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2012.11.29

空港宅配の無料券が届く(中米3ヶ国)

 2012年11月23日、カードの特典で成田空港への宅配サービスを無料で使えるということで、サイトからリクエストを出した。
 年間2回(行きと帰りと両方使うと、それで「2回」とカウントされる))までのサービスで、2回分を申し込んだつもりだったのだけれど、届いたのは1回分だけだった。不思議に思ったけれど、一緒に届いた伝票でも「1回分」となって
いたので、私の記憶違いか入力間違いだろうと思う。

 それに、帰りは振り替え休日の早朝に成田空港着なので、スーツケースを持って帰るのもそれほど大変ではないし、その日のうちに洗濯等々を片付けてしまった方がいいと考え直した。
 行きの分は、1週間前くらいまでに申し込もうと思う。

 荷造りは全く進んでいないし、下調べも全然進んでいないのだけれど、こうした準備だけは少しずつ進めているところである。

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2012.11.25

ウズベキスタン旅行記3日目その3

2011年9月19日(月曜日)


葡萄棚のあるおうち とは言うものの、未だに次に行ったお宅がどこだったのか、判っていない。
 パン工房から合流したガイドさんのお宅でお昼ごはんをいただくことになっていたようで、その前に行ったこちらのお宅はガイドさんのおじさんの家だ。
 家というより邸宅だ。
 家の前のスペースには葡萄棚があり、その向こうには果樹園が広がっている。柿の木や杏の木もある。
 やぐらみたいなものがあって、希望者はそのやぐらに上らせてもらって、葡萄の収穫をした。もちろん、私も上がる。
 前に上った方が「コワイ」と言っていた理由はすぐに判った。揺れる。そして、結構高い。
 ガイドさんの指示に従って葡萄を収穫し、収穫した葡萄をみんなでいただいた。


 葡萄棚の葡萄は、すべて黄色というか緑っぽい色の葡萄で、味はマスカットではなく葡萄である。幾種類か植えられているようで、ガイドさんが「これは美味しい。」「これはレーズン用。」などと教えてくれる。
 この葡萄棚で一番古い木は樹齢20年くらいだそうだ。
 この辺りはサマルカンド市から一歩だけ外に出たところで、ガイドさん曰く「田舎」である。
 すでに14時を回ってお腹も空いているし、甘くて美味しいし、みんなで結構たくさん葡萄をつまんだ。


弟さん ガイドさんのおじさんのお宅から、ガイドさんの実家(ガイドさん自身はサマルカンド市内のマンションで暮らしている)に移動した。
 こちらもまた、見事な大邸宅である。
 この前日にガイドさんの弟さんが婚約したそうで、彼らの新居となるおうちを見せて頂いた。弟さん夫婦のために敷地内に新しく建てられたおうちには、新しい家具や絨毯が置かれ(それらは花嫁からの贈り物だという)、昨日頂いたのだろうプレゼントも並べられている。家は花婿が用意し、家財道具は花嫁が贈るという習わしだ。
 弟さんが着ているブルーの衣装は、多分、私たちのために正装を見せてくれたのだと思う。ウルグットのバザールで買ったと言っていた。


 ガイドさんの実家のテラスのようなスペースでお昼ごはんになった。
 もう既にパーティのようなセッティングがされている。
 この紺色の食器のセットは、綿花が図案化されたものだ。ウズベキスタンで一番ポピュラーな模様かも知れない。


サモサロールキャベツ


 「サモサには、タマネギが入らないと美味しくない。」とガイドさんがきっぱりと言う。カレー風味で美味しい。
 スープも大きな野菜がゴロゴロ入っていて、ロールキャベツ風のお料理が美味しい。
 二日連続で昼食が14時・15時だったので、ガイドさんに「ウズベキスタンでは、お昼ごはんは今頃食べるのが普通?」と聞いてみたら、「普通は12時から13時です。」というお答えだった。この時間になったのはたまたま、ということらしい。
 ガイドさんの甥っ子がおじいちゃんに抱っこされて来たものの、人見知りなのか、顔を伏せてしまう。可愛い。


 「ナンはどれくらい保つ?」と聞いたら、「1週間くらい。」と言われた。「地球の歩き方」に2年間保つと書いてあったよと言うと、ガイドさん二人に笑われてしまった。10日もたつと、固くなって食べられないらしい。
 「ウズベキスタンなら乾燥しているので長く保たせることができるけれど、日本は湿度があるから無理だよ。」という話だ。
 サマルカンドのナンの材料をブハラやヒヴァへ持って行って焼いても、サマルカンドのナンの味にはならないと言うから、かなり微妙な食べ物なんだろう。家々で味噌や糠漬けの味が違うのと同じことなのかも知れない。


 ゆっくりおしゃべりしながらいただいて、昼食を食べ終わったら15時30分を過ぎていた。
 ガイドさんから、「これで今日の予定は終了です。希望者は紙漉の工房に行きます。みなさんどうしますか。」という話があった。私は最初から紙漉に行くと決めていた(というよりも、オプションを日本にいるうちにリクエストしてあった)からいいけれど、突然「ここでプログラムは終わりです。」と言われた他のツアーメンバーは困惑している。


 バザールに行きたいという人も多かったけれど、ガイドさんは、「この時間では終わってしまっている。」と言う。
 結局、紙漉に行く組と、レギスタン広場に行く組、ホテルに戻って休憩する組に分かれ、夕食は19時30分にホテルを出発することになった。
 次の予定を決めている間に、サマルカンドのガイドさんに「ご家族にどうぞ。」と成田で買って来たお菓子を手渡した。日本で暮らしていたこともあるというガイドさんは「白い恋人」を知っていると笑っていた。


 紙漉工房に行ったのは3名である。
 どういう調整があったのか、サマルカンドのガイドさんが運転する車に乗って、スルーガイドのガイドさんも付くという豪華な道行きである。
 「新座にいた。」「私の家は朝霞だ。」とウズベキスタン人と日本人とで、やけにローカルな話で盛り上がった。「武蔵野線は風に弱い。」などという話で盛り上がっていると、一体ここはどこだろうという気分になる。


 ガイドさんに「どうして日本語を勉強しようと思ったの?」と聞くと、「日本の会社がたくさんあったから日本語を勉強しようと思った。」という返事だった。それを高校卒業時点で考えたところが凄い。
 「ガイドの仕事に就いているのは何故?」と聞くと、仕事が少ないんだという返事だった。ここまで日本語ペラペラでも仕事を得るのは難しいんだなと思う。「ガイドの仕事は楽しい?」と聞くと、かなり溜めてから「楽しいです。」と答えがあった。正直である。
 彼は4年間、日本語を勉強したそうだ。それで、ガイド用のアンチョコメモを日本語で書いているのだから素晴らしい。


皮を剥ぐ 郊外に向けて30分くらい走り、紙漉工房に到着した。大型バスで来ているフランス人らしき人々もいて、観光スポットの一つといった感じだ。
 まずは、サマルカンドペーパーの作り方を見学する。
 サマルカンドペーパーは、シルクペーパーとも言われているけれど、その名前の由来は、蚕が食べる桑の木が材料になっているところにもあるらしい。
 しばらく水に浸けてやわらかくした桑の木の皮を、ナイフを使って剥ぐところから作業が始まる。


桑の木を茹でる その次に、剥いだ皮の方を5時間以上煮込んで、柔らかくする。
 剥いだ一番外側も紙漉に使うけれどあまり品質は良くなく、その内側の繊維質の部分を使って品質の良い紙を漉く。
 煮て柔らかくされた繊維は、束ねられてヒモに引っかけられ、乾燥させられる。


水車水車


 工房の内外を通すように水車が設置されている。
 工房の外側を流れる水路の水の力を利用して水車を回し、その回る力を内側で臼に入れた桑の木の繊維を杵で突く力に変換させている。
 杵で6〜8時間も突いて、繊維を細かくする。
 昔は紙漉に用いられたものだけで400台近くあったというこの水車も、今ではこの一基を残すのみである。というよりも、紙漉のためにこの水車を復元したというのが正しいようだ。
 この工房は、廃れてしまったサマルカンドペーパーを復活させようと、1998年に作られている。


工房の様子 細かくした繊維を紙と混ぜ、いよいよ、いわゆる紙漉を行う。
 この紙漉の様子は、日本で見た様子とほとんど変わらない。
 漉いた紙を60〜70枚まとめ、この写真の左隅の機械で24時間プレスして水分を抜く。相当に気の長い作業だ。その後、さらに、窓に貼って水分を抜くのと同時に真っ直ぐにする。
 割と、原始的である。


こする!その後・・・


 その後がまた凄い。
 ひたすら人力で紙を貝がらや石や角を用いて擦り、平らに滑らかにする。3人でやってみると、結構な力仕事である。
 ずっと擦り続けられた貝がらなど穴が開いている。
 こうして作られた紙は、1000年後も大丈夫なんだとガイドさんは言う。理由はよく判らなかったけれど、この紙は虫を寄せ付けないそうだ。


絵はがき 説明を一通り受けた後、紙漉をやりたいと言ってみたものの、今ひとつ私の熱意はガイドさんに伝わらなかったらしい。スルーされる。
 併設されている売店があり、お一人はサマルカンドペーパーで作られたお人形に惚れ込んで選び始めた。もちろんあとの二人であーでもないこーでもないと一緒に買い物を楽しむ。
 ガイドさんに「どれがいいと思う?」聞くと、30歳男性としては当然なのだろうけれど「どれでもいい」というつれない返事だ。
 色々探すうちに3人一致で惚れ込んだお人形が見つかった。もちろん、お買い上げである。
 私は、絵はがきを買った。10枚で60000スムを50000スム(2500円)に負けてもらった。それでもかなりいいお値段だ。


 お買い物をして、お茶をいただいて、帰りがけにもう1回「紙漉をやりたい。」とおっしゃった方がいて、そうしたらガイドさんは「聞いてみましょう。」とやっと反応してくれた。
 私がさっき言ったときは反応してくれなかったくせにと思っていると、直前にいた団体がやっていなかったので、というようなことを言う。
 よく判らないながら、紙漉をやらせてくれるという話になったので、3人で喜んで挑戦した。


完成 やっと実現した紙漉体験である。
 このお兄さんが付きっきりで教えてくれた。
 これがかなり難しい。漉き終わった紙を重ねようとしたら、固まっていない紙が落ちてくしゃくしゃになってしまった。
 もう1回体験できたので逆にラッキーだと思ったことは内緒である。
 紙漉体験後、裏庭のようなところを流れていた水路にかかっている水車の水で手を洗ったら、とても冷たくて気持ち良かった。


 この紙漉工房も、ウズベキスタン全体も、基本は8時から17時までが就業時間である。私が失敗して2回目のチャレンジをした分、紙漉工房の方々に残業させてしまったかも知れない。申し訳ない。
 しかも、どういうやりとりがあったのか、紙漉工房の見学と体験は無料だった。車を出してくれたガイドさんに、3人で20000スムを支払っただけである。


 帰りの車の中は、ひたすらお買い物の話をしていた。
 サマルカンドのガイドさんが音楽を流していたので尋ねてみると、それはイランの音楽だという。サマルカンドやブハラにはタジク人が多く、タジク人はペルシャ語を話すのでイランの音楽を聴く人も多いそうだ。聞いてみなくては判らないものである。
 17時45分くらいにホテルに戻った。夕食まで時間があったので、シャワーを浴び、お洗濯をし、カメラ等々の充電をした。


ラグメン 夕食は、車で20分くらい走ったところにあるBEKというレストランだった。
 テラス席に陣取ると、ガイドさんが「何を食べたいですか?」と聞く。割と自由が利くらしい。ラグメンが食べたいという声があがり、この日の夕食は、サラダ3種と、ラグメン、シャシリクにビール(5000スム)というメニューになった。
 ラグメンも美味しいし、ビールも美味しい。
 それぞれ、昼食後の過ごし方を報告し合いつつの夕食になった。


 ウズベキスタン旅行記3日目その2 <- -> ウズベキスタン旅行記4日目その1

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2012.11.24

海外旅行保険に加入する(中米3ヶ国)

 考えたら2012年12月15日の出発まで1ヶ月を切っているし、職場の上司には休暇の了承をもらえたし、できる準備から始めようと、海外旅行保険に加入した。
 成田空港で加入することもできるけれど、そうするとセットプランしか用意されていなかったりするし、出発前に慌ただしいと私のようなタイプは失敗しやすいのだ。

 クレジットカード付帯の保険もそれなりの金額が出るのだけれど、ここは安心料ということも考えて、通常の保険にバラ掛けで加入した。クレジットカード付帯の保険にプラスアルファする形の保険もあるけれど、それほど保険料に差がないようだった。私の調べ方が足りないのかも知れない。

 メキシコ及び中南米地域に10日間、死亡保険金は無視して、その代わり、治療(疾病と傷害)・救援者費用はそれぞれ1000万円、携行品の補償が30万円、手荷物遅延が10万円出るように組んだところ、保険料は3800円だった。

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2012.11.18

ツアー料金を支払う(中米3ヶ国)

 2012年11月14日(だったと思う)、旅行会社から、ツアー催行決定のお知らせと旅行の注意事項、ツアー日程変更のお知らせが届いた。

 ツアー日程変更については、最終日、グアテマラシティからメキシコシティに向かう航空便の時刻が大幅に変更されたため、帰国便への乗り継ぎが不可能になったこと、そのため、最終泊をフローレスからグアテマラシティに変更するということだった。
 観光内容等は変わらないということだけれど、この変更で一番痛いのは、メキシコシティでの待ち時間が7時間にも増えることだ。15時に着いて22時過ぎに発つというスケジュールなので、一旦、外に出て、観光は難しくとも、美味しいごはんくらい食べたいところだ。
 また、ティカル観光を終えたその日の夜にグアテマラシティに移動となると、かなり忙しくなるだろう。
 仕方のないこととはいえ、ちょっとショックである。

 その他、A4両面コピー4枚に渡って現地情報及びツアー情報が書かれた紙が同封されていた。
 うわ! と思ったのは、以下の点である。

・メキシコでは、アメリカドルの使用及びアメリカドルからペソへの両替が行えなくなってきていること
・行きの成田ーメキシコシティ間は約13時間、帰りのメキシコシティー(ティファナ経由)ー成田間は、19時間弱かかること
・ほとんどの行程で、別ツアーと同じバスで移動すること
・メキシコシティを通る場合、機内預入荷物の鍵はかけない方がよいこと
・グアテマラにカメラを持ち込む場合、2台目以降は課税の対象となること

 色々と準備が必要なようだ。
 あと1ヶ月、心して準備をしようと思う。

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ウズベキスタン旅行記3日目その2

2012年9月19日(月曜日)


シャーヒズィンダ廟おじいさん もうお昼前の結構いい時間だったけれど、ランチの前にシャーヒズィンダ廟に向かった。
 ティムールゆかりの方々の霊廟がずらっと並ぶ聖地だ。今もお参りに来る人が後を絶たない。
 私たちにとっては、ブルーのタイル装飾の美しい建物が並んでいる場所、というイメージである。
 入口から美しい装飾で飾られ、青空に映えて堂々と建っている。


 ちょうど私たちが入ろうとするタイミングで出てきたこのおじいさんが余りにもチャーミングで、またしても写真撮影大会になる。第二次世界大戦にも行ったとおっしゃっていたから、相当のお年の方なんだろう。
 このおじいさんも鷹揚な方で、ガイドさんに「どうしてこの日本人は僕の写真を撮るのか」?とのんびり聞いていたらしい。


モスク シャーヒズィンダ廟は幅40mくらい、奥行きは200mくらいの広さがある。
 入口の門はウルグベクが命じて1435年に作らせたものだ。
 門をくぐってすぐ右手にあるダヴラッド・コシュベギ・メドレセという神学校跡から見えるモスクの土台は11世紀に作られ、その上に建つ建物は19世紀に再建されたものだ。長い時間をかけて今の形に整えられてきたということなんだろう。
 モスクではちょうどお祈りの時間だったらしく、歌うような声が聞こえていた。気候のいいときには、外に出てお祈りを捧げることもあるらしい。


2つのドーム 階段を上る途中にある廟は、ガーズィザーデ・ルーミー廟である(写真がそれかどうかは、今ひとつ自信がない)。
 ここは、ウルグベクの代数学と天文学の師が眠る廟だ。シャーヒズィンダ廟の中で一番大きくて深い霊廟だという。ウルグベクの師に対する尊敬度も判ろうというものだ。
 それとも、師でありかつ親族の一員だったのだろうか。


 入口からすぐの階段には上るときと降りるときと階段の段数を数えて同じだった場合、天国に行けるという言い伝えがある。ガイドさんは「罪がなくなる」という言い方をしている。
 いずれにしても「いいこと」がある訳だ。みんなして心の中で数えつつ上る。


 階段を上りきると、そこは、真っ青な世界だった。
 青い空をバックに、青く光るタイルで一面を飾られた霊廟の入口が狭い通路を挟んで屹立している。
 世界全体が青く染められているようだ。
 この辺りの霊廟は釉薬をかけられたタイルで装飾されて、ティムールの有名な将軍とティムールの家族が埋葬されている。


 正直に言って、ずっとこうした感じで霊廟が並んでいるので、撮ってきた写真とガイドさんの説明とガイドブックを参照しても、どれがどの霊廟なのか、すでに判らない。
 一応「多分これだろう」と推定して記載した。間違っている可能性が高いし、写真と文章は合っていないところも多いと思う。


シーリーン・ビカ・アカ廟 シーリーン・ビカ・アカ廟はティムールの妹の霊廟である。
 その入口の装飾タイル等は、ティムールがイランやアゼルバイジャンから連れてきた職人によって作られている。修復の技術の方が追いつかず、黒っぽく見えてしまったり、装飾できずにまっさらなタイルになってしまったりしている。恐るべし、往年の技術である。
 そして、この霊廟は、中に入ると非常に清楚である。装飾過多ではなく、落ち着く。内部の装飾でいえば、私はこの霊廟が一番好きだった。内部はほとんど作られた当時のまま残っている。


シャーディ・ムルク・アカ廟シャーディ・ムルク・アカ廟内部 美しいといえば、シャーディ・ムルク・アカ廟も美しい。やっぱり、女性の霊廟の方が繊細に作られている印象だ。
 こちらはティムールが愛したという姪のための霊廟である。入口上部に「貴重な真珠が失われ、ここに眠る」と書かれているそうで、ティムールの妻の立場がないなぁなどと考えてしまった。
 中に入ると、こちらはトルコブルーといえばいいのか、ブルーグリーンといえばいいのか、先ほどの白い清楚な感じとは対照的に凝った内装となっている。
 こちらの霊廟もほとんど建造当時の姿を保っている。


八角形の霊廟 隣にあったのが、ガイドブックには素っ気なく「八角形の霊廟」としか書かれていない霊廟である。
 八角形なのはアゼルバイジャン式の特徴で、こんなに開放的な霊廟は他にはない。誰を祀っているのかは不明だという。
 しかし、開放的な造りと、素っ気ないくらいの外観に似合わず、そのドーム内部の装飾は実はかなり洗練されていると思う。ずっと青い外観とちょっと閉鎖的かつ重苦しい内部装飾に押しつぶされそうな気持ちになっていたので、この霊廟でほっとした。


お墓 つい壁やドームの装飾に目を奪われがちだけれど、霊廟というからには、それぞれの内部にはお墓がある。
 こうしたお墓は、私たちの目に見える場所と、その地下と、二層になっている。そして、地下にも同じお墓が据えられている。
 お参りする人によって死者の眠りが妨げられないようにするため、こうした二重構造になっているという。
 こうした観光地になることを予測していたとは思えないから、きっと死者の静けさを重要視する人々で、考え方だったのだろう。


霊廟群 ここを過ぎると、霊廟が立ち並ぶのは通路の片側だけになり、通路の幅も広くなる。
 もちろん、この奥に並ぶ廟もそれぞれブルーのタイルや装飾が素晴らしい。しかし、誰の霊廟かは判らないという。
 不思議な話である。


 2層になっているドームは、中央アジアの建築の特徴だそうだ。
 そして、中央アジアでは、屋根の上にすぐ建設するのではなく、屋根からすくっと塔のような建造物を伸ばした上にドームが作られる。


 朝から体調を崩されてホテルで休んでいらした方が、この後、タクシーで合流するという知らせが入った。良かった良かったとみんなで喜ぶ。


アーチとミナレット 開けた場所が過ぎると、再びまたごちゃっとして詰まった感じの場所に突入する。
 その手前から見上げることのできる、この写真右手のミナレットは、サマルカンドで唯一、モンゴル襲来前(1221年より前)に建設されて残っている建築物だ。サマルカンドで一番古い建築物である。
 聖地であったため、このミナレットのあるモスクとクサム・イブン・アッバース廟とだけは、モンゴル軍も壊さなかった。
 ミナレット以外の部分は14世紀に修復されたので、「最古」の称号はミナレットにだけ与えられている。
 ミナレットの内部には螺旋階段があって、昔は上れたそうだ。


楽園のドア ガイドさんは特に説明しなかったけれど、某ガイドブックによると、このクサム・イブン・アッバース廟に入るためのドアは、その昔は金銀象牙で装飾されており、この廟に3回詣でればメッカ巡礼をしたのと同じことになると信じられ、そのために「楽園のドア」と呼ばれていたという。
 はっきり言って、今は、木彫は細かく素晴らしい、普通のドアである。


 **すれば**したことになる、というような、手抜きというか手軽な代替手段を考えるのはどんな宗教でも同じなんだなと不埒なことを考える。
 もっとも、巡礼者はこのモスク内部に40日間こもって、イスラム教の僧侶から水だけ差し入れてもらって祈ることもあったという話だから、やっぱりみな真面目に信仰していたのかも知れない。


クサム・イブン・アッバース廟の天井クサム・イブン・アッバース廟の中庭 クサム・イブン・アッバースという人は、伝説によれば、預言者ムハンマドのいとこで、サマルカンドにイスラム教を伝えた人物である。
 そして、異教徒に襲われて首を切られながらも、その首を持って深い井戸に入って行き、そこで永遠に生き続けていると信じられている。考えてみれば、恐ろしい伝説である。
 そもそも「シャーヒズィンダ」というこの場所の名前は、ペルシア語の「生ける王」から来ており、クサム・イブン・アッバースのことを指している。


 モスクに入ると、そこには女性たちだけがいて、祈りを捧げていた。
 私たちがここにいていいのかしらと思いつつ、狭い部屋の両脇に作り付けられたようなベンチにみなで座らせていただいて、しばし、その祈りの声を聞いていた。
 意味は全く判らないながら、厳粛な気持ちになるのが不思議である。


最奥部 シャーヒズィンダ廟の一番奥に、3つの霊廟が小さな広場を囲むように並んでいる。
 元は壊れかかっていたものを、数年前に修復したそうだ。タイルの色が濃い部分は、その修復の際に作り直した箇所だ。正面のドアの上のアーチ状の部分が判りやすい。
 正面の霊廟は、シャーヒズィンダ廟全体で2番目に古く、この廟の様式を原型として他の霊廟が作られたらしい。


 この一番奥に来るまで1時間くらいかかった。200mに1時間である。
 時間があればもっとゆっくりと見たかったなと思うし、シャーヒズィンダ廟全体を見渡せる場所にも行ってみたかったなと思う。
 しかし、既に13時を回っている。お昼ごはんだろうと誰もが期待していたと思うけれど、そうは行かないのが今回のツアーの特徴である。
 次に向かったのは、ナン作り体験だった。


 ツアー日程上は「民家でナンづくり」と書かれていたけれど、到着したのは、「ナン屋さん」とか「ナン工房」といった感じのところだった。ここで日本語ペラペラのガイドさんが一人加わった。彼は日本に住んでいたこともあると言う。
 表通りに面していたし、看板も出ていたし、ナンの材料がたくさん仕込んであったし、ナンを作る台と竈しかないような場所だったし、若者3人がナン作りに精を出していたし、ここにナンを買いに来る人がいるという説明もあった。ここは民家ではあるまい。
 帰国後、「民家ではありませんでした。」と旅行社に言ったところ、「同じ建物に人も住んでいるし民家です。」と回答されても納得できるものではない。


ナンのもと 空きっ腹にこのナンが焼ける匂いは毒である。
 ナンは、普通、男性が焼くそうだ。確かに、ここでナン作りに精を出している3人も男性である。
 丸くなっているナンの素がたくさん作られ、ビニルをかけて乾かないようにしてある。それを一つずつ取り出しては、ピザを作るような感じで薄く伸ばし、模様をつけるためのスタンプ(ちょうど日付印のような感じで、握り手が付き、先っぽは尖った針がたくさん付いている)がいくつもあって、お兄さんたちは適当に好きなようにぽんぽんと模様をつけているように見える。
 「作ってみたい人!」と言われれば、みな、作ってみたいに決まっている。


整形後焼き上がり


 左側が焼く前の状態、右側ができあがりである。
 薄く伸ばすところまではお兄さんがやってくれ、私は、さらにもう少し伸ばして模様を付けた。
 焼くときに膨らむので、この模様付けは、ほとんど突き刺すように強く、隣同士をくっつけるようにするのがポイントだ。特に中心部分は模様を付けると同時に潰すことが重要らしい。
 整形が終わったらバターと油を混ぜたものを表面に塗る。お兄さんが胡麻をパラパラと振ってくれた。


ナン焼き窯 ナンを焼くところは流石にやらせてもらえない。
 何しろ、この窯の中にほとんど上半身を入れるようにして、ナンを内側の壁に叩きつけて張り付けている。
 窯の近く2mくらいのところに寄っただけで、顔が焼かれるような熱さである。ガイドさんは「100度はない。」「帽子を被らなければ危険です。」と言う。その温度では帽子を被ったって危険だよと思う。
 焼き上がりまで10分くらいだった。
 自分で焼いた分は持ち帰っていいと言われ、どれが自分のだったろうと大騒ぎし、少しだけ冷ましてから、自分で焼いたナンをこの際と囓る。やっぱり焼きたては美味しい。
 この後はお昼ごはんだし、一口だけ味見して、あとはビニル袋をいただいて持ち帰った。


 14時前にナン工房を出た。
 ガイドさんに「次はお昼ごはんですから、あまりナンを食べないように。」と言われたにも関わらず、次に到着したところも昼食場所ではなかった。


 ウズベキスタン旅行記3日目その1 <- -> ウズベキスタン旅行記3日目その3

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2012.11.15

420000アクセス達成!

 ココログのアクセス解析が壊れていた2012年11月13日、どなたかが420000アクセス目を踏んでくださった。
 この10000アクセスもまたほぼ1ヶ月で達成している。有り難いことである。

 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日
400000アクセス 2012年9月3日

410000アクセス 2012年10月7日
420000アクセス 2012年11月13日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2012.11.13

ツアー催行の決定を知る(中米3ヶ国)

 かなり前に申し込んで、催行状況を見守ってきたマヤ遺跡を巡るツアーについて、2012年11月13日、旅行社のサイト上でやっと催行決定のマークがついた。
 3ヶ月以上前から「残席僅か」「催行予定」が出ていたし、多分大丈夫だろうと思ってはいたものの、「決定」の文字が出てやっと安心できたという感じである。
 追々、請求書が届くだろう。

 このツアーは、マヤを専門とする大学教授が7日間同行し、カラクムル、パレンケ、ラ・ベンダ公園、キリグア、コパン、ティカルの各遺跡で解説してくれることと、マヤ長期暦の最後の日にティカル遺跡を訪問できるという点が売りのツアーである。
 当初は19日間のツアーが1本、15日間のツアーが1本、10日間のツアーが3本企画されていたのだけれど、割と早いうちに、15日間のツアーが出発予定表から消え、メキシコ周遊(つまり、キリグア・コパン・ティカルには行かない)コースと、グアテマラ・ホンジュラス・ベリーズを周遊する(メキシコは行かない)コースも消え、2本に絞られた感があった。だからこそ逆に残った2コースはほぼ催行されるだろうと思っていた訳だ。

 本格的に準備を開始しなくてはと思っているところである。

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2012.11.12

プライオリティパスが届く

 先日、プライオリティパスを申し込んだところ、1週間弱でカードが届いた。

 それほど飛行機に乗る訳でもなく、実際に使う場面があるかどうかは微妙なところだけれど、持っていて損はないだろう、というところである。
 そもそも、利用方法や特典内容がよく判らない。
 カードが送られて来たのみで、特に説明や利用規約のようなものは同封されておらず、サイトでチェックするしかないようだ。
 プライオリティパスのサイトを見てみたところ、半分日本語で半分英語といった造りになっていて、激しく英語に不自由な私には敷居が高そうだということが判明した。

 それでも、せっかく手に入れたので、機会があればぜひ活用しようと思う。

 

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2012.11.04

ウズベキスタン旅行記3日目その1

2012年9月19日(月曜日)


朝食 6時くらいに目が覚めた。朝食は7時半からである。
 そこはかとなくお腹の調子が今ひとつな気がして、私にしては控えめにした。食後、忘れずにビオフェルミンも飲む。
 お腹のためにも冷たいものはあまり飲まない方がいいだろうと、今日もレストランでお湯をもらい、お茶を作って持ち歩くことにした。


 9時にホテルを出発した。
 ガイドさんは、すかさずチンギス・ハンが統一したモンゴルと国境を接するようになった1213年以降の中央アジアのホレズム国家の話を始めた。曰く「歴史を知っていないと、見学しても面白くないから」である。
 1218年に派遣した使節が殺されてしまったことに激怒したチンギス・ハンは、中央アジアを攻め始め、タシケントとサマルカンドとブハラを廃墟にしてしまった。だから、中央アジアには、13世紀以前に建築された建物はほとんど残っていない。
 廃墟にするにしてもほどがある。今日これから行くアフラシアブの丘は、その廃墟が廃墟のまま残されている場所だ。


 1227年に亡くなったチンギス・ハンは、その直前に息子たちに国を分け与え、ハン国が四つできた。中央アジアにはチャガタイ・ハン国が建設され、1340年まで続く。
 1340年以降、チャガタイ・ハン国は分裂し、1350年にはさらに小国に分裂してしまった。この混乱の時代にサマルカンドの南方にあるシャフリサブスで生まれたティムールは、元は盗賊のようなこともしていたらしい。
 1360年に反モンゴルの民主運動が起こったことを契機とし、ティムールはサマルカンドを平定し、サマルカンドとシャフリサブスの支配者となった。この間の、ティムールの激しい変貌の理由はよく判らないらしい。


 ティムールは、1365年から1370年にかけて次々と版図を広げ、ついに全中央アジアを征服した。
 チンギス・ハンの子孫ではないティムールは、「ハン」は名乗らなかったものの、これをもって「ティムール帝国」が成立したとされている。エジプト・トルコからチベットにまで及ぶ大帝国である。
 ティムール帝国の首都はサマルカンドで、ティムールが征服した国々から様々な技術者を連れて来たことで、発展の礎ができた。


 ところで、現在のサマルカンドの人口は41万人、ウズベキスタンでは首都タシケントに次ぐ大都市だ。機械製造と化学工業が発展しているという。
 いすずのバスの工場もサマルカンドにあるし、大学も6つあるという。


 サマルカンドという街は、歴史上、3回の大きな転換点を経ている。
 紀元前329年にアレクサンダー大王に征服され、破壊し尽くされている。
 8世紀まではゾロアスター教の国だった中央アジアの国々は、アラブ民族に征服されてイスラム教に改宗することになり街自体も作り直された。
 そして、13世紀にモンゴル軍に破壊しつくされ放棄された。この昔のサマルカンドの跡地アフリシアブの丘が本日最初の目的地だ。


アフリシアブの丘 アフリシアブの丘は遺跡というよりも廃墟で、屋根などというものはない。歩いていると、湿度の低いカッと照りつける太陽の暑さを感じる。暑さというよりも熱さという感じだ。
 アフリシアブの丘は、本当に何もない廃墟で、辛うじて外壁だけが残っている。
 季節のせいもあるのか、草一本生えていない荒野、という感じである。とても多くの人が暮らす街がここにあったとは想像できない。


 紀元前7世紀に作られた「旧サマルカンド」は、1世紀にはシルクロードの要衝として発展し始める。7世紀のアレキサンダー大王の侵略に備えて初めて外壁が作られ、その当時、四つの門があった。破壊もしたアレキサンダー大王だけれど、短期間での再建を果たす。
 8世紀の初めにやってきたアラブ軍は、ゾロアスター教のお寺を壊してモスクを建設するなどし、街はそれまでの2倍の規模になった。9世紀には外壁の延長は5kmに及び、門も七つに増やされる。
 旧サマルカンドは、12世紀の始めに最大規模となり、外壁は周囲8km、門も12になったという。


 13世紀のサマルカンドの街には水路が流れ、水道設備もあり、下水道も整備されていたというから、かなり進んだ都市だ。
 しかし、1221年、サマルカンドはモンゴル軍に再建もできないほど破壊され、市民の99%を殺されてしまう。残った1%の市民が旧サマルカンドを放棄して新サマルカンドを作ろうと考えたのも納得である。
 新サマルカンドの中心は、今も昔もレギスタン広場だ。ただし、その頃はメドレセはなく、代わりに大きなバザールがあった。
 1867年にロシアに征服された後、アフリシアブの丘は考古学者によって調査・研究され、発掘されたものなどは博物館に収められている。そのアフリシアブ博物館に向かった。


 ウズベキスタンの博物館や建造物の内部などでは撮影料を払えば写真撮影OKということが多かった。この博物館の写真撮影料は3000スムだ。
 博物館の方の説明をガイドさんに訳してもらいながら見学する。


棺 この石づくり(いや、土づくり)の箱のようなものは、いわば日本の骨壺である。ガイドさんにはこの「こつつぼ」という発音が難しいらしく、教えたら何度も練習していた。勉強熱心である。
 「どうして蓋がないの?」と聞いてみたところ、どうやらゾロアスター教の習慣らしい。


 また、旧サマルカンドの模型もあった。
 一番高いところにあるのはモスク、一番大きく立派なのは宮殿で、サマルカンドの支配者が住んでいたそうだ。


竈 これは竈である。
 元々は復元図のとおりこの上にドーム状のものがついて二層構造のようになっていたけれど、残っているのは下半分だけだという。
 それでも、よく「竈」と判る姿で発掘されたものだと思う。
 乾いた天候も保存に味方したのかも知れない。


コイン このコインはどう見てもギリシア風だ。
 アレキサンダー大王は大帝国を築き、ゾクディアナの国家を征服したけれども、ホレズム国家を隷属させることはできず、アフリシアブの娘と結婚することを選んだ。そのときに、このようなコインも持ち込んでいる。
 ウズベキスタンでギリシア・マケドニア国家のコインが発掘されるなんてびっくりだけれど、歴史を考えればある意味、当然なのかも知れない。


 それにしても、本当に私たちは、西洋史観で「世界史」という授業を受け、本を読んでいるのだなと思う。世界史の授業でマケドニアについて間違いなく習ったけれど、それが自分の中ではヨーロッパの出来事に分類されてしまっていて、中央アジアとは全く繋がっていない。


小麦の入っていた壺 最近、アフリシアブの丘からタンク(日本語で何といえば正確なのかはよく判らなかった。倉庫のようなものだったろうか)が発掘され、その中から小麦が壺にたくさん入った状態で発見された。
 その小麦を植えてみたところ、ちゃんと芽が出たという。
 8世紀頃の小麦だというから、恐るべし、小麦の生命力だ。


 中央アジアでは、イスラム教が入ってくる前には、多彩な宗教が併存していた。主に、ゾロアスター教と仏教とキリスト教である。
 意外なことに、アフリシアブの丘からも仏教に関するもの(装飾)が発掘されており、その遺物も展示されていた。これまた、私の中で仏教と中央アジアが全く繋がっていないので、ただ意外だという感想になってしまう。


壁画壁画


 この博物館の白眉は、7世紀にこの地を支配していたバフマンという人の家にあった壁画である。当時のゾクディアナの繁栄の様子がよく判る。
 こちらの壁画がもっとも保存状態が良く、フタコブラクダに乗った外国人らしい二人や、白鳥なども描かれている。
 この後やってきたアラブ人の信じるイスラム教では、人物や生き物、現実世界に存在する植物を描くことが禁じられていたため、アラブ軍はこの家を壊して埋めてしまった。そのため、保存状態がいいまま残っていたという。


 2階に上がると、それ以降、13世紀(つまりはアフリシアブの丘がこの姿になる直前)までのものが展示されている。


陶器の皿陶器の皿


 この辺りのお皿は、8世紀から10世紀くらいに焼かれたもので、とても品質が高いのだとガイドさんが言う。
 品質はよく判らないけれど、デザインは今でも十分、通じそうだ。ツアーは女性が多いこともあって、たくさんあるお皿の中からこれが欲しいとか、これがいいとか、品評会状態になる。


日干し煉瓦 日干し煉瓦にうわ薬をかけるようになったのは11世紀からだという。
 トルコブルーに彩色された(うわ薬をかけられた)タイルは、今も鮮やかな色を残している。モスクなどもこの煉瓦で飾られたそうだ。煉瓦に施された浮き彫りも見事である。


 博物館を堪能し、入口で売っていた絵はがきなどにも心惹かれつつ、次の観光スポットに向かった。
 ガイドさんは、バスに乗ると再び歴史の先生に変貌した。前置き抜きで「ティムールの支配が終わると」と始めたのは、ウルグベク天文台に到着する前に、どうしてもウルグベクという人の話をしたかったためらしい。
 ウルグベクはティムールの孫で、ティムール帝国の支配者であると同時に有名な天文学者でもあった。
 ウルグベクが作ったレギスタン広場のメドレセ(神学校)と天文台によって、サマルカンドは中央アジアの科学の中心地となった。


 ウルグベクが統治していた1409年から1449年にかけて、中央アジアは黄金時代を迎え、特に経済と文化と科学が発展した。
 ウルグベクは、中央アジア初の天文台を作り、天文表を作り、政治や宗教よりも科学を重要視した。そのため、イスラム教僧侶の怒りを買って1447年に内乱が起こり、その2年後に息子に殺されてしまう。
 しかし、ウルグベクは民衆に人気があったため、民衆はウルグベクを殺した息子を許さずに反乱を起こし、息子はあっというまにその座を追われてしまう。
 1501年まで戦乱は続いたものの、「勝者」といえるような人はとうとう出なかったという。
 何とかここまでの説明を聞いたところでウルグベク天文台に到着した。11時過ぎである。


ウズベク天文台全貌新郎新婦


 実際に見学を始める前にお手洗いタイムとなり、天文台をバックに写真撮影をしていた新郎新婦を見かけて我々ツアーメンバーは夢中になった。
 写真を撮らせて欲しいと身振り手振りで頼んだら気持ち良く撮らせてくれ、かつ私たちにも一緒に写真に入ってという話になり、大記念撮影大会になった。
 私たちも大笑いだけれど、新郎新婦ほかお友達だろう集まっていた人も苦笑していた。
 お互い、「何でこんなことになっているんだろう?」という笑いである。


 ガイドさんに呼ばれ、観光を再開する。
 ティムールの玄孫である(ガイドさんの日本語は「やしゃご」にまで及んでいる)バブールは、アフガニスタンとインド北部を征服してムガール帝国を建国した。ウズベキスタンからティムール帝国は消えたけれど、離れた地で1852年まで繁栄した。タージ・マハルを建設したのは、バブールの玄孫である。
 バブールの子孫によると、天文台はその昔は3階建てで、高さ30m、直径は46mもあったそうだ。しかし、今はその基礎部分と、地下にある六分儀が残っているのみである。
 ここの写真撮影料も3000スムだ。


 六分儀の弧の長さは64mあったらしい。そして、正確に南北を向いている。
 ここで観察され、計算されたあれこれはとても正確だったが、天文台は破壊され、20世紀初頭に20年かけて探していたロシアの考古学者によって発見されるまで、所在すら明らかでなかったというから驚く。
 六分儀の上を覆っている屋根も1913年になって作られたものだ。


 併設されている博物館には、ウルグベク・メドレセの模型などがあった。現在の姿よりも、ミナレットが更に高かったことが判る。
 その昔にあったメドレセのハナカ(と聞こえた。巡礼宿という意味だ)は今はもうない。そこに聖人のお墓があったため、巡礼者のための宿もあったが、今はどちらも存在していない。シャーヒ・ズィンダ廟に移したのかと聞いたら、そちらは有力者のお墓だという説明だった。


ウルグベクの肖像 ウルグベクの天文学者としての腕は一流で、ウルグベクは当時、1年を365日と6時間10分8秒と計算していた。現在の科学で、1年は365日と6時間9分6秒とされており、誤差はほとんどないと言っていい。
 その他にもウルグベクの輝かしい成果を色々と説明して貰ったけれど、こちらに地学の知識が著しく欠けていてきちんと理解出来なかったのが申し訳ない。
 とにかく、ウルグベクの仕事は、20世紀初頭まで世界標準として採用されていたということだ。
 このウルグベクの肖像は、1941年6月にお墓を開き、人類学者が骨格から再現したものだという。最後にウルグベクと対面して満足し、博物館を後にした。


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