中米3ヶ国旅行記2日目その2
2012年12月16日(日曜日)
カラクムル遺跡全体の入口から10分ばかり歩いたところで、この遺跡に到着した。名前があったのかなかったのか、あったなら何という名前だったのか、覚えていないところが情けない。
ここは、応接室というかお客様をお迎えする場所で、段差の部分がいわば「椅子」だったらしい。
壁や屋根が残っていないのは、修復する際に確認できたところまでしか復元しなかったからだという。壁や屋根が草や木など腐ってしまうような材質で作られていたために残らなかったし、元の形も確認できなかったのだろうという説明だ。
カラクムルは、全体の80%くらいがいわゆる「住居」であり、1軒辺りの居住者が5〜6人と推定されている。
だとすると、果たして何人くらいの人が住んでいたということになるのだろう。
先ほどのような「家」に5〜6人住んでいたのだろうか。
こうした、遺跡というか都市の規模を推定する方法についてもかなり詳細に説明を受けた記憶があるのに、その内容をさっぱり覚えていないところが本当に情けない。
カラクムルで最初に出会ったステラ(石碑)がこちらである。
ステラの背後にある「基壇(マヤの場合、ピラミッドというよりも最上部の建物の基壇であるらしい)」は、恐らくは貴族の住居であると同時に、政治的なことも行われた場所と考えられている。
カラクムルの特徴として、このステラがたくさん(120とも言われる)残っていることが挙げられる。しかし、石灰岩(炭酸カルシウム)で作られているため、雨に弱いし地下の水分も吸収して非常にもろく、刻んだ文字や意匠が「溶けて」しまっていて判読不能なものがほとんどである。
このステラで、放置されてから1200〜1300年たっているというから無理もない。
同じだけの年月がたっていても、キリグアやコパンでは、使われた石材が異なるので今でも綺麗に残っている。
単にその都市の近くで産出された石材の地質的な違いが原因だとすると、カラクムルでほとんど判読不能だというのは勿体ないというか、悔しい感じがする。ただし、これはキリグアやコパンがいわば「マヤの辺境」にあったために起きた現象で、マヤ遺跡は石灰岩で作られているものが多数派だ。
まだ入場してほんの僅かだけれど、質実剛健なこの遺跡は好ましい感じがする。
鬱蒼とした木々に囲まれているのに、何故か明るく、乾いた印象を受ける。
カラクムルは例外で、ステラは、形状は円柱であったり様々な形の研究者が「祭壇」と呼ぶものとセットになっていることが多い。
ステラに王が彫られているとすると、その王に捧げ物をしたり、あるいは王が儀式を行う場合には王が腰をかける場所として使われていたのが「祭壇」だ。大広場にある「祭壇」は、正しく、王の座所ということになる。
ステラと祭壇の組み合わせは、この先、見ることができるだろう。
ミニバンに乗り換えた博物館に、このアクロポリスに関わる「新発見」が展示されている。
それは、マヤの人々の日常生活が描かれている壁画で、しかも、通常は部屋の中に描かれる壁画が、何と建物の外側に描かれていたという。
マヤの建物は何重にも上に被せるように増築というか大きくして行くことが多い。この建物も例外ではなく、住居建築が重層的になっている。そのため、「外壁」に描かれていた割に壁画の保存状態が抜群にいい。
ただ、「発見された」ということは、その瞬間から褪色が始まっているということでもある。二酸化炭素が褪色させる、だから遺跡内に人間が入るだけでもよろしくないという話は、高松塚古墳が話題になったときに聞いた記憶がある。
そして、「褪色」なら人間の目にはっきり判りそうなものだけれど、実は、見た目には変化がなくても、密かに確実に褪色が進んでいるということもままあり、科学的な調査が必須である。
件の壁画には「マヤ・ブルー」と呼ばれる青が使われていて、このマヤ・ブルーは中でも色が落ちないことで有名である。何とかという有機物と、粘土の無機物とを合わせたという話だけれど、その物質名はメモしそびれてしまった。
遺跡入口から1時間弱、13号神殿に辿り着いた。
13号神殿の前に立つステラに彫られている暦は、411年から735年までを表している。そして、13号神殿のこの階段がカラクムル遺跡内で一番新しいことは確かだという。
一方で、薄い漆喰を土器の壺に塗ってそこにグレーのインクで文字を書くという様式があり、カラクムルの王名表が書かれたものなど11個の壺が発見されている。しかし、その王名表とステラに刻まれた年代とは、時に矛盾している。
695年にティカルに敗れて以降カラクムルは衰退したということだから、多分、余計に「ちゃんと」はしていないんだろうなという気がした。
「これは煙突ですか?」と阿呆なことを聞いたら、13号神殿の上にある建物のこの部分はもちろん煙突ではなく、屋根飾りであった。このような形になっている理由の一つは、「重くならないように」という配慮だ。
そしてもう一つ、この隙間を風が吹き抜けるときに音を出していたと考えられており、その演出効果も狙っていたのだろうという
13号神殿が現役の頃は、漆喰が塗られてさらに赤く塗られていたそうだから、相当に洒落っ気というか、劇的効果が好きな人々だったのか、王族が威厳を保つためにあらゆる演出を惜しまない伝統だったのか、という気がする。
登頂予定神殿リストに名前のあった13号神殿に上らなかったのは、ガイドさんが「上っても2号神殿は見えません。」と断言したからだ。後にこれは勘違いだったらしいことが判明する。
この最上部の建造物も、折角ここまで説明して貰ったのだから近くで見てみたかったと思う。
今でも惜しかったと思っていることの一つだ。
ステラの色のついた部分が件の「赤く塗られていた」名残かと思ったら、これは単なる黴だというお返事だった。
「顔は横向き、胸のところに腕を当てて左手で何かを抱えている。胸飾りを付け、辛うじて足が両側に見える」と説明して貰うと、このステラに人が彫られていることが判る。
これでも保存状態がいい方だというから、つまり、カラクムルのステラは全体的にかなり浸食されているということだ。
観光にはこのままの方がいいけれど、保存を考えると屋根をつけた方がいいに決まっている。しかし、屋根をつけると何よりも「写真うつり」が悪くなる。保存と観光の兼ね合いの難しさの、判りやすい一例だ。
「透明な屋根ならいいんじゃないですか。」と言った方がいらしたけれど、遺跡の保存には紫外線も大敵で、どうせ屋根を付けるなら紫外線もカットしたいという。それならUVカットで日光だけ通せばいいんじゃないか等と話は盛り上がる。
カラクムルは、他と比較すると交通不便な遺跡で、そのためかここまでは誰にも会わずに来ていた。
しかし、ふと見ると、何というかカラフルな集団がいた。
19日間ツアーの方々によると、これまでも各地の遺跡で、スピリチュアル系というのか、マヤの人々ではないけれどマヤ暦の変わり目に意味を見出そうというグループを見かけたという。ガイドさんや先生も「これから行く先々の遺跡で会うんじゃないかな。」などと言っていた。
次に現れたのは、「球技場」だ。ある意味、マヤ遺跡の定番と言っていい。
競技は1チーム1〜2人という少人数で行われ、ゴムのボールを地面に落とさないように、手を使わずに足や腰で操っていたということが判っている。しかし、何のために行われていたかは判っていない。
ゴムのボールが天体の動きを表すとされていることから、豊作を願う儀式だという説が定説になっているけれど、球技場跡をさらに掘り進めて貴族が賭をするための施設のようなものが発見されたこともあるという。
先生曰く「セレモニーとしてではなく、賭が行われ、勝った方が相手の首を切るなどということが行われていたのではないか。」ということだ。命がけの勝負はやっぱり儀式なんじゃないかという気がする。
しかし、その肝心の勝ち負けがどう決まったのかは判っていないらしい。
両脇の高くなった部分は、観覧席ではなく、ボールが内側の球技場に戻るよう設けられている「壁」で、その壁にリング状のものが取り付けられたりしていたことから、そこを通したり当てたりしたらポイントが入るルールなのではないかと推測されている。
球技をしている様子の絵や彫刻は残っていても、ルールブックのようなものは発見されておらず、それでこんなアンバランスな推測になっているんだろうというのは、私の邪推だ。
発掘される前の「ピラミッド」は、1000年以上の間に泥などが堆積して、ほとんどこのように小山になっている。
何にもないところからどうやって「ここに建造物があるんじゃないか」と推測するかというと、例えば、広場の四辺に建物があるなど、人工的な配置の類推がまずヒントになる。
その他、人がその場所に住んでいた痕跡があれば、それも発掘のきっかけになるという。
「この山を発掘するとしたらいくらかかりますか?」という質問に、先生はガイドさんに人件費の目安を質問し、ガイドさんは「最低賃金は日給**ペソくらいだけれど、時がたつにつれてどんどん給料を上げてくれと言うと思う。」と苦笑しつつ答える。
本当に単純計算かつ概算で先生が「**円くらい。」とおっしゃったけれど、それがいくらだったか何故かすっぱりと忘れ果てている。遺跡発掘に係る費用のほとんどは人件費なんだなと驚いたのと、それ以外のお話が面白かったからだ。
発掘するにはまず測量調査が必要で、現状を記録した上で掘り始めなければならず、それにはプロの技術が必要とされる。
また、カラクムルの場合は自然保護区内なので、そもそも木を伐採する許可を取ることが難しい。植物学的に貴重なものがあったりすると尚更だ。木は、日光や雨を遮るという面では遺跡の保存にいい影響を及ぼすけれど、根っこなどがはびこれば地面に埋まっている遺跡を壊す可能性もあり、そもそも扱いが難しい。
先生は、遺跡の発掘調査の際に蟻の巣に遭遇し、その調査が終わるまで発掘がストップなんてこともあったというし、自然保護と遺跡発掘とは切っても切り離せない関係にある。
また、今から発掘する場合、この山全体を全面的に掘るということはまずしない。
今後、技術や研究の進歩があるかも知れず、未来の検証を受けるためにも、そのまま残しておく部分が必要だ。現時点でも、「50年前の考古学者が掘らずに残しておいてくれれば」ということがあるから、50年後の人に同じ思いをさせないように、何より正しい発掘と研究ができるような配慮が必要とされる。
手つかずの部分が残っていなければ、前の発掘なり研究なりを検証することもできない。
修復する人には、「どうしてこういう修復をしたのか」を説明する義務があると先生は言う。どういう形で残っていたのかということを写真に残し、様々な解釈ができるときは、後世の人が検証できるように原型も資料も過程も残しておく必要がある。
そういう意味では、最近のエル・ミラドール遺跡の発掘はあまり計画性がなく進められていて、非常に心配だというのが先生の見解だ。
観光中心の発掘だと、表面というか外観だけ発掘して調査もせずにそこでおしまいということも意外と多いらしい。しかし、当たり前だけれど、「掘って見つかったらオッケー」というものではない。
正午過ぎにようやく、グラン・アクロポリスに到達した。地図の赤いラインを上の方から辿って13号神殿、球技場と通り、10号神殿と15号神殿の間にいるという感じだ。
この赤いラインはいわば見学のための最短ハイライトコースである。
一方、この地図の左半分にはラインが全くない。
ガイドさん曰く、別に入場制限されている訳ではなく、勇気と根気と体力さえあればジャングルを分け入って見学することが可能だ。もっとも、行ってみたところで、発掘が進んでいる訳ではなく、先ほどのような「小山」があるだけだ。
もちろん我々もスルーである。
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