2009年6月28日(日曜日)
元々は、母が親戚から東武鉄道の優待乗車券をいただき、日光旅行を企画した。
母が「折角だから日光に行きたい。」と言い出し、昨年夏に母と私の二人で箱根旅行に行ったところ妹から大ブーイングだったので妹夫婦にも声をかけた。
母と私はもちろん東武鉄道で行くし、妹夫婦は車で出かけると言う。「じゃあ、ホテルで待ち合わせね。」と決めた。ホテルから18時の食事に間に合うようにチェックインするよう言われた。妹夫婦にもそのことを伝え、しかし待ち合わせ時刻は決めず、非常にアバウトに出発した。
春日部から乗車した東武日光行きの快速電車は意外なくらい混雑していた。
栃木か新栃木かでかなり降りる人がいて、そこから母だけは座ることができたのでほっとした。まさか日曜日の行楽地に向かう電車があんなに混雑しているとは思わなかった。
日帰りの予定の人が多かったのかも知れない。年配のおばさまのグループが多かったように思う。
11時30分くらいに東武日光駅に到着した。
このまま中禅寺湖まで上がって湖畔でお昼ごはんを食べようと思っていたら、7時に朝ごはんを食べたせいか、意外なくらいお腹が空いている。
神橋に向かって歩き、湯波そばの元祖だという「魚要」というお蕎麦屋さんでお昼ごはんをいただいた。
基本に忠実な私はもちろん湯波そば(1150円)、母は「季節限定」とテーブルにポップがあったわらびそば(730円)を頼む。
湯波そばは、「日光湯波ふじや」の揚巻、高野豆腐入りの揚巻、ぜんまい巻きがお蕎麦に乗っている。ちょっとお蕎麦が柔らかいような気もしたけれど、なかなか美味しかった。
そのまま、神橋までぶらぶら歩いた。
暑くてぶらぶらとしか歩けない。帽子を持ってこなかったことを少し後悔する。
日光湯元行きの東武バスに乗るつもりだ。駅に戻るのも何だかばかばかしいし、神橋まで行けばそこで途中下車する人もいて、乗れないということはないだろうという計算である。それに日曜の午後から湯元に向かう人もそうたくさんはいないに違いない。
前回、駅から輪王寺の入口までバスで行って神橋は車窓のみだったし、神橋をじっくり見ておきたいという気持ちもあった。
12時45分発の日光湯元行きに乗ろうと神橋のバス停で待っていたら、妹から母の携帯に電話があった。
日光に到着したところだと言う。これから戦場ヶ原にバスで上がろうとしていると言うと、自分たちも行くと答えて電話は切れたらしい。
駅前に車でいて、これからやっぱり戦場ヶ原に上がるというなら乗せてってもらおうよと私が言い、もう一度電話をかけてもらって、妹夫婦の車に拾ってもらうことになった。
母と私はらくちんだったけれど、思えば義弟には気の毒なことをしたものである。
前回日光に来たときも中禅寺湖畔に行った。そのときはもちろんバスに乗っている。
バスと自動車とでは、いろは坂の体感がひどく違うように感じられる。
バスに乗っているときは寝ちゃったけれど、流石に乗せていただいてそれはできないし、視点が低いし、やたらとカーブの存在感が大きい。
いろは坂を上がって行くうちに、いつの間にか空気が変わったらしい。窓を開けると涼しくてさわやかな風が入って来るようになった。
中禅寺湖畔を抜け、いったん通り過ぎてしまった赤沼の駐車場に戻った。
赤沼駐車場は千手が浜行きの低公害バスの発着所になっており、見頃に咲いているというクリン草にも惹かれつつ、やはり王道で戦場ヶ原と小田代ヶ原を1周するコースを歩くことになった。
1周2時間25分というのがガイドブックに書かれたコースタイムだ。さて、どれくらいで回ることができるだろう。
駐車場から道路を渡って戦場ヶ原に入る。
13時40分くらいだ。
車道から少し下ると、そこは清流沿いの歩きやすい土の道である。
空気もさわやかだし、下界の暑さが嘘のように涼しい。長袖のシャツでちょうどいいくらいである。
緑も濃いし、雨も何とか保ちそうだ。
少し歩くと右手に木道への分岐があり、そのまま戦場ヶ原に入ることができる。
木道は2列になっていて、ときどき、修学旅行なのか林間学校なのか、小学生のグループとすれ違う。ほとんど競うように「こんにちは〜。」と元気に挨拶してくれるのが可笑しく、微笑ましい。


歩き始めてすぐ、恐らく今夏最後であろうわたすげに出会うことができた。
木々の向こうに見えるわたすげは遠くて、時々、「木道をはずれてはいけません」という注意書きを無視して近寄ろうとした人々が踏み固めてできたらしい土の道があり、そこが塞いである。
戦場ヶ原は傷んできている。
小学生のグループに説明していた先生によると、戦場ヶ原もあと何十年かすると、湿原ではなく草原や森になってしまうそうだ。その先生はそれを「環境破壊」とは言わず、「湿原とはそういうものである。」と語っていて、印象に残った。
またしばらく清流沿いの道に戻り、青木橋に到着したときには14時30分を回っていた。
コースタイム35分のところを、しげしげとわたすげを眺めたり、足下に咲いている黄色い花の写真を撮ろうとがんばったり、記念写真を撮ったりして「本当に歩いている」時間が短かったとはいえ、それでも50分もかかっている。この時点でそのことを認識していればこの後のコース取りも変えたけれど、この時点ではまだ十分に元気だったのがいけなかった。
14時45分ころ、戦場ヶ原と小田代ヶ原との分岐点に到着した。
ここの分岐は、ちゃんと「湯滝1.7km、湯元3.2km、赤沼2.8km、龍頭の滝3.8km、小田代ヶ原2.1km」と書かれた標識が立っている。しかし、判りにくい。戦場ヶ原自由研究路から来ると、小田代ヶ原探求路は、左手の少し高くなっているところに細く付いている土の道を回り込む感じになる。
妹夫婦と出会わなかった場合、私は、ここから湯元にあるホテルまで歩いてしまおうと考えていた。
ガイドブックを駆使して計算し、コースタイム2時間で到着できると踏んだ。
しかし、荷物を車に置いているにもかかわらずこのペースの遅さでは、リュックを背負ってそんなことをしたらあやうく遭難することになっていたかも知れない。実現しなくて幸いだった。
こう言っては何だけれど、小田代ヶ原探求路は地味な道である。
灌木の中という風情になり、土の道になり、道以外の足下は一面のクマザサに覆われている。
途中、目先の変わるイベントとしては、鹿のための柵があり、人間が通れるように回転扉がついていることくらいである。
そして、この柵が「鹿を熊から守るために」あるのだったか、「木々を鹿から守るために」あるのだったか、入口の説明板に書いてあったことは覚えているのに、どうしても思い出せない。
もう一つの小田代ヶ原探求路上のハイライトは、湯滝2.5km、しゃくなげ橋2.9km、西ノ湖4.7kmという標識(この標識には15時頃に到着した)から10分くらいのんびり歩いた右手に広がっていた、アヤメの群生地だ。
遠くに、紫の帯のように見える。

私を始め家族4人、この小田代ヶ原探求路を歩いているときは概ね右手が開けていたので右手を見ながら歩いていた。
おかげで、恐らくは小田代ヶ原を取り上げたどのガイドブックにも載っているだろう「草原の貴婦人」と呼ばれている白樺の木をすっかり見逃してしまった。
地図もガイドブックも持って歩いていたのに間の抜けたことである。
後になって考えると、小田代ヶ原のバス停まで1時間半以上も歩き通しだったのだから、この辺りで休憩をするなり、低公害バスに乗ってクリン草を見に行くなり、もっと軟弱に低公害バスに乗って赤沼駐車場に戻ることもできたのに、勢いづいたのが意地なのか、我々4人はこのまま小田代ヶ原歩道に突入した。
ここから先の道は、本当にうっそうとした森の中、足下にクマザサが広がっているという地味きわまりない道で、多少のアップダウンが増えたため、疲労度が3倍増しくらいに感じられた。

15時30分くらいに通り過ぎた戦場ヶ原展望台だと思われる場所から眺めた風景は、ほっとできる「一景」だった。
かなり疲れていた母と妹夫婦は、ほとんど立ち止まることなく通り過ぎていたような気がする。疲れてくると早足になりがちだし、黙々と歩くしかなくなっていたのかも知れない。
しゃくなげ橋に到着したのは16時近くだった。
遠い。遠すぎる。
しかも、森の中の道は一段と涼しくて、とうとう、長袖のシャツの上に長袖を羽織ってちょうどいいくらいになっていた。
もっとも、妹夫婦は半袖で平気そうに歩いていたから、これは私の体感の方に問題があるのかもしれない。
しゃくなげ橋から赤沼に向かう道は渓流沿いの穏やかで広いのんびりした道筋である。
最初の木道への分岐点まで戻って来たとき、橋の上や橋のたもとに大きなカメラを構えた方がいらっしゃるのに気がついた。この写真の橋の上と右端に写っている。
妹が呆れた顔をしたのは見なかったことにして、おじさんに「何を撮っていらっしゃるんですか。」と話しかけたところ、気の良さそうなその方は、撮った写真を見せてくださった。
アカゲラである。
巣には雛がいて、その雛のところにえさを運んで来た母アカゲラをばっちり捉えている。
4人で代わる代わるデジカメの画像を見せていただいた。
カメラのレンズの方向を追う。ちょうどその場所から赤沼方向を見上げると、こちら側に巣の入り口を開けた木が立っていた。
よくこんなにも絶好のポイントがあったものだ。
行きに通ったときには気がつかなかったけれど、だいぶ前からいらしていたそうで、もう少し前までは10人くらいいたらしい。
赤沼の駐車場入口に咲いていたニッコウキスゲの写真を撮って「霧降高原に行って来たと嘘をついてもばれないね。」と言い合い、駐車場に戻ったときには16時30分近くになっていた。
実に3時間50分である。
コースタイムの1.5倍くらいの計算で計画を立てなければならないと学習した。
母にも妹夫婦にも申し訳ない限りである。
戦場ヶ原から車で日光湯元温泉に行き、ホテルにチェックインしたのは16時45分ころだった。
今回宿泊した「奥日光森のホテル」は、「高原のリゾートホテル」という外観にも関わらず、和室も多く、しかも全館「靴下」で過ごせる、不思議なリラックス感のあるホテルである。
入ってすぐのロビーにあるローテーブルでチェックインをする。玄関には「本日の気温」が大きく張り出されていて、この日朝6時の気温は15度、14時の気温は26度だったらしい。
それは快適な筈である。
フロントの男性が「冷たいものをお持ちしますのでお待ちください。」とおっしゃるので、麦茶か何かが出て来るのかと思ったら、供されたのは、ずんだ餡の冷やししるこだった。
歩き疲れた身体にしみいる甘さである。
さらに、お部屋に用意されていた甘いものにも手が出てしまう。ポットのお湯がちょっと硫黄臭かったのでお茶が美味しく煎れられないけれど、ほっと一息できた。
新型インフルエンザの影響か、お部屋のテーブルの上にイソジンが用意されていた。
18時からの夕食の前に温泉で疲れた身体を癒す。
大浴場のあるホテルに泊まるとき、その行き帰りにはエコバックがあると便利だ。軽くてかさばらないのは元々の仕様だし、大きいから何でも放り込めるし、持参していれば増えたお土産を入れて帰ることもできる。
硫黄の温泉は気持ちがよい。
湯温が高かったので早々に露天風呂に逃げる。露天風呂は岩風呂風になっていて、その岩には温泉成分が黄白く張り付き、湯の花が浮かんでいる。
気持ちいい。
いっとき、母と妹と私の3人で占領することもでき、さんざん歩いた足を労るべく、ゆっくりとマッサージをした。
さっぱりしたところで夕食だ。
全員で生ビールをいただいたら、義弟はお酒に弱くあっという間に赤くなっていた。一方、女3人は顔色も変わらないままで、何だか申し訳ないようである。
チェックインしたときに頼んでおいた鹿の薫製が、癖もなく、でも後を引く美味しさだ。ビールに合い過ぎてついクイクイ飲んでしまう。
確か、鹿の薫製はこの時期しか作っておらず、また、常時用意しているものは養殖で、今回いただいたものは野生の鹿だったらしい。貴重なものをいただけた。
また、別にお願いした湯波のお刺身もおいしい。
毎月変わるというこの夕食が本当に美味しかった。
お品書きは以下のとおりである。




先付 嶺岡豆腐
(これが、チーズケーキのようなお豆腐でとろっとしていて美味しい)
小鉢 白酢和え(かんぴょう、山クラゲ、コーン、茄子)
お造り 清滝の八汐鱒、ゆずこんにゃく、日光生湯波
煮物 たぐり湯波、木の葉軟禁、小茄子、蕗
焼物 鮎玉子見珍焼
揚げ物 豆腐磯辺揚げ、ヤングコーン香梅揚
凌ぎ 自家製ざる蕎麦
陶板焼 舞茸、榎、コーン、ズッキーニ、和牛
食事 たくあん飯、赤出し汁、お漬け物
甘味 自家製チーズケーキ、メロン、スイカ
1時間半かけて、ゆっくりといただいた。大満足だ。
義弟はそば打ちを趣味としていて、しきりと「私にはこんなに細く蕎麦は切れない。」と感心していたのが可笑しかった。
部屋に戻ると、もの凄くインパクトのあるお布団が敷かれていた。
しかし、たくさん歩いたし、お腹もいっぱいになったし、ビールも飲んでしまったし、このお布団のインパクトも眠気には打ち勝つことができず、母と二人、布団に倒れ込むように寝入った。
テレビもつけっぱなしで、目が覚めてみたらもう21時30分を過ぎていた。
「寝ちゃったねー。「気持ちよかったねー。」と言いつつ、食事前は時間もなくて髪も洗っていなかったのでもう1回温泉に行った。
大浴場に行くとちょうど妹があがったところで、「お姉ちゃん達、これからお風呂なの?」と呆れられた。「うん。寝ちゃったんだよねー。ダンナ様はどうしてる?」と何の気なしに聞いたら、義弟は、食事を済ませて部屋に戻るなり爆睡状態に入ったらしい。
それは、たくさん歩いてたくさん気を使い運転も全部してもらったのだから疲れているに決まっている。申し訳ない。そして大感謝である。
露天風呂から見上げた空には星が光っていた。
明日は晴れるのかもしれない。
私はまたもや「歩く」計画を立て始めた。
全く以て懲りてない。
奥日光旅行記(2009)2日目はこちら。