2014.01.05

ハイダ・グアイ旅行記の入口を作る

ビル・リードの熊 ここはハイダ・グアイ旅行記の入口である。
 以下の日程をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。


 ハイダ・グアイ旅行記1日目 2013年6月13日(木曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記2日目その1 2013年6月14日(金曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記2日目その2 2013年6月14日(金曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記3日目その1 2013年6月15日(土曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記3日目その2 2013年6月15日(土曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記4日目その1 2013年6月16日(日曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記4日目その2 2013年6月16日(日曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記5日目その1 2013年6月17日(月曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記5日目その2 2013年6月17日(月曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記6日目その1 2013年6月18日(火曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記6日目その2 2013年6月18日(火曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記7・8日目 2013年6月19日(水曜日)・20日(木曜日)


 


 その国の旅を終えて 100の質問 (カナダ ハイダ・グアイ編)


 持ち物リスト(カナダ ハイダ・グアイ編)


 2013年06月 「カナダ ハイダ・グアイ」の写真

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ハイダ・グアイ旅行記7・8日目

2013年6月19日(水曜日)


 前日、スタンレーパークでのトーテムポール見学まで怒濤のバンクーバー観光をこなし、ホテルに入れたのは23時くらいだった。遅くともお昼にはバンクーバーに到着できるつもりで立てた観光計画を、17時半過ぎに到着して詰め込んだら、それくらいの時間になってしまっても仕方がない。


 バンクーバーでの宿は、エンパイア・ランドマーク・ホテルである。
 昨夜、部屋に入って電気のスイッチを入れたのに明かりがつかず、真っ暗だった。おかしいとカードキーを差すスリットを探したけれど見つからない。バスルームやメインの明かりは点くので、どうやら入口の照明の蛍光灯が切れてしまっているようだ。どうせ一晩だけだし、もうあとは寝るだけだしいいかと思ったけれど、ちょうどその場に残っていた添乗員さんがホテルのメンテナンスを呼んでくれた。


 しかし、メンテナンスのおじさんが蛍光灯を交換してもやはり明かりは点かない。「いつまで滞在するの?」と聞かれたので「明日まで。」と苦笑しつつ返すと「だったら、いいよね。」とおっしゃる。「もちろん!」と返し、15分余のメンテナンスの方の努力は報われずに終わった。
 蛍光灯を交換しても点かなかったから、多分、グローだと思う。


 そんなやりとりもあり、昨夜、ベッドに入れたのは1時を回ってからだった。
 添乗員さんは、スーツケースの重量オーバーに懲りたようで、「もうお買い物は空港だけにしてください。」と釘を刺し、その代わり予定よりも早めて8時半にホテルを出発するよう前日のうちに現地ツアー会社と調整していた。
 5時半に起き、朝食前に大方の荷造りを済ませる。


朝食 6時半過ぎにバウチャーを持って朝食会場である最上階に行くと、ツアーの方はどなたもいなかった。もっと早かったのかもっと遅かったのかどちらだろう。
 ビュッフェ形式の朝食で、窓際のテーブルに陣取って、久々の「一人の朝食」である。
 しかし、出発前にスーパーに行こうと思っているので、バゲージダウンが8時であることを考えるとそれほど余裕はない。そそくさと朝食を終えて部屋に戻った。


スーパーマーケット ホテルの前の坂を少し下った道の反対側にWHOLE FOODS MARKETがある。8時少し前に到着すると、どうやら開店準備中で、時間どおりにオープンするようだ。有り難い。
 このスーパーはデリが美味しいことでも有名で、デリが目当てなのか、コーヒーを片手に持った、いかにもキャリアウーマンな感じの人が車でキキッと乗り付けてやはり開店を待っている。
 開店と同時に入店し、職場へのお土産を見繕って15分ほどでホテルに戻った。
 できればスーパーで購入したものをスーツケースに詰めてしまいたかったけれど、ホテルを出る前に廊下に出しておいた私のスーツケースは、すでに集められて車に積み込まれてしまっていた。


ハイダ・グワイの精神、ジェード・カヌー」 9時過ぎ、空港に到着した。
 チェックインの前に、ビル・リードの作品「ハイダ・グワイの精神、ジェード・カヌー」を見学する。今回のツアーで、ここが最後の「見学場所」である。
 その後、セキュリティチェックを抜けて一度解散となった。ゲート再集合まで2時間もある。ここで2時間を過ごすなら、もうちょっとゆっくりスーパーでお買い物したかったなぁと思う。


 他にやることもなく、暇に任せてくまなくお店をチェックする。
 USA便専用のエリアがあって、そちらに私が欲しかったハイダのアクセサリを扱っているお店がある。「あっちに行ってもいい?」と聞いたら、警備のおじさんに「そのチケットでは行けない。」と止められてしまったので仕方がない。散々探し回り、普通のお土産物屋さんでやっと見つけた、ワタリガラスをモチーフにした錫合金のペンダントトップを購入した。
 ハイダ関連のお土産は、サンドスピットの空港が一番充実していたと思う。


 歩き回って喉も渇いたので、プライオリティパスを使ってラウンジに入り、ジュースを飲んで休憩した。
 こうした「ちょっとした休憩」を気軽に、しかも無料でできるのがプライオリティパスのいいところだ。
 今回の旅行でカナダドルの現金を使う機会はほとんどなく、最後は空港の売店でサーモンに全額をつぎ込んだ。それならば別にカフェでお茶しても全く問題ないのについ貧乏性になってしまう。


 エアカナダ3便は、定刻通り12時10分に出発した。
 添乗員さんが「こちらで用意するので受け取らないでください。」と言っていた税関申告書を、やはり、受け取ろうとした方がいらしたので慌てて止める。別に受け取っても構わないけれど、次に「どう書くの?」という話になるのは目に見えている。


− 以下、日本時間 −


2013年6月20日(木曜日)


機内食 6時過ぎに最初の機内食が供された。ビーフは牛丼で、チキンはパスタだという。それにサラダとチョコケーキが付いた。
 日本時間だと朝食の時間だけれど、メニューとしては夕食という感じだ。
 添乗員さんだけ少し離れた席にいたので、結果として、私がメニューを周りの方に説明し、ついでに注文も取る羽目になった。何だかなぁと思うけれど、仕方がない。


 13時頃に2回目の機内食が供された。私たちの少し前の列で片方のメニューが終了してしまったため、問答無用でやきとり丼とフルーツというメニューの機内食が配られる。2食続けて同じようなものを食べているなぁと思ったけれど、注文取りが必要ないのは有り難い。


 最初は「成田空港に到着したら流れ解散です。」と言われていたけれど、預入荷物を受け取るところで再集合がかかった。スーツケースを自宅へ送るために多少の詰め替えもしたかったので、国内線に乗り換える方々にお付き合いする。
 成田空港からの車を予約していた方が、日付変更線を超えることを計算に入れておらず1日前に予約してしまったとそちらもてんやわんやである。本来業務ではないだろうに添乗員さんはそちらの確認と再予約、手配に大わらわだ。
 私はどこまでお付き合いすればいいのだろうと思いつつ、みなさんが国内線乗り継ぎのチェックインに並んだところで失礼させていただき、無事に帰宅した。


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2014.01.04

ハイダ・グアイ旅行記6日目その2

2013年6月18日(火曜日)


 


博物館の展示1 バンクーバーのUBC人類博物館の建物の中にも、各地から集められたトーテムポール等の展示品がある。
 これなどはかなりざっくりとした抽象的なデザインである。
 こうしたトーテムポールは、西海岸のみ、しかもアメリカ合衆国のアラスカ州とカナダのブリティッシュ・コロンビア州との境目辺りから南北に分布しているという。


博物館の展示2 南下するに従って、具象的・立体的なデザインに変化する。
 私たちがこれまでのツアーで見て来たトーテムポールは、そうすると、かなり「抽象的」なデザインのものに限られていることになる。
 こちらよりは、一つ前に見た「抽象的」と評されたトーテムポールに懐かしさというか親しみを感じるのもきっとそのためだ。


 先住民は文字を持たず、その歴史はポトラッチで受け継がれて来ている。ポトラッチとは、たくさんの人を集めてトーテムポールNお披露目をし、そのポールについて語ることを認めてもらう行事である。
 この辺りは、少なくとも私にとっては「新説」である。
 トーテムポールに彫られたものの解釈は、人から人へと受け継がれ、「語ってよし」という権利を持つ人しか語ることはできない。宮田さん曰く「だから、私には語ることができません。」ということになる。
 そして、そのトーテムポール全体の物語を語る権利は、たった一人の人からたった一人に受け継がれ、例えば踊りなども同様に受け継がれ、いずれの場合もポトラッチの場で承認を受ける必要があるという。


 だから、ポトラッチが開かれなければ、そのトーテムポールの物語も、踊りも、伝承が途切れてしまう。
 しかし、後からやってきたヨーロッパの人々はポトラッチを「野蛮なもの」と判断して禁止し、さらに子ども達を親元から離してレジデンシャル・スクールに通わせて、先住民の文化を殺してしまう結果になった。
 ただし、カナダではヨーロッパの人々による先住民の虐殺はほとんど起きていない。これはビーバーの毛皮を手に入れるために来たからだそうだ。ビーバーの毛皮の帽子は当時のヨーロッパでは「セレブの象徴」で、そのビーバーの毛皮を上手く手に入れるためには先住民の協力が不可欠だったのだ。


博物館の展示3 次に宮田さんが連れて行ってくれたのは、ペインティングボックスだった。
 杉の一枚板を蒸して柔らかくし、曲げて箱にしてあるという。杉はよほどしなる素材なのだなと思う。「木を折り曲げて作った」なんて思えない箱だ。
 継ぎ目がないため、水も漏れないし入らない、虫も入らないし杉の木には防虫効果もある。こういった箱は、大切なものを保管するために使われていた。
 そして、その「大切なもの」には、人の骨も含まれる。


 墓棺柱は、ヨーロッパ人が遺骨が納められた状態のまま多く持ち去ってしまった。
 ハイダでは、人は生まれ育った場所に戻らなければ安らかに眠ることはできないとされており、棺はともかく遺骨だけは返して貰えないかという運動が行われている。そうして戻された遺骨を若い芸術家達が新しく作った棺に納めることが続けられているという。
 これまでに聞いたお話と繋がるお話が聞けて嬉しい。


皿 「置物」とか「船」としか思えないこれらの正体は、ポトラッチで使われた食器だという。
 見えない。大き過ぎる。
 ポトラッチのご馳走は魚介類がメインで、サーモンがやはり多く、その他ベリー類も人気だったらしい。気候が温暖で冬に暖かい雨が降り、夏に晴天が続く地域に住んだ先住民は、食べ物に苦労することがなく、だからこそ家やトーテムポールを作り、その意匠に凝る余裕も生まれたそうだ。
 しかも、温帯雨林は、家やトーテムポールの材料となる杉の木も大きく育てる。
 これらの条件が全て整わなければ今見ているようなものが生まれることはなかったことになる。不思議だ。
 実際、カナダでも内陸に住んだ人々は、バッファローの狩猟中心の生活を送り、後に残るものを作る余裕がなかったという。


船 サーモンを釣るのに使ったと考えられているボートも展示されている。杉の木をくりぬいて作られている。
 ハイダの人々は高い航海技術を持っていて、バンクーバーとハイダ・グアイを行ったり来たりしながら交易なども行っていたらしい。この「行き来が頻繁」という属性が、疫病を広げる原因にもなってしまったそうだ。
 しかし、こんなエンジンもついていないボートでよく外海にこぎ出そうと思ったものである。
 このボートは一体何人乗りなのだろうか。


手を広げる人 奥にいる、手を広げて迎え入れてくれているかのような人形は、その見た目どおり「あなたを心から受け入れます」というメッセージを送っているそうだ。
 ハイチカというと教えてもらったと思うけれど、自分で取ったメモの字が汚すぎて判別不能である。
 この「人」の腕は可動式になっていて、迎え入れるときには手を広げ、何らかの理由で拒絶するときには腕を下げる。判りやすい意思表示だ。


ワタリガラスと最初の人々 宮田さんが最後に連れて行ってくれた場所が、ビル・リードの「ワタリガラスと最初の人々」だった。
 ビル・リードの代表的作品の一つだ。
 ワタリガラスが貝をつつき、中にいる人間に「出て行くように」と促した、しかし、一度出て行った人間がまた貝の中に戻ってしまった、という物語を持つ、象徴的な作品である。
 思っていたよりも大きい。
 そして、思っていたよりも小さい。
 360度どこから見ても「作品」だし、どこからも見られるように展示してあったけれど、やはりこの角度が一番「らしい」ような気がした。


 50分にわたる宮田さんのガイドは終了し、あとはフリータイムで30分後に集合と言われた。
 最初のうちは、宮田さんお勧めの、仮面(マスク)がたくさん展示されたお部屋などを見ていたけれど、30分という時間は焦るし落ち着かない。それだったらと、宮田さんにくっついて質問することにした。
 その最初に出た質問が「えーっと、ハイダというのは、民族の名前? いや、部族の名前ですか?」だったのだから、我ながら情けない。しかし、このときまでそこを考えずに、何となく「ハイダ」という言葉を使って来てしまっていた。


 しかし、見ようによってはスルドイ疑問でもあったようで、宮田さんの第一声は「それは難しい。」だった。
 ハイダ・グアイ一帯の地図を見ると、領域を区分するラインが引かれており「族」の名前が書かれている。学問的には、使われている言語によって分けて考えている、のらしい。
 けれども、実際問題として重要なのは学問よりは「当人たちがどう思っているか」ということで、例えばハイダであれば「自分(達)はハイダ族である」と思っている人々の集まりがハイダ族であり、彼らが主に住んでいる地域がテリトリーということになる。
 彼らは交易・交流も盛んだったから、「言葉が違う」「言語で分ける」といっても、相互にかなり似ている言葉をしゃべっていたし、そういった固有の言語とは別に、交易用の言葉も持っていたという。ますます、ややこしい。


 ボートツアー中に「大陸から捕虜を連れて来て」とか「武器を持った敵が通れないように」などという説明を聞くことが意外と多かったのでその点を尋ねてみると、「ハイダ族の中で小競り合い程度はあったかも知れませんが。」というニュアンスのお答えだった。
 そして、たとえ村同士が争っていたとしても、同時にそれぞれの村の若者同士が結婚することも普通にあったというから、「争い」は儀式と化していたのかも知れないし、政治と暮らしは別という感じだったのかも知れない。


 トーテムポールに刻まれたことの意味を語る資格は「一子相伝」で、この「一子相伝」は必ずしも親子間で行われた訳ではなく、例えば、師匠から弟子へというパターンもあるという。
 トーテムポールは、倒れることもあるし、失われることもある。ハイダの人々の人数も少なくなってきている。結果として、あるトーテムポールとその「正しい」語り手という組み合わせが減って行ってしまうのではないかと思った。


 ポトラッチが開かれなければその「語り手の認証」もされないのでは、今は「一子相伝」は廃れてしまっているのではないかと質問したら、ポトラッチは現在も行われているそうだ。しかも、普通に公民館で開催されたりするらしい。
 ポトラッチは昔に行われていた、既に失われてしまったものというイメージを勝手に持っていたし、「大地のエネルギーをもらう」みたいな、キャンプファイヤーを囲んで開催されるような情景を妄想していたので、宮田さんの説明の中ではこの話が一番の衝撃だった。
 しかし、思い返してみると、星野道夫の著書にもポトラッチに参加したエピソードが書いてあったように思う。


ポトラッチの回数 このトーテムポールに刻まれているのはカエルのクランの長で、帽子に入ったラインの数が生涯にポトラッチを開催した数である。3回というのは非常に多いし、この長に人脈も集客力もあったことが判るという。ポトラッチを開催するために、もちろんお金も必要だろうけれど、最重要課題は「カリスマ性」だという。なるほどと思う。
 しかし「3回で非常に多い」ということになると、これまで見た19本のラインの入ったトーテムポールなどはどうなるのだろう。もしかして、あちらは「一人の長が」という趣旨ではなかったのかも知れない。


面 例えば、「四角い耳を持った熊の面」というカタチについて語ることはできるけれど、ポトラッチでの認証を受けていない以上、どういうストーリーを持っているのかということについて語ることはできないそうだ。
 宮田さんは、意匠の説明はできても物語は語れない、というのはそういうことだと言う。
 この博物館には多くのお面が収蔵されており、普通サイズの面は儀式のときなどに被って使われていたもので、大きな(確か私の身長と同じかそれ以上のサイズのお面もあった)ものは、家の中で柱に飾られていたものである。
 このお面は、口をすぼめて口笛を吹いていて、山姥のような子供を攫うと考えられていた「イキモノ」だと聞き、そんなものを飾らなくてもいいのでは、などと考えてしまった。


 この辺りでタイムアップとなった。
 でも少しは見たいとミュージアムショップに駆け込む。駆け込んだらツアーの方ほとんど全員がすでに臨戦態勢であちこち見て回っていた。
 後から思えば図説のようなものを買えば良かったのに全く頭に浮かばなかったのが無念だ。
 19時45分まで、UBC人類学博物館を堪能した。堪能したけれど全然時間が足りなかった。ぜひまた訪れたいと思う。


魚貝のパスタサラダとビール グランビルアイランドに移動し、The Sandbar Seafood Restaurantで20時半くらいから夕食をいただいた。
 メニューは、グリーンサラダ、魚貝のパスタ、チーズケーキである。
 グランビルアイランドにはビールの醸造所があった筈と、飲み物にはグランビルアイランドの名前を冠したビールを頼んだ。確か、ISLAND LAGERだったと思う。メニューに書かれた6カナダドルというお値段に、税・サービス料を足すと1.5倍の9ドルになってちょっと驚いた。ガイドさんによると、「お酒と煙草をやる人は成人病予備軍だから、医療費を使う分、税金も払ってもらいましょう」というのが政府の方針だそうだ。
 パスタの塩気がちょっと足りないと思いつつ、今回のツアー最後のディナーを普通に美味しくいただいた。


 しかし、ツアーメンバーの特に男性陣にとっては「物足りない」ディナーだったようで、車まで移動する間、「最後のディナーなんだから、土地の名物を出すべきだ。」、「どうしてサーモンを出さないのだ。」、「食事も旅を楽しむための重要な要素である。」等々というご意見を聞き続ける羽目になった。
 恐る恐る「あの〜、添乗員さんにおっしゃった方がよろしいのでは・・・・。」と言ってみると「もちろん、言ってある。」とおっしゃる。私に改善を求めている訳ではなく(当たり前だ)、教えを説いた、という心持ちだったらしい。
 個人的には、レストラン自体の評判は悪くないようだし、メニューのチョイスというより予算の問題だったのではないかと思った


 バンクーバー最後の観光地は、スタンレーパークである。
 いかに日の長いバンクーバーといえど、流石にもうすっかり夜だ。その夜の街を「車窓観光」という感じでチャイナタウン、ガスタウン、カナダプレイスを抜け、スタンレーパークに到着した。すでに22時を回っている。
 トーテムポール広場の前から、対岸のバンクーバーの夜景が鮮やかに見える。
 「品の良い夜景」というイメージなのはどうしてなんだろう。


ハイダのトーテムポール スタンレーパーク観光の唯一にして最大の見どころはトーテムポール群だ。
 カラフルに塗られ、ライトアップされたトーテムポールは、何だかこれまで見て来たトーテムポールとは全く別のものという感じがする。9本並んでいるうち、ハイダ族のトーテムポールが一番端にある。やはり何だか異質なものとしか思えない。
 その場にある、その場にあり続けている、そして近い将来朽ち果ててしまうだろうと言われているトーテムポールを見られて良かったと改めて思った。


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ハイダ・グアイ旅行記6日目その1

2013年6月18日(火曜日)


 前日の夜に調子に乗ってガンガン飲んでしまったためか、また1時間ごとに目が覚めて熟睡できなかった。
 この日の予定は、軽いハイキングの後でバンクーバーに移動、軽く観光という感じだから問題はないだろう。
 6時半頃に起き出して荷物整理を始めてみたものの、これからレインウエア等々を使うし、なかなか進まない。


朝食 8時に朝食のためレストランに行くと、添乗員さんだけがいない。お部屋のドアをノックしてみたけれど返事はなく、昨日潰しちゃったかしらとちょっと心配になる。
 レストランのお姉さんがジュースの注文を取り始めたので、みなさんのご希望を確認し、お願いしたところで添乗員さんがやってきた。朝一番でランニングに出て、うっかりコース取りを間違えて思ったよりも時間がかかってしまったと言う。
 「添乗に出て寝坊したことはないですから。」と胸を張られたけれど、寝坊はしていないかも知れないが自分が指定した朝食時間に間に合ってないじゃん! と思う。


 フルーツヨーグルトとハムエッグ、トーストにコーヒーの朝食を終えて、今日はスケジュールに余裕があるので、9時半に希望者のみトレイルに出発と決まった。
 この日も雨模様で、しかも寒い。かなり短いトレイルという話で、歩いて暖かくなるということもなさそうだ。上は、長袖Tシャツに長袖シャツ、フリースを重ねた。下もヒートテックのスパッツにナイロンパンツを重ね、この上から持参のレインウエア上下を着て出かけた。
 トレイルの入口まではホテルの車で送ってくれる。参加者7名+添乗員さんの全員は1回では乗り切れず、問答無用で一人参加の3人は後発にされて置いてけぼりだ。


トレイル入口 ホテルの車が戻って来たと思ったら、何故か添乗員さんともうお一方が乗っている。忘れ物をしてしまったらしい。
 出発直前に「双眼鏡があったら持って行ってください。」と言われたから、うっかりしてしまったのだろう。
 再び5人で出発し、エリンお勧めのトレイル入口に全員が揃ったのは、10時半近かった。このトレイルは1周400mくらいだそうで、楽勝だ。
 逆に言うと、こんな何でもないコースのトレイルが整備され、入口にこんな表示まであるというのが凄い。カナダの人は自然や歩くことが好きなんだなと思う。


トレイルトレイル ポツポツと降っている雨は、木々が遮ってくれる。のんびり出発した。
 土の道が整備され、ところどころ階段などもあって、ちゃんと手入れされているという感じだ。
 これまであまり気がつかなかったけれど、この森の中は小鳥のさえずる声がたくさん聞こえて来る。
 少し離れたところで、ハクトウワシが飛んでいる姿も目に入った。


海 ちょうど半周歩いた辺りにベンチと四阿があり、海を望めるようになっていた。
 双眼鏡の出番だ。ここから「鯨が見られるかも知れない」らしい。
 鯨は、北島と南島の間の水道を通って大陸側と大洋とを行き来する。エリンは「今年はslowだから。」と言っていて、ボートツアー中に鯨に出会うことはできなかった。果たしてこの場所ではどうだろうか。
 本当か? と半信半疑でしばらく目を凝らしたけれど、曇天でもあり、残念ながら鯨の姿を拝むことはできなかった。
 その代わり、お花がちらほら咲いているところを見ることができた。


ピンクの花黄色い花


黄色い花白い花


 アップダウンも少ない400mのトレイルはあっという間に終わってしまい、1時間もかからずに一周できた。
 トレイル入口に戻ると、添乗員さんがホテルに電話してくれ、お迎えを待つ。
 添乗員さんはこちらに「先に戻りたいですか? 決めていいですよ。」と言うけれど、ホテルのオーナーと添乗員さんが何やら交渉しているのは丸分かりで、判ってしまったら譲らない訳に行かない。それを「選んでいい。」ってどういうこと? と私はかなりお冠である。
 一緒に残されるハメになった一人参加の方は、そちらはそちらで「これまでの利用回数で差別するのは許せない。」と言い始めるし、どちらかというと利用回数よりは敬老精神によるのではないかと思いつつ、「当然のように」譲らされることに釈然としないのはこちらも同様である。


 思ったよりもお迎えの車が早く来てくれて、12時前にホテル戻ることができた。
 部屋に戻ろうと廊下を歩いていたら、一人参加の女性から「私の部屋を空けなくちゃいけないから、そちらの部屋に入れて。」と言われて思わず体ごと引いてしまった。
 「ちょっと待って! ひと様に見せられるような状態じゃないの!」と慌てて押しとどめていると、添乗員さんが部屋のドアから顔を出した。曰く「新しいお客さんが来るので部屋が足りなくなったということで、ご協力いただくことになったんですが、まだしばらくはお部屋にいていただいて大丈夫ですから。」という説明で、事なきを得た。
 どうやら、添乗員さんはその手配のために早く戻りたかったらしい。


昼食 雨に濡れたのでシャワーを浴び、13時からの昼食の前に何とか荷造りを終えることができた。
 メニューは、クラブハウスサンドに山盛りのポテト、、キャベツのサラダ、紅茶である。
 空港から歩いてすぐということもあって、近くのテーブルには空港職員らしい方の姿も見える。
 ゆっくり昼食をいただいて、ホテルの売店でしばしお買い物タイムとなった。姉妹で参加されていた方々のお買い物っぷりが凄くて「この棚のここからここまで全部いただくわ。」という買い方に近い。初めてこの目でそのシーンを目撃してしまった。


 バンクーバーに向かうエアカナダ8503便は、15時20分発予定である。つい最近まで午前中に飛んでいたこの便が午後に変更になったおかげで、今日の午前中をゆっくりサンドスピットで過ごせた代わりに、バンクーバーでの観光の予定がギチギチになっている
 14時過ぎに荷物と数人の方が第一便として空港に向かい、第二便が来るのを待っていたら「歩いてでもいいですよね?」と言われて、小雨が降る中、傘をキャリーケースに入れてしまったし足もともスポーツサンダルに履き替えてしまっていたから、水たまりのない場所を選んでダッシュで空港に向かった。


 スーツケースの重量がオーバーした方がいらして、さくっと終わると思われたチェックインが延々と終わらない。
 その間、空港のお土産物屋に何度も行き来して、ハイダの意匠がデザインされた腕時計を買うかどうかかなり迷う。デザインは好きだったけれど、4ヶ所に嵌められた石にどうにも納得が行かなかったのと、UBC人類学博物館のミュージアムショップに期待して、購入は見送った。
 何とか全員分のチェックインが終わったときには、もうセキュリティチェックを抜けるにはギリギリの時間になっていた。


 しかし、今度は、ホテルの売店でお一人が買われて早速着ていらしたシープスキンのジャンパーを気に入った方が「妻へのお土産に買いたい。」とおっしゃる。
 添乗員さんが汗びっしょりになってX線の機械に荷物を通す我々を見張りつつ、時計を気にしている。こちらが「行っちゃっていいよ。」と言ったところで、(考えてみれば当たり前だけれど)はいそうですかという訳には行かないらしい。
 しかし、添乗員さんがホテルにダッシュして往復するだけならともかく、80代の方と一緒に往復するのだから、そうそう急がせる訳にも行かない筈である。
 あとは私自身がセキュリティチェックを抜けるだけというタイミングで添乗員さん達はホテルに向かった。


スケダンス?スケダンス?


 最後尾で私が待合室に入ったときには15時近かった。
 待合室の壁に、スケダンスの村の様子を写した昔の写真が飾られていた。これはいいと写真に撮る。
 添乗員さん達お二人が戻ってきたときには既に搭乗が始まり、ツアーメンバーの大方を送り出したところだった。「パスポートを用意してくださいって言ってましたよ〜。」と言いつつ私が立ち上がろうとしないので、不審のまなざしである。
 「私はまだパスポート用意していないんで、お先にどうぞ。」と言って笑われる。ツアーメンバーが問題なく飛行機に向かうかどうか一応見ていたから自分は後回しになったんだよ! 座席番号を見て今呼ばれましたとかまだですとか一人一人調整もしてたんだよ! と心の中で少々憤慨する。


 17時半近く、バンクーバーに到着した。バンクーバーが雨かも知れないなどとは全く考えず、雨具の類を全てキャリーケースに入れてしまっていたから、お天気が良くて有り難い。
 空港内の分かれ道で、添乗員さんが「みなさんいますね!」と振り返ったものの人数をチェックせずにそのまま行こうとするのでストップをかけた。お一人、お手洗いに行かれたのにずんずん進んでしまうのが気になっていたのだ。分かれ道で待っていなかったら迷子確定である。
 心の中で「数えろ〜! 振り向いたんだから数えろ〜!」と憤る。どうも堪え性がなくなってきている。


バンクーバー 迎えに来てくださったドライバー兼ガイドの日本人の方と合流し、UBC人類学博物館に向かった。
 この日のバンクーバーには雨の予報が出ていたそうだけれど、空は晴れ渡っていて、我々は今回、天気に関する限りかなり恵まれていると言える。
 少々渋滞もしている。自転車レーンを増やして車が通りにくくなっているため、渋滞が起きやすくなったという。恐らく、世界で最も住みやすい街と言われているこの街をさらに「環境に優しい」街にしようということなのだろう。


博物館の中庭 18時半くらいにUBC人類学博物館に到着すると、専門ガイドの宮田さんが待っていてくださった。
 早速、中庭に向かう。
 「ここに見覚えはありませんか?」と聞かれて皆で首を傾げたら、トーテムポールや家が建ち、池が配されたこの場所は、スカン・グアイの村を模していると説明があった。しかし、そう言われてもやっぱりピンと来なかった。申し訳ない限りである。
 スカン・グアイは星野道夫氏が何度も訪れており、シャチを彫ったポールの前に何時間もいたらしい。


 トーテムポールには、大きく3種類あり、墓棺柱、家の一部として建てられたポール(この場合は、その家に住む人々の出自やご先祖を表していることが多い)、家から離れて建てられたポール(概ね、争いごとなどを記録するためのもの)である。
 ハイダの人々は、この「ポール」を拝んだ訳ではなく、もちろん大切に扱っていたけれど、あくまでも記録として使っていたのであって、永久に保存しようという発想は持っていなかったという。世界遺産に登録されようというときも、ハイダの長達は、トーテムポールに保存処理を施すことに強く反対し、結局「倒れないように支える」ことだけ了解したという。
 トーテムポールの材料に使われた杉の木には自然の保存液のようなものが木材自体に含まれているけれど、しかし、倒れてしまえばどんどん朽ちて行く素材だそうだ。


 UBC人類学博物館では、1970年代から研究が始まっていて、博物館自体の建物にも先住民(宮田さんは「この言葉自体にも違和感がある、英語のFirst Nationsという言葉に相応しい日本語訳がないものか。」とおっしゃっていた)の家の構造が取り入れられている。
 ちなみに、設計者はアーサー・エリクソン氏である。


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2014.01.03

ハイダ・グアイ旅行記5日目その2

2013年6月17日(月曜日)


昼食 ハイダ族の「女系」という考え方についてさらにこんがらがってきたところで、ウォッチマンの家をお借りしてランチタイムとなった。
 お昼ごはんをいただいた13時過ぎには雨も止んで晴れ上がったけれど、この日は寒かったこともあって屋内でいただけるようお願いしたようだ。


 エリン曰く「今日は朝が遅かったので軽い昼食」だそうだ。
 たくさんの種類のお茶を用意してくれていて、自分が選ぶために説明して貰うついでに周りの方々にも配っていたら、添乗員さんに「働かないでください!」と悲鳴を上げられてしまった。申し訳ないとは思うけれど、性分&ボートツアー初日の夜のインパクトが未だに尾を引いているので仕方がない。


 エリンが、隅っこのテーブルを借りて記念スタンプを押し、エンボスを押していたので、私もやらせてもらった。ここまで私が気がつかなかっただけで、ウォッチマンのいる島々でエリンは全員分のスタンプを押してくれていたらしい。
 スタンプ帳はガイドブックを兼ねていて、ボートツアー終了後に全員に配られた。読めばかなり面白そうだけれど、如何せん英語なので、私がいつ読もうという気になるかはかなり疑問である。未だに手を付けていない。


 昼食後、レイヴンちゃんに手を差し伸べたら、素直に抱っこされてくれた。可愛い。
 嬉しくなって抱っこしたまま外を歩いたり、写真を撮ってもらったりしていたら、レイヴンちゃん一家との写真撮影大会が始まった。
 ちょうどそこに、カヌーでやってきた青年二人組が現れ、その様子を見て苦笑していた。「一緒に入る?」と聞いたら笑って首を振る。お一人は日本語が話せるらしかった。
 メアリーさんは彼らを案内するために歩き出したし、私たちもそろそろ出発の時間である。


ゲイブルズ 来るときは海沿いを、戻るときは1本奥の家を見渡せる高い場所の道を歩いた。
 珍しく添乗員さんが通訳に四苦八苦していて、「切り妻屋根って?」とおっしゃる。電子辞書があまり親切ではなかったらしい。「赤毛のアンのおうちみたいな屋根だって。」と、私としては「ビジュアルイメージまで伝えきった完璧な説明だ!」というつもりで言ったのに、どうやら今回のツアーメンバーの誰にも響かなかったらしい。
 男の子も、ある一定以上の年齢の方も、「赤毛のアン」は読まない(あるいは、子供の頃に読まなかった)のだと気がついた。ある意味、カルチャーショックである。


木? 帰り道もガイドをしてもらいながら歩き、カヌーで来ていた青年二人を見送って、15時近くにタヌー島を出発した。
 タヌー島見学の間はほとんど雨に降られることもなく、陽も射してきた中を歩けてラッキーだった。
 島を離れた後で、タヌー島にビル・リードが埋葬されていた筈なのに彼のお墓に詣でられなかったことに気がついた。事前に調べていたのに、すっかり忘れていた。
 今でも残念に思っていることの一つである。


ヘリで搬出?ルイーズ・ナロウ ルイーズ・ナロウと呼ばれる細い水路(島と島の間)は、細いだけではなく水深が浅かったようで、エリンは海図を見ながらゆっくり慎重にボートを進めていた。エリンは、ルイーズ・ナロウを抜けたら1時間半くらいでモレスビー・キャンプに戻れるでしょうと言う。


 ルイーズ・ナロウを抜けたところで、エリン曰く「Crazy! But cool!」な光景が目に入った。
 遠目ではっきりとは判らなかったけれど、ヘリが崖の中腹にある集積所から下の岸辺まで木材を吊り下げてピストンで移動させているらしい。
 皆でしばし見つめる。残念ながらこの辺りからまた雨脚が強くなってきたためほどほどで出発し、20分くらいでモレズビーキャンプに到着した。16時半くらいのことだ。


 私たちは荷物をボートに残したまま、行きにレインコートを借りて着込んだ倉庫まで戻った。エリンがボートをトラックにつないで回ってきてくれるのを待つ。雨脚がどんどん強くなり、見学中ではなくて良かったとほっとする。
 借りたレインコートを整理して元の場所に戻し、ボートから荷物を降ろして車に移し、車に弱い方には前の方の席に乗っていただいて、エリンの運転で再びホテルに向かった。その途中、熊が車の前を走って横切るのを見てびっくりした。
 18時過ぎ、イン・アット・サンドスピットに到着した。
 「今まで会ったお客さんの中で、みなさんが一番タフで元気だった。」というコメントに笑いつつ、皆でエリンとハグしてお別れした。


 「夕食の前にシャワーを浴びたい!」とワガママを言って、夕食は19時15分開始にしてもらった。とにかく冷えていて、風邪をひきそうだ。
 人心地ついてレストランに行くと「ちょっと先にこっちへ。」と呼ばれた。何かと思ったら、この日がお誕生日という方がいらして、みなで寄せ書きのカードをプレゼントしましょうという添乗員さんの企画だった。いつの間にか、このツアー中に全員で撮った記念写真までプリントアウトしてある。


ツナサラダ 前菜はサラダかスープを選べますと言われたのに、スープを頼んだ方が「サラダも食べたい!」と言ったか、サラダを頼んだ方が「スープも飲みたい!」と言ったか、とにかく無邪気にリクエストしたところ、シェフが「あるだけなら。」と言って出してくれた。結局、ほとんどのメンバーが両方食べたと思う。
 このサラダに載っていた鮪が燻製っぽくて、「何だか鮪っぽくないね。」「お肉っぽいね。」「ツナサラダじゃないんじゃない?」などという話になった。皆して、お料理の説明を通訳してくれた添乗員さんを疑いの眼で見始めると、添乗員さんが焦って「ツナって言いましたよね?!」と何故か私に向かって確認してくる。


 「添乗員さんはツナって言っていたね。」と素で返したら、どうやら「お店の人がツナって説明していましたよね?」という趣旨の確認だったらしい。
 すぐに訳してもらえると判っているのに英語を聞き取ろうって努力はしないよ、そもそも聞き取ろうと身構えて集中しなくちゃ全く聞き取りなんてできないんだよと思いつつ、「だから、添乗員さんがツナって言ってたのは聞いたよ。」と冗談半分に答えるとツアーメンバーも笑い出し、ついに添乗員さんがウエイトレスのお姉さんを呼んで「これ、本当にツナ? 100%間違いなくツナ?」と大袈裟に確認してウエイトレスさんからも大笑いされていた。


銀ダラのソテー 今回のディナーのメインディッシュはサーモン、銀ダラ、牛ステーキから選ぶことができた。私は銀ダラをお願いした
 素材も新鮮だし、ここのレストランのお料理は美味しい。
 景気よくアルコールを飲んでいるツアーメンバーはどんどんできあがってきて、私のグラスには左右から缶ビールを注がれ、お店のお姉さんに目を丸くされてしまった。


 エリンが食事の途中で再度現れ,何かと思ったら忘れ物を届けてくれたらしい。まだレインウエアを着ていて、ボートツアーの後始末が終わっていなかったのだろう。何だか申し訳ない気持ちになったけれど、何ぶん、酔っ払いなのですぐに忘れてしまった。重ねて申し訳ない。


ケーキ お食事が終わったところで、ホワイトチョコのバースデーケーキが運ばれてきて、プレゼントが渡された。
 喜んでくださったのが何よりだ。
 「甘い物は苦手。」とおっしゃって80代の男性から私のところにケーキが一切れ回ってきて、これは断るわけにはいかないでしょうとこのサイズのケーキを2切れ平らげた。自分で言うのも何だけれど、我ながらなかなか男前である。
 このメンバーで近々に国内旅行をしましょうという話まで持ち上がり、2時間以上かけた賑やかで楽しい夕食となった。


 この後、2次会が行われ、添乗員さんと二人でお招きいただいた。最終日(最後のディナーがある日)はどうしても慌ただしくなってしまうので、その1日前にこうして飲み会をするのがお二方の習慣だそうだ。日付が変わった辺りまで「飲み」が続いた。
 なかなか人には言えないコアなお話が多くて面白かったけれど、だいぶアルコールが入っていたのでかなり眠くて辛かったのも本当である。


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ハイダ・グアイ旅行記5日目その1

2013年6月17日(月曜日)


ハミングバード 全身が激しく筋肉痛でなかなか眠れなかった。
 生身で風を切ってボートに乗ることは、自分では判らないけれど結構な全身運動なのかも知れない。というよりも、日頃の運動不足の賜である。
 おかげで、2時頃、かなり雨足が強くなっていることに気がついた。それでも、5時くらいから1時間半程度は熟睡できたような気がする。


 6時半を過ぎると、朝の早い周りの方々の荷造りの音が聞こえ始めた。8時の朝食までに、私を除く全員が荷造りを終えていたと思う。
 朝食前のひととき、テラスに出て上の方を眺めている方がいらして、何かと思ったらハミングバード(ハチドリ)が来ていた。赤いポットに蜂蜜を入れて鳥寄せをしているらしい。本当に素早く細かく羽ばたいていて愛らしい。


朝食 朝食のとき、添乗員さんが昨日の海老の頭でお味噌汁を作ってくれた。「お味噌汁を注ぐカップでお水の量を量ればいい」というところまでは伝えたけれど「蒸発する分を見込んで多めに」と言いそびれたせいで、気持ち少なめにできあがった。申し訳ない。
 お味噌汁に合わせて、フリーズドライのごはんも供され、エッグベネディクトととの組み合わせはどうかというところだけれど、奈良漬けを提供してくださった方もいらして、豪華な和朝食になった。美味しい。


 雨は降り続き、少し様子を見ようということになった。
 「今日って寒い?」と聞くと、添乗員さんもエリンも「雨が降っているから少し冷えるかも知れないけど判らない。」という答えだ。もっともである。
 寒さ対策とびしょ濡れになったときのことを考え、上はいつもどおりのレイヤーにし、下はヒートテックのレギンスにナイロンパンツを重ねた。
 これまではリュックを座席の下に入れてもらい、乗り降りのたびに取り出してもらっていた。今日それをやると座席の下に入れた他の荷物まで雨に濡らしてしまうことになる。座席の下に分散して詰め込んでいた靴も大きなビニル袋に入れて床に転がすことにしたようなので、今日はリュックをビニル袋に入れて手元に置くことにした。


 荷造りや身支度をしている間に雨も少し小降りになってきたし、着々とレインウエアを装着するツアーメンバーを見て「行く気満々」という判断になったらしく、9時半過ぎに出発した。
 エリンが、雨風があんまり激しいようなら皆後ろ向きにボートに乗ってもらうと言う。現状の判断は「それほどではない」らしく、これまでと同じように前を向いて座るよう指示された。
 荷物を手元に置くことにした私はリュックを転がすスペースを確保すべく今日も一番後ろを希望した。


 フローティングキャビンのある入り江をさらに奥に進んだ。
 一番奥まったところに辿り着いたところで、ハクトウワシを見つけた。見上げると雨が顔に当たるのが辛い。しかし、雨を透かして見える、葉の落ちた高い木に止まっているハクトウワシはかなり格好いい。
 羽を広げて飛ぶ姿がさらに格好いいのはもちろんのことだ。


ブラックベア エリンの声に呼ばれて視線を巡らすと、そこに、ブラックベアがいた!
 岸辺の草か何かを食べているらしく、口に何かくわえているのが判る。
 割と太っているように見える。餌が豊富にあるということだろうか。のっそりと歩いている。
 エリンがゾディアックのエンジンを切ってゆっくり見せてくれる。ブラックベアが森の奥に戻って行くまでほんの5分足らずだったけれど、かなり堪能した。
 緑の草の中、手前には緑色の海、奥は緑の森に黒い熊はフォトジェニックだ。


あざらし 入り江の奥から引き返す途中、再びハクトウワシが高い木に止まっているところに出会えた。
 エリンがまた、ボートのエンジンを止めてくれる。入り江の奥なので、エンジンを止めてもそれほど大きく揺れないのが有り難い。
 さらに20分もボートを走らせると、波打ち際に鹿が出てきていたり、垂直に立った岸辺に沿って泳ぐあざらしがいたり、フローティングキャビンのある入り江にはたくさんの動物がいた。
 遊んでいるように2頭が連なって泳ぐあざらしに皆で夢中になる。


 あざらしに出会った辺りから雨は止み、青空もちらほら見えるようになって、エリンはゾディアックを飛ばし始め、11時15分頃、タヌー島に到着した。
 ウォッチマンであるウォルター夫妻と、孫娘のレイヴンちゃんが迎えてくれる。ワタリガラスちゃんなんて、ハイダらしいお名前の赤ちゃんである。まだおしめも取れていないし、歩けないので、メアリーお祖母ちゃんに背負われている。


 ハイダ全体でもいわゆる「ハイダ語」をしゃべれる人は50人くらいしかいないらしい。単語くらいなら何とかという人が多く、ほとんどの人は英語をしゃべっている。
 ただ、オールドアセットやスキットゲート、クィーンシャーロットの学校でハイダ語を教え始めており、またハイダ語が戻って来るかも知れないと言う。レイヴンちゃんも学校でハイダ語を習うようになるのだろう。
 タヌーというのは海草の名前で、ここに住んでいた人々がその海草が好きでよく泳いでいたことから、そう呼ばれるようになったそうだ。


20130617_114207 ご夫妻の案内でタヌー島の見学が始まった。
 タヌー島には25軒の家(の跡)が残っている。立っているトーテムポールは既にない。墓棺柱が二つ、フロントポールが一つ、倒れた状態で残っているのみで、他は全て1953年から54年にかけて博物館に持って行かれてしまったという。
 タヌー島の家は、お隣との間隔が他に比べて近くなっていて、それは攻め込まれたときに武器を持った人が通りにくくするためである。
 ハイダは、大陸にいた人々と争って人や物を奪い取ってきたり、ハイダの人々の間でも争いが起こったりしていたと言われており、勝手に「穏健な人々」というイメージを持っていたので驚いた。


村長さんの家? タヌー島の村長さん(「村長」という言葉のニュアンスが合っているかどうかよく分からないけれども)の家の最大の特徴は「泉(あるいは井戸)があった」とことである。
 さらに3レベルに掘られているから、相当に「強い」村長であったことは間違いないだろう。
 普通の村人の家の中には、地面を掘らずに建てた家もあったらしい。


洪水を刻むトーテムポール 倒れた墓棺柱について、ウォルターさんは「ビーバーの意匠」と説明し、ちょうど私の隣にいたメアリーさんが「違うわ。」と言いたげにボソっとダメ出しをしていた。
 彼女によれば「多分そうだろう」と言われているだけで、実際のところはよく判らない、というのが正確らしい。
 また、タヌー島には、ポトラッチの数ではなく洪水の回数を刻んだトーテムポールがある。タヌー島では洪水が何度も起きたし、洪水が村の生活に大きな影響を与えていたということだろう。


墓棺柱 もう1本だけ墓棺柱が残っている。サンダーバード(雷鳥)の意匠は、クアキトゥル族のトーテムポールで多く彫られた意匠だという。何となく羽が彫られていることが分かる。
 このトーテムポールは顔の部分は燃やされてしまい、一番上にあった棺は失われている。


 ツアーメンバーの方で、墓棺柱の「一番上にあった棺」にとても興味を示された方がいて、この方の質問を訳すのに添乗員さんが困り切りつつ何とか失礼のないようにと四苦八苦していた。
 その苦心のやりとりで、墓棺柱はまず滅多に倒れることはないし、倒れたとしてもやがて苔に覆われて自然に返って行くこと、博物館等に持ち去られた墓棺柱のうちその遺骨だけでも戻して欲しいと運動した結果400体ほどは取り戻せたということが判った。
 
海に向かって ハイダ族の家は、ほぼ全て、海に向かって建てられている。添乗員さんに「どうして?」と質問してもらったけれど、余りにも当たり前のこと過ぎたからか、明確な回答はもらえなかった。
 ただ、どこに誰が住むかを決めたのは村長さんだったらしい。
 この「村長」という言葉も、実は複雑だ。
 「村」にはハクトウワシの家系とワタリガラスの家系があり、それぞれのクランに長がいる。しかし、その二人のクランの長から村長が選ばれるのではなく、村長はクランの長二人とは別にいる。そして、さらに、クランの長だけではなく村長も世襲だという。


 ハイダの家族は女系ということだから、村長が世襲でも、男性が村長になる限りは特定のクランに偏らない筈で、それなら問題がないということなんだろうか。
 この辺りの「女系」や「世襲」の考え方は何度か説明してもらったし、帰国後に添乗員さんから届いたレポートに改めて図入りで説明してあったけれど、未だに理解出来ていないような気がする。
 そういえば、メアリーさんと話していたときにも、メアリーさんはレイヴン・クランで、レイヴンちゃんももちろんレイヴン・クランだけれど、養子の問題があって云々とお話されていて、この辺りから私の英語力では全く付いて行けなくなってしまった。せっかくお話ししてくださったのに本当に申し訳ない。


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2013.10.16

ハイダ・グアイ旅行記4日目その2

2013年6月16日(日曜日)

飛行機雲 ホットスプリング島に向かう途中、ほとんど水平線から垂直に上がっているような飛行機雲が見えて、しばし見とれた。
 添乗員さんに「太陽の周りに虹が見えていますよ。」と言われてじっと目をこらしてみたけれど、眩しすぎる。偏光グラスのサングラスを借りて見上げ、やっと確認することができた。
 試しにカメラを向けて撮っておいたところ、かろうじて太陽の周りに丸く虹が写った。

昼食 14時半くらいにホットスプリング島に上陸し、まずお昼ごはんを食べた。
 上陸してすぐのところにある岩場と枯れ木(流木)が椅子とテーブルである。
 ローズハーバーゲストハウスで作って持たせてくれたお昼ごはんは、グリーンサラダにツナのサラダ、ヌードルのサラダにパンケーキがいくつかあって、ヘルシーである。お腹も空いていたし、もの凄い勢いで平らげた。

 上陸地点から少し海岸線を回り込んだところに湯船があった。
 空っぽである。
 「温泉は湧いているけれど湯船が壊れた」とか「温泉が出なくなってしまった」とか事前情報が錯綜していたけれど、2012年10月のクィーンシャーロット島沖を震源地とするM7.7の地震以降、それまで湧いていた温泉が全く出なくなってしまったらしい。
 みんなして空っぽの湯船に入り、温泉に入った「つもり」で記念写真を撮った。

 ホットスプリング島には、あと2ヶ所、温泉がある。そちらの様子を見るのと、ウォッチマンハウスに立ち寄るため、さらに奥に進んだ。
 ホットスプリング島は温泉に入りに来る人が多いためか、スカン・グアイ並みに遊歩道が整備され、綺麗なシャワールームも作られている。
 本当に惜しかったなぁ、でもこの暑さでは温泉に入っても長湯はできなかったなぁ、などと考えていると、新しく温泉が湧き出しているところの様子を見に行くというウォッチマンと出会った。もちろん、後をくっついて行く。

温泉 かなり波打ち際に近いところで温泉が湧いていた。この写真は、その温泉の湧き口である。
 砂(砂利)を掘り、周りに石を並べて湯船が作ってある。湯船は深さ15cmくらいで、温泉がなみなみと張られている。
 広さは、2〜3畳分くらいだろうか。
 お湯に触ってみると、かなり熱い。温度計を持っているウォッチマンの彼が何故か測ろうとしないので正確なところは判らないけれど、湯温は50度弱くらいじゃないかというのがツアーメンバーの見立てだ。

足湯 水深15cmだろうと温泉が溜まっているなら、入るしかない。
 日射しも強くて暑い日だったので、レインウエアの上着やフリースは脱いでしまい、レインウエアとその下に履いているアウトドア用パンツをたくし上げ、靴と靴下を脱げば準備万端である。ハンカチ代わりに手ぬぐいを持ち歩いていたので、湯上がりも大丈夫だ。

 2日ぶりの「湯浴み」は気持ちいい。
 しかし、熱い。お湯に浸っている部分があっという間に真っ赤になった。湯船の底の砂利が当たると痛い。とにかく熱い。
 「写真撮影のモデルだ」などと言われてじっと入っていたら、その後、絶対にこれは低温やけどだと思い込みたくなるようなヒリヒリした傷みをしばらく足の裏に感じることになった。我ながら本当にマヌケだ。

 16時半過ぎにホットスプリング島を出発し、ウィンディ湾に向かった。
 その名のとおり風の強い場所で、風が吹いていると近づけないので日程表にも載せていないという話だ。この日は快晴の天気で波も穏やか、17時過ぎにスムーズに上陸できた。
 上陸した波打ち際近くの岩に名前の判らない黒い鳥がいた。何だかやたらとフォトジェニックだと思う。

カヌーとエリン ゾディアックを少し沖合いの決められた場所に留め直したエリンが、カヌーを漕いでやってきた。
 それにしても、本当に何でもできるお嬢さんである。「彼女にしたい。」と思わず言ったら「何をオジサンみたいなことを言っているんだ。」とツアーメンバーの誰かにツッコまれた。
 エリン先導で、ハイキングに出発である。
 川沿いのトレイルに沿って歩いて行く。木洩れ日が射してきて、とても気持ちのいいトレイルだ。
 苔の森が奥深くまで広がっている。

米スギ トレイルを歩くこと20分くらいで、大きな米スギに到着した。
 この米スギは、エリンが知る中でも最も大きな米スギで、樹齢1000年近いという。
 みんなでのんびり見上げ、代わる代わるこの木と記念写真を撮る。
 この木を上まで全部写真に収めようとするとなかなか大変で、ついにはカメラマンを買って出てくれた添乗員さんは地面に寝転ぶようにして撮り始めた。それでもなかなか撮るのは大変だったらしい。

 そうして寛いでいたところ、ふと気がつくとツアーメンバーのお一方がいらっしゃらない。ご高齢だけれど山岳ガイドもされていた(いる)という方だし、そもそも危ない場所でもないので、皆で代わる代わる名前を呼んだりしつつ、最初にうちはのんびりモードで探す。
 しかし、お返事もなく、その辺りからひょっこり顔を出すということもなくて、段々、添乗員さんたちの雰囲気が慌ただしくなり始める。

 「多分、先に戻られたんだと思います。」と言っていた添乗員さんの姿も見えなくなり、うーん、えー! と思っていると、今度はエリンから「**はどこ?」と添乗員さんの所在を聞かれた。「多分、探しに戻って行ったよ。」と答えると、エリンまでぴゅっといなくなってしまった。

 ツアーメンバーの方々が何故か私に「どうすればいいの?」と聞くので、添乗員さんもエリンも特に残されたメンバーについて指示出しして行った訳じゃないんだけどなぁと思いつつ、「二人が探しに行ってますから、私たちはここでのんびり待っていましょう。大丈夫ですよ。」とお答えした。
 他に言い様もない。

 実際、添乗員さんが戻って来た頃、森の奥からエリンの声が聞こえてきた。発見したらしい。
 そこから数分で全員が揃い、のんびり出発地点に向けて歩き始めた。私は全く気がつかなかったけれどこのトレイルはこの先もずっと島を半周できるくらい続いており、きっと休憩後は先に進むのだろうと先取りして歩き始めていたそうだ。
 何ごともなく、何よりだった。

ウォッチマンハウス 帰りは川沿いを戻った。
 川の向こうにウォッチマンハウスがあり、重機があって、煙も出ている。この8月に新しくトーテムポールを建てることになっていて、その準備中だという。できれば新しくトーテムポールを立てる過程を見てみたかった。残念だ。
 そのまま海岸に出て、砂浜を歩いてボートを留めたところまで戻った。
 19時前にウィンディ湾を出発し、2日目に宿泊したフローティングキャビンに19時半くらいに戻った。

 この日は暑かったし、お天気も良かったので、ニット帽は止めて、つばの広い日焼け防止用の帽子を被っていた。サングラスは元々好きじゃないので今回も持って来ていない。目玉がまぶしさに負けた感じはしないけれど、潮風に負けた感じはするので、持ってきた方が良かったかなと思う。
 いつもは手袋をしていたけれど、この日は寒くなかったし、カメラを操作するのに邪魔なので、そのうち手袋を嵌めるのを止めてしまった。その分、日焼けしたような気がする。

エリス罠とエビ 私たちをキャビンに降ろすと、エリンはそのまますぐ、一昨日仕掛けた罠を見に行った。
 戻って来るのを待ちかねて篭の中を見ると、エビが入っている!
 ピチピチ動くエビをタッパーに取り出すと、ちょうど10匹のエビがかかっていた。もちろん、コイツたちは今日の夕食にいただくのだ。
 エリスが外に置いてあるバーベキューセットでお肉を焼き始めた。このバーベキューセットは、流石に炭を使っている訳ではなくてガスだ。

 2日前と同じ部屋割りとなり、皆、手慣れたものでそれぞれお部屋に入り、ベッドの用意をし、夕食を待つ。お部屋でこっそり酒盛りを始めた方もいる。
 私はエビの頭を取ってお皿に並べたり(エビの頭は添乗員さんが翌朝の朝食のお味噌汁にしてくれた)、バーベキューのお肉を引っ繰り返したり、エビのお供にとツアーの方が提供してくださった佃煮をお部屋でこっそり酒盛りを始めた方々に差し入れしてビールをご馳走になったりしていた。

夕食 21時近く、夕食が始まった。
 まだ外は明るいし「遅い夕ごはんだ〜」という感じはない。お腹はぺこぺこでばくばく食べられる。
 デザートに辿り着いた22時過ぎには外も暗くなっていて、盛り上がったまま酒盛りに突入した。それぞれ持参のお酒を持ち寄り、お茶に切り替え、23時過ぎまで一体何を話していたのか、謎である。

 ベリーズのATM洞窟を添乗員さんが強力にプッシュしていたことは覚えているし、このメンバーで長野に行こうと話が盛り上がったことも覚えている。
 そういえば、こうして飲んでいるときに、私の職業をピタリと当てた方がいらして驚いた。そんなに判りやすかっただろうか・・・。
 23時過ぎにお開きとなった。

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ハイダ・グアイ旅行記4日目その1

2013年6月16日(日曜日)


 この日が一番「眠れなかった日」だったかも知れない。
 2時半くらいに目が覚めてしまい、できるだけそっとお手洗いに行く。ハシゴのような階段を降りなくてはいけないし、ドアを開けて外に出なければならないし、なかなか静かに歩くのが難しい。
 外に出ると真っ暗で、満点の星空が望めた。一瞬。カメラを取りに戻って写真を撮ろうかと思ったけれど、三脚を持ってなかったので諦める。
 その代わり、しばらく夜空を見上げる。満天の星空過ぎて、北斗七星は判ったけれどカシオペアがどこにあるのかどうしても判らなかった。


 お手洗いに行く途中、本当に目の前2mくらいのところに鹿がいて驚いた。鹿は夜行性なんだろうか。ごく普通に草を食べている。
 LEDのヘッドライトで照らしてしまったけれど、全くこちらを恐れる様子はない。我関せずという感じだ。
 LEDに照らされて目が光るのがちょっと怖い。
 鹿を押しのけてお手洗いに行くこともできず、彼(彼女だったかも知れない)がゆっくりと草を食べながら移動するのを待った。


ローズハーバーゲストハウスのお部屋 今日の朝食はゆっくりめの8時からだけれど、ツアーメンバーのみなさんは始動が早い。5時半とか6時には身支度を始める気配がしていた。
 私も5時半に起きて、昨日の夜に部屋に戻ってきたときには暗くて何もかも放りっぱなしで寝てしまったので、片付けをしたり、日記を書いたり、ぼーっと窓の外を眺めたりしていた。
 このお部屋は、海に向いた窓の他に天窓がある。流石に星は見えなかったけれど、明るい光が差し込んできてなかなか居心地が良かった。


朝食スーザン 朝食はフルーツパンケーキだった。
 昨夜見せてもらった、自転車を改造した粉ひき機で碾いた粉で焼いたパンケーキは、少しぽそぽそしているのにしっとりしていて美味しい。スーザンが焼いてくれるパンケーキにフルーツを載せ、ヨーグルトをかけて頂く。
 美味しかったので、この半分のサイズのパンケーキをもう1枚焼いて貰っておかわりをした。


 朝食をいただいているときに、スーザンに頼んで、ゴッヅさんが出しているCDを買った。
 確か、昨日の夕食のときにもかけられていたと思う。ゴッヅさんの自宅を兼ねたゲストハウスに泊まった男性陣によると、コンピューターや楽器などが装備されていたらしい。
 2枚あってどっちにしようか迷った末、「新しい方」にした。新しいといっても2005年に出されたCDで、タイトルはTouching the Place of Wonder、20ドルである。
 ボートでローズハーバーを出発した後で、「ゴッヅさんにサインして貰えばよかった!」と思いついた。後の祭りである。


 ところで、この日の朝、起きたら全身筋肉痛だった。
 筋肉痛になるようなことは何もしていないのにどうしてだろう。多少は歩いているけれど、大した距離でも時間でもないし、上り下りがあった訳でもない。そもそも「足」ではなく「全身」だ。しかも、他の方々は全く筋肉痛になどなっていないとおっしゃる。
 朝食の後、あーでもないこーでもないと言い合って、やっと原因らしきものが判明した。
 昨日、ボートの乗り降りの際に何となくボートを引っ張って動かないようにがんばってしまった結果に違いない。そう叫んだせいか、この日も次の日も、男性陣が様々にサポートしてくれるようになり、私が一番若いのにすみませんと思った。


 ボートで出発する前、ローズハーバーの森を散策した。エリンは「長靴を履いた方がいい。」と言い、スーザンは「普通の靴で大丈夫!」と太鼓判を押す。歩きやすさを優先し、ツアーメンバーはみな、ハイキングシューズで出発した。
 近くだし、森の中だし、お天気はいいし、レインウエアを装着する必要はないけれど、何故か全員がレインウエアを着ているのが可笑しい。
 9時過ぎ、エリンの先導でゲストハウスの裏手の森に出発した。


深い森 出発して5分も歩かないうちにこんなに深い森に入っていることに驚く。
 ローズハーバーは元々が捕鯨基地だったためか、この場所は国立公園ではなく、人が唯一住める場所となっている。ゴッヅやスーザンが拓いたり手入れをしたりしていない場所は、こうしてすぐ森になってしまうのだと思う。
 豊か、かつハードな暮らしだ。


 森の中をのんびりと歩いた。
 今までで一番「道がない」森のような気がする。これまでは、結構はっきりと「ここが道だ」という場所を歩いたけれど、ここは「何となくここが道っぽいけど、コケも生えているし木が塞いでいるところもある」という感じだ。
 10分くらいで、作りかけのカヌーが置き去りにされた場所に到着した。


作りかけのカヌー こういうものを見ると、つい上の方に登りたくなってしまう。説明もそこそこにぐるっと回り、作りかけのカヌーの上の突端まで行ってみた。
 どうして森の中でカヌーを作っているかといえば、まず倒してくりぬくところまで作業をしてから運べば軽いからだという。海辺まで運んだら水を入れ、焼け石を入れて水蒸気を発生させることで、くりぬいた部分がさらに開かれ、さらに密になった外側から水がしみ込まなくなる。
 何だかお祖母ちゃんの知恵袋みたいな話である。
 ハイダの人々が、このただくりぬいただけのカヌーとオールだけでペルーにまで行ったという記録も残っているそうだ。驚きである。


 帰り道が判らなくなって、乾いていると思い込んだ苔の中に入ったら靴が泥まみれになったりしながら、10時前にゲストハウス前に戻った。
 身支度をして荷物を積み込んだら出発である。


お花畑 ボートを待つ間、ツアーメンバーのお一方が「この花は綺麗だね。」とスーザンに声をかけたら、スーザンが食堂の奥にあるお花畑に案内してくれた。
 ボートの様子を見て、準備に時間がかかりそうなことを見定めて、私も一緒にお邪魔させていただく。
 食堂の奥は畑になっていて、お花ももちろん咲いているし、野菜も育てられている。ビニルハウスを作って、イチゴの苗やトウモロコシも育てていると言う。
 昨日の夕食でいただいたミントティーのミントも、この畑で栽培したそうだ。
 もっとここでゆっくりしたかった。


凪いだ海 10時半、ローズハーバーを出発した。
 今日もいいお天気だ。
 レンタルのレインウエアを着てスーザンのお花畑を見せてもらっているとき、暑くて暑くて汗をだらだら流していたら、「あと少しの辛抱だ、ボートに乗ったら寒いんだから。」と半袖のゴッヅとスーザンに言われたくらいの気候だ。
 これだけのお天気でこんなに凪いだ海を進んでいるのに、確かにボートが動き出した途端、涼しくなって汗が止まった。
 慣れてきたつもりでも、生身に時速60kmの風は相当にキツイ。


ガルシン・ロック 20分くらい走ったところでエリンがボートを止めた。
 ガルシン・ロックと呼ばれる岩場で、アザラシやアシカ(私には相変わらず区別がつかない)が生息している場所だという。一昨日に立ち寄ったリーフ島周辺は波が荒く、なかなか観察も難しかったので、今日はこちらにボートを向けてくれた。
 何というか、「獣の臭い」がする。
 そして、威嚇しようというのか、唸り声のような何ともいえない音を立てている。
 いかにも野生動物の住処という感じがした。


イケダ湾 随分と深く入り江に入って行くなぁと思っていたら、そこは「イケダ湾」と日本人の名前のついた入り江だった。イケダアリチカという日本人がここで銅を発見し、採掘をしていたことからその名がついたという。
 1906年に開かれた銅山では、180人の日本人が働いていたという記録も残っている。1912年にカナダ人にその権利を譲って、イケダさんはどこへ行ってしまったのだろう。
 他にもハイダ・グアイに鉱山を探しに来た人がいたけれど、イケダ氏はその中でも最初の「成功者」だという。
 何だか凄い。


お墓瀬戸物のカケラ 12時半くらいに到着したガジェッドウェイ湾で上陸した。
 1910年、ここで日本資本の鮑の缶詰工場が作られ、100人もの日本人が働いていたという。エリンも私たちが日本人だからここへ連れて来てくれたのだろう。
 日本的な瀬戸物のカケラがたくさん波打ち際に落ちていて、いかにも生活の跡という感じだ。


 1915年、経営者はカナダ人でなければならないと決めたカナダ政府の命令で工場が閉鎖され、日本人は立ち去る。
 しかし、1913年に亡くなった工場主の奥様のお墓が残されていて、エリンは少し森を入ったところにある彼女のお墓に案内してくれた。


 鮑工場が撤退した跡もこの地ではサーモンの工場が建てられるなどしていたのでその方々がお墓を建てたのではないか、この奥様が鮑工場撤退後お一人だけ残ったからお墓も残されているのではないかなどと、添乗員さんの通訳も錯綜していて、工場主の奥様のお墓だけがここに遺された理由はよく判らない。
 ツアーメンバーのうちお三方が、それぞれ故人の冥福を祈ってお経をあげていた。


 余りにもしっかりしていてタフなのですっかり忘れていたけれど、エリンは若い女の子で、お経をあげている様子を見守りながら泣きそうになっているのを見て、純真なんだなぁとオバサンの感想が浮かんだ。
 エリンは、あとで、「ここには何度か来ているけれど、こうやって彼女の冥福を祈ってくれた人は初めてで、自分はずっと彼女がここに一人で遺されてしまったことが気になっていたので、こうやってお祈りをしてもらえて嬉しい。」と語っていた。


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2013.10.09

ハイダ・グアイ旅行記3日目その2

2013年6月15日(土曜日)


 添乗員さん曰く「もうハイライトですよ!」という、世界遺産スカン・グアイに上陸した。
 上陸した浜から木道が森の中を整備されており、森の奥にウォッチマンハウスがある。
 何というか、深い森で、苔の森である。
 とにかく急いでトーテムポールに向かいたい気持ちと、こんなに気持ちのいい場所なのに足早に過ぎることのもったいないという気持ちとのせめぎ合いだ。


レイブンハクトウワシ


 ウォッチマンハウスに到着して、中に入れていただくと頭上にワタリガラスとハクトウワシの紋章というか意匠を刻んだ梁が飾られていた。
 左側がワタリガラス(レイブン)で、右側がハクトウワシ(イーグル)だ。見分け方としては、くちばしの先が分かれている(離れている)のがハクトウワシで、くちばしの先までぴったりくっついているのがワタリガラスだ。
 ハイダ族は、ワタリガラスの家系とハクトウワシの家系(クラン)に分かれている。


ウォッチマンのお二人 スカン・グアイにいたウォッチマンは、息子(といっても40代後半)のジョルダンと、お母さんのお二人だ。昨日行ったスケダンス島でウォッチマンをしていたアイリーンとこのお母さんは姉妹だという。
 それだけ残されたハイダの人々は少ないということか、ジョルダンの一族が多くウォッチマンを務めているということか、よく判らなかった。
 この掲げられているお魚はオヒョウで20ポンドくらいあるという。後で持たせてもらったら本当に重かった。彼らが釣ったり捕まえたりしたのではなく、漁師がここまで売りに来ると言っていた。


苔の森岩から生える木 スカン・グアイでもウォッチマンのジョルダンが案内してくれた。
 彼の先導で、ちょうど潮が引いていた海辺に向かう。再び、苔の森を歩く。両側に岩が迫るような道で、夕方17時くらいになって、雲も出ていたので、ちょっと暗い森の道を歩く。
 上陸したのとは反対側の海辺にトーテムポールがあるようだ。


海から見るスカン・グアイ のんびり苔やお花を眺めたり、写真を撮ったりしながら30分くらい歩いて、村のあった場所に到着した。
 ちょうど引き潮だったようで、海からトーテムポール達を見ることができる。ボートに乗らず、正面からトーテムポールの立つ全体の様子を見られることはなかなかないので、これは嬉しい。 
 ここは1880年代に放棄された村で、一部には焼かれた跡も残っている。


 完全な姿で残っているトーテムポールはなく、弱っているので落ちてきたりする可能性もあるから近づいてはいけないと注意を受けた。ウォッチマンでも近寄ることは禁止されていると言っていたから、相当弱っているのだろう。
 1957年に、フロントポールのうち状態のよかったものは博物館に収めるために持ち出されてしまっている。
 ハイダの人々は「朽ちてゆくまま」にすべしと考えているので、スカン・グアイが世界遺産に登録されるに当たって「保存」ということについて議論が起き、ここでも、最終的に最低限の支えを施してあるのみとなっている。


昔の様子 ここでは17軒の家に300人くらいが住んでいたそうだ。族長の家はポトラッチのときなど50人もの人が入ったけれど、平均すると1軒の家に10〜15人が暮らしていたという。
 トーテムポールと家々はこの入り江を囲むように建てられており、向かって左側にハクトウワシのクランの人々が、右側にワタリガラスのクランの人々が住んでいたという。


 昔といっても150年くらい前のことだ。カニなどの海の幸を獲り、ベリーを摘み、ジャガイモ畑を作って暮らしていた。ハイダ・グアイ南部には、17の国(村)があり交易も行われていたという話の一方で、「よその国(村)と関係が生じるのは戦争のときくらいだった。」という説明もあり、その辺りの関係がどうなっていたのかよく判らなかった。
 戦争になると女性は子ども達は家々の後ろにある山(森)に逃げ込み、海辺には砦も築かれたという。


トーテムポール 現在残っているトーテムポールは、そのほとんどが墓棺柱だ。家の前に立っていたフロント・ポールと呼ばれるトーテムポールのほとんどは博物館に持って行かれてしまっている。
 スカン・グアイには、他の場所に通じる道はない。博物館に納める際には、トーテムポールを海に浮かべ、漁船で引っ張って運んだそうだ。合理的なのか、適当なのか、よく判らない。


家の柱とトウヒの木 トーテムポールの後ろに回ると、家の跡を見ることができる。
 家の四隅に建てられていた柱を割って木が育ってきているところも見られる。こうして、この家々の跡も森に帰って行くということなんだろう。
 家の後ろから見ると、ハイダの家もトーテムポールも海に向かって建てられていることがよく判る。


 レイブンクランの族長の家は6beam、ハクトウワシの族長の家は2beamだというから、梁の数で家の立派さが決まる訳ではないということは、ここスカン・グアイでも同じようだ。
 族長の家には奴隷がいた(奴隷はこの辺りで寝ていた、という説明がさらっとあった)と言われて驚いく。本土にいたクリンギット族と戦争し、連れて来た捕虜だったらしい。
 家々を構成している木もトーテムポールを造った木もいずれも米スギで、だからこそこうして今も辛うじてその跡を残している。


ハクトウワシシャチ トーテムポールの意匠は動物であることは分かりつつ、結構抽象化されていて見分けるのは難しい。
 左側の写真のようにギザギザした歯はシャチの象徴で、右側の写真のような羽の模様はハクトウワシの特徴をよく表していると説明を受けたことはよく覚えている。


スカン・グアイ全景 この入り江もとにかく気持ちのいい場所で、ジョルダンさんの説明を受けているうちに、青空も覗き、日も射し、再び海の水が満ちてきたのが嬉しい。
 「19時15分には出発します。」と言われたのも何のその、ダッシュすれば間に合うだろうとその場にできる限り長く残り、黄色く小さいお花畑に立っているトーテムポールや、傾き始めた日の光を浴びるトーテムポールたち横一列に並ぶトーテムポールを斜めから捉えたり、とにかく写真小僧となってパシャパシャと写真を撮りまくった。
 それでも、やっぱり、あの気持ちの良さを写真に残すことはできないのが悔しい。


 スカン・グアイに来て、一番最初に近づき一番最後に別れるのは、グリズリーベアが人間の子供を抱えた意匠のトーテムポールである。
 このトーテムポールは、ちょうど目の前に海からの風を避けるように木々が立ち並んでいることもあって保存状態がよく、最後まで残るだろうと言われている。
 このトーテムポールも墓棺柱で、その棺が非常に美しく彫刻されたものだったので150〜200年前に持ち去られてしまっている。
 棺は通常2m近くあり、それだけ重いものを頭に載せて安定して立たせるのは大変だろう。1mくらいも堀り、大きな石(岩)を回りに置いて支えるようにしているという話だった。


 本当に本当に名残惜しかったけれど、ウォッチマンハウスでゲストブックにサインし、お手洗いを借り、何故か見学前に見せていただいたオヒョウまでいただいて、19時30分過ぎ、スカン・グアイを後にした。
 添乗員さん曰く、「あとは帰り道」である。


 スカン・グアイから本日の宿であるローズハーバーゲストハウスまでは近く、20分ほどで到着した。桟橋があってボートからの乗り降りが楽なのが有り難い。
 部屋割りなどのために添乗員さんが走り回っている間、エリンがボートを少し沖に留めてくると言うのでくっついて行くと、「ボートを置いてくるだけよ?」と彼女が不思議そうにしている。「エリンが乗ってからボートを私が押せば楽にスタートできるでしょ。」と言ったら、彼女の返事は「来年はここで助手になれるわ!」だった。
 いやいや、私にはエリンのタフさも賢さも可愛らしさも(これはガイドに必須ではない)ありません、と思う。ちょっと可笑しいやりとりだった。


ゲストハウス このゲストハウスは(多分)2棟に分かれていて、男性陣はグッヅさんも暮らす母屋へ、女性陣はゲストルームのみのもう1棟に泊まることになった。
 外観は「大丈夫か?」という感じだけれど、中に入ると、真ん中にロビーがあって、左右に1部屋ずつ(2段ベッドとシングルベッドの部屋と、ダブルベッドの部屋)、急なはしごのような階段を上がるとツインベッドのお部屋が二つあり、なかなか居心地がいい。


 水道は部屋の中に、お手洗いは徒歩20秒の外にある。
 私たちは、家の中で土足は落ち着かないと玄関口でハイキングシューズは脱いでしまい、それぞれスリッパやビーチサンダルで過ごすことにした。
 レインウエアを脱いでゲストハウスの外、屋根がついている場所にかけて干し、それぞれの部屋にはLEDの小さなスタンドしかないので「暗くなったら大変!」と食事の前にベッドメーキングに取りかかる。


オードブル 21時くらいから夕食をいただいた。
 男性陣はとっとと身支度や荷物整理を済ませて先に始めていたらしい。女性陣は別のテーブルに固まった。そうなると、関西の方5人の中に私が一人いる格好で、ちょっと肩身が狭い。
 オードブルだというウニのお寿司にびっくりした。確かにオードブル扱いで、一緒にテーブルに置かれていたのはグリーンサラダだ。
 流石にごはんは寿司飯ではなく普通のごはんで、でも海苔が巻いてあるところが凄い。醤油も山葵ももちろんある。
 今日のごはんは、昼も夜もウニが溢れんばかりだ。


メインディッシュ ウニはオードブルで、もちろんメインディッシュがある。
 焼きそば風のパスタに、アブラメという白身のお魚のソテーが用意されていた。あっさりした白身のお魚に、中華風の味付けのソースが美味しい。そういえば、スカン・グアイでもらったオヒョウはどこにいったのだろう。謎だ。
 パスタは、添乗員さん持参のしょうゆでちょっと味を足すと丁度いい加減になって、みなさん、おかわりをしていた。


 ココナツのケーキと、自家製だというミントティーが供された辺りで、エリンから「サンセットよ。」と声がかかった。
 スカン・グアイを出発するとき、私が添乗員さんに「今日、夕陽が見られるといいですね。」と言ったことを覚えてくれていたらしい。
 コンデジは持ってきていたけれどデジイチは部屋に置いて来てしまっていたので、慌ててダッシュして取りに戻った。時刻は22時だ。


最初の1枚 エリンに声をかけてもらって部屋に戻り、ちょうど部屋の前辺りから撮った最初の1枚を撮る。
 次々に写真を撮っていたら、ついにデジイチの電池がなくなってしまい、もう一度慌てて部屋に戻って電池を替える。どうしてこういうときに限って電池切れになるのかと思う。


 ふと気がつくと、添乗員さん含めツアーメンバーがポツポツと海岸線に出て写真を撮っていた。
 グッヅさんまで出て来て写真撮影をしているのが可笑しい。可笑しいけれど、本当にここが、特にこの夕焼けが好きなんだろうなと思う。
 ローズハーバーは元々は捕鯨基地があった場所で、グッヅさん夫妻は捕鯨会社がこの場所から撤退するときにその敷地を買い、住み続けている。


夕陽母屋の窓に映る夕日 グッヅさんに「僕の撮った写真の方が赤く撮れている。」と自慢されて、だってグッヅさんは毎日見て毎日写真の工夫ができるんじゃん! と思ったけれど、それを英語に直す語学力がない。仕方がないので膨れて見せ、そのまま撮り続ける。


 「色々なアングルで撮っておくといいんだよ。」と言われ、グッヅさんのマネをしたり、母屋の窓に映る夕日を撮ったり、アングルだけでなくホワイトバランスを変えたり試行錯誤していると、日が沈むのなんてあっという間だ。
 そうした試行錯誤の中、いかにも「ローズハーバー」な色に撮れた写真がこれである。
 ローズハーバーの名前の由来は絶対にこの空の色にあると思う。


 日が落ちきって真っ暗になり、食堂に戻った。お料理はグッヅさんの奥さんのマリアさんが担当だ。
 食べかけになっていたケーキとミントティーをいただき、23時前に解散した。
 ローズハーバーゲストハウスでは、薪で沸かしたお湯のシャワーを浴びることができる。汗もかいていないし、ツアーメンバーはみなさん回避したようだ。添乗員さんは、「レポートを書かなくちゃいけないので。」とチャレンジしていた。
 風邪をひいたら大変なので私もパスし、シャワーシートと「水のいらないシャンプー」で済ませた。


 リビングに陣取って、持参したLEDのヘッドランプで足もとを照らして差し上げつつみなさんがお手洗いを済ませるのを見届けた後、海に向かって窓が開きしかも便座が二つ並んでいるお手洗いを使った。返す返すも、この超絶ロケーションの二人用トイレの写真を撮らなかったことが悔やまれる。
 発電機を回しているのだろうに申し訳ないと思いつつ、夜中に誰かが起きて何かにぶつかってコケても大変なので、水場にあったLEDのスタンドはつけっぱなしにさせてもらった。


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2013.10.06

ハイダ・グアイ旅行記3日目その1

2013年6月15日(土曜日)


フローティングキャビンから 5時前、誰かがベッドから落ちた音(推定)で目が覚め、5時過ぎ、誰かの目覚まし時計が鳴って本格的に覚醒した。
 両隣のお部屋ではすでにみなさん完全に起きていたようで、二度寝は無理と諦め、せっかく目が覚めたので、1階に降りてキャビンの外に出た。
 いい朝だ。


星野道夫の本 昨日は人気でなかなか見られなかった星野道夫の本と、昨日行ったスケダンス島のトーテムポールについて解説した本を眺めた。前者は写真がメインだし、後者は英語の本だから、本当に「眺めた」だけだ。でも、面白い。
 星野道夫がクィーンシャーロット島に来たときにもこのキャビンに泊まったそうで、この本にはサインも残されている。


 スケダンス島でディヴィッドさんが説明のときに使っていた本がこのキャビンにもあって嬉しい。どれくらい前に撮ったのか、今とは全く様子の違う、まだ家が建ち、人が暮らしていた頃の写真も載っている。
 本当に今の様子は「朽ちている」状態なのだなと思う。まだきちんとトーテムポールが立っているうちに、彫刻がはっきりと見えるうちに来たかったと思う一方で、保存しておけばよかったのにとは思わないのが我ながら不思議だ。


朝食 ポットのお湯をもらって今日持って行く水筒のお茶を作ったりしているうちに、朝食となった。8時である。
 パン、野菜入りのスクランブルエッグ、ジャーマンポテト、果物、ジュースが出される、温かい飲み物はセルフサービスで、私はコーヒーをいただいた。
 美味しい。
 そして、エリスも「いい朝ね。」と言ったほど、今日は上天気、波も穏やかだ。


 9時くらいから出発の準備を始めた。
 今日の宿であるローズハーバーにはリネン類が揃っていないので、今朝まで使っていたシーツ2枚と枕カバー1枚を枕カバーに納めて一人分、名前を書いたテープを貼って、それをビニル袋を入れた大きなバケツに詰め込んで持って行くという。
 こんな上天気だけれど、持参したレインウエアを着込んだに上にさらにレンタルのレインウエアを着て長靴を履くという身支度もなかなか大変で、出発したのは9時30分近かった。 


罠をセット ゾディアックボートを出発させてすぐ、まだフローティングキャビンも見えるところで、エリンがボートを止めた。
 何? と思っていると、エリンが縦横高さ40cm×30cm×15cmくらいの篭を放り投げていた。その篭の真ん中にはエビが好むエサが仕込まれていて、これでエビを捕まえ、明日、このキャビンに戻ってきたら夕食にそれをいただく計画だそうだ。それは楽しみである。
 エリンは次々と篭についたロープを繰り出していて、この海の深さが知れる。


 今日は、昨日とは打って変わって波も静かで、ボートも滑るように海面を進む。
 席替えして前から2番目の席に座っているので、前方もよく見える。出発して15分もしないうちに、正面に雪をいただいた山々が見えてきた。
 フォトジェニックである。
 標高は1000mそこそこの山だそうだ。それでも、ここまで緯度が高いと6月でも雪が残っているらしい。もしかしたら、根雪なのかも知れない。


あざらし 岩なのか島なのか、呼称に迷う大きさの岩に寝そべるアザラシを見たり、帆船が優雅に浮かんでいる(ただし残念ながら帆は畳まれていた)様子を見たりしながらゾディアックは進む。
 昨日に比べたらピクニックのようなものだ。


 服装は昨日とほとんど変わっていない。上半身は、長袖Tシャツに長袖シャツ、フリースにレインウエアを2枚重ね、下半身はアウトドア用パンツにレインパンツを2枚重ねている。
 ウールの帽子がうっとうしかったし日射しも強そうだったので、つばのある日よけ用の帽子に変えた。
 風を切ってボートが進んでいるときに足首が冷たかったのと長靴に水が沁みてきているような気がして、靴下を2枚重ねにする。 


トウヒの木 10時半くらいにリチャードソン・ポイントにトイレ休憩を兼ねて上陸した。
 早速、森に入った方が「そこでハクトウワシが死んでいるわよ。」とおっしゃる。私はできれば見たくないと思って近づかないことにする。ツアーメンバーの多くの方はご覧になったらしい。
 大きな米スギの木がそこかしこにある森の中に入って行く。樹齢300〜1000年と説明に幅があるのは、ゆっくり育つ木なので推測するのが難しいためらしい。
 1960年代にあった、森を伐採して木材を輸出しようという動きにハイダの人々が反対したことを契機として、ここは国立公園として指定されている。この森は「野生林」なのだ。
 また、周辺の海にはあわびもたくさんいる。残念ながら食べることは禁止されている。


試しに切ってみる リチャードソン・ポイントも、かつて人々が暮らしていた場所だ。
 木の皮が剥がされているのは、皮の内側の繊維を取りだし、布を織っていた跡である。以前に糸作り体験をしたときに、もちろん直径2cm程度のもっと細い草を使ってのことだけれど、同じように皮の内側にある繊維を取り出したことを思い出した。
 これらの木は、皮の一部を剥ぐだけならそのまま生き続けることができるというから安心である。
 また、トーテムポールを作るのに相応しい木かどうか確認するために中をくりぬいて確認した跡も残っている。スが入っていると、その木は止めて他の木を探したそうだ。
 この「検査」に合格した木の根元を焼いて、切り倒したという。


 リチャードソン・ポイント周辺の海は潮の干満の差が激しく、10mほどもあるという。
 おかげで、磯の様子が観察できて楽しい。
 カラス貝のような黒い貝は毒があって食べることはできない。説明がなかったら、ちょっと試しに食べてみたくなるような風情である。
 1時間ほども滞在し、リチャードソン・ポイントを後にした。


 20分ほどボートを走らせ、エリンがやけに磯に近づいて行くなと思っていたら、彼女はおもむろにエンジンを止め、手製だと思われる銛のようなものを取り上げた。
 ここでウニを獲るという。
 ウニ? と思って海中をじーっと見ると、ヒトデなのかウニなのか他のものなのか判然としないながら、確かにそれっぽいものが岩にへばりついている。事前の案内では「潮の引いた浅瀬でウニを獲る」かもと書いてあったけれど、随分とワイルドな方向に舵を切ったようだ。
 エリンも「初めてだから上手く行くか判らない。」と言っている。


ウニ漁 レインウエアを脱ぎ捨てた添乗員さんが参戦し、エリンがボートの操縦に専念すると俄然効率が上がった。
 「どなたか、やってみたい方はいらっしゃいますか?」と言われたけれど、ここで海中に落ちたくはないのでお任せする。大きなウニが次々と獲れてウソみたいだ。添乗員さんの腕も見る間に上がって行って、30分ほどでかなりの「大漁」となった。
 「これはお昼ごはんにいただきましょう。」と言う。凄い。
 我々のボートがウニ漁に夢中になっている間、近くの岩場には狸っぽい動物が遊びに来ていた。狸もウニやその他の海の幸を食べるのだろうか。


ヒッピーのおうちバーナビーナロー


 14時前、昼食のためにバーナビーナローに上陸した。
 国立公園に指定されるまで、ここにヒッピーの人々が住み着いていたそうで、家の跡も残っている。
 美しい場所だし、海の幸も豊富、鹿もいて食料に困らないというのが大きなポイントだったらしい。
 もちろん国立公園となった今では、漁は禁止されている。
 大きな木の下に小さな木(しかも綺麗な円錐形だ)があるのは、その鹿たちが葉を食べてしまったからだそうだ。よくも綺麗な形に食べたものである。


 ウニはボートの乗降に使っているステップを引っ繰り返して入れ物にして運んで来た。最初は、お鍋に海の水を汲んできて洗っていたけれど、それではまだるっこしい。何人かで波打ち際に行き、直接海の水で洗いながら中味を取り出した。
 添乗員さんがナイフの柄で割ってくれた殻から中味を取り出す。如何せん、慣れない作業なのでなかなか上手く行かない。「ちぎれちゃったから食べちゃおう。」とやっていたら、「わざとやってない?」と一緒にウニに取り組んでいたツアーメンバーの方に呆れ半分ニラまれてしまった。
 ウニは苦手だけれど、まさに採れたてのウニを海水の潮の味でいただくなんて極上の贅沢だ。美味しい。いくらでも食べられる。


昼食 ウニの処理も何とか終わり、昼食開始である。
 エリスが作ってくれたサンドイッチ、ポテトサラダ、クッキー、りんごジュースもあるし、私は水筒に麦茶を詰めてきている。そして、もちろん、ウニがある。
 美味しい。
 芝生の思い思いの場所に座って、景色を眺めながら美味しくいただいた。


鹿 出発前、「鹿の群れがいるよ。」と教えてもらって行ってみると、確かに遠くの方に鹿の群れがいて、そしてふと近くの林を見たらそこに鹿がぽつんといたので驚いた。
 鹿は元々この地にいたのではなく、ヨーロッパの人々が連れて来たらしい。そう聞いても、動物を近くで見られると嬉しい。
 そーっと近づき、かつ望遠レンズを使って、写真を撮る。何ともフォトジェニックな鹿だった。


 15時くらいに出発し、一路、世界遺産スカン・グアイを目指した。
 今日の宿であるローズハーバーの沖合で一旦ボートを止め、エリンが誰かと交信している。世界遺産スカン・グアイでは、一度に上陸できる人数に制限があり、その確認をしているようだ。
 ゴーサインが出て、再びエリンはボートを飛ばす。
 16時半過ぎに、上陸した。


 「ハイダ・グアイ」は、1980年代に付けられた呼称だそ。どちらかというと「クィーンシャーロット(諸)島」の方が通りがいいような気がする。星野道夫の「旅をする木」にも「クィーンシャーロット」と書かれている。
 Wikiによると、「ハイダ族の歴史を尊重し、植民地的な名称であるクイーンシャーロット諸島の代替として1980年代初期に作られた造語が「ハイダ・グワイ」という名称である」そうだ。2010年にブリティッシュ・コロンビア州政府が公式に改名する法律を成立させたという。
 ということで、旅行社のツアー名は「太古の森が息づく神秘の島 クィーンシャーロット」だけれど、この旅行記では「ハイダ・グアイ」で統一した。
 ハイダ・グアイとは「人々の島」という意味である。


上陸 ハイダ・グアイは、南北の大きな島を始めとする大小150余の島で構成されている。
 その南端にある島がスカン・グアイ(アンソニー島)である。
 スカン・グアイは1981年にユネスコ世界遺産に登録されている。その登録理由は「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。」だ。


 その世界遺産の島に、いよいよ、上陸である。


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