中米3ヶ国旅行記2日目その1
2012年12月16日(日曜日)
3時半に起き出し、やっぱりお腹が空いていたので、持参していたスティックのチーズケーキとコーヒーで軽くおめざをいただいた。トラベルケトルがメキシコ到着初日に引き続いて大活躍である。
4時のモーニングコールは添乗員さん直々だった。
ロビーに降りると、添乗員さんやガイドさんがスタンバイしていて、今日の昼食のお弁当を配ってくれた。朝食は、カラクルム遺跡に行く途中にあるレストランで食べる予定になっている。
ガイドさんに「眠れましたか?」と聞かれて「うーん、1時間ずつ3回って感じには。」と答えたら笑われてしまった。
真っ暗な中5時に出発したので、世界遺産カンペチェの街もカリブ海も全く見ることがなかったのが残念である。
日の出前、車窓から見える朝靄が凄い。これは、この後もほぼ毎日見られた光景だ。そして、6時20分頃に日の出を迎え、太陽が昇ってくると、雲一つない真っ青な空が広がり、ピーカンの天気になるのが、ユカタン半島のこの時期のお約束だ。
7時頃、La Herradura というレストランで朝食休憩となった。デジカメのGPSを動かしていたけれど、このレストランが道中のどの辺にあったのか、どうもはっきりしない。
朝食のメニューはかなり豪華だ。オレンジジュースとパパイヤやバナナなどのフルーツがまず出され、トーストにスクランブルエッグ、トルティーヤにコーヒー(ネスカフェだった)がテーブルに並べられ、この他にビュッフェ形式で温かいおかずがある。その中から野菜とパスタのスープをいただいた。
先行していたツアーの方々の「お約束」でお皿に山盛りのライムが追加される。勧められてフルーツやスープに絞ると、爽やかな味になってより美味しかった。先人(?)の知恵である。
レストランから1時間強、バスを飛ばしている間にガイドさんからメキシコ案内があった。
メキシコ紹介の始まりが「ルチャ・リブレ」だったのが可笑しい。日本人が「メキシコ」と聞いて思い浮かべるのはマスクを付けた人のプロレスだろうと言う。それは違う! というツッコミを待っていたのかも知れない。
メキシコと聞いて「普通に」思い浮かべるような「砂漠にサボテン」「マリアッチ」などは、メキシコ北部のもので、合衆国で放送している西部劇の多くはメキシコで撮影されているらしい。
しかし、ここユカタン半島は、椰子やフルーツの木などが茂る亜熱帯気候に属する。この辺りは北緯18度で、フィリピンとほぼ同じ緯度だ。
ところどころに見られる畑はほとんどがとうもろこし畑である。
とうもろこしの原種は指の先くらいの大きさで、品種改良が進められ、メキシコのとうもろこしは日本のものよりも粒が大きく揃っていないのが特徴だ。朝食に出されたトルティージャはこのトウモロコシから作られている。
メキシコでも、トルティージャを家で作るよりお店で買う人の方が増えているけれど、先ほどのレストランは自家製だったそうだ。それなら焼いているところを見れば良かったと思う。
トルティージャに焼いたお肉を乗せたものがいわゆる「タコス」である。
トルティージャもタコスも食べ方は自由だとガイドさんは強調する。メキシコの食卓にはライムとサルサソースが常に用意されており、そのサルサソースをかければ、私たちのイメージする「辛いメキシコ料理」ができあがる。
サルサソースの中でもハバネロを使ったものは激しく辛い。
メキシコでお腹を壊す日本人は、大抵の場合、この「辛さ」にやられているというから凄い威力である。
唐辛子で一番辛いのは種ではなくさやの内部にしがみついている白い綿のような部分だと聞いて驚いた。
この他、食材の説明で印象に残っているのがウチワサボテンだ。火を通してから刻むとネバネバが出てきて、それをサラダにしたり、ステーキの付け合わせにしたりするという。
食卓つながりということか、ガイドさんはテキーラの説明も熱心だ。「スーパーなどでも売っているけれど大瓶しかありません。」と言う。そのスーパーに行く機会はないかもと言うから、空港で買うしかないだろうか。
テキーラの原料である竜舌蘭は、数十年に1回しか花を咲かせない。その花が咲く直前に伸びる茎をくりぬくと甘い汁が1日に3Lも採れ、昔その汁を発酵させて先住民は「プルケ」と呼んで飲んでいたそうだ。特にアステカで盛んだったらしい。
アステカではプルケの神様までいて、兎の姿をしている。酔っ払っているから目が赤いと言われていたらしい。兎にとっては濡れ衣もいいところである。
テキーラはアルコール度数が35度前後と高いので、メキシコの人は喉を守るためにテキーラをストレートで飲みながらライムを囓る。ワイルドである。
そして、テキーラは、寝かせる年数によって名前が変わる。できたての透明のものがブランコ、木の樽で1年くらい寝かせてアルコールが若干飛んで樽の黄色っぽい色がついたものがレポサード、1年以上寝かせたものがアニエゴでさらにマイルドかつ茶色くなる。
レストランなどでは、同じ銘柄でもこの熟成度によって幾種類か用意されている。お値段は、熟成しているものほど高くなる。メキシコの人は、概ね真ん中のレポサードを好む。
また、メキシコの人達は非常に親日的である。
メキシコ人が持っている日本のイメージは、昔はテクノロジーや車だったけれど、最近の特に若い人達にはアニメや漫画が大人気である。そういえば、芝崎みゆきさんの「マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行 ――メキシコ・グアテマラ・ホンジュラス・ベリーズの旅」にもそういう描写があったなぁと思う。今の人気No.1は「コメットさん」だ。
ガイドさんの話は、コメットさんの話から何故かスペイン語ナンパ術に進んでいたけれど、私は「ガイドさん、若く見えるけど、大場久美子主演のコメットさんの前に、別のコメットさんがあったことを知ってるような年齢なんだな。」というところに気を取られていた。メキシコに来てコメットさんの話題で年齢を推し量る。シュールだ。
もちろんメキシコ案内はナンパ術で終わった訳ではなく、メキシコという国についての話は尽きない。
メキシコは、正確には「メキシコ合衆国」だ。12月1日に退陣した大統領が、最後の置き土産のような感じで「正式国名をメキシコにしようじゃないか」と提案したらしい。さて、その後どうなっただろう。
メキシコは、日本の5倍以上の広さの国土に、ほぼ日本の人口と同じ1億1千万人が暮らしている。
1億1千万人のうち60〜80%はメスティソ、いわゆる混血の人だ。300年前にスペインが侵略してから、少しずつ混血が進み、200年前に独立してから以後もさらに混血が進んでいる。
しかし、一方で、10%くらいはマヤの先住民が占めている。そして、学校でも先住民の言葉とスペイン語の両方を教えるようになっている。
そして残る数少ない白人が、メキシコの富のほとんどを独占している。
マヤの人々は、チコ・サポーテという木の樹液チコレを集めてチューインガムを作っていた。この「チコレ(というかチクレ)」の元はマヤの言葉で、チは「口」、クレは「動かす」という意味である。それが、スペイン語にそのまま取り入れられたらしい。
チコ・サポーテの木はこの辺りにもあって、幹に×印がついていたら、それはチコ・サポーテの木だという印だ。カラクムルの遺跡も、このチコ・サポーテの木を探していた飛行機が1931年に偶然発見したというから、なかなか関連が深い。
カラクムル遺跡のかなり手前で大型バスから小型バスに乗り換える予定になっていて、この乗り換え地点を過ぎたすぐの辺りで、その×印のついたチコ・サポーテの木を見ることができるという。
9時頃に、そのカラクムル遺跡の手前60kmの乗り換え予定地点に到着した。
そこは、すでにカラクムル自然保護区の内部である。この自然保護区は30平方kmの広さがあり、メキシコ国内最大だ。自然保護区だから、野生動物(七面鳥、キジ、ハナグマ、ホエザル、ごくごく稀にジャガー)が普通にいる。もちろん、遺跡の中でも普通に暮らしているらしい。
ここで大型バスから小型バスに乗り換えて遺跡に向かう筈が、5日前に仕組みが変わったとかで、そのまま大型バスでさらに奥に向かうことになった。
ただし、ここで通行税を支払う必要がある。ガイドさんを目で追っていたら、どう見ても道ばたで座り込んでいる人からそれこそチューインガムでも買っているような雰囲気で通行税を支払っている。可笑しい。
戻って来たガイドさんの話では、ここ2週間の間に、システムが何度も変更になっているそうだ。
この先の遺跡入口までの道が狭いので、大型車で来た場合は小型車に乗り換えるのは必須だ。そのため、小型車での送迎をしている人達の収入が増えてきており、観光収入を重視するカンペチェ州がごく最近、これまで担っていた民間の業者を追い出してトロッコ列車を走らせ始めたらしい。
しかし、このトロッコが時速20km(遺跡入口まで所要片道3時間!)、一度に運べる人数が30人という使えない交通手段だったため、大クレームで2日でお払い箱になったという。
トロッコ列車引退後は、ここから20分くらい走ったところにある博物館前でミニバンに乗り換えることになっている。本日は、このミニバンでの移動となった。
最初は、ミニバンに荷物を置いておけますという話だったけれど、博物館でお手洗いを借りている間に(これがなかなか強烈なトイレだった)、やっぱりミニバンには置いておけないのでここから持って行く荷物は全て持ち歩くことになりますという案内に変わった。
散々考え、どう考えても雨が降りそうな空ではなかったので雨具の類は全てバスに置いて行くことにした。遺跡内で昼食となるためランチボックスを各自持参しなければならず、それだけでかなりの大荷物だ。荷物は少ないに越したことはない。
2台の新車のミニバンに分乗し、1時間弱で遺跡の入口に到着した。
「道が細い」、「揺れる」、「くねくねしているので車酔いが心配な方は」と言われていたので戦々恐々としていたほどは揺れなかった。ちゃんと舗装された道を行く快適なドライブである。
しかし、これで到着ではないところがカラクムル遺跡の凄いところだ。
この案内図のところで、ガイドさんから先生に案内役がスイッチされ、今日の予定が説明された。
13号神殿から7号神殿を経由して2号神殿まで、トータル4時間見学するという。希望者はこの三つの神殿に上ってくださいとおっしゃる。「上れます」ではないところが可笑しい。
見学予定時間が明確なのは、先ほどのミニバンに迎えに来てもらう時間を予約しなければならないからだ。
大まかな説明の後、まずは遺跡の中心部まで2kmほどサクベの道を歩いた。
カラクムルは1992年に世界遺産に登録された遺跡で、こうして比較的楽に見学できるようになったのはごく最近のことだ。遺跡内部も「そこはまだ一般公開されていません」という部分が多い。そして、発掘も調査もされていない場所はさらにとてつもなく広い。
遺跡の中には見学のために新しく作った道もあれば、昔から「サクベ」があったところを整備した道もある。
サクベは石灰で舗装というか補強してあるために作られたばかりのときは白い。しかし、この時歩いたカラクムル遺跡内のサクベはかなり黒くて土の道とほとんど変わりなかったような気がする。
カラクムル遺跡は自然保護区ということもあって虫をかなり心配したけれど、気にするほどのことはなさそうである。
「カラクムル」は、「二つの隣り合った山」という意味である。
都市国家カラクムルは、同じ都市国家のカラコルと同盟して562年にティカル王を捕獲して殺し、ティカルを100年以上停滞に追い込んだ「超大国」だ。
しかし、695年にティカルに敗れ、以後、衰退してしまう。ティカルは停滞に追い込まれても復活する根性と粘り強さがあったけれど、カラクムルは割とあっさり系だったらしい。
カラクムルはカンという王朝の首都であるという説明もあって、ということは、あっさり系だったのはカラクムルではなくて「カン」王朝なのか? とも思うけれど、この辺の割り切り方が未だによく判らない。
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