ウズベキスタン旅行記3日目その1
2012年9月19日(月曜日)
6時くらいに目が覚めた。朝食は7時半からである。
そこはかとなくお腹の調子が今ひとつな気がして、私にしては控えめにした。食後、忘れずにビオフェルミンも飲む。
お腹のためにも冷たいものはあまり飲まない方がいいだろうと、今日もレストランでお湯をもらい、お茶を作って持ち歩くことにした。
9時にホテルを出発した。
ガイドさんは、すかさずチンギス・ハンが統一したモンゴルと国境を接するようになった1213年以降の中央アジアのホレズム国家の話を始めた。曰く「歴史を知っていないと、見学しても面白くないから」である。
1218年に派遣した使節が殺されてしまったことに激怒したチンギス・ハンは、中央アジアを攻め始め、タシケントとサマルカンドとブハラを廃墟にしてしまった。だから、中央アジアには、13世紀以前に建築された建物はほとんど残っていない。
廃墟にするにしてもほどがある。今日これから行くアフラシアブの丘は、その廃墟が廃墟のまま残されている場所だ。
1227年に亡くなったチンギス・ハンは、その直前に息子たちに国を分け与え、ハン国が四つできた。中央アジアにはチャガタイ・ハン国が建設され、1340年まで続く。
1340年以降、チャガタイ・ハン国は分裂し、1350年にはさらに小国に分裂してしまった。この混乱の時代にサマルカンドの南方にあるシャフリサブスで生まれたティムールは、元は盗賊のようなこともしていたらしい。
1360年に反モンゴルの民主運動が起こったことを契機とし、ティムールはサマルカンドを平定し、サマルカンドとシャフリサブスの支配者となった。この間の、ティムールの激しい変貌の理由はよく判らないらしい。
ティムールは、1365年から1370年にかけて次々と版図を広げ、ついに全中央アジアを征服した。
チンギス・ハンの子孫ではないティムールは、「ハン」は名乗らなかったものの、これをもって「ティムール帝国」が成立したとされている。エジプト・トルコからチベットにまで及ぶ大帝国である。
ティムール帝国の首都はサマルカンドで、ティムールが征服した国々から様々な技術者を連れて来たことで、発展の礎ができた。
ところで、現在のサマルカンドの人口は41万人、ウズベキスタンでは首都タシケントに次ぐ大都市だ。機械製造と化学工業が発展しているという。
いすずのバスの工場もサマルカンドにあるし、大学も6つあるという。
サマルカンドという街は、歴史上、3回の大きな転換点を経ている。
紀元前329年にアレクサンダー大王に征服され、破壊し尽くされている。
8世紀まではゾロアスター教の国だった中央アジアの国々は、アラブ民族に征服されてイスラム教に改宗することになり街自体も作り直された。
そして、13世紀にモンゴル軍に破壊しつくされ放棄された。この昔のサマルカンドの跡地アフリシアブの丘が本日最初の目的地だ。
アフリシアブの丘は遺跡というよりも廃墟で、屋根などというものはない。歩いていると、湿度の低いカッと照りつける太陽の暑さを感じる。暑さというよりも熱さという感じだ。
アフリシアブの丘は、本当に何もない廃墟で、辛うじて外壁だけが残っている。
季節のせいもあるのか、草一本生えていない荒野、という感じである。とても多くの人が暮らす街がここにあったとは想像できない。
紀元前7世紀に作られた「旧サマルカンド」は、1世紀にはシルクロードの要衝として発展し始める。7世紀のアレキサンダー大王の侵略に備えて初めて外壁が作られ、その当時、四つの門があった。破壊もしたアレキサンダー大王だけれど、短期間での再建を果たす。
8世紀の初めにやってきたアラブ軍は、ゾロアスター教のお寺を壊してモスクを建設するなどし、街はそれまでの2倍の規模になった。9世紀には外壁の延長は5kmに及び、門も七つに増やされる。
旧サマルカンドは、12世紀の始めに最大規模となり、外壁は周囲8km、門も12になったという。
13世紀のサマルカンドの街には水路が流れ、水道設備もあり、下水道も整備されていたというから、かなり進んだ都市だ。
しかし、1221年、サマルカンドはモンゴル軍に再建もできないほど破壊され、市民の99%を殺されてしまう。残った1%の市民が旧サマルカンドを放棄して新サマルカンドを作ろうと考えたのも納得である。
新サマルカンドの中心は、今も昔もレギスタン広場だ。ただし、その頃はメドレセはなく、代わりに大きなバザールがあった。
1867年にロシアに征服された後、アフリシアブの丘は考古学者によって調査・研究され、発掘されたものなどは博物館に収められている。そのアフリシアブ博物館に向かった。
ウズベキスタンの博物館や建造物の内部などでは撮影料を払えば写真撮影OKということが多かった。この博物館の写真撮影料は3000スムだ。
博物館の方の説明をガイドさんに訳してもらいながら見学する。
この石づくり(いや、土づくり)の箱のようなものは、いわば日本の骨壺である。ガイドさんにはこの「こつつぼ」という発音が難しいらしく、教えたら何度も練習していた。勉強熱心である。
「どうして蓋がないの?」と聞いてみたところ、どうやらゾロアスター教の習慣らしい。
また、旧サマルカンドの模型もあった。
一番高いところにあるのはモスク、一番大きく立派なのは宮殿で、サマルカンドの支配者が住んでいたそうだ。
これは竈である。
元々は復元図のとおりこの上にドーム状のものがついて二層構造のようになっていたけれど、残っているのは下半分だけだという。
それでも、よく「竈」と判る姿で発掘されたものだと思う。
乾いた天候も保存に味方したのかも知れない。
このコインはどう見てもギリシア風だ。
アレキサンダー大王は大帝国を築き、ゾクディアナの国家を征服したけれども、ホレズム国家を隷属させることはできず、アフリシアブの娘と結婚することを選んだ。そのときに、このようなコインも持ち込んでいる。
ウズベキスタンでギリシア・マケドニア国家のコインが発掘されるなんてびっくりだけれど、歴史を考えればある意味、当然なのかも知れない。
それにしても、本当に私たちは、西洋史観で「世界史」という授業を受け、本を読んでいるのだなと思う。世界史の授業でマケドニアについて間違いなく習ったけれど、それが自分の中ではヨーロッパの出来事に分類されてしまっていて、中央アジアとは全く繋がっていない。
最近、アフリシアブの丘からタンク(日本語で何といえば正確なのかはよく判らなかった。倉庫のようなものだったろうか)が発掘され、その中から小麦が壺にたくさん入った状態で発見された。
その小麦を植えてみたところ、ちゃんと芽が出たという。
8世紀頃の小麦だというから、恐るべし、小麦の生命力だ。
中央アジアでは、イスラム教が入ってくる前には、多彩な宗教が併存していた。主に、ゾロアスター教と仏教とキリスト教である。
意外なことに、アフリシアブの丘からも仏教に関するもの(装飾)が発掘されており、その遺物も展示されていた。これまた、私の中で仏教と中央アジアが全く繋がっていないので、ただ意外だという感想になってしまう。
この博物館の白眉は、7世紀にこの地を支配していたバフマンという人の家にあった壁画である。当時のゾクディアナの繁栄の様子がよく判る。
こちらの壁画がもっとも保存状態が良く、フタコブラクダに乗った外国人らしい二人や、白鳥なども描かれている。
この後やってきたアラブ人の信じるイスラム教では、人物や生き物、現実世界に存在する植物を描くことが禁じられていたため、アラブ軍はこの家を壊して埋めてしまった。そのため、保存状態がいいまま残っていたという。
2階に上がると、それ以降、13世紀(つまりはアフリシアブの丘がこの姿になる直前)までのものが展示されている。
この辺りのお皿は、8世紀から10世紀くらいに焼かれたもので、とても品質が高いのだとガイドさんが言う。
品質はよく判らないけれど、デザインは今でも十分、通じそうだ。ツアーは女性が多いこともあって、たくさんあるお皿の中からこれが欲しいとか、これがいいとか、品評会状態になる。
日干し煉瓦にうわ薬をかけるようになったのは11世紀からだという。
トルコブルーに彩色された(うわ薬をかけられた)タイルは、今も鮮やかな色を残している。モスクなどもこの煉瓦で飾られたそうだ。煉瓦に施された浮き彫りも見事である。
博物館を堪能し、入口で売っていた絵はがきなどにも心惹かれつつ、次の観光スポットに向かった。
ガイドさんは、バスに乗ると再び歴史の先生に変貌した。前置き抜きで「ティムールの支配が終わると」と始めたのは、ウルグベク天文台に到着する前に、どうしてもウルグベクという人の話をしたかったためらしい。
ウルグベクはティムールの孫で、ティムール帝国の支配者であると同時に有名な天文学者でもあった。
ウルグベクが作ったレギスタン広場のメドレセ(神学校)と天文台によって、サマルカンドは中央アジアの科学の中心地となった。
ウルグベクが統治していた1409年から1449年にかけて、中央アジアは黄金時代を迎え、特に経済と文化と科学が発展した。
ウルグベクは、中央アジア初の天文台を作り、天文表を作り、政治や宗教よりも科学を重要視した。そのため、イスラム教僧侶の怒りを買って1447年に内乱が起こり、その2年後に息子に殺されてしまう。
しかし、ウルグベクは民衆に人気があったため、民衆はウルグベクを殺した息子を許さずに反乱を起こし、息子はあっというまにその座を追われてしまう。
1501年まで戦乱は続いたものの、「勝者」といえるような人はとうとう出なかったという。
何とかここまでの説明を聞いたところでウルグベク天文台に到着した。11時過ぎである。
実際に見学を始める前にお手洗いタイムとなり、天文台をバックに写真撮影をしていた新郎新婦を見かけて我々ツアーメンバーは夢中になった。
写真を撮らせて欲しいと身振り手振りで頼んだら気持ち良く撮らせてくれ、かつ私たちにも一緒に写真に入ってという話になり、大記念撮影大会になった。
私たちも大笑いだけれど、新郎新婦ほかお友達だろう集まっていた人も苦笑していた。
お互い、「何でこんなことになっているんだろう?」という笑いである。
ガイドさんに呼ばれ、観光を再開する。
ティムールの玄孫である(ガイドさんの日本語は「やしゃご」にまで及んでいる)バブールは、アフガニスタンとインド北部を征服してムガール帝国を建国した。ウズベキスタンからティムール帝国は消えたけれど、離れた地で1852年まで繁栄した。タージ・マハルを建設したのは、バブールの玄孫である。
バブールの子孫によると、天文台はその昔は3階建てで、高さ30m、直径は46mもあったそうだ。しかし、今はその基礎部分と、地下にある六分儀が残っているのみである。
ここの写真撮影料も3000スムだ。
六分儀の弧の長さは64mあったらしい。そして、正確に南北を向いている。
ここで観察され、計算されたあれこれはとても正確だったが、天文台は破壊され、20世紀初頭に20年かけて探していたロシアの考古学者によって発見されるまで、所在すら明らかでなかったというから驚く。
六分儀の上を覆っている屋根も1913年になって作られたものだ。
併設されている博物館には、ウルグベク・メドレセの模型などがあった。現在の姿よりも、ミナレットが更に高かったことが判る。
その昔にあったメドレセのハナカ(と聞こえた。巡礼宿という意味だ)は今はもうない。そこに聖人のお墓があったため、巡礼者のための宿もあったが、今はどちらも存在していない。シャーヒ・ズィンダ廟に移したのかと聞いたら、そちらは有力者のお墓だという説明だった。
ウルグベクの天文学者としての腕は一流で、ウルグベクは当時、1年を365日と6時間10分8秒と計算していた。現在の科学で、1年は365日と6時間9分6秒とされており、誤差はほとんどないと言っていい。
その他にもウルグベクの輝かしい成果を色々と説明して貰ったけれど、こちらに地学の知識が著しく欠けていてきちんと理解出来なかったのが申し訳ない。
とにかく、ウルグベクの仕事は、20世紀初頭まで世界標準として採用されていたということだ。
このウルグベクの肖像は、1941年6月にお墓を開き、人類学者が骨格から再現したものだという。最後にウルグベクと対面して満足し、博物館を後にした。
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