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2010.05.03

永平寺・京都旅行記3日目その2

2010年2月13日(土曜日)


経蔵 蟠桃院を出て、妙心寺の経蔵に向かった。
 経蔵は、「びるぞう」ともいい、「びるしゃなというのは全てのものという意味で、そこから来た名称です。」という。しかし、疎い私には字面すら浮かばない。
 帰って来てからネットで調べたら、どうやら、「びるしゃな」は「毘盧遮那」という字が当たるらしい。


 妙心寺の経蔵の中には、「輪蔵」という蔵があって、その中に1000本以上の経本が収められている。この経本は、建仁寺の経本を写経したという。
 輪蔵は、文字が読めない人もお経を読んで得られる功徳を得るにはどうすればいいかと考えた傅大士という人が考案したもので、この輪蔵を1周回すと、納められた全てのお経を読んだことになるという。
 輪蔵の正面には大抵この傅大士がお祀りされている。和尚さんが傅大士ではなく「ふだいさん」と知り合いのように呼ぶのが何となく楽しい。


輪蔵 輪蔵はかなり傷みが来ているので回すことはせず、左回りに1周して代えることになった。
 正面から順番に、広目天、梵天、多聞天、持国天、帝釈天、増長天、金剛力士によって支えられている。
 「これはどこから回るんですか?」と案内の和尚さんに尋ねたら、一番下から全部動くという。一番下のところの板が1枚外れていて、実際に回すときにはそこから人が入り、芯になる柱の根本が一番摩擦が大きくなるので、そこに油を差しながら回すというお話だった。


 書院での和尚さんのお話という本日最後のプランに向かった。
 案内してくれていた和尚さんのお話を聞くのではなく、別の和尚さんが現れ、岡山のお寺の副住職だと自己紹介があった。
 「堅苦しくないお話をしてくださいと言われています。」と言い、「昨年の秋に試験に受かって、人前で演奏をしても良いというお許しをいただいたので。」と尺八を演奏してくださった。


 大正12年に作曲された「木枯らし」という曲で、関東大震災後の東京の様子を見て作曲されたという。
 「寂寥」がテーマの曲のようで、「そのときの寂寞とした気持ちが伝わりましたでしょうか。」とおっしゃる。
 尺八の音を尺八だけで聞いたのは多分初めてで、随分と哀しい調子が似合う音なのだなと思った。
 尺八はお父さんがずっとやっていらして、それで自分もやるようになったというお話だった。随分とつやの出てきた尺八だったので「古いものなのですか?」と聞いたら、「父親から譲ってもらいました、作者の方は存命なのでそう古いものではありません。」というお答えだった。


 尺八の演奏に加えて、松尾芭蕉の言葉だという「不易流行」についてもお話があった。どうやら私はお茶をお菓子をいただくのに夢中になっていたらしく、何故かメモにこの言葉しか書いていない。
 流行を追うばかりで基本を知らないというのではいけない、しかし、変化をただ恐れて遠ざけるのもまた間違いである、という趣旨のお話だったと思うけれど、あまり自信がない。


 アンケートが配られ、名古屋で開催された妙心寺展のDVDをお土産にいただいて、「閑寂の禅」プランは終了となった。
 2010年で終わるという理由をお聞きしたら、毎年違う、普段は公開されていない塔頭を案内するというコンセプトのプランで、公開に応じてくれる塔頭寺院が段々なくなってきたことと、企画として黒字になっていないことが大きいらしい。
 そういえば、ずっと付いてくれていた若者に「いつもこれくらいの人数なんですか?」と聞いたら、「今日は多い方です。」という回答だった。
 別の形の企画を考えていく予定です、というお話で、私はこの半日をかなり楽しく興味深く過ごさせてもらったし、ぜひ新企画を待ちたいと思う。


 そんなお話を聞いていたら私が最後になってしまい、案内の和尚さんに正座でお見送りしていただいて恐縮してしまった。
 緊張するから見ていないでくださいとお願いしたけれど、そういう訳には行かないらしい。


臨祥院 12時近かったので、お昼ごはんを食べようと北総門に向かった。
 途中、臨祥院という塔頭寺院があり、公開はされていないようだったけれど、春日局の墓所という案内の札が立っていた。家光が春日局の追福を願って香華所として建立し、明治時代になって現在の場所に移築されたという。
 枯山水庭園があり、その奥には小堀遠州の手によって二条城から移築された釣殿が御霊屋(貴人の霊をまつる殿堂)として整えられていたり、狩野探幽筆の春日局の肖像が伝えられたりしているらしい。
 「閑寂の禅」に参加した方の中に、ここの話をしていた方がいらっしゃったのを思い出した。


日替わりランチ 北総門を出て左手に少し歩いたところで、おからはうすという、一見して喫茶店っぽいお店を見つけ、一人でも入りやすそうな雰囲気だったので、ここでお昼ごはんを食べることにした。
 ランチメニューは日替わりランチ(1000円)1種類だったと思う。
 健康的なメニューが受けているらしく、座敷に二人連れが2組と、カウンターにひとり旅らしい女性が3人くらいと、結構お客が入っていた。


 市バスのカードも買ってあるし、13時近くになってしまったし、仁和寺の前から金閣寺道までバスに乗った。
 仁和寺から金閣寺に向かう道は緩い上り坂で、バスに乗って正解だった。


 金閣寺は、この時期、方丈の特別公開がされていたけれど、この日に限って法要のために拝観停止になっていた。残念である。
 拝観料500円を支払うと、拝観券の代わりにお札をいただけた。ちょっと嬉しい。
 順路に従って進むと、まず、「金閣寺」と聞いて誰もがイメージするだろう、池の向こうにある金箔の貼られた舎利殿を拝むことのできる場所に誘導された。


金閣寺


 人生初の生金閣寺である。
 北村薫の「冬のオペラ」でも主人公のあゆみが訪ねていたし、まだ見たことがないし、雪の金閣も期待して来た。
 残念ながら雪はないものの、光の角度の関係で午後に来た方がいいという話に納得できた。青空が見えるのも嬉しい。
 内心あまりにもベタでちょっと莫迦にしていたけれど、やはりフォトジェニックな建物である。
 底冷えのする冬の京都だというのに、結構な人出だ。


美人の角度 年配の男性3人に年配のガイドさんがついているグループにつかず離れずで歩いていたら、池の横の道を少し歩いた辺りで、「舎利殿はこの角度が一番美人だと言われています。」という説明が聞こえてきた。
 なるほどと思い、「一番美人に見える舎利殿」の写真をパシャパシャと撮る。
 この建物は、一層は寝殿造、二層は武家造、三層は中国風の禅宗仏殿造になっている。下の二層は長方形、三層だけは正方形になっているため、角度によって姿形が変わって見える。


私的美人の角度 私が一番美人だと思った舎利殿は、この角度だ。
 この金閣を擁する鹿苑寺というお寺が臨済宗のお寺だというのは合点がゆかない。
 1987年に漆の塗り替えや金箔の張り替えをしたというニュースは何となく遠い記憶に残っていて、その当時、「さらに金色に光り輝くようになった金閣」と話題になり、そのときも、それってお寺としてどうなんだろうと漠然と思ったものだ。
 今回初めて見たこの舎利殿は、思ったよりも「金ぴか」という感じではなく、却って渋さを感じさせるようなところもあったのが意外だった。


陸舟の松 金閣寺は拝観のコースがあり、それに従って進む。
 陸舟の松と呼ばれる松のところで、ガイドさんがイタリア人観光客に「さて、この松の木は何を象ったものと言われているでしょう、クイズです。」「ヒントは、この方向は西だということです。」などと言っているのが聞こえてきて楽しかった。
 しかし、「西向きの松」というヒントから、西方浄土へ向かう舟という正しい答えを導き出すのは相当に難度が高いと思う。


 舎利殿の後ろ姿を少し高いところから眺めた後、突然現れる不動堂にお参りし、鹿苑寺と不動堂と両方の御朱印をいただいて(各300円)、概ねコースタイムどおりの40分で見学を終えて金閣寺を後にした。
 これは私にしては異例のスピードで、この後で正伝寺に行く予定がなかったら、もっと時間を使って、もっとたくさんの写真を撮っていたと思う。
 お寺にお参りしたという感じは全くしない。流石に京都有数の観光スポットだと納得した。


正伝寺入口 京都での最後の目的地は、北村薫の「冬のオペラ」で主人公のあゆみが椿さんという京都在住の女性に連れられて行った「正伝寺」である。
 北大路堀川というバス停でバスの乗り換えが必要で、最寄りのバス停「神光院前」から徒歩15分かかる。しかも普通の住宅街を抜けたその奥にあるのでほとんど道案内などはない。
 方向音痴の私は案の定道に迷い、前から歩いて来た人に教えてもらい、それでも間違えて、後ろから追いかけて来てもらって間違いを正してもらってやっと辿り着いた。


正伝寺参道 参道をゆっくり上って行くこと3分弱、前方に建物らしきものが見えてきた。
 すれ違う人がいるとほっとする。
 正伝寺は、臨済宗南禅寺派のお寺で、正式には「吉祥山正伝護国禅寺」という。
 鎌倉時代に東厳慧安禅師が創建したお寺である。
 方丈に到着したときには辺りに誰もおらず、でも2階から工事をしている音がしていて、声をかけると年配の作務衣姿の方(和尚さんだと思われる)が出てきてくださった。拝観料は300円である。


 中に入ると畳のお部屋が二間(三間だったかも知れない)があり、その前の縁側に緋毛氈が敷かれ、座布団がいくつか置かれていた。
 先客が3人ほどいらっしゃった。
 まずはその座布団に座って、ぼーっとお庭を眺める。


正伝寺枯山水のお庭


 このお庭は、江戸初期に小堀遠州によって作られたお庭である。
 「獅子の児渡しの庭」とも呼ばれていて、岩はひとつも使われておらず、サツキの刈り込みによって七五三調を表現し、そして何よりの特徴ははるか遠くの比叡山を借景としていることだと思う。
 1週間ほど前に雪が降ったそうで、雪の積もったこのお庭も見てみたかったなと思う。
 何とも、ぼーっとできるいい場所である。
 そのうち、先客の方々はお帰りになり、私の貸し切り状態となった。嬉しい。こんな贅沢なこともそうはあるまい。


 広縁には、正伝寺が特集された旅行雑誌などが置かれていた。中秋の名月のときだけ夜間の拝観ができるようで、「比叡山と満月とお庭」の写真が大きく載せられていた。
 いいなぁ、自分の目で見てみたいなぁ、と思う。
 雪も見てみたいし、サツキの花がピンクに咲きそろった頃にも来てみたい。


広縁から お庭が目的で来たのでお庭ばかり眺めてしまったけれど、今自分が広縁に座っているこの方丈も重要文化財である。元は伏見桃山城にあった遺構で、この場所に移されて本堂になったという。
 それにしても、お寺には「元は**の**でした」という建物が多いなと思う。その昔に権力者と強いつながりがあったからかしらと思う。
 また、この広縁の天井は、いわゆる「血天井」だ。伏見城に立てこもった徳川方の鳥居元忠以下1200名が落城の際に切腹して果てた廊下の板を天井にしている。
 恐ろしい。そんなものが頭上にあるなんて、しかもここはお寺なのに、何とも背筋が寒くなる話である。


 15時30分前に帰ろうかと立ち上がったところに、次の拝観者がやってきた。
 女性二人連れで、私とは違ってお庭ではなく狩野山楽筆というふすま絵(重要文化財に指定されている)が目当てでいらっしゃったらしい。
 先ほどの方とは別の和尚さんが出ていらして、広縁とを隔てる板戸を開け放ってくれたので、私も一緒になって拝見させてもらった。
 もっとも、私には「中国っぽい風景だなー」といくらいの感想しか浮かばない
 襖絵よりも、先代の和尚さん作だという、線の代わりにお経で(つまり小さな文字で)描かれた涅槃図の方にしげしげと見入った。ある意味、執念の賜である。


 1時間半以上も滞在し、正伝寺を後にした。
 16時前に神光院前のバス停からバスに乗り、京都駅に向かう。少し道が混んでいたこともあって1時間弱かかった。
 再び伊勢丹の地下に行き、新幹線で食べようと夕食代わりのおにぎりと、中村藤吉本店の抹茶ゼリィを買い込んだ。
 また、「日本で一番小さい漬け物屋」とお兄さんが呼ばわっていた声につられ、お土産に楽味京都で半割だいこん(ごま)と千枚漬けを買う。


 お買い物を終え、17時42分発ののぞみの自由席に空きを見つけて座り、永平寺・京都旅行を終えた。


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