永平寺・京都旅行記2日目その1
2010年2月12日(金曜日)
お部屋が暑くて2時、6時に目が覚めた。7時15分に起き出してすぐ、朝食のレストランに向かう。
福井の宿をユアーズホテルフクイにした最大の理由は、この「地産地消」をテーマにしているという朝食だ。私にしては珍しくバイキングで和洋用意されている中、和食の朝食にする。
美味しい。
朝食を終えてレストランを出たところで、お部屋に持ち帰ってどうぞとコーヒーを渡されたのも嬉しかった。
外は曇りである。雨が落ちていないだけ有り難い。
駅まで徒歩2分の立地は本当に便利である。
8時に朝食を食べ終え、チェックアウトし、駅のホームで職場土産の永平寺大根(630円を4袋)を購入して8時49分発のサンダーバード10号に乗車した。
行きの米原から福井までは停車駅も多かったし時間もかかったのに比べると、このサンダーバードは、福井から京都までノンストップである。
しかも行程の後ろ半分はずっと琵琶湖畔を走る。お天気が悪くて荒涼とした眺めではあるものの、たっぷりと琵琶湖を堪能することができた。座席は琵琶湖側になる進行方向左側(A席)がお勧めである。
10時11分に京都に到着し、駅のコインロッカーにキャリーケースを預けた後、京都市観光バスの窓口に行って料金を支払い、予約してあった「特別参観 御所と大徳寺・泉涌寺」コースのチケット(7300円)を購入した。
10時50分発の観光バスの時間まで余裕があったので、近くに見えた郵便局に行って、友人に絵はがきを出すべく切手を購入した。京都限定の切手が特に見あたらなかったのが残念である。
10時50分発の観光バスは祝日と週末との谷間とはいえ平日にもかかわらず満席だった。
まずは京都御所に向かう。
京都御所は、480年間、天皇の住居だったところである。御所自体は何回も焼失していて、現在残っているのは里内裏だったところである。現在残っている建物はほとんど幕末に建てられたもので、この「建物」に実際に住んだのは明治天皇と大正天皇の二代のみである。
また、20万坪の広さの御苑の中に御所と200余の公家や宮家の住まいもあったらしい。
京都御所での見学時間は40分ほどで、「ずっと外を歩きます。」「皇宮警察の人が付いてきますので、列を乱さないように歩きましょう。」などの注意があった。
京都御所に着く頃には日も射し、でも雨もぱらつく不思議な天気になっていた。
11時30分くらいから、バスガイドさんの案内に従って見学開始である。
この閉められている門が宣秋門だ。
天皇以外の皇族や外国からの賓客が使う門だというから、かなり格式が高い。
春と秋の特別公開の時にはこの門も開かれて、一般人の私たちも通ることが許される。こういう隅々まで「身分」を意識している場所はそうないような気がする。
次に向かったのが「諸大夫の間」である。ここは正式に参内した人のお供の人が主人を待つ部屋だ。
それぞれ、襖に描かれた画題に応じて「桜の間」「鶴の間」「虎の間」と呼ばれている。
そして、「桜の間」は身分が低い人(のお供の人)、「鶴の間」は中間で、「虎の間」は身分が高い人(のお供の人)と決まっていたという。
本当に「身分」に拘った場所である。
いつのことだったか聞き忘れたけれど、例えば、天台宗のトップである阿闍梨はこの虎の間で控えたという。
また、桜の間では、滅多に御所に来ないような人が待つところからお作法を教えてもらう場でもあったという。ここでお作法を教えてもらったお礼を袖の下から渡したところから、「袖の下」という言葉が生まれたそうだ。
京都御所が賄賂発祥の地(?)だったとは驚きである。
「諸大夫の間」も含め、京都御所では基本的に写真撮影は自由だった。
自分がフラッシュを使わないので注意を払わなかったけれど、フラッシュ撮影禁止とも書かれていなかったと思う。
この「諸大夫の間」も、私たちは外からの見学で中には入れないものの、板戸が開け放たれていて自由にふすま絵を見学することができた。太っ腹である。
大正時代に造られたという新御車寄せは、先に見た御車寄せとは違って建物の窓にガラスが入っているし、内部も絨毯敷きになっているそうだ。それはちょっと見てみたかったと思う。
また、車を屋根の下に駐められるように屋根も大きく造られたという。
この建礼門は天皇しかくぐれない格式高い門で、4本の柱で支える四脚門である。
美智子皇后も、天皇と同道しているときは建礼門を使えるけれど、一人で御所に来たときには建礼門は使えないというから厳格だ。
また、建礼門の両脇に続く築地塀に5本の白線が入っていて、これまた格式の高さを表している。5本線が一番格式が高いことになっており、「上下筋」ともいう。
こういう「知らなかったよ!」というお話が次々出てくるのでメモを取るのに忙しいし、写真も撮りたい。この辺りから最後尾を歩くことが多くなったような気がする。
最後尾を歩いていると、後ろからぴたっと皇宮警察のお兄さんが付いてきているのが何とも特別な場所感を醸し出す。
建礼門の内側が宮内庁、ひいては皇宮警察の管轄になるそうだ。
建礼門の向かい側に承明門があり、その内側が紫宸殿である。
間口は20m、奥行き25mである。どれだけ大きい建物なんだと思う。
また、格式高い建物の常として屋根は檜皮葺となっているという。檜皮葺は傷みやすく、20〜30年に一度は替えなくてはいけないというから大変である。
格式高く造られているものの、建物内部に天井はなく床は板敷きというから、決して快適な住まいではなさそうだ。
紫宸殿は南向きに建てられており、これに伴い、京都のお社はみな南向きに建てられているという。
向かって左側が右近の橘、向かって右側が左近の桜である。左右が逆なのは、「天皇から見て」の左右となっているからだそうだ。もっともである。
手前の階段は18段で、これは安倍晴明が最高の数は9であるとしたからだという。
正面奥は高御座(たかみくら)で、天皇が座る椅子が置いてあるのみだ。即位の礼のときなどは高御座も全開にするけれど、通常は3間しか開けないという。
ここで即位の礼を行ったのは明治天皇、大正天皇、昭和天皇のお三方のみだから、全開されたことも3回しかない。現在の天皇の即位の礼を東京で行うときには、京都から東京へ高御座をヘリで運んだそうだ。
格式というものを私が理解できる日は来ないかも知れないとしみじみと思う。
御所では正面に天皇、向かって右に皇后が座する。だから関西のおひな様も同じように飾る。
それがどうして関東では逆になるかというと、関東では明治天皇皇后のお写真が左右逆に座っているのに合わせるからだという。
小御所と御学問所との間には「蹴鞠の庭」という何とも優雅な名前の、でも実際のところ小さな玉砂利が敷いてあるだけの場所がある。
この小御所では、金具を蝉の形にして泥棒よけにしたり、「御所張り」と呼ばれる障子は少しずつ障子紙を貼り替えられるように桟が細かくなっていたりする。お金持ちの考えと節約の考えが両方混ざっていて面白い。
小御所・蹴鞠の庭・学問所の向かいには、「御池庭」というお庭が広がっている。
正直に言って、「名園」という感想は浮かばない。
元々が台所だったことからお公度(竈の意味)と呼ばれるお庭を歩いているとき、皇宮警察の方のお話を聞いた。
どれくらい前のことか聞き忘れてしまったけれど、こうして観光客に開放するようになってから一人だけ、はぐれて夜中まで御所に閉じ込められてしまった人がいたらしい。
夜になると、全ての建物は内側から鍵をかけてしまうから、建物の中にいることもできない。
しかも、灯りがないから真っ暗だ。
京都御所では、消防法の関係で全ての建物に火災報知器の設置が必要だから「電気」は通しているものの、電球を全く設置しておらず、灯りは存在しないという。
徹底している。
灯りがないくらいだし、御所は、「住まい」ではなく「博物館」だという。
皇族の方が来るときも、目的は「研究」であり、「研究」のために来るわけだから灯りもなければ採光も悪い建物の中では埒があかず、予め研究の対象となるものは全て外に出して用意しておくという。
御所で時間を過ごすこともほとんどないとなれば、確かに「博物館」だ。
御所の建物にしろ美術品にしろ値段のつくようなものではないそうだ。
**門の柱を取り替えるために300〜500万円かかったというし、築地塀ももう同じ物を作れる人がほとんどいないため、白い細い線で囲まれた部分を作り替えるだけで10万円かかるという。
12時25分くらいまで見学して、見ることができたのは全体の1/3くらいだというお話だった。
皇宮警察の方は、お役目上、全てを見たことがあると言いつつそれほど嬉しそうでもなかったのが何となく可笑しかった。
御所から10分くらいで大徳寺に到着した。
大徳寺は1325年に創立され、応仁の乱で焼失し、一休禅師が再興したお寺である。
大徳寺の勅使門は、御所から移築されたもので、重要文化財に指定されている。
そう言われれば立派な門のような気がするし、他と比べても大差ないんじゃないかという気もする。
時代も下って、大徳寺の再興に千利休も協力しており、禅寺と茶道のつながりは大徳寺が積極的に築いたものらしい。
千利休は三門(=金毛閣)を造ったけれど、そのことを記念して自身の像を寺内に建てたことから秀吉との関係がおかしくなったとも言われている。
現在、どこかにうっちゃられていた利休の像は寺に戻ってきているけれど、門外不出としているという。
そう聞くと、ぜひ見てみたいという気持ちになる。
そうした因縁を説明してもらいつつ、方丈に向かう。
方丈はお寺の中心となるお堂で、ご本尊がいらっしゃる。大徳寺の方丈はそれ自体国宝だそうで、残念ながら建物の中に入ることはできない。「国宝」の縁側に座ってお庭を眺めることはできた。
お庭も含め、写真撮影禁止だったのが残念である。
方丈のお庭は江戸時代初めのサンユウ和尚(字を確認し忘れた)が造ったお庭で、大徳寺内で一番単純なお庭だという。そして、特別名勝・史跡に指定されている。
お庭に敷かれている砂は、比叡山の麓で採れる雲母を含んだ「白河砂」と呼ばれる砂で、夜になると光るという。そして、砂紋(しゃもんと読むらしい)は、水の流れ、ひいては人生を表すものだという。
ガイドさんに「このお庭の中心はどこだと思いますか?」と聞かれ、それは中央でしょうと短絡的に思ったらそれは大間違いで、左奥にある大きな縦長の岩(滝を表している)が中心だそうだ。
砂紋が水の流れを表しており、その水の源である滝が場の中心であるという説明に納得である。
この滝を表す岩は紀州の青石を運んできており、見えている部分だけでもかなり大きいと思うのに、実は半分以上地中に埋まっているそうだ。
滝を表す石の周りに置かれている低い白い石は「水分け岩」と言われ、水の流れが変わるところを表しているという。
庭のほぼ中央手前に盛り砂が二つ造られている。
通常、この盛り砂があるところには門がある。多分この言い方は逆で、門がある筈のところには盛り砂を造るのだろう。
この日暮らし門は格式の高い人しか通ることのできない門で、その昔は、格式の高い人が来るときにこの盛り砂(浄めの砂)を崩してじゅうたんの様に敷いていたそうだ。
今は「盛り砂を造る」という習慣だけが残っているという。
この盛り砂が「盛り塩」の起源である。
私たちが座った縁側の下には瓦が敷かれている。瓦は冬寒く夏暑くなる素材で、雲水さんはここを1年中裸足で歩く。辛い。
枯山水のお庭も、まっすぐ線を引くだけでかなりの仕事だそうで、禅寺のお庭は雲水さんの修業のために造られたと思って間違いないらしい。
このお庭の刈り込みは「大徳寺垣」と呼ばれている。
上下2段に分かれ、下はまっすぐに切りそろえられ、上は伸び放題な感じで適当にされている。
昔は下のまっすぐな刈り込みだけで、その向こうに借景として比叡山が見えていたらしい。しかし、周りに家が建ったりしてお庭から比叡山を望めなくなってしまい、目隠し代わりに伸び放題の刈り込みを造ったという。
このお庭で1ヶ所だけ、庭に入る門のところから振り返ると、比叡山がくっきりとそこにあった。
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