2011年9月22日(木曜日)
前の晩、空港で迎えのバス待ちで冷えたのがいけなかったのか、3時半頃に目が覚めて、トイレに通う羽目になった。サマルカンド最終日の朝も結構キツかったし、この日はそれ以上という感じである。
これまで、旅先でお腹を壊したことなどほとんどなかったので、自分でも意外だ。
ツアーのみなさんが言うように、綿実油は日本人の胃とは徹底的に合わないのかも知れない。
今日はフェルガナに向けて長時間の移動だし、お腹の調子も悪いので、朝食は控えめにした。もっとも、控えめにしてこれだけ食べているのだから、やっぱり私の胃腸は丈夫である。
7時に朝食、8時出発だ。
これまでの移動とは異なり、タシケントからフェルガナ地方に行くには峠越えの道しかないため、普通サイズの乗用車4台が用意されていた。適当に荷物を積み込み、ほぼ部屋割り通りの感じで分乗し、出発である。
ガイドさんとは別の車になったので、ドライバーさんと意思疎通することは難しい。車内では他愛ないおしゃべりに興じた。
ドライバーさん達はみな親切で、あまりの日射しの強さにストール等々を窓にかけて日避けにしていたら、ドアを外から閉め直して上手くストールが固定できるようにしてくれた。
1時間も走ると、車窓から一面の畑が見られるようになった。
道は、タシケントーサマルカンドーブハラ間よりも整っている感じがするけれど、乗用車でも結構揺れる。
10時くらいに一度トイレ休憩が入った。
タシケントからフェルガナ地方に抜ける際にタジキスタンとキルギスタンと3国が国境を接している場所を通るため、国内移動にも関わらずパスポートコントロールを通る必要がある。また、この道は麻薬を運ぶルートにもなっていて、警備が非常に厳しい。
ガイドさんから「湖が見えてきたら、もうすぐ国境です。」という説明を受け、再び車に乗り込んだ。
カムチク峠は標高が2267mもある峠だし、この辺りまで来ると、周りは荒涼とした岩山という感じである。道もカーブを描きながら上り、そして下って行く。
国境を越えた後も1時間弱は、岩山沿いの道が続いた。
フェルガナ地方は四国とほぼ同じ面積で、ウズベキスタンの人口の15%が住み、日本と同じくらいの人口密度を持つ農業地帯だという。しかし、少なくとも国境近くには「農業地帯」の風情はみじんもない。
ひたすら、荒涼とした景色が続く。
フェルガナ盆地には1世紀からゾロアスター教徒が住んでいた。
8世紀にアラブ軍に征服され、イスラム教が広がった。13世紀始めにモンゴル軍に征服され、ティムールのおかげで中央アジアは独立している。
ティムールの死後、国は子どもや孫に分けられ、1501年まで続いている。16世紀はサマニ朝が続いていたが、17世紀の始めにシルクロードが衰退するのと同時にサマニ朝も弱体化し、コーカンド・ハン国がそれに代わっている。
17世紀、コーカンドに要塞が造られ、1845年から1876年まで、コーカンド・ハン国の首都であった。
コーカンドには家具工房が多くあり、18世紀から20世紀まで中央アジアの家具の90%はコーカンドで作られていたという。
コーカンドは「風の街」という意味で、サマルカンドは「豊かな街」という意味だ。どちらも美しい名前である。
12時を過ぎ、コーカンドの街に入ったところで昼食になった。屋根はあるけれどオープンエアの、ちょっと洒落た感じのレストランである。
ナンや野菜の前菜が出てくるのはいつも通りで、その他に今回はラグメン(日本のうどんのような麺がトマトベースのスープに入っている)と、ハンバーグのようなメインディッシュがついた。
なかなか美味しい。胃腸の調子を探り探りしながら食べざるを得ないのが残念だ。
14時前に、フダヤル・ハンの宮殿に到着した。
コーカンド・ハン国最後の王であるフダヤル・ハンは、1863年から1873年にかけてこの宮殿を建設した。当初は114の部屋から成っていたけれど、1876年の民主運動に伴ってその多くが破壊されてしまった。
宮殿が壊された一方で、王自身は20世紀初頭までロシアで暮らしていたらしい。
現在は、表玄関、王座の間、受付の間、寝室しか残っておらず、内部は博物館になっている。
破壊されずに残された表玄関はタイルで覆われている。やはり美しい。
中に入って、2000スムのカメラ代を払う。
内部のタイル装飾も美しい。ただし、内部の装飾は、タイルで飾られているというよりは、イメージとしてはウエッジウッドのジャスパーの感じだ。その地色は濃いブルーである。
木造の天井は、受付の間のものだ。天井板は、彩色され、細工されてから天井に付けられた。彩色の基調は赤と青と黄色の三原色である。
当時も今も木材は貴重な資源の筈で、少なくとも建設当時、王の権威と財力は相当なものだったのだろう。
ドアですら、一般の家屋では非常に小さいものしか付けられず、大きなドアは豊かさの象徴であり、実用品というよりは装飾であったという。
ポプラの木は柔らかいのでドアを作ることはできず、ドアになったのは楡の木だ。細工がしやすいポプラは天井等の装飾に使われている。
幌馬車(当時は非常に高価なものだったらしい)などが中庭に並べられ、お皿などの陶磁器やアクセサリー類がケースに入って陳列されている。中国や日本に由来する品も展示されていて驚いた。
驚いたといえば、宮殿を見学しているとき、大きなビデオカメラを抱えた集団がいた。日本のテレビ局のカメラで、レポーターがいたから、もしかしたら生中継していたのかも知れない。
「さりげなくカメラの前を横切っちゃおうか。」などと言い合ったけれど、もちろん、自重した。
1時間くらいで宮殿の見学を終え、歩いている途中、またもや可愛らしい女の子たちに遭遇した。
中学生か高校生かどちらだろう。制服を着ている。
みんなで写真を撮らせてもらい、一緒に撮ったり、大騒ぎになった。ガイドさんは私たちのこんな写真好きが今ひとつ理解出来なかったようだ。
「みんなが写真撮ってるから待って。」と声をかけると、諦めたように呆れたように首を振っていた。
次に、金曜モスクを見学した。カメラ代2000スムを支払って入場する。
1812年に建設され、中庭の真ん中に高さ22mのミナレットが建っている。
幅100mのテラスで飾られており、テラスの天井を支えている多数の柱を作るための木はインドから運んで来たという。その当時、フェルガナ地方にはこれほど丈の高い木は存在しなかったのだ。
お手洗いを借り、15時過ぎに次の目的地であるリシュタンに向けて出発した。ガイドさんに聞くと、目的地まで1時間だと言う。聞くたびに所要時間が変わるので、その後、ひとしきり笑い話になった。
16時近くになってリシュタンの陶器工房に到着した。
外観は大きな農家、一歩中に入ると素敵な邸宅である。どちらにしても、やはり陶器工房っぽくない。
まず、工房のご主人に陶器づくりの工程を説明してもらった。
機械に土をセットして型を取ることによって、お皿を同じ大きさ・形に整えることができる。
土は、リシュタンの地元の土を使っている。土を整えるのに1ヶ月から2ヶ月かかる。
実際に土をこねて、機械に土を置き、プレス(というよりは、回転させて少しずつ伸ばしていたからろくろかも知れない)して型取りをする様子を見せてくれた。
成形した皿は2日間外に置き、水分を飛ばす。
その後、釉薬をかけて600度くらいで焼いてから模様を描き、もう一度釉薬をかけて今度は1200度で焼く。
「九谷など、日本の染付けと同じ方法です。」と説明されてもピンと来ない自分が悲しい。
釉薬にはコバルトや銅、マンガンを混ぜて色を出しているようだ。
この絵柄を描いていたのは若い男の子たちだった。
釉薬は、キルギスタンに生える草を燃やして残った灰を使って作る「イシクール」とだ。
この釉薬はウズベキスタンでもこの工房でしか作ることができず、使われていないという。サマルカンドなどで売られていたリシュタンの陶器には、イシクールは使われていない。
貴重な釉薬であり、貴重な陶器である。
イシクールという釉薬の品質はとても高いという。工房に飾られている数々の作品を見て、確かに、と思う。
工房の2階はミニ博物館になっていて、展示されている作品のいくつかもご主人が説明してくれた。
ご主人が手に持っているのは、200年以上前の陶器で、これだけの色を残しているのは、イシクールの力によるらしい。
イシクールはメドレセ等を飾ったタイルにも使われていたことが確認されており、その作り方を知っているのはこの一家だけであることから、補修のプロジェクトに参加したこともあるという。
一通りの説明をしてもらった後、お買い物に突入した。
ギジュドゥバンで買わなかった分、私も購入する気満々で並べられたお皿を見る。私だけでなく、みなさん、結構熱心かつ真剣に見ている。
この工房は「NORIKO学級」という日本語学校を併設していて、卒業生なのか先ほど絵付けをしていた男の子が日本語で対応してくれる。お買い物熱も高まろうというものだ。
売り物として並んでいる物ではなく、こちらのお宅で塩入れとして使っていた壺を交渉の末に手に入れた方もいらした。流石である。
自分が買うと、周りの人にも買って貰いたくなるらしい。
ここまでほとんどお買い物をしていなかった男性がターゲットになり、女性陣が束になって「買いなよ!」「買ったところが見たい!」コールとなった。可笑しい。
その間隙を縫って工房のご主人に相談し、手が込んだ模様で綺麗に発色していると推薦してもらった魚のお皿を購入した。2枚で15ドルだ。安くはないけれど、いい色の可愛いお皿を買えて満足だ。
17時半過ぎに陶器工房を出て、リシタン・ジャパンセンターに行った。
次にどこへ行くとも説明されずに車に乗り込み、到着して入るよう促された建物は、何というか、近代的な感じである。
中に入ると子どもたちがたくさんいて、並んだ椅子に促され、女の子が二人現れてラジカセを操作すると、いきなり「マル・マル・モリ・モリ!」が流れてきたのには驚いた。
歌詞も振りも完璧である。
そして、次に始まったのが「アルゴリズム体操」だ。
さらに、びっくりする。どうしてこの子達はそんなリアルタイムで日本で流行っているものを知っていて、かつマスターしているのか。もう、大拍手だ。
ソーラン節の歌と踊り、日本の曲の楽器演奏と続く。
さらに、子ども達が並んで、smileを歌われては、ツアーメンバーの涙腺直撃である。
曲は「smile」だけれど、こちらはもう鼻をすする音の大合唱だ。
これ以上「健気」という言葉がしっくりくることも他にないだろうと思う。そう思いながらずっとカメラを構えて動画で撮っていた私自身についてはどうかと思わなくもない。
このときが、この旅行で一番印象的な場面だったことに異論のあるツアーメンバーはいないと思う。
そのうち、あちこちで車座になっておしゃべりが始まった。
「マル・マル・モリ・モリ!」を踊ってくれた女の子たちとおしゃべりを始めたら、歌はCDで覚えたと言われてびっくりした。ここにはカラオケがあると聞いてさらにびっくりだ。
彼女たちは、日本人がつけたという日本の名前も持っていると言う。3人はそれぞれはなちゃんにいずみちゃんにまいこちゃんだそうだ。
日本語を勉強して、日本の大学に行きたいと言う。日本でウズベキスタンのことを教えたいという子もいる。
日本のどこを知っている? と聞くと、富士山、京都はいいとして、「別府」という答えが来てのけぞった。
そんなシブイ場所に何故行きたい? と思ったら、ここに通っている20歳の男の子が別府の大学に合格して留学することが決まったのだと教えてくれた。
ガイドさんも会話に入りたくてうずうずしていたらしく、彼が何年間日本語を勉強していますかと尋ねたら、3年という答えが口々に返ってきた。12年英語を勉強した自分が・・・、というのは考えないことにしようと思う。
漢字も書けると言われて見せてもらったら「必勝」だった。何でも、ゴルフの大会があるので、応援をするために作っているという。
アリメさんに教わっていると言われて???と思ったら、JICAから派遣されている方のお名前だった。このときはいらっしゃらず、ボランティアで来ているという日本の学生さんがいた。
ウズベキスタンの学校は午前と午後の二部制で、彼女たちは、午前の学校が終わった後で毎日14時から来ているそうだ。今日は特別に私たちのために残ってくれていて、早めに帰った子もいるという。
7歳から24歳まで、様々な年齢の人が40人ほど集まっていると言う。遠くから来るまで通っている子もいるらしい。タクシーで30分という子もいると聞いて驚いた。
日本の遊びをしていると言うので「何?」と聞いたら、ドッジボールの他に、「鞄持ち」という答えが来て笑ってしまった。「smile」の曲を教えてくれた人が鞄持ちも教えてくれたそうだ。可笑しい。
また、以前に日本人が来たときに、トトロとサツキとメイがネコバスを待っているシーンを演じて、「アニメのどのシーンでしょう?」というクイズをやったという。
日本語コンテストの話も出て、「言葉の大切さ」をスピーチをしたと聞いてさらにのけぞった。日本語コンテストというよりは弁論大会らしい。ガイドさんも弁論大会に出て3位になったと自慢気に語っていたのが可笑しい。
私が彼女たちと話しているのを聞いていたガイドさんが学生時代の英語の先生を思い出したと言うので笑ってしまった。ツアーの方からは「幼稚園の先生をしているの?」と聞かれた。どちらも不正解である。
突然、停電になったりしつつ、学校の勉強の話も聞いた。
どの科目が好きかという話から、ウズベキスタンの学校は、ウズベク語のクラスにいるとロシア語が必須で、ロシア語のクラスにいるとウズベク語が必須で2時間ずつ、その他に英語が3時間あることを教えてもらった。誰でもトリリンガルに育つということだ。
日本語能力試験の話も出て、2級を取ると留学の資格が得られるらしい。
そんな話をしていたらあっという間で、そろそろ時間ですとガイドさんから声がかかった。
サイン帳が回り、記念撮影をして、メールアドレスを交換する。「日本語で書いてね!」と懇願したら、「ローマ字じゃないと読めないよ。」と留学生からツッコミが入った。流石に日本語OSは入っていないので、文字化けしてしまうらしい。確かにそのとおりだ。
とても名残惜しかった。
このときおしゃべりしたいずみちゃんとは、今もときどきメールのやりとりをしている。
リシュタンからフェルガナのクラブホテル777までは1時間弱だった。
クラブホテル777はやけにリゾートの風情のホテルで、お部屋が無駄に広い。
到着後15分ほどの時間をみて、すぐにホテル内のオープンエア・レストランで夕食になった。希望者で赤ワインをシェアする。私も「お腹を壊しているのにいいの?」と言われつついただいた。
この夕食のとき、何故かガイドさんがいじりたおされていた。スイカにウォッカを注射して飲むとか言い出せば、それはいじられるに決まっている。
ゆっくり夕食をいただき、流石に長距離移動で疲れたようで、22時30分には就寝した。
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