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2014.01.04

ハイダ・グアイ旅行記6日目その2

2013年6月18日(火曜日)


 


博物館の展示1 バンクーバーのUBC人類博物館の建物の中にも、各地から集められたトーテムポール等の展示品がある。
 これなどはかなりざっくりとした抽象的なデザインである。
 こうしたトーテムポールは、西海岸のみ、しかもアメリカ合衆国のアラスカ州とカナダのブリティッシュ・コロンビア州との境目辺りから南北に分布しているという。


博物館の展示2 南下するに従って、具象的・立体的なデザインに変化する。
 私たちがこれまでのツアーで見て来たトーテムポールは、そうすると、かなり「抽象的」なデザインのものに限られていることになる。
 こちらよりは、一つ前に見た「抽象的」と評されたトーテムポールに懐かしさというか親しみを感じるのもきっとそのためだ。


 先住民は文字を持たず、その歴史はポトラッチで受け継がれて来ている。ポトラッチとは、たくさんの人を集めてトーテムポールNお披露目をし、そのポールについて語ることを認めてもらう行事である。
 この辺りは、少なくとも私にとっては「新説」である。
 トーテムポールに彫られたものの解釈は、人から人へと受け継がれ、「語ってよし」という権利を持つ人しか語ることはできない。宮田さん曰く「だから、私には語ることができません。」ということになる。
 そして、そのトーテムポール全体の物語を語る権利は、たった一人の人からたった一人に受け継がれ、例えば踊りなども同様に受け継がれ、いずれの場合もポトラッチの場で承認を受ける必要があるという。


 だから、ポトラッチが開かれなければ、そのトーテムポールの物語も、踊りも、伝承が途切れてしまう。
 しかし、後からやってきたヨーロッパの人々はポトラッチを「野蛮なもの」と判断して禁止し、さらに子ども達を親元から離してレジデンシャル・スクールに通わせて、先住民の文化を殺してしまう結果になった。
 ただし、カナダではヨーロッパの人々による先住民の虐殺はほとんど起きていない。これはビーバーの毛皮を手に入れるために来たからだそうだ。ビーバーの毛皮の帽子は当時のヨーロッパでは「セレブの象徴」で、そのビーバーの毛皮を上手く手に入れるためには先住民の協力が不可欠だったのだ。


博物館の展示3 次に宮田さんが連れて行ってくれたのは、ペインティングボックスだった。
 杉の一枚板を蒸して柔らかくし、曲げて箱にしてあるという。杉はよほどしなる素材なのだなと思う。「木を折り曲げて作った」なんて思えない箱だ。
 継ぎ目がないため、水も漏れないし入らない、虫も入らないし杉の木には防虫効果もある。こういった箱は、大切なものを保管するために使われていた。
 そして、その「大切なもの」には、人の骨も含まれる。


 墓棺柱は、ヨーロッパ人が遺骨が納められた状態のまま多く持ち去ってしまった。
 ハイダでは、人は生まれ育った場所に戻らなければ安らかに眠ることはできないとされており、棺はともかく遺骨だけは返して貰えないかという運動が行われている。そうして戻された遺骨を若い芸術家達が新しく作った棺に納めることが続けられているという。
 これまでに聞いたお話と繋がるお話が聞けて嬉しい。


皿 「置物」とか「船」としか思えないこれらの正体は、ポトラッチで使われた食器だという。
 見えない。大き過ぎる。
 ポトラッチのご馳走は魚介類がメインで、サーモンがやはり多く、その他ベリー類も人気だったらしい。気候が温暖で冬に暖かい雨が降り、夏に晴天が続く地域に住んだ先住民は、食べ物に苦労することがなく、だからこそ家やトーテムポールを作り、その意匠に凝る余裕も生まれたそうだ。
 しかも、温帯雨林は、家やトーテムポールの材料となる杉の木も大きく育てる。
 これらの条件が全て整わなければ今見ているようなものが生まれることはなかったことになる。不思議だ。
 実際、カナダでも内陸に住んだ人々は、バッファローの狩猟中心の生活を送り、後に残るものを作る余裕がなかったという。


船 サーモンを釣るのに使ったと考えられているボートも展示されている。杉の木をくりぬいて作られている。
 ハイダの人々は高い航海技術を持っていて、バンクーバーとハイダ・グアイを行ったり来たりしながら交易なども行っていたらしい。この「行き来が頻繁」という属性が、疫病を広げる原因にもなってしまったそうだ。
 しかし、こんなエンジンもついていないボートでよく外海にこぎ出そうと思ったものである。
 このボートは一体何人乗りなのだろうか。


手を広げる人 奥にいる、手を広げて迎え入れてくれているかのような人形は、その見た目どおり「あなたを心から受け入れます」というメッセージを送っているそうだ。
 ハイチカというと教えてもらったと思うけれど、自分で取ったメモの字が汚すぎて判別不能である。
 この「人」の腕は可動式になっていて、迎え入れるときには手を広げ、何らかの理由で拒絶するときには腕を下げる。判りやすい意思表示だ。


ワタリガラスと最初の人々 宮田さんが最後に連れて行ってくれた場所が、ビル・リードの「ワタリガラスと最初の人々」だった。
 ビル・リードの代表的作品の一つだ。
 ワタリガラスが貝をつつき、中にいる人間に「出て行くように」と促した、しかし、一度出て行った人間がまた貝の中に戻ってしまった、という物語を持つ、象徴的な作品である。
 思っていたよりも大きい。
 そして、思っていたよりも小さい。
 360度どこから見ても「作品」だし、どこからも見られるように展示してあったけれど、やはりこの角度が一番「らしい」ような気がした。


 50分にわたる宮田さんのガイドは終了し、あとはフリータイムで30分後に集合と言われた。
 最初のうちは、宮田さんお勧めの、仮面(マスク)がたくさん展示されたお部屋などを見ていたけれど、30分という時間は焦るし落ち着かない。それだったらと、宮田さんにくっついて質問することにした。
 その最初に出た質問が「えーっと、ハイダというのは、民族の名前? いや、部族の名前ですか?」だったのだから、我ながら情けない。しかし、このときまでそこを考えずに、何となく「ハイダ」という言葉を使って来てしまっていた。


 しかし、見ようによってはスルドイ疑問でもあったようで、宮田さんの第一声は「それは難しい。」だった。
 ハイダ・グアイ一帯の地図を見ると、領域を区分するラインが引かれており「族」の名前が書かれている。学問的には、使われている言語によって分けて考えている、のらしい。
 けれども、実際問題として重要なのは学問よりは「当人たちがどう思っているか」ということで、例えばハイダであれば「自分(達)はハイダ族である」と思っている人々の集まりがハイダ族であり、彼らが主に住んでいる地域がテリトリーということになる。
 彼らは交易・交流も盛んだったから、「言葉が違う」「言語で分ける」といっても、相互にかなり似ている言葉をしゃべっていたし、そういった固有の言語とは別に、交易用の言葉も持っていたという。ますます、ややこしい。


 ボートツアー中に「大陸から捕虜を連れて来て」とか「武器を持った敵が通れないように」などという説明を聞くことが意外と多かったのでその点を尋ねてみると、「ハイダ族の中で小競り合い程度はあったかも知れませんが。」というニュアンスのお答えだった。
 そして、たとえ村同士が争っていたとしても、同時にそれぞれの村の若者同士が結婚することも普通にあったというから、「争い」は儀式と化していたのかも知れないし、政治と暮らしは別という感じだったのかも知れない。


 トーテムポールに刻まれたことの意味を語る資格は「一子相伝」で、この「一子相伝」は必ずしも親子間で行われた訳ではなく、例えば、師匠から弟子へというパターンもあるという。
 トーテムポールは、倒れることもあるし、失われることもある。ハイダの人々の人数も少なくなってきている。結果として、あるトーテムポールとその「正しい」語り手という組み合わせが減って行ってしまうのではないかと思った。


 ポトラッチが開かれなければその「語り手の認証」もされないのでは、今は「一子相伝」は廃れてしまっているのではないかと質問したら、ポトラッチは現在も行われているそうだ。しかも、普通に公民館で開催されたりするらしい。
 ポトラッチは昔に行われていた、既に失われてしまったものというイメージを勝手に持っていたし、「大地のエネルギーをもらう」みたいな、キャンプファイヤーを囲んで開催されるような情景を妄想していたので、宮田さんの説明の中ではこの話が一番の衝撃だった。
 しかし、思い返してみると、星野道夫の著書にもポトラッチに参加したエピソードが書いてあったように思う。


ポトラッチの回数 このトーテムポールに刻まれているのはカエルのクランの長で、帽子に入ったラインの数が生涯にポトラッチを開催した数である。3回というのは非常に多いし、この長に人脈も集客力もあったことが判るという。ポトラッチを開催するために、もちろんお金も必要だろうけれど、最重要課題は「カリスマ性」だという。なるほどと思う。
 しかし「3回で非常に多い」ということになると、これまで見た19本のラインの入ったトーテムポールなどはどうなるのだろう。もしかして、あちらは「一人の長が」という趣旨ではなかったのかも知れない。


面 例えば、「四角い耳を持った熊の面」というカタチについて語ることはできるけれど、ポトラッチでの認証を受けていない以上、どういうストーリーを持っているのかということについて語ることはできないそうだ。
 宮田さんは、意匠の説明はできても物語は語れない、というのはそういうことだと言う。
 この博物館には多くのお面が収蔵されており、普通サイズの面は儀式のときなどに被って使われていたもので、大きな(確か私の身長と同じかそれ以上のサイズのお面もあった)ものは、家の中で柱に飾られていたものである。
 このお面は、口をすぼめて口笛を吹いていて、山姥のような子供を攫うと考えられていた「イキモノ」だと聞き、そんなものを飾らなくてもいいのでは、などと考えてしまった。


 この辺りでタイムアップとなった。
 でも少しは見たいとミュージアムショップに駆け込む。駆け込んだらツアーの方ほとんど全員がすでに臨戦態勢であちこち見て回っていた。
 後から思えば図説のようなものを買えば良かったのに全く頭に浮かばなかったのが無念だ。
 19時45分まで、UBC人類学博物館を堪能した。堪能したけれど全然時間が足りなかった。ぜひまた訪れたいと思う。


魚貝のパスタサラダとビール グランビルアイランドに移動し、The Sandbar Seafood Restaurantで20時半くらいから夕食をいただいた。
 メニューは、グリーンサラダ、魚貝のパスタ、チーズケーキである。
 グランビルアイランドにはビールの醸造所があった筈と、飲み物にはグランビルアイランドの名前を冠したビールを頼んだ。確か、ISLAND LAGERだったと思う。メニューに書かれた6カナダドルというお値段に、税・サービス料を足すと1.5倍の9ドルになってちょっと驚いた。ガイドさんによると、「お酒と煙草をやる人は成人病予備軍だから、医療費を使う分、税金も払ってもらいましょう」というのが政府の方針だそうだ。
 パスタの塩気がちょっと足りないと思いつつ、今回のツアー最後のディナーを普通に美味しくいただいた。


 しかし、ツアーメンバーの特に男性陣にとっては「物足りない」ディナーだったようで、車まで移動する間、「最後のディナーなんだから、土地の名物を出すべきだ。」、「どうしてサーモンを出さないのだ。」、「食事も旅を楽しむための重要な要素である。」等々というご意見を聞き続ける羽目になった。
 恐る恐る「あの〜、添乗員さんにおっしゃった方がよろしいのでは・・・・。」と言ってみると「もちろん、言ってある。」とおっしゃる。私に改善を求めている訳ではなく(当たり前だ)、教えを説いた、という心持ちだったらしい。
 個人的には、レストラン自体の評判は悪くないようだし、メニューのチョイスというより予算の問題だったのではないかと思った


 バンクーバー最後の観光地は、スタンレーパークである。
 いかに日の長いバンクーバーといえど、流石にもうすっかり夜だ。その夜の街を「車窓観光」という感じでチャイナタウン、ガスタウン、カナダプレイスを抜け、スタンレーパークに到着した。すでに22時を回っている。
 トーテムポール広場の前から、対岸のバンクーバーの夜景が鮮やかに見える。
 「品の良い夜景」というイメージなのはどうしてなんだろう。


ハイダのトーテムポール スタンレーパーク観光の唯一にして最大の見どころはトーテムポール群だ。
 カラフルに塗られ、ライトアップされたトーテムポールは、何だかこれまで見て来たトーテムポールとは全く別のものという感じがする。9本並んでいるうち、ハイダ族のトーテムポールが一番端にある。やはり何だか異質なものとしか思えない。
 その場にある、その場にあり続けている、そして近い将来朽ち果ててしまうだろうと言われているトーテムポールを見られて良かったと改めて思った。


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