2013年6月15日(土曜日)
添乗員さん曰く「もうハイライトですよ!」という、世界遺産スカン・グアイに上陸した。
上陸した浜から木道が森の中を整備されており、森の奥にウォッチマンハウスがある。
何というか、深い森で、苔の森である。
とにかく急いでトーテムポールに向かいたい気持ちと、こんなに気持ちのいい場所なのに足早に過ぎることのもったいないという気持ちとのせめぎ合いだ。
ウォッチマンハウスに到着して、中に入れていただくと頭上にワタリガラスとハクトウワシの紋章というか意匠を刻んだ梁が飾られていた。
左側がワタリガラス(レイブン)で、右側がハクトウワシ(イーグル)だ。見分け方としては、くちばしの先が分かれている(離れている)のがハクトウワシで、くちばしの先までぴったりくっついているのがワタリガラスだ。
ハイダ族は、ワタリガラスの家系とハクトウワシの家系(クラン)に分かれている。
スカン・グアイにいたウォッチマンは、息子(といっても40代後半)のジョルダンと、お母さんのお二人だ。昨日行ったスケダンス島でウォッチマンをしていたアイリーンとこのお母さんは姉妹だという。
それだけ残されたハイダの人々は少ないということか、ジョルダンの一族が多くウォッチマンを務めているということか、よく判らなかった。
この掲げられているお魚はオヒョウで20ポンドくらいあるという。後で持たせてもらったら本当に重かった。彼らが釣ったり捕まえたりしたのではなく、漁師がここまで売りに来ると言っていた。
スカン・グアイでもウォッチマンのジョルダンが案内してくれた。
彼の先導で、ちょうど潮が引いていた海辺に向かう。再び、苔の森を歩く。両側に岩が迫るような道で、夕方17時くらいになって、雲も出ていたので、ちょっと暗い森の道を歩く。
上陸したのとは反対側の海辺にトーテムポールがあるようだ。
のんびり苔やお花を眺めたり、写真を撮ったりしながら30分くらい歩いて、村のあった場所に到着した。
ちょうど引き潮だったようで、海からトーテムポール達を見ることができる。ボートに乗らず、正面からトーテムポールの立つ全体の様子を見られることはなかなかないので、これは嬉しい。
ここは1880年代に放棄された村で、一部には焼かれた跡も残っている。
完全な姿で残っているトーテムポールはなく、弱っているので落ちてきたりする可能性もあるから近づいてはいけないと注意を受けた。ウォッチマンでも近寄ることは禁止されていると言っていたから、相当弱っているのだろう。
1957年に、フロントポールのうち状態のよかったものは博物館に収めるために持ち出されてしまっている。
ハイダの人々は「朽ちてゆくまま」にすべしと考えているので、スカン・グアイが世界遺産に登録されるに当たって「保存」ということについて議論が起き、ここでも、最終的に最低限の支えを施してあるのみとなっている。
ここでは17軒の家に300人くらいが住んでいたそうだ。族長の家はポトラッチのときなど50人もの人が入ったけれど、平均すると1軒の家に10〜15人が暮らしていたという。
トーテムポールと家々はこの入り江を囲むように建てられており、向かって左側にハクトウワシのクランの人々が、右側にワタリガラスのクランの人々が住んでいたという。
昔といっても150年くらい前のことだ。カニなどの海の幸を獲り、ベリーを摘み、ジャガイモ畑を作って暮らしていた。ハイダ・グアイ南部には、17の国(村)があり交易も行われていたという話の一方で、「よその国(村)と関係が生じるのは戦争のときくらいだった。」という説明もあり、その辺りの関係がどうなっていたのかよく判らなかった。
戦争になると女性は子ども達は家々の後ろにある山(森)に逃げ込み、海辺には砦も築かれたという。
現在残っているトーテムポールは、そのほとんどが墓棺柱だ。家の前に立っていたフロント・ポールと呼ばれるトーテムポールのほとんどは博物館に持って行かれてしまっている。
スカン・グアイには、他の場所に通じる道はない。博物館に納める際には、トーテムポールを海に浮かべ、漁船で引っ張って運んだそうだ。合理的なのか、適当なのか、よく判らない。
トーテムポールの後ろに回ると、家の跡を見ることができる。
家の四隅に建てられていた柱を割って木が育ってきているところも見られる。こうして、この家々の跡も森に帰って行くということなんだろう。
家の後ろから見ると、ハイダの家もトーテムポールも海に向かって建てられていることがよく判る。
レイブンクランの族長の家は6beam、ハクトウワシの族長の家は2beamだというから、梁の数で家の立派さが決まる訳ではないということは、ここスカン・グアイでも同じようだ。
族長の家には奴隷がいた(奴隷はこの辺りで寝ていた、という説明がさらっとあった)と言われて驚いく。本土にいたクリンギット族と戦争し、連れて来た捕虜だったらしい。
家々を構成している木もトーテムポールを造った木もいずれも米スギで、だからこそこうして今も辛うじてその跡を残している。
トーテムポールの意匠は動物であることは分かりつつ、結構抽象化されていて見分けるのは難しい。
左側の写真のようにギザギザした歯はシャチの象徴で、右側の写真のような羽の模様はハクトウワシの特徴をよく表していると説明を受けたことはよく覚えている。
この入り江もとにかく気持ちのいい場所で、ジョルダンさんの説明を受けているうちに、青空も覗き、日も射し、再び海の水が満ちてきたのが嬉しい。
「19時15分には出発します。」と言われたのも何のその、ダッシュすれば間に合うだろうとその場にできる限り長く残り、黄色く小さいお花畑に立っているトーテムポールや、傾き始めた日の光を浴びるトーテムポールたち、横一列に並ぶトーテムポールを斜めから捉えたり、とにかく写真小僧となってパシャパシャと写真を撮りまくった。
それでも、やっぱり、あの気持ちの良さを写真に残すことはできないのが悔しい。
スカン・グアイに来て、一番最初に近づき一番最後に別れるのは、グリズリーベアが人間の子供を抱えた意匠のトーテムポールである。
このトーテムポールは、ちょうど目の前に海からの風を避けるように木々が立ち並んでいることもあって保存状態がよく、最後まで残るだろうと言われている。
このトーテムポールも墓棺柱で、その棺が非常に美しく彫刻されたものだったので150〜200年前に持ち去られてしまっている。
棺は通常2m近くあり、それだけ重いものを頭に載せて安定して立たせるのは大変だろう。1mくらいも堀り、大きな石(岩)を回りに置いて支えるようにしているという話だった。
本当に本当に名残惜しかったけれど、ウォッチマンハウスでゲストブックにサインし、お手洗いを借り、何故か見学前に見せていただいたオヒョウまでいただいて、19時30分過ぎ、スカン・グアイを後にした。
添乗員さん曰く、「あとは帰り道」である。
スカン・グアイから本日の宿であるローズハーバーゲストハウスまでは近く、20分ほどで到着した。桟橋があってボートからの乗り降りが楽なのが有り難い。
部屋割りなどのために添乗員さんが走り回っている間、エリンがボートを少し沖に留めてくると言うのでくっついて行くと、「ボートを置いてくるだけよ?」と彼女が不思議そうにしている。「エリンが乗ってからボートを私が押せば楽にスタートできるでしょ。」と言ったら、彼女の返事は「来年はここで助手になれるわ!」だった。
いやいや、私にはエリンのタフさも賢さも可愛らしさも(これはガイドに必須ではない)ありません、と思う。ちょっと可笑しいやりとりだった。
このゲストハウスは(多分)2棟に分かれていて、男性陣はグッヅさんも暮らす母屋へ、女性陣はゲストルームのみのもう1棟に泊まることになった。
外観は「大丈夫か?」という感じだけれど、中に入ると、真ん中にロビーがあって、左右に1部屋ずつ(2段ベッドとシングルベッドの部屋と、ダブルベッドの部屋)、急なはしごのような階段を上がるとツインベッドのお部屋が二つあり、なかなか居心地がいい。
水道は部屋の中に、お手洗いは徒歩20秒の外にある。
私たちは、家の中で土足は落ち着かないと玄関口でハイキングシューズは脱いでしまい、それぞれスリッパやビーチサンダルで過ごすことにした。
レインウエアを脱いでゲストハウスの外、屋根がついている場所にかけて干し、それぞれの部屋にはLEDの小さなスタンドしかないので「暗くなったら大変!」と食事の前にベッドメーキングに取りかかる。
21時くらいから夕食をいただいた。
男性陣はとっとと身支度や荷物整理を済ませて先に始めていたらしい。女性陣は別のテーブルに固まった。そうなると、関西の方5人の中に私が一人いる格好で、ちょっと肩身が狭い。
オードブルだというウニのお寿司にびっくりした。確かにオードブル扱いで、一緒にテーブルに置かれていたのはグリーンサラダだ。
流石にごはんは寿司飯ではなく普通のごはんで、でも海苔が巻いてあるところが凄い。醤油も山葵ももちろんある。
今日のごはんは、昼も夜もウニが溢れんばかりだ。
ウニはオードブルで、もちろんメインディッシュがある。
焼きそば風のパスタに、アブラメという白身のお魚のソテーが用意されていた。あっさりした白身のお魚に、中華風の味付けのソースが美味しい。そういえば、スカン・グアイでもらったオヒョウはどこにいったのだろう。謎だ。
パスタは、添乗員さん持参のしょうゆでちょっと味を足すと丁度いい加減になって、みなさん、おかわりをしていた。
ココナツのケーキと、自家製だというミントティーが供された辺りで、エリンから「サンセットよ。」と声がかかった。
スカン・グアイを出発するとき、私が添乗員さんに「今日、夕陽が見られるといいですね。」と言ったことを覚えてくれていたらしい。
コンデジは持ってきていたけれどデジイチは部屋に置いて来てしまっていたので、慌ててダッシュして取りに戻った。時刻は22時だ。
エリンに声をかけてもらって部屋に戻り、ちょうど部屋の前辺りから撮った最初の1枚を撮る。
次々に写真を撮っていたら、ついにデジイチの電池がなくなってしまい、もう一度慌てて部屋に戻って電池を替える。どうしてこういうときに限って電池切れになるのかと思う。
ふと気がつくと、添乗員さん含めツアーメンバーがポツポツと海岸線に出て写真を撮っていた。
グッヅさんまで出て来て写真撮影をしているのが可笑しい。可笑しいけれど、本当にここが、特にこの夕焼けが好きなんだろうなと思う。
ローズハーバーは元々は捕鯨基地があった場所で、グッヅさん夫妻は捕鯨会社がこの場所から撤退するときにその敷地を買い、住み続けている。
グッヅさんに「僕の撮った写真の方が赤く撮れている。」と自慢されて、だってグッヅさんは毎日見て毎日写真の工夫ができるんじゃん! と思ったけれど、それを英語に直す語学力がない。仕方がないので膨れて見せ、そのまま撮り続ける。
「色々なアングルで撮っておくといいんだよ。」と言われ、グッヅさんのマネをしたり、母屋の窓に映る夕日を撮ったり、アングルだけでなくホワイトバランスを変えたり試行錯誤していると、日が沈むのなんてあっという間だ。
そうした試行錯誤の中、いかにも「ローズハーバー」な色に撮れた写真がこれである。
ローズハーバーの名前の由来は絶対にこの空の色にあると思う。
日が落ちきって真っ暗になり、食堂に戻った。お料理はグッヅさんの奥さんのマリアさんが担当だ。
食べかけになっていたケーキとミントティーをいただき、23時前に解散した。
ローズハーバーゲストハウスでは、薪で沸かしたお湯のシャワーを浴びることができる。汗もかいていないし、ツアーメンバーはみなさん回避したようだ。添乗員さんは、「レポートを書かなくちゃいけないので。」とチャレンジしていた。
風邪をひいたら大変なので私もパスし、シャワーシートと「水のいらないシャンプー」で済ませた。
リビングに陣取って、持参したLEDのヘッドランプで足もとを照らして差し上げつつみなさんがお手洗いを済ませるのを見届けた後、海に向かって窓が開きしかも便座が二つ並んでいるお手洗いを使った。返す返すも、この超絶ロケーションの二人用トイレの写真を撮らなかったことが悔やまれる。
発電機を回しているのだろうに申し訳ないと思いつつ、夜中に誰かが起きて何かにぶつかってコケても大変なので、水場にあったLEDのスタンドはつけっぱなしにさせてもらった。
ハイダ・グアイ旅行記3日目その1 <- -> ハイダ・グアイ旅行記4日目その1