ペルー旅行記8日目
2004年9月24日(金曜日)
朝6時にロビーで道子さんと待ち合わせする。この日の朝食もマチュピチュに向かった朝と同じ簡易バージョンで、スポンジケーキとクロワッサンとフルーツとコーヒーで済ませた。私としてはこれでも軽いつもりである。
尾てい骨の痛みも残っているし、4階から重いスーツケースを下げて降りてくる根性はなく、ポーターのお兄さんにお願いする。
マチュピチュ下山途中でコケたときに骨を折った傘は捨ててしまった。外を見ると普通に雨が降っていて「早まったか」と思う。
この朝のドライバーは昨日の夜遅くにジャングルから戻ってきたダニエルで、車中を探してくれたのだけれど、やっぱりxdピクチャーカードは発見されなかった。半ば以上諦めていたとはいえ、やっぱり悲しい。
雨の中を空港に向かう。ロビーはかなり混みあっている。道子さんがチェックインしてくれた。
そのままロビーの端っこに連れて行かれ、「ここで待っていて。」と言われる。雨のため、リマからクスコに来る(この折り返しに乗る予定だ)飛行機がまだリマを出ていないらしい。
NAO TOURのお客さんがもう一組、日本人男性の一人旅の方がいて、彼と来ていたペルー人ガイドさんが空港に残ってくれ、私たちはNAO TOURの事務所で飛行機待ちをすることになった。
車で事務所に戻る途中、道子さんは私たちが泊まっていたホテル・ロス・アンデスで途中下車した。次のお客さんと待ち合わせをしているのだろう。
そのままNAO TOURの事務所に送り届けられた私たちは、直子さんと、直子さんがやっているペンションのお客さんと一緒にテーブルにつき、NHKの衛星放送など見ながら寛いだ。外は雨が降り続いている。
空港で一緒になった男性は、一人でトレッキングに来たそうだ。その話が出たからか、テーブルにいた割と年配の男性が、数千メートル級の山に登った話など披露してくれる。
馬と一緒に行くから登りは馬に揺られていればいいけれど(それだけでも結構な体力を消耗すると思う)、急な下り坂ではとても馬に揺られているどころではなく、歩く必要がある。
急すぎて馬で下れないような山道を自分の足で下っていくと、あっという間に膝をやられてしまうそうだ。
それでも引き返すこともできず、とにかく進むしかないらしい。
日本茶を煎れていただき、犬と遊んだり、お酒を持っていると手荷物検査も厳重になるしスーツケースも開けられるという話を聞いたり、名前を忘れてしまった果物をご馳走になったり、旅のメモを書いたりして過ごす。
トレッキングの彼は、今日はクスコからリマ、そのままナスカの地上絵の1日ツアーに行く予定だったらしい。この遅延でナスカの地上絵には行けないことが確定し、「頼むから夜の帰国便には間に合って欲しい。」と呟いていた。
パンフレットで旅程を見たときに、クスコに向かう前ではなく旅の最後にリマの観光とフリータイム(ナスカの地上絵ツアーはオプショナルで申し込んだ)があるのは何故だろうと疑問だったけれど、ここに来て納得した。
「リマークスコ間の国内線はちゃんと飛ばない」という前提で組んであるのだろう。
実際に今年の8月にはストで国内線が飛ばない日もあったらしい。
そうこうしているうちに雨は降り続いているものの空が明るくなってた。雨も止み、空港に残ってくれたスタッフから「飛行機がリマを飛び立った」という電話が入った。直子さんに見送られて再び空港に向かう。
セキュリティチェックを受けて搭乗口へ向かおうとしたら、私の手荷物が引っかかった。
そんな怪しいものは入れていないはずなのにと思っていると、係員のお兄さんが「英語しゃべれる?」と聞く。「少しだけ。」と答えると、一瞬困ったような顔をして「Metal?」と聞いてきた。金属???
ハタと思い当たって、S字フックを取り出してお兄さんに渡す。そういえば持参したS字フックははステンレス製だ。ためすがめすしていたものの、危険なものではないと判断されたらしい。「OK.」と返してもらった。
飛行機はまだ到着しておらず、搭乗口のサテライトの先は空っぽだ。
何軒かお店もあるものの、長く時間潰しできるほどの品揃えではない。インカクロスのアクセサリに少し魅かれたけれど、銀はすぐ黒くなってしまうので諦める。
そのうち搭乗のアナウンスがあり、リマから飛んできた飛行機は点検も給油もしないままとんぼがえりする勢いで、定刻の2時間遅れで離陸した。
リマまで1時間くらい熟睡した。
リマ到着は11時過ぎくらいだった。空港を出たところでリマでのガイドである秋田さんと会う。
リマ市内観光の予定も2時間ほど押している。このまま直行すれば衛兵交代が見られるということで、ペルー政庁に向かった。
衛兵交代は12時からで少し時間があったので、アルマス広場を歩いた。この広場をカテドラルや大統領府、市庁舎が囲んでいる。
今の大統領がリマ市長だったときに大統領だったのがフジモリさんで、その時代には市庁舎のベランダにある大砲は大統領府に向けてセットしてあったそうだ。フジモリさんが海外に出てしまうと「敵はいなくなった」と言って定位置に戻したそうだから、相当嫌っていることは確かなんだろう。
ペルー政庁で衛兵交代が始まった。「1mくらい柵から離れなさい。」と言われる。でも、カメラを構えていると柵の近くまで寄って行っても全くOKなのが謎である。観光客へのサービスなのだろうか?
何となく調子の外れた楽団が演奏している。この曲聴いたことがあるけど何だっけ? と思って聞いたら、友人にあっさりと「コンドルは飛んで行くじゃん。」と言われた。言われてみれば確かにその通りだ。
旧市街をぶらついて博物館に行きたいというトレッキングの彼とはここで別れた。
彼の荷物を載せたまま(出発までペンション・カンツータで預かる約束ができていた)、車は教会の多い地域の細い道を走る。ピンク色の可愛い教会や黄色の教会など、本当にたくさんの教会を見た気がする。
我々は、シーフードレストランでランチである。
友人が白ワイン(チリワインだったらしい)、私はpilsenというビール、秋田さんはチチャ・モラーダを頼んだ。
まだ飲んだことがなかったので、お言葉に甘えてチチャ・モラーダの味見をさせてもらう。ムラサキトウモロコシのジュースで、見た目はグレープジュースをドロっと濃くさせたような感じ。見た目よりもさっぱりした味だ。
「ペルーのワインがなくて残念でしたね。」という話から、イカ・ワインの「TACAMA」という銘柄が美味しい、ピスコでは「サン・アントニオ」という銘柄が美味しい、ピスコサワーにしては勿体ないから自分はロックで飲んでいる、などと教えてもらう。
お料理は、秋田さんに適当に頼んでもらった。このツアーは、ごはんのメニューが予め決められていないところが良い。
定番のミックストのセビッチェに、ウニのレモン〆、かに玉(中華風のあんかけではなく炒め物)、シーフードのチャーハン、四谷のペルー料理屋でも食べたトウモロコシのスナックがお通しのような感じで出てきて、あと1、2品あったと思う。
お酒を飲みながら、ゆっくり時間をかけて信じられないくらいたっぷりとしたランチをいただいた。
リマは、湿度がもの凄く高いけれどもその分だけ暖かく、海の幸が美味しい。今回は天野博物館にしか行けないけれど博物館も充実している。クスコに比べて暮らしやすいそうだ。
秋田さんは山登りやパラセーリングなどもするそうで、山系のガイドが必要になると声がかかると言っていた。
マチュピチュでウエディング写真を撮ったという話から、「マチュピチュでお会いしましたよね。」「ああ、あのとき道子さんと一緒にいたお二人ね。」「ソル・イ・ルナホテルで夕食のときにも会ってるよ。」と話が弾んだ。
その後は、パラセーリングで一緒に飛びましょうという話になり、恋人達の公園に向かった。
公園は海沿いの崖っぷちにあって、隣の空き地には、大勢のパラセーラーが集まっていた。今は平日の昼間だぞと思ったけれど、リマではいい風が吹いているとなれば仕事を放っておいて集まってくるのは普通のことだそうだ。
今はまだ風が弱いなどとおっしゃりつつ、秋田さんは私たちを置き去りに飛ぶ準備を始めている。
これは太平洋なのね、ずーっとまっすぐ行けば日本に着くんだなぁと思う。
ペルー人の少年にスペイン語で話しかけられ、「判らないの、ごめんね。」と日本語で言いつつ記念撮影などしている間に、秋田さんが飛んでいた。風がないと言いつつ、結構遠くまで行ってしまう。
戻って来られるのかしらと思っていると、途中でUターンして飛び立った場所に着地していた。ある程度風がないとタンデムは難しいらしく、飛ぶのは次の機会ということになった。残念である。
改めて隣の恋人達の公園に行く。今の大統領がリマ市長だったときに作った公園だという。
公園のど真ん中に抱き合っている恋人同士の巨大な像がある。日本じゃ無理だなという名所だ。
その像は、グエル公園のようなタイルで飾られてカーブを描いたベンチに囲まれている。ベンチの背もたれや座面にはスペイン語で詩が書かれている。
そのいくつかを「直訳だよ。」と言いつつ秋田さんが訳してくれたところによると、思いっきりセンチメンタルな愛の言葉が書き連ねられてあるようだ。
「これって誰が書いたんだろうね。」「工事の人が勝手に書いたのかも。」などと言い合い、「女二人じゃあねぇ。」と言いつつ写真を撮ってもらった。
15時半から天野博物館の予約が取ってあった。
住宅街の少し奥まった路地に面して博物館はある。特に目立つ看板も出ていないし、そもそも普段は門が閉められていると思われる。
アルマス広場で別れたトレッキングの彼も、K社の別ツアーに参加していたらしい女の人も自力でたどり着いていたけれど、私一人だったら無理だったと思う。タクシーの運転手さんも探してぐるぐる回っていた、という話だ。
入口で名前をチェックしてもらい、サイン帳に記名する。中に天野博士だと思われる人の写真が飾られているのが見える。
15時半は日本語による説明の回で、お客さんはほぼ全員が日本人だった。30人くらい集まっていただろうか。
博物館のスタッフによるツアーの最初に、全員に対してペルーの地図と年表を元に、ペルー史のアウトラインの説明をしてくれる。
チャンカイ文化に着目して調査・研究を始めたのは天野博士が初めてだったこと、インカ帝国の文化はそれまでの数々の文化の土台の上に作られていること、説明の女性がスペイン人を憎んでいることがよく判る。「今でも私、悔しいんですけど。」とスペインの侵略について説明してくれた。
その後、二手に分かれて説明を聞いた。私が入った方のグループは、土器の部屋から説明が始まった。
空いているときには手にとったりできるようで、すべて開閉可能なガラスケースに入っている。今日は大勢いるせいか、そういう雰囲気ではない。残念だけれど、仕方がないだろう。
チャンカイ文化は白黒の文化だったこと(あまり赤く塗られた土器などはない)。
障害者をモチーフにした像や壷などがあり、この頃には「人は平等である」という意識がすでにあり障害者も大切にされていたと伺えること。
ペルー原産のジャガイモや唐辛子といった植物をモチーフにした壷も多いこと。
ペルーには何百種類というジャガイモがあり、説明してくれた女性は(多分農業研究所のようなところで)そのうちの数十種類を食べたこと。
お魚をモチーフにした像もあり、ペルーの魚介類は美味しくて特にヒラメがお勧めなこと。
この時代の土器は非常に素朴で色遣いも少ないけれど、どの時代の壷よりも早くチチャを発酵させることができること。
次から次へと説明してくれる。
技術的にこの時代は非常に高度なものがあって、入口に置いてある壷は底から直角に立っている。底を直角にする技術は他の時代にはほとんど見当たらないそうだ。その壷はガラスケースに入っていなかったので、内側に手を伸ばしてしっかり触ってみたりした。
次は織物の部屋である。壁にポンチョのような「一切カットしていません」という織物が飾られていたり、顕微鏡が置かれたりしている。
その顕微鏡はビーズに糸を通すところが拡大されていて、そんなに細い穴に糸を通す技術が400年前にあったなんて信じられない! というレベルの精密さだと説明がある。
案内のお姉さんの専門は織物らしく、土器の部屋よりもさらに熱心に説明してくれる。
お客さんの中にも織物を研究しているという方がいらして、専門的な話で盛り上がっている。よく判らないなりに、そんな話を聞いているのも楽しい。
お姉さんは旅行で立ち寄った天野博物館所蔵の織物に魅せられて何日も通い詰め、そのまま定住して半年後には説明のボランティアを始めていたそうだ。
ペルーの織物を集めれば世界各地のありとあらゆる織物の種類をカバーできると言われるくらい、様々な織物があるという。
また、チャンカイ時代のお墓からは、王様から庶民まで等しくしっかりとした織物の服を着て出土しているそうで、庶民にまで行き渡っているということがチャンカイ時代の文化と生活の豊かさを証明しているのだ、と力強い説明がある。
絣のような布もあり、「この渋さを理解できるのは、チャンカイの人と日本人だけじゃないか。感性に相通じるものがあるのではないか。」とお姉さんが一際熱心に説明していた。
またキープの実物もあった。今はその読み方は失われて久しいけれど、キープでかなり色々なことを表現できていたらしい。
天野博物館の展示室は土器と織物の2室のみで、この2室を1時間かけて説明してもらった。
スーベニアショップでは、かなり迷った。この博物館は入場無料なので、入場料と寄付を兼ねて何か買いたいし、また秋田さんからもお買い物が推奨される。
結局、土器の紋様の魚拓(サルカニ合戦のような意匠が浮き彫りになっている)を1枚買うことにした。もうちょっと安かったら何枚も買ったのだけれど仕方がない。確か20ドルくらいだったと思う。
これでリマ市内観光は終了だ。博物館で会ったお二人も一緒にペンション・カンツータに向かった。
天野博物館も判りにくいところにあったけれど、初めて明るい時間に行ったペンション・カンツータも相当に判りにくい。看板も出ていないし、表札も出ていないし、外観がペンションらしかったりお土産物屋らしかったりもしない。
前に泊まったお部屋は深夜着早朝発の人専用だったようで、今回はお土産物屋を抜けた先の3階のお部屋に案内された。今日は宿泊客が2組だけだそうで、ベッド3つのトリプルルームだ。隣にトイレ兼シャワールームがあって、奥にはテレビとソファのあるスペースがある。
しばし休んだ後で、近所にあるスーパーマーケットに出かけた。大きな荷物は入り口で預けなければいけないそうなのでリュックは置いて行く。
帰りの目印(柵があるのはうちだけよ、と言われた)とインターフォンの位置を教えてもらって出発である。
ショッピングセンターと移動遊園地っぽいけれども恐らくは常設の遊園地の横を通り抜けると、その奥に巨大なスーパーマーケット「e-wong」があった。
入ってすぐのところでお総菜やアイスクリーム、パンなどが売っている。
少し奥に入ると普通のスーパーマーケットらしい陳列状態になる。
日用品の棚でコカの歯磨きを友人が探していたけれど見つからなかったらしい。
スパイスの棚もあって買おうかと思ったけれど、スペイン語会話集を置いてきてしまってニンニクしか判別できなかったので諦めた。
響子さんが言っていたとおり、お菓子は外国製品がほとんどだった。「スーパーでペルー土産を買う」のはちょっと難しいようだ。
何より凄かったのは生鮮食品で、お魚は砕いた氷の上に姿のままどんっと置いてある。中には熱帯魚のように綺麗なブルーのお魚もある。
野菜売場ではジャガイモが何種類も何種類も並んでいる。パパイヤも何種類も売っている。恐らくキロ単位で書かれていると思われる値段も嘘のように安い。りんごなどの日本でも見慣れた果物も売っている。
結局、ミネラルウォーターだけを買って、もうすっかり暗くなった頃にペンション・カンツータに戻った。
併設のお土産物屋さんである「ポコ・ア・ポコ」でお土産を探していたら、お夕食に呼ばれた。
ダイニングスペースには、今日はナスカまで陸路で行ってきたという響子さんがいた。秋田さん、早内さんご夫婦、仕事で長期滞在しているらしい男性がいて、食卓のメンバーはこれで全員だ。
食卓には完全手作りの和食が並んでいた。お蕎麦があり、天ぷら、ウニのお刺身があり、お漬け物が山盛りである。ビールは? と聞かれたけれど、ごはんがついた完全和食だし、ダイニングテーブルを囲んで完全に「団らんの夕食」という感じだったので、遠慮する。
デザートにマンゴーが出てきて「時期じゃないんだけど。」と早内さんが言うのを聞き、今までホテルやレストランでお目にかからなかった理由がやっと判った。
響子さんと秋田さんは早々に食べ終えてお客さん達を送りに空港に向かい、早内さんが翌日の予定をクスコに電話して確認してくれて、明日は朝6時に出発と言われる。朝ごはんは5時半だ。
その後、お風呂を勧めてもらう。ペルーに来てバスタブでお湯につかるのは初めてで、「やっぱり日本人はお風呂だよね。」と言い合いつつ、のんびりゆっくりさせてもらった。
窓から入ってくる車のクラクション音が結構大きいのを気にしつつ、明日のナスカの地上絵に備えて0時くらいに寝た。
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