永平寺・京都旅行記3日目その1
2010年2月13日(土曜日)
朝7時に目が覚めた。何故かお腹が空いている。
待ちかねたようにして、7時30分に朝食を食べに行った。昨夜の観察の結果、スリッパの方も浴衣の方もいらっしゃったので、スリッパでペタペタと行く。
パッと見は少なめと思ったら、食べ終わったときにはお腹が一杯になっていた。
荷造りをしてチェックアウトし、キャリーケースを宅配便で送ってもらうようお願いする。
今回の旅行にはポメラを持参していたのに、荷造りをするまで1回も電源を入れることはなく、今日1日ショルダーバッグに入れて持ち歩くのは嫌だったので、キャリーケースに入れて送ってしまった。
メモを書くのはよくてポメラは開かなかった理由は、ポメラで打ってしまうとそこで「確定」という感じがしてしまい、書かなかったことの印象が薄れてしまうように思えたからだ。
メモ帳に書いている分には、ガイドさんの説明をメモした部分も、夜に宿で色々と思い出しつつ書いた部分も、等しく「メモ」で「間に合わせのもの」という感じがする。
これは慣れの問題だろうか。
今回私が利用した、花園会館が主催する「閑寂の禅」という宿泊プランでは、宿泊した翌日の午前中、妙心寺内の普段は公開されていない場所を和尚さんの案内で訪ねることができることが売りになっている。
これまで何年かに渡って毎年2月に開催されており、2010年の内容は、蟠桃院と経蔵の見学と、和尚さんのお話だった。
「閑寂の禅」の集合は9時50分で、その前に「コースどおりの妙心寺」を巡るべく、一足先に妙心寺をお散歩した。
南総門を入るとまっすぐに参道が伸びていて、突き当たりに大方丈がある。
参道の左側に、三門、仏殿、法堂と並んでいる。この三門の手前には池があり、さらにその手前に外へ通じる勅使門がある。きっとこの勅使門は滅多なことでは開かれないのだろう。
ふらふらと歩いて行くと法堂の奥に受付らしいところがあった。受付が開くのは9時だという。
9時に受付が開いたら御朱印をお願いしようと待ち構えていたら、作務衣姿の女性が通りかかって、これから朝のお勤めがあるので、よかったらどうぞとおっしゃる。
有り難くそのまま上がらせてもらい、他に二人くらいの方と一緒に、広い畳のお部屋にそっと座らせていただいた。
作務衣姿の女性の他、「お坊さん」という格好をした方が何人か並び、お経があげられる。
今日の予定を読み上げる方がいて、多分「決まりごと」の日々の心得のようなお話があり、壁に掛けられていた短冊に書かれた「一日一回、静かに座り、呼吸と心と体を調えましょう」という文句を唱和して終了となった。
その間、5分くらいだったろうか。
「朝礼」という感じである。
そのまま窓口で御朱印(300円)をお願いし、9時10分からの拝観(法堂・天井の雲龍図、国宝の梵鐘、浴室(明智風呂)を案内していただける。500円)が所要30分くらいだという説明を受けて参加した。
作務衣姿のお姉さんに案内してもらう。
妙心寺は3400の末寺を持つ、臨済宗妙心寺派の大本山である。
元々は花園天皇の離宮だったところをお寺とした開祖が無相大師だ。
妙心寺全体で甲子園七〜八つ分の広さを持つというから驚く。もっとも、妙心寺の中にはたくさんのお寺(塔頭)があって、それら全てを合わせれば、ということである。
最初に案内された法堂(「はっとう」と読みます、と念を押された)は、350年前に建てられており、床は半瓦式である。ここも雲水さんの修業のための場だということなんだなと思う。
法堂は住持(いわゆる住職のことらしい)がお話をされたり座禅をしたりする場所で、須弥壇は住職の説法用に置かれている。普段は空っぽだ。
法堂は全部で44本の欅の柱で支えられており、こちらもまた富士山から運んできた大きな欅の木の中心を除き、1本の木から4本の柱を切り出しているという。
お寺というのは権力とお金があったのだなと思う。
天井には狩野探幽が描いた龍の絵があり、重要文化財に指定されている。
ここは写真撮影禁止である。
雲龍図は八方睨みの龍とも言われ、様々な動物がモデルになり、描き込まれているそうだ。
口は鰐から、角は鹿から、爪は鷲から、髭は鯰から、身体は蛇から、鱗は鯉から、そして一番肝心な目は「牛」から取られているという。
また、この雲龍図の彩色に使われているのは、白は貝殻(恐らく胡粉のことだろう)、黒は墨、青は岩から、赤と緑は植物から取られた絵の具である。
直径が12mもあり、構想に3年、実際に描くのに5年かかったというから、大作だ。
天井に向かって描いたのではなく、描き終わってから天井に吊ったのだという。一体、どうやって吊ったのだろう。
須弥壇に向かって左から見ると下り龍に、向かって右から見ると昇り龍に、須弥壇を正面にして見上げると非常に優しい表情に見えると言われて、そのとおり見上げてみる。優しい表情と言われたって龍は龍だよと思う。
いつもならば法堂には梵鐘も保管されている。現在は九州に出張中で、その場所には実物大の写真パネルが置かれていた。
ひびが入ってしまったため二代目に主役の座を譲ったけれど、年号の入った鐘としては日本最古のもので、長い間、NHKが大晦日に放送している「ゆく年くる年」の最初の鐘の音として活躍していたそうだ。
黄鐘調(おうじきちょう)の鐘とも呼ばれているのは、正しく黄鐘調(「ラ」)の音がするからだという。
「テープでお聞かせしましょう。」とその先代の鐘の音を聞かせてもらった。今ひとつ、その素晴らしさが私には判らなかった。きっとテープで聞いたからに違いない。
2代目かつ現役の鐘も、同じ高さの音で鳴るように作られているというお話だった。
法堂での見学を一通り終えて、明智風呂に移動した。
「明智風呂」と呼ばれているのでいかにも明智光秀が使った浴室のようだ。しかし、説明によると、明智光秀が信長を本能寺で討った後で自害しようと妙心寺に来たことから、明智風呂は明智光秀の菩提を弔うために亡くなった5年後に建てられたという。明智光秀がこの浴室を使った訳ではない。
それにしても、どうして菩提を弔うためにお風呂を造るのか、よく判らない。
浴室といっても広く、脱衣所として使っていたという畳の部屋だって9畳(半端な数なのは、畳が3×3という風に並べられていたからである)もあった。
「お風呂に敷く布」から「風呂敷」という言葉が生まれたという説明もあった。
「浴室」「風呂」というけれど、実際はサウナに近い仕組みである。
すのこの下に窯があって、そこから蒸気が送られるようになっている。
浴室自体は三段構造になっていて、一番上の窓は明かり取り、真ん中の窓は温度調節に使い、一番下の窓(というか隙間)から出入りをしていたようだ。
中に入って、すのこの上でお線香1本分(約20分)座禅をしたという。
ここまで説明を聞いたら9時45分近くになってしまい、慌てて花園会館ロビーまで戻った。
集合時間には間に合ったようだ。参加者は15人弱である。
10時になって、和尚さんに引率され、花園会館の職員らしい若い男の子が最後尾について、まずは駐車場横にあった妙心寺の全景図を見ながら説明を受けた。
妙心寺は大本山正法山妙心寺(「正法山」というのは山号である)が正式な名前で、3400の寺院の本山である。
南総門から北総門まで600m、西端の大法院から東端の東林院までが550mで、京都で2番目に広い場所だという。ちなみに、1番広いのは京都御所だ。
私は今回の旅行で1番目と2番目を図らずも制したことになる。
妙心寺の境内に37、外部に10の塔頭寺院があり、龍安寺もこの「外部の塔頭寺院」に当たると聞いて驚いた。どちらかというと、龍安寺の方が有名なような気がする。
妙心寺の中に「妙心寺」という塔頭寺院があるのではなく、あえて言えば、「妙心寺」は勅使門から七堂伽藍までということになるそうだ。
この勅使門は管長猊下が4年に1回交代するとき、その出入りの際にしか開かないという。
一般的にお寺の「本堂」と言われる部分に当たるのが、禅宗寺院の場合は仏殿(ご本尊がお祀りされているところ)と法堂(説法を説く場所)と大方丈(和尚さんが普段いるところ)の3ヶ所になる。
一通りの説明をしてもらって、和尚さんはやっぱり声のいい人が多いななどと不謹慎なことを考えつつ、塔頭寺院の間をくねくねと迷路のようになっている道を進み、蟠桃院に向かった。
妙心寺内の道路は生活道路として使われており、当然のことながら、24時間いつでも通行することが可能で、この道も普通に車が通ったりしていた。
歩いている途中、玉鳳院と開山堂とが並んでいるところを通りかかったとき、案内の和尚さんが足を止めて一礼し合掌していた。
説明によると、玉鳳院はこのお寺を建立した花園法皇がお祀りされており、また開山堂にはこのお寺に最初に入った和尚さんである無相大師がお祀りされている、とのことだった。
確かに、築地塀にも五本線が入っていて、格式の高い場所であることが判る。
蟠桃院に到着した。
「蟠桃」とは、孫悟空が食べて不老不死を手に入れた実の名前である。
前田玄衣によって建てられた塔頭寺院で、でも当然のことながら前田玄衣が和尚として寺に入ったわけではない。
大抵のお寺は、建立した人と最初に寺に入った和尚とは別人である。
蟠桃院入口の石段は、豊国廟(豊臣秀吉のお墓)から持ってきたもので、石に○や×が付いているのは(この写真では、石に×印がついている)、納めた人が付けた「自分の印」である。
蟠桃院の和尚さんはお留守で(御朱印をいただけなくて残念だった。しかし、留守中にぞろぞろと私たち観光客を入れてくれるのだから太っ腹である)、中に入り、まずは全員で渡された紙を見ながら、案内の和尚さんの先導で般若心経をあげた。
私はもの凄く不信心だし、我が家はお葬式や法事のときしか意識しないとはいえ真言宗なので、般若心経を真面目に読んだのは初めてである。
「色即是空」という言葉くらいは聞いたことがあって、つまり「色即是空」しか知らない。
それでも、和尚さんの声に合わせようとしていると、何だかスっとした気持ちになった。
蟠桃院は、玄衣の没後、開祖である一宙和尚の後を継いだ雲居希膺(私の耳には「うんごきよう」と聞こえた)和尚が、伊達政宗を子供の頃に教えていた和尚さんからの紹介で瑞巌寺九十九世になった縁で、伊達家の庇護を受けるようになった。
この雲居希膺和尚という人は、谷底に投げた払子が手元に戻って来たら悟りを開いたことにしようと決めてえいやっと投げたら、その辺りに住んでいる子供が持ってきてくれたというエピソードや、襲ってきた山賊に一度は「お金なんか持っていない。」と答えたものの、改心して(?)ふんどしに縫い付けていた一両を差し出したら山賊に「こんな正直な奴なんて!」と次の村まで護衛してもらったというエピソードの持ち主である。
こういうエピソードが伝えられているのだから、破天荒で有名な人だったのだろう。
蟠桃院では、伊達家との縁から、建物に伊達家の家紋が入っていたり、伊達政宗の肖像画が飾られたりしていた。
伊達政宗は「独眼竜」で有名だけれど、残っている肖像画は両目を見開いて描かれていることが多いらしい。
案内してくれた和尚さんは、「和尚」の資格を取得するために(という話を聞くまで、「和尚」が資格であるとは知らなかった)試験を受ける際、この蟠桃院に泊まったそうで、そのときのお部屋なども見せていただいた。
その部屋のふすま絵を示して「これは誰かが勝手に描いたふすま絵です。」などとジョークなのか判らない説明をしてくれるのが可笑しい。
お茶室も見学した。元々、妙心寺はお茶と禅は相応しくないという考えを持っていたそうだ。当初、お茶室は造らなかったらしい。
それにも関わらず、蟠桃院にかくれ茶室が造られているのは、豊臣家再興のための隠れ家として建立されたためではないかと言われている。しかし、蟠桃院の建立は関ヶ原の戦いの翌年で、まだ豊臣家は潰れていない筈だ。よく判らない。
この蟠桃院の玄関は聚楽第から移築されたと言われている。ただし、何度も改築を重ねているし、聚楽第にあったという証拠はない。
また、玄関上の彫り物は左甚五郎が彫ったと言われている。
和尚さんの話によると、お寺はどこも貧しかったので、果敢な和尚さんは、次々と躊躇なく美術品やふすま絵などを売り払ってお寺維持のための経費に充てることも多かったそうだ。けれど、この蟠桃院のように(ということだと思う)、優柔不断な和尚さんは美術品などを売り払う決心がつかないまま来てしまったお寺も多い。
今になってみると、優柔不断な和尚さんがいたからこそ、そのお寺が重要文化財に指定されていることになり、長い目で見れば、早い決断が必ずしもいい結果を生むという訳ではない、というお話だった。
このお話が、「閑寂の禅」の中で一番印象に残った。
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