ウズベキスタン旅行記2日目その2
2012年9月18日(日曜日)
お腹も空いた13時くらいに、やっとウルグットのバザールに到着した。「お腹が空いた。」と目と声で訴えたところ「ごはんを食べていたらバザールが終わってしまう。」と言われてしまい、諦めてガイドさんの後を付いて行く。
思えば、出発した時点で「5時間くらいかかる」と言われていたし、長距離移動なのだから、お菓子だけでなくもうちょっとお腹の足しになるような非常食を用意しておくべきだった。
ここで失敗したのは、このバザールの外観を目にしていたにも関わらず、「バザールなんだから」とわざわざバスに帽子を置いて出たことである。お昼過ぎの太陽に帽子は必携だった。
ガイドさんも言っていたとおり、この時間では「閉めてしまったお店」か「閉めつつあるお店」が多い。
そして、婚礼衣装のお店が目に付く。こんなに暑いところなのにどうして厚手の生地の服が多いのか謎である。
衣装だけでなく帽子や靴、アクセサリなども売っていて、可愛らしいおばあさんが帽子を差し出して見せてくれる。このおばあさんの口元で金歯がきらっと光っていた。金歯は一種の「お金持ち」の証拠であるらしい。
さらに奥に進むと、スザニを売っている一角があった。こちらも店じまいしているところが多い。
にも関わらず、気がつくとどこからか現れたスザニ売りの方々に囲まれていた。
スザニは地方ごとに特徴があって、黒地にカラフルな刺繍が施されたスザニは地元サマルカンドのものだという。
黒地の布は、インテリアとしてはちょっとインパクトがありすぎである。
ブハラは赤いものが多く、ヒヴァは幾何学模様が特徴と、地方ごとに特色がある。刺繍部分の光沢が綺麗だったので聞いてみたら、綿の生地にシルクの糸で刺繍してあるという話だ。
スザニは、魔除けとしても使われていたという。機械で刺繍したものも多少は売っていたけれど、そういうことなら手作りの方が効きそうである。
ガイドさんの説明を聞きながら歩いているときも、「ヤパニ」「ヤパニ」と売り子さん達の声がかびすましい。日本人が多く訪れているということだろうし、いいお客ということでもあるだろう。
ガイドさんに「どうして我々が日本人だって判るの?」と聞いたら、「中国や韓国の人はここには来ないから」と言われた。
「ヤパニ」くらいは判るけれど、私たちはウズベク語もロシア語もできないし、売り子さんたちに英語を話す人は多くない。買い物の交渉も質問もガイドさんに頼りっぱなしだ。
色々見せてもらった中に、おばあさんが「私が刺繍したのよ。」と広げる一枚があった。白地に赤系統の刺繍がされている。縫い目も細かいし、ベッドカバーにちょうどいい大きさだし、混みすぎず空きすぎずのバランスがいい。
お値段を聞くと(正確に言うと、ガイドさんに聞いてもらうと)130ドルだという。「高い! 負けて! 」と言うと、「今日は日曜日だから100ドルに負ける。」と言う。ウズベキスタンはイスラムの国だから、どちらかというと「金曜日だから」と言われた方が判るんだけどなぁと思いつつ、「80ドルにならない?」と聞いたら、「これは刺繍した部分が大きくて手間がかかっているものだからダメ。」と言われ、100ドルで手を打った。
誰かが最初の1枚を買うと、雪崩のように次々とスザニを抱えた女性達が集まって来た。
宣伝文句を聞いていると「ブハラ・デザイン」と売り込んでいることが多いような気がした。確かに、日本人好みの中間色を使った、植物をデザインしたものが多い。
やはりツボを押さえている。
もう1枚気になっているスザニがあった。
家のリビングにも使えそうな中間色の色合いで、刺繍は先ほど買ったものよりも更に細かい。ガイドさんも「これは相当にモノがいい。」と太鼓判を押す。
それでもどうしようかと迷ったのは、150ドルとお値段が高かったのと、ブハラのスザニだという説明があったからだ。このツアーではブハラでスザニ工房に行くことになっていて、折角なら地元で買いたい気がする。
この売り子の女性は英語を話したので、値段交渉くらいなら自力でできる。100ドルと言ってみると、話にならない、その値段なら別のもっと小さいものを持ってくる、これはブハラで買ったら200ドルはするのよと矢継ぎ早だ。
しばらくやりとりしたけれど、ガイドさんから「そろそろ帰りますよ。」と言われて諦めて帰ろうとしたそのとき、「130ドルでいい。」と言われ、ついに買ってしまった。商売上手なおばさんである。
ウルグットのバザールで2枚も大きなスザニを買ったのは私だけで、「お買い物好き」というフラグが立ったのはこのときだったと思う。
しかし何だかんだ言って女性はお買い物好きだし、布地好きだ。ツアーの方々も思い思いにお買い物をされていて、バスまで歩きながら、バスの中でもそれぞれの戦果を見せ合った。
かなり大きなスザニ2枚を抱え、バスに戻る道すがら「重い・・・。」「一体、何kgあるんだろう?」と初っぱなから帰国時の荷物の重さを心配することになった。
少しバスを走らせたところでガイドさんが「あそこのカフェがやっているかどうか聞いて来ます。」と言う。
この時点ですでに14時だし、人がいる気配がないなーと思っていると、案の定、すでに閉店していたらしい。
バスの中でそれぞれ持参のおやつが回され、ガイドさんが様子を見に行ってはしおしおと戻って来るということを何回か繰り返し、やっと屋外レストランのようなところで昼食にありつけたのは、15時半近かった。
昼食のメニューは、サマルカンドのナン、牛肉のシャシリク(串焼き)のオニオンスライス添え、緑茶である。
私たちが昨日からスイカスイカと大合唱するのを聞いていたガイドさんが、お隣で売っていたスイカを買ってきて、カットして出してくれるよう頼んでくれた。
大量のスイカの向こうでは、お兄さん達がメロンを放り投げてトラックの荷台に積んでおり、私たちが見ていることに気がついて派手にパフォーマンスしてくれる。可笑しい。
シャシリクは焼く前のものがケースに並んでいて、食べたいものを選んでくださいと言われた。牛や牛のミンチ、羊、レバーなどの中から、オーソドックスに牛の串を1本頼んだ。
大きなテーブルを囲み、お皿とフォークをウエットティッシュで拭き、お茶碗は一度お茶で軽くゆすいで、食べ始めた。
ウズベキスタンの人はお茶碗に指をひっかけるようにして持つので、お茶は半分くらいしか入れない。
ウズベキスタンでは、パンにスイカを載せて食べるそうだ。ちょっと試してみる勇気はない。
空腹という最大の調味料もあり、滋味あるお肉でとても美味しかった。
16時過ぎ、サマルカンドの宿であるマリカ クラシック ホテルに到着した。
雰囲気のいい可愛いホテルが住宅街の真ん中にある。
チェックインの際にフロントにパスポートを預ける。ウズベキスタンでは宿泊した各所で宿泊証明をもらい、出国する際に提示する必要がある。もっとも、見た目は7cm角くらいの手書きの単なるメモである。
「絶対になくさないように。」と言われて渡されたものの、パスポートにクリップで留めてあるだけでちょっと不安になる。
ガイドさんがお部屋の鍵だけ渡してあっさりと解散しようとするので、慌てて止めた。
サマルカンドでワイン工房に連れて行って欲しいと事前にリクエストしてあったのでその話も聞きたいし、夕食に出かける筈だから再集合の時間と場所くらい言ってくれなくては困る。
そう言うと、ワイン工房に行きたい人は? とその場で募り、16時30分に再集合となった。
何となく不安を感じてその場に残り、ガイドさんに「旅行社の人にオプショナルは2日目にワイン工房、3日目に紙漉きと案内された。」と言ってみると、「でも、今日は日曜日だからワイン工房は休みかも知れない。」と言う。
とりあえず部屋に入るのは後にして更に詳しい話を聞こうと待っていると、フロントの人に電話番号を確認したガイドさんがおもむろにワイン工房に電話をかけ始めた。
こら! と思っていると、電話を切って、「ワイン工房の見学は20時過ぎなら可能だと言っています。それでいいですか?」と言う。私は構わないけれど、他にも行きたいと言っている人がいたからみんなに聞いた方がいいんじゃない? と返事する。
すったもんだの末、ワイン工房にはこの日の夜20時30分から行くことになった。
今日この後の一応の予定が判ったので部屋に荷物を置き、中庭に置いてあった縁台でゴロゴロしていると、これからレギスタン広場に行くという方がいらしたので一緒に行かせてもらうことにした。ガイドさんも一緒に行ってくれるらしい。17時過ぎに出発した。
ホテルは本当に住宅街のど真ん中にあるため、大きな道路沿いまで歩く。行き合う人がいきなり「日本人?」と聞いてきたり、フレンドリーだ。
ガイドさんがタクシーを捕まえて料金交渉をしてくれ、3000スムになった。高いのか安いのかよく判らない。
タクシーの中からあまり歩いている人を見かけなかったので聞いてみると、人が多く歩いている道とほとんど車しか通らない道とに分かれているらしい。
到着したレギスタン広場は、やはりとんでもなく綺麗であった。そして、想像以上に広かった。
ガイドさんが「塔に昇りたいですか?」と聞く。そう聞かれれば上りたいに決まっている。二人して「嬉しい!」と叫ぶ。
ガイドさんとおまわりさんとの交渉の結果、各自10000スムを支払って、ウルグベク・メドレセの塔に上った。
薄暗いけれど、所々に縦長の窓が開いていて、懐中電灯なしでも問題なく上ることができた。でも、狭い。この狭さで9人が上がるのは相当に辛いだろう。そして、一段一段が高い。腿上げを繰り返している感じだ。
これを建物9階分続けるのは苦行そのものである。
塔の一番上には、人一人がギリギリ上半身を出せるくらいの穴が開いていて、そこから周りの景色を一望することができた。
思わず「うわぁ!」と声を上げてしまう。爽快だ。
降りるのが勿体ない。
降りる途中、縦長に開いた窓からお隣のシェルドル・メドレセを望んだ。
夕日を浴びて美しい。
ガイドさんは、午前中の方が光が美しいと言う。夕方の光も建物が赤く黄色くなっていいものだと思う。
この写真のドームなどに使われている色が「サマルカンド・ブルー」だ。濃いブルーを指すと思っていたので、ちょっと驚いた。
20世紀以降の地震で落ちてしまったドームもあるらしい。
その他にも、ウルグベク・メドレセは地震で何回か崩れており、タイルなども50%ほどしかティムール時代(14〜15世紀)のオリジナルは残っていない。
しかも、このタイルを作り出す技術は再現できておらず、修復に使ったものよりもオリジナルの方が艶もよくできのいいタイルだという。一体どれほどの技術を持っていたのだろう。
私たちが上った塔は33mの高さがあり、大地震で傾いてしまっている。大丈夫なんだろうか。
メドレセとは神学校の意味で、その内部には寄宿舎も持っていたという。
今もウルグベク・メドレセの2階部分はお土産物屋になることもなく、小さな部屋がたくさん並び、そのまま放置されていた。
木彫りの扉も、壁のタイルの装飾も美しく、しかし内部は放置されたままになってしまっているのが何となくもの悲しい。
これは、2階から眺めたアーチの上部である。
地震で崩れているという説明を受けた後だったので、一瞬これがそうかと思ったら、単純に仕上げをしていない、素の状態がこういうものだということらしい。この状態を、タイル等々で装飾して美しくするのはもの凄い労力だったろう。
そうやって2階から外を眺めていたら、レギスタン広場の真ん中を歩いている新郎新婦が目に入った。タキシードにウエディングドレスという姿である。
ガイドさんが「日曜日だから結婚式が多い。」と言うので、「イスラム教の国なのだから金曜日なんじゃないの?」と尋ねたところ、「ウズベキスタンはヨーロッパ式です。」という回答だった。確かに、衣装からしてヨーロッパ式である。
大満足で降りて来て広場を歩いていると、足もとに何やら碑のような説明版のようなものが埋め込まれていることに気がついた。
昔は焼いた煉瓦で作っており、その当時のものが一部残されているという。
ガイドさんの説明によると、私の足の先が指し示しているところが、その15世紀の煉瓦だという。レギスタン広場のあるところは、500年前には道だったらしい。
普通に歩いていたら、足もとにそんな歴史が埋め込まれていることなど気がつかなかったに違いない。
500年の歴史を踏みしめていた感慨にふけったのも一瞬で、すぐ近くに先ほどの新郎新婦がいることに気がつくとあっさりとそちらに気が向いてしまった。
タキシードとウエディングドレス姿の二人である。いわゆる「伝統的な衣裳」ではないようだ。
写真を撮ってもいいと言ってもらえたので、一枚、撮らせてもらった。
やはり、ウズベキスタンは美人が多い。
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