2014.12.30

中米3ヶ国旅行記の入口を作る

マヤの女性 ここは、マヤ暦が2012年12月21日で一巡することをテーマにマヤ遺跡を中心としたツアーで中米3ヶ国を旅した旅行記への入口である。


 以下の日程をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。


1日目その1 2012年12月15日(土曜日) 成田 −> メキシコシティ(空港)


1日目その2 2012年12月15日(土曜日) メキシコシティ(空港) −> カンペチェ(泊)


2日目その1 2012年12月16日(日曜日) カンペチェ −> カラクムル遺跡


2日目その2 2012年12月16日(日曜日) カラクムル遺跡


2日目その3 2012年12月16日(日曜日) カラクムル遺跡


2日目その4 2012年12月16日(日曜日) カラクムル遺跡 −> チカナ(泊)


3日目その1 2012年12月17日(月曜日) チカナ −> パレンケ遺跡


3日目その2 2012年12月17日(月曜日) パレンケ遺跡


3日目その3 2012年12月17日(月曜日) パレンケ遺跡


3日目その4 2012年12月17日(月曜日) パレンケ(泊)


4日目その1 2012年12月18日(火曜日) パレンケ −> ラ・ベンダ遺跡公園


4日目その2 2012年12月18日(火曜日) ラ・ベンダ遺跡公園


4日目その3 2012年12月18日(火曜日) ビジャエルモサ −> メキシコシティ(空港) −> グアテマラシティ(泊)


5日目その1 2012年12月19日(水曜日) グアテマラシティ −> ホンジュラス入国


5日目その2 2012年12月19日(水曜日) コパン市立博物館・コパン遺跡


5日目その3 2012年12月19日(水曜日) コパン遺跡


5日目その4 2012年12月19日(水曜日) コパン遺跡


5日目その5 2012年12月19日(水曜日) コパン遺跡・コパン石彫博物館


5日目その6 2012年12月19日(水曜日) コパン遺跡(セプルトゥーラス遺跡) −> コパン(泊)


6日目その1 2012年12月20日(木曜日) コパン −> グアテマラ再入国 −> キリグア遺跡


6日目その2 2012年12月20日(木曜日) キリグア遺跡


6日目その3 2012年12月20日(木曜日) キリグア −> フローレス(泊)


7日目その1 2012年12月21日(金曜日) フローレス −> ティカル遺跡(文化遺産保存研究センター)


7日目その2 2012年12月21日(金曜日) ティカル遺跡


7日目その3 2012年12月21日(金曜日) ティカル遺跡


7日目その4 2012年12月21日(金曜日) ティカル遺跡


7日目その5 2012年12月21日(金曜日) ティカル遺跡


7日目その6 2012年12月21日(金曜日) ティカル遺跡(ティカル博物館・ティカル石碑博物館) −> フローレス −> グアテマラシティ(泊)


8〜10日目 2012年12月22日(土曜日)〜24日(月曜日) カミナルフユ遺跡 −> グアテマラシティ −> メキシコシティ(空港) −> 成田


 


その国の旅を終えて 100の質問 (メキシコ編)


その国の旅を終えて 100の質問 (ホンジュラス編)


その国の旅を終えて 100の質問 (グアテマラ編)


 


持ち物リスト(中米3ヶ国編)


2012年12月 「中米3ヶ国 マヤ遺跡」の写真

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2014.12.29

中米3ヶ国旅行記8〜10日目

2012年12月22日(土曜日)


朝食 10日間ツアーの我々は、朝8時にホテルを出発する。19日間ツアーの方々はもう30分か1時間遅めの出発らしい。
 我々はグアテマラシティの観光後はそのまま真っ直ぐ帰国するので、5時半に起きて大ざっぱに荷造りをし、6時半過ぎにレストランに朝食を食べに行った。
 ガイドさんがいらしたので、ご迷惑だろうと思いつつご一緒させてもらい、織物の話などお聞きする。
 これだけしっかり朝ごはんを食べるのも久しぶりという感じがする。このツアーでは、ハムとチーズのサンドイッチのボックスばかり食べていたしなぁと思う。


ショール 集合の8時よりも少し早めにロビーに降りてホテルのお土産物屋さんを覗いた。小さいお店だけれど結構色々と揃っていて、ティカル遺跡のカレンダーと甥っ子へのお土産にTシャツ、あとオリーブグリーンのショールを衝動買いしてしまった。
 割と繊細な感じのショールで、ガイドさんに見せたら「手織りかも知れませんね。」というコメントだったので良しとする。ここまでご一緒してくれたガイドさんは19日間ツアーの方々に同行するのでここでお別れだ。グアテマラの織物のポーチを記念にいただいた。嬉しい。そして、やはりティカル遺跡で買ったものよりもしっかりしている。目利きって重要だ。


カミナルフユ遺跡 19日間ツアーの方がお見送りに来てくださり、名残を惜しんで我々は8時前に出発した。本日のガイドは英語ガイドさんで、添乗員さんが通訳してくれる。
 カミナルフユ遺跡はホテルのすぐそばにある。グアテマラシティにあって、もうほとんどの部分は街として開発されてしまい遺跡は非常に限られた部分しか残っていない。200あったマウンドが30しか残っていないというから、ほとんど10分の1だ。
 この場所に街が作られたのは、ミラ・フローレス湖があって、水の供給が可能だったという理由が大きいという。


 カミナルフユ遺跡は紀元前1000年から栄え、一時衰退したものの400年以降再び栄え、600年くらいまで続いたという。
 カミナルフユとは「死者の丘」という意味で、1930年代にマウンドから人骨が発見されたことからついた名前だ。実際に何という名前だったのか判っていない。
 遺跡内には文字が刻まれてもいるけれど、その文字が解読されていない。だから、マヤ以前からカミナルフユ遺跡の方が発展していたことも判っているのに、その名前すら判らない。
 マヤ遺跡が「石」で作られているのに対し、こちらはアドベという土や粘土から作られているため、保存状態は当然のことながら良くない。
 1990年代前半に、日本のたばこと塩の博物館の調査隊が発掘・保存したそうだ。結構、日本も活躍している。


収蔵物発掘現場 遺跡に入ってまず最初に、2012年2月にJICAの援助によって完成したという博物館を見学した。
 ただし、この博物館に収蔵されているものはほとんどレプリカだ。オリジナルの多くは考古学博物館に収められているという。レプリカが多いからか、写真撮影OKである。
 その他、発掘の様子を地層も含めて表す模型があったり、結構、面白い。
 博物館の中庭には、球技場のマーカーのこれまたコピーが植わっていたりする。


アクロポリスの説明板アクロポリス


 この辺りは、行政機関だったか、あるいは神殿だったのかも知れないという。高温で何かを焼いた跡があるそうだ。
 恐らくはこの壁の上に建物があっただろうということだけれど、特に屋根は全く残っていない。
 この穴というかトンネルが何のためのものなのか、この奥に何があるのかはまだ研究途中・発掘中ということで不明だ。
 一方、この張り出した壁のようなタブレロ・タルー様式(看板の赤い部分)は、明らかにテオティワカンの影響を受けているという。
 そのすぐ隣にマヤの様式(看板のクリーム色の部分)が混在していて、上にどんどん造り足し、被せたことを窺わせる。


ラ・パランガーナラ・パランガーナ


 次に行ったのがラ・パランガーナというところで、これまた用途不明の建物らしい。一応は、トタン屋根に覆われているけれど、古いし、土でできているし、保存がとにかく難しいらしい。
 屋根がかかっている他、遺跡内部には木で通路も組まれ直接踏めないようになっているけれど、屋根だってかなり適当かつ年代物である。遺跡保存の予算はほとんどティカルなども有名な遺跡に配分されてしまい、こちらには来ないという。
 たしかに、トタン屋根の下は、かなり「放ったらかし」という感じだ。


C-2-マウンド


 最後にマウンドから市内を眺めてみましょうとそちらへ歩いて行く途中、何かを燃やした跡が残っているのが見られた。昨日の13バクトゥンの始まりに当たって遺跡内で儀式かイベントが行われていたようだ。
 アグア火山も眺めることができ、その噴火の際にはここまで火山灰が飛んで来たという。
 最終日で疲れが出てきていたこと、今回のツアーはマヤ四大遺跡が目的と思っていたこと、「カミナルフユ遺跡って地味でよく判らない」と思ってしまっていたので、説明を聞くのもメモするのもだいぶおざなりになってしまった。要反省だ。
 カミナルフユ遺跡の見学は30分強だったと思う。


お香の橋 旧市街に向けて移動する途中、いわゆるスラム街を通過した。
 この橋は、お香の橋と呼ばれるという。よくこの辺りで霧が発生することからその名がついたらしい。確かに、霧が発生しそうなすり鉢状の地形になっている。
 グアテマラシティは200年くらいの歴史を持つ街だ。火山の噴火でアンティグアから首都を移したと聞いていたので、もっと新しい都市なのかと思っていた。意外である。
 ガイドさんによると、道がこんなに空いているのは珍しいらしい。


大聖堂外観大聖堂内部 マヤ遺跡ばかり回ってきたので忘れているけれど、グアテマラもキリスト教徒の多い国である。
 市内観光で、中央公園近くにあるサンティアゴ・デ・グアテマラ大聖堂を見学する。
 9時を過ぎたからそろそろ開く筈なのに今日は寒いから遅れているらしい、という説明が可笑しい。寒いときこそ信者を迎え入れようよ、と他人ごとながら思ってしまう。
 街が賑やかなのは翌々日がクリスマスイブで買い出しに出ている人が多いからという説明だ。
 一方、教会は特にクリスマスモードという感じでもない。グアテマラでもっとも崇められているというエスキプーラスの黒いキリスト像のコピーがあった。


パカヤ火山 その後、ガイドさん曰く「びっくりするくらい道が空いていた」ので時間に余裕ができ、展望所に連れて行ってもらった。
 そこからは、左奥にアティトラン湖とそして正面にパカヤ火山を見ることができる。ちょっと風が冷たいけれども気持ちのいい眺めだ。
 パカヤ火山はグアテマラに三つある活火山のうちの一つである。2年前に噴火した際には空港が50日間閉鎖されたという。


 これでツアーの観光予定はすべて終了となり、グアテマラシティ国際空港に向かった。やっぱり道は空いていて、15分くらいで到着する。
 13時15分発アエロメヒコ航空のAM673便でメキシコシティに向かうから3時間も余裕がある。
 昼食として日本食のお弁当が配られ、チェックインする。少し前までアエロメヒコ航空のラウンジがあったけれど今はなくなってしまったそうで、みんな揃って待合コーナーに陣取った。
 添乗員さんが大きな荷物を見ていてくださり、時間も有り余っていることだし、空港内は結構お店が揃っているのでうろうろする。


新聞 本屋さんの店先に置いてあったいくつかの新聞に昨日のティカル遺跡でのセレモニー(我々は見ていない夜の部のもの)の写真が載っていたので、買い求めた。
 合流した先生はどうも誤解していたようだけれど、私はスペイン語など一言も判らないので(正確に言うと、カフェコンレチェがカフェオレで、セルベッサがビールだということだけは知っている)読むことはできないけれど、写真を見るだけでも嬉しい。


 ここまでお土産をほとんど買っていなかったせいか、突然、買い物欲が湧いてくる。
 国立コーヒー協会が販売するコーヒーは、買って帰りたいと思っていたものの一つである。片桐はいり著「グアテマラの弟」という本に、ここの「ウエウエテナンゴ」という銘柄について熱く語られる一節がある。
 ガイドさんは「アンティグア」という銘柄がお勧めだと言っていたけれど、ここは片桐はいりを信じて購入する。


 もの凄く迷って結局購入しなかったのが、大きなお土産物屋さんの壁にかけられていた、アンティークらしい織物である。
 非常に渋い色柄で、かなりかなり惹かれたけれど、かなりいいお値段で、迷った末に諦めた。やっぱり買っちゃえば良かったなぁと今でもたまに思う。


和食弁当 一通りの購買意欲を満たした後、元いたベンチスペースに戻ってお昼ごはんを食べた。
 日本食のお弁当は、意外と美味しい。日本茶かお味噌汁が欲しいなぁと贅沢なことを考える。


 アエロメヒコは時間通りに飛び、15時20分にメキシコシティに到着した。
 アメリカ合衆国と同様、メキシコもトランジットだけなのに入国を強いられる。それなら、わざわざメキシコ経由にするメリットはない気がする。
 しかも、入国審査が大混雑していて、かなり待たされた。同じツアーの方が、後ろに並んでいた女の子にキティちゃんのシールをあげて交流を図れるくらいの時間は十分にあった。
 スーツケースをピックアップして、ボタンを押して赤ランプが点いたら漏れなくオープンチェックが課されるのは行きと同じだ。今回は無事に通過することができた。


 メキシコシティ国際空港で、成田までの便を6時間待つ。この長時間にわたる待ち時間があったからこそ、プライオリティパスを手に入れたのだ。
 往路と同じように全員でラウンジに陣取る。サンドイッチやカナッペなどの軽食と飲み物に不自由しないので、ぐだぐだと飲みながら、食べながら、たまに退屈しのぎにお買い物に行ったりしながら待ち時間を過ごした。
 添乗員さんと先生は、それぞれお仕事をしていらしたようだ。


 6時間の待ち時間を耐え抜き、21時35分、AM58便は定刻通りに離陸した。
 しかし、まだ苦行は待っている。メキシコシティは標高2230mもあるのでエンジンの燃焼効率が悪く、速度が出ないため揚力も得られない。結果、成田空港までのような超長距離便はティファナ経由になる。
 経由地のティファナで給油するため2時間機内待機となり、しかもそのうちのかなりの時間はお手洗いも使えないという状況に置かれた。ティファナでお隣の方が降りたのを幸い、2席分を使って倒れ込むように寝てしまった。


 日付変更線を超えて2日後の12月24日、6時50分に成田空港に到着して解散し、ツアーが終了した。


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中米3ヶ国旅行記7日目その6

2012年12月21日(金曜日)


 すっかり晴れ渡った空の下、昼食をいただいたレストランを出て、木洩れ日を浴びながら気持ち良くティカル博物館に向けて歩く。
 14時半頃に博物館に到着した。徒歩10分くらいだ。
 そこではしゃいでいたせいか、ティカル博物館に着くまで、ツアーメンバーのお一人がいらっしゃらないことに誰も気がつかなかった。到着して人数を数えたところで気がつき、添乗員さんお二人にガイドさん、ティカルの研究者で一緒に歩いてくださっていた方などが一斉に探しに行く。いや、一人くらいは連絡要員を残さないとお互いの意思疎通ができないのではと思ったけれど、そんなことを言うヒマもない。


博物館入口 残された我々は、先生から説明を受けることになった。ここでイヤホンガイドを使っていれば、博物館に我々がいることが伝わるのではないかという思惑もあったようだ。
 ティカル博物館は、ペンシルヴァニア大学が発掘調査をしていたときに、発見した遺物を収蔵するために建てられている。何しろ1964年以来全く修復も行われていないし、何よりそもそもバラック造りなので、見た目もボロっとしている。
 先生もこの状況を見て、ティカル国立公園文化遺産保存研究センターを作らねばと決心したらしい。そしてセンターの隣に博物館を作るという計画があるようだ。


 ティカル博物館(と一応呼ばれている)は、入って左から時計回りに回ると、古いものから順番に見学することができるようになっている。少なくとも、そういうコンセプトが最初にあったことは間違いない。
 写真撮影禁止なのが何となくアンバランスである。


 一番最初に見るのは、紀元前頃の遺物で、乳房状の四本足を持つ器や、ネガティブ紋様が特徴である器などが並んでいる。ネガティブ紋様というのは、要するに、何か細工をすることで「色をつけない」部分を作ることをいうようだ。
 ティカルの器の場合は、例えば焼く前に銅を塗っておくと、その部分には熱が伝わりにくくなるので色が付かず、ストライプ状などの紋様が生み出されているという。


 マヤの一番古い長期暦が刻まれた破片が、遺跡中心部ではなく周辺(アドミニストレーションがあるところ)で発見されている。しかも、「壊された状態で」発見されたらしい。
 マヤの平地で一番古い長期歴が刻まれたものが292年に造られており、そこから、長期歴を刻み王の姿を刻むということが始まったという。
 先生はあっさり説明していたけれど、それってかなりの貴重品なのではあるまいか。


 あと面白いと思ったのは、26代目の王であるハサウ・カアン・カウイル王の墓のレプリカである。
 墓自体はレプリカで、そうすると置かれていた翡翠の飾りなどもレプリカだったんだろう。本物だったら、こんなに無造作に置かないでください! と叫びたくなるような状況だ。


 アクセサリなども展示されていて、翡翠をかなり細かく細工してある。私がアクセサリだと思ったそれは、装飾品というよりは儀式用だったらしい。
 これらが作られた頃は、彫る方の道具も石しかなかった訳で、よくもこんな細工をしたものだと思う。
 411年に即位した「ティカル中興の祖」シフヤフ・チャン・カウィール王が身につけていたという胸飾りなども展示されている。網目模様は身分の高さの象徴だという。コパンで発見されたものよりは小さく模様が粗いのだと、若干、自慢げに語っている先生が可笑しい。


 鏡は、ティカルでは青銅は使われていなかったから、石をひたすら磨いたものらしい。青銅鏡だってびっくりなのに、石を磨いて作ったなんて一体どれだけの時間が費やされたのだろうと思う。
 鹿の骨に細かく彫刻を施したものなども展示されていて、展示物は少ないし、20〜30分もあれば見学は終わってしまうけれど、行って損はないと思う。
 先生の説明を聞きながら装飾品を見て「これが欲しい。」、「こっちの方がいい。」などと言い合っていた我々が言うことではないかも知れないけれど、日本語でとは言わないから、せめて英語で説明があればいいのにと思う。我々は先生の解説を聞きながら見学したから興味深く見られたけれど、そうでないとかなり厳しい感じだ。


ビジターセンターの復元図 全員が揃い、ビジターセンターまで戻って、16時集合で自由見学になった。ビジターセンター内部のお土産物屋さんでお土産を買うも良し、カフェでお茶をしても良し、ティカル石碑博物館を見学しても良し、である。
 ところが、石碑博物館の前に人だかりができていて、中に入れない。あと15分くらいで入れるようになるので、適当に見計らってみんな勝手に見学するようにという話になった。後で聞いたところでは、開催される写真展のテープカットのため入場制限されていたそうだ。


 お土産物屋さんを冷やかす。グアテマラの織物を使ったポーチやテーブルセンター、定番のマグカップや遺跡関連の書籍、ピラミッドの置物、ジャングルの音のCDなどが売られている。
 グアテマラからの郵便は当てになりませんと言われたので見ようと思っていなかったけれど、記念切手をお土産に買った方がいらして、私もそうすれば良かった! と後になって悔やんだ。
 ラム酒の小瓶を買った方もいらしたし、何故か先生まで北のアクロポリスの写真が描かれたマグカップをお買い上げになっていた。
 先生がやけに「お土産を買うこと」を推奨するので、小銭入れになりそうなポーチをお土産にいくつか購入した。


石碑博物館 ティカル石碑博物館は、最初は「グループで1枚のチケットしかないので皆さんまとまって。」と言われたけれど、セレモニーが終わってみれば誰でも出入り自由という状態になっていた。よく判らない。
 そして、みんながオープンを待っていたので大混雑し、停電したらしくて照明が点いておらず暗い。最初のうちは目が慣れるまで待とうとツアーの方とお土産の見せ合いっこなどしていたけれど、添乗員さんに「見事なものがありますから、ゆっくり見てくださいね。」と言われて、なるべく外光が当たっているところから見始めた。
 ステラは、割れていたり、折れていたり、穴が開いたりしているものも多い。
 左側の王から右側の王へ何かを渡している絵が刻まれていたり、その辺りの細かさは見事だ。


 石碑16と祭壇5は、ピラミッドに付属するものの中ではもっとも保存状態がよいと言われている。
 特に祭壇5は、ハサウ・チャン・カイール王がお墓を掘り返している絵が刻まれている様子が見事に彫られ、残っている。「だったらこの人が手に持っているのは頭蓋骨!」と叫んだら、先生に「そうではありません。」と一刀両断で否定された。
 私の目にはどう見ても頭蓋骨だったけれど、先生によると当時の王が持っていた斧(のようなもの)だそうだ。
 頭蓋骨も彫られているけれど、それはこのお墓から掘り出したものではなく、どこかから儀式のために持ってきたものだという。


 クック・モという人名が刻まれた石碑もあり、コパン建国の頃に作られた石碑であることから、コパン初代の王ヤシュ・クック・モ(王になると「ヤシュ」が名前につくらしい)はティカル出身で、この石碑に刻まれているのと同一人物ではないかという説もあるそうだ。
 こういう説明もメモは残したけれど、残念ながら写真撮影禁止だったので、もうどんな石碑だったのかどうか記憶に残っていない。
 ティカル博物館には「ティカルの女」、ティカル石碑博物館には「ティカルの男」と呼ばれる座像があり、折角なら並べて展示してくれればいいのにと思う。


 バスがティカル石碑博物館の前まで迎えに来てくれて、16時過ぎにティカル遺跡を後にした。
 夕食を落ち着いていただけるようにまずは国内線にチェックインしてしまいましょうと、フローレスの空港に向かう。バスの中はもちろん爆睡し、1時間くらいで空港に到着した。
 スーツケースのチェックのため、台に自力で乗せるのが一番大変だったくらいで、空いていたこともあり、チェックインはすぐに終わった。17時半頃に、空港を出発する。


夕景 夕食は空港からすぐのところにあるカソナ・デル・ラゴホテルのレストランでいただいた。
 ホテルはペテンイツァ湖畔にあって、実はこの旅行でペテンイツァ湖をちゃんと見たのはこのときが最初で最後だったと思う。何しろ、昨日は暗くなってから到着したし、今日は暗い内にホテルを出発し、夕食後はグアテマラシティに向けて飛行機で飛んでしまう。
 ここまで二つのツアーが合体していたけれど、我々は明日の午前中にカミナルフユ遺跡を見学した後で帰国、19日間ツアーの方々は明日アンティグアに向かうので、全員で食事をするのはこれが最後だ。


メインディッシュ みなで乾杯し(私はgaloというニワトリマークのグアテマラ定番のビールにした)、グリーンサラダ、クルビーナというお魚のソテー、コーヒーケーキにコーヒーという夕食をいただく。
 「写真を1枚しか撮っていない。」とおっしゃる方がいらして驚愕し、勝手に食事中のお写真を撮らせていただいたり、持参していた先生の著作にサインをいただいたりしながら、1時間半近くかけてゆっくりと夕食をいただいた。
 実は、コパンでの発掘がメインの著作なので、コパンにいる日か、あるいは13バクトゥンの始まりの日であるこの日か、どちらかの日にサインをもらおうと思っていて、考えた末、この日にしようと朝からずっと持ち歩いていたのだ。他にも何人か、同じようにこの日にサインをいただいた方がいらした。


 19時過ぎに空港に戻ってセキュリティチェックを抜け、19時55分予定の離陸が10分早くなったタカ航空のTA7973便でグアテマラシティに向かう。
 タカ航空はスターアライアンスに加盟しているのでANAのマイルが貯まるかと帰国後に事後申請してみたところ、「対象外です」という回答だった。


夜景 コパンから延々1日かけてフローレスまで来たけれど、飛行機ならばグアテマラシティまで1時間もかからない。
 20時40分にグアテマラシティに着陸し、前回も泊まったグランドホテル ティカル フトゥーラに21時15分に入ることができた。前回はカードキーで苦戦したけれど、今回は素直に部屋に入ることができてやれやれだ。
 長い1日が終わった。このツアーの観光も明日の午前中で最後である。


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2014.12.21

中米3ヶ国旅行記7日目その5

2012年12月21日(金曜日)

5号神殿 裏側からぐるっと回り込むような感じで、5号神殿の正面に辿り着いた。
 地味だけれど高さ57m、実はティカル遺跡で2番目に高い建物である。
 正面の階段の左側に梯のような階段が付いているけれど、現在は上ることはできない。
 残念だ。
 裏から上るための補助用の階段を付けるというアイデアが出ているというお話だけれど、計画が具体化しているような気配はかけらもない。

5号神殿の屋根飾り 5号神殿の一番上の建物の入口は金網が張られている。あそこは何かと質問してみたら、もの凄く狭い(ものの本によると75cmくらいというから、畳の幅よりもまだ狭い)小さい部屋があるそうだ。
 そんな狭いところで何をしていたかというと、王が祖先や神と対話をする場所として使っていたという。だから暗くて狭くてもいいというか、暗くて狭い方がいいらしい。
 対話した後、出てきた王は、下で待ち構えている民衆たちに得られた啓示を語ったそうだ。

 屋根飾りは全体の形として山を表しており、神殿の入口は山にある洞窟の入口と同視されている。
 あの入口から部屋に入るということは、山の洞窟に入るのと同じ意味を持ち、洞窟の中で神と話をするという寸法だ。
 屋根飾りには、顔や胡座を組んだ神の像が彫られていた筈だけれど、今ではもうほとんど確認することはできない。

修復中 5号神殿は、ほとんど内部の調査や修復は行われておらず、とりあえず外部というか表面部分だけ修復して公開している状態らしい。
 少し裏に回ると、修復中の様子を見ることができる。
 5号神殿と中央アクロポリスに間には大きな貯水池があって、貯水池に向かって水路が作られている。雨をため込むようになっていて、水路も漆喰で塗られていた筈だという。
 そういえば、NHKの番組で、水を集めて貯水池に流し込んでいるようなCGを見たなぁと思い出した。その中に自分がいると思うと変な感じである。

グループGグループG

 少し歩いて、グループGに到着した。
 グループGは宮殿だったと言われている場所だ。低い建物の連なりは確かに「神殿」というよりは「宮殿」というイメージである。
 内側には壁画が残されているけれど、残念ながら見ることはできない。壁画には生け贄となった人物の絵が描かれているという。心臓が取り出されているところが描かれており、実際にその様子を見て衝撃を受けた人が描いたのではないかということだ。

縦溝の宮殿 それとは別に内側の壁に縦方向の溝が彫られていることから、縦溝の宮殿とも言われている。
 縦溝と言われれば縦溝だけれど、それがどうして建物の名称になるほど注目されるのか、浅学な私には判らないところが残念である。
 この辺りは9世紀前半に造られていて、ティカル遺跡の中ではかなり新しい部類の場所だ。
 ガイドさんによると「普通のツアーだったらここまでは絶対に来ないです。」という話だった。

トンネル 今はトンネルの中には入れないけれど、この中に壁画があると聞いて、無理矢理ISO感度を上げて写真を撮ってみた。
 一応中の様子が判る程度には写るけれど、壁画らしきものの姿はない。
 聞いてみれば、奥に見えている階段を上がって左に折れたその正面にあると言う。それでは、どんなにがんばったって見える訳がない。笑ってしまった。
 階段の両脇にも壁画があるらしい。それを撮るのはちょっと無理というものだ。

 この後、しばらく一本道を歩いて6号神殿に向かった。6号神殿はぽつんと離れたところにある。
 もう12時半も回っているけれど、遺跡見学をすべて回ってからお昼ごはんという予定らしい。まだ先は長い。しかし、意外と疲れていない。マヤ暦最後の日にティカル遺跡にいるという興奮もあるし、現実的に朝のうちが曇っていてしのぎやすかったということもある。
 添乗員さんもガイドさんも「今日は本当に過ごしやすいですよ。」、「虫もいないし。」、「いつもよりずっと涼しいです。」と口を揃える。我々を励まそうという意図もあったかも知れない。

 てくてくと歩きながら万歩計の話になった。しかし、このツアーでは、遺跡をもの凄く歩いている気がしている割に万歩計の歩数は伸びていない。
 この日もこの時点で10000歩くらいだったし、これまでも1日15000歩くらいが最高である。遺跡にいるときは歩いているけれど意外と時間は短いし、それ以外の時間はほぼずっとバスに乗っているからだろう。

 ちなみに、この旅行中の歩数はこんな感じだった。
 かなり適当な万歩計で、しかも、この日(12月21日分)はどこかでリセットボタンを押してしまったようで、ちゃんと測れていなかった。残念。

 2012年12月15日 10923歩 (出発日)
 2012年12月16日 14052歩 (カラクムル遺跡の日)
 2012年12月17日 13947歩 (パレンケ遺跡の日)
 2012年12月18日 14021歩 (ラ・ベンダ遺跡公園の日)
 2012年12月19日 18396歩 (コパン遺跡の日)
 2012年12月20日  7851歩 (キリグア遺跡の日)
 2012年12月21日 ?????歩 (ティカル遺跡の日)

 歩く話から連想したのか、添乗員さんがロライマ・トレッキングは大変だったけど楽しかったというお話をしていた。
 雨には降られる、虫も多い、汗だくになる、テント泊だからシャワーなんてもちろんない、テントの中に干したってぐしょ濡れの衣類が乾く筈もない、それだけ過酷だったけれど、過酷だったからこそ楽しかった、とおっしゃる。
 やっぱり添乗員さんはタフじゃないと務まらないわとしみじみと思う。

6号神殿表6号神殿裏 6号神殿との初お目見えも裏側だった。
 ぐるっと正面に回っても、見えているのは、上に乗っかっている建物部分だけである。
 6号神殿は、中心部から離れていることもあって発見されたのが遅く、1951年だ。当時は、高さ6mくらいのマウンドだったというから、それは見つけにくかったことだろう。
 27代目の王であるイキンによって造られたもので、イキンの墓ではないかと考える人もいるという。

神聖文字 窓というか入口が三つあるのは、特徴的な様式だと教わった気がするけれど「どこに」とか「何に」特徴的なのか聞きそびれてしまった。
 ずんぐりむっくりな形は2号神殿に近いという話は覚えている。どうも説明していただいても繋がっていない。

 6号神殿は、また、屋根飾りの部分に多くに神聖文字が刻まれているため碑銘の神殿とも呼ばれているという。しかし、一体どの部分が文字なのか全く判らなかった。
 家に帰ってから撮った写真を子細に検討した結果、神殿の入口の上、建物と屋根飾りとの境目が少し出っ張っている部分があって、その部分にぐるりと文字が彫られているような気がした。

 これで見学はほぼ終了である。
 入口にあるレストラン「エル・メゾン」に向けて、みな、心持ち早足で歩き始めた。
 駐車場の大混雑の割に遺跡内部は意外と人がいなくてゆっくり見学できた。集団で祈ったり踊ったりしていた人がいた分、周辺部分にはあまり人がいなかったらしい。
 10分くらい歩いて、遺跡入口のレストランに「やっと」という感じで到着した。
 実はまだ13時過ぎだ。何だかもっとずっと長く歩いていたような気分である。

スープバーベキュー

 レストランは大混雑していた。
 本日のランチのメニューは野菜スープ、牛のバーベキュー、そしてデザートのバナナである。ツアーメンバーに牛肉が苦手な方がいらして、元々はチキンの予定だったけれど、あまりにもレストランが混雑していて選択の余地が失われたらしい。
 飲み物はビールとあと炭酸飲料が多い。これだけぐだぐだでビールを飲むのは危険を感じるけれど、甘い飲み物はパスしたい。大人しく、カナダドライのクラブソーダにした。ノンアルコールで3ドルとは、改めて考えるとかなりの「観光地価格」である。

 お隣では先生たちがスペイン語で何やら深刻そうに話していて、研究の話をしているのかと遠巻きにしていたら、ふっと途切れたときにこちらに振られた話が「**さんと++さんは、どちらが年上?」だったので、ずっこけた。
 ツアーメンバーを年齢順に並べようとスペイン語で侃々諤々議論していたらしい。思わず笑ってしまった。
 その後、就業規則だとか、年休の取り方だとか、労働基準法関係の話が続いた理由は謎である。

 屋根はあるけど壁はない野外レストランでバーベキューである。この昼食時がこの旅行中で一番虫に悩まされたような気がする。
 野外レストランらしいことといえばもう一つ、何だか不穏な風が吹いているなぁと思っていると、突然、スコールが降り出した。
 不穏な風がどんな風かと言われると説明が難しい。木々から葉を落とし、落とした葉を巻き上げるような突風である。そうしているうちに、急に土砂降りの雨が降り、雷まで鳴り出した。
 まるで、何かの瑞兆か凶兆かというような雷雨だ。

 この雷雨が止むのを待ちつつ、昼食休憩は1時間くらい取った。
 また日が射し始めた頃、博物館に向かって移動を開始した。

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2014.12.07

中米3ヶ国旅行記7日目その4

2012年12月21日(金曜日)


 ティカル遺跡4号神殿は、下の方はまだ完全に土に埋まっていて、その周りに木の階段が作られており、上るのは楽である。幅が狭く一段一段も高いピラミッドそのものを上るよりもはるかに楽に一番上に到達した。
 頂上からは、この眺めを一望できる。ジャングルからピョコピョコと神殿の上部だけが飛び出しているビジュアルは、スターウォーズでお馴染みだ。
 4号神殿の上に到達したのが11時前くらいで、折良く晴れてきたのも嬉しい。


失われた世界 4号神殿のてっぺんから、失われた世界のピラミッドが見える。
 位置でいうと、3号神殿よりも手前、向かってかなり右側の方だ。
 先生がうっかり「これから上る・・・。」と言いかけたから、割と最近まで上ることができたのかも知れない。そう思うと「もっと早く来ておけば!」という気持ちが湧いてくる。
 しかし、そんな気持ちは風に吹かれているうちに飛んで、眺めを堪能する。


 ガイドさん曰く「ここが一番暑い」というお話で、確かに日光を遮るものが全くなく、日当たり良好である。夏だったらもっとジリジリするのかも知れないけれど、12月のこの日は、ガイドさんや添乗員さんが口々に「今日はしのぎやすい」と言うだけあって、それほど参りそうな暑さではなかった。


4号神殿から この眺めがあれば写真撮影大会が開催されるのは当然である。
 1号から3号神殿を一望できる。5号神殿は、失われた世界の向こうにあり、高さ57mと少し低く、見ることはできない。
 4号神殿は高さ65mで、エル・ミラドール発見前まで、近代以前の建物としてはアメリカ大陸で一番高い建物だったそうだ。
 もっとも、ティカル遺跡のミラミッドが「高い」のは、これまで見てきた遺跡のピラミッドと違って屋根飾りが残っていることが大きな要素らしい。確かに、1号神殿や2号神殿を見ると、あの屋根飾りがなかったら5mや10mはその「高さ」が低くなりそうな感じはする。


 屋根飾りはどの神殿にもあった訳ではなくて、重要な建物にのみ付けられている。
 ティカルでは、屋根飾りがある神殿が六つ確認されている。
 高さがNo.1ということもあって、4号神殿はこれを建てたイキンという王の墓ではないかと推測されているという。しかし、墓の有無を調べられるまでに4号神殿が発掘されるのはいつになるんだろうと思ってしまう。何しろ、4号神殿は最上部以外は未だ小山の中である。


近道 眺めを満喫し、ガイドさんが「そろそろ降りますよ。」と促すのに「降りたくな〜い!」と我が儘を言いつつ、僅か20分の4号神殿登頂が終了した。
 本当にずーっといても全く飽きることのないような場所だった。
 少しばかりジャングル体験っぽい近道を歩いて次に向かうのは、失われた世界である。
 こういう道は迷いやすいので(ガイドさんですら迷うと言う)、観光客が使うことはほとんどないらしい。確かに歩いている人の姿は見かけない。使うのは、遺跡に慣れた先生たちやスタッフくらいのものらしい。
 それにしても、緑の下は涼しい。


 「失われた世界って何が失われたんですか?」と質問したところ、別に何かが失われた訳ではなく、ペンシルバニア大学が最初に調査に来たときに、その辺りの景色がコナン・ドイルの「失われた世界」を彷彿とさせた、というのが名称の由来らしい。
 「失われた世界」の舞台のモデルはギアナ高地だったと思う。ペンシルバニア大学の人々には、当時のティカルがよっぽど隔絶された世界に思えたのだろうか。


49号建造物 木々の間からピラミッドが見え始め、ぐるっと回って到達したのが失われた世界のピラミッドだった。
 4号神殿から見えたピラミッドはこれではなくもう一つ奥にある54号建造物で、こちらは49号建造物だ。上ることもできる。上れるピラミッドには上るのがお約束なので、もちろん上る。
 このピラミッドは,テオティワカンの様式を取り入れられている。


失われた世界49号建造物からマヤアーチ 真ん中の崩れている部分を避けて階段を上る。
 本当に隅っこギリギリまで行くと、4号神殿を見ることができる。屋根飾りの本当に最上部しか見えていないから、あちらからこの49号建造物が見えないのも当然だ。
 また、上部にある建物の中では、綺麗にマヤアーチが残っている様子を見ることができる。白く漆喰が塗られて木の梁が残っているマヤアーチは結構珍しい。


 ガイドさんから「降りますよ。」という声がかかると、「えー!」と声が上がって、写真撮影大会が再び始まるのは毎度のことだ。
 過ごしやすいと言われても、やはり腿上げ運動を繰り返しているから汗びっしょりである。
 急な階段は上るときよりも下るときの方が断然恐い。最初に降ろす足を変えると筋肉痛が分散されるとアドバイスがあった。でも、利き足から降りる方が恐くないような気がする。
 それなのに「上るべきピラミッドはこれで最後です。」と言われてショックを受けているのだから、我ながら可笑しい。
 2号神殿が上れなくなって、修理が間に合わなかったのが本当に残念である。


54号建造物 上れなくなってしまったピラミッドの一つが、先ほど4号神殿から見えた54号建造物である。
 54号建造物からは、太陽の観測が行われていたらしい。東の方向を見て、太陽の昇る位置で季節の変わり目を判断していたそうだ。
 この54号建造物の上から見ると、4号神殿が夕日のシルエットに浮かぶらしい。それはぜひ見たかったなぁと思う。
 ガイドさんと先生の間では、「一番美しいのは1号神殿の上からの景色」と意見が一致していた。1号神殿に上ると、2号、3号、4号神殿を見ることができるという。しかし、もちろん、1号神殿には上れないのだった。


めがね 54号建造物にも、テオティワカンの影響なのか、雨の神であるトラロックの眼鏡が側面に作られていた。
 「失われた世界」はティカルでもっとも古い場所の一つで、その基盤は紀元前の時代から作られて段々と大きくされてきたらしい。王家のものだと思われる墓も発見されていて、副葬品はグアテマラシティの博物館に納められているという。今回の旅では見られない。


 ここからずっと南に向かったところに、試掘した穴がある。
 そこは10mも掘り進めたところにぽっかりと建造物が埋まっているという感じになっていて、普通だったら、そこまで到達する前に諦めているよね、という感じの「気配のない」場所らしい。その試掘された建物は4世紀くらいの建造物だという。
 ティカルは、昔から重要な場所として機能してきているし、だとすると、例えばこの場所も掘られていない地面より下の部分に何が埋まっているか判らない、と言う。
 何というか、果てしない話だなぁと思って先生の話を聞いていた。


54号神殿の裏 ぐるっと回って54号神殿の裏手に出た。
 何だか珍しくいい感じだわと思ったのは、後になってみると、あまり裏っぽくないからだと思う。ティカルの神殿は表と裏がきっぱりと判るものが多く、この54号建造物は割と裏も裏っぽくないのだ。
 54号建造物の裏の方向に神殿が三つ並んでいて、そのどの神殿から日が昇るかで、春分・秋分、夏至、冬至を観測したという。
 しかし、紀元前の頃はそれで良かったけれど、例えば南のアクロポリスができて太陽が見えなくなってしまっており、その後、例えば建物の内部から見て判断できるような覗き穴を開けるなどの精緻な仕掛けを作ったのではないかというのが先生の推測だった。


 失われた世界の中か、そのすぐ横かはよく判らなかったけれど、54号神殿からすぐのところで何か儀式が行われていた。
 ガイドさんに「どうしてここが神聖な場所だって判るんですか?」と尋ねたところ、人だかりで見えなかったけれど、人が集まっていた場所に祭壇があるのだという。
 この場所での儀式は、グランプラザでの儀式よりも、オープンではないというか、より神聖なものだと思うという話だった。


七つの神殿の広場の模型 少し歩くと、七つの神殿の広場の模型があった。トタン屋根が付けられて、保護されているといえば保護されている、という風情である。
 その隣にあるバラック風の建物に発掘されたものが保存してあるそうで、先生曰く「これを見てダメだと思った」ということだった。
 何というか、気持ちはよく判る。保護しようという気持ちはあるけど、あまり訳に立っていない、雨ざらしじゃないだけまし、という感じだ。


 七つの神殿の広場という名前は、七つの建物があるからそう名づけられている。真ん中に少し大きな建造物があって、その両脇に三つずつ建物が並んでいる。
 手前に球技場を三つ並べた場所があり、これから球技場の間を抜けて広場に向かう。
 球技場が一つだけでなく三つも並んでいるというのは初めてのパターンだ。


 この近くに日本の援助で作られた看板があった。それを立てるだけで、同じく調査に入っていたスペインとの間でもの凄い軋轢があったという。
 一緒にやりましょうという話も出たけれど、どうも「一緒にやりましょう」は「お金だけ出してね」というのと同じ意味らしいと何回かやりとりするうちに判って来て、「いや、それはお断りします」という話をしたら、嫌がらせの嵐だったり、スペイン政府と日本政府との間で話が勝手にまとまりそうになったり、紆余曲折あったらしい。


 結果として、現状、スペイン経済が悪くなったこともあってスペインは調査から引き気味となり、中央アクロポリスの調査計画も頓挫しているという話だった。
 何というか、「援助」とか「調査」とか「協力」とかいうもののえげつない裏話である。調査そのものだけでなく、そういう問題も乗り越えないと遺跡の発掘をしかも外国でやることはできない。


七つの神殿の広場 球技場の間を抜けて、七つの神殿の広場に入った。
 一つ一つの建物は大きくないけれど、全体として見ると、今修復されているものの中では大きいらしい。両脇に控える建物は崩れかけてしまってもいる。
 この建物の並びからしても、かなり儀礼的な使われ方をしていただろうという話だ。一部は発掘調査も行われていて、ガイドさんは入ったことがあると言う。


 七つの神殿の広場の隣に南のアクロポリスがある。そこは単なるジャングルというか、小山に見える。
 発掘をするにも、ティカルは幸か不幸か世界自然遺産でもあるので、木の伐採等、発掘に不可欠なことを行うにも許可を取るのが大変らしい。
 しかし、南のアクロポリスはこれまで全く調査の手が入っておらず、また、規模としても大きく、変な言い方だけれど、「絶対に何かが埋まっている」場所らしい。


 南のアクロポリスを通り過ぎれば、そこには5号神殿がある。


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2014.11.30

中米3ヶ国旅行記7日目その3

2012年12月21日(金曜日)


グランプラザと2号神殿 マヤ暦が一巡するこの日までにティカル遺跡2号神殿の階段を修理するという話もあったそうだけれど、残念ながら、まだ修理が終わっておらず、こちらも上ることはできなかった。残念である。
 この日現在、上ることのできるピラミッドは4号神殿だけだ。
 「6号神殿は?」と尋ねたら、「発掘もしていないので、登ろうと思えば登れるけど小さいし。」というお答えだった。「地球の歩き方」には復元作業が終了して公開されていると書いてあったんだけどなと思う。


 グランプラザにある北のアクロポリスは、大きな基壇にピラミッドがいくつも乗っかっている、いわば歴代王の霊廟群である。
 そして、北のアクロポリスにある22号神殿がティカル遺跡で一番高い建物だという。てっきり、1号神殿か4号神殿が一番高いと思っていた。
 北のアクロポリスからは、グランプラザと1号神殿、2号神殿、そして奥に5号神殿という景色を見ることができる。


4号神殿 がんばって登った22号神殿の上からは、4号神殿がジャングルの向こうに霞んで見えていた。こちらから見えているから、逆に、4号神殿に登れば22号神殿を辛うじて見ることができるだろう。
 まだまだ霞んでいるけれど、かなり視界は開けてきている。「ティカル遺跡で日の出」を見るのは結構難しいらしいと了解した。
 昔はもっと拓けていて色々とばっちり見えていたんだろうなと思うし、そうしてぴょこぴょことジャングルから見えているところがティカル遺跡のいいところ、という気もする。


 今いる北のアクロポリスは、ティカル遺跡における先生のメイン・フィールドになり、ペンシルバニア大学の調査で全体の65%くらいがセメントで固められてしまっており、それは「よろしくない」ので、土を入れて芝生を植える計画もあるという。
 未発掘部分の調査も合わせ。全体で10年計画というスパンになるそうだ。
 気の遠くなるような話である。


わらぶき屋根座面 22号神殿から降りる途中で見かけ、「これは何かですか?」と質問をしたところ、「そうですね、座面の名残ですね。」という回答だった。
 右側は発掘の途中らしい。わらぶき屋根が一応付けられているものの、全く役に立っていないということがよく判る。また、側面から見ると、雨にやられて石灰岩がかなり溶けてきてしまっている。
 早急かつ効果的な保護が必要とされている所以だ。


貯水池 下を覗き込むと、そこは王家の貯水池だった場所だ。
 貯水池はいくつもあったけれど、中でも王家のものはかなり大きい部類になる。
 覗き込んでもただのジャングルにしか見えない。言われなかったら絶対にここが貯水池だったなんて思いもしないに違いない。
 この近くには、ペンシルバニア大学が調査のために穴を開けたものの放置されたままになっている神殿があり、先生はそこをさらに掘り進めて調査をしてみようかと思っているとおっしゃっていた。
 本当に気の遠くなるような話である。


マリンバ 北のアクロポリス見学中もずっとマリンバの演奏が聞こえていた。
 降りてくるとより鮮やかに聞こえる。
 マリンバの周りでは踊っている人達もいる。スクールメイツみたいな簡単な踊りに見える。
 マリンバを演奏しているうちのお一人は、ガイドさんの織物の先生のダンナ様で、ガイドさんも「こんなところで会えるなんて!」とびっくりしていた。
 織物にしても、マリンバにしても、伝統を守ろう伝えようとしている人は限られているのかも知れない。


冒険家のサインサイン


 左の写真の建物は中央アクロポリスのうちのどれかじゃないかと思うけれど確信はない。
 中央アクロポリスは貴族の住居や政治を行う場所だったらしい。だから、ベッドやベンチらしきものも残っている。
 真ん中の入口に人が集まっているのは、有名な(といってももちろん私は知らない)探検家である、テオベルト・マーラーが住んでいたことがあり、サインが残っているからだ。
 もちろん、後でしっかり覗き込んで、サインの写真も撮った。
 しかし、先生は「冒険家」と説明したけれど、考古学者でもあった筈で、それなのに遺跡に落書きしていいのか、と思ってしまう。
 実際、このサインがある壁は、マネした観光客のいたずら書きで一面が埋まっていた。嘆かわしい話である。


中央アクロポリスと1号神殿(推定)5号神殿


 ティカル遺跡では、ほぼずっと、一体自分がどこを歩いているのか全く判っていなかった。ガイドさんについて歩いていただけである。
 先生に「階段があるところは登ってよし。」と言われたので、中央アクロポリスの中を登れるだけ登って、グランプラザ側を見て1枚(左)、振り返って反対方向ににょきっと見える5号神殿を1枚(右)撮った。
 5号神殿の左側に階段というよりははしごが付けられているのが見える。しかし、現在は、先ほども書いたように、残念ながら登ることはできない。


建造物内部 建造物の中に入ると、天井や壁に木材(と思われる)が張られて残っている。
 マヤアーチを支える梁も見えている。梁にしては細すぎるような気がするけれど、位置的には梁だ。
 まさかオリジナルではあるまいと聞いてみたところ、テオベルト・マーラーが撮った写真にもこうした壁や天井が写っているそうだ。マーラー氏もいたずら書きだけしていた訳ではないらしい。
 先生曰く「ペンシルバニアがやったにしては・・・。」ということなので、難しいところだけどオリジナルの可能性が高いらしい。


中央アクロポリス建造物53 相変わらず自分がどこにいるのか判らないまま歩いていた。これは多分、中央アクロポリスの建造物53である。
 左側のちょっと独立しているっぽい建物を合わせると、4階建てになっている。
 中央アクロポリスと、正面に見える5号神殿とその隣の南のアクロポリスとの間には、貯水池があったそうだ。
 ちょっと低くて木々が多い場所は、元貯水池と思っていいのかも知れない。


 残っている建物と残っていない建物との違いがどこにあるのかと質問してみたら、「接着剤の違いですね。」という回答だった。
 意外といえば意外だし、当然な気もする。何というか、基盤がしっかりしているからとか、もうちょっと土木っぽいというか、大本のところの問題のような気がしたけれど、そうではないようだ。


 トイレ休憩しているときに、「汗びっしょりだねぇ。」としみじみ言われ、洗濯の話になった。
 ティカル遺跡を歩いている間、ガイドさんからも添乗員さんからも「今日は過ごしやすいですよ。」「ラッキーですよ。」と言われていて、確かにパレンケ遺跡ほどは蒸し暑くないけれど、それにしたって大汗である。
 10日間の我々のツアーは連泊がない一方で、19日間ツアーは連泊が何回かあるそうで、その方は連泊したホテルでランドリーサービスを使っているとおっしゃっていた。
 なかなか、そういう意味でもハードなツアーである。


3号神殿の表側3号神殿の裏側 再びざくざくと歩いていると、ぽっかり、3号神殿の裏側が見えた。
 3号神殿の裏側は全く崩れたことがないそうだ。今、我々が見ている石組みはオリジナルということになる。凄い。
 3号神殿はティカルでもっとも新しい建造物のうちの一つで、810年に造られている。1号神殿と4号神殿のそれぞれから見た日の出が交差する場所にある。
 基壇が60mくらいあり、表側は発掘されていないので、発掘前の様子を知ることができる。ずばり、山である。丘である。急斜面である。
 思わず「こちら側が正面ですか?」と間抜けな質問をしてしまった。


 ついこの間、雷がこの3号神殿に落ちて、上部は修復中だ。足場が組まれている。
 それとは別になのか、そのついでなのか、どさくさ紛れなのか、上部の神殿だけでなく下部の調査もしたいという許可申請がなされていて、ロープが張ってあるからもしかすると許可が出て下部の調査が始まるのかも知れないと言う。
 しかし、4号神殿も同じこと(というのは、つまり下部の発掘という意味だと思う)をやって、何億円つぎ込んでも終わらないという泥沼に陥っているらしく、先生の口調は苦々しい。


祭壇と石碑 その4号神殿に向かう。
 4号神殿は他の建造物とは離れた場所にある。
 途中、割れた祭壇や石碑がいくつか転がっている場所があった。オリジナルは状態が良かったので石造彫刻博物館に収められているという。
 王の墓を掘り出している様子が彫られている。


4号神殿正面 ほとんど丘のような斜面のようなビジュアルで全く感興が湧かないけれど、これが4号神殿正面である。
 手前に見えている階段は、4号神殿の基盤の一部だ。
 ここが基盤の一部で、てっぺんがあの位置だとすると、4号神殿は一体どれだけ大きいんだと呆れてしまう。手前の階段と向こうに見えているてっぺんとが一つの建物だという感じがまったくしない。
 4号神殿の調査・発掘が泥沼に陥っているという先ほどの先生の説明に、なるほどこれじゃあね、と思う。


4号神殿上り口 やっと、4号神殿の上り口に到着した。
 何だか凄い人で、順番待ちの行列ができている。ティカル遺跡は今日、グアテマラ人は無料ということで普段からは信じられないくらい混雑しているらしいけれど、それにしてもびっくりだ。
 ガイドさんに重い荷物は見ておいてくれるとおっしゃっていただき、カメラと貴重品だけ持って行くことにする。
 木の階段が上まで続いているそうだ。要するに、てっぺんの神殿まではほとんど土に埋まっているということだろう。


 なかなか入場制限が解除されず、おしゃべりしながら待つ。15分も待つと上から大集団が降りてくるのが見えた。
 そして、周りのグアテマラ人がいきなり色めき立ち、特に女性は黄色い歓声を上げる。先生によると、降りて来たのはラテンアメリカで「もの凄く有名な」歌手だったらしい。ガイドさんもファンだそうで、にこにこしている。
 先生の方は全く興味がないらしく、「みんなが彼に気を取られている隙に上りましょう!」と声をかけ、4号神殿に上り始めた。
 今思えば、「もの凄く有名な」歌手の方の写真の一枚くらい撮っておけば良かったと思う。


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2014.07.13

中米3ヶ国旅行記7日目その2

2012年12月21日(金曜日)


 駐車場をもう1回抜けてティカル遺跡の中に入って行く。
 駐車場は、ティカルを最初に発掘しようとしたときにペンシルバニア大学のチームがまず滑走路を作った場所だ。米国人、恐るべしである。
 さらに、駐車場近くに沼があり、そこを水場にして、今ホテルが建っている辺りは、発掘のためのキャンプサイトとして使われていたらしい。まず兵站から、という感じがいかにも米国的である。
 ふと「この下に、実は貴重な遺跡が、なんてことはないんですか?」と尋ねてみたら、先生は一瞬詰まって「それはあるでしょうね。」と答えた。発掘開始時点で、どこまでがティカルの範囲だったのか判る筈もないのだから当たり前である。


 先生もガイドさんも「こんなにたくさんの人をティカル遺跡で見たことはない。」と言う。
 意外と、我々とすれ違いで帰ろうとする人が多い。彼らは一体何時頃から来ていたのだろうか。日の出の儀式を終えて(あるいは見終わって)、すでに遺跡見学も終えたのかも知れない。


 8時過ぎ、ティカル遺跡の内部に向けて歩き始めた。
 自分で取ったメモによると、まず最初にチコ・サポテの木を見た模様だ。
 チコ・サポテの木は、1立方メートルで1tあるというから、相当に重い。どなたかが「それじゃあ水に沈むんですね」とおっしゃって、おぉ! と思った。水に沈む木って何だかヘンである。
 カラクムル遺跡に行く途中ではあんなにがんばって見ようと思っていたのに、この辺りのやりとりを含めて全く覚えていない。我ながら移り気な話だ。


世界樹 その代わりに、世界樹の木を見上げたことは覚えている。パレンケ遺跡のレリーフに描かれていた世界樹(セイバの木)だ。
 この変わったフォルムを見て「世界樹」と呼びたくなった気持ちも判るような気がする。マヤの人たちにとっては、非常に「聖なる」木である。
 世界樹は、上下を引っ繰り返しても同じに見えるんじゃないかというような形をしている。この辺りは石灰岩質の土壌で、土はほんの数cmしかないため、根っこは地上を横に横にと伸びている。


 ティカル遺跡の中の道は、はっきりと「車道」である。
 いつもは車で入ることはできないけれど(先生たちは徒歩で遺跡に入ること自体が稀らしい)、今日はイベントがあるので若干の車の通行がある。
 「一度、4号神殿まで往復したら16000歩だった。」とおっしゃったくらい、歩かないらしい。
 先生の予測は「今日1日で30000歩」だけれど、果たしてどうだろうか。今日のコンセプトは「上れるところはできる限り上ってもらう」だと笑っていた。


コンポレッホQ 途中、ヤシャクトゥン遺跡に向かう分岐を経て、最初に現れたのはコンポレッホ(複合体)Qである。
 コンポレッホは、東西に双子のピラミッドが向かい合い、北と南に部屋が分かれている。石碑もある。
 そして、発掘されている東のピラミッドも背中は小山のままである。
 我々が最初に目にしたのは、このピラミッドの背中だし、ちなみに、ペンシルバニア大学のチームが最初に発見したのもこのコンプレッホQである。


東のピラミッドの正面西のピラミッド


 正面に回ると、それなりの高さのあるピラミッドである。
 先生は、表面が漆喰で塗られ、さらにそこに絵が描かれたりしていたのではないかと言う。猿なのか鳥なのか、甲高い泣き声が聞こえている。
 東と西のピラミッド、南と北の建物は、「双子」という名のとおり、同じに作られている。北の建物には中に石碑が作られ、神様と祖先と両方が祀られている。
 いつかの先生のお話にあったとおり、コンポレッホQでは二つあるピラミッドのうち、西の方はまだ全体が「小山」のままである。将来の発掘を待っているという感じだろうか。


ピラミッドの上から これまでに比べて、上りやすい段差である。
 「まずは足慣らし」と、ツアーメンバーのほぼ全員が上ったと思う。
 ティカルには8〜9のこうしたコンプレッホと呼ばれる建物群があったけれど、そのうちのいくつかは潰されてしまっているという。その上にサクベを作られ、ついでにそのサクベの材料にされてしまったらしい。
 こうしたコンプレッホはティカルに典型的なもので、ティカルから広がった、ティカルをマネしたと思われるコンプレッホが他でも発見されている。


 ピラミッドに上がると、一つだけ飛び出た石碑の向こうに丸い焼け跡のようなところが見える。そこは、政府が指定した「儀式を行う場所」だ。
 ガイドさんが言うには、キリグアで目にしたのはいわば「賑やかし」の方々であって、マヤの人が儀式を行うならあんなに賑やかなものにはならないそうだ。
 特に指定しないとどこででも儀式が行われてしまうので(それは、昔もそうだったということなのではないかと思う)、政府が場所を指定したらしい。


北の石碑 北の家の中にある石碑はレプリカで、本物は博物館だ。
 石碑は、マヤアーチの中に納められている。そういえば、屋内にある石碑というのは、かなり珍しいように思う。あまり見た記憶がない。
 カラクムルと同じように、この石碑の材料は石灰岩だ。割と綺麗なのはレプリカだからで、ティカルの石碑の保存状態が特に良い訳ではない。実際、西のピラミッドのすぐ側にある石碑は倒され放題で、刻まれている筈の文字などもあまり判別できなかった。


 8時半を回っても今日は青空が広がらない。
 明るいけれど、白い。朝日を望もうと思ったら、2月くらいがいいそうだ。覚えておこうと思う。
 ちょうどこの辺りを見学しているときに、ヘリコプターが上空を旋回し、去って行くのが見えた。大統領が帰ったんじゃないかしらと思う。


コンポレッホR コンポレッホQのすぐ隣にコンポレッホRがある。これは、北の建造物と石碑だ。
 コンポレッホRのピラミッドを見た覚えがないから、まだ発掘されずに小山のままなのかも知れない。ピラミッドがないとどうにも地味である。
 この石碑の前の丸いテーブルのようなものは祭壇で、ここに動物が捧げられたりしたのではないかということだ。
 そう考えるとちょっとぞっとしなくもない。


 要所要所で地図を示して「今どこを歩いているか」ということは教えてもらったにも関わらず、生来、方向音痴の私はティカル遺跡のどこをどう歩いていたのか、最後までよく判らなかった。
 コパン遺跡も現在地がよく判らなかったけれど、ティカル遺跡はそれ以上だ。
 コンポレッホRを過ぎてグランプラザに向かう途中、1号神殿の後ろ姿を望むことができた。
 グランプラザでは、マイクを使って何やらイベントをやっているらしい。人の声と音楽が聞こえる。


善と悪 グランプラザの中に入ると、やっと1号神殿を正面から拝むことができた。
 グランプラザは完全にイベント会場と化していて、木琴を使った音楽が流され(実際に演奏していがグループはガイドさんのお友達らしい)、先生は「鹿の踊りが行われている。」と言う。果たしてどれが「鹿の踊り」なのかよく判らない。 


 アナウンスは恐らくスペイン語で、何を言っているかさっぱり判らない。
 しかし、黒い衣装を着た子ども達のオペレッタがなかなか可愛かった。善と悪のお話、だったらしい。演じていた女の子に声をかけ、写真を撮らせてもらった。
 1号神殿を背景にした舞台で演じられるところが、「価値」だ。


 これはどう考えても「セレモニー」ではなく「イベント」だろうという気がする。
 子ども達の踊りも、キャンプファイヤーのように燃やされていた火も、何かの意味があるのだろうとは思う。しかし、伝統を守るとか古式に則りといった風情はあまり感じられない。
 何だかちょっと勿体ないような、ショックなような気もした。
 笛と木琴がベースになっている音楽はどこか懐かしく、マイクなしで聴いてみたい。


北のアクロポリス イベントの様子を眺め楽しんだ後、9時頃、北のアクロポリスに上った。いつもは静かだろうアクロポリスも、今日は観客席と化している。
 北のアクロポリスは先生たちのプロジェクトの対象となる地域で、この写真で左端にやっと写っている小山がその本命である35号神殿だ。
 北のアクロポリスは長期間にわたって増改築が行われた重層建築で、今残っているのは6世紀頃の建築だ。この上に大きなピラミッドがあったけれど、ペンシルバニア大学の調査で壊されてしまっている。それではまるで、調査じゃなくて破壊じゃないかと思う。


 33号神殿に残るマスク(仮面)は、神殿に上るために使われていた階段の両脇に飾られていたものだ。
 同様のものをコパンでも見ましたね、と先生は言うけれど、そうだったかしら? という感じだ。トンネルの中で見たらしいけれど、トンネルは湿度が滅茶苦茶高かったことと、その湿度でアクリルが曇ってしまって内部が見にくかったことしか覚えていない。
 コパンは6世紀、ティカルは5世紀、それぞれ、代表的な建築様式だという。


もう一つのマスク もう一つのマスクがこの写真である。正直、マスクの表情の見やすさは、黴に覆われた黒いマスクの方が上だと思う。
 しかし、保存状態としてはこちらの方が断然いい。
 先ほどの黒いマスクも、1968年に発掘されたときは白い状態だったという。真っ黒になってしまったマスクを、果たしてこの先どのように保存すればいいのか、一大問題だそうだ。


 1958年にペンシルバニア大学の調査チームが発掘を始めた頃は、遺跡修復のやり方を定めたヴェニス憲章はまだなく、もちろん「世界遺産」という制度もなかったため、セメントで固めてしまっている。
 そのセメントが、修復された遺跡に悪影響を及ぼしてしまっているらしい。
 遺跡の保存、修復、利用が一大研究テーマになる所以、なのだと思う。


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2014.07.06

中米3ヶ国旅行記7日目その1

2012年12月21日(金曜日)


 新年である。
 マヤ暦13バクトゥンの新年が明けた。
 当然のことながら、世界は終わっていない。どちらかというと普通の朝である。
 4時に起き、荷造りをする。今日はティカル遺跡の見学後、そのままグアテマラシティに飛ぶので、朝のうちに荷造りを済ませなくてはならない。当初予定ではフローレスにもう1泊して、翌朝にグアテマラシティに飛ぶことになっていたけれど、飛行機のスケジュールの変更により旅程も変更を余儀なくされた。


朝食 5時過ぎにレストランで朝食をいただく。まだ夜も明けていないのに、ボックスではなく、レストランで朝ごはんを食べられるのは嬉しい。
 もっとも、流石の私もいつものように山盛りのお皿にすることはできず、控えめな朝食(のつもり)である。
 それにしても、フローレスは暑い。
 今回の旅行中で、フローレス(引いては、これから行くティカル遺跡)が一番暑くなりそうである。虫除けを万全にしようと心に決める。


 5時50分にホテルを出発した。
 昨日の駐車場まで皆して歩く。荷物は別に運んでくれるから楽なものだ。途中で、バックパッカーっぽい若い女性に「ティカルに行くの? だったら一緒に行きたいんだけど。」という感じで声をかけられ、添乗員さんが「我々はツアーなので。」と答えていた。
 行き当たりばったりというか、チャレンジャーな感じでこの日にティカルを訪れようという彼女に脱帽だ。彼女は、結局、ティカル遺跡にたどり着けただろうか。


 バスは6時にティカル遺跡に向けて出発した。
 ガイドさんが、「今年は特に、ガイドをしているときに、何かが起こるの? と聞かれることが多くて。」と、そうした質問を受けた際に読んでいるというナショナル・ジオグラフィック誌に掲載されていた記事を読んでくれた。
 要するに、「2012年に世界が終わる訳ではない」「そもそも2012年にマヤ暦が終わる訳ではない」という記事である。
 それとは別に、2012年の12月21日が、マヤの世界にとって重要な日付であることは間違いない。5000年を超える周期の最初の日に巡り会える機会などまず滅多にない。貴重なことであるに違いない。


 フローレスからティカル遺跡までは約60kmで、普通に走れば車で1時間くらいだ。しかし、ティカルは1979年に自然遺産+文化遺産の複合遺産として登録されており、その指定地域内では車は時速45km以下で走らなければならないため、遺跡入口までは大体1時間半くらいかかるでしょうと言う。
 時速制限があるのは、道路に飛び出してくる動物を轢いたりしないようにという配慮のためと言われて納得した。出てこないとは思うけれど、ジャガーを轢いてしまったりしたら後生が良くない。
 ガイドさんも、鹿やハナグマ、七面鳥は見たことはあるけど、ジャガーは見たことがないと言う。車の通行も激しくなり、あまり動物が出ることはないそうだ。


夜明け 走り始めて30分くらいたった頃、木々と湖の向こうに見える山の端が明るくなっていることに気がついた。
 添乗員さんは、今日と1月1日と、この冬は初日の出が2回見られますねと言う。しかし、やはりグアテマラでも朝は薄曇りというか霧がかかっていて、「日の出」は見ることができない。
 何となく白い視界の向こうが段々明るくなってくる、という感じの夜明けだ。
 「華やかな日の出は拝めなかったわね。」「賑やかな夜更けはあったけれどね。」と笑い合う。


 何故こんな何もない場所でバスを停めたんだろうと思っていたら、どうやら、護衛のポリスを置いて来てしまったらしい。「明日の6時にここでって約束したのに、来ていなくて、気付かずに出発してしまいました、ごめんなさい。」とガイドさんが言う。
 その置いて来てしまったポリスが追いついてくるのを待つつもりが、それでは時間がかかりすぎる。どういう交渉の結果か、この近くにいるポリスが代わりに護衛してくれることになった。
 そんなに適当に公務を離れていいのか、かなり謎だ。制服に着替えているのが見えたから、非番の方々だったのかも知れない。いずれにしても、何だか可笑しい。


ティカル遺跡入口 7時くらいに、ティカル国立公園の入口に到着した。20分くらいロスがあったから、正味40分なら順調に走ったといえるだろう。
 ここからは時速45km走行になる。
 ここで入場時刻がチェックされ、駐車場でも時刻がチェックされるシステムになっているという。自然遺産を守るため、制限速度を守ったかどうかを確認するという。


 ティカル自然公園は576平方キロで、23区と同じくらいの面積がある。
 動物を殺してはいけないのはもちろんのこと、植物も無闇に採取してはいけない。自然公園なのだから当然である。動物を轢いてしまった車があって、その人は3日間ほど刑務所に入れられたという。だから、ドライバーさんも制限速度も守って慎重に運転している。


 ティカルの地に人が住むようになったのは、紀元前600年頃と言われている。
 その後、テオティワカン(今回のツアーでは行かない)やカミナルフユ(明日行くことになっている)などと交易を行いながらアクロポリスを形成し、8世紀から11世紀頃にかけて最盛期を迎えている。しかし、その後、衰退が始まり、1575年にスペイン人により、1848年にグアテマラ人により「発見」され、現在は全体の8%弱が発掘されている。
 本格的な発掘調査の開始は1956年だ。


 駐車場に到着したら、もの凄い数の車が駐まっていた。ガイドさんも添乗員さんも「こんなに混んでいるのは初めて!」と驚いている。いつも使っている入口に近い駐車場は満車だという。
 今日は、グアテマラ人に限って入場無料で、そのせいもあるのだろう。
 駐車場にテントを張っている人もいて、昨日から泊まり込んでいたらしい。確かに、昨夜から儀式というかイベントというか、そういったものが行われていた筈である。


文化遺産保存研究センター 今日は、グアテマラの大統領がティカル遺跡に来ていたため(恐らく、少し前に聞いたヘリコプターの爆音は、大統領が帰ったときのものだろうという)、文化遺産保存研究センターはそのためのコントロールセンターとして使われ、一般客は入場禁止である。
 しかし、そこは先生の「顔」で、「なるべくさりげなく入ってください」と無茶な注文がありつつ見学させて貰えることになった。
 この庭は「禅」をイメージしている。先生は「なかなかグアテマラの人には判って貰えない。」と嘆いたけれど、私だって言われるまで判らなかったよ、と思う。


 文化遺産保存研究センターは、JICAの一般文化無償資金協力事業の一環として建てられており、いわば、先生のティカル遺跡における研究の拠点である。2010年に日本とグアテマラとの間で署名がなされ、2012年7月6日にオープンしたばかりだ。
 その寄付総額5億4820万円というから驚きである。


修復中分類整理中


 修復の様子や分類整理の様子はガラス越しに見えるようになっている。
 しかし、実はここは「観光客向け」に用意されたところであり、先生達の研究室はさらに奥にある。「ライブラボ」と呼ばれている。
 その他に、収蔵庫も用意されている。しかし、まだ全体の見学コースは「準備中」という感じだ。
 ティカル文化財の保存のために建設された場所で、これまで、安全かつ持続的に発掘物を保管する場所すらなかったということ自体、驚く。併せて、展示も行い、2013年に中米の研究者を集めて、金沢大学とここで研修も行う予定だという。
 正しく「拠点」という感じだ。


国際協力 グアテマラにはかなり日本からの経済協力が行われている。
 先生たちは、外務省に対して、経済と文化を分けて考えるのではなく、文化的な協力こそが(額は小さくとも)グアテマラの人たちの心に残ることも多いのだということを折にふれ主張しているという。
 その成果もあって、来年早々に外務省の視察が入る予定があり、また、文化遺産保存研究センターに関してはODA白書にも載ることが決まっている。
 建物を作ることが目的なのではなく、その建物ができたことはスタートであり、この先に何をやって行くのかが重要だという。


 例えば、データをスキャンして全てをサーバに収める活動もすでに始まっているという。
 こうした援助は「買っていいもの」と「買ってはいけないもの」が厳格に決められているらしい。先生が「これは買っていいと言われているので」と苦笑まじりに解説してくれる。どうやら、日本で調達できるものは日本で調達して運べ、というスタンスらしい。
 機動性に欠けるけれど、一定の制限は仕方がないということかも知れない。


 特別に倉庫も見学させてもらった。残念ながら(というか、当然のことながら)、写真撮影はご遠慮くださいと言われる。
 日本の援助で作られたということで、机にも、ケースにも、全て日本の国旗がマークとして入っている。そこまでしなくても・・・、という感じもするが、恐らくは「必要な主張」なんだろう。
 また、「いかにも日本らしい」と思ったのは、そのケースの蓋が何色か用意されていたことだ。「色で分類できるといい」と用意されたらしい。現状、色による分類はなされていないっぽかった。そういうことも「今後の課題」なんだろう。


アクセサリ陶器


 博物館ではないので、展示物はそれほど多くはない。展示スペース自体はそれほど広くなさそうで、拡大するというよりは、展示替えをして行く感じになるのだろう。
 アクセサリ類と、お皿や茶碗などの器がメインである。
 ツアーの方が「これ欲しい!」と、ネックレスに熱い視線を送っていた。


器 途中で、文化遺産保存研究センターのディレクター(責任者)である女性が来てくれた。意外と若い女性で、驚いた。彼女も、研修で来日する予定だという。
 この建物は、クリーンエネルギーの活用も試みられていて、地中に空気をくぐらせることによって、涼しい風を送ったり、太陽光エネルギーで発電して扇風機を回したりしているそうだ。エアコンはなくても大丈夫らしい。
 また、太陽光を集めることで電灯をつけなくても室内を明るくする工夫もなされている。


 その彼女に、ツアーメンバーの方が、例えば発掘されたアクセサリ類のレプリカを作ってお土産として売ったらいいんじゃないかと質問していた。「いいアイデアですね。」という反応だ。ただ、レプリカを作成するには許可が必要だし、レプリカを作れる技術のある人を育てる必要があるという。
 また、このセンターの維持管理するための財源をどうやって確保するかという問題とも繋がっており、会議でもそういうアイデアが出て、ビジターセンターのお土産物屋でレプリカを売り始めたそうだ。
 後になって、このときの会話が、金沢大とグアテマラ政府との新たな協定締結に繋がったのかしらと思ったりもした。


 文化遺産保存研究センターの見学も終了し、8時くらいにいよいよティカル遺跡に入った。


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2014.06.01

中米3ヶ国旅行記6日目その3

2012年12月20日(木曜日)


 昼食をいただくリオ・ドゥルセという街まで1時間くらいかかるという説明で、再びお手洗いを済ませておく。
 リオは川、ドゥルセは甘い、という意味だ。つまりドルチェだなと納得する。ドゥルセ川は、その街から40kmくらいでカリブ海に注ぎ込む。
 お手洗いでちょうど、もう一方のツアーの添乗員さんと入れ違いになったところ、ふとみると、個室内にバインダーノートが置いてある。悪いかなと思いつつめくってみると、どう見ても日本語である。恐らく先ほどの添乗員さんのノートだろう。


 お手洗いから出たところで周りを見回してみたけれど、彼女がこちらに向かっている様子はない。どうやら気がついていないようだ。ちょっと不安になりつつ、「このノート、違いますか?」と聞いてみたところ、「バインダーだけでした? カメラありませんでした?」と泡を食ってバッグをかき回している。幸い、カメラは元々バッグの中に入っていた。
 「このノート、命より大切なんです。」とおっしゃるので、いつもは「命の次に大切なパスポートです」って強調しているのになぁと可笑しくなって、「そうですね〜、パスポートは再発行できますけど、ノートはできませんからね〜。」と返した。


昼食レストラン  昼食をいただくレストランはRANCHON MARYという、川に面した、リゾートっぽいなかなか素敵なところである。今回のツアーで行ったレストランの中で一番素敵だったと思う。
 メニューは、グリーンサラダ、タパードスというガリフナ料理、これにライスがつき、フルーツとコーヒーである。
 タパードスは、ココナツミルク風味の海鮮スープで、ブイヤベースよりもこってりしている。魚介の味がしみ出ていて美味しい。えびや蟹も入っている。バナナも入っているところがポイントだ。
 美味しかったのに、これがもの凄いボリュームで、とても飲みきれなかったのが申し訳ない。


カクテル 昨夜のお酒もご一緒した方に「飲まない?」と誘っていただき、「この辺りっぽいカクテルはない?」とお店の方に聞いて一緒に注文してくださった。
 7米ドルだから、お安くはない。
 味の方は、「うーん、ジュース? にお酒が入っていることは判る? かな?」というのが二人の共通した感想である。ラム酒が入っていたと思うけれど、如何せん、野外レストランで風は吹いているものの暑いし、お腹は空いているし、喉は渇いているし、今ひとつ「味わう」という感じに行かなかったのが申し訳ない。


リオ・ドゥルセ 15時過ぎにレストランを出発し、5分も走らないうちに写真ストップとなった。
 リオ・ドゥルセである。
 この橋は、1980年に完成した全長500mの橋だ。橋ができる前は渡し船を使っていたという。
 橋を挟んだ反対側は、イザバル湖で、グアテマラで一番の大きい湖だという。一番大きいのに深さが10mくらいしかないというのが驚きだ。
 川の上は風が吹き抜けていて、涼しい。帽子が飛ばされそうになった。
 ここは天然の港で、スペインが物資を運び出す基地になっていたため、それを狙った海賊などを防ぐために要塞が築かれていたという。今は、見学もできるように整備されているそうだ。


 午前中は日陰が少なく暑いキリグア遺跡をたっぷりと見学したし、オープンエアの気持ちのいいレストランで美味しい昼食を食べてお酒も飲んだし、あとは、夜までひたすらバス移動となれば眠気が差してくるに決まっている。
 キリグアから今夜の宿のあるフローレスまでは約5時間だという。
 昼食のときに添乗員さんから聞いた話では、この旅行社では通常ミラ・フローレス側(フローレス島の対岸)のホテルを押さえるけれど、今回は、マヤ暦が一巡するそのイベントのために大統領等々政府要人まで集まってくるため、フローレス島内のホテルになったそうだ。


 そもそも明日、ティカル遺跡に入れるのかどうかも実は確かではないらしい。
 それを売りにしたツアーを設定したのにそれでいいのかという気がしなくもないけれど、実際にそうだったのだから仕方がない。
 添乗員さん自ら、バス車内でマイクを持ち「実は私たちも明日のティカル遺跡見学に関しては確かな情報を全く持っていません。ここからは、先生とガイドさんとがお持ちの、現地の情報網や人脈が頼りです。」とキッパリ宣言していた。
 その「人脈」の一環ということなのか、もし一般の人の入場が制限されていても何とか特別許可が貰えるよう、宛先はどこだったか聞いて忘れたけれど、全員分のパスポート情報も送ってあります、と言う。
 大事業だ。


 16時前にベリーズ国境を掠めるモデスト・メンデスという場所を通過した。
 山の上にはベリーズ軍が見張り台を築き、陣取っている。旗が翻っているのですぐ判る。グアテマラとベリーズでは、圧倒的にベリーズの方が軍事力が大きいそうだ。
 ガイドさんは「歩いたら別にどこからでも入っちゃえそうですよね。」と笑う。確かに、面ではなく、線でもなく、点で国境を守っている訳だから、それほど厳重という感じではない。


 16時45分にお手洗い休憩となった。
 ずっとバスに乗りっぱなしだからか、15分という結構余裕のある時間設定である。ガソリンスタンドだから、お手洗いの数が多い訳ではないということもあるだろう。
 トイレ・チップ代わりにコーヒー味のキャンディを買う。
 外に5歳くらいの女の子がいて、写真を撮ってデジカメの画像を見せるとやっと笑ってくれた。スペイン語をしゃべれる方が彼女に話しかけ、キティちゃんのシールをあげていた。なるほど、コミュニケーションツールとしてキティちゃんやポケモンはかなり優秀なのだ。
 バスが出発すると、添乗員さんが今仕入れがおやつを配ってくれた。コンデンスミルクを固めたお菓子で、激甘だ。


 トイレ休憩後、割とすぐに果物検疫所に到着した。日によって検査の方法が違うそうで、ガイドさんも「今日はどんな検査でしょう。」などと言う。
 結局、貴重品だけ持って全員が下車し、車内の検査が行われることになった。
 どうしてこんなところで、国境でもないのに検査をするのかと思っていたら、高地からの果物は持ち込みが禁止されているという。
 前にガイドさんが「写真を撮っていい?」と聞いたらダメだと言われたということだったので諦めたけれど、ここには10代かしらというような若い兵隊さんがいて、みんなの注目の的だった。
 検査自体は3〜4分であっという間に終わった。


 ガイドさんがエル・ミラドールに徒歩で行き、泊まりがけで見学したときの話をしてくれる。
 徒歩である。63歳のときだそうである。驚きだ。ヘリコプターで行くツアーは徐々に出てきているけれど、徒歩は私には絶対無理だよなぁ、と思う。しかし、ヘリコプターで行くと、朝8時くらいに到着し、14時過ぎには出ないといけないので、見学できる範囲がかなり少なくなってしまうという話だ。
 グアテマラ政府としては、エル・ミラドールも世界遺産に指定したいけれど、如何せん、発掘されている遺跡が少ない。ガイドさんにしてみると、その「発掘途上」の感じが良かったという。
 聞けば彼女が行った前の晩にはジャガーが遺跡内に出没したりしていたそうだから、やはり、観光地として整備されるまでには結構な時間がかかりそうである。


残照 17時15分過ぎ頃、窓外に夕陽が傾いているのが見えた。
 マヤ長期暦の区切りの日の夕焼けである。
 バスが大きくカーブを切って、もう使われていない飛行場を迂回するように走っていたので、何とか夕日が見られる角度になり、「これが最後の夕日ということではない」と判ってはいるけれど、でもやっぱり必死になって狙った。
 先生も日が沈んでから「今のがマヤ暦今期最後の夕日でした。」とおっしゃっていた。


 日が沈んでからかなり強いスコールに見舞われたりしつつ、バスは1時間半走り続けて、19時頃、フローレス島に到着した。
 当初、「バスはフローレス島に入れず、荷物はミニバンに運んでもらって我々は橋を歩いて渡ってフローレス島に入ります。」と言われていたけれど、ルールが変わったのか、特別サービスなのか、フローレス島までバスで乗り入れることができた。
 歩く距離が短くなるのは有り難い。
 ホテルの前までバスで入ることはできないので、広場のような場所で下車する。
 今夜の宿は、ホテル・ペテンである。ペテン師のペテンではなく、ペテン県にちなんだか、フローレス島が浮かぶペテンイツァ湖にちなんだか、どちらかだろう。


ホテルのお部屋 ホテルはコロニアルな感じの建物で、部屋ごとにタイプが違うらしい。鍵でくじ引きになった。
 何でもいいだろうと思って最後に残った鍵をもらったら、男性お二方でしかしお二人とも一人参加というコンビが、「これじゃ、隣の部屋じゃない」とおっしゃる。大人同士なんだし、こんなに小さいホテルなのだし、隣じゃなくてもいいのでは・・・、と思わなくもなかったけれど、何だか視線を感じてお部屋の交換に応じた。
 そうしたら、何と、交換後のお部屋は内側の窓のないお部屋で、ちょっとショックだった。
 正確に言うと、窓はあるけれど、その窓は廊下に向いているので開ける訳にいかない。恐らくは今後の参考のためだろう、添乗員さんがわざわざ見に来たくらいだ。


 夕食のステーキ本日の夕食は、ホテルのレストランである。20時前には食べ始めることができて有り難い。
 メニューは、野菜スープ、自家製ソースがけ牛ステーキ、ケーキ、コーヒーだ。
 マヤ暦の大晦日だからか、フローレス島全体がお祭り騒ぎをしているし、湖の対岸で花火が上がっているのが見える。やはり「お祭り」なんだなぁと思う。
 galoというグアテマラのビール(5ドル)をいただきつつ食事をしていたら、突然、ブツンという感じで電気が消えた。停電らしい。
 ホテルスタッフの方々は、何ら動じることなくテキパキと立ち働いている。


 少しして、とりあえずレストランの照明は復活した。自家発電のようだ。どうやら、ホテルだけでなく、この一角は軒並み停電している様子である。
 夕食後も半分かそれ以上のお部屋で電気が点かなかったようだ。
 それなら早く戻っても仕方がないとホテルの玄関を出てみたけれど、島全体がわさわさしていて、観光客が気軽にふらふらできる雰囲気でもない。ツアーの方とホテルの看板の前で記念撮影をして、それで満足した。


 ホテルの中に戻ると、添乗員さんたちは、懐中電灯を持ってきたり、ろうそくを配ったり、てんやわんやである。
 怪我の功名というべきか、私のお部屋は何故か電気が点き、テレビも見られたし、コンセントも通電している。ただし、若干の不安を抱きつつ変圧器をつないでカメラの電池の充電を試みたところ、割とすぐ、変圧器の安全装置が作動して電気が切れていたから、かなり電圧が不安定だったようだ。
 多分、今貯まっているお湯がなくなったらシャワーを浴びることもできないだろうと、まずは手早くシャワーを浴びた。ぬるま湯よりもぬるいという感じの温度だけれど、風邪はひかずに済みそうである。


 テレビをつけると、ティカル遺跡からの生中継なのか、暗い中、火を焚いて儀式が行われているらしい映像を見ることができた。恐らくは、マヤ暦の新年を迎えるための儀式だろう。
 しかし、画面全体が暗い上、ナレーションは何語なのかも判らない。
 ずっと見ている集中力もないし、翌日も朝食が5時、ホテル出発は5時50分というハードスケジュールである。体力温存が大切と自分に言い聞かせ、22時半に就寝した。


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2014.05.18

中米3ヶ国旅行記6日目その2

2012年12月20日(木曜日)


大広場 キリグアという国が重要な地位を占めていたことを否定するつもりはもちろん毛頭ない。コパン王朝のヤシュ・クック・モにより426年に作られ、コパンの衛星都市として栄えていたが、738年にコパン13代王である18ウサギ王を捕虜としたことで一気に形勢逆転し、その後、コパンの衰退とは逆に独立して繁栄を築いて行く。
 キリグア遺跡は、建物ではなく、砂岩で作られて見事な彫刻が残っているステラと獣形祭壇がその白眉だ。


 ステラと獣形祭壇は、マヤ最大の大広場(縦325m、横100m)に点在している。そして、18ウサギ王はこの場所で生け贄にされたと考えられるという。先生曰く「歴史的な場所にいることになります。」ということだ。
 もっとも、私たちが行ったときには、この広場の真ん中にイベント用らしい舞台が組まれていて、少々つや消しではあった。


 大広場で殺されてしまったコパンの18ウサギ王のお墓がどこにあるのか、今も判っていない。
 1970年代にキリグア遺跡の調査が行われたけれど、ダイジェスト版のような調査報告書しか世に出ておらず、指揮を執った考古学者も鬼籍に入ってしまい、もう詳細を知ることはできないだろうという。
 キリグア遺跡はアクロポリスも含めて土の中に埋まっている部分が多い。何しろ周りはアメリカ資本のバナナ・プランテーションなので、調査もままならないらしい。


石碑a 遺跡入口から一番近い場所にあるのが石碑Aだ。
 石碑Aは、725年に即位し、738年のコパンからの独立を経て、785年7月までキリグア王として君臨したカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王により建てられたもので、もちろんこの肖像は王自身だ。
 それまでコパンの衛星都市だったキリグアが独立し、「コパンの交易窓口」として素通りしていた黒曜石や翡翠、ケツァルの羽などの交易品をキリグアで管理・独占できるようになり、一気に裕福な国となって、ステラもコパンのものを超える高さを目指してばんばん建てたらしい。


 現在はキリグア遺跡とモタグア川とは大分離れているけれど、当時は川は本当にキリグア遺跡のすぐ側を流れていて、近くには船着き場もあったという。そうでなければ、交易窓口にわざわざ選ばれる筈もない。
 その場での言及はなかったけれど、先生の著作で、コパンの18ウサギ王とカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王は親族、それも親子だったのではないか、だからカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王はコパンを徹底して模倣した都市をキリグアに出現させたのではないか、という仮説が提示されていた。


石碑c最初の日付 石碑Cもやはりカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、石碑Aと対になっている。
 石碑Cを有名にしているのは、石碑に彫られた王の肖像ではなく、側面に刻まれた日付だ。
 マヤの世界創造の日である紀元前3114年8月13日に当たる日の日付が刻まれている。この日付を元に、「明日がマヤ暦が終わる日」だと計算されているこのツアーにとっても重要この上ない日付だ。


石碑d石碑d 石碑A、石碑Cと並んでいるのが石碑Dである。石碑Dには、王の象徴である儀仗を持った姿で彫られている。
 そして、何ともいえないアルカイックスマイルだ。阿修羅像を思わせるというのは言いすぎだろうか。
 また、石碑Dの側面に彫られているマヤ文字は、いわゆる「全身像文字」である。普通のマヤ文字だって複雑なのに、ここまで来ると複雑怪奇だ。そして、この細かな彫刻が今も綺麗に残っていることが素晴らしい。
 しかし、先生は、キリグアのこれらのステラも、前に見たときよりも傷んでいるような気がするとおっしゃる。


獣形祭壇b コパンではステラと祭壇はセットになっていたけれど、キリグアではどちらかというと同じ比重、同じ種類のものとして扱われているような感じがする。
 獣形祭壇Bは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が最後に建てたものだ。まだまだ権力は十分に握っていますよ、衰えていませんよ、という印象である。
 赤い色が残っていて、当時は全体が真っ赤に塗られていたのではないかと言われている。


石碑e石碑eの膝 広場の中央近くにある石碑Eは、マヤでもっとも高いステラである。地上部分が8m、地下に3m分埋まっているという。それくらい地中深くに埋めないと倒れちゃうんだろう。
 また、石碑Eの膝のあたりに、人の顔を象った飾りが彫られている。これは恐らくは翡翠で、パレンケ王家の女性がコパンに来たときにこうした飾りを持ち込んだものだという。


 石碑Eは、雷が落ちて割れたことがある。これだけ何にもない広場に8mの棒が立っていれば、それは雷も落ちそうではある。
 真ん中より少し上の右側から左下にかけて斜めに割れてしまい、今はセメントで固めてある。
 ティカルでも最近、神殿に雷が落ちて修復が必要になっていて、雷が落ちるというのはよくあることだそうだ。「金属じゃないのに、周りにもっと高い木があるのに」と思うけれど、平らなところに立っているというのと、修復の際に内部に金属を入れた例もあるそうだ。


石碑f 石碑Fは、石碑Eが建てられるまではマヤで一番高いステラの地位を保っていた。
 今は、かなり傾いてしまっている。
 また、石碑Fには綺麗にマヤ文字の碑文が残っている。そう説明されてどうして写真を撮っていないのか、我ながら不思議である。


獣形祭壇g 獣形祭壇Gは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王ではなく、その後を継いだ王によって建てられたものだ。
 亀と鰐と蛙が合体したような形になっている。
 左側の面では、大きく開けられた口から人の顔が覗いている。ちょっと、ラ・ベンダ遺跡公園っぽい。ということは、オルメカ文明っぽいということだろうか。
 自然界にいる動物を組み合わせて、超自然的なもの、自然界に存在しないものを作っている。


 


 「そもそも何ために?」と質問したら、大本はコパン遺跡のようにステラとセットになっていて、例えば台座を据えてそこに座ったり、捧げ物を置いたりといった用途だったらしい。
 両側に人の顔が彫られているので「正面はどちらでしょう?」と質問したら、正面はなくて両面だという答えだ。片方は生の世界、片方は死の世界を向いているという。
 「でも、捧げ物をするのであれば、正面があるのでは?」と食い下がったけれど、この場合はやはり特に決められないみたいだった。


 キリグア遺跡はあまり発掘調査が進んでいないので、どなたかが「元々のレベルはどこだったんですか?」と要するに地面の高さはどこ? と質問されていたけれど、実はそれもよく判らないようだった。
 大広場が今ここにこうやってあるんだから、今私たちが歩いている高さが昔もやっぱり地面の高さだったのでは? と思ったら、そういうものでもないらしい。
 グアテマラ国境から我々の警護についてくれていた観光警察の方々が、広場に散開して見張り役に徹していることに、この頃やっと気がついた。


石碑j 広場の反対側に行くと、ステラもずんぐりむっくりになり、ステラの台座のようなものもなくなって地面から直接生えているような感じになる。
 広場というのは公共の場所で、誰でも入れるようになっている。なので、コパンの王を斬首したと書いた看板を広場に立てているようなものなんだろう。
 このステラだけ向きが違っているのは、この石碑Jが当時のキリグアの正面であった川の方を向いて建てられているからだという。


 


斧 碑文の読み方も説明してもらったけれど、私の頭には全く入って来なかった。申し訳ない。
 この石碑Jもカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、碑文には、20年近く前にコパンの18ウサギ王を斬首して、自分が王権の象徴たる儀仗を握ったことが刻まれている。どうせなら、もっと立派なステラに刻めばいいのに勿体ないと思う。
 この文字が斧の絵になっていて、「斬首した」という意味を表すと説明して貰ったことだけは覚えている。


 それ以前に作られた、祭壇Mや祭壇Nなどは、まだキリグアがコパンの従属下にあった時代に作られたもので、コパンに遠慮しているのか、サイズも小さいし、彫刻もそれほど凝っていない。
 この辺り、判りやすいくらいだ。
 この祭壇Mと祭壇Nの東側が、まだ発掘されていないけれど、球技場があった場所で、若干、盛り上がっているのが判る、ような気がする。


獣形祭壇o さらに奥に行くと、アクロポリスに登る階段の手前に、獣形祭壇と獣形祭壇を平たくしたような石のセットが並んでいる。獣形祭壇Oと獣形祭壇Pである。両方ともカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王の息子が作ったものだ。
 この低い方の石は、大きい方の石が見つかってからも相当長い時間、見つからなかったそうだ。
 獣形祭壇Oの方は、かなり崩れてしまっていて保存状態が悪い。どうして隣同士の獣形祭壇Pとでこんなに違いが出てしまうのか、よく判らない。獣形祭壇Pは、本当に美しい彫刻が残っている。


獣形祭壇P マイフォトに載せた写真は、アクロポリスを背負っている側の彫刻で、こちらはアクロポリスに向き合った側の彫刻である。
 とにかく精緻で、彫りも細かく、図柄もかなり複雑である。マヤ文字も刻まれており、その並べ方も蛇の身体に沿って並んでいたりとこちらも複雑である。それが原因なのかどうか、獣形祭壇OとPに刻まれたマヤ文字はほとんど解読されていない。
 そして、獣形祭壇Pの下には、何と、イグアナがいた。
 ツアーメンバーの方が「ご存知?」と指さして教えてくださった。この写真で黒っぽく写っているのがそれである。驚いた。


アクロポリス 12時過ぎ、キリグア遺跡のアクロポリスに突入である。
 この写真の右手前の建物や奥に見えている建物が、キリグアのアクロポリスの一部である。多分、まだ発掘されていない建造物がこの辺りにたくさん残されている筈だ。
 今地上に見えている建造物は、9世紀に建てられたものである。


モザイク アクロポリスの中に、一部、発掘中なのか8世紀に造られ使われていた部分を見ることができるところがあった。このモザイクもその一部だ。
 当時は、モタグア川が本当にこの近くを流れていたので、このモザイク飾りを川から見ることができたのではないかと言う。装飾であることはもちろん、経済力その他諸々の権力を誇示する、示威としての意味もあったということだろう。
 こういった飾りは、キリグアがコパンの衛星都市だったので、コパンのものに倣っているという。


ベンチの碑文 復元された建造物に入ると、ベンチの側面といえばいいのか、座面ではないところにマヤ文字が残されていた。
 738年にキリグアがコパンの18ウサギ王を捉えて斬首したことで、この2ヶ国の外交関係は恐らく途絶えていただろうと考えられる。しかし、このこのベンチの碑文(ここだけではなく、他の部屋のベンチに彫られた碑文も東から一連の内容になっている)に、コパン最後の王がキリグアを訪問し、ここで一緒に儀礼を行ったと書かれているという。
 ちょっと不思議な感じがする。逆にコパンがキリグアに従属するような形になったということなんだろうか。


キリグア遺跡にて アクロポリスの見学も終えて入口に引き返す途中、大広場の真ん中に白っぽい衣装を着たそれっぽい人々がセイバの木の根元に集まっているのが目に入った。これは見たいでしょうと、皆して近寄って行く。
 印象として「これは儀式か、イベントか」と聞かれたら「イベントだと思う」と答えると思う。実際のところはよく判らない。
 白い衣装を着て、この女性のような頭飾りをつけた人達が楽器を持って集まっており、香が焚かれ、リーダーの声に合わせて皆が何かを唱和している。


イベントか儀式か 遺跡のスタッフがとがめ立てしていないから、きちんと届けのようなものが出されていたと思うけれど、しばらく見ていても何が行われていたのかよく判らなかった。
 バスに戻ってからガイドさんが話してくれたところによると、先ほどの儀式というかイベントを行っていたのは、マヤの人々ではなく、世界22ヶ国から集まった人々だそうだ。それはそれで凄いような気もする。どうやって知り合い、どうやって集まったのだろう。
 我々がマヤ暦の切り替わりの日にその場にいたいと思ったのと同じように、その場にいたいと思った人がいても不思議はない。
 13時前にキリグア遺跡の見学を終え、ティカルに向けて出発した。
 まずは昼食である。


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