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2013.02.04

ウズベキスタン旅行記4日目その1

2011年9月20日(火曜日)

朝食 朝3時半くらいに目が覚めてしまった。何となくお腹の調子が良くない。昨夜冷えたせいかも知れない。
 6時半くらいには落ち着いた。普通にお腹も空いてきた。我ながら頑丈な胃腸である。
 7時半に朝食である。一応、控えめにした。朝食の席でお話ししたところ、みなさん、多かれ少なかれ不調があるらしい。何となく逆に安心する。

食堂中庭の縁台

 今日は午前中に観光し、午後、ブハラに向かう。このツアー中、唯一連泊したこのホテルともお別れである。
 お散歩兼観光に気軽に出かけにくい立地が難点だけれど、雰囲気のいいホテルで、居心地が良かった。
 中庭の縁台も、ずっとお昼寝をしていたい感じの気持ちのよい場所だった。

 朝食後、キャリーケースに荷物を詰めたら、大きなスザニと自分で模様を付けたナンを詰めても意外と余裕があった。重さは判らないけれど、容積としてはまだ大丈夫そうだ。
 9時頃、観光に出発した。
 昨日の午後は何チームかに分かれて行動したので、バスの中はその報告大会になる。
 レギスタン広場に行ったチームは、スーパーに寄ってもの凄い色をしたアイスクリームを食べたり、ホテルまでのタクシーで適正価格を目指して値段交渉をしたり、なかなかアクティブに楽しんだようだ。

 バスはサマルカンドの新市街を通って進む。新市街の公園なのにあっさり「19世紀に造られました。」という説明が入るところが凄い。プラタナスの並木もあって、なかなか涼しげである。比較的雲が多いためかも知れない。
 私たちが泊まったホテルの系列ホテルであるマリカ・プライムホテルを過ぎ、本日最初の観光場所であるグリ・アミール廟に到着した。

グリ・アミール廟 グリ・アミール廟は1404年に完成した、ティムールらが眠るお墓である。
 この中に、ティムールだけでなく、その子供達、孫達が埋葬されている。
 霊廟には、建物、中庭がある。左側のメドレセと、右側のハナカ(巡礼者のための宿)は、地震で崩れてしまって今はない。
 また、中庭は高さ10mの壁で囲まれ、ミナレットのような塔もあったらしい。今は開けた感じになっている。

 霊廟は高さが32mあり、ドームの高さは12m、直径が25mだ。相当に大きい。
 ミナレットは、遠目に幾何学的な模様で飾られているように見える。実は、アラビア語でコーランの詩が書かれ、装飾にもなっている。

 ティムールは、1402年にトルコを征服したものの、一番好きだった(とガイドさんは説明してくれたけれど、期待していた、というニュアンスだと思う)孫をその戦いで亡くし、このグリ・アムール廟を彼のために建設するよう命じている。
 ティムール本人は、シャフリサブスに埋葬されることを望んでいた。しかし、1405年に中国との戦いで亡くなった際、遺体はサマルカンドまで帰って来たものの、雪のためシャフリサブスに運ぶことができず、孫のために建設したグリ・アミール廟に一緒に埋葬されることになった。

表玄関 グリ・アミール廟の表玄関はモザイクで覆われている。
 モザイクには、15世紀の建造当時のものも60%くらい残っている。しかも、色の濃い、より美しいタイルが古いものだというから驚く。20世紀の始めに釉薬の技術が失われてしまい、今も取り戻すことができていない。何と勿体ない、惜しいことだろう。
 さらに、霊廟はたった10日間で造られたと説明され、口々に「この姿に?」「タイルの飾りも?」と質問が重なる。何人がかりで造ったのか尋ねると、1500人くらいと書かれている歴史書もあるという回答だった。本当だろうか。

中庭のタンク 中庭にはティムールが手足を清めるのに使っていたという水のタンクがある。
 戦の前にはこのタンクにざくろのジュースを絞り、戦の前後に兵士に配ることで戦死者の数を知り、戦死者を思い出すよすがとしていたという。ジュースがないときには小石を代わりに使ったと聞いて、「数」の問題だけなら小石の方が確実なんじゃないかと思った私は情緒に欠ける。
 いずれにしろ、戦意を鼓舞するための儀式だ。

霊廟内部 外から見た霊廟は、タイルの飾りが美しいものの、決して「絢爛豪華」という感じではない。
 しかし、一歩中に入れば金をふんだんに使った装飾が施されている。
 多分、この内部に入るところでカメラ代3000スムを払ったと思う。

 アーチやドームのおかげで内部はより広く感じられるようになっている。装飾は全て金箔が使われ、1930年代に色を入れ、金箔をさらに上から施したけれど、一部は当時のまま残してある。
 この左の写真の中央部に見える、凸型に金箔が光っていない部分がオリジナルの部分だ。
 修復には4kgの金箔が使われたらしい。

 アーチやドームには植物紋様が施され、下の方の壁にも幾何学的模様に見える文字でコーランの詩が書かれている。
 ガイドさんに「読む人が読めば読める?」と聞いたところ、昔の特殊な字体なので現在アラビア語ができる人でも読むことは難しいだろうという返事だった。

墓石 私の目には棺のように見えたこれらは墓石で、1427年に造られた大理石の塀で囲われている。それを命じたのはティムールだと説明されたけれど、年代が合わないような気もする。
 墓石は翡翠で造られている。当時、翡翠は相当に高いものだったらしい。
 真ん中にあるのがティムールの墓石である。

 お墓は地上と地下の2層になっていて、今見ているのが地上の層、地下の層では同じ配置で遺体が並んでいるという。過去にはお墓を開けて、顔の修復が行われたこともある。
 ティムールの父親や祖父はウズベク人だけれど、長くシャフリサブスで暮らしていたティムールは、タジク人のような顔をしていたという。

 ティムールの墓石には「この墓を開けたら流血の事態になる」と書いてある。実際、墓を開けようとした歴史家に、僧侶が忠告したこともあったらしい。
 結局、ティムールのお墓は、1941年6月21日午前4時に開けられた。そして、まさにその時期にドイツとロシアは戦争を始めたとガイドさんは言う。
 ティムールの遺体は1942年までロシアで研究され、発掘の様子を撮影したカメラマンはこの呪いの話をスターリンに伝えたというから、話の展開がデカイ。スターリンは、その後、ティムールの遺体を埋葬し直し、そのための費用として100万ルーブルを出したという。

霊廟内部 支配者は聖人のお墓の近くに霊廟を造ろうとするものだそうだ。ティムールも例外ではない。
 聖人オマール(と聞こえたけれど、発音が違っているかも知れない)という陶器師の庇護者である牧師のお墓がここにある。
 聖人のお墓の近くには柱が立てられ、馬の尻尾がその先端に付けられている。これは今も続いている習慣である。

1404年のドア 霊廟入口のドアは1404年の建造当時のものが残っている。
 木で造られ、そこにさらに金と陶器が象嵌されている。
 霊廟の中には、ティムールの宝も集められている。シャンデリア(重さ240kg!)もあると教えてもらったけれど、何故か他にどんなお宝が集められていたのかという点については話が続かなかった。

正面のアーチから 1時間弱で、グリ・アミール廟の見学を終了し、写真撮影タイムとなった。やはり、フォトジェニックである。
 写真を撮りまくっていると、旅行で来ていたらしいウズベキスタンの一家と一緒に写真を撮ってもらうことになった。
 ウズベキスタンの方々は、みな、人なつっこいし、写真にも快く応じてくれる。嬉しい。

 再びマイクロバスに乗り込むと、来るときは全く作動しなかった自動ドアが復活していた。ドライバーさんが直してくれたらしい。
 自動ドアに感動しているうちに割とすぐ、レギスタン広場に到着した。
 ガイドさんの説明を拝聴する。

 レギスタン広場はサマルカンドの中心である。
 15世紀に建造されたウルグベク・メドレセ、17世紀に建造されたティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセという三つのメドレセに囲まれたサマルカンドの象徴のような広場だ。
 レギスタンとは「砂の場所」という意味だ。川の流れがなくなって砂だけが残ったことから、そう呼ばれるようになったらしい。
 サマルカンドは13世紀初めにモンゴル軍に破壊され、元の街の西の場所で建て直された。その中心がレギスタン広場である。
 中央アジアの人々は、サマルカンドの再建後、街の中心の広場のことを「レギスタン広場」と呼ぶようになったという。

 サマルカンドが14世紀半ばにティムール帝国の首都となった当時は、レギスタン広場は街の六つの目抜き通りが集まる市場だった。
 ティムールはこの場所で閲兵も行ったし、敵軍の兵士の首を槍の先につけて掲げたり、罪人の処刑を行ったりもしていた。
 随分と血なまぐさい広場である。

ウルグベク・メドレセ この場所に最初に建設されたメドレセは、ウルグベクの命により建てられたウルグベク・メドレセである。中央アジアの古典的な様式に従い、左側にモスク、右側に講堂が置かれている。
 ウルグベク・メドレセだけでなく、全てのメドレセには中庭があり、その周りに2階建ての学生寮が造られている。
 ウルグベク・メドレセは51m×81mの広さがある。
 ミナレットは、昔は55mの高さがあったけれど、地震等の被害で今は低くなってしまった。20世紀初めの2回の地震でドームも落ちてしまい、現在、そのドームは下の部分だけが修復されている。建造当時の姿は失われたままだ。
 メドレセの正面にはファサードが造られ、モザイクで飾られている。アーチの上に星模様が見られるのは、ウルグベクが優秀な天文学者だったからだ。

 当時の建物は、通常、表玄関だけが飾られていたが、ウルグベク・メドレセは、正面だけでなく全ての面が、釉薬がかけられたタイルで飾られている。タイルにはコーランが書かれている。
 1918年にミナレットがどんどん傾いていることが明らかになったとき、ミナレットを囲むようにあった古本屋さん達は、倒壊を防ごうと寄付をしたという。そのお金を元に、当初は木造のコルセットで応急処置され、次に、中央に木造のアンカーが造られ、24本のワイヤーでアンカーにくくりつけるようにして修復が行われた。
 さらに傾いても大丈夫なように、多少、傾く方向とは逆の方向に引っ張ってあるため、修復後の今も傾いて見える。
 1931年から始まった工事は、重機でミナレット自体を持ち上げて行われた。このような工事を行った例は、今に至るも世界中のどこにもない。

 ウルグベクの時代には、ウルグベク・メドレセには聖人のお墓があったため、その周りにハナカがあった。
 ウルグベク・メドレセに埋葬されていた聖人は、ハジスという、イスラム教でコーランに次いで重要とされているものを集めた人だ。
 時代が下ると、ハナカはキャラバン・サライとして使用されていたという。

 イスラムでは左右対称の建物はよくないとされているため、ウルグベク・メドレセと向かい合っているシェルドル・メドレセとは似ているけれど、同じではない。例えば、ウルグベク・メドレセには各面に玄関があるけれど、シェルドル・メドレセにはない。
 また、模様も左右対称ではない。
 しかし、サイズはほとんど同じだ。

シェルドル・メドレセ シェルドル・メドレセは、ウルグベク・メドレセが造られてから200年後、ハナカのあった場所に建てられた。シェルドルとは「ライオンの」という意味だ。
 イスラムでは生き物を描くことは禁止されているけれど、想像の生き物を描くことは許されているらしい。シェルドル・メドレセに描かれているものは、ライオンでも虎でもない、この世に存在していないものだ。
 ライオンや虎は支配者を表し、その後ろから太陽が出ている図案はやはり支配の意味があるらしい。
 こちらのメドレセもコーランの詩で飾られている点は同じである。

 広場の正面に当たる位置にあるティラカリ・メドレセも、シェルドル・メドレセと同時期に同じ支配者の命によって建設された。ティラカリとは「金」という意味である。
 このメドレセは、17世紀に崩れてしまったビビハニム・モスクの代わりのモスクとしても機能していた。
 ドームの下にモスクがあり、その内装にはふんだんに金が使われている。モスクがそんなにも金ピカでいいのかと思う。

はりぼてのおじさん 「今はウルグベク・メドレセの各部屋にはお土産物屋さんが入っているのでお買い物ができます。」という台詞で説明が終わったのが可笑しい。
 まず、ウルグベク・メドレセに向かった。
 希望者は、ミナレットに上り、残った私たちはお土産物屋さんを覗いて歩いたり、写真撮影タイムにしたり、のんびりしていた。

ティラカリメドレセ

シェルドルメドレセウルグベクメドレセ

 それぞれのアーチ上の意匠をアップで撮ろうとうろうろしていたら、3人くらいのおまわりさんから「ミナレット?」と聞かれた。サマルカンドの見晴らしがとてもいいのだと(英語で)誘ってくる。
 いいお小遣い稼ぎになっているのだろう。
 日本語で「もう上った。」と答えた。多分、ちゃんと通じていた、と思う。

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