ウズベキスタン旅行記5日目その1
2011年9月21日(水曜日)
長距離移動の疲れもあって、旅行に来て初めて5時半くらいまで熟睡した。このアムレットホテルはお部屋も暖かくベッドも快適で、1泊しかしないのが勿体ない。
6時くらいに起き出してホテルの写真を撮っていると、ホテルのお兄さんが英語で「この近くに小さなマーケットがあります。」と教えてくれた。
聞けば本当にホテルを出てすぐのところだったので、有り難く行ってみることにした。
確かに、こぢんまりしていて、近所の方々が売りに来て買いに来ているといった雰囲気だ。野菜や乳製品、玉子や果物にお肉などが売られている。
一人で入り込んでじろじろ覗き込んだり、カメラを向けたりしている私にも笑顔を向けてくれる。
お肉屋さんのおじさんもバッチリ、カメラ目線で写真に写ってくれた。
お店のお兄さんが、赤いバケツに入っている乳製品を食べさせてくれた。ヘラですくい取ると私の指に置いてくれる。お腹は大丈夫かな、乳製品なのは確かだけれどこれは一体何だろうと思いつつ、恐る恐る舐める私に、その辺りにいたおじさん達は揃って面白そうな視線を向けてくる。
舐めてみるとそれは濃厚なクリームとバターの間くらいの乳製品で、こってりしっかりしていて美味しかった。ジェスチャーで「美味しい。」とやったけれど、伝わっただろうか。
昨日は暗くなってから到着したのでホテルの外観はよく分からなかった。
ギリギリ月を入れて入口の写真を撮ってみる。
元神学校だったためか、外から見るとかっちり固められて閉ざされている感じがする。修業の場だからだろうか。
その分、中庭が取ってあって、寝台(昼寝台?)が置かれ、中に入ってしまうと逆に開かれた感じがする。
7時半くらいから三々五々集まって朝食をいただいた。
それほど広いスペースではないけれど居心地のいい空間だ。
ウズベキスタンといえばナン、ナンといえばサマルカンド、ウズベキスタンの人もサマルカンドのナンが一番美味しいと言ってお土産に買うほどだと何度も聞いたけれど、このアムレットホテルの朝食に出されたナンは、私の中で不動の1位を獲得している。
フランスパンぽい感じで、本当に美味しいナンだった。そういえば、さっきのマーケットではナンは売っていなかったから、各家庭で焼いているのかも知れない。
9時に中庭に集合し、ブハラ市内観光に出発した。最初の目的地まではちょっとバスに乗るけれど、あとは夕方までバスには戻らないという。
夜の飛行機でタシケントに戻るので、荷造りを終えたスーツケースもバスに積み込んだ。
本格的に体調を崩した方がいらして、今日はホテルで休息されるという。ご夫婦お二人をホテルに残し、7人とガイドさんで出発した。
ブハラの街は非常に古く、1520年くらいに成立している。ブハラには40以上の民族が住んでいるそうだ。
大陸気候で昼夜の温度差が激しく、一番寒い1月にはマイナス15度にまで下がることもあるし、雪が降ることもある。逆に7月には気温が48度にまで上がることがあるという。
ブハラでは、食料品工場や石油精製工場、織物工業や皮工房などが発達している。
言い伝えによると(という台詞をガイドさんがどういう意味で使っていたのか未だによく判らない)、ペルシャ王子とサマルカンドの王女が結婚し、ブハラの地に要塞を作って支配者となったそうだ。ブハラは中央アジアの中心に位置し、シルクロードも通っていて、紀元前5世紀から発展していた。そのころの名前はノミチケントで、今のブハラという名前はサンスクリット語で「お寺」という意味である。
9世紀にサマニ朝の首都になったのを始めとして、何度も中央アジアで興った王朝の首都になってきた。そして、ブハラの街は常にこの場所にあった。シャイバニー朝が16世紀に建設した街がブハラ旧市街となっていて、そこは20世紀までほとんど変わらずに維持されている。
最初に到着したのはチャシュマ・アイユブ廟だ。チャシュマ・アイユブとは、(旧約聖書に出てくる)ヨブの泉という意味である。
12世紀に泉が湧くようになってこの建物が作られ、14世紀にドームが造られ、さらに16世紀にその手前に建て増しされて今のような形になった。今でも井戸が建物の中にあって水が湧き出ている。
昔からこの井戸の水は眼病に効くと言われて巡礼者が多く、今も巡礼者が集まっている。
建物自体は、現在は、ブハラ州の博物館として使われている。
中に入ると井戸がまだ残っていて、覗き込むと水を湛えているのが判った。井戸につるべのようなものはついていない。どうやって汲み上げているのか蛇口がいくつか並んでいて井戸の水が出るようになっていて、手に受けると冷たい。
コップも置いてあって、ツアーの女の子が果敢にチャレンジしていた。お腹は大丈夫だったんだろうか。
ブハラには20世紀始めまで120以上の貯水池があったけれど、今はほとんど残っていない。
主に飲用水として使われていたものの、そのまま飲むことはできず、沸かして飲んでいたという。ますます、口にしていた彼女のお腹の具合が心配である。
チャシュマ・アイユブ廟の中には14世紀の聖人のお墓があった。
博物館になっているという説明を受けたじゃないかと思うけれど、確かに展示物もあって、でもお墓もある。
お墓の近くには柱が立てられ、そのてっぺんには馬の尻尾がつけられていて、手の形が打ち付けられている。これは聖人のお墓であることのしるしだ。この柱とメッカが何か関係があるという説明を受けた記憶があるけれど、詳しいことは忘れてしまった。
このチャシュマ・アイユブ廟からイスマイール・サーマーニ廟までは歩いてすぐだった。
間にお土産物屋さんが並ぶ一角があり、誘惑のタネがたくさんある。イスマイール・サーマーニ廟が見えてくるとその向こうには観覧車も見えた。そばには動物園もあるそうで、やっぱり誘惑のタネがたくさんある一角だ。
イスマイール・サーマーニ廟に近づくと、この建物も鳩の住処になっていることが判る。なかなかたくましい鳩たちだ。
イスマイール・サーマーニ廟は10世紀に造られた建物で、中央アジアで最古のイスラム建築である。
高さも幅も10mで立方体になっている。
壁の厚さは2mもあり、戸口の高さも2mだ。ぞろ目というか、揃っているのが好きな人だったんだろう。
煉瓦積みで飾られ、壁が全体に凹面になっていることで豪華に見せている。なかなか凝った建物である。
立方体の上にはドームが乗っている。
ここはイスマイール・サーマーニの霊廟で、彼のおかげで中央アジアは独立を果たせたそうだ。ガイドさんは「前にお話ししたとおり」と言ったけれど、そんな話を聞いていただろうか?
13世紀にやってきたモンゴル軍は中央アジアの各都市を破壊した。サーマーニ朝は人々に尊敬されていたため、ブハラ市民はモンゴル襲来の前にこの建物を土に埋めた。さらに周りが墓地だったことから、気付かれずにすみ、破壊されずに残ったという。
1925年に発掘されるまで土の中に700年埋まっていたので、保存状態はとてもよく、修復の手が入ったのはドームだけだ。
カメラ代700スムを払って中に入る。
窓の構造が工夫されていて、内部にはとても柔らかな光が差し込むようになっている。
日干し煉瓦ではなく焼いた煉瓦が使われており、そのため、保存性も高くなっている。今まで残ったのにはそういった理由もあったようだ。
イスマイール・サーマーニのお墓があり、遺体は地下に安置されている。
そうして観光している途中、出発時に成田空港でお会いした同じ日程で別コースを回っていた4人の方々と再会した。ここでだけ、一瞬、スケジュールが重なったようだ。
別コースに付いたガイドさんが「やはりブハラはシルクロードの街だから会いますね。」などと洒落たことを言う。
次に向かったのは、城壁と16世紀に造られたタリパチ城門である。
最初に作られたのは5世紀で、8世紀にやってきたアラブ軍に壊されたけれど、サーマーニ朝の時代にまた作り直され、13世紀にモンゴル軍が壊し、と何度も建設と破壊を繰り返されてきている。
その後、モンゴル軍は民衆による反乱を抑えるために城壁を作ることを禁止し、14世紀にティムールの時代になってまた城壁が作られ、最終的に16世紀に建て直されて20世紀の始めまで残ったという。
その間、ブハラという街の大きさは変わらなかったということになる。城壁の外周は25kmである。
この用水池も20世紀始めに作られたものだ。
城壁は日干し煉瓦、城門は焼いた煉瓦で作られている。
この辺りは、よく歴史映画の撮影現場に使われているそうだ。
丸太で補強されているとはいえ、割と簡単に破れそうな城門にびっくりする。口々に「私たちでも破れるよね、きっと。」、「それこそ映画撮影用なんじゃない?」などと言い合う。本当のところどうなのかは不明である。
上れる高いところを見ると上りたくなるのが人情で、みんなで代わる代わる上がって記念撮影大会になった。
来た道をゆっくり歩いて戻り、ガイドさんに「もう夜までバスまで戻りません。」と宣言されて荷物をちょっと整理し、アルク城の真向かいにあるバラハウズ・モスクに向かった。モスクに到着したのは10時30分くらいだ。
私がイメージするモスクとはだいぶ外観が異なるので、モスクだと言われたときには「え?」と聞き返してしまった。
「バラハウズ」とは「貯水池の近くに建設された」という意味だ。
このバラハウズ・モスクは1712年に、テラス部分とミナレットは1919年に建設されている。そして、このモスクは今でもモスクとして使われている。
テラスの天井は高さ12mの柱で支えられている。昔の中央アジアには高い木がほとんどなかったため、柱は2本の丸太を合わせて作られている。修復された柱は1本の木で作られているから、すぐに判る。
そして天井部分は蜂の巣構造で飾られている。この天井はこれまで修復されたことがないオリジナルだ。
恐らく、そもそも「木造建築」ということ自体、贅沢なことだったのだろう。
このモスクは支配者専用のモスクで、その昔は向かいのアルク城から絨毯を敷いて道を作り、このモスクまでお祈りに来ていたという。
モスクの中に入った。
うろ覚えの記憶では、確か靴を脱いで、絨毯の上に上がらせてもらったと思う。
イスラム教は偶像崇拝が禁じられているというイメージが強かったので、「意外と飾られている」というのが第一印象だった。
アーチのうちいくつかは修復されたことのないオリジナルだ。何故か複数のアーチのうち1箇所だけが緑色にライトアップされていた。その理由は不明である。
声も響いて、少しだけ厳粛な気持ちになった。
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