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2011.01.09

ヨルダン・エジプト旅行記2日目その2

2010年9月19日(日曜日)


 17時少し前にジュラシュ遺跡を出発してアンマンに戻った。
 現在のヨルダン王国は、ダビデ王が建国したイスラエル王国の版図の一部に含まれていたという。
 ヨルダンを征服した古代エジプトが都を建設して「アンモン」と名付けたのが、今のヨルダンの首都アンマンの最初である。
 その後、いくつかの国の支配下に置かれ、エジプトのプトレマイオス2世の統治下において、その名前にちなんで「フィラデルフィア」という名前で呼ばれるようになり、ローマに征服された時代にも、気候や七つの丘があるという地形がローマと似ていることからローマ人に愛されたという。
 現在のアンマンは、100万人都市である。


 ジュラシュ遺跡を出発して40分余、信号が一つもなかった。
 それはアンマン市内に入ってからも同様で、大都市圏でも信号がないというのは、ヨルダンとシリアの特徴だという。
 信号がなくてどうしているかというと、round aboutというシステムが採用されている。道路が交差する地点にはその真ん中に丸い「島」が置かれ、その島に沿って車は通行し、自分が行きたい道路に辿り着いたらそちらに逸れる、という形だ。
 昔、住んでいたアブダビでも同じシステムを採用していた。今はどうなっているだろう。


パレスチナキャンプ アンマンのオールドタウンでは、車窓からパレスチナ難民地区を見ることができた。この写真がそうである。
 パレスチナ難民のキャンプはヨルダン国内に何カ所かあり、そのほとんどはアンマン市内にある。パレスチナ難民の人々はヨルダンのパスポートを持っていると聞いて少し驚いた。
 元々は名前のとおり「キャンプ」だったところに小さな家を建て、そこから拡大していった形なので、見た目は「街」であっても、例えば下水道施設などインフラが整っていない場合も多いらしい。


アンマン城からの眺め 17時20分くらいにアンマン城に到着した。
 小高い丘になっていて眺めがいい。オールド・アンマンの建物が黄色と茶色に揃っているのは、景観を気にした政府の方針だという。夕方の太陽に照らされて赤く染まるのが綺麗だ。
 また、南側からはローマ劇場が正面に見えて、これまた気持ちのいい眺めだ。かつてはここからローマ劇場に至る急階段があったらしい。あったとしても下りたくないよ、と思う。


ヘラクレス神殿 アンマン城観光は本当に本当に駆け足で、私は付いて行くだけで精一杯だった。ほとんどメモを残していない。
 この写真は、アントニヌス帝の命で作られたヘラクレス神殿らしいけれど、そういう説明を受けた覚えがなくて、横を急ぎ足で通り過ぎたという記憶だけが残っている。18時に閉館となる考古学博物館に入館することを最優先にしていたようだ。


 アンマン城内にあるヨルダン考古学博物館は、本当に小さい建物だ。いずれ、現在建設中の国立博物館にその所蔵品のほとんどが移される予定だという。
 ここには、世界最古の集落であるエリコから出土した頭蓋骨などの重要なものが展示されている。
 しかし、私のお目当ては、ズバリ、死海文書である。


 ウィキペディアによれば、死海文書とは「1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。」そうだ。
 そんな貴重な「文書」がこんな小さな博物館に、これといった説明もほとんどなく、ガラスケースには入っていたもののほとんど「放置」に近い形で展示され、写真撮影も禁じられていない。
 鷹揚というべきか無防備というべきか、判断に迷ってしまう。


ウマイヤ朝の謁見の間少年達


 ドームのついた建物は、ウマイヤ朝の王への謁見のための建物で、両脇には待合室のようなものがあった「筈」だという。
 入口から向こう側から見通せるなど、王宮と同じ造りになっている。
 この建物の横には、同じくウマイヤ朝のハンマムの遺構が残っていて、雨水を貯めるための井戸で、恐らくは地元に住んでいるのだろう少年が二人遊んでいた。しかし、どうやって入り込んだのだろう?
 いい笑顔で写真に収まってくれた。


 「バスのエンジンがかからない」と言われて5分くらい待機し、18時20分には出発した。正味1時間の見学だ。時間があったら、もっとゆっくり見学したかったなと思う。
 しかし、これだけ急いでも時間は大分押しているらしい。バスは一路、死海へ向かった。


オールドアンマンの繁華街 ヨルダンでは金・土が週末で、日曜の今日は平日に当たるため通勤ラッシュが起きていると説明される。しかし、ビジネスアワーは8時から15時までだという説明もあって、17時を過ぎてどうしてラッシュになるのか謎である。
 アンマン城は、オールド・タウンを望むジャバル・アル・カラアの山頂にある。
 バスは、今も現役で使われているローマ劇場の横を過ぎ、オールド・タウンの繁華街を抜けて行く。車窓から見えた街角で売っているサトウキビのジュースなどがとても美味しそうだ。
 ヘチマのたわしが売っていて何だか変な感じである。日本だけのものではなかったらしい。


 オールド・アンマンのランドマークである、アル・フセイン・モスクの横も通った。ウマイヤ朝時代に作られたという。
 モスクの前で売っていたデーツに話が移り、今は生のデーツが食べられる季節に当たるそうで「明日、手に入れてくるよ。」とガイドさんが言う。ツアーメンバーのどなたかが出発前に「デーツを買いたい。」とリクエストを出していたらしい。
 アブダビに住んでいた頃、干したデーツは嫌というほど食べたけれど(というか、嫌になってあまり食べなかったような気もするけれど)、生のデーツというのは見たことがない。楽しみだ。


 ヨルダン国立美術館を通り過ぎてしばらく行くと、バベルの塔をモデルに作られたというロイヤルホテルが見えた。とは言うものの、車窓からでは、円柱形の建物だということが見て取れるくらいで、どの辺がバベルの塔っぽいのかよく判らない。
 イギリス在住のイラク人が出資したという話も、何だか不思議である。バベルの塔ってイラクにあったんだっけ? などと阿呆なことが一瞬頭をよぎる。


 また、アメリカ大使館の横を走っているときに「ここは写真を撮らないでください。見つかると面倒です。」と言われたのが印象に残っている。えっ?! と思う。
 その近くに「超超超高級住宅街」があったのも、何だか複雑な感じだ。200平方メートルで200万JDくらいだという。2億5000万円。高い。


死海の塩 アンマン市内を抜けるとバスは調子よく走るようになり、19時近くに添乗員さんから、「石鹸を買いたいというご希望があったので、トイレ休憩を兼ねて死海グッズのお店に寄ります。」と案内があった。
 そこは、DEAD SEA TREASURERSというブランドの工場直販のお店で、市価の半値程度で購入できるという。
 ツアーは女性が多いので、添乗員さんを含め、みなが色めき立つのを感じる。
 もうすでに陽はとっぷりと暮れており、場所等々はよく判らない。アンマンから死海へ向かう道沿いの左側、海抜0m地点よりも少し(バスで20分くらい)アンマン寄りだった。


 お店にはヨルダンの一般的なお土産を売るコーナーもあったけれど、もちろん死海グッズのコーナーに突進である。
 店員さん達は「コニチハ〜。」と迎えてくれる。もちろん、日本語はここまで、すぐ「お前達のリーダーはどこだ?」と聞かれた。
 石鹸にバスソルト、化粧品、パック用の泥まで種類が多すぎてとてもじゃないけれど選べない。特に女性陣は、何だか一気にこのお買い物で仲良くなったような気がする。


 「20分くらいで。」という添乗員さんの見込みはもちろん軽くオーバーし、40分くらいは滞在したと思う。
 私は、主にバスソルトを購入した。240g入りのパックで1JD(125円くらい)だったから超お買い得である。58JD(のさらに10%引き)を散財した。
 ここで沢山バスソルトを購入したことがたたって、この後ずっと、移動のたびにパッキングに苦労することになった。添乗員さんから「エティハド航空は、帰りの便ではあまり重量チェックはうるさくないし、液体物の機内持ち込みも現在は大丈夫だけれどいつ変わるか判らないので、スーツケースに入れて帰国、重量制限ありのつもりでお買い物を。」と言われていたのに、マヌケである。


 海抜0m地点に達する前辺りで、翌日以降の案内があった。今日1日が長かったことと、死海で遊んでくださいということで、明日の出発は11時と遅めである。
 ホテルでマッドスパを受けたい人は、明日の朝8時から受けられるので今日のうちに予約を入れましょう、という話だった。1時間程度で30JDである。
 ペトラでもオプショナルのような形でホテルの外でハンマムを体験していただくことができます、そちらは飲み物がついて20JDです、という案内もあった。


 この辺りから、死海の対岸にイスラエルの灯りが見え始めた。はっきり言って、死海東岸のヨルダン側よりも死海西岸のイスラエル側の方が明るい。開けているという感じがする。
 イスラエルとヨルダンの国境はとても長くて450kmに及ぶ。
 この辺りから、エルサレムの灯りもエリコの灯りも見ることができる。


 海抜0m地点 調子よく走っていたバスが再び止まり、何かと思ったら「ここが海抜0m地点です」と言われた。
 みんなで真っ暗な中バスを降り、代わる代わるこの看板とともに記念撮影する。
 お買い物の興奮で忘れていたけれど、この頃から耳鳴りはするし、ペットボトルはぺちゃんこになるし、標高800mのアンマンとの標高差を示す現象がちらほらあった、
 死海はここからさらに420mも下ったところにある。海抜0m地点にいたのに、そこからもさらに道が下り続けるというのは変な感じだ。


 そして、標高が低い(というか、低すぎる)分、死海周辺は暑い。
 今日の死海の最高気温は45度で、明日もそれくらいまで上がるでしょうと言われてクラクラした。死海に浮いて遊ぶのも、なるべく朝早いうちにした方が良さそうである。
 逆に夜は暖かいので、ヨルダンの人たちは夜にピクニックに来ることもあるらしい。お買い物をしたりしたから凄く遠かったような気がしたけれど、アンマンからの日帰り(それも夜)のピクニック圏内である。
 ガイドさんと運転手さんも今夜はアンマンの自宅に戻るという。


ミント入りレモンジュース 20時10分過ぎに死海のDEAD SEA SPA HOTELに到着した。
 お部屋の割り振りをしてもらい、荷物を置いて、20時40分という結構遅めの時間からの夕食となった。夕食はバイキング形式だった。特にこのお料理が美味しかったといった記憶はない。
 その代わり、ここでの夕食で記憶に残っているのは、ミント入りレモンジュースである。
 ミントを入れてもらうと1JDくらい追加料金がかかって3.5JDになったけれど、これは絶対にミント入りがお勧めである。こんなに緑色になるくらいミントがたっぷりと入っていて、スムージーになっている。
 とにかく美味しかった。


 夕食後、マッドスパを希望する女性陣が集められた。少し前まではホテルで予約が可能だったけれど、現在はホテルとスパ施設の経営者が異なっているので、予約はスパ施設に直接行かなくてはならないそうだ。
 明日の朝、自力で予約を入れて受けてください、という話だった。
 まあ、よくある話である。


イスラエルの灯り ツアーの方のお一人と、スパ施設の場所の確認がてら(もっとも、暗くて結局どこにあるのかよく判らなかった)レストランからプールサイドに出て、イスラエルの灯りを眺めた。
 22時くらいでこんなに明るいのだから、相当に都会なのだろう。逆にイスラエルからヨルダンを眺めたら、ぽつんぽつんとホテルの灯りが見えるだけのような気がする。


 部屋に戻って洗濯してお風呂に入り、旅メモをつけようとしたけれど、日付が変わる前にブラックアウトした。
 本当に長い1日だった。


<この日の服装>
 キャミソール、ガーゼの長袖シャツ、デニムのスカート


<歩数計>
 ヨルダン時間9月18日18時から19日18時まで 8964歩


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