ウズベキスタン旅行記5日目その2
2011年9月21日(水曜日)
道路を渡ればそこはアルク城である。
アルク城も当時のまま残されている。
城門には2本の塔があり、その塔はバルコニーに繋がっている。1920年までは城門に時計があり、その横に軍刀とムチが掲げられ、支配者の権力の象徴であったそうだ。
アルク城の前の広場がブハラのレギスタン広場で、元は市場として利用されていた街の中心だ。
このアルク城を研究した考古学者によって、2400年くらいたっていると判ったそうだ。
入口のスロープは1905年まで木造で、その後、現在の煉瓦作りに作り直されている。
紀元前4世紀からあった要塞が建て直され、その後、8世紀にやってきたアラブ軍が要塞を破壊し、ゾロアスター教会の代わりにモスクを建設した。
8世紀から13世紀にかけて、この要塞は壊されたり直されたりを繰り返し、13世紀にモンゴル軍に破壊され、16世紀に再建された。そのまま、20世紀までここにあったが、20世紀初頭に80%が壊されてしまった。
「流石、要塞」という歴史だ。
20世紀初頭まで、アルク城は、支配者の住まい、モスク、ハレム、国庫、造幣局、各種の倉庫、馬小屋、迎賓館、王座の間、監獄などから成立していた。さらに、警備隊も常駐していた。
住まいがあっても支配者はここに住んでいた訳ではなく、馬で通っていたらしい。
入場料とカメラ代(2300住む)を支払い、スロープを上って、中に入る。
この坂は、筋肉痛がキテいた足には結構な急坂に感じられた。
中に入ってすぐのところに監獄跡があった。何故かここだけ人形までセッティングされている。
この監獄に繋がれた人に水は与えられず、この監獄の上に厩が作られていて、その糞尿が落ちてくるような仕組みになっていたそうだ。今も床が傾いて、水を集めて下に落とせるような穴が残っている。
女性陣から「うわぁ。」「嫌だ・・・。」と悲鳴とも溜息ともつかない声が上がった。
見学の最初からインパクトのある話を聞いてしまった。
要塞の中にはモスクもある。モスクには冬仕様の部分と夏仕様の部分があり、テラスはもちろん夏仕様だ。
さっき行ったモスクに支配者が通っていたと言わなかった? と思うけれど、ガイドさんは特にそこには触れずに説明を続ける。
このモスクは16世紀に建設され、テラスの天井部分は修復されたことのないオリジナルだ。
奥の方に作られているのか、もの凄く先っぽだけ、水色のドームと、そのてっぺんに付いている三日月のマークが見えた。
タシケントとサマルカンドとブハラは地震が多く、そのため、建物は耐震構造になっている。
土台は焼いた煉瓦で作られ、その上に丸太が置かれ、骨組みが作られている。楡の木の丸太で作られた骨組みの間を埋めるように焼いた煉瓦が重ねられる。
一部、壁の表面がなくのは、その耐震構造を見せるためなのかも知れない。だとすると、横に置かれた自転車はなかなかのご愛敬である。
そういえば、攻め込まれて破壊されたという話は何度も聞いた一方、地震で崩れたという説明は聞いた記憶がない。
城内のお土産物屋さんで往時の様子を描いた絵はがきなどを冷やかしながら進む。次に入ったのは王座の間だ。
王座の間はテラスに囲まれ、現在そのテラス部分はしっかりお土産物屋仕様になっている。ここで戴冠式なども行われていたらしい。
少し高くなったところに四阿風に大理石で作られた王座がある。これは作り物で、本物はロシアに征服された後ロシアに運ばれ、今はエルミタージュ美術館だ。
次の王をカーペットの上に座らせ、カーペットに乗せたまま王座に移動させたらしい。空飛ぶじゅうたんみたいだ。
入口を塞ぐように壁が作られているのは、謁見の後、支配者に背を向けることが禁じられていたため、その壁まで後ずさりして戻り、壁に隠れて方向転換する。ややこしい。
謁見の間で支配者と目を合わせることも禁じられていたというし、相当に権威のある支配者だったのだろう。このかなり広い王座の間は、ブハラ産の絨毯で覆われていたというから、金持ちでもあったようだ。
王座(もどき)には衣装や王冠などの小道具が揃っていた。それを着て化けている方もいて、なかなか様になっていた。
王座の間で働く支配者のために、何とか(聞き取れなかった・・・)という受付が備えられていた。
殺し屋が支配者を探せないようにするため、その受付はハーレムに囲まれていたという。ハーレムに囲まれていれば暗殺防止になるのか、ちょっと謎だ。
この城には3000人の人が暮らしていたたため、支配者は3000人と挨拶を交わすのに疲れ、挨拶担当の影武者がいたという。
アルク城の下に広がっているレギスタン広場は市場として使われ、同時に死刑場としても使われていた。そんな両極端な使い方をしなくてもいいだろうにと思う。
外壁の四阿はレギスタン広場に面して作られている。支配者が、死刑の前にはここから太鼓で合図を送り、死刑の過程を見物したらしい。治安維持のためにも見せしめが必要で、見せしめのためには人が集まらないと意味がないということだろうか。
アルク城を出ると、ガイドさんがスタスタ歩いて行こうとするので、慌てて止めた。ツアーメンバーの半分はまだ姿も見えていない。このまま私たちが動いたら迷子決定である。
ガイドさんが慌てて探しに行き、残ったメンバーで、「リュックを背負ってると背中に来るよね−。」などと言いつつ再びストレッチ大会となった。
ここでも我々のストレッチはウズベキスタンの方々の注目を集めていた。
アルク城の横を回り込み、市場を通り抜ける。
ナンを作るときに使ったハンコをいうか、模様を付けるための道具が売られている。記念に買って帰ろうかとも思い、この道具を使う機会はないだろうと思い直して諦めた。
道具だけでなく、お肉屋さんも並んでいる。何というか、肉というのは生々しい。
ここはブハラでも最も古い市場のひとつで、金製品などのアクセサリも売られている。ちょっと気になったけれど、ここで買うのは、目が利かない私には勇気が必要だ。ただ、24金だというから、買って損はなかったかも知れない。
カラーン・モスク前に到着し、見学の前にお昼ごはんになった。
12時くらいに昼食を食べるのはこのツアーでほとんど初めてのことだ。
狭くてちょっと怖い階段を上がって一番上まで行くと、カラーン・モスクを見渡せる屋上にテーブルが並んでいた。日射しはかなり強いけれど、気持ちいい。
そして、いい眺めである。
テーブルセッティングも可愛らしい。
前菜のサラダはニンニクが相当に効いていて美味しい。ナンはホテルの朝食でいただいたものに一歩譲るといった感じだ。
メインディッシュは、ポトフのようで、油っぽさがなくて美味しい。
この頃には「お腹の調子が・・・。」というのは定番の話題になっていて、なかなかガッツリ食べるという訳には行かない。残念である。
コーラが人気で「体調を崩したときはコーラだとパリの医者に言われた。」とか「コーラを飲むとしゃっくりが止まる。」等々のトリビアまで飛び出した。
このレストランの唯一の欠点は、お手洗いの電気がつかなかったことだ。
1時間くらいかけてゆっくり昼食をいただき、カラーン・モスクに向かった。
オイカロン広場は、カラーン・ミナレットとカラーン・モスクとミル・アラブ・メドレセで構成される。
ミナレットは高さ47mで、一番太いところで太さ13mあるという。石膏のモルタルには、ラクダのミルクと雄牛の血液と玉子を混ぜられているという。ちょっと気持ち悪い。
チンギス・ハンがブハラに来てカラーン・ミナレットを見上げたときに帽子を落としてしまい、腰を屈めてその帽子を拾ったとき、自分に頭を下げさせたこのミナレットを壊すなと命じている。
嘘か本当かかなり怪しい伝説だけれど、ブハラの街を破壊したチンギス・ハンがこのミナレットを壊さなかったことは確かである。
かくして、モンゴル軍は、先ほど行ったイスマイール・サーマーニ廟とこのカラーン・ミナレット以外の建築物を全て破壊し尽くした訳だ。
ミナレットは煉瓦積みで、上のベルト状のところは釉薬をかけた煉瓦で飾られている。釉薬をかけた煉瓦が初めて使われたのは、12世紀だ。
上部は16のアーチで飾られている。
20世紀の始めにモスクは200くらいあり、ミナレットが必ずその近くにあった。このカナーン・ミナレットが中でも一番重要ということになる。カラーン・モスクにも付けられている「カラーン」という名前は、「偉大な」という意味のタジク語だ。
イスラム教徒が1日に5回祈りを捧げる前、アザーンがこのミナレットから流される。
モスクの内部は、広い中庭の周りに回廊が張り巡らされている。この回廊だけは、何故か白く塗られ、冷たい雰囲気を醸し出している。
中庭自体は、門に近い方に樹木が1本、そして一番奥の礼拝堂の手前に小さな泉がある。
その礼拝堂側から振り返ると、泉と門と右奥にカラーン・ミナレットが見える。
このモスクは、8世紀末にこの地に建てられて以来、常にブハラの中心的モスクであった。ミナレットを破壊しなかったチンギス・ハンは、このモスクを宮殿だと誤解して徹底的に破壊したという。
現在のこの姿は、16世紀始めに建立され、ロシア時代には倉庫として使われるなど荒廃を極めた後、修復されたものだ。
いずれにしろ、広々として静謐で気持ちのよい空間だった。
以前は、このモスクからカラーン・ミナレットに入り、上ることができたという。私たちが行ったときには上れないようになっていた。残念である。
カラーン・モスクのカメラ代は1000スムだった。
カラーン・モスクの真正面に、ミーリ・アラブ・メドレセがある。
これまで見た「メドレセ」がどれも今はお土産物屋さんになっていたり、モスクとして使われていたり、ホテルになっていて泊まったりしたのに対し、このメドレセは現役の神学校であり、宗教指導者の養成に当たっている。
中に入ることはできず、入口の格子戸も閉められていた。そして、修復中だったのが惜しい。
モスク側から写真を撮ろうと奮闘していたら、ガイドさんが「カメラを貸せ。」と言い、この写真を撮ってくれた。
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