ペルー旅行記6日目
2004年9月22日(水曜日)
朝はかなり早く起きた。目覚まし時計は5時半にセットしたけれど、目覚ましより早く目が覚めた。「朝日に輝くマチュピチュ遺跡を見る」というのも、今回のペルー旅行で私が抱いた野望の一つである。
中庭に出ると、地面もデッキチェアもたっぷりと水を吸っていた。瑞々しいとも言えるし、緑も綺麗だ。ただし、雨が降っていないとはいえかなり怪しげな空模様で曇っている。ワイナピチュも、かなり濃い、霧のような雲のような白さに覆われている。
昨日の夕方と同じように、日の出前の5時半過ぎ頃にワイナピチュを撮影した。
もともと朝食はマチュピチュの日の出を堪能した後で食べようと思っていたし、「早いけど行こうか。」と6時前に部屋を出て遺跡に向かった。今日の分のチケットは昨日のうちに道子さんからもらってある。
遺跡の入口は5時半に開くそうで、「もうすでに開いてだいぶたっています」という風情で入場券を切ってくれた。切符もぎりの横に小さな部屋(家というほど立派ではない)があり、係の人は泊まりこんでいるそうだ。
まずは見張り小屋方面を目指す。この階段が結構急で息が切れる。
見張り小屋周辺にはかなりの数の人が集まっていた。サンクチュアリ・ロッジに泊まった人はもちろん、3泊4日のインカ道トレイルを歩いて来た人たちは遺跡近くで1泊し、朝一番で遺跡に到着する行程になっているようだ。
見張り小屋の方はかなりの混雑だったので、昨日道子さんに連れて行ってもらった、もうちょっと上のアンデネス辺りに陣取る。
振り仰いだマチュピチュ山方面は雲もかかっていない一方で、東の空はかなり厚い雲に覆われている。これは日の出は無理かな、と思いつつ、しばらくじーっと待つ。地面が濡れているせいか、シンとした寒さというか底冷え感が足元から這い登ってくる。
リャマ達はもう起きていて、草を食べている。
日が差し始めるところは残念ながら見られなかったけれど、それでも刻一刻と明るくなってくる遺跡の全景はとても不思議だった。
周りを緑の木々で囲まれているマチュピチュ遺跡は麓からのぼってくる朝霧の通り道になっていて、白く濃い朝霧が次々と遺跡を横断していく。
ワイナピチュにも、遺跡にも、少しずつ日が当たり始めている。寝ぼけながら目覚めつつあるという感じだ。
莫迦みたいにシャッターを押し続けた。
最初は遺跡の全景にばかり気をとられていた。
しかし、考えてみればこれだけ人が少ない遺跡内部を見られることはこの先ないだろう。そう思い当たって、主神殿やインティワタナの辺り主神殿やインティワタナの辺りの写真も撮る。
一人旅らしいお姉さんに身振りで「写真を撮ろうか?」と言ってもらい、友人と二人でファインダーに収まる。お返しに彼女の写真も撮る。
アグアス・カリエンテスからの始発バスが到着する時間が過ぎ、どんどん人が増えて来る。
7時過ぎ、そろそろ朝食を食べに戻ろうと階段を降り始めた。やっと日が当たり始めた遺跡に見とれ、しばしば足を止めてしまう。
そして、ロッジに戻る帰り道でしっかりと道に迷った。「どこから戻れば入口に戻れるんだっけ?」「こんなところを昨日は通った?」と言い合いつつ、太陽の門を通り、朝日を浴びた太陽の神殿も見て、何とか遺跡の入口に戻ることができた。
道に迷って遺跡を彷徨った時間も含めると、2時間近く朝のマチュピチュを堪能した。
ロッジに戻る途中、フィコとすれ違った。「ワイナピチュに登ってきたの?」と聞かれ、その手もあったかと思いつつ、「これからマチュピチュに登るんだよ。」と返事をする。昨日のビスタドームの中で、道子さんもフィコもワイナピチュよりもマチュピチュの方に登ることをお勧めしていた。
フィコの言うことがまた振るっていて、「マチュピチュ山頂にはクスコ州の旗が立っているから、カメラを持っているのならそこで写真を撮るんだと思うとがんばれる」そうだ。
そのまま直接レストランに入って朝食を摂る。ビュッフェで、コーヒー・紅茶と卵料理は別に頼んでサーブしてもらう。そういえば、(一部とはいえ)ビュッフェではない朝食はペルーに来て初めてだ。
チーズオムレツを頼む。本当は「チーズとハムとたまねぎを入れて」と言ったつもりが理解してもらえなかった。多分、色々と入れるオムレツは「スパニッシュオムレツ」という名前になるのだと思う。
窓際に陣取り、外を眺めながらのんびりと朝食を食べた。
部屋に戻って荷物を整理し、約束の時間にロビーに下りて道子さんと落ち合い、チェックアウトの手続きをしてもらう。私がお手洗いに行っている間に、荷物もフロントに預けてくれた。この時点では結構涼しかったので、私は半そでTシャツに長袖のシャツを羽織り、かつカーディガンもリュックに入れてある。
さて、マチュピチュ登山に出発だ。
道子さんは昨日から「マチュピチュの方が緩やかで登りやすいけど、時間が倍くらいかかります。」と言っていた。それもあって、私たちは多分かなり「マチュピチュ登山」をナメていたと思う。
遺跡の入口からまず見張り小屋方面に向かう。その階段ですでに息切れするのはいつものことだ
見張り小屋の横を通り過ぎ、インティプンクに向かう道を少し行ったところに「ここからマチュピチュ山頂まで2時間」という看板があった。ここで時計を見たら、ちょうど9時だった。自分の体力のなさにはかなり自信があるので、多分コースタイムの1.5倍くらいかかるだろう、どれくらいかかるのか測ってみようと思う。
平らな道はすぐに終わり、マチュピチュ山頂に向かう道は石段になった。道子さんの「穏やか」という言葉から、石段ではなくすぐに傾斜の緩やかな坂道に変わるだろうと思っていたらとんでもない。どこまでも階段が続く。実は、コースの(推定)50%以上は石段である。
少し登ったところで、前を行く道子さんが「あら」と声を上げた。何かと思ったら、フィコと彼のお客さんの日本人の女の子二人連れが前を登っている。道子さんは「珍しく登っている人がいると思ったら。」と笑っている。
横を通り過ぎて先に上に向かったけれど、階段が踊り場のようになっているところで休憩しているときに抜き返され、その後は追いつくことはできなかった。
道子さんは長袖シャツに手袋の完全防備体制だ。「山登り仕様ですね。」と聞くと、「虫に刺されることがあるから。」と言う。そういえばと思い出し、リュックから虫除けスプレーを取り出して、みんなでスプレーしまくる。アロマオイルで作った虫除けスプレーなので大量に使っても大丈夫だ
道子さんの足取りを見ているとかなりゆっくりで「どうしてこんなにゆっくり歩くんだ」と思うくらいなのに、自分は同じ足取りで登ることすらできない。すぐに息が切れてしまう。さらにゆっくりゆっくりとしか足が上がらない。それでもなるべく同じペースで足を動かすようにする。
「この道が穏やかなんて! 道子さんのうそつきー!」と心の中で叫びつつ一歩ずつ登って行く。
「あと少し登ったら休憩しましょう。」「もう少し登るとマチュピチュ遺跡が見えるわよ。」「これは○○というお花よ。」と励まされながら、本当に少しずつ少しずつ登って行く。
「こんな山道を整備して石段を作ったインカの人たちって凄いでしょう。」と言われたけど、そんな感想を持てる余裕はない。ただひたすら足元を見て、できるだけ段差の少ない道筋を選んで一歩ずつ無理やり足を上げるだけだ。
45分くらい登ったところで、マチュピチュ遺跡を見下ろすポイントにたどり着いた。階段の踊り場のようになったところで岩に座り込み、休憩する。
この頃には汗だくになって、長袖のシャツを脱いで腰に巻いた。半袖Tシャツになっても全く寒くないし、日差しもほとんどなくて日焼けする心配もなさそうだ。改めて虫除けスプレーを吹き付ける。
飴玉を取り出して3人でなめる。糖分が体中に染み渡る。
いつの間にか足下が石段から土の道(ところどころ土止めなのか石畳風に石がまばらに埋めてある)に変わっていた。
お花の写真を撮るふりで立ち止まり、休憩する。石段ではなくなって、山道のすぐそばにお花が見られるようになった。
鬱蒼とした感じの道で、枝がときどき山道の上まで張り出している。半袖になっていたので「この葉っぱはかぶれたりしないだろうな」と思いつつ腕で避けながら進む。
1時間半くらい登ったところで、またマチュピチュ遺跡を望むことができた。
ワイナピチュが下の方に見え、かなり登ってきたことが実感できる。
ワイナピチュは下から見上げていたときは「とんがっている山」という感じだったけれど、上からはやけに平べったく横に広がった山に見える。
マチュピチュ遺跡がマチュピチュ山とワイナピチュ山との間の山の背に作られていることが一目瞭然だ。
そこから更に15分ほど登って、やっと頂上に立つ旗が見えた。
ほっとするよりも、「まだあんなに高いところまで登るの!」と思う。まだまだ遠く見えたし、まだまだ登らなくちゃいけないように感じる。
道子さんは「ここは急だから後ろを回りこんで登っていくのよ。」と言う。一体どれくらいかかるんだろう?
下に見えるマチュピチュ遺跡は雨が降り出しているのか白く霞んでいるけれど、マチュピチュ山頂の空にはかすかに青空ものぞいているのが救いだ。
その「旗が見えるポイント」から頂上までは見た目よりも近く、15分くらいだった。
頂上近くの山道にインカの石組みの門があった。石段の道は疲労のあまり「凄い」と思わなかった私だけれど、山頂が近くなって余裕が出てきたせいか、こんな上の方まで石を持ち上げて(周辺の石を使ったのかも知れない)わざわざ門を作ったインカの人たちは凄いと思う。
インカの門を通過すると尾根筋に出て景色が見えるようになった。勾配も心なしか緩くなったようだ。
コースタイムより5分だけ早い1時間55分で、マチュピチュ山頂に立つことができた。
山頂にはフィコとさっきの日本人の女の子たちの3人しかいなかった。登山途中で欧米人らしき年配のご夫婦とすれ違ったから、本日のマチュピチュ登山者は8名、登頂者は6名だったのだろう。
彼らは、座り込んでしまった私たちとは対照的に元気で、旗の下で写真を撮ったりマチュピチュ遺跡をバックに写真を撮ったりしている。「少し休めば元気になりますよ。」と言ってくれる。
体を動かさないと、風を遮るものがないせいもあって汗が冷えて寒くなってくる。腰に巻いていたシャツを羽織ったら、そのシャツまでが濡れていて気持ち悪い。それでも着ないよりは暖かいような気がする。
かなり消耗した私は、荷物を軽くすべくリュックに入れておいたウィダーインゼリーを食べる。
座り込んでいたら雨がポツポツ降り出して来た。
やっと歩き出して周りを見る元気が出てくる。クスコ州の虹色の旗の下で記念撮影もする。
雨に霞んだマチュピチュ遺跡をバックに写真を撮る。見慣れないアングルのマチュピチュ遺跡は生きているようだ。
マチュピチュ山頂を6人で独占し、ここからの眺めも6人で独占だ。静かで不思議な感じがした。
ふと見るとフィコが旗の下でジャンプしている。「なんてことをするんだ!」と思わず言ったら、「自分が生まれた村は標高が4000mくらいのところにある。ここなんて自分が生まれた村から見れば谷のようなものだ。」などと言う。
私が言いたかったのは、そんなに広いとは言えない山頂でジャンプなんかして着地のときに滑って転んだら危ないじゃないか、ということだったけれど、今ひとつ伝わらなかったらしい。
ポツポツ程度だった雨がかなり強くなってきた。マチュピチュ山頂を30分くらいで切り上げて(残念!)、傘を差して下山を始める。「ペルーは乾季」と思っていたので、昨日の夜にあれほど凄い雨音を聞いていたのに「雨に降られる」という発想がなかった。それでも折りたたみ傘をリュックに入れていたのは私にしては上出来だ。
道子さんも友人も傘をさしている。
山歩きをしない私の感覚からすると手がふさがる傘よりもレインコートの方が上等の選択肢だったので、道子さんが傘をさしているのに驚く。聞いてみたら「レインコートは蒸れるから。」と言っていた。
足元を水が流れるほどではないけれど、水溜りはあちこちにできているし、石段も濡れて滑りやすくなっている。
気温も下がったようで、汗で濡れたままの服を着ているせいもあってかなり寒い。
石段の下りはかなり膝にも負担が来ているようで、歩いているときは大丈夫でも少し体重をかけて立ち止まるととたんに膝が笑い出す。なるべく慎重に二人よりかなり遅れて歩く。
こんな山中でもつながるのか、フィコが携帯電話で電話をかけている。その横を通り過ぎてしばらくした頃、後ろから何かが近づいてくる気配に振り返ったら、フィコが山道を駆け下りてきたところだった。
思わず「びっくりした!」と言ったら、「ごめんなさい。ミチコかと思った。」という返事である。「急いでロッジまで行かないといけない。」と言うので、慌てて少し広くなったところまで行って道をあけた。フィコは本気で山道を駆け下りて行き、あっという間に見えなくなった。
フィコは多分コケずに最短時間で山を降りたと思うけど、私は下山途中で見事にコケた。
傘が木に引っかかり、それを外そうと少し変な体勢を取ったら、負担が来ていた膝が耐えられなかったらしい。踏ん張り切れずに足を滑らせ、そのまま思いっきりお尻から落ちてしまった。足元の結構大きめの岩に思いっきり尾てい骨を打ち付けてしまう。特に怪我はしなかったけれど、物凄く痛かった。
1時間半かけて見張り小屋まで降りてきた頃には雨はだいぶ小やみになっていた。帽子もTシャツも汗だか雨だか判らない状態でぐっしょり、靴もズボンの裾も濡れている、という酷い状態だ。
体も冷え切っていたし、もう歩きたくない、という心境だ。山頂で会った女の子と「ここがペルーじゃなかったら絶対に途中で登るのをやめてましたよね。」と言い合ったほどだ。
でももちろん道子さんは元気で、もう少し遺跡を見てみましょう、と言う。
見張り小屋の辺りから遺跡を見ると、あちこちにカラフルなレイン・ポンチョを着た集団がいる。
雨もまだ降っているし、ワイナピチュは雲だか霧だかの中にその姿を完全に隠してしまっているのに、遺跡の中は結構な人出だ。
もう1回、太陽の門から遺跡の中に入り、軽く1周する。
マチュピチュ山から降りてきたばかりのぼろぼろの二人、という感じで写真を撮ってもらったときにはまだ山頂が見えていたのに、そうこうしているうちにマチュピチュ山頂も雲の中に隠れ、遺跡も完全に白い雲の中に沈んでしまった。
長いようで短いようでとても濃いマチュピチュ1泊2日が終了した。
ここで終われば物語になるけれど、現実はその後も続く。
マチュピチュ山に登り始めるまですっかり忘れていたけれど、チェックインのときにロッジに預けたパスポートが戻って来ていない。海外では命の次に大切を言われるパスポートなのに我ながら無頓着すぎる。
ロッジのフロントに預けておいた荷物を受け取ったときに道子さんにパスポートについて聞いてもらうと、荷物にくくりつけてある、という返事だ。確かにバッグのもち手のところにビニル袋に入れてくくりつけてあった。
びしょぬれのままいたら風邪をひいてしまう。ロッジのロビーのお手洗いを借りて、着替えのあるTシャツだけでも乾いたものと取り替える。昨日の夜に洗濯して正解だった。
友人のTHE NORTH FACEのリュックはアウトドア仕様なので中に入れたものは濡れなかったらしい。一方、私の新潮社の全員プレゼントのリュックは中にまで雨水が染みこんでいる。ジップロックを多量に持ってきていながらどうして着替えを入れるという知恵が働かなかったのか、しみじみと反省する。
お手洗いの順番待ちのときに、一緒にマチュピチュ山に登った女の子が「ガイドさんを雇いはったんですか?」と話しかけて来た。
関西の人なんだな、と思いつつ、「いえいえ、とんでもない。ツアーに申し込んだら参加者が私たち二人しかいなかったんです。」と答える。彼女たちも同じくツアーに申し込んだら二人しかいなかったそうだ。
2名催行のツアー会社がそうたくさんあるわけもなく、もしかして同じK社なんじゃないかと思ったけど、それを聞く前に順番が来て別れてしまった。
荷物を持ってバスに乗り込み、マチュピチュを後にする。
「雨の中を下山」のインパクトが強すぎて、雨に濡れた体が冷え切りすぎて、はるばる来たマチュピチュを後にするというのに何の感慨も沸かない。
20分の九十九折のハイラム・ビンガム・ロードはなかなかハードで、もともと乗り物酔いに弱い友人はかなり堪えたようだ。線路沿いのレストランに入った頃にはぐったりしていた。ナスカの地上絵遊覧用に酔い止めを持って来ていたけれど、まさかマチュピチュ遺跡で必要になるとは思わずにスーツケースに入れたままだ。
昼食に入った線路沿いのレストランはビュッフェ式で、窓際(ということは川沿い)の席を道子さんが確保してくれる。
どんどん外が晴れて来て、「どうして晴れてくるかな。悔しー!」と叫んでいたら、「今日、日帰りで来た人たちなんて、ほとんど遺跡の姿は見られていないわよ。」とたしなめられた。
しかし、日頃から運動からもっとも遠いところにいて、倉岳山に登った後「二度と山登りなんてするまい」と決心していた私にとって、マチュピチュ登山も下山中に雨に降られたことも、かなりのダメージだ。
それでも温かいものを食べているうちに少しずつ元気が出てきて、マッシュしたジャガイモにレモン風味をつけて、アボガドなどとケーキのようにした料理(ソル・イ・ルナホテルで響子さんに味見させてもらって以来、結構気に入っていた)や、鶏肉の焼いたものなどもちょっとずつ頂く。
珍しく食欲を示さない私たちを心配して、道子さんがフルーツを持ってきてくれる。オレンジは見て判るけど、もうひとつ持ってきてくれたフルーツがよく判らない。
外見は口をあけていないざくろみたいな感じで、ナイフで半分に割ると皮は発泡スチロールのように乾いている。パッションフルーツに似ていて、パッションフルーツの実は黄色いけど、こちらは白い。やっぱり中に黒い粒があってそれは種のようだ。「種ごと食べちゃっていいのよ。」と言われる。
つるんと食べられて、パッションフルーツほど酸っぱくなくて程よく甘い。お土産にもう1個もらう。そんなに気に入ったのに、このフルーツの名前を覚えていない。聞いたのは確かなのに、困ったものだ。
我々二人のあまりの憔悴振りに驚いたのか、道子さんから、今日のフォルクローレ・ディナーショーは明日の夜に回しましょうか、と言ってくれる。「明後日の朝、早起きしなくちゃいけないから、今日の夜に設定してあるのだけれど。」と気遣ってもらったけど、早起きよりもこの体調の悪さと疲労の方が問題である。ありがたく、明日の夜に変更してもらう。
早めに駅に行きましょうと、アグアス・カリエンテスの駅に向かった。
駅は庭付きで、その庭に入るためにはチケットを見せないといけない。そして駅の入口の周りにはお土産物屋の屋台がテント村のように並んでいる。
ベンチに荷物を置き、靴下を履きかえる間だけ待ってもらい、道子さんに荷物を見ていてもらうことにして、電車の切符を忘れずに持って屋台を見に出かける。
お土産の屋台村を1周すると、インカコーラTシャツとクスケーニャビールTシャツの品揃えがここがダントツであることが判った。一方、特に「マチュピチュ・グッズ」や「アグアス・カリエンテス・グッズ」はないようだ。
屋台村やそばを流れる川の写真を撮る。
この川を上流に向かったところに温泉がある。次回マチュピチュに来ることがあったら、ぜひペルーの温泉に入りたい。
電車は15時半発の予定だったので、15分前くらいに待合室へ戻った。
帰りの電車では、寒くなるに従ってどんどん体調が悪くなってくる気がした。飲み物サービスがあってインカコーラをもらって飲んだけど、あとは2席を占拠してひたすら寝ていた。
途中でベロニカが綺麗にまるで浮き上がっているかのように見えたけど、そのときも寝ていたせいで出遅れ、写真を撮り損ねた。104km地点の橋も帰りこそ写真に収めようと思っていたけど、どうもぐったりと寝ている間に通り過ぎたらしい。
森の中で電車が止まったなと思っていたら、そこは単線複式の「複」の部分で、アグアス・カリエンテスに向かう電車とすれ違った。
外も暗くなり、窓からの風景も楽しめなくなってきた頃、車内に流れるBGMがそれまでのセミ・クラシック調から民族調に変わった。
通路で軍手のような生地の白いマスクをかぶったお兄さんが民族衣装風かつ白っぽいちんどんや風の格好で、踊りだす。そろそろ寝に入っていたお客さんたちもさすがに目を覚まして、手拍子を打ったり写真を撮ったりし始める。こうやって寝入ったお客さんを強引にでも楽しげに起こした後に始まるのはもちろんファッションショーだ。
客室乗務員のお兄さん・お姉さんがモデルになって、アルパカのセーターなどを着て車両の中を練り歩く。
ビスタドームのアナウンスは英語とスペイン語だったけれど、このショッピングタイムの説明だけは日本語が加わったのには笑った。とりあえず笑うしかない。
お兄さん・お姉さんが次々と着こなしていたそのセーターは20%OFFだったらしい。ファッションショー終了後にお姉さん達がワゴンに山盛りにして売り歩き、結構な勢いで売れていた。なかなか商売上手だ。
クスコに近づいて標高が上がり、夜になってくるにつれ、車内もだんだん寒くなってくる。
半そでTシャツの上に赤いコートを羽織っただけの身体はどんどん冷えてきて、パジャマ用の長袖Tシャツをバッグから引っ張り出して着る。それでも寒い。
アグアス・カリエンテス駅前の屋台か、ビスタ・ドームの車内で上に羽織るものを買えば良かったなぁと後になって思った。
ポロイの駅が近づくと、何となく周りの様子が慌ただしくなった。道子さんも、携帯電話を取り出してしきりと電話をかけたり、乗務員のお兄さんと話したりしている。
どうしたのかと思って聞くと、クスコ市内で午前中にコカの摘発があったからか、午後にカーレースがあったからか、理由ははっきりしないけれど、とにかくクスコでは道路を封鎖されていたらしい。今はその封鎖も解かれたけれど、クスコから来るはずの迎えの車がポロイに来ていないかもしれないそうだ。
ポロイからクスコまでは車の方が断然早いので、ポロイまで車で迎えに来てもらい、そこで電車から乗り換えて帰る手はずになっていたそうだ。
ポロイ駅に到着後、道子さんが様子を見に行ってくれたところ、大型観光バスが1台と他何台かの車がいるだけで迎えの車は来ておらず、そのまま電車でクスコまで戻ることになった。
そうして偶然に目にすることができた、クスコの夜景が本当にきれいだった。全体的に黄色っぽい暖かい感じの光がとても美しく、寝ていた私たちを道子さんがわざわざ起こしてくれる。
電車でのんびり戻るのも悪くなかったな、と思った。スイッチバックがあるから、時間はかかるけど逆に夜景をたっぷりと見ることができた。
クスコ駅に到着したのは何時ごろだったか覚えていない。
道子さんのすばやい行動で一番最初くらいに駅の外に出て、迎えの車を発見する。今日はダニエルではないらしい。車の色も赤に変わっている。
駅からホテルまでは車ですぐだ。「今度は1階の部屋がいいね。」などと言い合ったけれど、二日前と同じお部屋だった。部屋自体は全く問題ないけれど、4階まで階段で上るのがつらい。
道子さんに「近くに金太郎という日本食レストランもある。」と教えてもらったけれど、外にごはんを食べに行くのはパスしたい気分だ。友人に「カップうどんがあるからそれでいい?」と聞いたらOKだったので、ホテルのお兄さんにポット一杯のお湯と毛布をお願いする。
お兄さんは、口の開いたポットでお湯を持ってきてくれた。そもそも標高が高いクスコでは沸点が低いのにさらに冷めてるんじゃなかろうかと思いつつ、カップうどんを作り、ついでにお茶を煎れる。お昼を食べたビュッフェレストランからもらってきたフルーツとで今夜の夕食にした。
とてもじゃないけど、この日にフォルクローレ・ディナーショーに行っても楽しめなかったと思う。体調を見かねて変更を提案してくれた道子さんに感謝である。
マチュピチュ山からの下山でびしょぬれになった服を一気に洗って干す。帰りの車中では「ランドリーサービスにまとめて出してやる!」と思っていたけれど、ホテルに着いてランドリーサービスの値段表を確認し、もうすっかり乾いたズボンを見たりするうちに「まあ、いいか」という気分になってきて、Tシャツと長袖シャツと下着類を洗うにとどめた。
ホテルに預けて行ったスーツケースや1泊用のバッグを整理しているときに、撮り終わったXDピクチャーカードがケースごとないことに気がついた。最後に見たのはどこだろうと思い返そうとしてもはっきりしない。スーツケースと1泊用のバッグとリュックを全部ひっくり返してもどこにもない。
オリャンタイタンボの遺跡でカードを交換しているので、失くしたとすると、ワイポ湖を通ってのドライブ中(車の中)か、クスコのホテル、マチュピチュのホテルのどこか、ということになる。
とにかく荷物の中にないことだけを確認し、友人に「カードがない。ショックを受けたから寝るね。明日の朝にもう1回探してなかったら、道子さんにホテルの人に聞いてもらうわ。」とだけ言って寝てしまった。
友人が言うには「寝るね。」と言ってから本当にあっという間に寝息をたてていたらしい。今にして思うと申し訳ない限りだ。
もちろん、ショックだけじゃなく、昼間の登山の疲れが出たのだと思う。やっぱり慣れないことをするとその揺り戻しが激しい。多分、寝たのは22時半過ぎだったと思う。
2005年5月22日 写真へのリンクを追加
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