ウズベキスタン旅行記2日目その1
2012年9月18日(日曜日)
空気が乾燥していたのか、喉が渇いて夜の間に何度か目が覚めた。お部屋にあった水だけでは足りない。仁川空港でミネラルウォーターを買って正解だった。
目覚まし時計は5時にかけてあり、それを汐に起き出した。外はまだ暗い。
朝食はビュッフェ形式で意外と豪華である。この後、長い車移動なので控えめにした。
パンは今ひとつ、フルーツとドライフルーツは美味しい。
ふと気がつくとガイドさんが現れていて、お願いして水筒にお湯をもらった。暑いところで冷たい水を摂りすぎるのも良くないし、お腹を壊さないように熱い飲み物を持ち歩くことにする。
旅先でお腹を壊したことなどないのに、今回は何故か「お腹を壊すかも」という強迫観念が働いて薬も持参している。予防のためにビオフェルミンを飲んだ。
7時5分過ぎ、マイクロバスに乗り込んで出発である。
サマルカンドまで5時間くらいかかる、サマルカンドに行く前にウルグットのバザールに寄るという説明があった。ウルグットのバザールは結婚準備のためのものが多く売られているバザールで、スザニも「結婚準備のための品」の一つだという。
流石に休日の朝の道路は空いていて、すぐにタシケントの街を抜けることができた。街を抜けるとすぐ、車窓には綿花畑が広がる。
ガイドさんの説明は、ウズベキスタンの地理から始まった。
ウズベキスタンは中央アジアの中央に位置し、五つの国と国境を接している。北にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東がタジキスタン、キルギスである。
東部には天山山脈があり、水が豊かで、ウズベキスタンの人口のほとんどはその東部に住んでいる。逆に西部には砂漠が広がり、人々はアムダリヤ川沿いに集まっている。
ウズベキスタンの人口は1700万人で、首都タシケントには260万人が住んでいる。
ウズベキスタンにはたくさんの民族が住んでおり、その数は120を超える。そのうち75%がウズベク人だ。これから行くサマルカンドやブハラでは、タジク人が多いという。
ウズベキスタンの公用語はウズベク語で、ウズベク語はアルタイ語系の言語で非常にトルコ語に近い。しかし、タジク語はペルシャ語に近いので、ここは通訳が必要になるという。
ガイドさん自身はロシア人で、ロシア人は人口の5%くらいを占めている。
ウズベキスタンには宗教も多く、イスラム教、ロシア正教、カトリック、ユダヤ教がある。人口の80%はイスラム教徒で、ほとんどがスンニ派の人だという。
ウズベキスタンの中で民族同士、異教徒同士が争ったことはないらしい。
ウズベキスタンで走っている車のほとんどはウズベキスタンで作られている。いすずや韓国のメーカー(シボレーに買収されてしまったらしい)が工場を作って生産している。ただし、エンジンだけは輸入している。
飛行機も生産しているというから、その点では日本よりも盛んと言えるかもしれない。
ウズベキスタンの綿花の生産量は世界7位、シルクの輸出でも世界15位である。
本当に、車窓の景色はずっと綿花畑である。ソ連時代のモノカルチャが今も残っているということだろう。
ブハラの周りには天然ガスもあるし、フェルガナ盆地に原油がある。天然ガスはロシアのパイプラインを使って輸出している。
ガイドさんの説明を聞き、車窓を眺めていると忙しい。最初のうちは工場が並んでいた。次第に綿花畑が広がるようになり、路面電車があったり、道ばたで大量のスイカが売られていたり、畑の牛にまで一々声を上げているのだから我ながら完全なお上りさんである。
8時前、ガイドさんが「降りてみませんか。」と言い、バスを道ばたに駐めて、全員で綿花畑に行った。誰かの畑だろうに誰もいないけれど勝手に入っていいのか? と思うけれど、ガイドさんはお構いなしである。
そういえば出発前に「綿花摘み(旅程に書かれていた)ってどこでやるんですか?」と聞いたときに「(そんなものは)どこででもできる。」みたいな答えが返ってきて訝しく思った。どうやらこういうことだったようだ。
ひたすら綿花である。
地平線まで綿花畑が続いているんじゃないだろうか。
ちょうど収穫の時期のようで、実が割れて綿がいたるところで顔を出している。お花も一輪二輪だけ残っていて、みんなして「こっちに咲いている!」「こっちのはピンク色だよ!」と声を掛け合い、クリーム色のお花と2色のお花を見ることができた。
ガイドさんは「採ってもいいです。」と言うけれど、ここって誰かの畑なんじゃないの? と思う。流石に誰も採ろうとはしない。
ウズベキスタンでは、綿の種を絞った綿実油を調理に使う。(そして、この油に我々は後にとてもとても苦しめられることになる。)
収穫後の木は燃料として使うというから、本当に無駄のない、いい(というのも変な言い方だけれど)、生活に役立つ木である。
機械で刈り取ると品質が落ちてしまうため、綿花の収穫は基本的に手作業で行われている。
ウズベキスタンでは綿とともにシルクも特産品となっていて、蚕を育てるための桑の木がこの畑の端に植えられていた。
子供の頃に理科の授業の一環で蚕を飼ったことがある。うちの近所に生えていた桑の木はこんなに立派な「木」ではなかったと思う。
木の根元の方が白くなっているのは、石灰を塗って虫の害を防いでいるためだ。
綿花畑で写真を撮り合ったりして、20分以上もうろうろきゃあきゃあ楽しんで、バスは再び出発した。
車内では、ガイドさんのウズベキスタンの歴史講義が始まった。
「初めてウズベキスタンに人類が現れたのは」から始まり、終わるまでにどれくらいかかるんだろうと思っていたら、割とすぐ紀元前7世紀にウズベキスタンの国土に初めて国が成立したという話になったのでほっとした。
そこも割と簡単にスキップして、紀元前6世紀に成立したアケメネス朝ペルシアが征服した話になった。アケメネス朝ペルシアはその後200年間にわたってこの地を支配し、ゾロアスター教を広め、都市を建設したという。
マケドニアでは紀元前330年代後半ににアレキサンダー大王が即位し、アケメネス朝ペルシアを征服した。
しかし、アレキサンダー大王は、中央アジアを完全に支配下に置くことはできないと判断し、ソグディアナの王女と結婚するという方針転換を行い、土地の習慣を活かすようにしたという。
同時に、当時世界最先端ともいえるヘレニズム文化を持ち込み、中央アジアの文化に大きな影響を与えている。
紀元前140年前後に大月氏が中央アジアを征服した。その後、中央アジアでクシャナ朝が成立し、この時代にシルクロードが発展するとともに、仏教が中央アジアに入ってくる。
最初の頃にウズベキスタンは民族も宗教も多様だという話があって、こういう歴史を辿ったからこその話なんだろうなと至極納得した。
シルクロードのおかげで、1世紀にクシャナ朝はさらに発展し、結果として、この時代の中央アジアでは仏教とゾロアスター教とキリスト教が併存した。ウズベキスタンでは、この頃の仏教寺院の遺跡も発見されている。
5世紀には、ウラル山脈南方のエフタルという遊牧民族が、ガイドさん曰く「中央アジアを優しく征服」した。その後100年くらい続いたものの、エフタルの記録はほとんど残っていないらしい。
ウラル山脈の北方からやってきたチュルクという遊牧民族がエフタルを駆逐し、チュルクはアラブに侵略されるまで続いた。
この頃、ウズベキスタンでは3種類の文字が使われていたという。
ガイドさんに「私はウズベキスタンの歴史のうちアラブ侵略の前までお話ししましたが、大体判りましたか?」と聞かれたとき、「はい」と答えた人はツアーにはいなかった。それはそうである。
ガイドさんがノートを見ながら話していたので見せてもらったら、このノートは全部日本語でメモしてあった。驚きである。
ガイドさんが普段しゃべっているのはロシア語で、「ウズベク語と日本語とどっちが得意?」と聞いたら「日本語。」という返事だった。ガイドさんはウズベク語はほとんどしゃべれないらしい。
タシケントから1時間くらい走ったところで、バスはシルダニヤ川を越えた。ガイドさんの言う「ウズベキスタンはこのシルダニヤ川とアムダリヤ川の間にある」のシルダニヤ川である。
思ったよりも「大河」という感じではない。
この川にさしかかる前、もっと小さな川にかかっていた橋のたもとに、お魚を開いて売っている小さな屋台のようなお店があった。随分と茶色いお魚だったから、干してさらに燻製にしていたのかも知れない。どんな魚が釣れるのだろう。
タシケントのホテルを出発して3時間弱、10時前に最初のお手洗い休憩になった。
トイレの近くでは、おじさんが二人、メロンを山積みにして売っていた。ここまでの道筋でも、メロンやスイカなどを綺麗にディスプレイして売っている人がたくさんいた。
ここのおじさんはあまりディスプレイに凝らないタイプのようだ。
ウズベキスタンでは買う前に試食するのは普通のことだといい、ここでもメロンをかなり大きく切ってくれた。何人かで分け合っていただく。ちょっと瓜っぽい、さっぱりしたメロンだった。1個3ドルくらいと安い。
メロンの後で冷たい水やビールを飲むとお腹を壊すから止めてくださいと注意されて驚いた。メロンの後では温かいお茶が鉄則だという。
メロンの隣には、種々のドライフルーツやナッツも売っていて、そちらもちょっと美味しそうだった。
この後、何故か両替タイムになった。
ガイドさんはビジネスバッグを持っていて、覗かせて貰うと、中に「THE 札束」という感じでお金が入っている。ツアーの経費一切が入っているそうだ。一体いくら入っているのだろうという感じだ。
ガイドさんは、「これが私のお財布です。」と言う。
あまりにもインパクトがあったので、写真を撮らせてもらった。
両替のレートは100ドルが180000スムだった。
10時くらいになって、車窓に山も見えるようになってきた。
「サマルカンドはあの山の向こうにある。」と言われ、まだそんなに遠いのかとショックだ。
確か、お手洗い休憩のときにサマルカンドまで後2時間くらいと言われている。あと2時間で前方にある山を越えられるのか、距離感が全く掴めない。
バスの中も、何となく疲れた笑いが漂う。
1時間くらい走ると、山肌に白いペンキか何かでマークがいくつも描かれている様子が見え始めた。
あれは何だろうとガイドさんに聞くと、あっさりと「宣伝です。」と言う。
ペルーでも同じような場所に同じようにマークが描かれていて、ガイドさんに「あれは何?」と聞いたら、選挙の宣伝だという答えでガックリ来たことを思い出した。緑ではなく土の山肌はそういった宣伝を書こうと思わせやすいのだろうか。あるいは、緑ではなく土ということは雨が少ないということだろうから、一度描いたものが消えず、効率的な宣伝方法なのかも知れない。
この辺りで、再びガイドさんの歴史の講義が始まった。「歴史を知らないと面白くない」からと言う。
それは全くその通りだ。しかし、アラブの侵略の歴史を話したいという枕があって「ムハンマドは570年に生まれました。」から始まるとやっぱり驚くし、ちょっとゲンナリする。
676年にアラブ軍はアムダリヤ川を渡り、そのときにはブハラとサマルカンドを征服できなかったが、700年代に入ってとうとう征服した。そして、征服と同時にイスラム教を広め始め、同時にゾクディアナ人は殺し尽くされて幻の民族と言われるようになったなど、凄惨そのものの歴史をガイドさんは淡々と語る。
9世紀、ブハラはイスラムの都・中央アジアの首都として栄えていた。
9世紀後半にアッバース朝の厳しい支配に対する反乱が続くようになり、サマニ朝と争うようになって、中央アジアの独立が達成された。その後は、経済成長が続く。
この時代のブハラとサマルカンドは文化の中心となり、また、バグダッドに留学するなどして科学も発達し、アラブの征服で一度は破壊された灌漑農業や文化なども次第に復活したという。
アラビア語も浸透し始め、中央アジアの学者も使うようになり、アラビア語からラテン語に訳されて世界中にその成果が知られるようになった。
文化的成熟期という奴だろう。
代数学もこの時代の中央アジアで生まれたらしいし、ベルニという人が世界で初めて地球のモデルを作製している。
ガイドさんの言いたかったことは、「モンゴル侵略前に、中央アジアには世界に誇る文化があった」に尽きる。
さっきから線路と平行して走っているなとぼんやり思っていた11時30分頃、電車に追い抜かれた。
おぉ! 電車だ!
何だか嬉しくなって、必死に写真を撮った。
恐らくタシケントからサマルカンドに向かう電車だろう。「レギスタン号」という名前の特急電車がタシケントとサマルカンドの間を3時間半で結んでいた筈だ。
綿花畑での寄り道があったにしても、7時に出発して4時間半、まだサマルカンドに私たちは到着していない訳で、電車という選択肢はなかなか魅力的である。
電車で一騒ぎしたすぐ後、トイレ休憩となった。
わざわざここに載せるのも(そもそも、写真を撮るのも)どうかと思うけれど、あまりにもシンプル設計のトイレだったので、証拠写真である。
水道は建物の外にあって、トイレの内部は本当にこれだけだ。でも、見ての通りで清潔だったし、トイレットペーパーを持参する必要はあるものの1ロール持ってきている人も多かったくらいで準備は万全、全く問題なかった。
ウルグッドのバザールが近づいて来た頃、ガイドさんからポプラの木について説明があった。
ウズベキスタンでは、男の子が生まれたときにお父さんがポプラの木を植える習慣がある。その子が大きくなって結婚するとき、そのポプラの木を使って新居を作る。今でも行われている習慣だという。
ウズベク人の場合、2〜3人の子供がいることが普通で、男の子は結婚しても(長男に限らず次男も)両親と一緒に住み続けるので、基本的に大家族だそうだ。
結婚式を挙げるときは、知り合いだけでなく近所の人も招く。だから、どんなに小規模でも200人くらい、普通は1000人くらい招待するらしい。近所の人を招かないのは非常に不名誉なこととされている。
そんなにたくさんの人が集まれる場所があるわけではなく、その辺りの道にテーブルと椅子を出してパーティを行うらしい。通行止めにするのだろうか。
一度、婚約破棄してしまうと、女性は特に結婚することが難しくなる。
新郎の父親が水曜か木曜に結婚を申込みに行き、新婦の両親がプロフを作ってもてなすとOKの返事だという。
何だか色々と難しいしきたりがあるようで、しかしそのしきたりに則った結婚準備をすることが非常に重要だとされている。そこまで伝統を重んじているのに、花嫁衣装はいわゆるウエディングドレスにする人がほとんどだというのが何だか可笑しい。
そして、バスは、婚礼用具を扱っているというウルグットのバザールに到着した。
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