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2012.10.25

ウズベキスタン旅行記2日目その3

2012年9月18日(日曜日)


 レギスタン広場観光はまだ続く。
 新郎新婦の写真を撮らせてもらった後、レギスタン広場正面奥にあるティラカリ・メドレセに向かった。
 ティラカリ・メドレセは17世紀に建てられている。ウルグベク・メドレセは15世紀だというから、意外と離れた時代に建てられている。レギスタン広場は最初から今のような姿だと思っていたのでちょっと驚いた。


 ティラカリ・メドレセの内部に入って、度肝を抜かれた。
 金!だ。
 ドームの内側はもちろんのこと、その他の天井も壁も金細工と青いタイルで覆われている。ライトアップもされていて、華やかかつ豪奢なことこの上ない。さすが、ティラカリ(金箔された)という名前を持つだけのことはある。
 迫力に負けて、写真を撮りまくっていた私に、ガイドさんが「ここがドームの真下だ」と教えてくれた。その場でカメラを構え、上を向いて写真を撮り続けていたら、首が痛くなった。


礼拝所入り口から ティラカリ・メドレセのこの場所は、昔は礼拝所として使われていたそうだ。近くに大小のモスクはあるけれど、ここが礼拝所として使われていたという。
 後で確認したら、レギスタン広場からほど近いビビハニム・モスクは17世紀にはすでに廃墟になっていたらしい。
 本人も結構な写真小僧らしいガイドさんに入口から撮れと言われ、ほとんどしゃがみ込んでがんばって撮影した。周りから見たら、相当に変な観光客だったに違いない。


 そろそろ夕日も沈む時刻になった。18時半近い。
 再びタクシーを捕まえてもらい、ホテルに戻る。正味1時間半、ゆっくり見られたし、なかなか充実した時間だった。二人で口々に「楽しかった!」と言い合う。ガイドさんも喜ぶ私たちに喜んでくれた。
 ホテルに戻ると、チャイハネでお昼寝していた方あり、ホテルの周りを散歩しているうちに子供達と友達になりそのお父さんとも記念写真をばっちり撮っていた方あり、ツアーメンバーはそれぞれに旅上手である。
 ガイドさんに冗談半分、「ウズベキスタンは一夫多妻制? イスラム教はそうだよね?」と聞いてみると、あっさり「ダメです。」という返事だった。


 19時に集合し、再びバスに乗り込んで食事に向かった。15時過ぎにお昼を食べたのに、結構お腹が空いている。不思議である。
 民家というか、大きなお屋敷の中庭を開放してレストランにしました、という感じの建物だ。ウズベキスタンの伝統的な家屋には必ず中庭があるという。2階席もあって、いい雰囲気である。


前菜サモサ


 テーブルには、果物や野菜(サラダではなく、野菜という感じで置いてある)、ヨーグルト、ナッツやナンなどがセッティングされていた。白っぽいものは、杏の種を焼いたものだ。殻を割って中味をいただく。これが後を引く味である。
 ブルーと白のお皿は、ウズベキスタンのレストランではよく見かける綿花模様のものである。これがぽってりとして意外といい感じで、買って帰ろうかと随分と迷った。
 野菜にたくさんの香菜が添えられていて、タイ語だとパクチーで、英語だとコリアンダー、中国語では香菜だけど、日本語では何だったろうという話になる。ウズベキスタンで香菜に会うとは思わなかった。
 その他にも、噛みしめると酸っぱさが滲み出てくる野菜もあり、ハーブが豊富に使われている。


 さらに、サモサやスープ、水餃子のようなお料理まで盛りだくさんのお食事である。
 サモサの中に南瓜とタマネギが炒めたものが入っていた。おやきのようである。
 とにかく、野菜が瑞々しくて勢いがあって、美味しい。サモサも、食べるとじわーっと肉汁が出てくる。
 ウズベキスタンはイスラムの国とはいえ比較的戒律が緩やかなので、ビールもいただくことができた。SARBASTという銘柄だ。残念ながら味は覚えていない。


 食事を楽しんでいると、楽団の人たちがやってきた。ガイドさんが呼んでくれたらしい。私たちのテーブルの目の前で演奏し、踊ってくれる。
 何というか、郷愁を誘うゆったりしたリズムと歌声である。やはりイスラムの雰囲気というかイメージだ。ウズベキスタンの伝統的な音楽だという。
 アクロバティックな打楽器の演奏もあって、思わずおぉ!と声をあげた。
 レストランがあまり明るくなかったのと、片方はさらに動画から切り出した写真なのでボヤけてしまっているけれど、こぢんまりとしていながらもなかなか楽しい歌と踊りだった。夢中になって動画を撮り、拍手を送る。


楽団のおじさん踊るお嬢さん


 誰か一人こちらにいらっしゃいと声がかかった。ガイドさんの説明によると花嫁衣装を着せてくれるらしい。ツアーメンバーの女の子がさっと立候補してくれて、早速着付けが始まった。
 音楽に乗せ、歌に乗せ、先ほど踊っていたお嬢さんが助手になって、まずは帽子からだ。
 袖のない、昼間のバザールで見たような裾の長い上着が着せられ、次に肘くらいから先に袖が嵌められる。袖口には華やかな飾りがついている。
 大振りのネックレスをつけ、これまた華やかな飾りのついたベールが帽子の上からかけられる。
 最後に大きな扇のような逆三角形の楯のような飾り(顔を隠すためのものらしい)を持って、花嫁さんが完成した。


花嫁さん この後、彼女は一緒に踊るように言われて、「衣装を着るだけかと思っていたのに!」としきりと恥ずかしがっていた。
 後で聞いたら、この衣装は結構重かったらしい。結婚式は二日間かけて行われるそうだから、この衣装をずっと着ているとしたら大変である。
 ガイドさんはその他にも色々と説明してくれたけれど、レストランは音楽と花嫁さんの登場に盛り上がっており、あまりちゃんと聴けなかったのが申し訳ない。
 夕食もお腹いっぱいいただいて、歌と踊りと楽器演奏と花嫁さんに満足してレストランを後にした。


ワイン工房入り口掘り出された古いワイン


 ワイン工房見学に参加したのは5人だった。
 レストランから車で10分ほどの場所である。何というか、普通の住宅街のようなところだ。いわゆるワイナリーを想像していたら、どちらかというと醸造所という感じだ。
 ここは、ウズベキスタンで一番古いワイン工房で、1868年創立だ。帝政ロシアに征服された1年後のことで、創立者はもちろんロシア人である。
 21時前から見学がスタートした。


 紀元前4世紀にアレクサンドロス大王が中央アジアを征服したとき、たくさんの葡萄が栽培されていることに驚いたそうだ。
 その後、8世紀にアラブに侵略されるまでワインはたくさん造られていたけれど、侵略された際にワイン工房を壊され、ワイン用の葡萄も切り倒されてしまったというから徹底している。宗教的な理由だろうか。
 元のサマルカンドのあった場所からは、干しぶどうも発掘されているという。


 ウズベキスタンの葡萄は甘く、通常のワインは14%くらいの糖度、ウズベキスタンのワインは25〜30%の糖度があり、現在もたくさんのポートワインを造っている。
 再びワインを造るようになったとき、中央アジアには甘い葡萄しかなかったので、ヨーロッパ(イタリア・ハンガリー・グルジア等)からワインに向いた葡萄を持ってきた。そうして、シャンパンやトカイ、ムスカテ、コニャック・・・、とヨーロッパのワインを造り始めたという。
 色々な国のワインを集めて博物館まで建ててしまったというから、こちらも徹底している。そのワインは今もここで保存されているそうだ。中には結構なヴィンテージ・ワインが眠っていそうだ。


 1917年のロシア革命以降、工場は全て国営になった。
 国営にされる前、この工場の持ち主は深さ16mのところにワインをたくさん埋めて隠していた。後に、3700本のワインが発見されている。この3700本は、中央アジアで一番古いワインのコレクションである。
 2006年にこのうちの10本を開けて飲んだそうだ。1本2000ドルからオークションを始めたという。最終的にはいくらになったのだろう。


 一通りの説明を受けた後、試飲のお部屋に移動した。テーブルの上に10種類のワインがセッティングされ、私たちの到着を待っている。
 順番に説明してもらい、試飲する。試飲は、糖度の低いものから始める。なかなか優雅な気分である。
 写真の左手前から奥に、右側に移って奥から手前に向かって説明してもらいながら飲んだ。


 最初に飲んだのは、グルジアの葡萄を使った2010年のワインで、名前は聞きそびれてしまった。アルコール度10%、「ドライ」という説明だけれど、そもそもウズベキスタンのワインは甘口ポートワインが基本なので、辛口という感じではない。むしろ、このワインはかなり酸っぱく感じた。


 二つめはサビライ(この辺りの発音は、ガイドさんの説明を聞き取ってメモしているので間違えている可能性も高い)という赤ワインで、同じくグルジアの葡萄を使っており、品種名をそのままワインの名前にしている。2009年ものでアルコール度11%と言われた割に、最初に飲んだワインと比べて軽く感じた。
 白ワインよりも赤ワイン、たった1年とはいえ新しいものより古いものの方を「軽い」と感じるとは、すでに私の舌はこの辺りで莫迦になっていたのかも知れない。


 三つめの相当に濃い色の白ワインはバヤンシィという名前で、こちらもアルコール度11%。
 「フルーティ」という説明の通り、やはりこの色に相応しく甘すぎるくらいの味だ。杏のお酒みたいだねと言い合い、つい「これってぶどうから造ったワインですよね?」と聞いてしまった。


 四つめのワインはデザートワインで名前はカゴールという。こちらはロシア正教会で飲まれているワインで、「キリストの血」と言われている。アルコール度は16%と一気に上がった。
 一つ前に飲んだワインも「甘い」と思ったけれど、こちらはもう甘いなどというそれこそ甘い表現では追いつかず、顔をしかめてしまうくらいの甘さだ。
 日本大使館では、「おもてなし」のためにこちらのワインを購入している。そう言われるとぐっと価値があるような気分になるのが我ながら現金である。


 続く三つはワインではなくてリキュールだった。同時に冬に収穫した葡萄を使ったワインだという説明もあったから、真相は不明である。
 五つめ(左側一番奥)は、シリンという名前で、山で栽培した葡萄を使っているため、花の香りとフルーティな味を持つ。アルコール度は16%だ。私は飲むためというよりもケーキ作りに使おうと思っていたので、これまで飲んだ中ではこの「シリン」が一番香りがよくていいかもと思う。
 シリンというのは「甘い」という意味で、糖度は22度である。


 六つめは、イタリアの葡萄を使っているという「アリアチコ」である。こちらもアルコール度は16%で糖度は12度、味も匂いも、はちみつというよりは蜂蜜のど飴という感じとツアーの方に言われて納得した。


 七つめは、カンドーフという名前で、試飲させてもらった中で唯一のウズベキスタンの葡萄から作ったお酒だという。そう言われるだけで美味しく感じる私の舌はやっぱり現金だ。
 こちらは干しぶどうの味がした(と感じた)。ウズベキスタンの葡萄を使っているという付加価値のせいか、当時の私のメモには「五つめよりもこっち」という殴り書きがある。糖度は22度だから同じくらいだ。香りの違いだろうか。


 次の二つはコニャックだ。
 八つめはティラカリという名前で、確かに琥珀色というよりも金色だった。アルコール度40%、いい香りである。美味しく、強烈に喉を焼くコニャックだ。
 九つめはサマルカンドと、観光客を狙っているようなネーミングで、77年保存していると言っていた。本当だろうか。意外とサラっとしているけれど、強烈なのは同じである。思わず咳き込んだ。


 最後はサマルカンスキーという名前の薬草酒だ。
 26種の薬草と、薔薇とレモンの精油が入っている。この薬草酒10000リットルを作るために400kgの蜂蜜を使うという。もはやイメージすることすらできない。味としては、ツアーのみなさんが言うには「養命酒」らしい。
 アルコール度はこれまでで最高の48度。通常はお水で割って、風邪薬代わりに飲む。
 1984年にはドイツで行われた何か(そこが肝心なところだけれど、私のメモには残っていない)で金メダルを獲得しているという。


試飲したワイン達のボトル 欲しいものがあったら買えます、と言われた。
 大体、左から右に行くにつれて高いワインになる。つまり、我々はお安い順に試飲したようだ。ワインは8000スムくらい、薬草酒は16000スムくらいだったと思う。
 ロシア正教徒であるガイドさんは、とっととロシア正教会で飲まれているというお酒を抱えている。


 迷った末、「ケーキ作りに使う」という点を最重要視して、コニャックのティラカリを2本購入した。1本11000スムだから、500〜600円というところだ。梱包もしてもらえた。
 ツアーの方には「養命酒」と呼ばれていた薬草酒が人気だった。


 このテイスティング代は20ドルだった。
 事前に旅行社に聞いたお値段よりも高かったので確認したら、ガイドさんは「20ドルです。」としか言わない。帰国してから旅行社に確認したとこら、「現地のガイドが間違ったそうです。」とだけ言われ、現地ガイドのミスで規定の料金よりも多く徴収されたのに謝罪も返金もないのかと、何となく釈然としなかった。


 「酔っ払った。」「いや、醒めちゃった。」「寝ちゃいそう。」と口々に言いつつ、帰りはタクシーを呼んでもらい、ホテルに戻ったのは22時近かった。
 試飲の酔いが回っていたようで、手早くシャワーを浴びて、23時前には就寝した。


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2012.10.21

ウズベキスタン旅行記2日目その2

2012年9月18日(日曜日)


ウルグットのバザールの入口 お腹も空いた13時くらいに、やっとウルグットのバザールに到着した。「お腹が空いた。」と目と声で訴えたところ「ごはんを食べていたらバザールが終わってしまう。」と言われてしまい、諦めてガイドさんの後を付いて行く。
 思えば、出発した時点で「5時間くらいかかる」と言われていたし、長距離移動なのだから、お菓子だけでなくもうちょっとお腹の足しになるような非常食を用意しておくべきだった。
 ここで失敗したのは、このバザールの外観を目にしていたにも関わらず、「バザールなんだから」とわざわざバスに帽子を置いて出たことである。お昼過ぎの太陽に帽子は必携だった。


ウルグットのバザール ガイドさんも言っていたとおり、この時間では「閉めてしまったお店」か「閉めつつあるお店」が多い。
 そして、婚礼衣装のお店が目に付く。こんなに暑いところなのにどうして厚手の生地の服が多いのか謎である。
 衣装だけでなく帽子や靴、アクセサリなども売っていて、可愛らしいおばあさんが帽子を差し出して見せてくれる。このおばあさんの口元で金歯がきらっと光っていた。金歯は一種の「お金持ち」の証拠であるらしい。


 さらに奥に進むと、スザニを売っている一角があった。こちらも店じまいしているところが多い。
 にも関わらず、気がつくとどこからか現れたスザニ売りの方々に囲まれていた。
 スザニは地方ごとに特徴があって、黒地にカラフルな刺繍が施されたスザニは地元サマルカンドのものだという。
 黒地の布は、インテリアとしてはちょっとインパクトがありすぎである。
 ブハラは赤いものが多く、ヒヴァは幾何学模様が特徴と、地方ごとに特色がある。刺繍部分の光沢が綺麗だったので聞いてみたら、綿の生地にシルクの糸で刺繍してあるという話だ。


 スザニは、魔除けとしても使われていたという。機械で刺繍したものも多少は売っていたけれど、そういうことなら手作りの方が効きそうである。
 ガイドさんの説明を聞きながら歩いているときも、「ヤパニ」「ヤパニ」と売り子さん達の声がかびすましい。日本人が多く訪れているということだろうし、いいお客ということでもあるだろう。
 ガイドさんに「どうして我々が日本人だって判るの?」と聞いたら、「中国や韓国の人はここには来ないから」と言われた。


 「ヤパニ」くらいは判るけれど、私たちはウズベク語もロシア語もできないし、売り子さんたちに英語を話す人は多くない。買い物の交渉も質問もガイドさんに頼りっぱなしだ。
 色々見せてもらった中に、おばあさんが「私が刺繍したのよ。」と広げる一枚があった。白地に赤系統の刺繍がされている。縫い目も細かいし、ベッドカバーにちょうどいい大きさだし、混みすぎず空きすぎずのバランスがいい。
 お値段を聞くと(正確に言うと、ガイドさんに聞いてもらうと)130ドルだという。「高い! 負けて! 」と言うと、「今日は日曜日だから100ドルに負ける。」と言う。ウズベキスタンはイスラムの国だから、どちらかというと「金曜日だから」と言われた方が判るんだけどなぁと思いつつ、「80ドルにならない?」と聞いたら、「これは刺繍した部分が大きくて手間がかかっているものだからダメ。」と言われ、100ドルで手を打った。


 誰かが最初の1枚を買うと、雪崩のように次々とスザニを抱えた女性達が集まって来た。
 宣伝文句を聞いていると「ブハラ・デザイン」と売り込んでいることが多いような気がした。確かに、日本人好みの中間色を使った、植物をデザインしたものが多い。
 やはりツボを押さえている。


スザニ もう1枚気になっているスザニがあった。
 家のリビングにも使えそうな中間色の色合いで、刺繍は先ほど買ったものよりも更に細かい。ガイドさんも「これは相当にモノがいい。」と太鼓判を押す。
 それでもどうしようかと迷ったのは、150ドルとお値段が高かったのと、ブハラのスザニだという説明があったからだ。このツアーではブハラでスザニ工房に行くことになっていて、折角なら地元で買いたい気がする。
 この売り子の女性は英語を話したので、値段交渉くらいなら自力でできる。100ドルと言ってみると、話にならない、その値段なら別のもっと小さいものを持ってくる、これはブハラで買ったら200ドルはするのよと矢継ぎ早だ。
 しばらくやりとりしたけれど、ガイドさんから「そろそろ帰りますよ。」と言われて諦めて帰ろうとしたそのとき、「130ドルでいい。」と言われ、ついに買ってしまった。商売上手なおばさんである。


 ウルグットのバザールで2枚も大きなスザニを買ったのは私だけで、「お買い物好き」というフラグが立ったのはこのときだったと思う。
 しかし何だかんだ言って女性はお買い物好きだし、布地好きだ。ツアーの方々も思い思いにお買い物をされていて、バスまで歩きながら、バスの中でもそれぞれの戦果を見せ合った。
 かなり大きなスザニ2枚を抱え、バスに戻る道すがら「重い・・・。」「一体、何kgあるんだろう?」と初っぱなから帰国時の荷物の重さを心配することになった。


 少しバスを走らせたところでガイドさんが「あそこのカフェがやっているかどうか聞いて来ます。」と言う。
 この時点ですでに14時だし、人がいる気配がないなーと思っていると、案の定、すでに閉店していたらしい。
 バスの中でそれぞれ持参のおやつが回され、ガイドさんが様子を見に行ってはしおしおと戻って来るということを何回か繰り返し、やっと屋外レストランのようなところで昼食にありつけたのは、15時半近かった。


シャシリクスイカ


 昼食のメニューは、サマルカンドのナン、牛肉のシャシリク(串焼き)のオニオンスライス添え、緑茶である。
 私たちが昨日からスイカスイカと大合唱するのを聞いていたガイドさんが、お隣で売っていたスイカを買ってきて、カットして出してくれるよう頼んでくれた。
 大量のスイカの向こうでは、お兄さん達がメロンを放り投げてトラックの荷台に積んでおり、私たちが見ていることに気がついて派手にパフォーマンスしてくれる。可笑しい。


 シャシリクは焼く前のものがケースに並んでいて、食べたいものを選んでくださいと言われた。牛や牛のミンチ、羊、レバーなどの中から、オーソドックスに牛の串を1本頼んだ。
 大きなテーブルを囲み、お皿とフォークをウエットティッシュで拭き、お茶碗は一度お茶で軽くゆすいで、食べ始めた。
 ウズベキスタンの人はお茶碗に指をひっかけるようにして持つので、お茶は半分くらいしか入れない。
 ウズベキスタンでは、パンにスイカを載せて食べるそうだ。ちょっと試してみる勇気はない。
 空腹という最大の調味料もあり、滋味あるお肉でとても美味しかった。


マリカ クラシック ホテル 16時過ぎ、サマルカンドの宿であるマリカ クラシック ホテルに到着した。
 雰囲気のいい可愛いホテルが住宅街の真ん中にある。
 チェックインの際にフロントにパスポートを預ける。ウズベキスタンでは宿泊した各所で宿泊証明をもらい、出国する際に提示する必要がある。もっとも、見た目は7cm角くらいの手書きの単なるメモである。
 「絶対になくさないように。」と言われて渡されたものの、パスポートにクリップで留めてあるだけでちょっと不安になる。


 ガイドさんがお部屋の鍵だけ渡してあっさりと解散しようとするので、慌てて止めた。
 サマルカンドでワイン工房に連れて行って欲しいと事前にリクエストしてあったのでその話も聞きたいし、夕食に出かける筈だから再集合の時間と場所くらい言ってくれなくては困る。
 そう言うと、ワイン工房に行きたい人は? とその場で募り、16時30分に再集合となった。


 何となく不安を感じてその場に残り、ガイドさんに「旅行社の人にオプショナルは2日目にワイン工房、3日目に紙漉きと案内された。」と言ってみると、「でも、今日は日曜日だからワイン工房は休みかも知れない。」と言う。
 とりあえず部屋に入るのは後にして更に詳しい話を聞こうと待っていると、フロントの人に電話番号を確認したガイドさんがおもむろにワイン工房に電話をかけ始めた。
 こら! と思っていると、電話を切って、「ワイン工房の見学は20時過ぎなら可能だと言っています。それでいいですか?」と言う。私は構わないけれど、他にも行きたいと言っている人がいたからみんなに聞いた方がいいんじゃない? と返事する。
 すったもんだの末、ワイン工房にはこの日の夜20時30分から行くことになった。


 今日この後の一応の予定が判ったので部屋に荷物を置き、中庭に置いてあった縁台でゴロゴロしていると、これからレギスタン広場に行くという方がいらしたので一緒に行かせてもらうことにした。ガイドさんも一緒に行ってくれるらしい。17時過ぎに出発した。
 ホテルは本当に住宅街のど真ん中にあるため、大きな道路沿いまで歩く。行き合う人がいきなり「日本人?」と聞いてきたり、フレンドリーだ。
 ガイドさんがタクシーを捕まえて料金交渉をしてくれ、3000スムになった。高いのか安いのかよく判らない。
 タクシーの中からあまり歩いている人を見かけなかったので聞いてみると、人が多く歩いている道とほとんど車しか通らない道とに分かれているらしい。


ウルグベク・メドレセの塔 到着したレギスタン広場は、やはりとんでもなく綺麗であった。そして、想像以上に広かった。
 ガイドさんが「塔に昇りたいですか?」と聞く。そう聞かれれば上りたいに決まっている。二人して「嬉しい!」と叫ぶ。
 ガイドさんとおまわりさんとの交渉の結果、各自10000スムを支払って、ウルグベク・メドレセの塔に上った。
 薄暗いけれど、所々に縦長の窓が開いていて、懐中電灯なしでも問題なく上ることができた。でも、狭い。この狭さで9人が上がるのは相当に辛いだろう。そして、一段一段が高い。腿上げを繰り返している感じだ。
 これを建物9階分続けるのは苦行そのものである。


塔の上から塔の上から


塔の上から塔の上から 塔の一番上には、人一人がギリギリ上半身を出せるくらいの穴が開いていて、そこから周りの景色を一望することができた。
 思わず「うわぁ!」と声を上げてしまう。爽快だ。
 降りるのが勿体ない。


ウルグベク・メドレセを裏手から 降りる途中、縦長に開いた窓からお隣のシェルドル・メドレセを望んだ。
 夕日を浴びて美しい。
 ガイドさんは、午前中の方が光が美しいと言う。夕方の光も建物が赤く黄色くなっていいものだと思う。
 この写真のドームなどに使われている色が「サマルカンド・ブルー」だ。濃いブルーを指すと思っていたので、ちょっと驚いた。


ウルグベク・メドレセの寄宿舎中庭を見下ろす


 20世紀以降の地震で落ちてしまったドームもあるらしい。
 その他にも、ウルグベク・メドレセは地震で何回か崩れており、タイルなども50%ほどしかティムール時代(14〜15世紀)のオリジナルは残っていない。
 しかも、このタイルを作り出す技術は再現できておらず、修復に使ったものよりもオリジナルの方が艶もよくできのいいタイルだという。一体どれほどの技術を持っていたのだろう。
 私たちが上った塔は33mの高さがあり、大地震で傾いてしまっている。大丈夫なんだろうか。


部屋の内部 メドレセとは神学校の意味で、その内部には寄宿舎も持っていたという。
 今もウルグベク・メドレセの2階部分はお土産物屋になることもなく、小さな部屋がたくさん並び、そのまま放置されていた。
 木彫りの扉も、壁のタイルの装飾も美しく、しかし内部は放置されたままになってしまっているのが何となくもの悲しい。


アーチの上部 これは、2階から眺めたアーチの上部である。
 地震で崩れているという説明を受けた後だったので、一瞬これがそうかと思ったら、単純に仕上げをしていない、素の状態がこういうものだということらしい。この状態を、タイル等々で装飾して美しくするのはもの凄い労力だったろう。


 そうやって2階から外を眺めていたら、レギスタン広場の真ん中を歩いている新郎新婦が目に入った。タキシードにウエディングドレスという姿である。
 ガイドさんが「日曜日だから結婚式が多い。」と言うので、「イスラム教の国なのだから金曜日なんじゃないの?」と尋ねたところ、「ウズベキスタンはヨーロッパ式です。」という回答だった。確かに、衣装からしてヨーロッパ式である。


昔の道の跡 大満足で降りて来て広場を歩いていると、足もとに何やら碑のような説明版のようなものが埋め込まれていることに気がついた。
 昔は焼いた煉瓦で作っており、その当時のものが一部残されているという。
 ガイドさんの説明によると、私の足の先が指し示しているところが、その15世紀の煉瓦だという。レギスタン広場のあるところは、500年前には道だったらしい。
 普通に歩いていたら、足もとにそんな歴史が埋め込まれていることなど気がつかなかったに違いない。


新郎新婦 500年の歴史を踏みしめていた感慨にふけったのも一瞬で、すぐ近くに先ほどの新郎新婦がいることに気がつくとあっさりとそちらに気が向いてしまった。
 タキシードとウエディングドレス姿の二人である。いわゆる「伝統的な衣裳」ではないようだ。
 写真を撮ってもいいと言ってもらえたので、一枚、撮らせてもらった。
 やはり、ウズベキスタンは美人が多い。


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2012.10.20

次の旅計画(国内編 覚え書き その8)を考える

 2012年も10月半ばを過ぎて、年内の国内旅行は無理かなという感じになってきたこともあり、久しぶりに経県値&経県マップを更新するのと同時に次の旅計画・国内編を更新することにした。

 更新後の私の「経県値&経県マップ」は、こちらである。

 ちなみに、旅したことがあるかどうかが私のテーマなので、サイトの趣旨とは外れるかもしれないのだけれど「住んだことのある県かどうか」は外し、あくまで「宿泊したか」「観光したか」に絞ってマークした。
 「降り立った」とか「通過した」とかは、考え始めると頭が痛くなるので、そちらも無視してしまった。

 「宿泊した県」の詳細は以下のとおりである。
 複数回行ったことのある県は、最新のものを載せてある。

 北海道(2011冬、知床流氷 リベンジを誓う)
 宮城県(2012夏、月山・鳥海山ツアーでオニコウベ温泉泊)
 山形県(2012夏、月山・鳥海山ツアーで湯野浜温泉泊)
 福島県(2009夏、裏磐梯へ)
 茨城県(高校の合宿で高萩へ)
 栃木県(2011秋、奥鬼怒へ)
 群馬県(草津温泉に行った記憶がある)
 千葉県(2011-2012、千倉で初日の出)
 東京都(2010秋、汐留のホテルでレディースプラン)
 神奈川県(2010GW、職場のお姉さん達と箱根へ)
 新潟県(大学のゼミ合宿で)
 富山県(2007秋、立山黒部アルペンルート)
 石川県(金沢にバスツアーで行った)
 福井県(2010冬、福井駅前に泊まって永平寺の冬の燈籠まつりへ)
 山梨県(2012夏、甲府で山梨県立美術館と葡萄狩りの旅)
 長野県(2011夏、白馬再訪)
 岐阜県(高山って岐阜県だったのか・・・)
 静岡県(2010GW、熱海でのんびり)
 三重県(2008冬、伊勢神宮へ)
 京都府(2011年末、智積院会館で初宿坊体験)
 大阪府(海遊館目当てで)
 兵庫県(城崎温泉って兵庫県だったのか・・・)
 奈良県(中学の修学旅行で泊まったかな?)
 和歌山県(2006GW、熊野古道)
 岡山県(倉敷の大原美術館へ)
 広島県(高校の修学旅行以来)
 熊本県(阿蘇山へ)
 大分県(別府温泉は大分県だった・・・)
 宮崎県(高千穂へ)
 鹿児島県(2011秋、霧島温泉と指宿温泉と桜島)

 次の旅計画候補は以下のとおりである。

・白神山地(世界遺産のブナの森を歩きたい)
・屋久島(世界遺産だし。美味しい水を飲みたい)
・沖縄(できれば、八重山に)
・西伊豆(海に沈む夕陽を見る)
・川原湯温泉(ダムの底に沈む前に)
・四万十川を見る(実は四国に行ったことがない)
・満開の吉野の桜を見る

・大阪の国立文楽劇場(どうせ文楽を見るのなら専用劇場で)
・イサム・ノグチ庭園美術館(香川県にあるらしく、しかも事前予約制であるらしい)
・高知県立美術館(シャガールのコレクションが1300点!)
・萩・津和野・秋吉洞(高校生の頃新井素子の「あなたにここにいてほしい」を読んで行きたいと思ったことを思い出した)
・青春18きっぷの旅をする

・羽島に行って円空仏を見る(北森鴻の小説の影響である)
・平泉で芭蕉を偲ぶ(そういえば中尊寺に行っていない)
・どんぴしゃりのタイミングで紅葉を見る(京都か奥入瀬か)

・山形県の一本桜を巡る旅(母の希望)
  2012GWに友人と決行してしまった・・・
・ひたち海浜公園でネモフィラと海と空の3つの青を見る(地震の影響が心配である)
   2012GWに行ったけれど、残念ながら「海と空」は青くなかった。
・高野山で宿坊に泊まる

・蔵王で樹氷を見てみたい(母の希望)
   2012冬に決行!
・釧路から羅臼まで最長路線バスの旅(流氷リベンジを兼ねて)
・箱根の温泉に宿泊して箱根駅伝応援!

・出雲大社にお参りして出雲駅伝を応援!
・紅葉の時期に比叡山延暦寺の宿坊に泊まる

 また思いついたら(思い出したら)追加しようと思う。

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2012.10.14

ウズベキスタン旅行記2日目その1

2012年9月18日(日曜日)

 空気が乾燥していたのか、喉が渇いて夜の間に何度か目が覚めた。お部屋にあった水だけでは足りない。仁川空港でミネラルウォーターを買って正解だった。
 目覚まし時計は5時にかけてあり、それを汐に起き出した。外はまだ暗い。

朝食 朝食はビュッフェ形式で意外と豪華である。この後、長い車移動なので控えめにした。
 パンは今ひとつ、フルーツとドライフルーツは美味しい。
 ふと気がつくとガイドさんが現れていて、お願いして水筒にお湯をもらった。暑いところで冷たい水を摂りすぎるのも良くないし、お腹を壊さないように熱い飲み物を持ち歩くことにする。
 旅先でお腹を壊したことなどないのに、今回は何故か「お腹を壊すかも」という強迫観念が働いて薬も持参している。予防のためにビオフェルミンを飲んだ。

 7時5分過ぎ、マイクロバスに乗り込んで出発である。
 サマルカンドまで5時間くらいかかる、サマルカンドに行く前にウルグットのバザールに寄るという説明があった。ウルグットのバザールは結婚準備のためのものが多く売られているバザールで、スザニも「結婚準備のための品」の一つだという。
 流石に休日の朝の道路は空いていて、すぐにタシケントの街を抜けることができた。街を抜けるとすぐ、車窓には綿花畑が広がる。

 ガイドさんの説明は、ウズベキスタンの地理から始まった。
 ウズベキスタンは中央アジアの中央に位置し、五つの国と国境を接している。北にカザフスタン、南にトルクメニスタンとアフガニスタン、東がタジキスタン、キルギスである。
 東部には天山山脈があり、水が豊かで、ウズベキスタンの人口のほとんどはその東部に住んでいる。逆に西部には砂漠が広がり、人々はアムダリヤ川沿いに集まっている。
 ウズベキスタンの人口は1700万人で、首都タシケントには260万人が住んでいる。

 ウズベキスタンにはたくさんの民族が住んでおり、その数は120を超える。そのうち75%がウズベク人だ。これから行くサマルカンドやブハラでは、タジク人が多いという。
 ウズベキスタンの公用語はウズベク語で、ウズベク語はアルタイ語系の言語で非常にトルコ語に近い。しかし、タジク語はペルシャ語に近いので、ここは通訳が必要になるという。
 ガイドさん自身はロシア人で、ロシア人は人口の5%くらいを占めている。

 ウズベキスタンには宗教も多く、イスラム教、ロシア正教、カトリック、ユダヤ教がある。人口の80%はイスラム教徒で、ほとんどがスンニ派の人だという。
 ウズベキスタンの中で民族同士、異教徒同士が争ったことはないらしい。

車窓の景色 ウズベキスタンで走っている車のほとんどはウズベキスタンで作られている。いすずや韓国のメーカー(シボレーに買収されてしまったらしい)が工場を作って生産している。ただし、エンジンだけは輸入している。
 飛行機も生産しているというから、その点では日本よりも盛んと言えるかもしれない。

 ウズベキスタンの綿花の生産量は世界7位、シルクの輸出でも世界15位である。
 本当に、車窓の景色はずっと綿花畑である。ソ連時代のモノカルチャが今も残っているということだろう。
 ブハラの周りには天然ガスもあるし、フェルガナ盆地に原油がある。天然ガスはロシアのパイプラインを使って輸出している。

 ガイドさんの説明を聞き、車窓を眺めていると忙しい。最初のうちは工場が並んでいた。次第に綿花畑が広がるようになり、路面電車があったり、道ばたで大量のスイカが売られていたり、畑の牛にまで一々声を上げているのだから我ながら完全なお上りさんである。
 8時前、ガイドさんが「降りてみませんか。」と言い、バスを道ばたに駐めて、全員で綿花畑に行った。誰かの畑だろうに誰もいないけれど勝手に入っていいのか? と思うけれど、ガイドさんはお構いなしである。
 そういえば出発前に「綿花摘み(旅程に書かれていた)ってどこでやるんですか?」と聞いたときに「(そんなものは)どこででもできる。」みたいな答えが返ってきて訝しく思った。どうやらこういうことだったようだ。

綿花畑 ひたすら綿花である。
 地平線まで綿花畑が続いているんじゃないだろうか。
 ちょうど収穫の時期のようで、実が割れて綿がいたるところで顔を出している。お花も一輪二輪だけ残っていて、みんなして「こっちに咲いている!」「こっちのはピンク色だよ!」と声を掛け合い、クリーム色のお花と2色のお花を見ることができた。
 ガイドさんは「採ってもいいです。」と言うけれど、ここって誰かの畑なんじゃないの? と思う。流石に誰も採ろうとはしない。

 ウズベキスタンでは、綿の種を絞った綿実油を調理に使う。(そして、この油に我々は後にとてもとても苦しめられることになる。)
 収穫後の木は燃料として使うというから、本当に無駄のない、いい(というのも変な言い方だけれど)、生活に役立つ木である。
 機械で刈り取ると品質が落ちてしまうため、綿花の収穫は基本的に手作業で行われている。

桑の木 ウズベキスタンでは綿とともにシルクも特産品となっていて、蚕を育てるための桑の木がこの畑の端に植えられていた。
 子供の頃に理科の授業の一環で蚕を飼ったことがある。うちの近所に生えていた桑の木はこんなに立派な「木」ではなかったと思う。
 木の根元の方が白くなっているのは、石灰を塗って虫の害を防いでいるためだ。
 綿花畑で写真を撮り合ったりして、20分以上もうろうろきゃあきゃあ楽しんで、バスは再び出発した。

 車内では、ガイドさんのウズベキスタンの歴史講義が始まった。
 「初めてウズベキスタンに人類が現れたのは」から始まり、終わるまでにどれくらいかかるんだろうと思っていたら、割とすぐ紀元前7世紀にウズベキスタンの国土に初めて国が成立したという話になったのでほっとした。
 そこも割と簡単にスキップして、紀元前6世紀に成立したアケメネス朝ペルシアが征服した話になった。アケメネス朝ペルシアはその後200年間にわたってこの地を支配し、ゾロアスター教を広め、都市を建設したという。

 マケドニアでは紀元前330年代後半ににアレキサンダー大王が即位し、アケメネス朝ペルシアを征服した。
 しかし、アレキサンダー大王は、中央アジアを完全に支配下に置くことはできないと判断し、ソグディアナの王女と結婚するという方針転換を行い、土地の習慣を活かすようにしたという。
 同時に、当時世界最先端ともいえるヘレニズム文化を持ち込み、中央アジアの文化に大きな影響を与えている。

 紀元前140年前後に大月氏が中央アジアを征服した。その後、中央アジアでクシャナ朝が成立し、この時代にシルクロードが発展するとともに、仏教が中央アジアに入ってくる。
 最初の頃にウズベキスタンは民族も宗教も多様だという話があって、こういう歴史を辿ったからこその話なんだろうなと至極納得した。
 シルクロードのおかげで、1世紀にクシャナ朝はさらに発展し、結果として、この時代の中央アジアでは仏教とゾロアスター教とキリスト教が併存した。ウズベキスタンでは、この頃の仏教寺院の遺跡も発見されている。

 5世紀には、ウラル山脈南方のエフタルという遊牧民族が、ガイドさん曰く「中央アジアを優しく征服」した。その後100年くらい続いたものの、エフタルの記録はほとんど残っていないらしい。
 ウラル山脈の北方からやってきたチュルクという遊牧民族がエフタルを駆逐し、チュルクはアラブに侵略されるまで続いた。
 この頃、ウズベキスタンでは3種類の文字が使われていたという。

 ガイドさんに「私はウズベキスタンの歴史のうちアラブ侵略の前までお話ししましたが、大体判りましたか?」と聞かれたとき、「はい」と答えた人はツアーにはいなかった。それはそうである。
 ガイドさんがノートを見ながら話していたので見せてもらったら、このノートは全部日本語でメモしてあった。驚きである。
 ガイドさんが普段しゃべっているのはロシア語で、「ウズベク語と日本語とどっちが得意?」と聞いたら「日本語。」という返事だった。ガイドさんはウズベク語はほとんどしゃべれないらしい。

シルダニヤ川 タシケントから1時間くらい走ったところで、バスはシルダニヤ川を越えた。ガイドさんの言う「ウズベキスタンはこのシルダニヤ川とアムダリヤ川の間にある」のシルダニヤ川である。
 思ったよりも「大河」という感じではない。
 この川にさしかかる前、もっと小さな川にかかっていた橋のたもとに、お魚を開いて売っている小さな屋台のようなお店があった。随分と茶色いお魚だったから、干してさらに燻製にしていたのかも知れない。どんな魚が釣れるのだろう。

メロン タシケントのホテルを出発して3時間弱、10時前に最初のお手洗い休憩になった。
 トイレの近くでは、おじさんが二人、メロンを山積みにして売っていた。ここまでの道筋でも、メロンやスイカなどを綺麗にディスプレイして売っている人がたくさんいた。
 ここのおじさんはあまりディスプレイに凝らないタイプのようだ。

 ウズベキスタンでは買う前に試食するのは普通のことだといい、ここでもメロンをかなり大きく切ってくれた。何人かで分け合っていただく。ちょっと瓜っぽい、さっぱりしたメロンだった。1個3ドルくらいと安い。
 メロンの後で冷たい水やビールを飲むとお腹を壊すから止めてくださいと注意されて驚いた。メロンの後では温かいお茶が鉄則だという。
 メロンの隣には、種々のドライフルーツやナッツも売っていて、そちらもちょっと美味しそうだった。

札束 この後、何故か両替タイムになった。
 ガイドさんはビジネスバッグを持っていて、覗かせて貰うと、中に「THE 札束」という感じでお金が入っている。ツアーの経費一切が入っているそうだ。一体いくら入っているのだろうという感じだ。
 ガイドさんは、「これが私のお財布です。」と言う。
 あまりにもインパクトがあったので、写真を撮らせてもらった。
 両替のレートは100ドルが180000スムだった。

 10時くらいになって、車窓に山も見えるようになってきた。
 「サマルカンドはあの山の向こうにある。」と言われ、まだそんなに遠いのかとショックだ。
 確か、お手洗い休憩のときにサマルカンドまで後2時間くらいと言われている。あと2時間で前方にある山を越えられるのか、距離感が全く掴めない。
 バスの中も、何となく疲れた笑いが漂う。

 1時間くらい走ると、山肌に白いペンキか何かでマークがいくつも描かれている様子が見え始めた。
 あれは何だろうとガイドさんに聞くと、あっさりと「宣伝です。」と言う。
 ペルーでも同じような場所に同じようにマークが描かれていて、ガイドさんに「あれは何?」と聞いたら、選挙の宣伝だという答えでガックリ来たことを思い出した。緑ではなく土の山肌はそういった宣伝を書こうと思わせやすいのだろうか。あるいは、緑ではなく土ということは雨が少ないということだろうから、一度描いたものが消えず、効率的な宣伝方法なのかも知れない。

 この辺りで、再びガイドさんの歴史の講義が始まった。「歴史を知らないと面白くない」からと言う。
 それは全くその通りだ。しかし、アラブの侵略の歴史を話したいという枕があって「ムハンマドは570年に生まれました。」から始まるとやっぱり驚くし、ちょっとゲンナリする。
 676年にアラブ軍はアムダリヤ川を渡り、そのときにはブハラとサマルカンドを征服できなかったが、700年代に入ってとうとう征服した。そして、征服と同時にイスラム教を広め始め、同時にゾクディアナ人は殺し尽くされて幻の民族と言われるようになったなど、凄惨そのものの歴史をガイドさんは淡々と語る。

 9世紀、ブハラはイスラムの都・中央アジアの首都として栄えていた。
 9世紀後半にアッバース朝の厳しい支配に対する反乱が続くようになり、サマニ朝と争うようになって、中央アジアの独立が達成された。その後は、経済成長が続く。
 この時代のブハラとサマルカンドは文化の中心となり、また、バグダッドに留学するなどして科学も発達し、アラブの征服で一度は破壊された灌漑農業や文化なども次第に復活したという。

 アラビア語も浸透し始め、中央アジアの学者も使うようになり、アラビア語からラテン語に訳されて世界中にその成果が知られるようになった。
 文化的成熟期という奴だろう。
 代数学もこの時代の中央アジアで生まれたらしいし、ベルニという人が世界で初めて地球のモデルを作製している。
 ガイドさんの言いたかったことは、「モンゴル侵略前に、中央アジアには世界に誇る文化があった」に尽きる。

電車 さっきから線路と平行して走っているなとぼんやり思っていた11時30分頃、電車に追い抜かれた。
 おぉ! 電車だ!
 何だか嬉しくなって、必死に写真を撮った。
 恐らくタシケントからサマルカンドに向かう電車だろう。「レギスタン号」という名前の特急電車がタシケントとサマルカンドの間を3時間半で結んでいた筈だ。
 綿花畑での寄り道があったにしても、7時に出発して4時間半、まだサマルカンドに私たちは到着していない訳で、電車という選択肢はなかなか魅力的である。

トイレ 電車で一騒ぎしたすぐ後、トイレ休憩となった。
 わざわざここに載せるのも(そもそも、写真を撮るのも)どうかと思うけれど、あまりにもシンプル設計のトイレだったので、証拠写真である。
 水道は建物の外にあって、トイレの内部は本当にこれだけだ。でも、見ての通りで清潔だったし、トイレットペーパーを持参する必要はあるものの1ロール持ってきている人も多かったくらいで準備は万全、全く問題なかった。

 ウルグッドのバザールが近づいて来た頃、ガイドさんからポプラの木について説明があった。
 ウズベキスタンでは、男の子が生まれたときにお父さんがポプラの木を植える習慣がある。その子が大きくなって結婚するとき、そのポプラの木を使って新居を作る。今でも行われている習慣だという。
 ウズベク人の場合、2〜3人の子供がいることが普通で、男の子は結婚しても(長男に限らず次男も)両親と一緒に住み続けるので、基本的に大家族だそうだ。

 結婚式を挙げるときは、知り合いだけでなく近所の人も招く。だから、どんなに小規模でも200人くらい、普通は1000人くらい招待するらしい。近所の人を招かないのは非常に不名誉なこととされている。
 そんなにたくさんの人が集まれる場所があるわけではなく、その辺りの道にテーブルと椅子を出してパーティを行うらしい。通行止めにするのだろうか。

 一度、婚約破棄してしまうと、女性は特に結婚することが難しくなる。
 新郎の父親が水曜か木曜に結婚を申込みに行き、新婦の両親がプロフを作ってもてなすとOKの返事だという。
 何だか色々と難しいしきたりがあるようで、しかしそのしきたりに則った結婚準備をすることが非常に重要だとされている。そこまで伝統を重んじているのに、花嫁衣装はいわゆるウエディングドレスにする人がほとんどだというのが何だか可笑しい。

 そして、バスは、婚礼用具を扱っているというウルグットのバザールに到着した。

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2012.10.08

ウズベキスタン旅行記0・1日目

2011年9月16日(金曜日)

 どうして旅行記0日目などというものがあるのかと言うと、今回の旅行では初めての「成田前泊」をしたからだ。
 久しぶりにスーツケースを転がして家を出た。帰宅のラッシュを避け、夕食も済ませた20時過ぎに出発である。
 心配性の私は出発の直前まで荷物の出し入れをしてしまい、あまり心臓によろしくない。母には「そうやって出発直前まで何回もスーツケースを開け閉めしたり、**をちゃんと入れたかと確認したりしているところはお父さんそっくりだ。」と笑われた。意外なところに血って現れるんだなと思う。
 履いていく靴は最後の最後まで迷い、キーンのスポーツサンダルにした。

コンフォートホテル成田 21時半過ぎ、今日の宿であるコンフォートホテル成田にチェックインした。
 この部屋はクイーンエコノミーというカテゴリの部屋で、スタンダードのお部屋よりも少し広い。スーツケースを持ち込んでの宿泊なので、広めのお部屋を選んだ。
 成田駅近辺のホテルには空港までの送迎を売りにしているところもあるけれど、出発時間に限りがあるし、成田から空港までは電車でわずか2駅である。朝食サービスがあるホテルの中から、集合時刻に間に合う時間(6時)から提供されるこちらを選んだ。
 また、このホテルはロビーにコーヒーメーカーがあって、飲み放題になっているのも有り難かった。

 

2011年9月17日(土曜日)

 5時30分に起き、6時からの朝食にロビー階に降りた。パン2種、カレー風味の具だくさんのスープ、ソーセージ、カボチャサラダ、コーヒー、梨と十分な内容である。
 6時40分にチェックアウトし、重いスーツケースを転がして、京成成田駅から成田空港に向かった。
 7時15分に指定のカウンターでeチケットをもらう。旅行社からはここで顔合わせがあると連絡があったけれど、カウンターのお姉さんから特段の指示がない。聞いてみると、「あの辺りに集まっていらっしゃるようです。」と言う。
 声をかけると、確かに同じ旅行社のツアーでウズベキスタンに向かう方々だった。今日、2コースが出発するらしく、私の参加するツアーは9名、もう一方のツアーは6名である。

 ビザ申請のときのミスと同様、ここでも旅行社のやり方にちょっと足りないんじゃないかと思った。
 「顔合わせがあります」と案内があれば、それなりのアテンドが付くと期待してしまう。ところが、実際には「勝手にやってください」という対応である。
 「あります」と案内するならそれなりの段取りを組んでもらいたいし、段取りを組まないのなら「顔合わせをお願いします」とでも書いてあれば自主的に動かなければならないことが伝わる。小さいことだし、支障が生じる訳ではないけれど、ちょっと気になった。

 そんな訳で、何となく顔合わせをし、何となくおしゃべりに興じる。ご夫婦が一組、後の6名は一人参加、うち5名が女性という構成である。成田出発は8名で、お一人が関空から出発という話だった。
 三々五々チェックインに向かうと、結構な行列ができていた。
 チェックインの時点でスーツケースが16.8kgもあった。私はやはり荷造りが下手である。
 ソウルまでの便もタシケントまでの便も通路側の席を確保できてほっとする。
 スーツケースを預けて身軽になり、妹に頼まれていた外国コインの募金をし、出国審査に向かった。

 朝早いからか、出国審査はガラガラだったし、出国審査を抜けたところにカートがたくさん並んでいて感動した。ここにカートがこんなにたくさんあるなんて、未だかつてなかったように思う。
 免税店をぶらぶらし、ツアースケジュールに組み込まれている民家での食事の際のお土産にしようと「白い恋人たち」を購入する。事前に旅行社の担当の方に質問したところ、特に手土産等は必要ないけれど持って行くならお菓子などがいいでしょう、というお答えだった。

 大韓航空706便ソウル行きは、9時25分の定刻に離陸した。ほぼ満席である。仁川空港での乗り継ぎに70分しかないので、定時運行が有り難い。
 10時頃に機内食が出た。鰻ごはん、パン、フルーツゼリー、という微妙なメニューである。あまりお腹も空いておらず、半分くらい食べて箸を置いた。
 11時25分と定刻よりも30分近く早く仁川空港に到着し、乗り継ぎも余裕である。案内も判りやすいし、8人いればどうにかなるものだ。ずっと前に韓国旅行した際に余っていたウォンで、機内持ち込み用に水とお茶を購入した。
 13時発の大韓航空953便タシケント行きには関空出発の方も搭乗する筈だけれど、残念ながらここでお会いすることはできなかった。

 時間通りに飛行機に乗り込んだら、何故か機内ではドリンクサービスが行われていた。おかしいと思っていたら、14時になって、中国上空を飛ぶ飛行機が多すぎて管制官の許可を待っている状態であるとアナウンスがあった。日本語のアナウンスもあるのが有り難い。
 あと20分で離陸と言われ、そもそもこのアナウンスまで60分も全く何の案内もなく待たされていたこともあって非常に懐疑的な気分になったけれど、確かに14時20分に80分遅れで離陸した。

 (以下、ウズベキスタン時間で表記。日本より4時間遅れ。)

ビビンバの作り方 11時頃に機内食が出た。噂のビビンバがあり、もちろんそちらをお願いする。大韓航空の機内食ビビンバを一度食べてみたかったので嬉しい。
 「召し上がり方」のリーフレットももらう。
 予め具が入っている器に温かくなっているごはんを入れ、コチュジャンとごま油を入れて、あとはスプーンで混ぜて食べる。美味しい。
 ビビンバ、わかめスープ、お漬物、お餅のようなデザートがつき、白ワインをいただいた。

 この頃からかなり機体が揺れて不安になるくらいだった。
 16時過ぎに配られたスナックはもちろんいただく。
 17時過ぎ、気がついたときには、眼下に雪山が広がっていた。ヒマラヤだろうか。こんなに素晴らしい雪景色が見られるなら、窓際の席も良かったかなと思ったくらいの景色だ。

 機長アナウンスによれば、タシケントの気温は27度だという。
 この機体はこのままエジプトに向かうとアナウンスが入って驚いた。仁川空港の表示ではタシケント行きになっていたと思う。機内にエジプトのガイドブックを広げている人が多かった理由がやっと判明した。
 17時45分くらいにタシケントに到着した。
 入国審査と税関を抜けたら、19時近くになっていた。ここで、ガイドさんと合流し、別ツアーの方々とはお別れである。ホテルも異なるらしい。

 ホテルに入る前に夕食に行きましょうという話だった。
 レストランまでの車内で、1ドルが大体1800スムであること、1リットルの水が大体1000スムで買えること、ビールはお店で買うと2000スムくらい、レストランなどでは5000スムくらいという案内があった。
 タシケントの空港では両替ができず、また、今夜泊まるホテルは小さなホテルで9人全員が両替することはまず無理らしい。ガイドさんが両替してくれるという。いくらくらい両替するかの目処として物価の話をしてくれたようだ。

シャシリクスイカ

 Sim Sim kafeというレストランに到着した。吹き抜けがあり、なかなか凝った内装のレストランである。
 この日の夕食のメニューは、前菜(サラダ)、ナン、鶏肉のスープ、シャシリク(お肉の串焼き一般をこう呼ぶらしい)、スイカ、紅茶だった。
 そして、赤ワインをご馳走しますと言われ、Clasicoというウズベキスタンの葡萄で作られたワインをいただいた。いわゆるポートワインで、甘口である。非常にウズベキスタンらしいワインだという。

 デザートに出てきたスイカがとにかく美味しかった。初対面の9人が奪い合うようにして食べる。とにかくそれくらい美味しい。こんなに美味しいスイカは生まれて初めだ。
 また、ウズベキスタンは大抵どこのレストランでも、特に頼まなくても紅茶をいただけるのが嬉しい。油を流すという意味もあるのかも知れない。
 1時間半くらいかけて、初ウズベク料理をゆっくり美味しくいただいた。

ホテル・ベクの部屋 この日の宿は、レストランから割と近いところにあるBekというこじんまりとしたホテルだった。
 ホテルのロビーで案内があり、明日は7時出発だという。「えー!」とブーイングが起こる。
 ガイドさんの説明によると、サマルカンド近郊のウルグットのバザールは早めに到着しなければ閉まってしまうため、早く出発する必要がある。6時から朝食、モーニングコールは5時である。
 一人部屋を申し込んでいたのに相部屋の案内をされてびっくりしてしまい、びっくりして反応できなかった私を見て、指名された相手の女の子は「そんなに自分と一緒がイヤなのか」と凹んだらしい。大変申し訳ない。
 そんな一幕もありつつ、21時過ぎに部屋に入ることができた。

 今回のツアーは「え?」ということが多く、このチェックミスもそうだし、ガイドさんはタシケント在住の人で、私たちの部屋割りが終わるとあっさり帰ってしまったことも引っかかる。
 明朝まで特に何があるとも思えないけれど、パンフレットには同宿しない場合は連絡先を告げますと明記してある。ましてや、ツアーメンバーの誰も、ロシア語やウズベク語を話すことはできない。万が一ということもあるではないか。
 確認しなかったこちらも悪いけれど、ちょっと釈然としなかった。

 長距離移動で疲れていたこともあるし、これだけ部屋が広いと散らかし放題である。
 シャワーを浴びて、23時前に就寝した。

 -> ウズベキスタン旅行記2日目その1

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2012.10.07

410000アクセス達成!

 今日(2012年10月7日)、どなたかが410000アクセス目を踏んでくださった。
 この10000アクセスもほぼ1ヶ月で達成している。有り難いことである。

 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日

360000アクセス 2012年3月22日
370000アクセス 2012年5月11日
380000アクセス 2012年6月26日
390000アクセス 2012年8月4日
400000アクセス 2012年9月3日

410000アクセス 2012年10月7日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2012.10.03

「ポポル・ヴフを探して」に行く

グアテマラ・マヤ文化協会「ポポル・ヴフを探して」
第1部 マヤの神話のお話とマリンバの紹介
 講演「マヤの聖典、ポポル・ヴフ」 講師 半田昌之(たばこと塩の博物館)
第2部 コンサートと朗読
 出演 峰ゆうこ/川名千鶴子
 演奏 青山道子(マリンバ)/フルート(後藤玲子)
     菅原早由吏(ファゴット)/黒澤百合(パーカッション&マリンバ)
     甲斐元子(パーカッション)
 朗読監修 林屋永吉
講演日 2012年10月3日(水)午後7時
場所 文京シビックホール 小ホール

 グアテマラ・マヤ文化協会主催の「ポポル・ヴフを探して」というイベントに行って来た。
 グアテマラ・マヤ文化協会ってどんなところなんだろうと少々怪しんだりもしたのだけれど、グアテマラ駐日大使を名誉会長にいただき、協会の所在地もグアテマラ大使館内というかなりオフィシャルな存在らしい。
 一方、法人会員は原則としておらず、個人会員のみ100人程度のアットホームな運営がされているようだ。
 イベントの始めに、副会長さんが挨拶すると同時に協会への入会勧誘を兼ねて紹介していた。

 副会長さんの挨拶、グアテマラ大使の挨拶に続いて、簡単なグアテマラの紹介が行われ、併せて、グアテマラで使われているというマリンバの紹介もあった。
 グアテマラからマリンバを持ち出すには政府の許可が必要だという話で、それはマリンバという楽器一般についてそうなのか、それとも古いもの、伝統的な形のものだけのことなのか、その辺りはよく判らなかった。
 とにかく、グアテマラからはるばるやってきたというそのマリンバは、その後のコンサートで使われたマリンバの2/3程度の長さである。通常は2mほど(だと思う)のそのマリンバを3人で演奏するというからかなりキチキチではなかろうか。そして、3人がそれぞれ演奏に使う場所は決まっており、その場所に併せてバチ(という名前で正しいかどうか不明だが)の種類も変わるのだそうだ。
 また、通常のマリンバはピアノなどと同じように白鍵と白鍵の間に黒鍵があるものらしのだけれど、グアテマラのマリンバは白鍵の真上に黒鍵が配置されているという。
 少しだけ演奏されたそのマリンバは、少しくぐもっており、この日は雨が降っていたこともあって調弦が難しいらしく、音が二重に聞こえてくるような状態だったのが惜しい。

 その後、たばこと塩の博物館の半田昌之氏から、ポポリ・ヴフについての講演があった。
 いわば、第2部の朗読のための解説編である。
 このお話のなかで一番気になったのは、マヤ絵文書が世界で「3」点しか残っていないという説明があったところである。確か記憶では4点だったようなと思いつつ、芝崎みゆき著「マヤ・アステカ不思議大全」を見てみたところ、やはり「4」点となっている。
 講演では、マヤ絵文書は、マドリード、パリ、ドレスデンにあるということだったので、残りの1つは存在しない、あるいは偽物であったとされたのかも知れない。

 ちなみに、このマドリードのアメリカ博物館にあるマヤ絵文書に、タバコを吸っている人の絵が描かれていることから、「たばこと塩の博物館」の半田氏とマヤとの関わりが出ているらしい。
 「それだけのことなんですけどね」というのがご本人の弁である。

 マヤ絵文書は、皮あるいは植物から作られた紙に石膏を塗ったものに描かれていたのだそうだ。両面ぎっしり書かれているらしい。
 世界には3(ないし4)しか残っていないのは、スペイン人が布教のために焚書してしまったからだそうだ。
 しかし、そのような状態でも、マヤの神話である「ポポル・ヴフ」が残っていることには、理由というか経緯がある。

 ポポル・ヴフは、キチェ族の創世神話で、スペインの侵攻後の1550年頃、アルファベット(ローマ字、という言い方もしていた)を学んだキチェの人が、マヤの言葉をアルファベットで書き留めたものだそうだ。
 その後、しばらくこの文書は埋もれていたけれど、1700年頃、フランシスコ・ヒメネス神父がチチナステナンゴのサン・トマス大聖堂で発見し、写本を作成するとともにスペイン語訳を行ったという。
 現在、残っているのはこのヒメネス神父が作成した写本のみで、ヒメネス神父が移した元の文書は失われてしまっているという。

 1947年、グアテマラのアンドレアン・レシーノス博士が新たにスペイン語訳を行うと共に註釈を作成し、この新訳版を4年かけて日本語に訳したのが、グアテマラ・マヤ文化協会長でもある林屋永吉氏ということだ。
 日本語版の出版には三島由紀夫らも支援を行い、1961年に中央公論から出版、1971年にはディエゴ・リベラが描いた挿絵も含んだ豪華版が再版され、現在普通に入手できる文庫にもこの挿絵のいくつかがモノクロではあるけれど収録されているという。
 ロビーでこの文庫も売っていたのだけれど、ちょっと迷って買わなかった。

 「ポポル・ヴフ」というのは、「共通の書」というくらいの意味らしい。
 元本が書かれたのがスペイン侵攻後であることからキリスト教の影響がすでに入っているという説もあるし、ノアの洪水との類似性も窺えるが、全体としてはマヤ独自の宇宙観が感じられる内容になっているそうだ。
 マヤ独自の宇宙観というのは、大雑把にいって、アニミズムであり、循環思想であり、人間も自然の一部であるという考え方であるといえるという。
 その他、特徴的な考え方として、唯一神ではなく「神々」という考えであり、天と地・光と闇・生と死など二元性で語られていること、が挙げられるのだそうだ。
 というよりも、そういう特徴があると頭の片隅に入れてこの後の朗読を聞くとよいでしょう、というお話だった。

 また、マヤの神々は、神々を崇め奉る存在として、また、森の番人として人間を作ったとされているらしい。
 最初は泥から作って失敗し、次に木から作って失敗し(そして、その失敗作の生き残りが猿となり)、最後にとうもろこしから作ってやっと成功したのだそうだ。
 とうもろこしの地位の高さがよく判る。大地よりも森よりもとうもろこしである。
 マヤでは森は四角くて、その四隅に柱が立っていると考えられているらしい。そして、東西南北にそれぞれ赤・黒・白・黄色の4色が当てはめられており、この4色はいずれも「とうもろこしの色」であるそうだ。
 真ん中は緑とされていて、それは葉っぱの色ではなく、翡翠だろうということだった。
 翡翠と並ぶとうもろこし、である。

 話は少し戻って「循環思想」ということだけれど、マヤ暦がまさにこの「循環」の思想で作られているという。
 主に儀式に使われた13日*20ヶ月の260日暦と、20日*18ヶ月+5日(凶月)の365日の暦を併用し、この2つを丁度干支のように組み合わせた長期暦が5125年ぶりに2012年12月12日に「一巡り」するということで、話題になっている。
 ちょうど、今年、グアテマラ北部で長期暦で最古(8c頃)のものが発見されたそうなのだけれど、そのどこにも「世界は終わる」とは書いておらず、次の日になればまた次の暦が始まる、というのが正しいらしい。

 概ね、こういう感じのお話だったと思う。

 10分間の休憩後、ポポル・ヴフの冒頭から人間を作り出すまでの物語の朗読と、マリンバ・フルート・ファゴットの演奏のステージがあった。
 これは、なかなか楽しかった。
 ついうっかり、朗読の言葉を聞き流してしまったりもしたけれど、それはそれで、雰囲気を味わうというものである。
 45分くらいのコンサートの最後には、林屋会長へのハッピーバースデーのプレゼントもあり(翌10月4日、御歳93歳になられるということだ)、至極和やかにイベントは終了したのだった。

 あいにくのお天気だったけれど、会場には150〜200人くらいの人が集まり、盛況だったと言えると思う。私も、参加無料でかなり楽しませてもらった。

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