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2006.07.17

熊野古道旅行記1日目

2006年4月29日(土曜日)


 今回私が参加した「熊野古道を歩く」というツアーは、現地(紀伊田辺駅)集合、現地(勝浦駅)解散で、往復の交通手段は各自に任されている。
 東京から新幹線で新大阪に出て、特急スーパーくろしお13号に乗ると集合時間にちょうど良く現地に着ける。しかし、何となく疲れそうな気がしたのと、早割で航空券が安く購入できたので飛行機で行くことにした。


 9時10分離陸予定の南紀白浜行きJAL1381便は、羽田空港が混雑していたため30分近く遅れて離陸した。その時点で何となく嫌な予感がしていた。案の定、予定より10分遅れで到着した飛行機を、空港から白浜駅に行く空港連絡バスは待っていてくれなかった。
 そもそも、南紀白浜空港に到着した観光客は、ホテルから迎えのバスが来ているかレンタカーを借りるかする方がほとんどで、連絡バス利用者は少ないようだ。
 仕方なくタクシーで白浜駅に向かった。


 午前11時くらいに白浜駅に到着した。
 時刻表を眺めていたら、駅員さんが「どこへ行きたいの?」と声をかけてくださる。紀伊田辺駅に行きたいと答えると、11時25分発の特急なら890円、12時2分発の各駅停車なら190円だと言う。
 駅のバス停で確認すると、11時12分発のバスがある。こちらを選択し、30分くらいで紀伊田辺駅に到着した。500円。途中、通りかかった市立美術館でシャガール展をやっていて、事前に知っていれば立ち寄ったのにと少し悔しい。


梅ひろめ寿司 お昼ごはんを食べようと田辺駅前をぶらぶらしていると雨が降り出した。るるぶ和歌山に載っていた、駅から5分くらいのところにある宝来寿司に入る。
 このお店では、サバを芯にして田辺近海でしか育たない珍しいわかめの一種である「ひとはめ」で巻いたひとはめ寿司が味わえる。私は、迷った末、同じひとはめだけれど梅酢でご飯に味と色を付け海老を芯に巻いた梅ひろめ寿司と赤だしのおみそ汁を頼んだ。ちょっと少なめだけれど、美味しかった。


 南方熊楠旧邸は工事中だし、雨も本格的に降ってきたし、コインロッカーは見つけられないしで、仕方なく駅で集合時刻を待った。
 雨が小降りになったので駅から徒歩10分くらいのところにある闘鶏神社に行こうかと思ったけれど、私自身はともかく荷物を雨に濡らしたくない。
 闘鶏神社は元は新熊野権現社という名前であり、田辺から先の熊野古道があまりにも辛いので、ここにお参りすることで参詣したことにしてしまった人も多かったという神社だそうだ。何となく私に似つかわしいと思ったけれど、結局行かず仕舞いだった。


 新大阪からの特急が15分ほど遅れ、集合時刻の13時20分を少し過ぎて、添乗員さんも含めて全員が集合した。総勢15人、添乗員さんを含めると16人の一行だ。うち9人は女性である。
 そのままマイクロバスに乗り、出席を取りつつ熊野三山聖域の入口として重視され、そのそばに熊野古道館も建つ、滝尻王子に向かった。
 滝尻王子で、今日と明日の2日間お世話になる、修験道の山伏でもある語り部の宇江先生と合流した。
 熊野古道館に立ち寄った後、簡単な予備知識を授けてもらう。


 例えば。
 熊野古道の沿道に祀られている「王子」(この滝尻王子もそのひとつである)は、簡単に言うと熊野三山の神様の子どもの神様であること。
 白河院や後鳥羽院が参詣したときには各王子で定められた儀式を行い、滝尻王子でも歌会が催され、そのとき作られた短歌も残っていること。
 こうした儀式は信仰心を高めるために行うもので熊野三山に詣でるまでの行きの道筋で行われ、帰りには行われない。したがって京都から行きは12〜13日、帰りは7日くらいの行程であったこと。
 ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」という名前で登録されており、「霊場」には熊野三山の他に高野山や吉野山も含まれていること。
 参詣道のひとつである中辺路は、地元では「なかへち」と読み、世界遺産にも「なかへち」と登録されていること。
 参詣道として登録されている道は総延長500kmにも及ぶこと。
 和歌山県は人口108万人、和歌山市の人口が30万人で最も多く、その次がこの(今いる)田辺市で人口8万人くらいであること。
 田辺市は「熊野」の西の入口に位置し、東の入口は三重県の紀伊長島町であること(奈良県はすぐ隣だけれど、熊野に含まれないこと)。
 熊野は山岳地帯で暖かく、雨が多く、農業はあまり奮わず、林業と漁業が盛んなこと。平地が少ないため大きな工場なども進出しておらず、自然が守られていること。


 そんなお話を聞きつつ、歩けば滝尻王子から高原の里を通って5時間の道のりをマイクロバスは走り抜けてしまった。そこから今日は少しだけ歩いてみましょうと言う。
 牛馬童子を目指す。
 雨がぽつぽつ降っているのでみんなレインコートを着たり傘を差したりしたものの、実は熊野古道に入ってしまえば木立が雨を遮ってくれる。


牛馬童子 歩き始めて15分くらいで、熊野古道を歩く人々に大人気の牛馬童子に到着した。いくら運動不足の私とはいえ、これくらいなら楽勝である。
 向かって左側が牛で、右側が馬、2頭を並べてその上に跨って旅した花山法皇の姿を写したといわれているが、普通の人にこんなことをできるわけがない。実際は、「熊野古道をゆくときには、馬のように早く、牛のようにねばり強く」ということを表しており、花山法皇も牛と馬それぞれが適した場所で適した方に乗って旅をしたらしい。
 牛馬童子の隣に建っているのは、役の小角という熊野古道を開いた修験者の像である。


 また、宇江先生から、この辺りの珍しい風習を教えていただいた。
 毎年11月23日に熊野古道の峠から月を見ると、月が三つに割れて見えるという言い伝えがあり、真冬に月の鑑賞会を開かれているという。
 さまざまな自然条件が揃って初めて見ることができる。宇江先生もまだ二つに割れた月までしか見たことはないそうだ。


 牛馬童子から歩くこと10分くらいで、暗い木々の向こうにぱっと明るい田園風景が開けた。
 曇っている今日でも鮮やかだったから、晴れていたらかなり印象が強かっただろうと思う。そこが近露の里だった。
 この「近露」という名前にもいわれがあり、この上の箸折峠で花山法皇がお昼ごはんを食べようとしたところ、お箸がなかったので、萱を折って箸の代わりに差し上げたという伝説が残っているという。その際、お箸から落ちた露が赤かったので花山法皇が「これは血か露か」と言った、らしい。
 いわれというよりダジャレである。


 近露の里は、田辺から歩いて来た場合に熊野本宮大社までのちょうど中間点に位置する。そのため大正時代くらいまで(一般の人が歩いて熊野詣でをしていた時代まで)は、宿場町として栄えていたそうだ。
 里の中に「近露王子」もある。元は社があったけれど、今は残っていない。


 熊野神社は、熊野だけにあるのではなく、日本全国に点在している。特に関東以北に多いらしい。
 人々は、それぞれの地域の熊野神社を氏神様としてお祀りし、一生に1回は熊野詣でをしたいと願い、熊野講を作って熊野詣でを行ってきたそうだ。熊野講では、うち一人か二人を「宿取り」として先行させ、その「宿取り」の人は代々伝えられてきた宿の評判帳を見て宿を決め、交渉する。宿が決まると、その「講」の旗を宿の玄関に立てて目印とし、さらに先行して次の里に向かったという。
 この辺りでは、関東から来た人々を「関東べえ」東北から来た人々を「奥州べえ」と言う。関東や東北から来た人々が「**べぇ。」と必ず語尾に「べえ」を付けることから来た呼び名だそうだ。


 元々は近露から継桜王子まで2時間くらい歩く予定だったけれど、この日は雨で足下もよくないということで、バス移動に変わった。ちょっとほっとする。
 継桜王子は、杉の古木に囲まれている。明治39年に神社合祀令によって伐採されようとしたときに、南方熊楠が保護運動を起こして守った鎮守の森である。他の王子では杉の巨木はことごとく切られて売られてしまったらしい。
 この階段を上るのは結構大変だったけれど、上りきったところにお社がちゃんと残っていて、そこには狛犬が並んでいた。何となく珍しいような気がする。単に私が見落としただけかも知れないけれど、他の王子で狛犬を見た記憶がない。


 継桜王子は野中の一方杉とも呼ばれ、9本の古木の枝は日の出る方向にしか伸びていない。樹齢は800年くらいの杉だ。中には、裏から見ると全く洞のようになって空っぽの木もある。
 継桜王子という名前の割に桜の木はなく、杉の木の話題ばかりだ。不思議に思って聞いてみたら、明治時代までは、継桜王子には継桜という名前の桜の銘木があったという。850年くらい前の文献にも「継桜」の名前が出ているらしい。
 明治22年の水害で倒れてしまい、その桜の木は近くに移植したそうだ。
 その継桜(秀衡桜)に向かおうとして、継桜王子の前にも牛馬童子がいることに気がついた。


秀衡桜 秀衡桜は、藤原秀衡夫妻が熊野詣でをした際に滝尻王子で出産し、その子を残して野中まで来て、杖にしていた桜の木をこの地で突き刺して子の無事を願い、その桜の木が育ったのが継桜だという伝説を持つ。本当なんだろうか。
 事実かどうかはともかく、この桜はかなり大きくて立派なものだった。花の時期が終わってしまい、葉桜だったのが残念だ。
 そして、その足下には高浜虚子から続く親子孫三代の句碑が立っていた。


 継桜王子、秀衡桜、これから向かう野中の清水の辺りは、熊野古道がそのまま生活道として機能している。最近まで、隣町まで続く道は熊野古道だけだった、というところもあるそうだ。
 生活道でもあるので舗装されて車も通れるようになっており、そういった場所は世界遺産登録からは外されている。
 民家の庭先から伸びる桜の枝を見つけた。こちらは山桜らしく薄い何重にもなった花びらが雨に濡れて、とてもいい感じだった。


野中の清水 野中の清水は、秀衡桜から歩いてすぐのところにあった。環境省の名水百選にも選ばれている。
 もちろん皆して飲んでみる。とても美味しい。ペットボトルに汲んでいる方もいる。
 宇江先生のお宅を含めた30軒くらいでこの水を簡易水道で引いて使っているそうだ。こんな美味しいお水を毎日飲めるなんて羨ましい。
 雨が降っても濁ることはないし、雨が降らなくても枯れることはないそうである。不思議だ。


 ここで、本日の行程はほぼ終了となった。
 宇江先生が車で先導してくださり、マイクロバスで本日の宿である「旅館とちご」に到着したのは17時くらいだった。もう既に膝が笑っている。明日は6時間は歩くというのに大丈夫だろうか。不安になる。
 旅館とちごは、川べりにある一軒宿といった感じの旅館で、どちらかというと「お母さん」という感じの女将さんがとても元気でちゃきちゃきしている。格好良い。


とちごの夕食 18時30分くらいから夕ごはんだ。本当は19時からだけれど、我々一行のあまりの欠食児童振りに食事開始時刻を30分早めてくれたらしい。もうお腹はぺこぺこである。半分くらいの人がお風呂を済ませていたようだ。
 夕ごはんのメニューは、あまごの煮付け(10時間くらい煮込んだそうで骨ごと食べられる)、いたどり、行者にんにく、鰹のたたき、鴨なべ、レンコンと海老の揚げ物、ごはん、である。
 そんなに歩いてはいないのに結構くたびれていて、お酒を飲んだらお風呂にも入らないまま寝ちゃいそうだったのでアルコールはパスする。


 本当に山の中の一軒宿だから、ごはんを食べ終わってお風呂にも入ってしまうと、やることが何もない。
 私は、一人参加の女性4人が集まったお部屋だった。4人でおしゃべりしたり(関東から来た人が多いこと、新大阪からの特急が振り子走法でとても揺れること、今日の行程が結構辛かったこと、荷造りのこと、3日目に解散した後の行動予定、屋久島や白神山地などのこれまでの旅行の話、ストックが優れものであることなどなど)、真っ暗な外に出て星を眺めたり(最初は何も見えなかったけれど、少しずつ目が慣れてくると星がたくさん見えるようになった)、星が見えたから明日のお天気は大丈夫だろうと安心したりした。
 多分、みんなで早めに寝たと思う。何て健康的な旅なんだろう!


 ->熊野古道旅行記2日目

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