでもと「ペルーの温泉の素って売っていないんでしょうか」と聞いたら、「ペルー人はそんなものは買わない」と笑われてしまった。もし誰かが作ってくれたらお土産に大量に買って帰るのにな、日本人には受けるんじゃないかしら、などと考えたことを思い出した。

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2004.11.14

ペルー旅行記2日目

2004年9月18日(土曜日)

 3時に起きて荷物を詰め替え、何とか3時半までには出発できる状態になった。それにしても眠い。
 ダイニングテーブルの上に私たちの朝ごはんのお弁当が用意されていた。

 4時前にペンション・カンツータを出発し、国内線の搭乗手続きをしてもらう。国内線はガイドの資格を持っていればチェックインの代行ができるけれど、国際線はガイドさんでもカウンターのあるエリアには入れないそうだ。
 リマからクスコに向かう飛行機は左側の方が眺めが良いそうで、左側の席を押さえてもらった。
 チェックイン後、ドルからソルに両替した。「ソルを使うことはあまりない。少しずつ替えた方が良い。」というアドバイスに従い、50ドルを両替したら165ソレスになった。

 カウンターではゲートはまだ決まっていないと言われたけれど、セキュリティチェックを抜けた目の前の14番ゲートに表示が出ていた。とりあえず一安心である。お土産物屋さんやカフェスタンドも開いている。
 待合室のベンチでお弁当を広げると、おにぎり3つ(おかかとしゃけとこぶ)、柴漬け、ゆで卵、オレンジ半分、マフィンとミネラルウォーターが入っていた。ゆで卵の黄身が白くて、ケニアの白っぽいオムレツを思い出す。

 ランペルー25便は定刻の6時より少しだけ遅れて離陸した。
 1時間くらいのフライトなのに、エッグサンドとフルーツの機内食が出た。朝ごはんのお弁当でお腹がいっぱいだったのでフルーツ(パパイヤ、スイカ、葡萄)だけ食べる。
 窓の外には雪山が見える。朝日に向かって飛んでいるので逆光になってしまい、目で見ている綺麗な雪山を写真に撮るのは難しい。
 窓の外の景色が雪山の青っぽい紫色と白のツートンカラーから茶色に変わってきたなと思ったら、もう飛行機は着陸態勢だ。そこがクスコの空港だった。

 クスコ空港のターンテーブルはやけに回転のスピードが速い。おかげで一巡目はスーツケースを取り損ねた。その側では4人組のおじさん達がフォルクローレを演奏してCDも売っている。買っている人は見当たらない。
 空港の建物から出てすぐに、これから二日間お世話になるガイドの響子さんに発見してもらえた。

 まず、ペルー国内での手配をしてもらっているNAO TOURのオフィスに向かう。
 この時期はアンデス山中で焼き畑を行っていて、その煙がクスコにも流れてきているそうだ。そのため有視界飛行のクスコ空港ではこのところ飛行機が遅れ気味で、時間どおりに着いたのはラッキーだという。
 そう言われてみると、標高3370mで空気が薄い分強烈に青くていい筈の空が、何となく薄紫に霞んでいる。

 NAO TOURのオフィスは、看板も表札もなく、地図を頼りに探したら絶対に辿り着けない外観をしていた。泥棒に狙われないようにするため、わざと一見して会社だと判らないようにしているという
 社長の直子さんに迎えてもらい、本式のコカ茶をご馳走になった。乾燥したコカの葉をひとつかみカップに入れ、お湯を注いで飲む。

 直子さんに「ダイアモックスは飲んでる?」と聞かれた。友人も私も、二人とも持参していない。ダイアモックスは万一のために響子さんが用意してくれるようだ。今のところ、特に空気の薄さや息苦しさは感じない。
 「今日のウルバンバの民家での昼食は、よそ行きじゃない普通の日の普通のごはんを出してくれるように言ってあるからね」と直子さんが言う。今日お邪魔するのは直子さんのお友達の家だそうだ。
 「目印か何かないんですか? 壁の色とか。」「アドベの色だよ。」といった、響子さんと直子さんの打ち合わせが落ち着いたところで、ピサックに向けて出発した。
 ワゴン車にドライバーのダニエルさんと響子さん、私たち二人という贅沢な布陣である。

 クスコは盆地に拓けた街なので、どこに行くにもまずはその山を越えなくてはいけない。坂道を登り、サン・クリストバル教会前で車がストップした。教会には入らず、ここから一望できるクスコの街を眺め、深呼吸する。
 教会の外壁には扉が切ってある。扉や窓が二重になっているのは重要な建物の証だと教えてもらった。
 フォト・ストップで停まる車が目当てなのか、ミネラルウォータなどを売るワゴンが出ている。どこからかリャマをつれて民族衣装を着た子供達が集まってくる。

 この教会の周辺は特にユーカリの木が多かった。ユーカリの木は木工の材料になったり油をたくさん含んでいるので燃料になったりして使いでがあり、また栽培も簡単なので、元々はペルーにはなかった植物だけれどあっという間に増えたそうだ。
 でもいいことばかりではなく、ユーカリの木は土地から根こそぎ養分を奪ってしまうので、ユーカリの木を伐採した後はほとんど植物が育たない。今はユーカリの木を制限しようとしているけれど、使いでがあるという要素は大きく、なかなか規制も思うように行っていないそうだ。

 ピサックへの道筋はクスコ近郊の遺跡を巡る道筋でもあった。サクサイワマンの遺跡が見えてくる。
 赤や青のやけに派手な衣装を着て旗などを手にした人々が広場いっぱいに広がってマスゲームのようなことをしている。尋ねてみたら、学校の生徒が学芸会の練習をしている、という返事だった。インティライミを真似たお祭りを学校行事として行っているらしい。衣装も着ているし、本番の会場でやっているわけだから、きっとリハーサルだろう。
 遺跡の中での学芸会を許す太っ腹さに唖然とする。

 山を越えて小川沿いの道を走り始めた辺りから、何となく胸苦しい気がし始めた。空気が薄いとは思わないし、頭痛もないけれど、何となく心臓が苦しい気がする。心拍数も多くなっているように感じる。
 腹式呼吸だ、深呼吸だ、とやたらと大きく呼吸していたら、車が停まった。

 道の反対側を見るとリャマやアルパカがいて、民族衣装を着て織物を織っている女の人が何人もいた。
 柵の中に入ると、少年がリャマたちの餌になる草を手渡してくれる。それをリャマたちの鼻先に持って行くと、何頭も寄ってきてムシャムシャと食べる。あれがリャマ、あれがアルパカ、あれがビクーニャ、と教えてもらう。アルパカやビクーニャ、子どもリャマに草をあげたくなる。
 ワラスという聞き慣れない動物や、リャマとアルパカの一代雑種もいる。
 ビクーニャが可愛い。なでるとその毛並みが本当に柔らかくて気持ちよい。毛足が短くて「これじゃあ、高くなるわけですね。」と言ったら、毛足がどうこうというよりも、本当に生息数が少ないらしい。

 さんざんビクーニャたちと遊んだ後、スタッフのおじさんから染料について説明してもらった。もちろん全部スペイン語だから、響子さんが通訳してくれる。
 この施設では昔ながらの方法で糸を紡ぎ、染め、編んだり織ったりしている。染めにも植物と昆虫しか使わない。染料となる植物の見本が置いてあり、お湯をぐつぐつ沸かして染めの実演もしてくれる。
 うちわサボテンについた白っぽい黴のようなものはコチニールという虫で、赤い色はこの虫をすりつぶしたもので染めているそうだ。ダニエルがすりつぶして見せてくれる。確かに赤ワインの色だ。
 その他にも色々な草や虫を見せてもらったけど、私が憶えているのはコチニールだけなのが情けない。

 その後、併設のお店を見る。大きな織物やバッグ、セーターやショールなどが所狭しと並べられている。
 そのうち、大きなベビーアルパカのショールに一目惚れした。これ、欲しい。暖かそうだ。
 アルパカの毛の色そのものは生成りかグレーだ。せっかくだから自然の色がいいかと思ったけれど、お店のお姉さんは生成やグレーのショールを指差してみせると首を振る。

 お姉さんのお薦めに従い、散々迷った末にラベンダー色のショールを購入した。
 いきなりこんな大きな(65ドル)買い物をするつもりはなかったので、現金はあちこちに分散させたままだ。目の前で切ってくれそうだったし、カードを使う。
 カードの伝票にある「MICHELL Y CIA SA」というのがお店の名前らしい。お値段も良いけれど品物もとても良い。照明を落とし、日光にも当てないようにして商品を陳列しており、とても良心的だと響子さんも言っていた。

 そのまま小川沿いの道を進む。その川は灌漑用水も兼ねているそうだ。でも小川らしくあくまでも蛇行して澄んだ水音を立てている。
 ダニエル曰く、ペルー人はあまり自然を加工することは好きではなくて、出来るだけあるがままに利用することを心がけているそうだ。心がけているというよりも自然にそうなるらしい。

 しばらく行くとピサックの遺跡が山の上の方に見えてきた。残念ながら薄曇りで山の稜線はそれほどくっきりとは見えない。それでも、この時期としては比較的視界が良い方らしい。
 旅行社からもらった日程表にはピサックの市場と遺跡に行くと書いてあったけれど、実際はピサックの遺跡には行かないようだ。この妙な胸苦しさを抱えて1時間の登り道は辛すぎるので、「行く?」と聞かれたら断ったと思うけど、少し残念である。

 その代わり、車を道ばたで停めてもらってピサックの遺跡をしばし眺めた。その位置からだと遺跡全体がコンドルを象っているように見える。
 すぐ近くのアンデネス(段々畑)は、山すその形に沿って二つのカーブを描いている。その形は女性のバストを表していて、大地と豊穣の神であるパチャママを象徴しているそうだ。カーブを描いたアンデネスは非常に珍しいらしい。

 遺跡の麓(といっても結構上がったところ)にあるピサックの村に到着した。
 村をぶらつく前に、広場に面したカフェで、1ソルを払ってお手洗いを借りる。実はショールを買ったお店がとても寒く冷えていて、その頃からお手洗いに行きたかったので少しほっとする。トイレ自体もとても清潔だった。

 カフェから出ると響子さんがとうもろこし(付け合わせに必ずチーズがついている)を買って食べていて、味見させてもらった。ゆでたての粒の大きなトウモロコシは、大味だけど美味しい。
 そのままぶらぶらと歩き始める。
 この日は土曜日だったのでお店はあまり開いていない。観光客向けに毎日開くようになりつつあるとはいえ、やはりメインは火曜、木曜、日曜なのだ。それでもところどころ開いているお店を冷やかして歩く。
 セーターを売っているお店や織物を売っているお店、ケーナなどの民族楽器の専門店もあるし、銀のアクセサリが並ぶお店もある。ペルーっぽい織物の布で作ったペットボトルホルダーが目立つ。

 お土産物屋さんが並んでいる通りは、道も石畳で舗装され、建物も白く塗られてコロニアル風とでもいった感じになっている。一方で、ちょっと細い路地を覗くと、塀は土を塗り固めたそのままという感じだし、道も土のまま舗装されていなくて、そのギャップがちょっと激しい。

 カボチャの実を乾かして中身を抜き、外側にパチャパパとパチャママの彫り物をしたマラカス(中に残った種が音を鳴らす)が大きな籠にたくさん入って売っている。元々が「実」だから色々な形があって、お店のおじさんが次々と見せてくれる。
 友人と一緒に覗いているうちに自分も欲しくなって、最初に発見した友人は買わず、結局私だけが購入した。
 
 パチャパパとパチャママのコンビも何組かあって、おじさんが「笛を吹いている方がパチャパパ」と教えてくれる。
 彫り物が細かくて綺麗なのをいくつか選んでそれでも迷っていたところ、ふと見たら笛を吹いていないパチャパパがいる。「どうしてこいつは笛を吹いていないの?」と聞いてもらったら、おじさんはあっさりと「ナマケモノだからだ。」とおっしゃる。
 そう言われたら買わずばなるまいと、笛を吹いていないパチャパパと、対になったパチャママを選んだ。

 値段交渉も響子さんに頼り切りである。見ていると大体「負けて。」「○○ソレス。」「○○ソレスまでなら負けるって言っているよ。」とういくらいのやりとりをしているようだ。交渉の結果、二つセットで50ソレスになった。
 お釣りをもらったら、響子さんが「見せて。」と言う。1ソル硬貨のニセモノが出回っていて、全体的に黄色っぽいものがニセモノだという。私には見分けられそうにない。
 また、偽札も出回っていて、数字部分のホログラムがないものは偽札、表面についているスパンコールを剥がしてみて下が白いままになっているお札は本物という話だった。

 路地から少し入った奥に、パンを焼いている窯があった。その横にはクイが山ほどいて、クイクイと鳴いている。
 「クイってクイって鳴くからクイって名前になったのかな。」などと冗談半分に友人と話していたら、本当に鳴き声がその名前の由来らしい。
 見ていると、普通にペットになりそうなつぶらな瞳のハム太郎のような外見をしていて可愛い。しかし、彼らはみな食用なのだ。

 このパン屋さんで響子さんがパンを買って味見させてくれた。ナンのようなパンにタマネギとチーズとあと何か具を入れて包んである。適度に塩気があって美味しい。
 あちこち冷やかしながら歩いているうちに雨が降ってきた。もう雨期に入りつつあるのかも知れない。
 最初に車を降りた広場の一角はお土産物屋さんが集まってテント村のようになっており、ビニルの軒が出ていて雨に濡れずに済む。うろうろするうちにチェスセットを見つけた。
 駒の意匠がインカ帝国軍対スペイン軍になっていてなかなか面白い。お店によって、くっきりと鮮やかなペイントを施していたり、渋く彫ったままの色にしてあったりする。隣の店、隣の店と見比べているうちにはぐれていたらしく、「あー、見つけた!」と言われた。一人になっていたことにすら気がついていなかったので、逆に発見されて驚いた。

 雨も本降りになってきたので、ピサックの市場は切り上げてウルバンバに向かった。
 今日はウルバンバの民家での昼食をアレンジしてもらっている。その約束の時間もあるのだ。
 慌ててリュックから折り紙を取り出し、くす玉の形に仕上げる。中に黒飴を入れて、マルガリータさん一家へのお土産のつもりだ。

 ウルバンバの街の中心にある大きなガソリンスタンドを過ぎ、今日宿泊するソル・イ・ルナホテルの横を通り過ぎ、街から出た辺りで響子さんが「ここだ!」と叫んだ。道から少し奥まったところに何軒かのアドベの家が集まって建っている。
 そこが今日お邪魔するマルガリータさんの家だった。マルガリータさんが外まで出てきて迎えてくれる。

 アドベ(日干し煉瓦)の見た目は赤茶色で乾いていて暖かそうだけれど、中に入るとシンとしている。
 クイが家の中で飼われていて、その餌になる草が床に撒かれ、クイが必死で食べている音がしている。私たちが座っている椅子も、実はクイの家になっている。足下をクイが走り回っていて、踏んじゃいそうで怖い。
 マルガリータさんは竈で調理している。家の壁には鍋やフライパンがかかっている。クロスのかかったテーブルについてお招ばれだ。マルガリータさんの家族と一緒に食べるものだと思っていたけれど、マルガリータさんも5歳くらいの女の子達もこちらには寄ってこなくてそれがちょっと寂しい。

 お米(だと思うけど別の穀物だったかも知れない)のスープと豆のソースがかかったご飯、チチャ酒をご馳走になる。
 ご飯は材料の素直な味がして美味しい。辛いソースのような漬け物のような韓国のコチュジャンのような味噌があって、それをスープに溶かしたら、これがとんでもなく辛い。
 思わず本気で「辛いっ!」と叫んだら、マルガリータさんと大きな目をした女の子達、雨が降ってきて家の中に入ってきた旦那さんや男の子達にも笑われてしまった。
 マルガリータさんに「そんなに辛い物ばかり食べちゃだめ。」と言われる。

 チチャ酒は物凄く酸味が強い。いかにも「ただいま発酵中」という感じである。
 私たちは小さなコップに味見程度にもらっただけだけど、ダニエルは1リットルは入りそうなコップで一気飲みしている。おいおい、車を運転するんだぞ、と思っていると、響子さんもダニエルにそう言ったらしい。響子さんは、「これはまだ作りかけだからノンアルコールだって言ってる。」と苦笑いしていた。

 ピサックからウルバンバまでの道沿いの家々では棒の先に赤いビニルをつけたものを軒先に立てていた。それは「チチャ酒があります」という印だそうだ。小売り目的で作っているのではなく自家用だけれど、言えば分けてもらえるらしい。
 そういえば、マルガリータさんの家にはこの印が出ていなかったから、もしかすると作りかけだからノンアルコールというのは本当だったのかも知れない。

 ペルーでは昼食がメインで夕食はごく軽いそうだけれど、それにしてもかなりたくさんのご馳走で、食べきれずに残してしまった。申し訳ない。
 セロリの香りがする葉っぱに直接お湯を注いで飲むハーブティが美味しい。香りはそっくりだけどセロリとは葉っぱの形が全く違う別の植物らしい。胃腸にいいお茶だそうだ。

 最後にくす玉のお土産を渡す。一度崩してあめ玉を取り出し、もう一度作り直して渡す。早速ほおばった女の子のほっぺが膨らんで可愛い。
 男の子が興味ありげにのぞき込んで、くす玉の角の数を数えている。もしかしたら算数で立体図形を勉強しているところなのかも知れない。いかにも利発そうな顔立ちの男の子だった。
 みんなと握手してから、お暇する。

 マルガリータさんの家からソル・イ・ルナホテルまでは車で10分くらいだったと思う。
 チェックインしたのが14時半くらいで、「夕ご飯は何時にする?」と聞かれ、お昼も遅かったので20時にしてもらう。
 ホテル周辺には何もないので、ウルバンバの街に行くならフロントでシクロを呼んでもらって、ついでに値段交渉もしてもらうといい、と教えてもらった。

 ホテルの部屋はコテージになっていて、庭にはお花が溢れていて可愛い。
 コテージの中も、スイッチカバーやランプ、タオル掛けや浴室の壁などに「ラ・マミータ」のセラミックが使われていて、可愛らしい雰囲気である。
 写真を撮ろう、昨日はお洗濯できなかったから二日分の洗濯をしようと思っていたところ、ホテルに到着した辺りから物凄い頭痛が始まった。人生で初めてくらいの強烈な頭痛だ。

 その頭痛の頭で触ったせいか、ホテルの部屋のセーフティボックスが上手く施錠できず、ドアは開いているのに鍵がかかった状態のまま動かせなくなってしまった。どうしようかと途方に暮れていると、タイミング良く響子さんから「大丈夫ですか?」と電話が入る。
 「何ていいタイミングなんでしょう! ごめんなさい、セーフティボックスを壊しました。」と申告して部屋に来てもらう。ホテルのスタッフを呼んでもらったら、最初に来たおじさんだけでは直らず、二人目のおじさんがやっと直してくれた。

 セーフティボックスも無事に修理された。
 頭痛は酷くなる一方だ。
 バファリンを飲んで、そのままベッドに倒れ込んで爆睡する。旅行社からの案内に「昼間はできるだけ起きて散歩したりして動きましょう」と書いてあったことはすっかり忘れていた。
 目覚ましをかける余裕もなく、何となくトイレに起き出したのが19時だった。外は薄暗くて、友人も隣のベッドで寝ていて、「今は朝かしら」などとボケたことを考えながら再びベッドに潜り込む。

 次に起きたのは20時に電話がかかって来たからだ。
 ベルが鳴っていることは夢うつつに聞いていたけれど、出る前に切れてしまった。「8時だ!」「今の電話はきっと彼女だよ。」と二人で大騒ぎして起き出し、慌ててホテルのレストランに向かう。
 そういえば、あれほど酷かった頭痛は綺麗に治っている。
 響子さんに、あれから爆睡してしまったことを伝え、平謝りする。本当に申し訳ない。

 レストランは真ん中に大きな暖炉があって、赤々と火が燃えていた。木のテーブルで、なかなか洒落た雰囲気である。
 夕食は前菜・メイン・デザートをそれぞれ3品ずつくらいから選べるプリフィクス形式だった。
 「このホテルのご飯が一番美味しいと思う。」と響子さん一押しなだけあって、とても美味しい。使われている食器も盛りつけもかなり洒落ている。
 私はキヌアのスープ(卵、香菜、チーズ入り)、湖にいる白身魚のフライ、レモンムースにコカ茶で締めた。
 高地に来たばかりで、しかも頭痛で寝込んでいたのでアルコールは自粛し、ガス入りのお水をもらう。

 響子さんと3人、色々とおしゃべりしながらゆっくり食事して、22時くらいに部屋に戻った。
 シャワーを浴びて、洗濯して、少しのんびりしたらもう0時半である。5時間以上も昼寝をしたのにかなりの眠気を感じて、あっという間に眠ってしまった。

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2004.11.13

「旅」を読み始める

 「旅(新潮社)」という雑誌がある。2004年5月号から新創刊された(でも創刊80周年記念でもあったらしい)、新しいのか古いのか今ひとつよく判らない雑誌だ。
 新創刊号を買って気に入り、その後は毎号購入して読んでいる。
 発売日の10日に購入していたのだけれど、(もう12時を超えてしまっているので)昨日から読み始めた。行ったことがあるところの話も、行ったことがないところの話も、両方楽しい。
 「地球のはぐれ方」もまだ読みかけだし、しばらく楽しめそうだ。

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2004.11.09

「地球のはぐれ方」を購入する&読み始める

 もう2週間くらい前に新聞で広告を見かけ、発売日をチェックするのを忘れていた。
 というか、新聞に単行本の広告が出るのは発売後だと信じていたのですぐに本屋さんに行き、発売前であることを確認したときにはショックだった。
 その後、本屋さんに行くたびに探していた「東京するめクラブ 地球のはぐれ方(村上春樹 吉本由美 都築響一著)文藝春秋社刊」を発見して、無事購入した。
 帰りの電車の中で早速読み始めた。
 最寄り駅に着くまでに、名古屋編の途中まで読むことができた。
 面白い本を読んでいると通勤電車の車中が苦痛でなくなるのが嬉しい。時々、読書に集中しすぎて電車を乗り過ごすのは困ったものだけれど。

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2004.11.07

ペルー旅行記を書き始める

 やっとペルーの旅行記を書き始めた。
 自分が思ったり感じたりしたことと後で仕入れた知識を混ぜたくなくて、気が付けばペルーについて書かれた本やCD-ROMやDVDを見ないようにしていた。とりあえず旅行記という形ででも区切りをつけないとせっかく買った本等々を見るきっかけを掴めないじゃないか、と気が付いたのだ。
 旅行中は、ノートに見たこと聞いたことやったこと感じたことをヒマを見つけては書いていた。それをそのままワープロに直すつもりで打ち始めて、するとノートには書いてない色々なことが思い出されてきて、気が付くとやけに分量が増えている。おかげでなかなか進まない。成田空港を出発してアトランタでトランジットしてリマに到着し、ペンション・カンツータのベッドに倒れ込むところまでしか辿り着けなかった。

 旅行記中のペルー滞在時間は、概ね3時間というところである。

 ペルー旅行記1日目はこちら

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ペルー旅行記1日目

2004年9月17日(金曜日)

 日暮里駅のスカイライナー改札で、12時少し前に友人と待ち合わせした。
 彼女は今朝買ってきたというリュックを背負って、大きめのスーツケースを転がしている。
 去年のケニア旅行で空港宅配サービスのあまりの楽さ加減を知り、スーツケースを成田空港に送っていたので、私はマチュピチュ一泊用の赤いリュックで出発である。

 空港ロビーでアメリカ合衆国でのトランジットに備えてスーツケースの鍵を開け、ベルトを掛け直した。
 旅行社のカウンターで航空券等を受け取り、そのままデルタ航空のカウンターに向かう。
 ツアーでもチェックインは個人で行うようになったと聞いていた。早めに行けばある程度席を選べるかもしれないと13時過ぎ(集合時刻は13時30分)に空港に着くようにしたものの、搭乗券はすでに発券されていた。
 旅行社からは機内預入の荷物はアトランタで一度受け取るように(スルーにしないように)指示を受けたけれど、カウンターのお姉さんはあっさりと「お客様の場合はトランジットの時間も短いですのでリマまで預けてしまった方が良いと思います。」と言う。「ロスバゲの心配はないでしょうか。」と聞くと、「リマまで行く荷物は成田でコンテナに詰めてしまいますので、問題ありません。」という返事だ。スルーで預けてしまうことにした。

 出国審査が混雑していたら困ると思い、早めにゲートに向かった。しかし、9月の祝日を控えているとはいえ、この日は金曜日である。思ったよりも出国審査は空いていた。
 ゲートに行く前に、ここだけは混雑していた免税店で乳液と日焼け止めクリームを買う。小さめのボトルを買って持って行こうと決めていたのだ。この乳液が、乾燥した機内でかなり役に立った。化粧水をスプレーするよりも保湿性は高いようだ。

 15時30分発のデルタ航空DL56便は定刻に離陸し、アトランタに向かった。
 今年1月に日本-アトランタ間には最新機種が導入され、シートは3-3-3になっている。またパーソナルTVもついている。

 離陸してすぐに機内食が出た。
 チキンorフィッシュorパスタと言われてフィッシュを選んだら、供されたのはうなぎだった。Fishと言われて、一体誰がうなぎが出てくると想像できようか。
 メニューはウナギとホタテ丼、サーモンのサラダ、茶そば、パン、パインのケーキである。感動するほどは美味しくなかったし、機内食の連続で人間ブロイラーになりたくなかったので、ご飯は半分くらい残し、パンとケーキはパスする。
 海外旅行で飛行機に乗ったときの習慣で、自分の腕時計を現地時間に合わせる。アトランタは日本時間マイナス13時間。真夜中の4時にご飯を食べている計算になる。(以下はアトランタ時間で表記)

 機内食は到着地の時刻に合わせて出されるそうだ。夕食を食べ終わって3時間くらいで朝食が出てきた。デニッシュ、オレンジジュース、カップケーキ、ブルーベリーヨーグルトというメニューだ。
 朝食後、現地時間に合わせて活動しようと、暇つぶしと練習を兼ねて折り紙を始めた。
 旅行社にウルバンバの民家での昼食をアレンジしてもらったので、お土産代わりにくす玉を折って持参するつもりである。まずは練習用にひとつ折ってみたところ、組み立て終わるまでに30分くらいかかってしまった。

 折り紙が不思議だったのか、隣に座っていたスペイン語スピーカーのお兄さんがくす玉を指さして「それを見せてくれ。」と言う。後で思いついて、飛行機を降りるときにこのくす玉をプレゼントした。
 もうひとつくす玉のパーツを12個作り、あとは組み立てれば完成というところで作業を終了する。組み立てるときに中に飴を入れる計画である。

 眠気には勝てずに2〜3時間寝て(ヘッドレストがあると空気枕は却ってじゃまになることが判った。乾燥予防にアイマスクとマスクをしていたから、周りから見るとかなり妙だったに違いない)、目が覚めた13時頃に昼食が出た。
 チキンorシュリンプでチキンを選んだら焼きそばだった。それにグレープフルーツのサラダ、フルーツ、パンがつく。朝食のときのコーヒーも薄かったけどグリーンティーもやっぱり薄くて、デルタ航空で飲むホットドリンクは紅茶がベターだということが判明した。

 定刻の10分前、14時50分にアトランタに着陸した。折り紙に悪戦苦闘したせいか、飛行時間12時間は意外と短く感じた。
 単なるトランジットでもアメリカ合衆国では入国が義務づけられる。おまけに入国審査でかなり待たされると聞いていたけれど、各列に10人くらいずつ並んでいただけで、スムーズに通過できた。
 セキュリティチェックも3列あり、二人ずつ並んでいるだけでこちらも問題なく通過でき、リマ行きの便の離陸の1時間前にはゲートも確認できた。

 アトランタ空港はだだっ広いだけで、少なくともデルタ航空が離着陸するターミナルはには免税店・売店の類が少ない。Coca Coraの本拠地らしくそのショップが目立つくらいで、時間をつぶすこともできない。それなのに、ミネラルウォーターを買うために右往左往してしまった。

 アメリカ合衆国では入国審査はあるけれど出国審査がない。出国カードをゲート手前のカウンターで取ってもらってくださいという旅行社の指示に従うべく探したけれど、それらしきカウンターがどこにもない。
 ゲートのカウンターにパスポートを持って行くと、「何故こんなものを持ってくるわけ?」という顔をしつつ係員のお姉さんが出国カードを外してくれた。
 観察したところでは、搭乗口でボーディングパスとパスポートを見せたときに出国カードを外しているようだった。

 アトランタを定刻の16時43分に離陸したDL335便は一路リマに向かった。アトランタから見るとリマはマイナス1時間だ。(以下はペルー時間で表記)
 この飛行機のシートは2-3-2で、DL55便よりも小さい飛行機だけれど、ほぼ満席だった。こちらはパーソナルTVがついていない。
 機内の空気の乾燥に負けたらしく喉が痛かったので、トローチをなめてマスクをし、離陸してすぐ寝てしまった。
 18時くらいに夕食が出て、その後もぼーっとしているうちに定刻の22時18分にリマに到着した。
 タラップを降りてバスでターミナルまで移動する。外に出ると、思ったほど寒くない。湿度も高くないように感じて、このときは「意外と過ごしやすいな」と思った。

 ターミナルは工事中のようで、プレハブの建物にバスが横付けされた。建物の中はディズニーランドのようにうねうねと人の列が続いている。ブースは10個くらい開けてあるものの、さばききれずに結構な人数が並んでいる。入国審査のブースにたどり着くまで30分以上かかった。

 待ち時間は長かったものの、入国審査自体はとても簡単でフレンドリーだった。
 しげしげとおじさんがパスポートの写真と私の顔を見比べているので(5年パスポートだからそんなに顔だって変わっていないのに!)、「Same Same」とパスポートと自分の顔を指さして言ってみたら、ニヤリと笑って「Face to Face」などとおっしゃり、ポンとスタンプを押してくれた。

 入国審査にかなり時間がかかったにも関わらず、ターンテーブルにはまだ荷物が出てきていなかった。
 ここで初めて周りに結構たくさん日本人がいることに気がついた。みなブラジル旅行社のツアーの人たちらしい。友人と「あんなに大勢集まるツアーもあるのに、どうして私たちは二人だけなんだろう。」と呟く。
 彼らと私たちの荷物は同じコンテナに入っているだろうからきっと同時に荷物が出てくるはずだ、出てこなかったら彼らに便乗してクレームをつけようとせこい計算までしたけれど、無事にスーツケースが出てきた。途中、開けられた様子もないようだ。
 着陸してからここまでで1時間くらいかかったと思う。

 税関は運試しだった。一人ずつスイッチを押して、グリーンのランプならノーチェック、赤いランプなら問答無用でスーツケースを開けさせられる。列の二人前にいた白人の年配の女性が見事赤ランプを引き当て、私たちは無事に通過することができた。

 空港の外は本当に真夜中なのかと疑いたくなるほど人で溢れていた。
 ツアー会社の人、知り合いの出迎えに来た人、客引きと思しき人。出口付近は何重もの人垣である。
 その中でもひときわ高く掲げられた黄色い看板はとても目立っていて、リマでお世話になるペンション・カンツータの早内さん(息子さん)と会うことができた。
 空港からペンション・カンツータまで車で15〜20分、その間に色々と予備知識を与えてくれる。

 リマは安全な地域と危険地域が離れているけれど、クスコでは2〜3ブロックでがらりと変化するので、街歩きをする前にはガイドさんに確認した方がいいこと。
 以前に5年間で200%のインフレがあり、ペルーの人は自国通貨のソルを信じていないので、お給料をもらうとすべてドルに替えるのが習慣になっていること。
 従ってかなりドルが流通していること。
 リマにはペルーの総人口の1/3に当たる800万人が暮らしていること。
 リマは街が急に大きくなったのでその分汚くなったこと。
 フジモリ大統領が通貨を適正に評価したら1/4000の通貨切り下げになったこと。
 フジモリ大統領が選挙で負けたのは激しいインフレを抑えたことを知らない若い世代が彼に投票しなかったからであること。
 ペンション・カンツータがあるのは安全な地域で、近くにスーパーやショッピングセンター、小さな遊園地もあること。

 正直に言って、フジモリ大統領への評価が高いことが意外だった。
 同時に、車に乗っていても身体に絡みつくような湿気と冷気を感じた。リマでは湿度が100%になることもあるけれど、砂漠地帯に位置しているため雨は絶対に降らないそうだ。

 ペンション・カンツータでは、女主人である早内さん(空港に来てくれた早内さんのお母さん)が迎えてくれた。
 ペンションの看板もなく、併設しているお土産物屋である「ポコ・ア・ポコ」の看板もなく、一見、普通の家のようである。
 塀が高く門には柵もあるから普通の家とも違うのかも知れないけれど、お隣だって似たようなものだ。

 部屋に案内され、荷物を置いてダイニングに行くと、早速コカ茶を振る舞ってくれた。冷たい湿気に震えていた身体に有り難い飲み物である。思っていたよりクセもなく、中国緑茶風の味で飲みやすい。
 お茶請けにしょっぱいバナナチップス(意外と美味である)と甘いサツマイモチップスもいただく。

 あまりよく覚えていないけれど、空港からの車中で私たちは「小腹が空いた」という話をしていたらしい。そしてまた、それをしっかり聞かれていたらしい。
 「大抵の人は機内食の連続でお腹が苦しいと言うのに、お腹が空いていると言った人は初めてだ。」とおっしゃりつつ(かなり恥ずかしかった)、オムライスを作ってくださった。箸休めにと柴漬けも出てくる。こんな夜中なのに申し訳ないけれど、遠慮なく有り難くいただく。ついでに、明日のクスコへの移動に備えてバファリンも飲む。
 3Lという巨大なペットボトルから注いでもらったインカコーラは、甘さを覚悟していたせいか思ったよりもさっぱりしていて飲みやすかった。

 私たちが盛大に飲み食いしたせいか、ペンション・カンツータで飼われている猫や犬が出て来た。
 白い大きな猫が芸をすると言うので見せてもらったら、右手(というか右前足)をスプーンのように上手く使って、縦長の缶から掬ってキャットフードを食べている。確かにこのままキャットフードのCMになりそうな絵面だ。

 0時30分くらいに部屋に引き取り、シャワーを浴びて荷物を整理する。
 「4時出発、3時30分に部屋をノックします。」と念を押されたので、3時に目覚まし時計をセットする。髪が濡れたままじゃ風邪をひくかも、と思いつつ、暖房を強めにかけてお布団に入った。

 ->ペルー旅行記2日目

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フォトコンテストに応募する

 インターネット上で開催されているフォトコンテストに応募してみた。
 調子に乗りやすい私は、昨日の集まりで褒められたことにすっかり気を良くしているのである。

 テーマは「大きさ」だった。
 マチュピチュ遺跡も「偉大」「雄大」という意味で「大きい」けれど、ペルーで「大きさ」とくれば「ナスカの地上絵」でしょう、ということで被写体は決定。
 しかし、改めて見直してみると、鮮明に撮れている写真がない。それは、セスナの飛行高度もあるし、まっすぐ上から太陽光が差しているせいもあるし、そもそもナスカの地上絵自体が消えかかっているという理由もある。
 急旋回しているセスナから撮ったので、アングルなんて考えているヒマもなかった。そもそも肉眼ならともかくファインダー越しでは地上絵を見つけられず、パイロットのおじさんが「翼の下!」と(日本語で!)叫ぶのに合わせて適当にシャッターを切っていたのだ。
 などと様々に自分に言い訳しつつ、でも「その気」になったときに何でもやってみなければという気持ちもあって、えいやっと応募してしまった。
 我ながら、しみじみと身の程知らずな図々しいことをしてしまった・・・。

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