ハイダ・グアイ旅行記5日目その1
2013年6月17日(月曜日)
全身が激しく筋肉痛でなかなか眠れなかった。
生身で風を切ってボートに乗ることは、自分では判らないけれど結構な全身運動なのかも知れない。というよりも、日頃の運動不足の賜である。
おかげで、2時頃、かなり雨足が強くなっていることに気がついた。それでも、5時くらいから1時間半程度は熟睡できたような気がする。
6時半を過ぎると、朝の早い周りの方々の荷造りの音が聞こえ始めた。8時の朝食までに、私を除く全員が荷造りを終えていたと思う。
朝食前のひととき、テラスに出て上の方を眺めている方がいらして、何かと思ったらハミングバード(ハチドリ)が来ていた。赤いポットに蜂蜜を入れて鳥寄せをしているらしい。本当に素早く細かく羽ばたいていて愛らしい。
朝食のとき、添乗員さんが昨日の海老の頭でお味噌汁を作ってくれた。「お味噌汁を注ぐカップでお水の量を量ればいい」というところまでは伝えたけれど「蒸発する分を見込んで多めに」と言いそびれたせいで、気持ち少なめにできあがった。申し訳ない。
お味噌汁に合わせて、フリーズドライのごはんも供され、エッグベネディクトととの組み合わせはどうかというところだけれど、奈良漬けを提供してくださった方もいらして、豪華な和朝食になった。美味しい。
雨は降り続き、少し様子を見ようということになった。
「今日って寒い?」と聞くと、添乗員さんもエリンも「雨が降っているから少し冷えるかも知れないけど判らない。」という答えだ。もっともである。
寒さ対策とびしょ濡れになったときのことを考え、上はいつもどおりのレイヤーにし、下はヒートテックのレギンスにナイロンパンツを重ねた。
これまではリュックを座席の下に入れてもらい、乗り降りのたびに取り出してもらっていた。今日それをやると座席の下に入れた他の荷物まで雨に濡らしてしまうことになる。座席の下に分散して詰め込んでいた靴も大きなビニル袋に入れて床に転がすことにしたようなので、今日はリュックをビニル袋に入れて手元に置くことにした。
荷造りや身支度をしている間に雨も少し小降りになってきたし、着々とレインウエアを装着するツアーメンバーを見て「行く気満々」という判断になったらしく、9時半過ぎに出発した。
エリンが、雨風があんまり激しいようなら皆後ろ向きにボートに乗ってもらうと言う。現状の判断は「それほどではない」らしく、これまでと同じように前を向いて座るよう指示された。
荷物を手元に置くことにした私はリュックを転がすスペースを確保すべく今日も一番後ろを希望した。
フローティングキャビンのある入り江をさらに奥に進んだ。
一番奥まったところに辿り着いたところで、ハクトウワシを見つけた。見上げると雨が顔に当たるのが辛い。しかし、雨を透かして見える、葉の落ちた高い木に止まっているハクトウワシはかなり格好いい。
羽を広げて飛ぶ姿がさらに格好いいのはもちろんのことだ。
エリンの声に呼ばれて視線を巡らすと、そこに、ブラックベアがいた!
岸辺の草か何かを食べているらしく、口に何かくわえているのが判る。
割と太っているように見える。餌が豊富にあるということだろうか。のっそりと歩いている。
エリンがゾディアックのエンジンを切ってゆっくり見せてくれる。ブラックベアが森の奥に戻って行くまでほんの5分足らずだったけれど、かなり堪能した。
緑の草の中、手前には緑色の海、奥は緑の森に黒い熊はフォトジェニックだ。
入り江の奥から引き返す途中、再びハクトウワシが高い木に止まっているところに出会えた。
エリンがまた、ボートのエンジンを止めてくれる。入り江の奥なので、エンジンを止めてもそれほど大きく揺れないのが有り難い。
さらに20分もボートを走らせると、波打ち際に鹿が出てきていたり、垂直に立った岸辺に沿って泳ぐあざらしがいたり、フローティングキャビンのある入り江にはたくさんの動物がいた。
遊んでいるように2頭が連なって泳ぐあざらしに皆で夢中になる。
あざらしに出会った辺りから雨は止み、青空もちらほら見えるようになって、エリンはゾディアックを飛ばし始め、11時15分頃、タヌー島に到着した。
ウォッチマンであるウォルター夫妻と、孫娘のレイヴンちゃんが迎えてくれる。ワタリガラスちゃんなんて、ハイダらしいお名前の赤ちゃんである。まだおしめも取れていないし、歩けないので、メアリーお祖母ちゃんに背負われている。
ハイダ全体でもいわゆる「ハイダ語」をしゃべれる人は50人くらいしかいないらしい。単語くらいなら何とかという人が多く、ほとんどの人は英語をしゃべっている。
ただ、オールドアセットやスキットゲート、クィーンシャーロットの学校でハイダ語を教え始めており、またハイダ語が戻って来るかも知れないと言う。レイヴンちゃんも学校でハイダ語を習うようになるのだろう。
タヌーというのは海草の名前で、ここに住んでいた人々がその海草が好きでよく泳いでいたことから、そう呼ばれるようになったそうだ。
ご夫妻の案内でタヌー島の見学が始まった。
タヌー島には25軒の家(の跡)が残っている。立っているトーテムポールは既にない。墓棺柱が二つ、フロントポールが一つ、倒れた状態で残っているのみで、他は全て1953年から54年にかけて博物館に持って行かれてしまったという。
タヌー島の家は、お隣との間隔が他に比べて近くなっていて、それは攻め込まれたときに武器を持った人が通りにくくするためである。
ハイダは、大陸にいた人々と争って人や物を奪い取ってきたり、ハイダの人々の間でも争いが起こったりしていたと言われており、勝手に「穏健な人々」というイメージを持っていたので驚いた。
タヌー島の村長さん(「村長」という言葉のニュアンスが合っているかどうかよく分からないけれども)の家の最大の特徴は「泉(あるいは井戸)があった」とことである。
さらに3レベルに掘られているから、相当に「強い」村長であったことは間違いないだろう。
普通の村人の家の中には、地面を掘らずに建てた家もあったらしい。
倒れた墓棺柱について、ウォルターさんは「ビーバーの意匠」と説明し、ちょうど私の隣にいたメアリーさんが「違うわ。」と言いたげにボソっとダメ出しをしていた。
彼女によれば「多分そうだろう」と言われているだけで、実際のところはよく判らない、というのが正確らしい。
また、タヌー島には、ポトラッチの数ではなく洪水の回数を刻んだトーテムポールがある。タヌー島では洪水が何度も起きたし、洪水が村の生活に大きな影響を与えていたということだろう。
もう1本だけ墓棺柱が残っている。サンダーバード(雷鳥)の意匠は、クアキトゥル族のトーテムポールで多く彫られた意匠だという。何となく羽が彫られていることが分かる。
このトーテムポールは顔の部分は燃やされてしまい、一番上にあった棺は失われている。
ツアーメンバーの方で、墓棺柱の「一番上にあった棺」にとても興味を示された方がいて、この方の質問を訳すのに添乗員さんが困り切りつつ何とか失礼のないようにと四苦八苦していた。
その苦心のやりとりで、墓棺柱はまず滅多に倒れることはないし、倒れたとしてもやがて苔に覆われて自然に返って行くこと、博物館等に持ち去られた墓棺柱のうちその遺骨だけでも戻して欲しいと運動した結果400体ほどは取り戻せたということが判った。
ハイダ族の家は、ほぼ全て、海に向かって建てられている。添乗員さんに「どうして?」と質問してもらったけれど、余りにも当たり前のこと過ぎたからか、明確な回答はもらえなかった。
ただ、どこに誰が住むかを決めたのは村長さんだったらしい。
この「村長」という言葉も、実は複雑だ。
「村」にはハクトウワシの家系とワタリガラスの家系があり、それぞれのクランに長がいる。しかし、その二人のクランの長から村長が選ばれるのではなく、村長はクランの長二人とは別にいる。そして、さらに、クランの長だけではなく村長も世襲だという。
ハイダの家族は女系ということだから、村長が世襲でも、男性が村長になる限りは特定のクランに偏らない筈で、それなら問題がないということなんだろうか。
この辺りの「女系」や「世襲」の考え方は何度か説明してもらったし、帰国後に添乗員さんから届いたレポートに改めて図入りで説明してあったけれど、未だに理解出来ていないような気がする。
そういえば、メアリーさんと話していたときにも、メアリーさんはレイヴン・クランで、レイヴンちゃんももちろんレイヴン・クランだけれど、養子の問題があって云々とお話されていて、この辺りから私の英語力では全く付いて行けなくなってしまった。せっかくお話ししてくださったのに本当に申し訳ない。
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