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2011.01.03

ヨルダン・エジプト旅行記2日目その1

2010年9月19日(日曜日)


アブダビ空港 現地時間の3時45分、アブダビ空港に到着した。
 予定よりも1時間以上早い。ただでさえ待ち時間が長いのに迷惑である。
 この写真のターミナルまで移動し、4時30分に解散となった。ボーディングタイムである7時30分まで自由時間と言われても、このターミナルには時間を潰せるお店などがほとんどない。


 無料で使えるインターネット(日本語表示は可能だけれど日本語入力はできないようだった)でヨルダンの天気予報を調べたり、数少ない(1店舗か2店舗という感じ)お店を眺めてヨルダンでもエジプトでも職場へのお土産を買えなかったらここでラクダのミルク入りチョコレートを買おうと下調べし、金製品のお店を覗くともうやることがなくなってしまった。
 そして、寒い。帰りには絶対にフリースを手荷物に入れておこうと決心する。
 カフェでカフェオレを飲んで暖まりつつ文庫本などを読んで、ミネラルウォーターを買い、30分遅れの8時から始まった搭乗の列に並んだ。


 EY0513便は、定刻の8時30分に離陸した。
 15分後には機内食のサービスが始まる。メニューは、季節の果物、フルーツヨーグルト、クロワッサン、仔牛肉と卵のフリッター、野菜のラトゥイユとマッシュルームのソテー添え、である。
 行きの飛行機で食べた3回の機内食のうち、この機内食が一番美味しかった。


 アンマン時間の11時(アブダビとの時差1時間)に、クィーンアリア国際空港に到着した。
 順調に行っていればあと20分は早く到着していたと思う。しかし、空港が混雑していたせいで、一度は完全に着陸態勢に入った飛行機がほとんどタッチアンドゴーの状態で再浮上し、大きく旋回してアプローチし直すということがあった。
 エティハド航空、大丈夫なんだろうか。


 空港では、全員分のパスポートが集められ、私たちは入国審査のブースではなくクルー用の通路を通してもらえた。こんなことは初めてで、びっくりした。ビザ取得の都合があったためだと思う。
 ここで現地の英語ガイドであるファイサルさんが合流し、まず昼食に向かった。
 アンマンは標高が860mで今日の予想最高気温は31度だ。しかし、標高の下がるジュラシュの最高気温は39度の予報が出ているそうで、「何日か前には気温50度の日もあった。」と言われても慰めにはならない。


 ツアーメンバー22人でバスに乗り込み、バスはイスタンブールからアカバまでを結ぶデザートハイウエイに乗り、ジュラシュ遺跡に向かった。
 1時間くらいの道のりの中、ヨルダンには大学が35あって教育レベルが非常に高いこと(この道沿いにも大学がいくつかあった)、今は、ブドウやざくろ、イチジクのシーズンであること、ヨルダンにはパレスチナ・キャンプが13カ所あること、ヨルダンの人口の43%はパレスチナ人であり、6%はキリスト教徒、約半数はイスラム教徒(スンニ派)であることなど、ガイドさんの英語ガイドを添乗員さんが日本語に通訳してくれる。


 また、簡単なアラビア語講座もあった。ありがとうはシュックラン、朝から昼にかけての挨拶がサバハリヘール、昼以降の挨拶がマサハリヘール、英語の「ハロー」に当たる万能の挨拶がマルハバだと教えてもらう。
 北アフリカ地域と中東では、同じアラビア語を喋っていてもアクセントは全く異なっていて、ファイサルさんも北アフリカの人がしゃべるアラビア語が判らないらしい。


 また、今走っている「デザートハイウエイ」は、元はシルクロードの隊商なども通った道である。その他にヨルダン国内にはローマやギリシャが侵入(侵略か)したときに使われた小さな道がたくさん残っている。
 バスは、いわゆる「砂漠地帯」に向けて走っており、どんどん植物っぽいものが減ってきているのが感じられる。植物の丈が低くなり、まばらになり、見かける植物が「人間の手で何とか生きながらえている」感じに変わる。
 だからこそ、遠くに見えたキング・タラール ダムのようなダムも造られている。キング・タラールとは今から2代前のヨルダン国王のことである。


 そんなお話を聞きながらバスで1時間ほど走り、ジュラシュ遺跡近くの「レバノン・ハウス」というレストランに到着した。
 ヨルダンに到着した最初の食事がレバノン料理というのもシュールである。


前菜のサラダひよこ豆のペースト


ケバブパン焼き釜


 ヨルダンでの昼食は概ねこういう感じだった。
 薄い皮が膨れたパンが出て、豆や茄子などのペースト、酢漬け野菜のサラダ、ポテトフライなど、前菜が何種類か出される。
 メインは、牛やチキン、仔羊の肉のケバブである。イスラム教の国なので、豚肉は食さない。
 また、アルコール類は出すレストランと出さないレストランがあるようだ。この後に炎天下での観光が控えていたこともあって、私はここではレモンジュース(2JD)をお願いした。
 13時過ぎに到着して14時30分過ぎまで、ミルクココナツプリンのデザートまでゆっくり時間をかけていただいた。


ハドリアヌスの門 レストランからジュラシュ遺跡まではすぐだった。
 紀元2世紀に建てられたというハドリアヌスの門は修理中だ。三つの入口を持ち、フィラデルフィア(アンマン)に向いていることから、フィラデルフィア門とも呼ばれている。
 一番高いところで高さ17m、石灰岩で作られており、ここから南門に真っ直ぐ道が続いている。
 この門の内側で暮らしていたのは身分の高い人だけで、一般の人は門の外で暮らしていたらしい。その数3万人というから、相当に大きな都市である。


 ハドリアヌスの門を抜けた左側にあるのが競馬・戦車競技場で、現在は、ここでかつて行われていた競技を寸劇にして見せている。
 その練習なのか、馬2頭に引かせた馬車が競技場内を全力疾走していて、「これはもしかしてぞろぞろ入ってきた私たちへのサービスかも」と居残ってその様子を眺めていたらツアー一行に置いて行かれてしまった。
 イヤホンガイドがあるからいいやと油断していたら、こうした遺跡の陰に入ると電波が届かずに聞こえない。焦る。サングラスをしてイヤホンガイドをつけて帽子を被ると必ずどれかが上手く使えなくなる。もっと焦る。


 何とか遺跡のメインゲートである南門で追いつき、フォーラムに入ることができた。
 ジュラシュ遺跡は2世紀に建てられたものだけをとにかく発掘している。このフォーラムは、ギリシャ人が建て、ローマ人が作り替えたものだ。
 そういえば、ゼウス神殿、アルテミス神殿という名前の神々の名前は、ギリシア神話のものである。ローマ神話であればジュピターになりダイアナになるのだろう。
 2世紀頃、ローマ皇帝がヨルダン南部を征服し、ペトラもローマ帝国に併合されて、ジュラシュは交易路の中心となって繁栄していたらしい。
 南ヨルダンにしかない石がジュラシュ遺跡に使われているというのも、その証しだ。


アゴラ フォーラムというのはつまり広場で、市場か宗教儀式に用いられていたらしい。
 その隣にあるアゴラは、これがまたギリシアっぽいと思うけれど、いわば集会所であり、真ん中に泉がある。
 アゴラの続きには、まな板台のような石というか岩が置かれたお肉屋さんの跡があり、その隣には生け簀もついた魚屋の跡がある。
 フォーラムもアゴラも綺麗に残った柱が印象に残る。それだけではなく、これら二つの遺跡は「パクス・ロマーナ」の象徴というべき施設だそうだ。


大列柱通りライオンの泉の口 ジュラシュ遺跡は結構インフラが整っていて、アゴラの真ん中には泉があったし、大列柱通り(写真右)の両脇にはオイルランプを置くための窪みが一定間隔で作られている。
 インフラなのか権威を示すためなのか、ニンファニウムにあるライオンの頭の彫刻(写真左)は、その口の部分から水が出るように作られていたらしい。
 ニンファニウムの隣には2階建ての商店が並び、それらは最高級品を扱う店である。
 ライオンなどを捌いた生け贄用の石の台なども残されている。
 何というか、やけに生活感のある遺跡だ。


北劇場 大列柱通りの左側にある、いくつもの教会跡やアルテミス神殿に向かう階段などはスルーし、真っ直ぐ進む。
 この先には北門があり、ダマスカスに向いているところから「ダマスカス門」と呼ばれている。現在は通行止めとなっている。
 その手前にある北劇場に入った。ジュラシュ遺跡には南北二つの劇場があって、こちらの方が小さい。
 しかし、演者と観客が眩しくないように東西向きには作らないようにしてあり、音響効果もいい。ギリシャ時代には仮面劇で一人何役もこなしていたのに対して、ローマ時代になってバックステージが作られるようになったそうで、なかなか気が利いているし芸が細かい劇場だ。


アルテミス神殿 アルテミス神殿は、大列柱通りから行こうとすると綺麗に整えられた階段を上がることになる。アルテミスはゼウスの娘であるので、人々は階段を上りきったところで膝をついて一礼して敬意を表していたそうだ。
 また、アルテミス神殿の神聖な入口を示すために一番太い石灰岩の柱が使われている。
 次の予定が気になり始めたらしいファイサルさんは、アルテミス神殿にはこれくらいの距離までしか近づいてくれず、柱を構成する石と石の間に隙間があって耐震構造になっているという話を確認しそびれてしまった。残念である。


街中の遺跡跡 そのまま、もの凄い勢いで歩いて南劇場を目指した。
 途中、ファイサルさんがジュラシュの街中を指さして何か言っている。添乗員さんが語学力と視力を駆使して教えてくれたところによると、ジュラシュ遺跡として整備されているのはかつての町の半分だけであり、残り半分は現在のジュラシュの街中に埋もれてしまっていて、その一部が見られるという。
 私の視力では「多分、この辺り」ということしか判らなかったので、添乗員さんの指の差す方を確認して勘を頼りにカメラを適当に向けて撮ったのがこの写真である。
 この半分が発掘されることはないんだろうな、という気がした。
 この頃には私は暑さでヘロヘロで、一人、最後尾を歩くことが多くなった。


南劇場の底から 南劇場は収容人数3000人と大きい。そして、心なしか「オープンエア」な感じがする。
 また、ハドリアヌス門から近いため、観光客が訪れることも多いようで、舞台に楽団が現れて演奏などしてくれる。
 しかし、私の南劇場での目当ては客席の一番上からジュラシュ遺跡の全景を眺めることである。
 この、結構一段一段の段差が大きい階段を非常に気をつけて上り、一番上の一番端っこまで行って、ジュラシュ遺跡の全景を眺めて満足した。目標達成である。


 後半は駆け足になりつつ見学しても、気がついてみればもう17時少し前で、急いでアンマンに戻った。
 そのバスの中で、ファイサルさんはジュラシュ遺跡の説明を追加してくれる。
 アルテミス神殿が高いところに高く建てられたのは、見上げれば神殿が目に入るという状況を作ることで神のことを忘れない、常に神とともにあるという気持ちを持ち続けるためだったという。
 ジュラシュ遺跡の成り立ち(例えば、使われた石灰岩をどうやって切り出したのか、とか)が書かれた本の紹介もしてくれる。英語だったし、タイトルやら何やらは忘れてしまった。


 また、ジュラシュ遺跡は地震によって7回崩れており、そのため非常に珍しい形で残っているそうだ。
 遺跡に詳しくない私にはどこが「珍しい」のかよく判らなかったけれど、ともかく1800年代にやっと発見されて以降、発掘と研究が進められているということだった。


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