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2013.03.01

ウズベキスタン旅行記4日目その3

2011年9月20日(火曜日)

 14時過ぎ、一路ブハラに向けて出発した。
 ガイドさんに聞くと(聞かないと教えてくれないというところにツアーメンバーの不満がある)、ブハラまでは280km、途中、キャラバン・サライに立ち寄り、またギジュドバンという街で陶器工場を見学すると言う。次の休憩までは1時間半から2時間くらいだと言いつつ、今ひとつはっきりしない感じだ。
 移動時間はウズベキスタンの歴史講座の時間である。ガイドさんが、16世紀以降のウズベキスタンの歴史について語り始めた。

 ウルグベクは息子に殺され、ティムールの玄孫の世代で1449年から1501年まで続いた権力争いが始まる。1490年代、カザフスタンと黒海の間に住んでいたウズベク民族を組織したシャイバーニーは中央アジアに侵攻する。
 そして1501年に中央アジアを征服し、シャイバーニー朝を成立させた。首都はサマルカンドである。

 1511年、シャイバーニー・ハンは戦死し、また権力争いが始まる。結局、二つに分裂し、16世紀初め、中央アジア西部にホレズム国家が独立する。
 16世紀始めから船を用いたヨーロッパとの交易が始まってシルクロードが衰退する。中央アジアの国々の経済状態が悪化し、17世紀の始めにはシルクロードが消滅してしまう。
 この頃、中央アジアは三つの国があった。シャイバーニー朝の首都をブハラに移してブハラ・ハン国となり、コーカンドからヒヴァに首都を移したホレズム国家はヒヴァ・ハン国となり、ブハラ・ハン国が分裂してさらにコーカンド・ハン国が建てられた。
 この3ヶ国は常に争っており、19世紀の始めまで経済状態は悪いままだった。

 帝政ロシアによる中央アジアの征服は、1718年の遠征に始まる。
 1686年にヒヴァ・ハン国はブハラ・ハン国に征服され、隷属する。ヒヴァ・ハン国の支配者はロシアに保護を求め、ロシアの領土となる。その支配を確実なものにするため、1717年にロシアはヒヴァ・ハン国に攻め入る。

 1730年代、現在のカザフスタンにあった三つの国は、中央アジアの三つのハン国に圧迫されてロシアに近づき、結果としてロシア領となった。
 しかし、ヒヴァ・ハン国はカザフスタンがロシア領となることを了とせず、1830年代になってロシアは自らに敵対するハン国の周りに要塞を築いた。この要塞は今もカザフスタン領内に残っている。

 1830年代のロシアは経済成長が著しく、中央アジアの資源を狙うようになる。
 南北戦争が終わって米国はロシアに綿花を輸出しなくなり、インドを支配していたイギリスが発展するのを見て、ロシアは中央アジアを征服した。ヒヴァ・ハン国だけは自ら従属することを選んだけれど、ブハラ・ハン国とコーカンド・ハン国は征服され、その領土はかなり小さいものとなった。
 この征服が激しいものにならなかったのは、中央アジアの側が著しく武器で劣っていたためだ。

 1917年にロシア革命が起き、1924年にソ連が起こる。ウズベキスタンにはウズベキスタン社会主義共和国が置かれ、当初、その首都はサマルカンドだったが、1930年にタシケントが首都となる。
 1991年9月1日にウズベキスタンが独立した。引き続き首都はタシケントである。

 「スタン」は「国」という意味で、ウズベキスタンはウズベク人の国、という意味だ。さらに、ウズは「私」、ベクは「支配者」という意味である。
 ちなみに、「キルギス」というのは40人の女性という意味だという。それがどうして国の名前となったのか、きっと何か言われがあるのだろうと思うけれど、よく判らなかった。

綿花摘みの少女たち バスを1時間くらい走らせると、綿花畑でたくさんの少女達が綿花摘みをしているところに行き会った。何だかよく判らないままバスが駐まり、みんなで綿花畑に降りる。
 とにかくこの綿花摘みの少女が美人さんで、みんなのカメラが集中する。本当にウズベキスタンには美人が多い。
 20分くらいお邪魔させていただき、にぎやかな彼女たちに混じってひとつふたつと綿花を摘んでみる。
 雨がポツポツと降り出したのをしおにまたバスに戻った。
 でも、旅行社がこれを指して「綿花摘み体験もできる!」とパンフレットに謳うのはどうかと思う。

 サマルカンドの街を出てからはずっと一本道を走った。
 綿花摘みから30分くらい走った頃に久々の三叉路を見て騒いでいたらバスが停まった。ガソリンスタンドでお手洗い休憩である。トイレが一つしかない。これが数十人のツアーなら大問題だ。9人のツアーで良かった。
 それでも待っている間ヒマだったし、ずっと車に揺られていたので身体を動かすべく、ヨガのインストラクターをやっているツアーメンバーの女性を講師にヨガ教室が開かれた。数人が輪になって片足立ちし、両手を上に上げて手のひらを合わせ、バランスを取ったりしている姿はかなり妙だったらしい。
 ちょうど給油しに来ていた人達の注目を浴びて笑われたり、写真に撮られたりした。

 ツアーも中盤で、何となく体調を崩したりお腹の調子がおかしかったりする人が出てきていたし、昼食のプロフがちょっと油っぽかったこともあって、みんな食べるのをセーブしていたようだ。
 その代わり、バスの中ではおやつの交換が行われ、サマルカンドのスーパーで買ったというクッキーなどもご馳走になった。スナック菓子などもいただいた。思っていたよりもしょっぱすぎずに美味しい。
 トイレが結構重要な問題になりつつあったので次の休憩までの時間をガイドさんに口々に聞いても、どうもはっきりした答えが返ってこない。答えてくれても、「本当〜?」とみんなから懐疑的な声が出るとすぐ答えが変わる。

隊商宿入口 17時過ぎ、ガイドさんに「どうしますか、キャラバンサライ(隊商宿)を見ますか?」と聞かれた。
 ぜひ見て欲しいのか先を急ぎたいのか、よく判らない質問である。しかし、こう質問されたら「見る」と答えるのが今回のツアーメンバーだ。バスを降りる。
 すでに傾いた陽に照らされた門が赤く染まっていて美しい。

往時の石畳隊商宿跡

 この隊商宿は、その昔通っていたシルクロード沿いに造られたものだという。
 当時は、30kmおきにこうした隊商宿と貯水池が用意されていた。隊商宿は2階建てで、普通の人用と偉い人用(という言い方もどうかと思うけれど)に分けられていたという。
 入口を入ってすぐのところにあった石畳のうち、ゴツゴツした箇所は17世紀当時のものだ。出発してすぐのガイドさんに説明からすると、シルクロードが最後に活躍していた時台の石畳ということになる。

貯水池外観 道路を渡った反対側に貯水池があった。
 こちらも夕陽を浴びて赤く染まっている。
 貯水池の水は湧き水で、春に満杯になりあとは減る一方だったらしい。夏の間の蒸発を避けるために屋根が付けられている。
 もう9月で夕方だけれど、さもありなんという日射しである。

貯水池内部 中に入ってみると、ちょっと飲める感じはしないものの、水が満々とたたえられていた。
 もしかしたら、今も農業用水として使われているのかも知れない。

ウズベキスタンの桜 18時30分くらいにギジュドバンの陶器工房に到着した。流石に辺りは薄暗くなってきている。
 ギジュドバンの陶器工房はスザニ工房も併設していて、こちらで作られたスザニが中山恭子氏の著書ウズベキスタンの桜の表紙にも使われ、現在は資料室に展示されている。
 自然素材の染料を使って染められた糸のみで刺繍されたスザニは、柔らかい印象である。

 この工房は200年くらい陶器を作っており、ご主人はレギスタン広場の修復にも参加したことがあるらしい。ヒラリーも来たし、チャールズ皇太子も来たんだと言う。
 ギジュドバンの陶器は、釉薬が流れるようになっているのが特徴だ。

釉薬をかける前のお皿挽き臼?

 ろくろのある工房や窯などを見せてもらう。もうすでに火が落とされてしまっていたのが残念だ。
 明かりがないから、恐らく、そもそも日が落ちた後で作業することは考えていないのだろう。暗い中、フラッシュを使わずに写真を撮ろうとしたけれど、あまり上手く撮れなかった。
 手ぶれをなくそうと壁に腕をついてカメラを支えていたら、袖口に真っ黒く煤のようなものが付いてしまった。我ながらマヌケである。水洗いしたら簡単に落ちたので助かった。

 一通りの見学を終えたらお買い物タイムである。こちらは観光客慣れしているらしく、同じくらいの大きさのお皿や鉢が集められて「*ドル」という札が置かれているのが判りやすい。
 自然染料のみというスザニも気になったし、お皿も欲しいと思っていたけれど、如何せん、長距離バス移動の疲れが激しい。そして、欲しいと思っていた20cmくらいのお皿が少なかったこともあって、私にしては珍しくお買い物をしなかった。
 後になって、自分用にごはん茶碗になりそうな鉢をひとつ買えば良かったと思った。それは次の機会に取っておくことにしよう。
 みなさんは、結構お買い物をされていたようだ。

野菜スープシュークリーム

 ギジュドバンの陶器工房から45分くらいで、ブハラの街に到着した。
 まずは、RESTRANT BELLA ITALIAという名前のイタリアンのお店で夕食である。
 野菜を使った前菜の他に、ブルスケッタが出てくるところがイタリアっぽい。

 野菜スープはビーツが入っているのか赤く、さっぱりしていて美味しい。油に疲れ始めている胃にはこのさっぱりさ加減がとても優しく感じられる。
 メインディッシュは牛の細切りを炒めたものとフライドポテトだった。
 そして、デザートのスワン・シュークリームが供されると「おぉ!」という歓声が上がった。

ホテルのお部屋  宿には21時くらいに到着した。
 ブハラの宿は アムレットホテルという、メドレセを改装したホテルだ。
 今回のツアーで宿泊した中で、ナンバーワンを付けたいホテルである。
 メドレセを改装したといういわれもいいし、なおかつ、水回りが綺麗に改装されてシャワーのお湯もたっぷり出る。お部屋のファブリックもウズベキスタンのスザニと絹織物(窓のカーテンと椅子の座面はマルギランの織物である)で統一されている。部屋では靴を脱ぐという仕様も嬉しい。
 予めお部屋を暖めてくれている、その心遣いも有り難い。
 小さなホテルで、私たちだけの貸し切りだった。

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