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2011.01.30

ヨルダン・エジプト旅行記4日目その2

2010年9月21日(火曜日)


お墓の並ぶ道 ペトラ遺跡のエル・ハズネを右に回り込むと、再びシークがあり、続いてそのシークを掘り抜いたようなお墓が並んでいる。考えてみたらかなり不気味だけれど、この明るさもあって、ヒュードロドロといった雰囲気は全くない。
 このお墓の並びは「17の墓」と呼ばれている。本によるとヘグラと呼ばれるお墓で、その正面はギリシア神殿を模しており、内部にはピラミッド型のネフェシュ(が何を指しているのかはよく判らない)が多く刻まれている。


 お墓の上部に刻まれた階段状のギザギザはこのお墓の象徴で、ナバテア人は、死者の魂がこの階段を上って天国に行くと信じていたという説明は覚えている。
 しかし、あとは、とにかくどんどん奥を目指して歩いていたという記憶しかない。知らないということは、何と勿体ないことかと思う。


犠牲祭壇への階段 岩を削って作られたような階段を上っていく人がいる。
 「ここを上れば犠牲祭壇に行ける。往復2時間かかる。」という説明をみんなが聞き流し、ガイドさんも足を向ける様子もなく通り過ぎる。
 我々が行かなかった犠牲祭壇は、2本のオベリスクがその入口に立ち、カナンの地の「犠牲祭壇」と同じ様式で作られ、しかも、カナンの地のそれは保存状態が非常に悪いのに対して、ほぼ完璧な状態で保存されているという。
 行ってみたかったけれど、体力も時間も足りない。
 ペトラ遺跡に丸1日では全く時間が足りなすぎる。


四重のお墓(正面から)四重のお墓(斜めから)


 四重になった建物群もお墓である。
 どちらがどちらだったか忘れているところがマヌケだけれど、多分、前者(17の墓)が貴族のお墓で、後者(四重のお墓)がナバテア式の一般の人のお墓だという説明を受けたような気がする。
 前者には入ることができない。後者には入ることができた。一般の人のお墓には、家族全員が埋葬してある。
 それにしても、正面から見た印象と、斜めから見た印象のこの違いは何なんだろう。同じ「お墓」だとはとても思えない。
 そして、実際に自分がその場、その中に立つと、これまた印象が違う。


 お墓の中に入ってみると、いきなり、赤い縞模様がくっきりと現れた。
 お土産を売っていた女性のお嬢さんなんだろう、そのお墓でかくれんぼでもしていたのか、ペトラ遺跡を完全に自分の遊び場としている感じがあった。


円形劇場 円形劇場は、元々ナバテア人がお墓を作っていたところ、後の人が劇場に作り替えたと言われている。
 劇場で音楽などが演奏され、観客席のお尻の下は元はお墓、というのはどうなんだろう。円形劇場に作り替えて利用していた人々は、そういうことは気にしなかったんだろうか。
 この劇場は4000〜5000人を収容できたという。
 階段状の客席などは浸食が激しいという説明で、「中に入ろうとした」という記憶もないので、恐らく今は内部には入れないと思う。


 円形劇場を通り過ぎると、お茶屋さんが並び、その上に岩窟墳墓群が現れる。
 しかし、お茶屋さんで10分ほど休憩した後、岩窟墳墓群も素通りした。
 王の墓が並んでいるコプタ山がペトラで一番高い山であることや、王の墓が並ぶこの辺りがネクロポリスと呼ばれていることなどを話しながらガイドさんは先を急ぐ。
 心の中で「勿体ない!」と呻きつつ、ガイドさんに付いて行く。


柱廊通り 柱廊通りの端に立ち、その正面に見える二つの丘は神だと考えられていたという説明があった。
 柱廊通りに沿って作られている水路は、ワディ・ムーサの街まで続いているという。
 この通りは昔からペトラの幹線道路だったらしい。重要な遺跡群もあるが、同時にこの辺りは6世紀の地震でほとんどの建物が崩れ落ちている。廃墟のように見えるのはそのせいだ。


 道路幅があり、両脇に崖が迫っておらず、この辺りに来ると「開けた」という感じがした。
 頭の上を覆うものがない。
 視界を遮るものもほとんどない。
 ペトラ遺跡って気持ちのいい場所だ。そう強く思ったのは、このほとんど残っているもののない荒涼とした景色を見たときだったような気がする。


青の教会モザイク画


 ガイドさんは、ここで柱廊通りを進まず、右側の丘に上り始めた。
 そこには、ペトラの中に三つある教会のうちの二つがある。三つめの教会は丘を越えた向こうにあると説明された。丘があり過ぎて一体どこにあるのかさっぱり見当がつかなかい。
 青く塗られた柱が4本ニュッと突き出しているところが、いわゆる「青の教会」である。ガイドさんは、「見たければ見てきてもいいよ」という言い方で、もしかすると「近くにあるので紹介してみました」という感じだったのかも知れない。


 その手前にあった発掘中の教会では、ガイドさんの説明も熱心だった。動物をテーマにした床面の大理石のモザイクがかなり綺麗に残っている。
 この教会では他にギリシャ語のパピルス文書が発見されており、修復と解読が行われている。
 教会からさらに南に進むと「翼のあるライオンの神殿(ただし、翼のあるライオンは博物館に収められている)」がある筈だけれど、12時30分を回って日射しも強いし、お腹も空いたし、どうも「見た」という記憶がない。


カスール・アル・ビント南神殿 「翼を持ったライオンの神殿」と、南神殿(写真左)と、カスール・アル・ビント(写真右)とが、ペトラに残る三つの神殿である。
 南神殿はナバテア人が建造した神殿で、三つの中では一番新しい。 
 その先にある、カスール・アル・ビントも神殿であるらしい。ビザンチン教会がある場所は小高くなっていて、景色が良かった。我々一行は足早に通り過ぎてしまったので、それが何なのかはペトラの本を見て初めて知った。


昼食 そのまま柱廊通りを突き当たりまで進み、右に折れたところのレストラン「バシン」で昼食をいただいた。
 このレストランはクラウン・プラザ・ホテルの経営で、ビュッフェ式のランチを食べられる。
 ホテルの経営だから味は保証付きだし、お腹は空いているし、身体も疲れているのに、何故かがつがつ食べることができない。とても混雑していて、建物の中に入ってもあまり冷房が効いていないからかも知れない。
 焼きトマトの水分や、オレンジジュース(4JD)の酸っぱさが嬉しかった。


隘路 暑さをしのぐ意味もあって1時間ほどレストランで休憩し、希望者でエド・ディルに向かった。ロバで行くこともできますという案内があったけれど、利用した人はいなかったようだ。
 レストランの前の道をそのまま奥に進むと、あっという間に細い階段の道が始まる。階段といっても岩に刻まれたものである。


 10分ほども歩いて振り返ると、こんな絶景を目にすることができる。
 すでに息が上がって、ガイドさんのペースで歩けずに最後尾に下がっていた私には何よりのご褒美である。
 ちょうどこの辺りに、ライオンのトリクリニウムと呼ばれるお墓に行く道があった筈だけれど、全く気がつかなかった。下ばかり見て歩いていたせいに違いない。


お茶屋さんからの眺め レストランを出発して30分くらいかけて、やっと途中のお茶屋さんに到着した。
 大汗のヘトヘトだったので冷たい水(1JD)を買い、見晴らし台のようになったお茶屋さんの椅子で一休みする。うん、美味しい。
 そして、眺めがいい。岩窟墳墓群がくっきりと見える。
 10分ほど休憩して何とか歩く気力を取り戻して出発すると、同じツアーの方が戻ってくるのと行き会った。お二人はこの後ハマムに行くので、17時30分までにホテルに戻って水着などの用意をしなくてはならないから急いでいるとおっしゃっていた。
 「あと少しだよ。」の声に励まされて歩くこと10分、エド・ディルに到着した。


エド・ディル デカイ。
 エル・ハズネに辿り着いたときには何故かあまり「デカイ」と思わなかった。そのエル・ハズネよりも大きいとはいえ、エド・ディルはとにかく「デカイ」という感じで迫ってくる。
 入口の辺りにいる人と比べればそのデカさが判ろうというものだ。
 800段近い階段をここまでがんばって歩いて来た甲斐もあった。来て良かった!


 エド・ディルは1世紀半ばにナバテア人によって建てられた神殿である。
 その後、この辺りに修道士が住み着いていたことから「修道院(エド・ディル)」と呼ばれるようになったという。
 装飾を完全に落とし、一回り大きくし、エル・ハズネの様式を写し取っている。
 資料によって若干の違いがあるけれど、エル・ハズネは幅28m、高さ40mあり、エド・ディルは幅47m、高さ40mある。


 しばらく呆然と眺めた後、エド・ディルの向かい側にあるお茶屋さんで小休止した。何だか休憩ばかり取っているようだけれど、とにかく暑いし、体力を消耗するので休憩は必須である。
 ここで、持ってきていたゼリー飲料を飲んで荷物を軽くし、栄養補給した。


展望台 お茶屋さんの背後に小高い丘があり、上ることができる。「VIEW POINT」の標識もあったので、再び疲れた身体にムチ打って上り始める。
 ここまでのことを考えればあっという間でも、やはり上がり始めるには勢いが必要だった。


 ここでもまた、上がった甲斐がある眺めを目にすることができた。
 眼下に見えるエド・ディルも見事だし、その向こうにはワディ・ムーサの街(だと思われる)までが一望だ。
 いい風に吹かれていると、笛の音が聞こえてきた。誰が吹いているのだろうときょろきょろしていると、「視力2.0」と言っていた添乗員さんが「あそこ!」と指さしたその先には、エドディルのてっぺんにある高さ9mの壺があった。
 目を凝らすと、壺のてっぺんに人が立っている。  何者だよ。何考えているんだよ。


 みんなしてしばらく目を凝らして見守る。
 後で知ったところでは、エド・ディルの左側に細い階段があり、事故があったため今は登坂禁止になっているものの、てっぺんの屋根まで上がることができるようになっているそうだ。
 それを知らなかったので「足場のないところをどうやって」「しかも、あの壺のてっぺんに立って笛まで吹いているよ」「あの服装はクラウンか?」などと妄想が頭の中をぐるぐると回る。


 未だに、彼が誰で、何を思ってそんなことをしたのかは不明だ。
 そして、この彼に気を取られて、白いドーム型をしたモーセの兄のアロンのお墓がジャバル・ハルーン頂上にあった筈なのにすっかり探すのを忘れてしまった。


エド・ディル内部からエド・ディル内部 エル・ハズネとは違い、エド・ディルは中に入ることができる。
 ただし、「どうぞお入りください」といった親切さはなく、入口は1mを超えるくらいの高さのところにあって、階段もない。荷物を先に上げ、半ばよじ登るようにして中に入った。
 エド・ディル内部は非常にシンプルな空間で、一番奥に、両脇に階段がついて上がアーチ方になった「窪み」があるだけだ。壁に見える文字は、恐らくは観光客のイタズラ書きだろう。心ないことをするものである。
 ガランとした空間に外から明るい光が差し込み、独り占めしているのはなかなかよい気分だった。


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2011.01.28

ヨルダン・エジプト旅行記4日目その1

2010年9月21日(火曜日)


生デーツといちじく 6時30分に起きた。ペトラの山に囲まれたような感じになっていることもあって、日の出は7時と遅い。
 7時15分くらいから朝食をいただく。その場で焼いてくれるオムレツがあるのが嬉しい。
 昨日バスの中でもらったイチジクとデーツも食べてみた。イチジクは熟していて甘くて美味しく、フレッシュ・デーツはとんでもなく渋かった。私がもらったデーツがことさらに「ハズレ」だったのか、渋さの良さを判らないお子様の舌しか持っていないせいなのか、よく判らない。


 今日は1日ペトラ遺跡で過ごすことになっている。
 紀元前7世紀頃には、モーセ率いるヘブライ人が土地を通過することを拒んだと旧約聖書に書かれているエドム人がペトラに都市を築いていたようだ。しかし、現在のペトラで見られる遺跡のほとんどは、ナバテア人が建造したものだ。
 それでは、ナバテア人とは何者かということは、実はよく判っていないらしい。紀元前4世紀頃にアラビア半島から移動してきた遊牧を生業とする人々だとされている。
 資料によって「ナバテア人」となっていたり「ナバタイ人」となっていたりする。


 ナバテア王国は、紀元前1世紀から1世紀にかけて、中国とローマを結ぶ収益性の高い交易ルートに位置したペトラで豊富な水を提供し、略奪者からキャラバンを保護する見返りとして通過するすべての商品に税を課して、最大の繁栄期を迎えている。
 2世紀にはローマ帝国の属州に組み入れられ、ビザンチン帝国時代の度重なる地震でほとんどの建物が崩壊し、再建されることはないまま、7世紀以降、歴史上から姿を消してしまっていたらしい。
 19世紀初頭にスイス人探検家が「再発見」するまで、ペトラは「失われた都市」だった。


馬 こういった基本知識は後から仕入れたもので、予備知識はインディ・ジョーンズだけという状態で、9時にホテルを出発した。
 遺跡の入口からシークの入口まで、昨日のペトラ・バイ・ナイトのときは歩いた道を今日は馬に乗って行く。我々に渡された今日の1日入場券(30JD)には馬に乗る分のチケットも含まれている。馬から下りるときに2JDか3USDのチップを渡してくださいと注意を受け、順番に馬に乗せてもらう。
 遺跡の入口からエルカズネまで馬車に乗ることもでき、料金20JD、チップに5JDが必要という説明もあった。全員がシーク入口からは歩くことを選択したようだ。
 馬に揺られて15分ほどでシーク入口に到着した。


 馬に揺られているうちにあっという間に到着してしまい、馬の頭ばかり見て周りの景色をじっくり見ることができなかった。
 実は遺跡入口からシーク入口までの間にも、ジン・ブロックスと呼ばれている岩塊の墳墓や、上部にオベリスクが四つ並んでいるオベリスクの墓や、その1階部分のように見えつつも実は全く違うお墓だというトリクリニウムの墓と呼ばれるお墓もある。
 楽をさせてもらった代わりに、こうしたものを見逃した(というか、見たことは覚えているけれど何の感慨もなく通り過ぎてしまった)のは、勿体なかったなぁとも思う。


シーク入口 シークの入口部分は砂岩のアーチになっていたけれど、1869年の地震で壊れてしまっている。
 シーク入口には、ナバテア人が峡谷に水が流れ込まないように作ったダム(今はその機能を失っている)などもあるし、この正面にそびえる岩窟には広間が掘られている。
 その見学は後回しにして、午前中の光を浴びたエル・ハズネを見るため、私たちは先を急いだ。
 シークは天然の峡谷で、エル・ハズネまで約1.5kmある。シークの左側の岩肌には水路が掘られており、ワディ・ムサなどから水を集めてきていたという。シークの足もとは石灰岩だから、水は浸透せずにそのまま流れて行く訳だ。


祈願用の壁龕顔 シークは、ペトラ内部に至る主要な交通路であったのと同時に、宗教的な価値も高かったらしい。
 その証拠に、シークの両側には岩を掘って様々な彫刻がなされている。
 例えば、シークのほぼ中間地点に立つ岩は「神様の家」だ。真ん中にくりぬかれた祈願用の壁龕があり、その両側はナバテア式の角柱で挟まれ、上部には装飾が施されている。
 祈願用の壁龕の左側の大きい方には、様式化された四角い目と筋で掘られた鼻があり、これは、アル・ウザ女神の象徴として典型的なものだという。口がないのは、神はモノを食べないからだ。


隊商の壁画 また、上半分が失われてしまっている像も、下半分だけで、ラクダを人が引いているところだと判る。


 この像から10分も歩かないうちに、ついにシークの向こうが明るくなり、そこにエル・ハズネが見えてきた!


 当然のことながら、しばらくはみなして写真撮影に夢中である。
 私も、エル・ハズネの真下に行ってこんな写真を撮ってみたりした。


エルハズネの地下エルハズネの由来


 エル・ハズネの真下に行ったついでに地下を覗くと、金網越しに見ることができた。
 この先に、「インディ・ジョーンズ」のような地下迷宮が広がっていると楽しいが、エル・ハズネの奥行きは浅い。
 この地下部分は8年前に発見され、王室の一員か関係者のお墓ではないかと考えられている。つまり、まだ決定的な何ものも出土していない。そもそも、エル・ハズネの主だって判っていないのだ。


 「エル・ハズネ」とは、「宝物殿」という意味である。
 エル・ハズネの一番上にある壺に宝が入っていると信じたエジプト人がそう名付けたという。名付けただけならともかく、そのお宝を取りだそうと壊してしまったのはいただけない。
 もちろん、壺の中には何も入っていなかったそうだ。


エルハズネ全景馬の像 エル・ハズネは、神殿ではなくお墓として使われていたとガイドさんは言う。
 もし神殿として神を崇めるために使われていたのならあった筈の生け贄台が見つかっていない。
 また、1階部分の両脇の彫刻は壊されてしまっているけれど、馬が彫られていたと判っている。馬は神聖なものとされ、お墓に葬られた人の眠りを守る魔除けと考えられていたという。
 2階部分のアマゾネス像は、イスラム教で偶像崇拝が禁止されているため、何となくの輪郭だけを残して破壊されてしまっている。


 1階の馬を連れて立つ人物は、ギリシア神話のゼウスとレダの間に産まれたカストルとポルクスの双子の兄弟と考えられている。
 ファサード1階部分の柱や三角の屋根には明らかにローマの影響が見られ、エル・ハズネは、ギリシャ、ローマ、エジプト、シリアの文化の特徴をミックスした建造物だと言える。
 1849年に発見されたとき、エル・ハズネのすぐ前のこの広場には川が流れており、6本の柱のうち真ん中向かって左側の1本は折れていたそうだ。


 ナバテア人は加工しやすい砂岩にこうした「お墓」を掘り出している。
 ただし、いくら掘りやすいといってもこれだけ大きいとやはり作るのに時間がかかるので、王妃が妊娠するのと同時にその子の墓を作り始めたというから驚く。
 加工しやすいということは崩れやすいということでもあるけれど、エル・ハズネなどは岩を掘って作られているので額縁が付いているのと同じ強度があり、また、出っ張った部分がないので浸食されにくいという特徴も持つ。


エル・ハズネ内部 現在、エル・ハズネ内部に入ることはできない。これは、望遠で無理矢理撮った入口から見える内部の写真である。
 エル・ハズネ内部は待合室と小さな3つの部屋があるだけだ。壁面なども、素っ気ない岩肌に漆喰が塗られていただけらしい。
 また、奥には壁を切り込んだアルコーブがあって、そこには棺が置かれていたと考えられている。
 エル・ハズネがお墓として使われていたことはほぼ確かな一方で、「誰のお墓か」ということは判っていない。
 ガイドさんは紀元前1世紀にいた二人の有名なナバテアの王のうちどちらかの墓だろうと言う。一人は、ギリシャ文化をナバテアにもたらしたアレタス3世、もう一人は(名前は忘れたけれど)非常に人民を保護した王だ


エルハズネ上部 エル・ハズネはまず2階部分から掘り始められているう。
 2階部分の両脇には踊る女性が描かれ、真ん中の奥まったところにいる羽を持った女性像も含めた3体がアマゾネスだ。
 1階の上にある三角屋根の一番上には王冠があり、またその下の2段に分かれたところには玉があったが、いずれも壊されている。
 この三角屋根に彫られたざくろはお金持ちの象徴で、ワイン(ぶどう)は長生きの象徴である。三角屋根の外に彫られた薔薇の花もやはり生命の象徴だというし、きっとエル・ハズネの彫刻の一つ一つには意味があるのだろう。何だか陽明門みたいだ。


天文台への階段 エル・ハズネ前の広場には、写真モデル兼遺跡内の足となるラクダたちがたくさん控えている。
 ベンチがあって、冷たい飲み物なども売られている。
 エル・ハズネに向かって左側に階段が掘られていて、階段を上がるとそこはナバテア人が作った天体観測のための場所になっている。
 ペトラはこれだけで終わりかのように見せて、実はさらに奥にもの凄い広さの遺跡が広がっている。エル・ハズネに向かって右に回り込むと、再び短いシークが現れる。
 結局、エル・ハズネ前に私たち一行は40分くらいも留まっていた。


サンドボトル エル・ハズネ右横のシークの両脇にはお墓が並んでいる。そして、お墓の他にもここには有名なものがある。
 サンドボトルだ。
 サンドボトルに使う砂は、着色されたものではなく、全て自然の砂が使われている。
 実演を見せてもらったところ、赤っぽい砂をボトルに入れ、その赤い砂を傾けて黒っぽい砂を上から入れる。黒っぽい砂を突いて細い棒を赤い砂のところまで差し込むと、その細い棒で空いた空間に黒い砂が落ちて行く。
 あっという間にラクダが形作られて、思わず拍手した。
 今頼めば帰りまでに名前入りのオリジナルサンドボトルを作って貰えると言われ、何人かの方が注文していた。


 まだ11時過ぎだったけれど、この近くにあったお茶屋に入っての休憩になった。
 何しろ、暑い。
 日陰に入ってかなりほっとした。


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2011.01.24

ヨルダン・エジプト旅行記3日目その2

2010年9月20日(月曜日)


 素晴らしいものを見てもお腹は一杯にならない。
 セントジョージ教会から歩いて5分くらいのところにあるHaret Jdoudnaというレストランでランチになった。
 オープンエアのレストランでなかなか感じがいい。レモンジュース(3.5JD)を注文する。ここではミント入りではなかったのが残念だ。


前菜カバブ


 昨日の昼食よりもさらに前菜が豪華だった。
 一番人気だったトマトソースの前菜の他に、サラダやピクルス、ひよこ豆のペーストなどの定番の前菜も次々と出てくる。サモサのような料理も美味しかったし、テーブルをご一緒した方と協議した結果「多分ヨーグルトだろう」という結論になったペースト状の前菜も美味しい。
 地元の方の集まりらしいテーブルで赤い炭酸飲料を飲んでいる男の人がたくさんいて、添乗員さんに聞いてもらったら、グレナデンシロップをスプライトで割ったものだということだった。お酒を飲まない(飲めない)分、炭酸飲料がかなり飲まれている印象だ。


 そして、メインのお肉たちが香ばしくて柔らかく、特にミンチにしたお肉に香辛料を混ぜて串に刺して焼かれたものがとても美味しかった。私のいたテーブルは全員揃って健啖家で、他のテーブルで食が進んでいないのを見ては「何て勿体ない!」「お皿、交換しちゃいましょうか。」などと騒いだし、ガイドさんにアラビア語で「美味しい」は何と言うのか教えてもらった。
 アラビア語での美味しい」は「ラジーズ」と「ラディーズ」の間くらいの発音のように聞こえた。
 デザートのスイカを食べ終わるまで1時間30分という、ゆったりした時間を過ごした。


 15時くらいにマタバの街を出発し、一路、ペトラに向かった。
 今日の死海の最高気温は41度くらいだそうで、聞いた途端にクラクラした。そして、昨日は45度あったらしい。


車窓風景(オリーブ) ネボ山に行く途中で「この辺りはベドウィンが多い」という説明を聞いた。マタバの街からペトラに向かう道筋にもやはりベドウィンが多く、かつ、畑が多いという。
 オリーブ畑もあって、ヨルダンではオリーブオイルが1kg6JDくらいで売られているらしい。マタバの街で見たお肉(牛かラムかどちらか)が1kg10JDだったから、お肉が高いと言うべきか、オリーブオイルが安いと言うべきか、どちらだろう。


 クィーン・アリア国際空港が見えた辺りで、竜巻が現れ始めた。遠いとはいえ、何本も立っている。凄い。
 竜巻は気温と風の状態によって起こり、大きいものは直径100m、高さ1kmにもなるそうだ。巻き込まれたくないものである。
 この辺りは、地盤が軟らかく、砂が細かく、竜巻が上がりやすいという。ただし、それほど強力ではなく、大きな被害が出ることはまずないと聞いて安心した。


ヨルダンの男の子 パレスチナキャンプの街に通りかかったところでバスが止まり、ガイドさんが水を調達しに行った。バスの中で、500ml入りを2本1ドルで販売してくれていたミネラルウォーターだ。
 外を眺めていたら、大きなリュックに引っ張られるように歩いているやたらと可愛い男の子がいたので、つい隠し撮りした。
 随分長く駐まっているなぁと思っていたら、ガイドさんが、ミネラルウォーターだけではなく、フレッシュ・デーツといちじくも調達し、みんなに配ってくれた。添乗員さんが早速かぶりつき、いちじくは「甘い。」、フレッシュ・デーツは「少し渋いけど、りんごのような歯触りで甘い。」と評していた。


 デーツを700g、いちじくを1.3kgくらい買って、併せて6JDだそうだ。
 ヨルダン国内では、国内産のお肉はマタバの街で聞いたとおり1kg10JDくらい、ニュージーランドなどから輸入したお肉はそれよりも安く、1kg6JDくらいで買える。
 ガイドさんの言う「お肉」というのは牛や羊を指していたようだ。鶏肉はまた事情が違っていて、一切輸入しておらず、1kg2JDで買える。
 ヨルダンに来て初めて物価が安いと思ったような気がする。


リンを掘った跡 16時30分ころにお土産物屋さんでトイレ休憩を取り、バスは再びペトラに向けてデザートハイウエイを飛ばした。
 リンはヨルダンでは観光業に次ぐ主要産業で、世界でも3番目の産出量を誇っており、主にアカバから船で輸出している。
 車窓からリン鉱石を掘った跡が見える。砂が積み上げられているのは、リンを掘る際にはダイナマイトを使うためだ。。


 このリンをアカバの港から輸出するために、アカバまで鉄道が敷かれている。その鉄道がイスタンブールまで延びているというから驚く。
 そして、この鉄道敷設のためにもの凄い量の木が伐採されたらしい。
 ちなみに、ヨルダンは中東の砂漠の国には珍しく石油も天然ガスもなく、両方とも輸入に頼っている。


夕日と月 18時30分頃には、周りの景色がかなり夕日に照らされて赤くなり、空には月も出た。今頃のヨルダンは日の出も日没も6時30分ころである。
 この後、昼の時間がどんどん短くなる代わりに気温が下がり、ベストシーズンはこれからだ。


 バスの中で「ペトラ・バイ・ナイト」の説明があった。これは完全なオプションである。
 料金は12JDまたは18USDで、20時にホテルロビーに集合し、ガイドさんや添乗員さんの同行なしでペトラ遺跡入口に行き、その他のツアーの人々と一緒に参加する。所要約2時間である。
 エル・ハズネまで片道約2kmを歩き、音楽を聴いて帰って来るという感じになるそうだ。
 気温が、22〜23度になると聞いて、砂漠地帯の割に下がらないのだなと思う。
 明日の出発時間が9時と遅めだし、参加を決めた。ツアーメンバーの4分の3くらいの方が参加を表明していたと思う。


 夕日と月が本格的に競演を始めた頃、ペトラの山々が見え始めた。
 ペトラ遺跡の玄関口となっているワディ・ムサという街に入り、モーセが杖でついたら水が湧き出たという伝説のある「モーセの泉」を通り過ぎ、5分くらい走ったところで写真ストップとなった。
 眼下にベイト・ザマンという、村を丸ごとホテルに改造した超高級ホテルが見える。
 夕日が沈もうとしている山々の向こうにペトラ遺跡がある。
 夕日が落ちきるまで、たっぷり堪能した。


夕食 ホテル到着が19時少し前、ペトラ・バイ・ナイトの集合が20時だからなかなか忙しい。
 19時15分に夕食となった。
 このホテルに2連泊するし、これから歩くのにお酒というのもどうかと思い、2Lくらいのお水を買った。
 ビュッフェ形式なので待ち時間がないのは有り難い。それでもかなり慌ただしい夕食になった。


 20時にホテルのロビーに集合し、ガイドさんに連れられてペトラ遺跡の入口に向かった。
 今回ツアーで宿泊したクラウン・プラザ・ホテルは遺跡の入口から徒歩5分という好立地のホテルで、あっという間に到着する。
 「ここでしばらく待っていれば案内があるからまたね。」と言い残してガイドさんは去って行った。10分か15分か待つと、行列が一斉に一方向に動き始めた。開門したらしい。
 こんなにたくさんの人が押し寄せてどうやってチケットを確認するんだろうと思っていたら、回収されて納得した。なるほど。記念にチケットが欲しかったけれど、これは仕方があるまい。


 砂地の道の両脇にろうそくがカバー付きで置かれている。
 2kmくらいと言われたものの、暗いし、等間隔に灯りがあると逆に距離感が掴みにくい。写真を撮ろうと立ち止まってチャレンジしたものの、どうにもブレるか真っ暗になるかのどちらかで、早々に諦めた。
 一眼レフを持っていらした方は随分と粘っていて、後で見せてもらったらかなり格好いい写真を撮っていらっしゃった。羨ましい。
 写真撮影などで立ち止まっていたら、あっという間にツアーメンバーのほとんどの方を見失ってしまった。


 一緒にツアーに参加したお友達が今日はホテルに残っているというお嬢さんと一緒にエル・ハズネに向かう。
 ところどころに係の人が立っていて「No Flash!」と注意しても、一向にフラッシュの光が消える様子はない。恐らくフラッシュを焚いてしまっている人は、フラッシュの止め方を知らないのだと思う。
 「ろうそくの灯りのみ」という幻想的な雰囲気が売りなので、懐中電灯なども使用禁止である。月が明るいこともあって、足もとに不安はない。


シーク シークに入ると、かなり暗くなったように感じた。
 「間に合うように行ってくださいね。」と言われていたことを思い出し、何となく足早に歩く。
 シークの割れ目から月が照らしているのを見たときには我慢できずに立ち止まり、しばらく時間をかけて写真撮影にチャレンジした。かなり粘ったけれど、私のカメラで三脚もなしだとこれくらいが限界だ。


 前方が明るくなってきたなと思ったら、そこがエル・ハズネだった。
 おぉ! と声を上げたくなる大きさである。
 エル・ハズネの前は広場のようになっており、ろうそくの灯りがたくさん置かれている。その周りに毛布のようなものを敷いて客席が作られており、係の人に順番に座るように誘導された。まだ始まっていないようだ。
 アウトドア用のクッションを荷物に入れていたことを思い出し、「持ってくればよかった!」と心の中で叫んだ。


ろうそく灯りのエル・ハズネ 熱い紅茶の紙コップが配られ、甘いそれを飲んだ頃に音楽が始まった。
 ろうそくの光だけではシルエットしか判らない。出発前のガイドさんに聞いたところでは、ベドウィンの音楽が演奏されるという話だったと思う。
 男の人の歌声がかなり響く。岩で囲まれたこの広場は天然のコンサートホールのようなものだ。何となくアブダビを思い出す抑揚だ。
 高音の笛が印象的な曲も続いた。こちらは、絵としてアラビアン・ナイトっぽい気がする。


 最後に比較的若い声の男の人が出てきて、何やら物語を語り始めた。
 英語である。何を言っているのかはさっぱり判らない。
 「目覚めよ、我が息子よ。」という台詞を繰り返していることは判る。ベドウィンに伝わっている物語なのかも知れない。


 最後に彼は「みんな、カメラを構えて!」と声を上げた。
 「一斉に、フラッシュの光でエル・ハズネを照らすぞ。」と言う。
 フラッシュの光に対応できるように設定変更するの大変なんだよなとぼんやり思っているうちに、あっさりと彼はかけ声をかけ、その場にいたたくさんの人が持つたくさんのカメラが一斉にフラッシュを焚き、エル・ハズネが一瞬、昼間のような明るい光に包まれた。
 カメラを構えなかったことを後悔しなかったくらい、それは、思わず息を呑んでしまったほど不思議で美しい光景だった。


 そして、「ペトラ・バイ・ナイト」は終わった。


 エル・ハズネに近づくと、ちょうど真上辺りに月がかかっていた。
 何とかこのエル・ハズネと月のツーショット写真をものにしようと、参加者がどんどんシークに吸い込まれていく中、必死で急角度を見上げるようにしてカメラと格闘する。
 ここで写真撮影を粘った結果、エル・ハズネを出発したのは22時を過ぎ、同じツアーの方3人で戻ってホテルの部屋に入ったのは23時近かった。


 それからお風呂に入り、連泊なので洗濯し、どうしてもクーラーの温度調節ができなかったので寒さのあまりクーラーを切った。
 今日はそれほど歩いていないのに左足の小指の水ぶくれがどんどん酷くなっている。元々の指の部分と水ぶくれで膨らんだ部分がほとんど同じ大きさに見える。
 明日は1日中ペトラ遺跡を歩くのに、この小指で大丈夫なのか心配だ。


 部屋の冷蔵庫の扉がプラスチックの紐のようなもので縛られていて開けられないようになっている。
 後になって、そのプラスチックの紐は使用禁止という趣旨ではなく、冷蔵庫を使いたいときにはを切ってしまえばいいと教えてもらったけれど、この日は「けちー! どうして使わせてくれないんだよー!」と思ってぷんぷんしていた。
 ペットボトルの水とティーバッグで水出しのルイボスティーを用意する。大体、一晩常温の水に入れておけば飲み頃のお茶ができる。
 さらに、折りたたみ傘やウィダーインゼリーなど明日の遺跡見学に持って行くものを整理して、0時頃に就寝した。


<この日の服装>
 半袖Tシャツ、長袖シャツ、カプリパンツ


<歩数計>
 ヨルダン時間9月19日18時から20日18時まで 6582歩
 (この歩数には、ペトラ・バイ・ナイトで歩いた分は含まれていない)


 ヨルダン・エジプト旅行記3日目その1 <- -> ヨルダン・エジプト旅行記4日目その1

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2011.01.21

280000アクセス達成!

 昨日(2011年1月20日)、どなたかが280000アクセス目を踏んでくださった。
 10000アクセスに40日を切る日数しかかかっていないなんて、何だか怖い感じがする。
 やはり、相変わらず持ち物リスト(エジプト編)のアクセスが多い。

 これまでの経過は以下のとおりである。
 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 20000アクセス 2005年11月16日
 30000アクセス 2006年3月30日
 40000アクセス 2006年8月1日
 50000アクセス 2006年11月22日
 60000アクセス 2007年5月16日
 70000アクセス 2007年9月6日
 80000アクセス 2007年12月28日
 90000アクセス 2008年3月14日
100000アクセス 2008年6月15日
110000アクセス 2008年8月12日
120000アクセス 2008年9月23日
130000アクセス 2008年11月9日
140000アクセス 2008年12月27日
150000アクセス 2009年2月21日
160000アクセス 2009年5月5日
170000アクセス 2009年7月13日
180000アクセス 2009年8月29日
190000アクセス 2009年10月11日
200000アクセス 2009年11月30日
210000アクセス 2010年1月27日
220000アクセス 2010年3月31日
230000アクセス 2010年6月3日
240000アクセス 2010年8月6日
250000アクセス 2010年9月16日
260000アクセス 2010年10月31日
270000アクセス 2010年12月14日
280000アクセス 2011年1月20日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2011.01.20

ツアーの催行が決まる(知床流氷)

 今日(2011年1月20日)、旅行会社のサイトで確認したところ、11日に申し込みをした「砕氷船おーろら・流氷ノロッコ号 SL冬の湿原号と知床・摩周」ツアーの催行が決定されていた。

 申し込みの時に窓口の担当の方に聞いてみたら、「催行が決まっても連絡をすることはしません。催行中止が決まったら連絡をします。」という回答だったので、折を見てサイトで催行状況を確認していたのだ。
 10人以上で催行、申し込みの時点ですでに私を含めて7人の申し込みがあると聞いたからまず大丈夫だろうと思ってはいたものの、やはり、催行が決定されるまでは不安だった。

 昨日から今日にかけて、「流氷初日」ということで、ニュースで流氷の様子が映し出されていたので申し込みをする人も増えたのだろう。

 これで、一安心である。

 あとは、私が行くまでに流氷が接岸し、かつ離れていないことを祈ろうと思う。

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2011.01.11

ツアーの申し込みをする(知床流氷)

 今日(2011年1月11日)、旅行会社に立ち寄って、「砕氷船おーろら・流氷ノロッコ号 SL冬の湿原号と知床・摩周」というツアーの申し込みをした。

 2月26日からの1泊2日のツアーである。
 オプションで流氷ウォークを付けて、66000円強は高いと思うけれど、冬の北海道で足の心配をしないで済むのは有り難い。

 最少催行人数が10人で、現時点では私を入れて7人の申し込みがあるという話だった。

 今年は寒いし流氷も長く接岸するだろうと見込んでいる。流氷が接岸したというニュースが流れれば、多分、申し込みをする人も増えるのではなかろうか。

 催行されることを祈ろう。

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2011.01.10

ヨルダン・エジプト旅行記3日目その1

2010年9月20日(月曜日)


死海の朝 昨日は日もとっぷり暮れてから到着したので、「死海に沈む夕日」は見られなかった。
 それなら「朝日に照らされるイスラエル」を見てみたいと無理矢理に6時に起き出した。
 カメラだけ持ってプールサイドに行ってみたところ、残念ながら死海対岸のイスラエルは霞んでいて、「朝日を浴びた」という感じではなかった。
 この写真は、朝食を食べにレストランに行った際、7時過ぎに撮ったものだ。
 同じツアーで「日焼けが怖いから早朝に浮かびに行くわ。」とおっしゃっていた方と行き会う。擦り傷にとても沁みたそうで「とてもじゃないけれど、痛くて長くはいられなかった。」という話だった。


朝食 先ほど出会ったツアーの方と一緒に7時過ぎに朝食をいただいた。早く行き過ぎて、その場で焼いてくれるオムレツが始まっていなかったのが残念である。
 部屋に戻る前に「明るくなったら探せるかも」とスパ施設を再び探しに行くと、これがあっさりと見つかった。
 中にはお掃除をしている若い女性だけがいて、9時に担当者が来るから9時になったら来いと言う。
 バゲージダウンが10時30分だし、それなら先に死海に浮かんでおかなくてはならない。


 部屋で水着に着替えてビーチに行く途中、念のためスパ施設に寄ってみたら、8時過ぎだったけれど何故か担当者がいて、あっさりと9時からの予約を取ることができた。
 本当によく判らない。


 海岸に行き、まずはとにかく浮いてみる。
 浮く浮く!  死海の水が目に入るととんでもなく痛いと注意を受けていたので仰向けに浮く。膝くらいの深さの水に何の苦労もなく浮くのが不思議である。
 水も透明度が高くて綺麗だ。塩分濃度が高すぎてプランクトン等々が生きられないからかなぁと思う。


 普通に泳ごうとうつぶせになろうとすると、何故か膝から下がとんでもなく浮き上がってバタ足をするどころではない。水が目に入らないように顔も上げているのでほとんど海老反りのようになって不安定この上ない。
 諦めて仰向けのまま、手の力だけで移動する。
 気持ちいい。
 どこも痛くない。この時点で、私の左足の小指は水ぶくれになっていたけれど、全くしみず、痛くもなかった。
 いくらでも浮いていられそうだ。


マッドスパ そうして浮力を楽しんでいると、添乗員さんに言われて予約時間が迫っていることに気付き、慌ててマッドスパに向かった。
 そこは、正確には DEAD SEA MEDICAL CENTER というらしい。
 かなり殺風景な部屋に連れて行かれ、二人同時に施術が受けられるようになっているもう一つのベッドに、朝お会いしたツアーの方がすでに体中に死海の泥を塗られた状態でいらした。
 その方は肌が敏感で、顔に泥を塗られたところがヒリヒリして痛いと言う。そう訴えられたスタッフがティッシュで泥を拭き取ろうとしたため、擦るような感じになって更に痛くなってしまったらしい。
 あちこちでスパを体験されているというその方は「ワースト1・2位を争う」と評していた。


 ほとんどスパの経験などなく、しかも皮膚が異様に丈夫な私は泥を塗られてビニルに包まれると、何だか暖かくなってうとうとした。そして、新陳代謝が異様にいいので、ビニルで包まれた瞬間から大汗をかき始めた。
 正味30分くらい蚕のような状態で放置され、しばらくしてやってきた係の女性にビニルを剥がされて「ここにシャワーがあるから勝手に浴びて身支度をして帰れ。」と言われた。
 サービス精神は期待しない方がいいようだ。しかし、この写真を撮ってくれたのは同じ女性である。謎だ。


 先ほどの方が「部屋から持ってきたからよかったら使って。」と置いて行ってくださったシャンプーを有り難くいただいて泥がついた髪も洗い、私の「死海の泥でマッドスパ体験」は終了である。
 これで30JDは確かに少々高いかも知れない。何しろ、海岸には同じ泥が塗り放題で置いてある。


テラス席 大汗をかいたので、まだ朝食をやっているレストランにもう一度行き、こっそりジュースをいただいてテラス席でのんびり飲む。
 「これぞリゾート!」という感じがちょっと嬉しい。しかし、暑い。
 優雅だったのはオレンジジュースを飲んでいたこの10分くらいのもので、その後、バゲージダウンに向けて昨日購入したバスソルトを何とかキャリーケースに詰め込んだ。
 ホテル出発は11時である。


 死海は、いわずと知れた世界で一番低いところにある湖で、その名前はアラビア語に由来するという。
 死海がアフリカ大陸から紅海に至る大地溝帯のほぼ北端に位置していると聞いてちょっと驚いた。ケニアで見た大地溝帯の続きを見ていたなんて、想像もしていなかった。
 死海の水源はヨルダン川で、年間降水量は50〜100mmと少なく、夏の間は32度から40度、非常に暑い日は50度まで上がるというその気候のために水が蒸発し、塩分濃度が非常に高くなる。
 ちなみに、この日のこの時刻の気温は35度くらいだったらしい。
 通常の海の塩分濃度は3%程度、死海は30%程度とほぼ10倍だ。それは人間が浮くわけである。
 そんな環境でも、死海で1カ所だけある水が湧く地点では魚の生息が確認されているというからさらに驚きだ。


死海の地図 死海は20世紀半ばから湖面の低下が観測されていて、近年中に中央に突き出した半島部分が対岸と繋がって二つに分かれてしまうのではないかとも言われているという説明があった。
 ヨルダンでは「まだ二つに分かれていない」という話だったけれど、この間、前に別のツアーでお世話になった添乗員さんにその話をしたら「すでに二つに分かれていますよ。」と言われた。
 Googleで死海周辺の航空写真を見たら、確かにすでに南北の二つに分かれてしまっている。


 死海が二つに分かれてしまった(湖面が低下した)理由は、イスラエル建国以降、ヨルダン川の水を農業用水として盛んに活用していることと、死海南岸でカリウムが生産されていることではないかと考えられているそうだ。
 死海の消滅を阻止するため、紅海と死海を結ぶ運河を建設する計画があるという。間に合うだろうか。


ベドウィンのテント ネボ山の山頂が見え隠れするようになった頃には、辺りはまた砂漠地帯となっていた。
 ベドウィン(遊牧民)のテントも見られる。ベドウィンはヨルダン人口の3%というから、随分と少ない。しかし、ヨルダン人のルーツはやはりベドウィンになるらしい。
 ヨルダンの人はベドウィンのことを「バディア(元々の言葉の意味は砂漠)」とも呼ぶそうだ。


 ベドウィンの生計は家畜を育てて売ることで成り立っている。それだけでは暮らせない場合には政府から月に200JDの援助も出されている。生活用水は「買いに行く」というから大変だ。家畜用の水はなく、動物たちは植物から水分を摂取する。
 一方で、羊は1頭200JDで売れるし、らくだは1000JDで売れるというから、裕福な暮らしをしているベドウィンもいる。貧富の差が広がっているのかも知れない。


 これから向かうネボ山は、標高800mちょっとで(本によって書いてあることが違うらしい)それほど高くはない。
 もちろん、ネボ山は高さの故に有名なのではなく、カナンの地を目の前にして亡くなったモーセの終焉の地としてその名が知られている。モーセの墓の蓋とも言われる石碑があると聞いて、そのお墓はどうなってしまったのだろうと思う。
 11時半ころ、ネボ山に到着した。


モザイク画 ネボ山の入口には、2000年にヨハネ・パウロ2世が聖地パレスチナの巡礼中に訪れたことを記念する塔が立っていた。
 当時、記念にオリーブの木を植えたという。どの木がその記念樹なのかよく判らなかった。
 ネボ山は、現在でもヨハネ・パウロ2世が訪れるくらいの「聖地」であり、紀元前6世紀頃にはキリスト教の中心地と言っても過言ではなかったらしい。その頃のモザイク画が残されている。
 ネボ山の山頂には、4世紀に建てられ、6世紀に増築された教会が残されているけれど、修復中で入ることはできなかった。
 実はモーセが埋葬された地は判っていないけれど、教会の中にはモーセのお墓もあるという。


 しかし、ネボ山のキーポイントは何と言ってもモーセも眺めた(というか、眺めることしかできなかった)カナンの地を望むことである。
 ビジターセンターにあった地図を指さして、ガイドさんに「で、結局カナンの地ってどこなの?」と乱暴な質問をしたら、「ここだ。」と彼が手のひら全体で押さえたのは、要するにヨルダン川西岸一帯の辺りだった。


 友人は、イスラエルを旅したときに「こんなに過酷な環境だから、この地で宗教が生まれたのだ」と非常に納得したと言っていた。
 出発前に出エジプト記を読んで「この神様って、単なる嫌な奴じゃん!」と暴言を吐いたときにも、彼女は、「あの過酷な環境では絶対的な信仰が必要だって判るよ。」と言っていた。
 私もこの地に立てば「宗教が生まれる」ことに心の底から納得できるのではないかと期待していたら、何故だかそういう感想が浮かんで来なかった。
 私が思ったのは「カナンの地も(憧れるほど)豊かには見えない」ということだけだ。


展望台の十字架 私には十字架には見えなかったけれど、展望台にイタリア人のジョバンニ・ファンローニが製作した十字架が立てられていた。
 この十字架は、モーセが荒野で作った真ちゅうのヘビをモチーフにし、十字架にヘビが巻き付いているような意匠になっている。そんな話が出エジプト記にあったっけ? と聞いたら、民数記の記述だそうだ。
 出エジプト記にモーセの一生が書いてあると思い込んでいたら、実は出エジプト記には、モーセが十戒を授かるところまでしか書かれていないそうだ。モーセたちの苦難はその後も延々と続いている。


モザイク作成中 ネボ山のいたのは40分くらいで、その後、トイレ休憩を兼ねて、モザイクの学校兼工場兼お土産物屋のようなところまでバスで10分ほど走った。
 そこは、A.MOSAICという名前で、まずモザイク作成の様子を見学する。
 モザイクに使う石は全て天然石で、緑色は翡翠、白は大理石、黒はオニキス、赤は瑪瑙だという。作成するときは裏側から作ってセメントを塗って乾かし、ひっくり返せば平らな表側が出現するという仕組みだ。
 お手洗いを借り、かなり広大なお土産物屋を見て回っていたら、店員のお兄さんが「HAND MADEだ」と強調するパシュミナに目が止まって衝動買いしてしまった。
 100JDのこのパシュミナがヨルダンで一番高い買い物だった。今更だけれど、値切れば良かったと思う。


セントジョージ教会内部 13時頃、マタバの街に到着した。
 ランチの前にセント・ジョージ教会の見学に向かい、まずは教会の外の看板のところで説明を受ける。暑い。
 この教会には紀元前527年のパレスチナの地図がモザイク画で床面に残されている。この地図は実際に旅をして作られたそうだ。
 1819年に発見され、さらに6年後に北の方(ヨルダンが描かれた辺り)が発見されている。
 毎日10時間の作業を2年間続けて1892年に復元が完成し、1965年に西ドイツの協力でさらに整備が進んで現在のような状態になった。
 200万個のモザイクで作られていて、現存しているのは80万個だというから、復元にも整備にも相当の手間と時間が掛かって当たり前だよと思う。


 パレスチナの地図を見ると、全体の下3分の1くらいのところを左からヨルダン川が流れ、死海に注ぎ込んでいる。
 ヨルダン川は、この地図が描かれた頃にはもっと深くて広い川だったそうで、船も浮かんでいるしお魚も泳いでいる。死海にはさらに大きな帆船が浮かび、港も作られている。
 ヨルダン川のすぐ南側にはエルサレムの街が描かれ、赤い屋根の聖墳墓教会や、ヨシュアがヨルダン川で1個の白い石を拾ったことでできたという12の泉も描かれている。
 なかなか芸が細かい。


 死海の南岸には描かれていた人の姿は、イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため、後に剥がされてしまったそうだ。何と勿体ない! と思う。
 この地図にはシナイ山やナイル川も描かれている。ナイル川は当時、天国に繋がっている七つの川の一つだと考えられていたという。
 イスラエル、ヨルダン、エジプトを跨がる地図が、縦6m、横17mにわたってモザイクで描かれている。これは必見だ。


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2011.01.09

ヨルダン・エジプト旅行記2日目その2

2010年9月19日(日曜日)


 17時少し前にジュラシュ遺跡を出発してアンマンに戻った。
 現在のヨルダン王国は、ダビデ王が建国したイスラエル王国の版図の一部に含まれていたという。
 ヨルダンを征服した古代エジプトが都を建設して「アンモン」と名付けたのが、今のヨルダンの首都アンマンの最初である。
 その後、いくつかの国の支配下に置かれ、エジプトのプトレマイオス2世の統治下において、その名前にちなんで「フィラデルフィア」という名前で呼ばれるようになり、ローマに征服された時代にも、気候や七つの丘があるという地形がローマと似ていることからローマ人に愛されたという。
 現在のアンマンは、100万人都市である。


 ジュラシュ遺跡を出発して40分余、信号が一つもなかった。
 それはアンマン市内に入ってからも同様で、大都市圏でも信号がないというのは、ヨルダンとシリアの特徴だという。
 信号がなくてどうしているかというと、round aboutというシステムが採用されている。道路が交差する地点にはその真ん中に丸い「島」が置かれ、その島に沿って車は通行し、自分が行きたい道路に辿り着いたらそちらに逸れる、という形だ。
 昔、住んでいたアブダビでも同じシステムを採用していた。今はどうなっているだろう。


パレスチナキャンプ アンマンのオールドタウンでは、車窓からパレスチナ難民地区を見ることができた。この写真がそうである。
 パレスチナ難民のキャンプはヨルダン国内に何カ所かあり、そのほとんどはアンマン市内にある。パレスチナ難民の人々はヨルダンのパスポートを持っていると聞いて少し驚いた。
 元々は名前のとおり「キャンプ」だったところに小さな家を建て、そこから拡大していった形なので、見た目は「街」であっても、例えば下水道施設などインフラが整っていない場合も多いらしい。


アンマン城からの眺め 17時20分くらいにアンマン城に到着した。
 小高い丘になっていて眺めがいい。オールド・アンマンの建物が黄色と茶色に揃っているのは、景観を気にした政府の方針だという。夕方の太陽に照らされて赤く染まるのが綺麗だ。
 また、南側からはローマ劇場が正面に見えて、これまた気持ちのいい眺めだ。かつてはここからローマ劇場に至る急階段があったらしい。あったとしても下りたくないよ、と思う。


ヘラクレス神殿 アンマン城観光は本当に本当に駆け足で、私は付いて行くだけで精一杯だった。ほとんどメモを残していない。
 この写真は、アントニヌス帝の命で作られたヘラクレス神殿らしいけれど、そういう説明を受けた覚えがなくて、横を急ぎ足で通り過ぎたという記憶だけが残っている。18時に閉館となる考古学博物館に入館することを最優先にしていたようだ。


 アンマン城内にあるヨルダン考古学博物館は、本当に小さい建物だ。いずれ、現在建設中の国立博物館にその所蔵品のほとんどが移される予定だという。
 ここには、世界最古の集落であるエリコから出土した頭蓋骨などの重要なものが展示されている。
 しかし、私のお目当ては、ズバリ、死海文書である。


 ウィキペディアによれば、死海文書とは「1947年から1956年にかけて、イスラエルの死海北西の要塞都市クムランの近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。」そうだ。
 そんな貴重な「文書」がこんな小さな博物館に、これといった説明もほとんどなく、ガラスケースには入っていたもののほとんど「放置」に近い形で展示され、写真撮影も禁じられていない。
 鷹揚というべきか無防備というべきか、判断に迷ってしまう。


ウマイヤ朝の謁見の間少年達


 ドームのついた建物は、ウマイヤ朝の王への謁見のための建物で、両脇には待合室のようなものがあった「筈」だという。
 入口から向こう側から見通せるなど、王宮と同じ造りになっている。
 この建物の横には、同じくウマイヤ朝のハンマムの遺構が残っていて、雨水を貯めるための井戸で、恐らくは地元に住んでいるのだろう少年が二人遊んでいた。しかし、どうやって入り込んだのだろう?
 いい笑顔で写真に収まってくれた。


 「バスのエンジンがかからない」と言われて5分くらい待機し、18時20分には出発した。正味1時間の見学だ。時間があったら、もっとゆっくり見学したかったなと思う。
 しかし、これだけ急いでも時間は大分押しているらしい。バスは一路、死海へ向かった。


オールドアンマンの繁華街 ヨルダンでは金・土が週末で、日曜の今日は平日に当たるため通勤ラッシュが起きていると説明される。しかし、ビジネスアワーは8時から15時までだという説明もあって、17時を過ぎてどうしてラッシュになるのか謎である。
 アンマン城は、オールド・タウンを望むジャバル・アル・カラアの山頂にある。
 バスは、今も現役で使われているローマ劇場の横を過ぎ、オールド・タウンの繁華街を抜けて行く。車窓から見えた街角で売っているサトウキビのジュースなどがとても美味しそうだ。
 ヘチマのたわしが売っていて何だか変な感じである。日本だけのものではなかったらしい。


 オールド・アンマンのランドマークである、アル・フセイン・モスクの横も通った。ウマイヤ朝時代に作られたという。
 モスクの前で売っていたデーツに話が移り、今は生のデーツが食べられる季節に当たるそうで「明日、手に入れてくるよ。」とガイドさんが言う。ツアーメンバーのどなたかが出発前に「デーツを買いたい。」とリクエストを出していたらしい。
 アブダビに住んでいた頃、干したデーツは嫌というほど食べたけれど(というか、嫌になってあまり食べなかったような気もするけれど)、生のデーツというのは見たことがない。楽しみだ。


 ヨルダン国立美術館を通り過ぎてしばらく行くと、バベルの塔をモデルに作られたというロイヤルホテルが見えた。とは言うものの、車窓からでは、円柱形の建物だということが見て取れるくらいで、どの辺がバベルの塔っぽいのかよく判らない。
 イギリス在住のイラク人が出資したという話も、何だか不思議である。バベルの塔ってイラクにあったんだっけ? などと阿呆なことが一瞬頭をよぎる。


 また、アメリカ大使館の横を走っているときに「ここは写真を撮らないでください。見つかると面倒です。」と言われたのが印象に残っている。えっ?! と思う。
 その近くに「超超超高級住宅街」があったのも、何だか複雑な感じだ。200平方メートルで200万JDくらいだという。2億5000万円。高い。


死海の塩 アンマン市内を抜けるとバスは調子よく走るようになり、19時近くに添乗員さんから、「石鹸を買いたいというご希望があったので、トイレ休憩を兼ねて死海グッズのお店に寄ります。」と案内があった。
 そこは、DEAD SEA TREASURERSというブランドの工場直販のお店で、市価の半値程度で購入できるという。
 ツアーは女性が多いので、添乗員さんを含め、みなが色めき立つのを感じる。
 もうすでに陽はとっぷりと暮れており、場所等々はよく判らない。アンマンから死海へ向かう道沿いの左側、海抜0m地点よりも少し(バスで20分くらい)アンマン寄りだった。


 お店にはヨルダンの一般的なお土産を売るコーナーもあったけれど、もちろん死海グッズのコーナーに突進である。
 店員さん達は「コニチハ〜。」と迎えてくれる。もちろん、日本語はここまで、すぐ「お前達のリーダーはどこだ?」と聞かれた。
 石鹸にバスソルト、化粧品、パック用の泥まで種類が多すぎてとてもじゃないけれど選べない。特に女性陣は、何だか一気にこのお買い物で仲良くなったような気がする。


 「20分くらいで。」という添乗員さんの見込みはもちろん軽くオーバーし、40分くらいは滞在したと思う。
 私は、主にバスソルトを購入した。240g入りのパックで1JD(125円くらい)だったから超お買い得である。58JD(のさらに10%引き)を散財した。
 ここで沢山バスソルトを購入したことがたたって、この後ずっと、移動のたびにパッキングに苦労することになった。添乗員さんから「エティハド航空は、帰りの便ではあまり重量チェックはうるさくないし、液体物の機内持ち込みも現在は大丈夫だけれどいつ変わるか判らないので、スーツケースに入れて帰国、重量制限ありのつもりでお買い物を。」と言われていたのに、マヌケである。


 海抜0m地点に達する前辺りで、翌日以降の案内があった。今日1日が長かったことと、死海で遊んでくださいということで、明日の出発は11時と遅めである。
 ホテルでマッドスパを受けたい人は、明日の朝8時から受けられるので今日のうちに予約を入れましょう、という話だった。1時間程度で30JDである。
 ペトラでもオプショナルのような形でホテルの外でハンマムを体験していただくことができます、そちらは飲み物がついて20JDです、という案内もあった。


 この辺りから、死海の対岸にイスラエルの灯りが見え始めた。はっきり言って、死海東岸のヨルダン側よりも死海西岸のイスラエル側の方が明るい。開けているという感じがする。
 イスラエルとヨルダンの国境はとても長くて450kmに及ぶ。
 この辺りから、エルサレムの灯りもエリコの灯りも見ることができる。


 海抜0m地点 調子よく走っていたバスが再び止まり、何かと思ったら「ここが海抜0m地点です」と言われた。
 みんなで真っ暗な中バスを降り、代わる代わるこの看板とともに記念撮影する。
 お買い物の興奮で忘れていたけれど、この頃から耳鳴りはするし、ペットボトルはぺちゃんこになるし、標高800mのアンマンとの標高差を示す現象がちらほらあった、
 死海はここからさらに420mも下ったところにある。海抜0m地点にいたのに、そこからもさらに道が下り続けるというのは変な感じだ。


 そして、標高が低い(というか、低すぎる)分、死海周辺は暑い。
 今日の死海の最高気温は45度で、明日もそれくらいまで上がるでしょうと言われてクラクラした。死海に浮いて遊ぶのも、なるべく朝早いうちにした方が良さそうである。
 逆に夜は暖かいので、ヨルダンの人たちは夜にピクニックに来ることもあるらしい。お買い物をしたりしたから凄く遠かったような気がしたけれど、アンマンからの日帰り(それも夜)のピクニック圏内である。
 ガイドさんと運転手さんも今夜はアンマンの自宅に戻るという。


ミント入りレモンジュース 20時10分過ぎに死海のDEAD SEA SPA HOTELに到着した。
 お部屋の割り振りをしてもらい、荷物を置いて、20時40分という結構遅めの時間からの夕食となった。夕食はバイキング形式だった。特にこのお料理が美味しかったといった記憶はない。
 その代わり、ここでの夕食で記憶に残っているのは、ミント入りレモンジュースである。
 ミントを入れてもらうと1JDくらい追加料金がかかって3.5JDになったけれど、これは絶対にミント入りがお勧めである。こんなに緑色になるくらいミントがたっぷりと入っていて、スムージーになっている。
 とにかく美味しかった。


 夕食後、マッドスパを希望する女性陣が集められた。少し前まではホテルで予約が可能だったけれど、現在はホテルとスパ施設の経営者が異なっているので、予約はスパ施設に直接行かなくてはならないそうだ。
 明日の朝、自力で予約を入れて受けてください、という話だった。
 まあ、よくある話である。


イスラエルの灯り ツアーの方のお一人と、スパ施設の場所の確認がてら(もっとも、暗くて結局どこにあるのかよく判らなかった)レストランからプールサイドに出て、イスラエルの灯りを眺めた。
 22時くらいでこんなに明るいのだから、相当に都会なのだろう。逆にイスラエルからヨルダンを眺めたら、ぽつんぽつんとホテルの灯りが見えるだけのような気がする。


 部屋に戻って洗濯してお風呂に入り、旅メモをつけようとしたけれど、日付が変わる前にブラックアウトした。
 本当に長い1日だった。


<この日の服装>
 キャミソール、ガーゼの長袖シャツ、デニムのスカート


<歩数計>
 ヨルダン時間9月18日18時から19日18時まで 8964歩


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2011.01.03

ヨルダン・エジプト旅行記2日目その1

2010年9月19日(日曜日)


アブダビ空港 現地時間の3時45分、アブダビ空港に到着した。
 予定よりも1時間以上早い。ただでさえ待ち時間が長いのに迷惑である。
 この写真のターミナルまで移動し、4時30分に解散となった。ボーディングタイムである7時30分まで自由時間と言われても、このターミナルには時間を潰せるお店などがほとんどない。


 無料で使えるインターネット(日本語表示は可能だけれど日本語入力はできないようだった)でヨルダンの天気予報を調べたり、数少ない(1店舗か2店舗という感じ)お店を眺めてヨルダンでもエジプトでも職場へのお土産を買えなかったらここでラクダのミルク入りチョコレートを買おうと下調べし、金製品のお店を覗くともうやることがなくなってしまった。
 そして、寒い。帰りには絶対にフリースを手荷物に入れておこうと決心する。
 カフェでカフェオレを飲んで暖まりつつ文庫本などを読んで、ミネラルウォーターを買い、30分遅れの8時から始まった搭乗の列に並んだ。


 EY0513便は、定刻の8時30分に離陸した。
 15分後には機内食のサービスが始まる。メニューは、季節の果物、フルーツヨーグルト、クロワッサン、仔牛肉と卵のフリッター、野菜のラトゥイユとマッシュルームのソテー添え、である。
 行きの飛行機で食べた3回の機内食のうち、この機内食が一番美味しかった。


 アンマン時間の11時(アブダビとの時差1時間)に、クィーンアリア国際空港に到着した。
 順調に行っていればあと20分は早く到着していたと思う。しかし、空港が混雑していたせいで、一度は完全に着陸態勢に入った飛行機がほとんどタッチアンドゴーの状態で再浮上し、大きく旋回してアプローチし直すということがあった。
 エティハド航空、大丈夫なんだろうか。


 空港では、全員分のパスポートが集められ、私たちは入国審査のブースではなくクルー用の通路を通してもらえた。こんなことは初めてで、びっくりした。ビザ取得の都合があったためだと思う。
 ここで現地の英語ガイドであるファイサルさんが合流し、まず昼食に向かった。
 アンマンは標高が860mで今日の予想最高気温は31度だ。しかし、標高の下がるジュラシュの最高気温は39度の予報が出ているそうで、「何日か前には気温50度の日もあった。」と言われても慰めにはならない。


 ツアーメンバー22人でバスに乗り込み、バスはイスタンブールからアカバまでを結ぶデザートハイウエイに乗り、ジュラシュ遺跡に向かった。
 1時間くらいの道のりの中、ヨルダンには大学が35あって教育レベルが非常に高いこと(この道沿いにも大学がいくつかあった)、今は、ブドウやざくろ、イチジクのシーズンであること、ヨルダンにはパレスチナ・キャンプが13カ所あること、ヨルダンの人口の43%はパレスチナ人であり、6%はキリスト教徒、約半数はイスラム教徒(スンニ派)であることなど、ガイドさんの英語ガイドを添乗員さんが日本語に通訳してくれる。


 また、簡単なアラビア語講座もあった。ありがとうはシュックラン、朝から昼にかけての挨拶がサバハリヘール、昼以降の挨拶がマサハリヘール、英語の「ハロー」に当たる万能の挨拶がマルハバだと教えてもらう。
 北アフリカ地域と中東では、同じアラビア語を喋っていてもアクセントは全く異なっていて、ファイサルさんも北アフリカの人がしゃべるアラビア語が判らないらしい。


 また、今走っている「デザートハイウエイ」は、元はシルクロードの隊商なども通った道である。その他にヨルダン国内にはローマやギリシャが侵入(侵略か)したときに使われた小さな道がたくさん残っている。
 バスは、いわゆる「砂漠地帯」に向けて走っており、どんどん植物っぽいものが減ってきているのが感じられる。植物の丈が低くなり、まばらになり、見かける植物が「人間の手で何とか生きながらえている」感じに変わる。
 だからこそ、遠くに見えたキング・タラール ダムのようなダムも造られている。キング・タラールとは今から2代前のヨルダン国王のことである。


 そんなお話を聞きながらバスで1時間ほど走り、ジュラシュ遺跡近くの「レバノン・ハウス」というレストランに到着した。
 ヨルダンに到着した最初の食事がレバノン料理というのもシュールである。


前菜のサラダひよこ豆のペースト


ケバブパン焼き釜


 ヨルダンでの昼食は概ねこういう感じだった。
 薄い皮が膨れたパンが出て、豆や茄子などのペースト、酢漬け野菜のサラダ、ポテトフライなど、前菜が何種類か出される。
 メインは、牛やチキン、仔羊の肉のケバブである。イスラム教の国なので、豚肉は食さない。
 また、アルコール類は出すレストランと出さないレストランがあるようだ。この後に炎天下での観光が控えていたこともあって、私はここではレモンジュース(2JD)をお願いした。
 13時過ぎに到着して14時30分過ぎまで、ミルクココナツプリンのデザートまでゆっくり時間をかけていただいた。


ハドリアヌスの門 レストランからジュラシュ遺跡まではすぐだった。
 紀元2世紀に建てられたというハドリアヌスの門は修理中だ。三つの入口を持ち、フィラデルフィア(アンマン)に向いていることから、フィラデルフィア門とも呼ばれている。
 一番高いところで高さ17m、石灰岩で作られており、ここから南門に真っ直ぐ道が続いている。
 この門の内側で暮らしていたのは身分の高い人だけで、一般の人は門の外で暮らしていたらしい。その数3万人というから、相当に大きな都市である。


 ハドリアヌスの門を抜けた左側にあるのが競馬・戦車競技場で、現在は、ここでかつて行われていた競技を寸劇にして見せている。
 その練習なのか、馬2頭に引かせた馬車が競技場内を全力疾走していて、「これはもしかしてぞろぞろ入ってきた私たちへのサービスかも」と居残ってその様子を眺めていたらツアー一行に置いて行かれてしまった。
 イヤホンガイドがあるからいいやと油断していたら、こうした遺跡の陰に入ると電波が届かずに聞こえない。焦る。サングラスをしてイヤホンガイドをつけて帽子を被ると必ずどれかが上手く使えなくなる。もっと焦る。


 何とか遺跡のメインゲートである南門で追いつき、フォーラムに入ることができた。
 ジュラシュ遺跡は2世紀に建てられたものだけをとにかく発掘している。このフォーラムは、ギリシャ人が建て、ローマ人が作り替えたものだ。
 そういえば、ゼウス神殿、アルテミス神殿という名前の神々の名前は、ギリシア神話のものである。ローマ神話であればジュピターになりダイアナになるのだろう。
 2世紀頃、ローマ皇帝がヨルダン南部を征服し、ペトラもローマ帝国に併合されて、ジュラシュは交易路の中心となって繁栄していたらしい。
 南ヨルダンにしかない石がジュラシュ遺跡に使われているというのも、その証しだ。


アゴラ フォーラムというのはつまり広場で、市場か宗教儀式に用いられていたらしい。
 その隣にあるアゴラは、これがまたギリシアっぽいと思うけれど、いわば集会所であり、真ん中に泉がある。
 アゴラの続きには、まな板台のような石というか岩が置かれたお肉屋さんの跡があり、その隣には生け簀もついた魚屋の跡がある。
 フォーラムもアゴラも綺麗に残った柱が印象に残る。それだけではなく、これら二つの遺跡は「パクス・ロマーナ」の象徴というべき施設だそうだ。


大列柱通りライオンの泉の口 ジュラシュ遺跡は結構インフラが整っていて、アゴラの真ん中には泉があったし、大列柱通り(写真右)の両脇にはオイルランプを置くための窪みが一定間隔で作られている。
 インフラなのか権威を示すためなのか、ニンファニウムにあるライオンの頭の彫刻(写真左)は、その口の部分から水が出るように作られていたらしい。
 ニンファニウムの隣には2階建ての商店が並び、それらは最高級品を扱う店である。
 ライオンなどを捌いた生け贄用の石の台なども残されている。
 何というか、やけに生活感のある遺跡だ。


北劇場 大列柱通りの左側にある、いくつもの教会跡やアルテミス神殿に向かう階段などはスルーし、真っ直ぐ進む。
 この先には北門があり、ダマスカスに向いているところから「ダマスカス門」と呼ばれている。現在は通行止めとなっている。
 その手前にある北劇場に入った。ジュラシュ遺跡には南北二つの劇場があって、こちらの方が小さい。
 しかし、演者と観客が眩しくないように東西向きには作らないようにしてあり、音響効果もいい。ギリシャ時代には仮面劇で一人何役もこなしていたのに対して、ローマ時代になってバックステージが作られるようになったそうで、なかなか気が利いているし芸が細かい劇場だ。


アルテミス神殿 アルテミス神殿は、大列柱通りから行こうとすると綺麗に整えられた階段を上がることになる。アルテミスはゼウスの娘であるので、人々は階段を上りきったところで膝をついて一礼して敬意を表していたそうだ。
 また、アルテミス神殿の神聖な入口を示すために一番太い石灰岩の柱が使われている。
 次の予定が気になり始めたらしいファイサルさんは、アルテミス神殿にはこれくらいの距離までしか近づいてくれず、柱を構成する石と石の間に隙間があって耐震構造になっているという話を確認しそびれてしまった。残念である。


街中の遺跡跡 そのまま、もの凄い勢いで歩いて南劇場を目指した。
 途中、ファイサルさんがジュラシュの街中を指さして何か言っている。添乗員さんが語学力と視力を駆使して教えてくれたところによると、ジュラシュ遺跡として整備されているのはかつての町の半分だけであり、残り半分は現在のジュラシュの街中に埋もれてしまっていて、その一部が見られるという。
 私の視力では「多分、この辺り」ということしか判らなかったので、添乗員さんの指の差す方を確認して勘を頼りにカメラを適当に向けて撮ったのがこの写真である。
 この半分が発掘されることはないんだろうな、という気がした。
 この頃には私は暑さでヘロヘロで、一人、最後尾を歩くことが多くなった。


南劇場の底から 南劇場は収容人数3000人と大きい。そして、心なしか「オープンエア」な感じがする。
 また、ハドリアヌス門から近いため、観光客が訪れることも多いようで、舞台に楽団が現れて演奏などしてくれる。
 しかし、私の南劇場での目当ては客席の一番上からジュラシュ遺跡の全景を眺めることである。
 この、結構一段一段の段差が大きい階段を非常に気をつけて上り、一番上の一番端っこまで行って、ジュラシュ遺跡の全景を眺めて満足した。目標達成である。


 後半は駆け足になりつつ見学しても、気がついてみればもう17時少し前で、急いでアンマンに戻った。
 そのバスの中で、ファイサルさんはジュラシュ遺跡の説明を追加してくれる。
 アルテミス神殿が高いところに高く建てられたのは、見上げれば神殿が目に入るという状況を作ることで神のことを忘れない、常に神とともにあるという気持ちを持ち続けるためだったという。
 ジュラシュ遺跡の成り立ち(例えば、使われた石灰岩をどうやって切り出したのか、とか)が書かれた本の紹介もしてくれる。英語だったし、タイトルやら何やらは忘れてしまった。


 また、ジュラシュ遺跡は地震によって7回崩れており、そのため非常に珍しい形で残っているそうだ。
 遺跡に詳しくない私にはどこが「珍しい」のかよく判らなかったけれど、ともかく1800年代にやっと発見されて以降、発掘と研究が進められているということだった。


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2011.01.01

ヨルダン・エジプト旅行記1日目

2010年9月18日(土曜日)

 ツアーの集合時刻は20時10分だった。
 夜遅い出発だったので、荷造りは出発日にすればいいと、数年ぶりにキャリーケースを空港に送らずに自分で持って行くことにしたら、あらゆるところで計算が狂った。
 時間指定でタクシーを呼ぶことができなかった。
 週末の夕方に道があんなに混雑しているとは思わなかった。
 キャリーケースを転がしていると、少なくともエスカレーターで走ることは不可能だ。
 様々な条件が重なって、珍しく集合時刻の30分前到着を目指していたのに、集合時刻を過ぎてから成田空港駅(第1ターミナル)に到着することになった。

 カウンターでは、何度かお電話をいただきながら話すことのできなかった添乗員さんが迎えてくれた。母から「女性の声だったわよ。」とだけ聞いていたので、同世代の方でちょっとほっとした。
 エティハド航空も個人チェックインのようで、こんなにギリギリでは無理かと心配していたら、無事にアブダビまでのフライトの通路側席を確保することができた。
 カウンターの方に「アブダビからアンマンまでは窓側の席になってしまいました」と言われたけれど、フライト時間は短いし、逆にアブダビを離陸するときとアンマンに着陸するときに景色を眺められるのは嬉しい。
 出足でつまずいた割に、悪運が強い。

 この段階でツアーメンバー全員が集まってはいなかったものの、何となく見渡したところ、女性二人組がほとんどのようだ。一人参加は、私を含めて2〜3人で多くはない。しかし、カウンターで申し込みをしたときに「お一人ですか?!」と驚いたように確認された私としては、自分一人ではないというだけでラッキーな感じがする。
 後で判ったところでは、このツアーは、参加者22人、一人参加は私を含めて女性二人に男性一人、母子連れの3人グループがいて、夫婦が2組、姉妹が1組、残りの10人は女性二人連れが5組、という構成だった。
 個人情報云々が言われるようになってから、名簿や自己紹介がなくなって、不便といえば不便である。

 エティハド航空EY0871便は、定刻の10分前、22時に無事に離陸した。
 機長のアナウンスによると、アブダビ到着までの飛行時間は10時間30分と予定されている。
 座席の配列は2-4-2で、私は中央列の通路側である。私の隣は二人連れで真ん中に入ってしまったらしく、ちょっと気の毒だった。同時に、ギリギリにチェックインした私が通路側を取れたのに、どうして彼女たちはど真ん中という動きにくい席になってしまったんだろう、と不思議な気もする。

 家を出る前に親子丼を食べたのに、搭乗する頃にはすでにお腹が空いていた。
 機内食が出たのは日本時間9月19日0時15分過ぎくらいだ。
 メニューは、グリーンサラダ、鶏肉のマリネ マッシュルームサラダ、仔羊肉のビリヤーニ アラビア風ミックススパイス風味の野菜 バスチマライス添え、だった。
 飲み物にワインをリクエストしたら「ない。」と言われた。離陸直後のドリンクサービスでは出されていたのに、不思議である。

 デザートは後から供された。
 デザートが出される前、「機内食のサービス中は席を立たずにシートベルトをしてください。」というアナウンスが入ったのが可笑しかった。最近は、食事を早めに済ませてお手洗いに立てば空いている、というトリビアが広がっていて、ワゴンが通路にあっても席を立つ人が増えたからだろう。
 デザートは温かいアップルレーズンシナモンのクランブル(ヴァニラカスタード添え)で、飲み物はホットチョコレートをもらった。
 ホットドリンクはコーヒーもチョコレートも粉末にお湯を注いでいたし、紅茶はティーバッグである。

 オーディオ・ビデオ・オン・デマンドのサービスで日本語吹き替えや日本語字幕の映画を見つけることはできなかった。残念。
 荷造りや空港までの道のりであたふたしたせいか私にしては意外なくらい機内で眠れて、機内に持ち込んでいた「旧約聖書を知っていますか?」を読むヒマもあまりないくらい、かなり楽に10時間超のフライトを過ごすことができた。

 日本時間9月19日7時くらいに出された朝食は、季節のフルーツ、フルーツヨーグルト、クロワッサン、ミックスハーブオムレツ ラタトゥイユ ハッシュドブラウン ほうれん草のソテーというメニューだった。

 日本時間の9月19日8時45分、現地(アブダビ)時間の3時45分、無事に私たちを乗せた飛行機はアブダビ空港に到着した。

 -> ヨルダン・エジプト旅行記2日目その1

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