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2013.03.31

ダーウィンが来た!「進め! ヌー親子 100万頭の大移動」を見る

 毎週日曜の19時30分からNHKで放映されている「ダーウィンが来た!」「進め! ヌー親子 100万頭の大移動」を見た。

 何となくチャンネルを回したら(と何気なく書いてしまうところに年齢が出るような気がしなくもない)、ヌーの群れが画面に映っていたのだ。
 これはきっとケニアのマサイ・マラかタンザニアのセレンゲティだろうと思ったら、やはりセレンゲティだった。

 ヌーが大移動を行うのは、上の前歯がないため柔らかい草しか食べることができず、柔らかい草を生えさせる雨を追わなければならないからだという。
 ケニアに行ったときには、シマウマとヌーとでは草の食べる部分が異なっているので、一緒に行動していてもエサの取り合いにはならないと聞いたように思う。それだけでなく、ヌーは、危険探知能力に優れたシマウマを自分達の斥候として使っているらしい。
 シマウマ側にも斥候になる理由なりメリットなりがあるんじゃないかと思うのだけれど、残念ながら番組では取り上げていなかった。

 ヌーの川渡りも見ていて、そのときはシマウマが先頭を切って渡っていたのだけれど、今回の群れは、母親ヌーから若い雄のヌーが押し出されるようにして先頭を切らされていた。
 母は強し。

 同じ情景を見ても解説を聞いても、色々な感想が浮かぶし、色々な考え方があるんだなと改めて思ってしまった。
 ケニアでのゲーム・サファリが懐かしい。
 セレンゲティと比べることはなかったので、マサイ・マラが起伏に富んだ地形だとは全く思わなかった。どちらかというと、「どこまでも続く大平原」と思っていたように思う。
 また行ってみたいと思ったのだった。

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2013.03.27

460000アクセス達成!

 今日(2013年3月27日)、どなたかが460000アクセス目を踏んでくださっていた。
 少しペースが落ち着いた感じだ。

 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日
400000アクセス 2012年9月3日

410000アクセス 2012年10月7日
420000アクセス 2012年11月13日
430000アクセス 2012年12月21日
440000アクセス 2013年1月20日
450000アクセス 2013年2月19日

460000アクセス 2013年3月27日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2013.03.24

無事、帰宅する(スパリゾートハワイアンズ)

 2013年3月23日(土)から1泊2日で女3人、スパリゾートハワイアンズに行って来た。

 スパリゾートハワイアンズに行って来たのだけれど、何をしてきたのかといえば、「温泉に入ってきた」に尽きる。
 水着も一応持って行ったし、着ることは着たけれど、水着が必要なゾーンに足を踏み入れることはなかった。やはり春休み中で子どもたちでまさに「芋の子を洗うよう」だったのがその理由である。

 その代わりという訳ではないのだけれど、温泉4箇所を堪能して、のんびりしてきた。
 ただ一つの誤算は、露天風呂にのんびりゆっくり浸かってきたのだけれど、露天風呂というのは屋外で、屋外には杉花粉が舞い散っているということである。恐らく、そのせいだと思うのだけれど、今現在、鼻が詰まって苦しくて仕方がない。

 この1泊2日の旅行にかかった費用は、一人分約25500円だった。ここには、交通費、宿泊費、食事代、入館料が含まれているが、お土産代は含まれていない。

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スパリゾートハワイアンズ旅行記2日目(引っ越しました)

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 スパリゾートハワイアンズ旅行記は引っ越しました。
 以下のリンクからご覧ください。

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 1日目 2013年3月23日(土曜日)

 2日目 2013年3月24日(日曜日)

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2013.03.23

スパリゾートハワイアンズ旅行記1日目(引っ越しました)

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 スパリゾートハワイアンズ旅行記は引っ越しました。
 以下のリンクからご覧ください。

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 1日目 2013年3月23日(土曜日)

 2日目 2013年3月24日(日曜日)

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スパリゾートハワイアンズに出発する

 4月の人事異動に向けてこんなに職場がバタバタするとは思っておらず、支度も今朝になって始める始末だった。
 
 到着してしまえば館内の温度は28度で一定、でも今日明日の東京の最高気温は17度と、一体どんな格好をすればいいのかさっぱり判らず、しかも明日は雨の予報である。
 そして、水着にバスタオルにビーチサンダルと「ハワイ」に行く用意も必要だ。
 さらに、花粉症の私はこの時期、その対策も必須事項なのである。
 荷物が増える一方で困ってしまう。

 一応作成した持ち物リストは以下に。

続きを読む "スパリゾートハワイアンズに出発する"

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2013.03.12

ウズベキスタン旅行記5日目その3

2011年9月21日(水曜日)

 カラーン・モスクから歩いてすぐのところにタキ・バザールがある。
 タキとは「丸屋根」という意味で、こうしたタキ・バザールは最盛期には40を数え、交差点のド真ん中に建てられていたそうだ。ブハラにはこの丸屋根をたくさん乗せたバザールがいくつか残っている。
 入口と内部の通路の天井が高くなっているのは、荷を積んだラクダが通るためである。

(推定)香辛料屋 その昔はタキごとに扱う品物が違っていたらしい。今は様々なお店が並んでいる。
 このタキの中で、楽器屋さんのおじさんが色々と演奏してくれたのにつられて、彼が自主製作したらしいCD(10ドル)を思わず購入した。
 また、香辛料などを売っているお店のお兄さんのポーズの取りっぷりに負け、思わず写真を撮る。
 その他にアクセサリーや定番のスザニや絨毯なども売っていたし、今やタキ・バザールはお土産物屋さん街となって観光客を集めている。

アブドゥルアジズ・ハン・メドレセアブドゥルアジズ・ハン・メドレセ 次に入ったのは、アブドゥルアジズ・ハン・メドレセだ。
 このメドレセは17世紀になってから建てられており、他のメドレセとはだいぶ印象が違う。
 何しろ、カラフルである。
 概ね煉瓦色とブルーで統一されていたこれまでのメドレセとは違って、赤などの色も入っている。それにしても、宗教の建物に赤が使われていると途端に仏教のイメージが強くなる気がする。
 色使いだけではなく、抽象化していない花を始め、いわゆる「偶像」としてイスラムでは排除されるだろう意匠が使われていることも珍しい。

アブドゥルアジズ・ハン・メドレセ このメドレセは、内部もちょっと変わった感じだった。
 キンキラキンではない。ブルーでもない。
 やはりこちらも赤を基調とした装飾になっている。色褪せてしまったり、タイル自体が落ちてしまったり、傷みはかなり激しいけれど、それでも往時の美しさを偲ばせる。何だか落ち着く空間だった。

 次に向かったのはアブドゥラ・ハン・ティムだ。
 ティムとは、屋根付きバザールの一種で、ただしタキとは違って通り抜けはできず入口は1ヶ所だけだ。
 アブドゥラ・ハン・ティムの中は絨毯と織物のお店になっていて、絣のような布を織っている織機があった。しげしげと見ていたら皆に置いて行かれそうになってしまった。
 この後、絹織物の産地であるマルギランに行く予定で、みなここではスルーしたようだ。

コウノトリの形をしたハサミ 逆にみなが心惹かれていたのが、ブハラではとても有名なコウノトリの形をしたハサミだ。お店のおじさんもデモンストレーションしてくれる。
 かなり迷ったけれど、「使うか?」という自問に「使う。」と答えられずに諦めた。
 コウノトリのハサミの切れ味でデザインだけではないという感触を得て、サバイバルナイフに吸い寄せられていた方もいた。山登りには必携の品らしい。

 陶器のお人形のおじいさんに一目惚れして熟考の末買わなかったり、ハマムの中をちょこっと覗かせてもらったり、ホテルに残った方の旦那様が街歩きをしているところと行き会ったり(奥様はホテルで休んでいらしたらしい)した。
 やはりブハラは見どころが旧市街にぎゅっと集まっている街だ。

マガーギ・アッタリー・モスク マガーギ・アッタリー・モスクにも立ち寄った。ブハラに現存する最古のモスクである。
 一部改築されてはいるものの、12世紀の建築で、20世紀に入って発掘されるまでほとんどの部分が埋まっていたそうだ。だから、道路などよりも低いところに建てられている。
 そうなるとさっきの「モンゴル軍侵略より古い建物はブハラには二つしかない」というガイドさんの説明はどうなるんだろうとこれは後追いで考えた。チンギス・ハンのブハラ侵略は1220年だから、12世紀に建てられたここも「それより前の」建物である。カラーン・ミナレットとイスマイール・サーマーニ廟と、ここも入れれば三つということになる。

 中は絨毯の博物館らしい。私たちは残念ながら入館しなかった。この後の時間の使い方を考えると、ぜひここは立ち寄りたかったなと思う。
 何故そう思うかというと、この後行ったスザニ工房で何故か2時間を過ごすことになったからだ。この時間配分は未だに納得がいかない。結果として、先ほど書いたウルグベク・メドレセや絨毯博物館、チャル・ミナールなどに行っていないからということもある。

スザニ工房スザニ

 それはそれとして、スザニ工房はなかなか楽しかった。
 お嬢さん達が刺繍のステッチを実演してくれ、お好きな方々はこの真ん中に積まれた糸をもらって刺繍を始めている。手先の不器用さに自信がある私はやりかけてすぐ放り出してしまい、お台所を覗いたり、赤ちゃんを抱っこさせて貰ったり、お茶を飲んだりしていた。
 また、たくさん積まれたスザニをひっくり返して探し、スザニを1枚(75ドル)購入した。ウルグットのバザールで購入したスザニもブハラのスザニだったし、私はこの街のことが大好きらしい。何の意匠なのか聞いた記憶があるのに、思い出せない。
 でも、やっぱりここで2時間というのはどうなんだろう。最初からそう言われていたら、多分、私は勝手にお散歩に出かけていたと思う。

 17時30分くらいになって、このスザニ工房を出た。ちょうど裏口辺りで可愛らしいお嬢さんたちに出会い、あまりの可愛さにカメラを向ける。はにかんで、でも笑顔を見せてくれるのが嬉しい。
 彼女たちは絶対に美人になるだろう。

ラビ・ハウズ スザニ工房を出た私たちは、ラビ・ハウズ(タジク語で池のほとりという意味だ。判りやすい。)に向かった。
 ラビ・ハウズは六角形のため池で、周りには桑の木が並んでいる。意外に深くて、10mくらいもあるらしい。
 まさに「憩いの場」といったイメージのこの池の周りには、お金持ちのユダヤ人の邸宅が並んでいたそうだ。その邸宅のひとつをこの溜め池にしたという。

 ナディール・ディヴァンベギ・メドレセは当初、当時の総理大臣ナディール・ディヴァンベギによってキャラバンサライとして建設されている。しかし、当時の支配者のハンがここをメドレセと勘違いして褒めちぎったため、支配者に反抗するなど思いも寄らなかった彼はここをキャラバンサライではなくメドレセとしたといういわれを持つ。
 その後、ミナレットの建て増しもされつつ、元々がキャラバンサライだから全体の構造は伝統的なメドレセとは異なっていて、例えば内部にある筈の回廊がない。
 ファサードはモザイクで覆われており、上部にはシムルという幸せの鳥が図案化されている。元々がキャラバンサライとして建設されたため、偶像崇拝を理由に壊されずに済んだという。

民族舞踊民族舞踊

 このメドレセで夕食をいただきつつ民族舞踊鑑賞となった。
 ガイドさんは我々を席に案内すると、ホテルでお休みされていた方のお迎えに行った。飲み物の注文など、お店の方も観光客慣れしているし、みなさんも旅行慣れしているのでそこは手早い。
 もう一つのツアーの3人もいらした。お一人はホテルで休息だそうだ。あちらはお腹を壊した方はいらっしゃらないらしいけれど、やはり疲れが出ているのだろう。

 メドレセの中庭がレストラン兼ステージで、中央に大きくスペースが取ってあって、その周りにテーブル席がしつらえてある。前菜にスープ、ポトフ風のお料理がテーブルに並ぶ。
 ガイドさんと休息されていたツアーメンバーお二方も到着し、ステージを見て、写真を撮って、動画も撮って、食事もして、大忙しである。もっとも、民族舞踊ショーと銘打ちつつ、半分くらいはファッションショーの感じだった。

 1時間くらいたったところでツアーメンバーのお一人がガイドさんに尋ねると、19時過ぎにここを出ると言われた。21時過ぎの国内線に乗るにしては、やけに早いなと思う。
 空港に到着したのは19時15分くらいで、とりあえず持ち歩いていた水筒の中身をその辺の花壇にあける。もう熱湯ではないし、お茶だから、多分お花にも害ではないだろう。

 それにしても心配なのはスーツケースの重さである。私のスーツケースには大きなスザニが3枚とコニャック2本が足され、結構持ち重りのするナンも入っている。ブハラの空港ではグループチェックイン扱いだったのでパスできたけれど、見ていたら、私のスーツケースは20kgを超えていた。

 かなり遅くなってガイドさんが説明してくれたところでは、元々この日は21時35分発のウズベキスタン航空でタシケントに戻る予定だったが、その便がキャンセルされ、20時25分発の便に変更になったそうだ。
 事前に民族舞踊ショーを見る場所と食事の場所は変えますと案内されていたにもかかわらず、民族舞踊ショーを見ながらの食事になったのはそのためだったらしい。

 20時25分発の便は意外と早く21時10分にタシケントに到着した。
 ウズベキスタンの国内線はシンプルである。何しろ荷物の受け取りが屋外だ。いわゆるターミナルビルに入る前、露天である。雨が降ったらどうするのだろう。
 そこに、可動式のターンテーブル(トレーラーの低めの荷台に荷物を流すナナメの板が取り付けられているイメージだ)が運ばれて来る。これを使うよりはコンテナに取りに行った方が早いんじゃないかというような「ターンテーブル」だった。
 そこで荷物を受け取り、そのまま空港の外にコロコロ転がして出て行く。もはや驚く人はいなかった。

 搭乗便の変更の連絡が上手く行っていなかったのか、空港の外でバスを30分くらい待った。
 流石にこの時間だとウズベキスタンでも冷える。ブハラで観光したままの格好だったので、震えてしまった。けれど、こういうときに楽しくおしゃべりしながら待てるのがこのツアー・メンバーならではである。

 面白かったのは、昨夜テレビを見ていたら日本語講座をやっていたというお話だった。日本ではウズベク語講座はないけれど、こちらでは日本語講座がやっているんだと驚いた。何でも「あ、ごめんなさい」みたいなシチュエーションをやっていたそうだ。
 私はあまりテレビを見ないので、旅先でも部屋のテレビをつけることはほとんどない。こういう楽しみもあるんだなと新発見した気分だった。

 初日にも泊まったBekは空港から割と近い。22時過ぎにホテルに到着できた。
 明日は、モーニングコールが6時、朝食は7時から、出発は8時だ。結構、早い。
 お水が欲しいという方がいらして、ガイドさんが買って来てくれることになった。ガイドさんがお部屋の水を飲んでもいいですと言ったけれど、部屋で見てみたらガス入りだったので、ガスなしのお水をもえらえるのは有り難い。
 そういえばやったことがないけれど、ガス入りの水を湧かしたらどうなるのだろう?

ホテルのお部屋 お部屋は今回も1階だったので、ポーターさんを待たずに自分でキャリーケースを転がして行った。
 ところが、部屋に入ってカーテンを閉めようとしたら、何故だかカーテンが丸ごと落ちてきた。え???
 しばらく呆然としていたけれど、今はいいとして明日の朝カーテンなしのお部屋は辛い。ロビーまで行って、そこにいたポーターさんを問答無用で引っ張ってきて、落ちたカーテンを見せたところ、お部屋係の女性を連れてきてくれた。あっという間に修理してくれた。有り難い。
 明日も早いし、シャワーを浴びて、日付が変わる前に就寝した。

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2013.03.09

ウズベキスタン旅行記5日目その2

2011年9月21日(水曜日)

アルク城 道路を渡ればそこはアルク城である。
 アルク城も当時のまま残されている。
 城門には2本の塔があり、その塔はバルコニーに繋がっている。1920年までは城門に時計があり、その横に軍刀とムチが掲げられ、支配者の権力の象徴であったそうだ。
 アルク城の前の広場がブハラのレギスタン広場で、元は市場として利用されていた街の中心だ。
 このアルク城を研究した考古学者によって、2400年くらいたっていると判ったそうだ。
 入口のスロープは1905年まで木造で、その後、現在の煉瓦作りに作り直されている。

 紀元前4世紀からあった要塞が建て直され、その後、8世紀にやってきたアラブ軍が要塞を破壊し、ゾロアスター教会の代わりにモスクを建設した。
 8世紀から13世紀にかけて、この要塞は壊されたり直されたりを繰り返し、13世紀にモンゴル軍に破壊され、16世紀に再建された。そのまま、20世紀までここにあったが、20世紀初頭に80%が壊されてしまった。
 「流石、要塞」という歴史だ。

 20世紀初頭まで、アルク城は、支配者の住まい、モスク、ハレム、国庫、造幣局、各種の倉庫、馬小屋、迎賓館、王座の間、監獄などから成立していた。さらに、警備隊も常駐していた。
 住まいがあっても支配者はここに住んでいた訳ではなく、馬で通っていたらしい。
 入場料とカメラ代(2300住む)を支払い、スロープを上って、中に入る。
 この坂は、筋肉痛がキテいた足には結構な急坂に感じられた。

監獄 中に入ってすぐのところに監獄跡があった。何故かここだけ人形までセッティングされている。
 この監獄に繋がれた人に水は与えられず、この監獄の上に厩が作られていて、その糞尿が落ちてくるような仕組みになっていたそうだ。今も床が傾いて、水を集めて下に落とせるような穴が残っている。
 女性陣から「うわぁ。」「嫌だ・・・。」と悲鳴とも溜息ともつかない声が上がった。
 見学の最初からインパクトのある話を聞いてしまった。

モスクの天井 要塞の中にはモスクもある。モスクには冬仕様の部分と夏仕様の部分があり、テラスはもちろん夏仕様だ。
 さっき行ったモスクに支配者が通っていたと言わなかった? と思うけれど、ガイドさんは特にそこには触れずに説明を続ける。
 このモスクは16世紀に建設され、テラスの天井部分は修復されたことのないオリジナルだ。
 奥の方に作られているのか、もの凄く先っぽだけ、水色のドームと、そのてっぺんに付いている三日月のマークが見えた。

耐震構造 タシケントとサマルカンドとブハラは地震が多く、そのため、建物は耐震構造になっている。
 土台は焼いた煉瓦で作られ、その上に丸太が置かれ、骨組みが作られている。楡の木の丸太で作られた骨組みの間を埋めるように焼いた煉瓦が重ねられる。
 一部、壁の表面がなくのは、その耐震構造を見せるためなのかも知れない。だとすると、横に置かれた自転車はなかなかのご愛敬である。
 そういえば、攻め込まれて破壊されたという話は何度も聞いた一方、地震で崩れたという説明は聞いた記憶がない。

 城内のお土産物屋さんで往時の様子を描いた絵はがきなどを冷やかしながら進む。次に入ったのは王座の間だ。
 王座の間はテラスに囲まれ、現在そのテラス部分はしっかりお土産物屋仕様になっている。ここで戴冠式なども行われていたらしい。
 少し高くなったところに四阿風に大理石で作られた王座がある。これは作り物で、本物はロシアに征服された後ロシアに運ばれ、今はエルミタージュ美術館だ。
 次の王をカーペットの上に座らせ、カーペットに乗せたまま王座に移動させたらしい。空飛ぶじゅうたんみたいだ。

王座の間 入口を塞ぐように壁が作られているのは、謁見の後、支配者に背を向けることが禁じられていたため、その壁まで後ずさりして戻り、壁に隠れて方向転換する。ややこしい。
 謁見の間で支配者と目を合わせることも禁じられていたというし、相当に権威のある支配者だったのだろう。このかなり広い王座の間は、ブハラ産の絨毯で覆われていたというから、金持ちでもあったようだ。
 王座(もどき)には衣装や王冠などの小道具が揃っていた。それを着て化けている方もいて、なかなか様になっていた。

 王座の間で働く支配者のために、何とか(聞き取れなかった・・・)という受付が備えられていた。
 殺し屋が支配者を探せないようにするため、その受付はハーレムに囲まれていたという。ハーレムに囲まれていれば暗殺防止になるのか、ちょっと謎だ。
 この城には3000人の人が暮らしていたたため、支配者は3000人と挨拶を交わすのに疲れ、挨拶担当の影武者がいたという。

四阿 アルク城の下に広がっているレギスタン広場は市場として使われ、同時に死刑場としても使われていた。そんな両極端な使い方をしなくてもいいだろうにと思う。
 外壁の四阿はレギスタン広場に面して作られている。支配者が、死刑の前にはここから太鼓で合図を送り、死刑の過程を見物したらしい。治安維持のためにも見せしめが必要で、見せしめのためには人が集まらないと意味がないということだろうか。

 アルク城を出ると、ガイドさんがスタスタ歩いて行こうとするので、慌てて止めた。ツアーメンバーの半分はまだ姿も見えていない。このまま私たちが動いたら迷子決定である。
 ガイドさんが慌てて探しに行き、残ったメンバーで、「リュックを背負ってると背中に来るよね−。」などと言いつつ再びストレッチ大会となった。
 ここでも我々のストレッチはウズベキスタンの方々の注目を集めていた。

ナンづくりの道具肉屋

 アルク城の横を回り込み、市場を通り抜ける。
 ナンを作るときに使ったハンコをいうか、模様を付けるための道具が売られている。記念に買って帰ろうかとも思い、この道具を使う機会はないだろうと思い直して諦めた。
 道具だけでなく、お肉屋さんも並んでいる。何というか、肉というのは生々しい。
 ここはブハラでも最も古い市場のひとつで、金製品などのアクセサリも売られている。ちょっと気になったけれど、ここで買うのは、目が利かない私には勇気が必要だ。ただ、24金だというから、買って損はなかったかも知れない。

カラーンモスク全景 カラーン・モスク前に到着し、見学の前にお昼ごはんになった。
 12時くらいに昼食を食べるのはこのツアーでほとんど初めてのことだ。
 狭くてちょっと怖い階段を上がって一番上まで行くと、カラーン・モスクを見渡せる屋上にテーブルが並んでいた。日射しはかなり強いけれど、気持ちいい。
 そして、いい眺めである。
 
昼食の前菜メインディッシュ

 テーブルセッティングも可愛らしい。
 前菜のサラダはニンニクが相当に効いていて美味しい。ナンはホテルの朝食でいただいたものに一歩譲るといった感じだ。
 メインディッシュは、ポトフのようで、油っぽさがなくて美味しい。
 この頃には「お腹の調子が・・・。」というのは定番の話題になっていて、なかなかガッツリ食べるという訳には行かない。残念である。
 コーラが人気で「体調を崩したときはコーラだとパリの医者に言われた。」とか「コーラを飲むとしゃっくりが止まる。」等々のトリビアまで飛び出した。
 このレストランの唯一の欠点は、お手洗いの電気がつかなかったことだ。

カラーン・ミナレット 1時間くらいかけてゆっくり昼食をいただき、カラーン・モスクに向かった。
 オイカロン広場は、カラーン・ミナレットとカラーン・モスクとミル・アラブ・メドレセで構成される。
 ミナレットは高さ47mで、一番太いところで太さ13mあるという。石膏のモルタルには、ラクダのミルクと雄牛の血液と玉子を混ぜられているという。ちょっと気持ち悪い。

 チンギス・ハンがブハラに来てカラーン・ミナレットを見上げたときに帽子を落としてしまい、腰を屈めてその帽子を拾ったとき、自分に頭を下げさせたこのミナレットを壊すなと命じている。
 嘘か本当かかなり怪しい伝説だけれど、ブハラの街を破壊したチンギス・ハンがこのミナレットを壊さなかったことは確かである。
 かくして、モンゴル軍は、先ほど行ったイスマイール・サーマーニ廟とこのカラーン・ミナレット以外の建築物を全て破壊し尽くした訳だ。

 ミナレットは煉瓦積みで、上のベルト状のところは釉薬をかけた煉瓦で飾られている。釉薬をかけた煉瓦が初めて使われたのは、12世紀だ。
 上部は16のアーチで飾られている。
 20世紀の始めにモスクは200くらいあり、ミナレットが必ずその近くにあった。このカナーン・ミナレットが中でも一番重要ということになる。カラーン・モスクにも付けられている「カラーン」という名前は、「偉大な」という意味のタジク語だ。
 イスラム教徒が1日に5回祈りを捧げる前、アザーンがこのミナレットから流される。

モスク内部の礼拝堂 モスクの内部は、広い中庭の周りに回廊が張り巡らされている。この回廊だけは、何故か白く塗られ、冷たい雰囲気を醸し出している。
 中庭自体は、門に近い方に樹木が1本、そして一番奥の礼拝堂の手前に小さな泉がある。
 その礼拝堂側から振り返ると、泉と門と右奥にカラーン・ミナレットが見える。

 このモスクは、8世紀末にこの地に建てられて以来、常にブハラの中心的モスクであった。ミナレットを破壊しなかったチンギス・ハンは、このモスクを宮殿だと誤解して徹底的に破壊したという。
 現在のこの姿は、16世紀始めに建立され、ロシア時代には倉庫として使われるなど荒廃を極めた後、修復されたものだ。
 いずれにしろ、広々として静謐で気持ちのよい空間だった。

 以前は、このモスクからカラーン・ミナレットに入り、上ることができたという。私たちが行ったときには上れないようになっていた。残念である。
 カラーン・モスクのカメラ代は1000スムだった。

ミーリ・アラブ・メドレセ カラーン・モスクの真正面に、ミーリ・アラブ・メドレセがある。
 これまで見た「メドレセ」がどれも今はお土産物屋さんになっていたり、モスクとして使われていたり、ホテルになっていて泊まったりしたのに対し、このメドレセは現役の神学校であり、宗教指導者の養成に当たっている。
 中に入ることはできず、入口の格子戸も閉められていた。そして、修復中だったのが惜しい。
 モスク側から写真を撮ろうと奮闘していたら、ガイドさんが「カメラを貸せ。」と言い、この写真を撮ってくれた。

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2013.03.04

ツアーに申し込む(吉野山)

 2013年2月に行った河津で満開の河津桜を見そびれたこともあって、母と2人「吉野の桜を見たいね」という話になった。
 私は吉野の桜だけさくっと見て来られればいいと思ったのだけれど、母はゆっくり2泊くらいしたいと言う。
 しかし、私は4月に仕事が変わる可能性がある。今から休暇を予定するのはなかなかリスキーなのだ。もう少し待ってからと思っていたのだけれど、やはりこうした季節もののツアーは埋まるのが早い。いざとなったらキャンセルすればいいと予約を入れることにした。

 2泊するならこのツアーがいいと狙っていた、吉野山に2連泊するツアーは、すでにキャンセル待ちである。
 そして、2013年の桜の開花予想では吉野山は4月半ばが満開なのだけれど、そのツアーは1週前の平日にしか設定がない。残念だけれど見送りだ。

 色々と探した結果、吉野山に宿泊してハイキングをするというツアーと、やはり吉野山に宿泊しその他に長谷寺等に行くというツアーが見つかった。
 好みとしては前者なのだけれど、こちらも如何せん設定日が少なく平日のみなのが惜しいところだ。

 そんなこんなで検索・比較・調整した結果、4月の2週目、1泊2日で吉野山に泊まるツアーに申し込んだ。

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2013.03.03

ウズベキスタン旅行記5日目その1

2011年9月21日(水曜日)


朝日に染まるホテル 長距離移動の疲れもあって、旅行に来て初めて5時半くらいまで熟睡した。このアムレットホテルはお部屋も暖かくベッドも快適で、1泊しかしないのが勿体ない。
 6時くらいに起き出してホテルの写真を撮っていると、ホテルのお兄さんが英語で「この近くに小さなマーケットがあります。」と教えてくれた。
 聞けば本当にホテルを出てすぐのところだったので、有り難く行ってみることにした。


マーケットマーケット


 確かに、こぢんまりしていて、近所の方々が売りに来て買いに来ているといった雰囲気だ。野菜や乳製品、玉子や果物にお肉などが売られている。
 一人で入り込んでじろじろ覗き込んだり、カメラを向けたりしている私にも笑顔を向けてくれる。
 お肉屋さんのおじさんもバッチリ、カメラ目線で写真に写ってくれた。
 お店のお兄さんが、赤いバケツに入っている乳製品を食べさせてくれた。ヘラですくい取ると私の指に置いてくれる。お腹は大丈夫かな、乳製品なのは確かだけれどこれは一体何だろうと思いつつ、恐る恐る舐める私に、その辺りにいたおじさん達は揃って面白そうな視線を向けてくる。
 舐めてみるとそれは濃厚なクリームとバターの間くらいの乳製品で、こってりしっかりしていて美味しかった。ジェスチャーで「美味しい。」とやったけれど、伝わっただろうか。


ホテル中庭アムレットホテル外観 昨日は暗くなってから到着したのでホテルの外観はよく分からなかった。
 ギリギリ月を入れて入口の写真を撮ってみる。
 元神学校だったためか、外から見るとかっちり固められて閉ざされている感じがする。修業の場だからだろうか。
 その分、中庭が取ってあって、寝台(昼寝台?)が置かれ、中に入ってしまうと逆に開かれた感じがする。


朝食 7時半くらいから三々五々集まって朝食をいただいた。
 それほど広いスペースではないけれど居心地のいい空間だ。
 ウズベキスタンといえばナン、ナンといえばサマルカンド、ウズベキスタンの人もサマルカンドのナンが一番美味しいと言ってお土産に買うほどだと何度も聞いたけれど、このアムレットホテルの朝食に出されたナンは、私の中で不動の1位を獲得している。
 フランスパンぽい感じで、本当に美味しいナンだった。そういえば、さっきのマーケットではナンは売っていなかったから、各家庭で焼いているのかも知れない。


 9時に中庭に集合し、ブハラ市内観光に出発した。最初の目的地まではちょっとバスに乗るけれど、あとは夕方までバスには戻らないという。
 夜の飛行機でタシケントに戻るので、荷造りを終えたスーツケースもバスに積み込んだ。
 本格的に体調を崩した方がいらして、今日はホテルで休息されるという。ご夫婦お二人をホテルに残し、7人とガイドさんで出発した。


 ブハラの街は非常に古く、1520年くらいに成立している。ブハラには40以上の民族が住んでいるそうだ。
 大陸気候で昼夜の温度差が激しく、一番寒い1月にはマイナス15度にまで下がることもあるし、雪が降ることもある。逆に7月には気温が48度にまで上がることがあるという。
 ブハラでは、食料品工場や石油精製工場、織物工業や皮工房などが発達している。


 言い伝えによると(という台詞をガイドさんがどういう意味で使っていたのか未だによく判らない)、ペルシャ王子とサマルカンドの王女が結婚し、ブハラの地に要塞を作って支配者となったそうだ。ブハラは中央アジアの中心に位置し、シルクロードも通っていて、紀元前5世紀から発展していた。そのころの名前はノミチケントで、今のブハラという名前はサンスクリット語で「お寺」という意味である。
 9世紀にサマニ朝の首都になったのを始めとして、何度も中央アジアで興った王朝の首都になってきた。そして、ブハラの街は常にこの場所にあった。シャイバニー朝が16世紀に建設した街がブハラ旧市街となっていて、そこは20世紀までほとんど変わらずに維持されている。


チャシュマ・アイユブ廟 最初に到着したのはチャシュマ・アイユブ廟だ。チャシュマ・アイユブとは、(旧約聖書に出てくる)ヨブの泉という意味である。
 12世紀に泉が湧くようになってこの建物が作られ、14世紀にドームが造られ、さらに16世紀にその手前に建て増しされて今のような形になった。今でも井戸が建物の中にあって水が湧き出ている。
 昔からこの井戸の水は眼病に効くと言われて巡礼者が多く、今も巡礼者が集まっている。
 建物自体は、現在は、ブハラ州の博物館として使われている。


 中に入ると井戸がまだ残っていて、覗き込むと水を湛えているのが判った。井戸につるべのようなものはついていない。どうやって汲み上げているのか蛇口がいくつか並んでいて井戸の水が出るようになっていて、手に受けると冷たい。
 コップも置いてあって、ツアーの女の子が果敢にチャレンジしていた。お腹は大丈夫だったんだろうか。
 ブハラには20世紀始めまで120以上の貯水池があったけれど、今はほとんど残っていない。
 主に飲用水として使われていたものの、そのまま飲むことはできず、沸かして飲んでいたという。ますます、口にしていた彼女のお腹の具合が心配である。


聖人のお墓 チャシュマ・アイユブ廟の中には14世紀の聖人のお墓があった。
 博物館になっているという説明を受けたじゃないかと思うけれど、確かに展示物もあって、でもお墓もある。
 お墓の近くには柱が立てられ、そのてっぺんには馬の尻尾がつけられていて、手の形が打ち付けられている。これは聖人のお墓であることのしるしだ。この柱とメッカが何か関係があるという説明を受けた記憶があるけれど、詳しいことは忘れてしまった。


 このチャシュマ・アイユブ廟からイスマイール・サーマーニ廟までは歩いてすぐだった。
 間にお土産物屋さんが並ぶ一角があり、誘惑のタネがたくさんある。イスマイール・サーマーニ廟が見えてくるとその向こうには観覧車も見えた。そばには動物園もあるそうで、やっぱり誘惑のタネがたくさんある一角だ。
 イスマイール・サーマーニ廟に近づくと、この建物も鳩の住処になっていることが判る。なかなかたくましい鳩たちだ。


イスマイール・サーマーニ廟 イスマイール・サーマーニ廟は10世紀に造られた建物で、中央アジアで最古のイスラム建築である。
 高さも幅も10mで立方体になっている。
 壁の厚さは2mもあり、戸口の高さも2mだ。ぞろ目というか、揃っているのが好きな人だったんだろう。
 煉瓦積みで飾られ、壁が全体に凹面になっていることで豪華に見せている。なかなか凝った建物である。
 立方体の上にはドームが乗っている。
 ここはイスマイール・サーマーニの霊廟で、彼のおかげで中央アジアは独立を果たせたそうだ。ガイドさんは「前にお話ししたとおり」と言ったけれど、そんな話を聞いていただろうか?


 13世紀にやってきたモンゴル軍は中央アジアの各都市を破壊した。サーマーニ朝は人々に尊敬されていたため、ブハラ市民はモンゴル襲来の前にこの建物を土に埋めた。さらに周りが墓地だったことから、気付かれずにすみ、破壊されずに残ったという。
 1925年に発掘されるまで土の中に700年埋まっていたので、保存状態はとてもよく、修復の手が入ったのはドームだけだ。


イスマイール・サーマーニ廟内部 カメラ代700スムを払って中に入る。
 窓の構造が工夫されていて、内部にはとても柔らかな光が差し込むようになっている。
 日干し煉瓦ではなく焼いた煉瓦が使われており、そのため、保存性も高くなっている。今まで残ったのにはそういった理由もあったようだ。
 イスマイール・サーマーニのお墓があり、遺体は地下に安置されている。


 そうして観光している途中、出発時に成田空港でお会いした同じ日程で別コースを回っていた4人の方々と再会した。ここでだけ、一瞬、スケジュールが重なったようだ。
 別コースに付いたガイドさんが「やはりブハラはシルクロードの街だから会いますね。」などと洒落たことを言う。


城壁 次に向かったのは、城壁と16世紀に造られたタリパチ城門である。
 最初に作られたのは5世紀で、8世紀にやってきたアラブ軍に壊されたけれど、サーマーニ朝の時代にまた作り直され、13世紀にモンゴル軍が壊し、と何度も建設と破壊を繰り返されてきている。
 その後、モンゴル軍は民衆による反乱を抑えるために城壁を作ることを禁止し、14世紀にティムールの時代になってまた城壁が作られ、最終的に16世紀に建て直されて20世紀の始めまで残ったという。
 その間、ブハラという街の大きさは変わらなかったということになる。城壁の外周は25kmである。
 この用水池も20世紀始めに作られたものだ。


城門 城壁は日干し煉瓦、城門は焼いた煉瓦で作られている。
 この辺りは、よく歴史映画の撮影現場に使われているそうだ。
 丸太で補強されているとはいえ、割と簡単に破れそうな城門にびっくりする。口々に「私たちでも破れるよね、きっと。」、「それこそ映画撮影用なんじゃない?」などと言い合う。本当のところどうなのかは不明である。
 上れる高いところを見ると上りたくなるのが人情で、みんなで代わる代わる上がって記念撮影大会になった。


バラハウズ・モスク 来た道をゆっくり歩いて戻り、ガイドさんに「もう夜までバスまで戻りません。」と宣言されて荷物をちょっと整理し、アルク城の真向かいにあるバラハウズ・モスクに向かった。モスクに到着したのは10時30分くらいだ。
 私がイメージするモスクとはだいぶ外観が異なるので、モスクだと言われたときには「え?」と聞き返してしまった。
 「バラハウズ」とは「貯水池の近くに建設された」という意味だ。
 このバラハウズ・モスクは1712年に、テラス部分とミナレットは1919年に建設されている。そして、このモスクは今でもモスクとして使われている。


テラスの天井 テラスの天井は高さ12mの柱で支えられている。昔の中央アジアには高い木がほとんどなかったため、柱は2本の丸太を合わせて作られている。修復された柱は1本の木で作られているから、すぐに判る。
 そして天井部分は蜂の巣構造で飾られている。この天井はこれまで修復されたことがないオリジナルだ。
 恐らく、そもそも「木造建築」ということ自体、贅沢なことだったのだろう。
 このモスクは支配者専用のモスクで、その昔は向かいのアルク城から絨毯を敷いて道を作り、このモスクまでお祈りに来ていたという。


モスク内部 モスクの中に入った。
 うろ覚えの記憶では、確か靴を脱いで、絨毯の上に上がらせてもらったと思う。
 イスラム教は偶像崇拝が禁じられているというイメージが強かったので、「意外と飾られている」というのが第一印象だった。
 アーチのうちいくつかは修復されたことのないオリジナルだ。何故か複数のアーチのうち1箇所だけが緑色にライトアップされていた。その理由は不明である。
 声も響いて、少しだけ厳粛な気持ちになった。


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2013.03.01

ウズベキスタン旅行記4日目その3

2011年9月20日(火曜日)

 14時過ぎ、一路ブハラに向けて出発した。
 ガイドさんに聞くと(聞かないと教えてくれないというところにツアーメンバーの不満がある)、ブハラまでは280km、途中、キャラバン・サライに立ち寄り、またギジュドバンという街で陶器工場を見学すると言う。次の休憩までは1時間半から2時間くらいだと言いつつ、今ひとつはっきりしない感じだ。
 移動時間はウズベキスタンの歴史講座の時間である。ガイドさんが、16世紀以降のウズベキスタンの歴史について語り始めた。

 ウルグベクは息子に殺され、ティムールの玄孫の世代で1449年から1501年まで続いた権力争いが始まる。1490年代、カザフスタンと黒海の間に住んでいたウズベク民族を組織したシャイバーニーは中央アジアに侵攻する。
 そして1501年に中央アジアを征服し、シャイバーニー朝を成立させた。首都はサマルカンドである。

 1511年、シャイバーニー・ハンは戦死し、また権力争いが始まる。結局、二つに分裂し、16世紀初め、中央アジア西部にホレズム国家が独立する。
 16世紀始めから船を用いたヨーロッパとの交易が始まってシルクロードが衰退する。中央アジアの国々の経済状態が悪化し、17世紀の始めにはシルクロードが消滅してしまう。
 この頃、中央アジアは三つの国があった。シャイバーニー朝の首都をブハラに移してブハラ・ハン国となり、コーカンドからヒヴァに首都を移したホレズム国家はヒヴァ・ハン国となり、ブハラ・ハン国が分裂してさらにコーカンド・ハン国が建てられた。
 この3ヶ国は常に争っており、19世紀の始めまで経済状態は悪いままだった。

 帝政ロシアによる中央アジアの征服は、1718年の遠征に始まる。
 1686年にヒヴァ・ハン国はブハラ・ハン国に征服され、隷属する。ヒヴァ・ハン国の支配者はロシアに保護を求め、ロシアの領土となる。その支配を確実なものにするため、1717年にロシアはヒヴァ・ハン国に攻め入る。

 1730年代、現在のカザフスタンにあった三つの国は、中央アジアの三つのハン国に圧迫されてロシアに近づき、結果としてロシア領となった。
 しかし、ヒヴァ・ハン国はカザフスタンがロシア領となることを了とせず、1830年代になってロシアは自らに敵対するハン国の周りに要塞を築いた。この要塞は今もカザフスタン領内に残っている。

 1830年代のロシアは経済成長が著しく、中央アジアの資源を狙うようになる。
 南北戦争が終わって米国はロシアに綿花を輸出しなくなり、インドを支配していたイギリスが発展するのを見て、ロシアは中央アジアを征服した。ヒヴァ・ハン国だけは自ら従属することを選んだけれど、ブハラ・ハン国とコーカンド・ハン国は征服され、その領土はかなり小さいものとなった。
 この征服が激しいものにならなかったのは、中央アジアの側が著しく武器で劣っていたためだ。

 1917年にロシア革命が起き、1924年にソ連が起こる。ウズベキスタンにはウズベキスタン社会主義共和国が置かれ、当初、その首都はサマルカンドだったが、1930年にタシケントが首都となる。
 1991年9月1日にウズベキスタンが独立した。引き続き首都はタシケントである。

 「スタン」は「国」という意味で、ウズベキスタンはウズベク人の国、という意味だ。さらに、ウズは「私」、ベクは「支配者」という意味である。
 ちなみに、「キルギス」というのは40人の女性という意味だという。それがどうして国の名前となったのか、きっと何か言われがあるのだろうと思うけれど、よく判らなかった。

綿花摘みの少女たち バスを1時間くらい走らせると、綿花畑でたくさんの少女達が綿花摘みをしているところに行き会った。何だかよく判らないままバスが駐まり、みんなで綿花畑に降りる。
 とにかくこの綿花摘みの少女が美人さんで、みんなのカメラが集中する。本当にウズベキスタンには美人が多い。
 20分くらいお邪魔させていただき、にぎやかな彼女たちに混じってひとつふたつと綿花を摘んでみる。
 雨がポツポツと降り出したのをしおにまたバスに戻った。
 でも、旅行社がこれを指して「綿花摘み体験もできる!」とパンフレットに謳うのはどうかと思う。

 サマルカンドの街を出てからはずっと一本道を走った。
 綿花摘みから30分くらい走った頃に久々の三叉路を見て騒いでいたらバスが停まった。ガソリンスタンドでお手洗い休憩である。トイレが一つしかない。これが数十人のツアーなら大問題だ。9人のツアーで良かった。
 それでも待っている間ヒマだったし、ずっと車に揺られていたので身体を動かすべく、ヨガのインストラクターをやっているツアーメンバーの女性を講師にヨガ教室が開かれた。数人が輪になって片足立ちし、両手を上に上げて手のひらを合わせ、バランスを取ったりしている姿はかなり妙だったらしい。
 ちょうど給油しに来ていた人達の注目を浴びて笑われたり、写真に撮られたりした。

 ツアーも中盤で、何となく体調を崩したりお腹の調子がおかしかったりする人が出てきていたし、昼食のプロフがちょっと油っぽかったこともあって、みんな食べるのをセーブしていたようだ。
 その代わり、バスの中ではおやつの交換が行われ、サマルカンドのスーパーで買ったというクッキーなどもご馳走になった。スナック菓子などもいただいた。思っていたよりもしょっぱすぎずに美味しい。
 トイレが結構重要な問題になりつつあったので次の休憩までの時間をガイドさんに口々に聞いても、どうもはっきりした答えが返ってこない。答えてくれても、「本当〜?」とみんなから懐疑的な声が出るとすぐ答えが変わる。

隊商宿入口 17時過ぎ、ガイドさんに「どうしますか、キャラバンサライ(隊商宿)を見ますか?」と聞かれた。
 ぜひ見て欲しいのか先を急ぎたいのか、よく判らない質問である。しかし、こう質問されたら「見る」と答えるのが今回のツアーメンバーだ。バスを降りる。
 すでに傾いた陽に照らされた門が赤く染まっていて美しい。

往時の石畳隊商宿跡

 この隊商宿は、その昔通っていたシルクロード沿いに造られたものだという。
 当時は、30kmおきにこうした隊商宿と貯水池が用意されていた。隊商宿は2階建てで、普通の人用と偉い人用(という言い方もどうかと思うけれど)に分けられていたという。
 入口を入ってすぐのところにあった石畳のうち、ゴツゴツした箇所は17世紀当時のものだ。出発してすぐのガイドさんに説明からすると、シルクロードが最後に活躍していた時台の石畳ということになる。

貯水池外観 道路を渡った反対側に貯水池があった。
 こちらも夕陽を浴びて赤く染まっている。
 貯水池の水は湧き水で、春に満杯になりあとは減る一方だったらしい。夏の間の蒸発を避けるために屋根が付けられている。
 もう9月で夕方だけれど、さもありなんという日射しである。

貯水池内部 中に入ってみると、ちょっと飲める感じはしないものの、水が満々とたたえられていた。
 もしかしたら、今も農業用水として使われているのかも知れない。

ウズベキスタンの桜 18時30分くらいにギジュドバンの陶器工房に到着した。流石に辺りは薄暗くなってきている。
 ギジュドバンの陶器工房はスザニ工房も併設していて、こちらで作られたスザニが中山恭子氏の著書ウズベキスタンの桜の表紙にも使われ、現在は資料室に展示されている。
 自然素材の染料を使って染められた糸のみで刺繍されたスザニは、柔らかい印象である。

 この工房は200年くらい陶器を作っており、ご主人はレギスタン広場の修復にも参加したことがあるらしい。ヒラリーも来たし、チャールズ皇太子も来たんだと言う。
 ギジュドバンの陶器は、釉薬が流れるようになっているのが特徴だ。

釉薬をかける前のお皿挽き臼?

 ろくろのある工房や窯などを見せてもらう。もうすでに火が落とされてしまっていたのが残念だ。
 明かりがないから、恐らく、そもそも日が落ちた後で作業することは考えていないのだろう。暗い中、フラッシュを使わずに写真を撮ろうとしたけれど、あまり上手く撮れなかった。
 手ぶれをなくそうと壁に腕をついてカメラを支えていたら、袖口に真っ黒く煤のようなものが付いてしまった。我ながらマヌケである。水洗いしたら簡単に落ちたので助かった。

 一通りの見学を終えたらお買い物タイムである。こちらは観光客慣れしているらしく、同じくらいの大きさのお皿や鉢が集められて「*ドル」という札が置かれているのが判りやすい。
 自然染料のみというスザニも気になったし、お皿も欲しいと思っていたけれど、如何せん、長距離バス移動の疲れが激しい。そして、欲しいと思っていた20cmくらいのお皿が少なかったこともあって、私にしては珍しくお買い物をしなかった。
 後になって、自分用にごはん茶碗になりそうな鉢をひとつ買えば良かったと思った。それは次の機会に取っておくことにしよう。
 みなさんは、結構お買い物をされていたようだ。

野菜スープシュークリーム

 ギジュドバンの陶器工房から45分くらいで、ブハラの街に到着した。
 まずは、RESTRANT BELLA ITALIAという名前のイタリアンのお店で夕食である。
 野菜を使った前菜の他に、ブルスケッタが出てくるところがイタリアっぽい。

 野菜スープはビーツが入っているのか赤く、さっぱりしていて美味しい。油に疲れ始めている胃にはこのさっぱりさ加減がとても優しく感じられる。
 メインディッシュは牛の細切りを炒めたものとフライドポテトだった。
 そして、デザートのスワン・シュークリームが供されると「おぉ!」という歓声が上がった。

ホテルのお部屋  宿には21時くらいに到着した。
 ブハラの宿は アムレットホテルという、メドレセを改装したホテルだ。
 今回のツアーで宿泊した中で、ナンバーワンを付けたいホテルである。
 メドレセを改装したといういわれもいいし、なおかつ、水回りが綺麗に改装されてシャワーのお湯もたっぷり出る。お部屋のファブリックもウズベキスタンのスザニと絹織物(窓のカーテンと椅子の座面はマルギランの織物である)で統一されている。部屋では靴を脱ぐという仕様も嬉しい。
 予めお部屋を暖めてくれている、その心遣いも有り難い。
 小さなホテルで、私たちだけの貸し切りだった。

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