ヨルダン・エジプト旅行記3日目その1
2010年9月20日(月曜日)
昨日は日もとっぷり暮れてから到着したので、「死海に沈む夕日」は見られなかった。
それなら「朝日に照らされるイスラエル」を見てみたいと無理矢理に6時に起き出した。
カメラだけ持ってプールサイドに行ってみたところ、残念ながら死海対岸のイスラエルは霞んでいて、「朝日を浴びた」という感じではなかった。
この写真は、朝食を食べにレストランに行った際、7時過ぎに撮ったものだ。
同じツアーで「日焼けが怖いから早朝に浮かびに行くわ。」とおっしゃっていた方と行き会う。擦り傷にとても沁みたそうで「とてもじゃないけれど、痛くて長くはいられなかった。」という話だった。
先ほど出会ったツアーの方と一緒に7時過ぎに朝食をいただいた。早く行き過ぎて、その場で焼いてくれるオムレツが始まっていなかったのが残念である。
部屋に戻る前に「明るくなったら探せるかも」とスパ施設を再び探しに行くと、これがあっさりと見つかった。
中にはお掃除をしている若い女性だけがいて、9時に担当者が来るから9時になったら来いと言う。
バゲージダウンが10時30分だし、それなら先に死海に浮かんでおかなくてはならない。
部屋で水着に着替えてビーチに行く途中、念のためスパ施設に寄ってみたら、8時過ぎだったけれど何故か担当者がいて、あっさりと9時からの予約を取ることができた。
本当によく判らない。
海岸に行き、まずはとにかく浮いてみる。
浮く浮く! 死海の水が目に入るととんでもなく痛いと注意を受けていたので仰向けに浮く。膝くらいの深さの水に何の苦労もなく浮くのが不思議である。
水も透明度が高くて綺麗だ。塩分濃度が高すぎてプランクトン等々が生きられないからかなぁと思う。
普通に泳ごうとうつぶせになろうとすると、何故か膝から下がとんでもなく浮き上がってバタ足をするどころではない。水が目に入らないように顔も上げているのでほとんど海老反りのようになって不安定この上ない。
諦めて仰向けのまま、手の力だけで移動する。
気持ちいい。
どこも痛くない。この時点で、私の左足の小指は水ぶくれになっていたけれど、全くしみず、痛くもなかった。
いくらでも浮いていられそうだ。
そうして浮力を楽しんでいると、添乗員さんに言われて予約時間が迫っていることに気付き、慌ててマッドスパに向かった。
そこは、正確には DEAD SEA MEDICAL CENTER というらしい。
かなり殺風景な部屋に連れて行かれ、二人同時に施術が受けられるようになっているもう一つのベッドに、朝お会いしたツアーの方がすでに体中に死海の泥を塗られた状態でいらした。
その方は肌が敏感で、顔に泥を塗られたところがヒリヒリして痛いと言う。そう訴えられたスタッフがティッシュで泥を拭き取ろうとしたため、擦るような感じになって更に痛くなってしまったらしい。
あちこちでスパを体験されているというその方は「ワースト1・2位を争う」と評していた。
ほとんどスパの経験などなく、しかも皮膚が異様に丈夫な私は泥を塗られてビニルに包まれると、何だか暖かくなってうとうとした。そして、新陳代謝が異様にいいので、ビニルで包まれた瞬間から大汗をかき始めた。
正味30分くらい蚕のような状態で放置され、しばらくしてやってきた係の女性にビニルを剥がされて「ここにシャワーがあるから勝手に浴びて身支度をして帰れ。」と言われた。
サービス精神は期待しない方がいいようだ。しかし、この写真を撮ってくれたのは同じ女性である。謎だ。
先ほどの方が「部屋から持ってきたからよかったら使って。」と置いて行ってくださったシャンプーを有り難くいただいて泥がついた髪も洗い、私の「死海の泥でマッドスパ体験」は終了である。
これで30JDは確かに少々高いかも知れない。何しろ、海岸には同じ泥が塗り放題で置いてある。
大汗をかいたので、まだ朝食をやっているレストランにもう一度行き、こっそりジュースをいただいてテラス席でのんびり飲む。
「これぞリゾート!」という感じがちょっと嬉しい。しかし、暑い。
優雅だったのはオレンジジュースを飲んでいたこの10分くらいのもので、その後、バゲージダウンに向けて昨日購入したバスソルトを何とかキャリーケースに詰め込んだ。
ホテル出発は11時である。
死海は、いわずと知れた世界で一番低いところにある湖で、その名前はアラビア語に由来するという。
死海がアフリカ大陸から紅海に至る大地溝帯のほぼ北端に位置していると聞いてちょっと驚いた。ケニアで見た大地溝帯の続きを見ていたなんて、想像もしていなかった。
死海の水源はヨルダン川で、年間降水量は50〜100mmと少なく、夏の間は32度から40度、非常に暑い日は50度まで上がるというその気候のために水が蒸発し、塩分濃度が非常に高くなる。
ちなみに、この日のこの時刻の気温は35度くらいだったらしい。
通常の海の塩分濃度は3%程度、死海は30%程度とほぼ10倍だ。それは人間が浮くわけである。
そんな環境でも、死海で1カ所だけある水が湧く地点では魚の生息が確認されているというからさらに驚きだ。
死海は20世紀半ばから湖面の低下が観測されていて、近年中に中央に突き出した半島部分が対岸と繋がって二つに分かれてしまうのではないかとも言われているという説明があった。
ヨルダンでは「まだ二つに分かれていない」という話だったけれど、この間、前に別のツアーでお世話になった添乗員さんにその話をしたら「すでに二つに分かれていますよ。」と言われた。
Googleで死海周辺の航空写真を見たら、確かにすでに南北の二つに分かれてしまっている。
死海が二つに分かれてしまった(湖面が低下した)理由は、イスラエル建国以降、ヨルダン川の水を農業用水として盛んに活用していることと、死海南岸でカリウムが生産されていることではないかと考えられているそうだ。
死海の消滅を阻止するため、紅海と死海を結ぶ運河を建設する計画があるという。間に合うだろうか。
ネボ山の山頂が見え隠れするようになった頃には、辺りはまた砂漠地帯となっていた。
ベドウィン(遊牧民)のテントも見られる。ベドウィンはヨルダン人口の3%というから、随分と少ない。しかし、ヨルダン人のルーツはやはりベドウィンになるらしい。
ヨルダンの人はベドウィンのことを「バディア(元々の言葉の意味は砂漠)」とも呼ぶそうだ。
ベドウィンの生計は家畜を育てて売ることで成り立っている。それだけでは暮らせない場合には政府から月に200JDの援助も出されている。生活用水は「買いに行く」というから大変だ。家畜用の水はなく、動物たちは植物から水分を摂取する。
一方で、羊は1頭200JDで売れるし、らくだは1000JDで売れるというから、裕福な暮らしをしているベドウィンもいる。貧富の差が広がっているのかも知れない。
これから向かうネボ山は、標高800mちょっとで(本によって書いてあることが違うらしい)それほど高くはない。
もちろん、ネボ山は高さの故に有名なのではなく、カナンの地を目の前にして亡くなったモーセの終焉の地としてその名が知られている。モーセの墓の蓋とも言われる石碑があると聞いて、そのお墓はどうなってしまったのだろうと思う。
11時半ころ、ネボ山に到着した。
ネボ山の入口には、2000年にヨハネ・パウロ2世が聖地パレスチナの巡礼中に訪れたことを記念する塔が立っていた。
当時、記念にオリーブの木を植えたという。どの木がその記念樹なのかよく判らなかった。
ネボ山は、現在でもヨハネ・パウロ2世が訪れるくらいの「聖地」であり、紀元前6世紀頃にはキリスト教の中心地と言っても過言ではなかったらしい。その頃のモザイク画が残されている。
ネボ山の山頂には、4世紀に建てられ、6世紀に増築された教会が残されているけれど、修復中で入ることはできなかった。
実はモーセが埋葬された地は判っていないけれど、教会の中にはモーセのお墓もあるという。
しかし、ネボ山のキーポイントは何と言ってもモーセも眺めた(というか、眺めることしかできなかった)カナンの地を望むことである。
ビジターセンターにあった地図を指さして、ガイドさんに「で、結局カナンの地ってどこなの?」と乱暴な質問をしたら、「ここだ。」と彼が手のひら全体で押さえたのは、要するにヨルダン川西岸一帯の辺りだった。
友人は、イスラエルを旅したときに「こんなに過酷な環境だから、この地で宗教が生まれたのだ」と非常に納得したと言っていた。
出発前に出エジプト記を読んで「この神様って、単なる嫌な奴じゃん!」と暴言を吐いたときにも、彼女は、「あの過酷な環境では絶対的な信仰が必要だって判るよ。」と言っていた。
私もこの地に立てば「宗教が生まれる」ことに心の底から納得できるのではないかと期待していたら、何故だかそういう感想が浮かんで来なかった。
私が思ったのは「カナンの地も(憧れるほど)豊かには見えない」ということだけだ。
私には十字架には見えなかったけれど、展望台にイタリア人のジョバンニ・ファンローニが製作した十字架が立てられていた。
この十字架は、モーセが荒野で作った真ちゅうのヘビをモチーフにし、十字架にヘビが巻き付いているような意匠になっている。そんな話が出エジプト記にあったっけ? と聞いたら、民数記の記述だそうだ。
出エジプト記にモーセの一生が書いてあると思い込んでいたら、実は出エジプト記には、モーセが十戒を授かるところまでしか書かれていないそうだ。モーセたちの苦難はその後も延々と続いている。
ネボ山のいたのは40分くらいで、その後、トイレ休憩を兼ねて、モザイクの学校兼工場兼お土産物屋のようなところまでバスで10分ほど走った。
そこは、A.MOSAICという名前で、まずモザイク作成の様子を見学する。
モザイクに使う石は全て天然石で、緑色は翡翠、白は大理石、黒はオニキス、赤は瑪瑙だという。作成するときは裏側から作ってセメントを塗って乾かし、ひっくり返せば平らな表側が出現するという仕組みだ。
お手洗いを借り、かなり広大なお土産物屋を見て回っていたら、店員のお兄さんが「HAND MADEだ」と強調するパシュミナに目が止まって衝動買いしてしまった。
100JDのこのパシュミナがヨルダンで一番高い買い物だった。今更だけれど、値切れば良かったと思う。
13時頃、マタバの街に到着した。
ランチの前にセント・ジョージ教会の見学に向かい、まずは教会の外の看板のところで説明を受ける。暑い。
この教会には紀元前527年のパレスチナの地図がモザイク画で床面に残されている。この地図は実際に旅をして作られたそうだ。
1819年に発見され、さらに6年後に北の方(ヨルダンが描かれた辺り)が発見されている。
毎日10時間の作業を2年間続けて1892年に復元が完成し、1965年に西ドイツの協力でさらに整備が進んで現在のような状態になった。
200万個のモザイクで作られていて、現存しているのは80万個だというから、復元にも整備にも相当の手間と時間が掛かって当たり前だよと思う。
パレスチナの地図を見ると、全体の下3分の1くらいのところを左からヨルダン川が流れ、死海に注ぎ込んでいる。
ヨルダン川は、この地図が描かれた頃にはもっと深くて広い川だったそうで、船も浮かんでいるしお魚も泳いでいる。死海にはさらに大きな帆船が浮かび、港も作られている。
ヨルダン川のすぐ南側にはエルサレムの街が描かれ、赤い屋根の聖墳墓教会や、ヨシュアがヨルダン川で1個の白い石を拾ったことでできたという12の泉も描かれている。
なかなか芸が細かい。
死海の南岸には描かれていた人の姿は、イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため、後に剥がされてしまったそうだ。何と勿体ない! と思う。
この地図にはシナイ山やナイル川も描かれている。ナイル川は当時、天国に繋がっている七つの川の一つだと考えられていたという。
イスラエル、ヨルダン、エジプトを跨がる地図が、縦6m、横17mにわたってモザイクで描かれている。これは必見だ。
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