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2014.01.26

中米3ヶ国旅行記2日目その4

2012年12月16日(日曜日)


3号神殿 誤算は、カラクム遺跡の2号神殿から1号神殿までが結構遠かったことだ。
 道中、3号神殿の横を通り、つい素通りできずにカメラを向けたりしたものだからさらに時間がかかる。漆喰が残っていた建造物は3号神殿だけだったような気がする。
 後で確認したら、割と地味な感じの3号神殿が実は宮殿と推定されており、翡翠のマスクをつけた男の遺体も見つかっている。素通りしなくて良かったけれど、ほぼ素通りで本当に申し訳なく、そして悔しい。


 1号神殿から戻って来る同じツアーの方に「大丈夫、間に合うよ。」と励ましていただきながら急ぎ、何とか1号神殿の麓に辿り着いた
 体力がないくせにペース配分ができず、このピラミッドを1分くらいで上ってしまい、本当に本当に疲労困憊した。阿呆である。上で待っていてくださった同じツアーの方に大笑いされる。
 1号神殿はてっぺんが意外と狭く、自分がその場でぐるっと一回転するだけで360度の眺めを堪能できる。
 しかも、このときは、ツアーでご一緒した女性と二人で独り占め(二人占め)できた。


1号神殿の頂上より 1号神殿からは、2号神殿、7号神殿、13号神殿が一気に見ることができる。
 ガイドさんが「見えるかも」と言っていたエル・ミラドールを探そうと思っていたのに、余りの疲労にすっかり忘れ果てていた。しかし、この360度一面の緑という眺めを喜んで撮りまくった写真を必死に探しても見つけられなかったから、もの凄くいい視力の持ち主のみの特権か、あるいは、樹木の生長に伴って見えなくなってしまったか、どちらかだと思う。
 添乗員さんも「私も目を凝らしましたが見えませんでしたよ。」とおっしゃっていた。


 10分弱くらい眺めを楽しんで、それからダッシュで集合場所に向かった。
 2号神殿の足もとからてっぺんに上り、降りて来て1号神殿に移動し(途中3号神殿に少しだけ寄り道し)、一気に上って眺めを楽しんでから降り、集合場所の5号神殿の辺りまで戻るのに要した時間は25分だった。
 何とか集合時刻には間に合ったものの、あまりに疲労困憊していたためか集合場所のすぐ側にいたらしいクモザルを見逃してしまった。後で「いたじゃない!」とツアーの方に言われても全く覚えがないという体たらくだ。


4号神殿 私たち二人が到着して全員が揃い、4号神殿経由で入口に戻った。
 4号神殿は両脇に付属物のような建物を持っており、ちょうど真向かいにある6号神殿から見て、中央の建物から日が昇るときが春分及び秋分の日、北寄りの建物から日が昇るときが夏至、南寄りの建物から日が昇るときが冬至と、天体観測のための機能を有している。
 今は間にある樹木が生長したし、建物が崩れているから、残念ながら現在では実際に目にすることはできない。
 都市建設ではまず天文学関連の施設から作られたというから、もしかするとカラクムルで最初に作られた建物はここなのかも知れない。


 14時30分くらいに入口に戻り、再びミニバンに分乗して博物館に戻った。
 遺跡入口ではハガキサイズのカラクムルの簡単なパンフレットが販売されていて、ツアーメンバーの多くが購入していた。スペイン語が全く判らない私は見送ったけれど、2号神殿の全体像の写真だけでも手に入れる価値はあったかなと少し後悔している。5ペソをケチるんじゃなかった! という感じだ。
 この時期、メキシコ国内だけか、グアテマラやホンジュラスも含まれていたか定かでないけれど、マヤ遺跡スタンプラリーが開催されていたらしい。その宣伝幟も飾られていた。
 19日間ツアーの方々が「最初に知っていたらやってたのに!」と嘆いていたから、19日間ツアーはそのスタンプラリー対象遺跡をほぼ網羅していたのだと思う。


自然保護区内の道 行きのミニバンはガイドさんが一緒で、帰りは先生が一緒だ。この辺りの「公平感」への気遣いは大変だなと思う。
 走り出したところで、初めて、カラクムル遺跡内で対向車に出会った。しかし、この時間から遺跡に何をしに行くのだろう。観光客ではなくてスタッフの車だったのかも知れない。
 ミニバン車中のレクチャーのテーマは「マヤの暦」だった。先生としても「行きの車内で話したことを、帰りのメンバーに話さない訳にはいかない」という使命感があるらしい。もっとも「何を話しましたっけ?」と言っていたから、もしかすると行き帰りで違う話だった可能性もある。


 マヤ長期暦が終わる(正しくは、一巡する)ことをテーマにこのツアーも企画されている訳だけれど、実はこの長期暦は、マヤの人々も10世紀くらいまでしか使っていなかったという。拍子抜けする話である。
 16世紀にスペイン人が来たときに使われていたのは、256年で一巡する短い暦だ。しかし、これでは256年分の出来事しか特定できない。256年前の出来事は同じ日付になってしまい、歴史をひもとくことは難しい。


 マヤの人々は複数の暦を平行して使っていて、もう一つ使っていた暦がいわゆる太陽暦である。マヤの1ヶ月は20日なので、1年が18ヶ月になる太陽暦だ。
 さらに、この他にもマヤには260日で一周する暦もあって、この260日暦と365日暦をちょうど干支のように組み合わせたものを「カレンダーラウンド」という。これは52年で一巡する。
 カレンダーラウンドは今でもかなり日常的に使われていて、グアテマラでは、国営放送のニュースで西暦と同時にこの260日暦で**の日ですと毎日アナウンスされている。


 また、マヤ文字は、昔は読むのも書くのも職人芸であったらしい。あの精巧かつ複雑な文字を書くのは相当に手間暇がかかったんだろうと思ったら、例えば、どんなに下手でもあるいは上手に崩してあっても漢字が読めるように、マヤ文字にも「ここが押さえてあれば」というポイントがあって、意外と早く書けたのではないかという。
 マヤ語の発音は、これは条件としてかなり恵まれていて、マヤの人たちに、例えば「犬」のことを何と言うかと聞き、答えが「つる」だったとしたら、犬の絵が文字に入っていたらその文字は「つる」と発音することが判る。そうすると、同じ文字が使われているここも発音は同じではないか、という風に追って行けるそうだ。
 実際はそうトントンと行く訳ではないだろうけれど、「実際にその言葉を使っている人がいる」ことは言語学的には相当の強みらしい。


 先生のお話が一段落した後、添乗員さんを含む女性陣でおしゃべりに興じているうちに博物館に戻った。
 記憶に残っているのは、ツアー参加者は女性が多いという話だ。今回のツアーは、男性4名、女性2名、19日間ツアーの方々を足しても、男性6名、女性5名と男性の方が多い。これはかなり珍しい部類に入るらしい。
 どちらのコースも割と直前にキャンセルが出たそうだ。私が参加した10日間コースの場合は、1ヶ月以上前の時点では13名の申込みがあり、12月10日時点で9名、その後、ノロウィルスに感染してしまった方がいらして最終的に6人になったらしい。よくぞ催行されたものだと思う。


セイバの木チクレの木 博物館では、トイレ休憩兼お茶碗や壁画を確認したいところだったけれど、残念ながら、どちらも果たせなかった。
 博物館は、すでに閉まっている。
 まだ15時半すぎなのに、早過ぎである。
 しかし、博物館の庭のようなところで、チューインガムの元でありカラクムル発見の契機となったチクレの木(左)と、マヤで聖なる木とされているセイバの木(右)を見られたから良しとしようと思う。


 元の大型バスに乗り換え、本日の宿に向かう。
 この旅行社の通常のメキシコツアーでは、カンペチェを出発してカラクムル遺跡を見学、その日のうちにパレンケまで移動するそうだ。そうすると、宿から遺跡まで、遺跡から宿まで、どちらも4〜5時間かかる。
 しかし、今回のこのツアーは遺跡見学がメインなので、カラクムル遺跡では通常の倍近い見学時間を確保し、宿泊もカラクムル遺跡から車で1時間半ほどのチカナ・エコ・ビレッジが確保されている。


 私たちが爆睡している間にドライバーさんが相当飛ばしてくれたようで、1時間くらいで宿に到着した。
 チカナ・エコ・ビレッジのちょうど真向かいにチカナ遺跡があり、あわよくばそちらも行ってみたいと思っていた。しかし、ロッジ到着が16時40分、遺跡の閉門が17時では如何ともしがたい。それならあと30分、カラクムルで時間を取ってくれればもうちょっとゆっくり3号神殿も見られたのにと勝手なことを思う。
 添乗員さんたちが部屋割りや夕食の手配等々をしてくださっている間、レセプション周辺でだけ使用可能なwi-fiを活用し、特に男性陣が衆議院議員選挙の結果に一喜一憂していた。


チカナ・エコビレッジ 外観チカナ・エコビレッジ お部屋


 17時にはお部屋に入ることができ、夕食は18時半からになった。
 暑かったし埃まみれだったので、真っ先にシャワーを浴び、洗濯をし、今晩と明日用のお茶を作る。
 自動販売機で気軽に飲み物を買う訳にも行かず、昨晩作った紅茶と朝もらったランチボックスに入っていたお水はすでに飲みきってしまっている。アエロメヒコのラウンジでいただいたお水が大活躍だ。
 エコビレッジという名前に相応しく、非常にシンプルなお部屋である。テレビなし、電話なし、wi-fiもレセプション周辺だけである。明日はモーニングコールではなくモーニングノックだという。
 しかし、必要十分なものは揃っているし、緑が多いためか、昨夜と違ってクーラーも必要ない快適さだ。


SOLビール メキシコといえば、ビールである。夕食のときに頼んだら、solという銘柄のさっぱり系のビールが出てきた。
 夕食のメニューは、マッシュルームのクリームスープ、ファヒータのミクスト(要するに野菜とお肉の炒め物)、フルーツサラダ、そしてコーヒーか紅茶だった。
 食卓の話題で、メキシコとグアテマラではメキシコの方が治安がいいと添乗員さんもガイドさんも先生も口を揃えて言うのが意外だった。しかも、添乗員さんが「例えば」と教えてくれた話が凄い。


 12月初旬にグアテマラに来たツアーでは、グアテマラシティでホテルに隣接するショッピングアーケードに行ったお客さんが、見知らぬ人に「やぁやぁ」と親しげに声をかけられ、ハグされ、訳も判らないままにハグを返して別れ、ふと気がついたらピアスが両方なくなっていたそうだ。
 イヤリングなら判らなくもない。しかし、ピアスである。一体どういう超絶技巧を駆使したのだろう。


 賑やかな夕食の後、明日のスケジュールの連絡があった。
 モーニング「ノック」5時、バゲージダウン5時半、集合6時である。早い。
 明日の朝食はボックスで、パレンケ到着後に昼食、午後はパレンケ遺跡の見学というスケジュールは、聞くだけでもハードそうである。
 また、旅行社のサービスで、絵はがきと切手が3通分配られた。グアテマラからの郵便事情が昨今かなり悪化しているのでメキシコから出しましょうと言われる。絵はがきの写真はティカルである。微妙だ。
 微妙だと思いつつ、部屋に戻ってから友人に絵はがきを書いた。明後日にはメキシコを出国するので、メキシコから絵はがきを出す機会もそう多く残されている訳ではない。


 時差ぼけなのか、23時を回っても全く眠くなかったけれど、明日も早い。強引に就寝した。


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2014.01.25

中米3ヶ国旅行記2日目その3

2012年12月16日(日曜日)

10号神殿か15号神殿 非常に曖昧なことを書いて申し訳ないけれど、ちょうど、10号神殿と15号神殿がある角に立って説明を聞いていたのは覚えている。なので、どちらかの神殿について語られていたのは確かだと思う。
 しかし、果たして、10号神殿についての説明だったのか、15号神殿についての説明だったのか、そこが判然としない。この写真が10号神殿なのか15号神殿なのかも今ひとつ微妙である。
 話の流れからすると10号神殿っぽいけれど、あちこち当たるとどうも15号神殿が正解な気がする。
 なので、10号か15号かどちらかの話であるということで、話を進めたい。

 前置きが長くなったけれど、この神殿は内部に(推定)王妃のお墓があり、その人物に翡翠の仮面がかけられていたことで有名である。
 カラクムルでは、この神殿だけでなく、あちこちの建造物からお墓や翡翠で作られた物が発見されている。
 この神殿で発見された仮面は、カンペチェの博物館に所蔵されている。しかし、19日間ツアーの方々が昨日博物館に行ってみたところ、フランスに貸出中で見られなかったそうだ。
 その翡翠の仮面は、意外と浅いところで(あまり掘らずに)発見されている。探していて見つけた訳ではなく、修復の過程でたまたま見つかったものである。

 マヤの建造物は、上に被せるように建て増しされていることが多く、一番最初にあった建造物などもう何重もの建造物で包み込まれている状態である。初期の建造物を調査しようとすれば、建造物にトンネルを掘るしかない。
 トンネルを掘れば見つかるというものではないけれど、そういう調査発掘をしたら新たな発見がある可能性が高いということだろう。勿体ないけれど、先の楽しみがあるということでもある。

 「浅いところで」と書いたけれど、地下1mの地点で発見されたという意味ではない。根掘り葉掘り質問してやっと理解したところによると、いわばこの「ピラミッド」最上部にある建物の床下から発見されているのだ。
 日本では住居と墓地は完全に分かれている一方、マヤでは、生活している場所のすぐ近くにお墓を設け、祖先の魂とともに生活する習慣だという。そして、カラクムルでは、床下からお墓が発見されている。それって近すぎないかと思うけれど、祖先を敬う気持ちが強かったということなのかも知れない。

 お墓の主が王妃だろうと推定される根拠としては、翡翠の仮面の存在がやはり大きいらしい。
 翡翠は非常に貴重なもので、その翡翠を用いた仮面を使えるのは、王と王妃などいわゆる王に近い人物に限られていた。
 しかし、マヤのお墓には「**の墓」といった墓碑銘がなく、あるいは、あったとしても既に消えてしまって確認できないため、誰のお墓、とは言えないらしい。だから、王妃ではなく王の母のお墓という説もある。

ティカルとカラクムル カラクムルとティカルはライバル関係にあり、ティカルはカラクムルの侵攻を受けて石碑が建てられなくなったというのが定説とされている。しかし、先生によると、今後のティカルの発掘ではこの説の真偽を考古学的に確認することも大きな目的だという。
 562年頃、カラクムルがティカル王を捕まえて殺し、695年頃、逆にティカルがカラクムルの王を捕まえて大逆転するまで、ティカルは衰退し混乱していたとされている。しかし、先生は、ティカルの北のアクロポリスにある大きな神殿が、このいわゆる「暗黒時代」の建造物であると見立てており、この説の真偽は北のアクロポリスの発掘である程度はっきりするのではないかと言う。

7号神殿 12時半頃、7号神殿の前まで来た。
 「上れば2号神殿が綺麗に見えます。」という誘い文句を聞き、ガイドさんが見張っていてくれるという言葉に甘えてカメラ以外の全ての荷物は置き去りにして、急階段を上り始めた。
 19日間ツアーの方々は「これまでのピラミッドよりも楽だわ。」とおっしゃる。聞けば、ウシュマルやコバーでは、ここよりも更に段差が大きく階段の幅が小さいという悪条件だったらしい。タフな感想である。
 しかし、初めて上っている私には十分、この7号神殿の階段も厳しい。

 怖い、息が切れる、足が上がらないと思いつつ、しかし実際にはそれほどの時間はかからずに頂上に辿り着いた。
 目に飛び込んできた絶景がこれである。正面が2号神殿、左に見えるのが1号神殿だ。
 皆して大興奮し、記念写真を撮りまくる。何だか、このピラミッド(と上り始めると呼びたくなる)に上ったときから、急にツアーメンバー同士が打ち解けたように思う。

1号神殿と2号神殿

 この後、2号神殿と1号神殿という、今見たばかりの真打ちが「どうぞ上ってください」と待ち受けている。こ
 んないい景色を見られたのだし、風も涼しくて気持ちいいし、ここでメゲている訳にはいいかない。
 もっとも、後になってみると、高さはともかく角度という点では7号神殿の階段が一番きつかったと思う。

七面鳥 地味だけど羽根の綺麗な鳥がいるなと思っていたら、ガイドさんが七面鳥だと教えてくれた。クリスマスのご馳走がこんな鳥だと初めて知った。
 正面に2号神殿を見ながら5号神殿でランチボックスを食べるもよし、2号神殿と1号神殿の両方に上るもよし、再集合は14時10分という案内とともに、12時50分に解散・自由時間となった。

 「お腹が重くなるよりは」、「時間が足りなくなるよりは」と先に2号神殿に行く人が多い中、7号神殿で既にエネルギー切れを起こしていた私は、ランチボックスの写真を撮る余裕もなくサンドイッチを食べ始めた。 
 世界遺産のど真ん中の5号神殿に腰掛けてランチだなんて、考えようによってはもの凄い贅沢である。
 ランチボックスの中味は、サンドイッチの他に、りんご、バナナ、チョコチップクッキー、チーズクラッカー、炭酸飲料、お水だった。お水は、朝もらったときに水筒に入れ替えておいたら、多少は冷たさを保っていた。有り難い。

 先生によると、2号神殿を途中まで上ったところに神殿(のような建物)があり、その中央の建物の下から、カラクムルで一番豪華なお墓が発見されている。もちろん、残念ながら見ることはできない。
 また、2号神殿は、メキシコではテオティワカンの太陽のピラミッドに次ぐ高さ45mを誇り、底辺は1辺140mもある。このように、もの凄く大きな基壇の上に建物を三つ作るのは、紀元前、マヤでいう先古典期における大都市の形である。グアテマラ周辺では、紀元前に栄えた都市が200年くらいには放棄されてしまったけれど、カラクムルは放棄されずに古典期まで残った珍しい例だという。
 もっとも、今見ているこの形は、2号神殿の最終形の一つ前の形に修復されたものだという。どうして最後のバージョンにしなかったのか謎だ。こっちの方が格好いいとかそういう理由ではないことを祈る。

 集合時間もあることだし、目安が知りたくて、ガイドさんに「ガイドさんだったら2号神殿のてっぺんまで行って戻ってどれくらいかかります?」と尋ねたところ、「私はいつも荷物番をしてるので、ほとんど行かないんですよ。」というお答えだった。ごもっともである。
 2号神殿は、地面から見上げた角度では実はてっぺんは見えていない。7号神殿から見えた2号神殿のてっぺんは、この裏というか奥に隠れている。
 既に上って降りて来た添乗員さんに「奥の建物に上るには、真ん中から行って今見えている一番上に行くのではなく、途中から左右どちらかに回り込んだ方が良い。」というアドバイスをいただき、覚悟して上り始めた。

2号神殿てっぺん 7号神殿から目一杯望遠を効かせて撮った2号神殿の最上部の写真がこれである。
 この手前のでこぼこして見える部分が、2号神殿を下から見上げたときに「てっぺん」のように見える部分である。さらにその上があることが判る。
 そして、添乗員さんに予め注意されていたにも関わらず、ひたすら足もとを見て階段を上っていた私は、気がついたときには「ここが回り込むポイント」と言われた高さを過ぎてしまっていた。

中腹から見下ろす しかし、せっかくこんな急階段を上って来たからにはすぐ降りるのは勿体ない。先生の言っていた「一番立派なお墓」のある場所を探そうと歩き始めた。
 しかし、上下から見たときは「あそこが真ん中」と一目瞭然でも、その場にいると「どこが真ん中か」ということは意外と判りにくい。
 結局、「中央の建物」自体を特定できず、お墓があるという場所を見つけることはできなかった。お墓の内部を見ることはできないにしても、入口くらいは確認したいと目論んでいたのに残念である。

マヤアーチ?2号神殿の上から 石組みもマヤアーチも、あまり精密でない感じがする。
 誰もいないこうした場所を歩き回るのは楽しい。
 カラクムルで暮らしていた人は、この高さまで軽々と上っていたんだろうか、たまのことだから我慢していたんだろうか、そもそもここまで来られるのは一握りの特権階級に限られていて苦労ではなく栄誉だったんだろうか、お墓と生活が近接していたということはここも誰かの家だったんだろうか、だとしたらこの家の子供は足腰が丈夫だな等々、妄想は尽きない。
 強烈な日射しと涼しい風、一面の緑が、妄想を加速させる。

回り込む 階段を降りずに奥の「本物の頂上」を目指せないものかと歩き回り、何とか後ろに回り込む道を見つけた。
 そうして辿り着いた頂上から見えたのがこの景色である。
 上から見れば判る。手前に写っているのが「お墓が発見された建造物」だろう。
 ジャングルが広がり、その中にてっぺんだけ見えているのが先ほど上った7号神殿だ。
 何というか、こういう景色を見ると、達成感というよりも征服感を感じる。

 頂上に同じツアーの方がいらして、現地の方とスペイン語で何やらお話しされていた。お聞きしたところ、スペイン語教室にずっと通っていらして、来夏は通っているスペイン語の先生のご実家にホームステイする予定だという。
 私が息を切らしているのを見て笑いながら尋ねてきたスペイン語に首を傾げていると「疲れたか、って聞いているよ。」と通訳してくださったので、もちろん! と大きく頷いた。
 「登頂記念」の写真も撮っていただき、しばし、のんびりする。

1号神殿 2号神殿のてっぺんからは、1号神殿も見える。
 遮るものが何もないからか、1号神殿の上でしゃべっていることの中味まで聞き取れそうな音響の良さだ。もしかして、マヤの建造物間にはそういう仕組みが予め用意されていたんだろうか。望遠レンズで見ると、結構何人もが上っていて楽しそうだ。
 40分あれば行って帰って来られるだろうと、急いで2号神殿を降り始めた。2号神殿の頂上を満喫することにされたらしい先ほどのツアーの方に「1号神殿まで行って来ます!」と手を振ると、笑って(多分、かなり呆れて)手を振ってくださった。

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2014.01.22

旅行を中止する(村杉温泉)

 2014年1月26日から1泊2日で母と村杉温泉に行く予定をしていたのだけれど、今日(22日)、私がインフルエンザにかかってしまった。
 恐らく4日後には体調的に旅行は可能だろうけれど、インフルエンザ菌の保菌者である可能性が高いし、旅館や他のお客さんにご迷惑をかけてしまっては申し訳ない。
 泣く泣く、旅行をキャンセルすることにした。

 宿に連絡してキャンセルをお願いしたところ、本来は4日前の20時からキャンセル料が発生するそうなのだけれど、理由が理由だからか、超過時間が1時間未満だったからか、キャンセル料なしということにしてくださった。有り難い。
 母も「いいわね」と言っていたし、いつかリベンジしたいと思っている。

 また、行きの新幹線も指定を予約してあったので、こちらもキャンセルした。

 計画していた旅行を体調不良でキャンセルするなんて初めてのことだ。本当に残念である。

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2014.01.16

550000アクセス達成!

 一昨日(2014年1月14日)、どなたかが550000アクセス目を踏んでくださっていた。
 12月初旬にココログのアクセス解析の方法が変わり、どうもブログに置いてあるアクセスカウンターとリンクしなくなってしまったようなので、個人的に積み上げた数字をとりあえず信じることにしている。
 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日
400000アクセス 2012年9月3日
450000アクセス 2013年2月19日
500000アクセス 2013年8月14日

510000アクセス 2013年9月7日
520000アクセス 2013年10月3日
530000アクセス 2013年11月4日
540000アクセス 2013年12月12日
550000アクセス 2014年1月14日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014.01.14

中米3ヶ国旅行記2日目その2

2012年12月16日(日曜日)


応接室? カラクムル遺跡全体の入口から10分ばかり歩いたところで、この遺跡に到着した。名前があったのかなかったのか、あったなら何という名前だったのか、覚えていないところが情けない。
 ここは、応接室というかお客様をお迎えする場所で、段差の部分がいわば「椅子」だったらしい。
 壁や屋根が残っていないのは、修復する際に確認できたところまでしか復元しなかったからだという。壁や屋根が草や木など腐ってしまうような材質で作られていたために残らなかったし、元の形も確認できなかったのだろうという説明だ。


 カラクムルは、全体の80%くらいがいわゆる「住居」であり、1軒辺りの居住者が5〜6人と推定されている。
 だとすると、果たして何人くらいの人が住んでいたということになるのだろう。
 先ほどのような「家」に5〜6人住んでいたのだろうか。
 こうした、遺跡というか都市の規模を推定する方法についてもかなり詳細に説明を受けた記憶があるのに、その内容をさっぱり覚えていないところが本当に情けない。


最初に見たステラ カラクムルで最初に出会ったステラ(石碑)がこちらである。
 ステラの背後にある「基壇(マヤの場合、ピラミッドというよりも最上部の建物の基壇であるらしい)」は、恐らくは貴族の住居であると同時に、政治的なことも行われた場所と考えられている。
 カラクムルの特徴として、このステラがたくさん(120とも言われる)残っていることが挙げられる。しかし、石灰岩(炭酸カルシウム)で作られているため、雨に弱いし地下の水分も吸収して非常にもろく、刻んだ文字や意匠が「溶けて」しまっていて判読不能なものがほとんどである。
 このステラで、放置されてから1200〜1300年たっているというから無理もない。


 同じだけの年月がたっていても、キリグアやコパンでは、使われた石材が異なるので今でも綺麗に残っている。
 単にその都市の近くで産出された石材の地質的な違いが原因だとすると、カラクムルでほとんど判読不能だというのは勿体ないというか、悔しい感じがする。ただし、これはキリグアやコパンがいわば「マヤの辺境」にあったために起きた現象で、マヤ遺跡は石灰岩で作られているものが多数派だ。
 まだ入場してほんの僅かだけれど、質実剛健なこの遺跡は好ましい感じがする。
 鬱蒼とした木々に囲まれているのに、何故か明るく、乾いた印象を受ける。


 カラクムルは例外で、ステラは、形状は円柱であったり様々な形の研究者が「祭壇」と呼ぶものとセットになっていることが多い。
 ステラに王が彫られているとすると、その王に捧げ物をしたり、あるいは王が儀式を行う場合には王が腰をかける場所として使われていたのが「祭壇」だ。大広場にある「祭壇」は、正しく、王の座所ということになる。
 ステラと祭壇の組み合わせは、この先、見ることができるだろう。


アクロポリス ミニバンに乗り換えた博物館に、このアクロポリスに関わる「新発見」が展示されている。
 それは、マヤの人々の日常生活が描かれている壁画で、しかも、通常は部屋の中に描かれる壁画が、何と建物の外側に描かれていたという。
 マヤの建物は何重にも上に被せるように増築というか大きくして行くことが多い。この建物も例外ではなく、住居建築が重層的になっている。そのため、「外壁」に描かれていた割に壁画の保存状態が抜群にいい。


 ただ、「発見された」ということは、その瞬間から褪色が始まっているということでもある。二酸化炭素が褪色させる、だから遺跡内に人間が入るだけでもよろしくないという話は、高松塚古墳が話題になったときに聞いた記憶がある。
 そして、「褪色」なら人間の目にはっきり判りそうなものだけれど、実は、見た目には変化がなくても、密かに確実に褪色が進んでいるということもままあり、科学的な調査が必須である。
 件の壁画には「マヤ・ブルー」と呼ばれる青が使われていて、このマヤ・ブルーは中でも色が落ちないことで有名である。何とかという有機物と、粘土の無機物とを合わせたという話だけれど、その物質名はメモしそびれてしまった。


20121216_113625 遺跡入口から1時間弱、13号神殿に辿り着いた。
 13号神殿の前に立つステラに彫られている暦は、411年から735年までを表している。そして、13号神殿のこの階段がカラクムル遺跡内で一番新しいことは確かだという。
 一方で、薄い漆喰を土器の壺に塗ってそこにグレーのインクで文字を書くという様式があり、カラクムルの王名表が書かれたものなど11個の壺が発見されている。しかし、その王名表とステラに刻まれた年代とは、時に矛盾している。
 695年にティカルに敗れて以降カラクムルは衰退したということだから、多分、余計に「ちゃんと」はしていないんだろうなという気がした。


屋根飾り 「これは煙突ですか?」と阿呆なことを聞いたら、13号神殿の上にある建物のこの部分はもちろん煙突ではなく、屋根飾りであった。このような形になっている理由の一つは、「重くならないように」という配慮だ。
 そしてもう一つ、この隙間を風が吹き抜けるときに音を出していたと考えられており、その演出効果も狙っていたのだろうという
 13号神殿が現役の頃は、漆喰が塗られてさらに赤く塗られていたそうだから、相当に洒落っ気というか、劇的効果が好きな人々だったのか、王族が威厳を保つためにあらゆる演出を惜しまない伝統だったのか、という気がする。


 登頂予定神殿リストに名前のあった13号神殿に上らなかったのは、ガイドさんが「上っても2号神殿は見えません。」と断言したからだ。後にこれは勘違いだったらしいことが判明する。
 この最上部の建造物も、折角ここまで説明して貰ったのだから近くで見てみたかったと思う。
 今でも惜しかったと思っていることの一つだ。


王様の像のステラ ステラの色のついた部分が件の「赤く塗られていた」名残かと思ったら、これは単なる黴だというお返事だった。
 「顔は横向き、胸のところに腕を当てて左手で何かを抱えている。胸飾りを付け、辛うじて足が両側に見える」と説明して貰うと、このステラに人が彫られていることが判る。
 これでも保存状態がいい方だというから、つまり、カラクムルのステラは全体的にかなり浸食されているということだ。


 観光にはこのままの方がいいけれど、保存を考えると屋根をつけた方がいいに決まっている。しかし、屋根をつけると何よりも「写真うつり」が悪くなる。保存と観光の兼ね合いの難しさの、判りやすい一例だ。
 「透明な屋根ならいいんじゃないですか。」と言った方がいらしたけれど、遺跡の保存には紫外線も大敵で、どうせ屋根を付けるなら紫外線もカットしたいという。それならUVカットで日光だけ通せばいいんじゃないか等と話は盛り上がる。


 カラクムルは、他と比較すると交通不便な遺跡で、そのためかここまでは誰にも会わずに来ていた。
 しかし、ふと見ると、何というかカラフルな集団がいた。
 19日間ツアーの方々によると、これまでも各地の遺跡で、スピリチュアル系というのか、マヤの人々ではないけれどマヤ暦の変わり目に意味を見出そうというグループを見かけたという。ガイドさんや先生も「これから行く先々の遺跡で会うんじゃないかな。」などと言っていた。


球技場 次に現れたのは、「球技場」だ。ある意味、マヤ遺跡の定番と言っていい。
 競技は1チーム1〜2人という少人数で行われ、ゴムのボールを地面に落とさないように、手を使わずに足や腰で操っていたということが判っている。しかし、何のために行われていたかは判っていない。
 ゴムのボールが天体の動きを表すとされていることから、豊作を願う儀式だという説が定説になっているけれど、球技場跡をさらに掘り進めて貴族が賭をするための施設のようなものが発見されたこともあるという。
 先生曰く「セレモニーとしてではなく、賭が行われ、勝った方が相手の首を切るなどということが行われていたのではないか。」ということだ。命がけの勝負はやっぱり儀式なんじゃないかという気がする。


 しかし、その肝心の勝ち負けがどう決まったのかは判っていないらしい。
 両脇の高くなった部分は、観覧席ではなく、ボールが内側の球技場に戻るよう設けられている「壁」で、その壁にリング状のものが取り付けられたりしていたことから、そこを通したり当てたりしたらポイントが入るルールなのではないかと推測されている。
 球技をしている様子の絵や彫刻は残っていても、ルールブックのようなものは発見されておらず、それでこんなアンバランスな推測になっているんだろうというのは、私の邪推だ。


発掘前の状態 発掘される前の「ピラミッド」は、1000年以上の間に泥などが堆積して、ほとんどこのように小山になっている。
 何にもないところからどうやって「ここに建造物があるんじゃないか」と推測するかというと、例えば、広場の四辺に建物があるなど、人工的な配置の類推がまずヒントになる。
 その他、人がその場所に住んでいた痕跡があれば、それも発掘のきっかけになるという。


 「この山を発掘するとしたらいくらかかりますか?」という質問に、先生はガイドさんに人件費の目安を質問し、ガイドさんは「最低賃金は日給**ペソくらいだけれど、時がたつにつれてどんどん給料を上げてくれと言うと思う。」と苦笑しつつ答える。
 本当に単純計算かつ概算で先生が「**円くらい。」とおっしゃったけれど、それがいくらだったか何故かすっぱりと忘れ果てている。遺跡発掘に係る費用のほとんどは人件費なんだなと驚いたのと、それ以外のお話が面白かったからだ。


 発掘するにはまず測量調査が必要で、現状を記録した上で掘り始めなければならず、それにはプロの技術が必要とされる。
 また、カラクムルの場合は自然保護区内なので、そもそも木を伐採する許可を取ることが難しい。植物学的に貴重なものがあったりすると尚更だ。木は、日光や雨を遮るという面では遺跡の保存にいい影響を及ぼすけれど、根っこなどがはびこれば地面に埋まっている遺跡を壊す可能性もあり、そもそも扱いが難しい。
 先生は、遺跡の発掘調査の際に蟻の巣に遭遇し、その調査が終わるまで発掘がストップなんてこともあったというし、自然保護と遺跡発掘とは切っても切り離せない関係にある。


 また、今から発掘する場合、この山全体を全面的に掘るということはまずしない。
 今後、技術や研究の進歩があるかも知れず、未来の検証を受けるためにも、そのまま残しておく部分が必要だ。現時点でも、「50年前の考古学者が掘らずに残しておいてくれれば」ということがあるから、50年後の人に同じ思いをさせないように、何より正しい発掘と研究ができるような配慮が必要とされる。
 手つかずの部分が残っていなければ、前の発掘なり研究なりを検証することもできない。


 修復する人には、「どうしてこういう修復をしたのか」を説明する義務があると先生は言う。どういう形で残っていたのかということを写真に残し、様々な解釈ができるときは、後世の人が検証できるように原型も資料も過程も残しておく必要がある。
 そういう意味では、最近のエル・ミラドール遺跡の発掘はあまり計画性がなく進められていて、非常に心配だというのが先生の見解だ。
 観光中心の発掘だと、表面というか外観だけ発掘して調査もせずにそこでおしまいということも意外と多いらしい。しかし、当たり前だけれど、「掘って見つかったらオッケー」というものではない。


グラン・アクロポリスの地図 正午過ぎにようやく、グラン・アクロポリスに到達した。地図の赤いラインを上の方から辿って13号神殿、球技場と通り、10号神殿と15号神殿の間にいるという感じだ。
 この赤いラインはいわば見学のための最短ハイライトコースである。


 一方、この地図の左半分にはラインが全くない。
 ガイドさん曰く、別に入場制限されている訳ではなく、勇気と根気と体力さえあればジャングルを分け入って見学することが可能だ。もっとも、行ってみたところで、発掘が進んでいる訳ではなく、先ほどのような「小山」があるだけだ。
 もちろん我々もスルーである。


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2014.01.13

中米3ヶ国旅行記2日目その1

2012年12月16日(日曜日)


 3時半に起き出し、やっぱりお腹が空いていたので、持参していたスティックのチーズケーキとコーヒーで軽くおめざをいただいた。トラベルケトルがメキシコ到着初日に引き続いて大活躍である。
 4時のモーニングコールは添乗員さん直々だった。
 ロビーに降りると、添乗員さんやガイドさんがスタンバイしていて、今日の昼食のお弁当を配ってくれた。朝食は、カラクルム遺跡に行く途中にあるレストランで食べる予定になっている。
 ガイドさんに「眠れましたか?」と聞かれて「うーん、1時間ずつ3回って感じには。」と答えたら笑われてしまった。


朝靄日の出


 真っ暗な中5時に出発したので、世界遺産カンペチェの街もカリブ海も全く見ることがなかったのが残念である。
 日の出前、車窓から見える朝靄が凄い。これは、この後もほぼ毎日見られた光景だ。そして、6時20分頃に日の出を迎え、太陽が昇ってくると、雲一つない真っ青な空が広がり、ピーカンの天気になるのが、ユカタン半島のこの時期のお約束だ。


レストラン朝食


 7時頃、La Herradura というレストランで朝食休憩となった。デジカメのGPSを動かしていたけれど、このレストランが道中のどの辺にあったのか、どうもはっきりしない。
  朝食のメニューはかなり豪華だ。オレンジジュースとパパイヤやバナナなどのフルーツがまず出され、トーストにスクランブルエッグ、トルティーヤにコーヒー(ネスカフェだった)がテーブルに並べられ、この他にビュッフェ形式で温かいおかずがある。その中から野菜とパスタのスープをいただいた。
 先行していたツアーの方々の「お約束」でお皿に山盛りのライムが追加される。勧められてフルーツやスープに絞ると、爽やかな味になってより美味しかった。先人(?)の知恵である。


亜熱帯の森 レストランから1時間強、バスを飛ばしている間にガイドさんからメキシコ案内があった。
 メキシコ紹介の始まりが「ルチャ・リブレ」だったのが可笑しい。日本人が「メキシコ」と聞いて思い浮かべるのはマスクを付けた人のプロレスだろうと言う。それは違う! というツッコミを待っていたのかも知れない。


 メキシコと聞いて「普通に」思い浮かべるような「砂漠にサボテン」「マリアッチ」などは、メキシコ北部のもので、合衆国で放送している西部劇の多くはメキシコで撮影されているらしい。
 しかし、ここユカタン半島は、椰子やフルーツの木などが茂る亜熱帯気候に属する。この辺りは北緯18度で、フィリピンとほぼ同じ緯度だ。


 ところどころに見られる畑はほとんどがとうもろこし畑である。
 とうもろこしの原種は指の先くらいの大きさで、品種改良が進められ、メキシコのとうもろこしは日本のものよりも粒が大きく揃っていないのが特徴だ。朝食に出されたトルティージャはこのトウモロコシから作られている。
 メキシコでも、トルティージャを家で作るよりお店で買う人の方が増えているけれど、先ほどのレストランは自家製だったそうだ。それなら焼いているところを見れば良かったと思う。


 トルティージャに焼いたお肉を乗せたものがいわゆる「タコス」である。
 トルティージャもタコスも食べ方は自由だとガイドさんは強調する。メキシコの食卓にはライムとサルサソースが常に用意されており、そのサルサソースをかければ、私たちのイメージする「辛いメキシコ料理」ができあがる。


 サルサソースの中でもハバネロを使ったものは激しく辛い。
 メキシコでお腹を壊す日本人は、大抵の場合、この「辛さ」にやられているというから凄い威力である。
 唐辛子で一番辛いのは種ではなくさやの内部にしがみついている白い綿のような部分だと聞いて驚いた。
 この他、食材の説明で印象に残っているのがウチワサボテンだ。火を通してから刻むとネバネバが出てきて、それをサラダにしたり、ステーキの付け合わせにしたりするという。


 食卓つながりということか、ガイドさんはテキーラの説明も熱心だ。「スーパーなどでも売っているけれど大瓶しかありません。」と言う。そのスーパーに行く機会はないかもと言うから、空港で買うしかないだろうか。
 テキーラの原料である竜舌蘭は、数十年に1回しか花を咲かせない。その花が咲く直前に伸びる茎をくりぬくと甘い汁が1日に3Lも採れ、昔その汁を発酵させて先住民は「プルケ」と呼んで飲んでいたそうだ。特にアステカで盛んだったらしい。
 アステカではプルケの神様までいて、兎の姿をしている。酔っ払っているから目が赤いと言われていたらしい。兎にとっては濡れ衣もいいところである。


 テキーラはアルコール度数が35度前後と高いので、メキシコの人は喉を守るためにテキーラをストレートで飲みながらライムを囓る。ワイルドである。
 そして、テキーラは、寝かせる年数によって名前が変わる。できたての透明のものがブランコ、木の樽で1年くらい寝かせてアルコールが若干飛んで樽の黄色っぽい色がついたものがレポサード、1年以上寝かせたものがアニエゴでさらにマイルドかつ茶色くなる。
 レストランなどでは、同じ銘柄でもこの熟成度によって幾種類か用意されている。お値段は、熟成しているものほど高くなる。メキシコの人は、概ね真ん中のレポサードを好む。


 また、メキシコの人達は非常に親日的である。
 メキシコ人が持っている日本のイメージは、昔はテクノロジーや車だったけれど、最近の特に若い人達にはアニメや漫画が大人気である。そういえば、芝崎みゆきさんの「マヤ・アステカ遺跡へっぴり紀行 ――メキシコ・グアテマラ・ホンジュラス・ベリーズの旅」にもそういう描写があったなぁと思う。今の人気No.1は「コメットさん」だ。
 ガイドさんの話は、コメットさんの話から何故かスペイン語ナンパ術に進んでいたけれど、私は「ガイドさん、若く見えるけど、大場久美子主演のコメットさんの前に、別のコメットさんがあったことを知ってるような年齢なんだな。」というところに気を取られていた。メキシコに来てコメットさんの話題で年齢を推し量る。シュールだ。


 もちろんメキシコ案内はナンパ術で終わった訳ではなく、メキシコという国についての話は尽きない。
 メキシコは、正確には「メキシコ合衆国」だ。12月1日に退陣した大統領が、最後の置き土産のような感じで「正式国名をメキシコにしようじゃないか」と提案したらしい。さて、その後どうなっただろう。


 メキシコは、日本の5倍以上の広さの国土に、ほぼ日本の人口と同じ1億1千万人が暮らしている。
 1億1千万人のうち60〜80%はメスティソ、いわゆる混血の人だ。300年前にスペインが侵略してから、少しずつ混血が進み、200年前に独立してから以後もさらに混血が進んでいる。
 しかし、一方で、10%くらいはマヤの先住民が占めている。そして、学校でも先住民の言葉とスペイン語の両方を教えるようになっている。
 そして残る数少ない白人が、メキシコの富のほとんどを独占している。


 マヤの人々は、チコ・サポーテという木の樹液チコレを集めてチューインガムを作っていた。この「チコレ(というかチクレ)」の元はマヤの言葉で、チは「口」、クレは「動かす」という意味である。それが、スペイン語にそのまま取り入れられたらしい。
 チコ・サポーテの木はこの辺りにもあって、幹に×印がついていたら、それはチコ・サポーテの木だという印だ。カラクムルの遺跡も、このチコ・サポーテの木を探していた飛行機が1931年に偶然発見したというから、なかなか関連が深い。
 カラクムル遺跡のかなり手前で大型バスから小型バスに乗り換える予定になっていて、この乗り換え地点を過ぎたすぐの辺りで、その×印のついたチコ・サポーテの木を見ることができるという。


 9時頃に、そのカラクムル遺跡の手前60kmの乗り換え予定地点に到着した。
 そこは、すでにカラクムル自然保護区の内部である。この自然保護区は30平方kmの広さがあり、メキシコ国内最大だ。自然保護区だから、野生動物(七面鳥、キジ、ハナグマ、ホエザル、ごくごく稀にジャガー)が普通にいる。もちろん、遺跡の中でも普通に暮らしているらしい。
 ここで大型バスから小型バスに乗り換えて遺跡に向かう筈が、5日前に仕組みが変わったとかで、そのまま大型バスでさらに奥に向かうことになった。
 ただし、ここで通行税を支払う必要がある。ガイドさんを目で追っていたら、どう見ても道ばたで座り込んでいる人からそれこそチューインガムでも買っているような雰囲気で通行税を支払っている。可笑しい。


 戻って来たガイドさんの話では、ここ2週間の間に、システムが何度も変更になっているそうだ。
 この先の遺跡入口までの道が狭いので、大型車で来た場合は小型車に乗り換えるのは必須だ。そのため、小型車での送迎をしている人達の収入が増えてきており、観光収入を重視するカンペチェ州がごく最近、これまで担っていた民間の業者を追い出してトロッコ列車を走らせ始めたらしい。
 しかし、このトロッコが時速20km(遺跡入口まで所要片道3時間!)、一度に運べる人数が30人という使えない交通手段だったため、大クレームで2日でお払い箱になったという。


 トロッコ列車引退後は、ここから20分くらい走ったところにある博物館前でミニバンに乗り換えることになっている。本日は、このミニバンでの移動となった。
 最初は、ミニバンに荷物を置いておけますという話だったけれど、博物館でお手洗いを借りている間に(これがなかなか強烈なトイレだった)、やっぱりミニバンには置いておけないのでここから持って行く荷物は全て持ち歩くことになりますという案内に変わった。
 散々考え、どう考えても雨が降りそうな空ではなかったので雨具の類は全てバスに置いて行くことにした。遺跡内で昼食となるためランチボックスを各自持参しなければならず、それだけでかなりの大荷物だ。荷物は少ないに越したことはない。


 2台の新車のミニバンに分乗し、1時間弱で遺跡の入口に到着した。
 「道が細い」、「揺れる」、「くねくねしているので車酔いが心配な方は」と言われていたので戦々恐々としていたほどは揺れなかった。ちゃんと舗装された道を行く快適なドライブである。
 しかし、これで到着ではないところがカラクムル遺跡の凄いところだ。


カラクムル遺跡案内図 この案内図のところで、ガイドさんから先生に案内役がスイッチされ、今日の予定が説明された。
 13号神殿から7号神殿を経由して2号神殿まで、トータル4時間見学するという。希望者はこの三つの神殿に上ってくださいとおっしゃる。「上れます」ではないところが可笑しい。
 見学予定時間が明確なのは、先ほどのミニバンに迎えに来てもらう時間を予約しなければならないからだ。
 大まかな説明の後、まずは遺跡の中心部まで2kmほどサクベの道を歩いた。


 カラクムルは1992年に世界遺産に登録された遺跡で、こうして比較的楽に見学できるようになったのはごく最近のことだ。遺跡内部も「そこはまだ一般公開されていません」という部分が多い。そして、発掘も調査もされていない場所はさらにとてつもなく広い。


 遺跡の中には見学のために新しく作った道もあれば、昔から「サクベ」があったところを整備した道もある。
 サクベは石灰で舗装というか補強してあるために作られたばかりのときは白い。しかし、この時歩いたカラクムル遺跡内のサクベはかなり黒くて土の道とほとんど変わりなかったような気がする。
 カラクムル遺跡は自然保護区ということもあって虫をかなり心配したけれど、気にするほどのことはなさそうである。


 「カラクムル」は、「二つの隣り合った山」という意味である。
 都市国家カラクムルは、同じ都市国家のカラコルと同盟して562年にティカル王を捕獲して殺し、ティカルを100年以上停滞に追い込んだ「超大国」だ。
 しかし、695年にティカルに敗れ、以後、衰退してしまう。ティカルは停滞に追い込まれても復活する根性と粘り強さがあったけれど、カラクムルは割とあっさり系だったらしい。
 カラクムルはカンという王朝の首都であるという説明もあって、ということは、あっさり系だったのはカラクムルではなくて「カン」王朝なのか? とも思うけれど、この辺の割り切り方が未だによく判らない。


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2014.01.05

ハイダ・グアイ旅行記の入口を作る

ビル・リードの熊 ここはハイダ・グアイ旅行記の入口である。
 以下の日程をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。


 ハイダ・グアイ旅行記1日目 2013年6月13日(木曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記2日目その1 2013年6月14日(金曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記2日目その2 2013年6月14日(金曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記3日目その1 2013年6月15日(土曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記3日目その2 2013年6月15日(土曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記4日目その1 2013年6月16日(日曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記4日目その2 2013年6月16日(日曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記5日目その1 2013年6月17日(月曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記5日目その2 2013年6月17日(月曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記6日目その1 2013年6月18日(火曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記6日目その2 2013年6月18日(火曜日)


 ハイダ・グアイ旅行記7・8日目 2013年6月19日(水曜日)・20日(木曜日)


 


 その国の旅を終えて 100の質問 (カナダ ハイダ・グアイ編)


 持ち物リスト(カナダ ハイダ・グアイ編)


 2013年06月 「カナダ ハイダ・グアイ」の写真

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ハイダ・グアイ旅行記7・8日目

2013年6月19日(水曜日)


 前日、スタンレーパークでのトーテムポール見学まで怒濤のバンクーバー観光をこなし、ホテルに入れたのは23時くらいだった。遅くともお昼にはバンクーバーに到着できるつもりで立てた観光計画を、17時半過ぎに到着して詰め込んだら、それくらいの時間になってしまっても仕方がない。


 バンクーバーでの宿は、エンパイア・ランドマーク・ホテルである。
 昨夜、部屋に入って電気のスイッチを入れたのに明かりがつかず、真っ暗だった。おかしいとカードキーを差すスリットを探したけれど見つからない。バスルームやメインの明かりは点くので、どうやら入口の照明の蛍光灯が切れてしまっているようだ。どうせ一晩だけだし、もうあとは寝るだけだしいいかと思ったけれど、ちょうどその場に残っていた添乗員さんがホテルのメンテナンスを呼んでくれた。


 しかし、メンテナンスのおじさんが蛍光灯を交換してもやはり明かりは点かない。「いつまで滞在するの?」と聞かれたので「明日まで。」と苦笑しつつ返すと「だったら、いいよね。」とおっしゃる。「もちろん!」と返し、15分余のメンテナンスの方の努力は報われずに終わった。
 蛍光灯を交換しても点かなかったから、多分、グローだと思う。


 そんなやりとりもあり、昨夜、ベッドに入れたのは1時を回ってからだった。
 添乗員さんは、スーツケースの重量オーバーに懲りたようで、「もうお買い物は空港だけにしてください。」と釘を刺し、その代わり予定よりも早めて8時半にホテルを出発するよう前日のうちに現地ツアー会社と調整していた。
 5時半に起き、朝食前に大方の荷造りを済ませる。


朝食 6時半過ぎにバウチャーを持って朝食会場である最上階に行くと、ツアーの方はどなたもいなかった。もっと早かったのかもっと遅かったのかどちらだろう。
 ビュッフェ形式の朝食で、窓際のテーブルに陣取って、久々の「一人の朝食」である。
 しかし、出発前にスーパーに行こうと思っているので、バゲージダウンが8時であることを考えるとそれほど余裕はない。そそくさと朝食を終えて部屋に戻った。


スーパーマーケット ホテルの前の坂を少し下った道の反対側にWHOLE FOODS MARKETがある。8時少し前に到着すると、どうやら開店準備中で、時間どおりにオープンするようだ。有り難い。
 このスーパーはデリが美味しいことでも有名で、デリが目当てなのか、コーヒーを片手に持った、いかにもキャリアウーマンな感じの人が車でキキッと乗り付けてやはり開店を待っている。
 開店と同時に入店し、職場へのお土産を見繕って15分ほどでホテルに戻った。
 できればスーパーで購入したものをスーツケースに詰めてしまいたかったけれど、ホテルを出る前に廊下に出しておいた私のスーツケースは、すでに集められて車に積み込まれてしまっていた。


ハイダ・グワイの精神、ジェード・カヌー」 9時過ぎ、空港に到着した。
 チェックインの前に、ビル・リードの作品「ハイダ・グワイの精神、ジェード・カヌー」を見学する。今回のツアーで、ここが最後の「見学場所」である。
 その後、セキュリティチェックを抜けて一度解散となった。ゲート再集合まで2時間もある。ここで2時間を過ごすなら、もうちょっとゆっくりスーパーでお買い物したかったなぁと思う。


 他にやることもなく、暇に任せてくまなくお店をチェックする。
 USA便専用のエリアがあって、そちらに私が欲しかったハイダのアクセサリを扱っているお店がある。「あっちに行ってもいい?」と聞いたら、警備のおじさんに「そのチケットでは行けない。」と止められてしまったので仕方がない。散々探し回り、普通のお土産物屋さんでやっと見つけた、ワタリガラスをモチーフにした錫合金のペンダントトップを購入した。
 ハイダ関連のお土産は、サンドスピットの空港が一番充実していたと思う。


 歩き回って喉も渇いたので、プライオリティパスを使ってラウンジに入り、ジュースを飲んで休憩した。
 こうした「ちょっとした休憩」を気軽に、しかも無料でできるのがプライオリティパスのいいところだ。
 今回の旅行でカナダドルの現金を使う機会はほとんどなく、最後は空港の売店でサーモンに全額をつぎ込んだ。それならば別にカフェでお茶しても全く問題ないのについ貧乏性になってしまう。


 エアカナダ3便は、定刻通り12時10分に出発した。
 添乗員さんが「こちらで用意するので受け取らないでください。」と言っていた税関申告書を、やはり、受け取ろうとした方がいらしたので慌てて止める。別に受け取っても構わないけれど、次に「どう書くの?」という話になるのは目に見えている。


− 以下、日本時間 −


2013年6月20日(木曜日)


機内食 6時過ぎに最初の機内食が供された。ビーフは牛丼で、チキンはパスタだという。それにサラダとチョコケーキが付いた。
 日本時間だと朝食の時間だけれど、メニューとしては夕食という感じだ。
 添乗員さんだけ少し離れた席にいたので、結果として、私がメニューを周りの方に説明し、ついでに注文も取る羽目になった。何だかなぁと思うけれど、仕方がない。


 13時頃に2回目の機内食が供された。私たちの少し前の列で片方のメニューが終了してしまったため、問答無用でやきとり丼とフルーツというメニューの機内食が配られる。2食続けて同じようなものを食べているなぁと思ったけれど、注文取りが必要ないのは有り難い。


 最初は「成田空港に到着したら流れ解散です。」と言われていたけれど、預入荷物を受け取るところで再集合がかかった。スーツケースを自宅へ送るために多少の詰め替えもしたかったので、国内線に乗り換える方々にお付き合いする。
 成田空港からの車を予約していた方が、日付変更線を超えることを計算に入れておらず1日前に予約してしまったとそちらもてんやわんやである。本来業務ではないだろうに添乗員さんはそちらの確認と再予約、手配に大わらわだ。
 私はどこまでお付き合いすればいいのだろうと思いつつ、みなさんが国内線乗り継ぎのチェックインに並んだところで失礼させていただき、無事に帰宅した。


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2014.01.04

ハイダ・グアイ旅行記6日目その2

2013年6月18日(火曜日)


 


博物館の展示1 バンクーバーのUBC人類博物館の建物の中にも、各地から集められたトーテムポール等の展示品がある。
 これなどはかなりざっくりとした抽象的なデザインである。
 こうしたトーテムポールは、西海岸のみ、しかもアメリカ合衆国のアラスカ州とカナダのブリティッシュ・コロンビア州との境目辺りから南北に分布しているという。


博物館の展示2 南下するに従って、具象的・立体的なデザインに変化する。
 私たちがこれまでのツアーで見て来たトーテムポールは、そうすると、かなり「抽象的」なデザインのものに限られていることになる。
 こちらよりは、一つ前に見た「抽象的」と評されたトーテムポールに懐かしさというか親しみを感じるのもきっとそのためだ。


 先住民は文字を持たず、その歴史はポトラッチで受け継がれて来ている。ポトラッチとは、たくさんの人を集めてトーテムポールNお披露目をし、そのポールについて語ることを認めてもらう行事である。
 この辺りは、少なくとも私にとっては「新説」である。
 トーテムポールに彫られたものの解釈は、人から人へと受け継がれ、「語ってよし」という権利を持つ人しか語ることはできない。宮田さん曰く「だから、私には語ることができません。」ということになる。
 そして、そのトーテムポール全体の物語を語る権利は、たった一人の人からたった一人に受け継がれ、例えば踊りなども同様に受け継がれ、いずれの場合もポトラッチの場で承認を受ける必要があるという。


 だから、ポトラッチが開かれなければ、そのトーテムポールの物語も、踊りも、伝承が途切れてしまう。
 しかし、後からやってきたヨーロッパの人々はポトラッチを「野蛮なもの」と判断して禁止し、さらに子ども達を親元から離してレジデンシャル・スクールに通わせて、先住民の文化を殺してしまう結果になった。
 ただし、カナダではヨーロッパの人々による先住民の虐殺はほとんど起きていない。これはビーバーの毛皮を手に入れるために来たからだそうだ。ビーバーの毛皮の帽子は当時のヨーロッパでは「セレブの象徴」で、そのビーバーの毛皮を上手く手に入れるためには先住民の協力が不可欠だったのだ。


博物館の展示3 次に宮田さんが連れて行ってくれたのは、ペインティングボックスだった。
 杉の一枚板を蒸して柔らかくし、曲げて箱にしてあるという。杉はよほどしなる素材なのだなと思う。「木を折り曲げて作った」なんて思えない箱だ。
 継ぎ目がないため、水も漏れないし入らない、虫も入らないし杉の木には防虫効果もある。こういった箱は、大切なものを保管するために使われていた。
 そして、その「大切なもの」には、人の骨も含まれる。


 墓棺柱は、ヨーロッパ人が遺骨が納められた状態のまま多く持ち去ってしまった。
 ハイダでは、人は生まれ育った場所に戻らなければ安らかに眠ることはできないとされており、棺はともかく遺骨だけは返して貰えないかという運動が行われている。そうして戻された遺骨を若い芸術家達が新しく作った棺に納めることが続けられているという。
 これまでに聞いたお話と繋がるお話が聞けて嬉しい。


皿 「置物」とか「船」としか思えないこれらの正体は、ポトラッチで使われた食器だという。
 見えない。大き過ぎる。
 ポトラッチのご馳走は魚介類がメインで、サーモンがやはり多く、その他ベリー類も人気だったらしい。気候が温暖で冬に暖かい雨が降り、夏に晴天が続く地域に住んだ先住民は、食べ物に苦労することがなく、だからこそ家やトーテムポールを作り、その意匠に凝る余裕も生まれたそうだ。
 しかも、温帯雨林は、家やトーテムポールの材料となる杉の木も大きく育てる。
 これらの条件が全て整わなければ今見ているようなものが生まれることはなかったことになる。不思議だ。
 実際、カナダでも内陸に住んだ人々は、バッファローの狩猟中心の生活を送り、後に残るものを作る余裕がなかったという。


船 サーモンを釣るのに使ったと考えられているボートも展示されている。杉の木をくりぬいて作られている。
 ハイダの人々は高い航海技術を持っていて、バンクーバーとハイダ・グアイを行ったり来たりしながら交易なども行っていたらしい。この「行き来が頻繁」という属性が、疫病を広げる原因にもなってしまったそうだ。
 しかし、こんなエンジンもついていないボートでよく外海にこぎ出そうと思ったものである。
 このボートは一体何人乗りなのだろうか。


手を広げる人 奥にいる、手を広げて迎え入れてくれているかのような人形は、その見た目どおり「あなたを心から受け入れます」というメッセージを送っているそうだ。
 ハイチカというと教えてもらったと思うけれど、自分で取ったメモの字が汚すぎて判別不能である。
 この「人」の腕は可動式になっていて、迎え入れるときには手を広げ、何らかの理由で拒絶するときには腕を下げる。判りやすい意思表示だ。


ワタリガラスと最初の人々 宮田さんが最後に連れて行ってくれた場所が、ビル・リードの「ワタリガラスと最初の人々」だった。
 ビル・リードの代表的作品の一つだ。
 ワタリガラスが貝をつつき、中にいる人間に「出て行くように」と促した、しかし、一度出て行った人間がまた貝の中に戻ってしまった、という物語を持つ、象徴的な作品である。
 思っていたよりも大きい。
 そして、思っていたよりも小さい。
 360度どこから見ても「作品」だし、どこからも見られるように展示してあったけれど、やはりこの角度が一番「らしい」ような気がした。


 50分にわたる宮田さんのガイドは終了し、あとはフリータイムで30分後に集合と言われた。
 最初のうちは、宮田さんお勧めの、仮面(マスク)がたくさん展示されたお部屋などを見ていたけれど、30分という時間は焦るし落ち着かない。それだったらと、宮田さんにくっついて質問することにした。
 その最初に出た質問が「えーっと、ハイダというのは、民族の名前? いや、部族の名前ですか?」だったのだから、我ながら情けない。しかし、このときまでそこを考えずに、何となく「ハイダ」という言葉を使って来てしまっていた。


 しかし、見ようによってはスルドイ疑問でもあったようで、宮田さんの第一声は「それは難しい。」だった。
 ハイダ・グアイ一帯の地図を見ると、領域を区分するラインが引かれており「族」の名前が書かれている。学問的には、使われている言語によって分けて考えている、のらしい。
 けれども、実際問題として重要なのは学問よりは「当人たちがどう思っているか」ということで、例えばハイダであれば「自分(達)はハイダ族である」と思っている人々の集まりがハイダ族であり、彼らが主に住んでいる地域がテリトリーということになる。
 彼らは交易・交流も盛んだったから、「言葉が違う」「言語で分ける」といっても、相互にかなり似ている言葉をしゃべっていたし、そういった固有の言語とは別に、交易用の言葉も持っていたという。ますます、ややこしい。


 ボートツアー中に「大陸から捕虜を連れて来て」とか「武器を持った敵が通れないように」などという説明を聞くことが意外と多かったのでその点を尋ねてみると、「ハイダ族の中で小競り合い程度はあったかも知れませんが。」というニュアンスのお答えだった。
 そして、たとえ村同士が争っていたとしても、同時にそれぞれの村の若者同士が結婚することも普通にあったというから、「争い」は儀式と化していたのかも知れないし、政治と暮らしは別という感じだったのかも知れない。


 トーテムポールに刻まれたことの意味を語る資格は「一子相伝」で、この「一子相伝」は必ずしも親子間で行われた訳ではなく、例えば、師匠から弟子へというパターンもあるという。
 トーテムポールは、倒れることもあるし、失われることもある。ハイダの人々の人数も少なくなってきている。結果として、あるトーテムポールとその「正しい」語り手という組み合わせが減って行ってしまうのではないかと思った。


 ポトラッチが開かれなければその「語り手の認証」もされないのでは、今は「一子相伝」は廃れてしまっているのではないかと質問したら、ポトラッチは現在も行われているそうだ。しかも、普通に公民館で開催されたりするらしい。
 ポトラッチは昔に行われていた、既に失われてしまったものというイメージを勝手に持っていたし、「大地のエネルギーをもらう」みたいな、キャンプファイヤーを囲んで開催されるような情景を妄想していたので、宮田さんの説明の中ではこの話が一番の衝撃だった。
 しかし、思い返してみると、星野道夫の著書にもポトラッチに参加したエピソードが書いてあったように思う。


ポトラッチの回数 このトーテムポールに刻まれているのはカエルのクランの長で、帽子に入ったラインの数が生涯にポトラッチを開催した数である。3回というのは非常に多いし、この長に人脈も集客力もあったことが判るという。ポトラッチを開催するために、もちろんお金も必要だろうけれど、最重要課題は「カリスマ性」だという。なるほどと思う。
 しかし「3回で非常に多い」ということになると、これまで見た19本のラインの入ったトーテムポールなどはどうなるのだろう。もしかして、あちらは「一人の長が」という趣旨ではなかったのかも知れない。


面 例えば、「四角い耳を持った熊の面」というカタチについて語ることはできるけれど、ポトラッチでの認証を受けていない以上、どういうストーリーを持っているのかということについて語ることはできないそうだ。
 宮田さんは、意匠の説明はできても物語は語れない、というのはそういうことだと言う。
 この博物館には多くのお面が収蔵されており、普通サイズの面は儀式のときなどに被って使われていたもので、大きな(確か私の身長と同じかそれ以上のサイズのお面もあった)ものは、家の中で柱に飾られていたものである。
 このお面は、口をすぼめて口笛を吹いていて、山姥のような子供を攫うと考えられていた「イキモノ」だと聞き、そんなものを飾らなくてもいいのでは、などと考えてしまった。


 この辺りでタイムアップとなった。
 でも少しは見たいとミュージアムショップに駆け込む。駆け込んだらツアーの方ほとんど全員がすでに臨戦態勢であちこち見て回っていた。
 後から思えば図説のようなものを買えば良かったのに全く頭に浮かばなかったのが無念だ。
 19時45分まで、UBC人類学博物館を堪能した。堪能したけれど全然時間が足りなかった。ぜひまた訪れたいと思う。


魚貝のパスタサラダとビール グランビルアイランドに移動し、The Sandbar Seafood Restaurantで20時半くらいから夕食をいただいた。
 メニューは、グリーンサラダ、魚貝のパスタ、チーズケーキである。
 グランビルアイランドにはビールの醸造所があった筈と、飲み物にはグランビルアイランドの名前を冠したビールを頼んだ。確か、ISLAND LAGERだったと思う。メニューに書かれた6カナダドルというお値段に、税・サービス料を足すと1.5倍の9ドルになってちょっと驚いた。ガイドさんによると、「お酒と煙草をやる人は成人病予備軍だから、医療費を使う分、税金も払ってもらいましょう」というのが政府の方針だそうだ。
 パスタの塩気がちょっと足りないと思いつつ、今回のツアー最後のディナーを普通に美味しくいただいた。


 しかし、ツアーメンバーの特に男性陣にとっては「物足りない」ディナーだったようで、車まで移動する間、「最後のディナーなんだから、土地の名物を出すべきだ。」、「どうしてサーモンを出さないのだ。」、「食事も旅を楽しむための重要な要素である。」等々というご意見を聞き続ける羽目になった。
 恐る恐る「あの〜、添乗員さんにおっしゃった方がよろしいのでは・・・・。」と言ってみると「もちろん、言ってある。」とおっしゃる。私に改善を求めている訳ではなく(当たり前だ)、教えを説いた、という心持ちだったらしい。
 個人的には、レストラン自体の評判は悪くないようだし、メニューのチョイスというより予算の問題だったのではないかと思った


 バンクーバー最後の観光地は、スタンレーパークである。
 いかに日の長いバンクーバーといえど、流石にもうすっかり夜だ。その夜の街を「車窓観光」という感じでチャイナタウン、ガスタウン、カナダプレイスを抜け、スタンレーパークに到着した。すでに22時を回っている。
 トーテムポール広場の前から、対岸のバンクーバーの夜景が鮮やかに見える。
 「品の良い夜景」というイメージなのはどうしてなんだろう。


ハイダのトーテムポール スタンレーパーク観光の唯一にして最大の見どころはトーテムポール群だ。
 カラフルに塗られ、ライトアップされたトーテムポールは、何だかこれまで見て来たトーテムポールとは全く別のものという感じがする。9本並んでいるうち、ハイダ族のトーテムポールが一番端にある。やはり何だか異質なものとしか思えない。
 その場にある、その場にあり続けている、そして近い将来朽ち果ててしまうだろうと言われているトーテムポールを見られて良かったと改めて思った。


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ハイダ・グアイ旅行記6日目その1

2013年6月18日(火曜日)


 前日の夜に調子に乗ってガンガン飲んでしまったためか、また1時間ごとに目が覚めて熟睡できなかった。
 この日の予定は、軽いハイキングの後でバンクーバーに移動、軽く観光という感じだから問題はないだろう。
 6時半頃に起き出して荷物整理を始めてみたものの、これからレインウエア等々を使うし、なかなか進まない。


朝食 8時に朝食のためレストランに行くと、添乗員さんだけがいない。お部屋のドアをノックしてみたけれど返事はなく、昨日潰しちゃったかしらとちょっと心配になる。
 レストランのお姉さんがジュースの注文を取り始めたので、みなさんのご希望を確認し、お願いしたところで添乗員さんがやってきた。朝一番でランニングに出て、うっかりコース取りを間違えて思ったよりも時間がかかってしまったと言う。
 「添乗に出て寝坊したことはないですから。」と胸を張られたけれど、寝坊はしていないかも知れないが自分が指定した朝食時間に間に合ってないじゃん! と思う。


 フルーツヨーグルトとハムエッグ、トーストにコーヒーの朝食を終えて、今日はスケジュールに余裕があるので、9時半に希望者のみトレイルに出発と決まった。
 この日も雨模様で、しかも寒い。かなり短いトレイルという話で、歩いて暖かくなるということもなさそうだ。上は、長袖Tシャツに長袖シャツ、フリースを重ねた。下もヒートテックのスパッツにナイロンパンツを重ね、この上から持参のレインウエア上下を着て出かけた。
 トレイルの入口まではホテルの車で送ってくれる。参加者7名+添乗員さんの全員は1回では乗り切れず、問答無用で一人参加の3人は後発にされて置いてけぼりだ。


トレイル入口 ホテルの車が戻って来たと思ったら、何故か添乗員さんともうお一方が乗っている。忘れ物をしてしまったらしい。
 出発直前に「双眼鏡があったら持って行ってください。」と言われたから、うっかりしてしまったのだろう。
 再び5人で出発し、エリンお勧めのトレイル入口に全員が揃ったのは、10時半近かった。このトレイルは1周400mくらいだそうで、楽勝だ。
 逆に言うと、こんな何でもないコースのトレイルが整備され、入口にこんな表示まであるというのが凄い。カナダの人は自然や歩くことが好きなんだなと思う。


トレイルトレイル ポツポツと降っている雨は、木々が遮ってくれる。のんびり出発した。
 土の道が整備され、ところどころ階段などもあって、ちゃんと手入れされているという感じだ。
 これまであまり気がつかなかったけれど、この森の中は小鳥のさえずる声がたくさん聞こえて来る。
 少し離れたところで、ハクトウワシが飛んでいる姿も目に入った。


海 ちょうど半周歩いた辺りにベンチと四阿があり、海を望めるようになっていた。
 双眼鏡の出番だ。ここから「鯨が見られるかも知れない」らしい。
 鯨は、北島と南島の間の水道を通って大陸側と大洋とを行き来する。エリンは「今年はslowだから。」と言っていて、ボートツアー中に鯨に出会うことはできなかった。果たしてこの場所ではどうだろうか。
 本当か? と半信半疑でしばらく目を凝らしたけれど、曇天でもあり、残念ながら鯨の姿を拝むことはできなかった。
 その代わり、お花がちらほら咲いているところを見ることができた。


ピンクの花黄色い花


黄色い花白い花


 アップダウンも少ない400mのトレイルはあっという間に終わってしまい、1時間もかからずに一周できた。
 トレイル入口に戻ると、添乗員さんがホテルに電話してくれ、お迎えを待つ。
 添乗員さんはこちらに「先に戻りたいですか? 決めていいですよ。」と言うけれど、ホテルのオーナーと添乗員さんが何やら交渉しているのは丸分かりで、判ってしまったら譲らない訳に行かない。それを「選んでいい。」ってどういうこと? と私はかなりお冠である。
 一緒に残されるハメになった一人参加の方は、そちらはそちらで「これまでの利用回数で差別するのは許せない。」と言い始めるし、どちらかというと利用回数よりは敬老精神によるのではないかと思いつつ、「当然のように」譲らされることに釈然としないのはこちらも同様である。


 思ったよりもお迎えの車が早く来てくれて、12時前にホテル戻ることができた。
 部屋に戻ろうと廊下を歩いていたら、一人参加の女性から「私の部屋を空けなくちゃいけないから、そちらの部屋に入れて。」と言われて思わず体ごと引いてしまった。
 「ちょっと待って! ひと様に見せられるような状態じゃないの!」と慌てて押しとどめていると、添乗員さんが部屋のドアから顔を出した。曰く「新しいお客さんが来るので部屋が足りなくなったということで、ご協力いただくことになったんですが、まだしばらくはお部屋にいていただいて大丈夫ですから。」という説明で、事なきを得た。
 どうやら、添乗員さんはその手配のために早く戻りたかったらしい。


昼食 雨に濡れたのでシャワーを浴び、13時からの昼食の前に何とか荷造りを終えることができた。
 メニューは、クラブハウスサンドに山盛りのポテト、、キャベツのサラダ、紅茶である。
 空港から歩いてすぐということもあって、近くのテーブルには空港職員らしい方の姿も見える。
 ゆっくり昼食をいただいて、ホテルの売店でしばしお買い物タイムとなった。姉妹で参加されていた方々のお買い物っぷりが凄くて「この棚のここからここまで全部いただくわ。」という買い方に近い。初めてこの目でそのシーンを目撃してしまった。


 バンクーバーに向かうエアカナダ8503便は、15時20分発予定である。つい最近まで午前中に飛んでいたこの便が午後に変更になったおかげで、今日の午前中をゆっくりサンドスピットで過ごせた代わりに、バンクーバーでの観光の予定がギチギチになっている
 14時過ぎに荷物と数人の方が第一便として空港に向かい、第二便が来るのを待っていたら「歩いてでもいいですよね?」と言われて、小雨が降る中、傘をキャリーケースに入れてしまったし足もともスポーツサンダルに履き替えてしまっていたから、水たまりのない場所を選んでダッシュで空港に向かった。


 スーツケースの重量がオーバーした方がいらして、さくっと終わると思われたチェックインが延々と終わらない。
 その間、空港のお土産物屋に何度も行き来して、ハイダの意匠がデザインされた腕時計を買うかどうかかなり迷う。デザインは好きだったけれど、4ヶ所に嵌められた石にどうにも納得が行かなかったのと、UBC人類学博物館のミュージアムショップに期待して、購入は見送った。
 何とか全員分のチェックインが終わったときには、もうセキュリティチェックを抜けるにはギリギリの時間になっていた。


 しかし、今度は、ホテルの売店でお一人が買われて早速着ていらしたシープスキンのジャンパーを気に入った方が「妻へのお土産に買いたい。」とおっしゃる。
 添乗員さんが汗びっしょりになってX線の機械に荷物を通す我々を見張りつつ、時計を気にしている。こちらが「行っちゃっていいよ。」と言ったところで、(考えてみれば当たり前だけれど)はいそうですかという訳には行かないらしい。
 しかし、添乗員さんがホテルにダッシュして往復するだけならともかく、80代の方と一緒に往復するのだから、そうそう急がせる訳にも行かない筈である。
 あとは私自身がセキュリティチェックを抜けるだけというタイミングで添乗員さん達はホテルに向かった。


スケダンス?スケダンス?


 最後尾で私が待合室に入ったときには15時近かった。
 待合室の壁に、スケダンスの村の様子を写した昔の写真が飾られていた。これはいいと写真に撮る。
 添乗員さん達お二人が戻ってきたときには既に搭乗が始まり、ツアーメンバーの大方を送り出したところだった。「パスポートを用意してくださいって言ってましたよ〜。」と言いつつ私が立ち上がろうとしないので、不審のまなざしである。
 「私はまだパスポート用意していないんで、お先にどうぞ。」と言って笑われる。ツアーメンバーが問題なく飛行機に向かうかどうか一応見ていたから自分は後回しになったんだよ! 座席番号を見て今呼ばれましたとかまだですとか一人一人調整もしてたんだよ! と心の中で少々憤慨する。


 17時半近く、バンクーバーに到着した。バンクーバーが雨かも知れないなどとは全く考えず、雨具の類を全てキャリーケースに入れてしまっていたから、お天気が良くて有り難い。
 空港内の分かれ道で、添乗員さんが「みなさんいますね!」と振り返ったものの人数をチェックせずにそのまま行こうとするのでストップをかけた。お一人、お手洗いに行かれたのにずんずん進んでしまうのが気になっていたのだ。分かれ道で待っていなかったら迷子確定である。
 心の中で「数えろ〜! 振り向いたんだから数えろ〜!」と憤る。どうも堪え性がなくなってきている。


バンクーバー 迎えに来てくださったドライバー兼ガイドの日本人の方と合流し、UBC人類学博物館に向かった。
 この日のバンクーバーには雨の予報が出ていたそうだけれど、空は晴れ渡っていて、我々は今回、天気に関する限りかなり恵まれていると言える。
 少々渋滞もしている。自転車レーンを増やして車が通りにくくなっているため、渋滞が起きやすくなったという。恐らく、世界で最も住みやすい街と言われているこの街をさらに「環境に優しい」街にしようということなのだろう。


博物館の中庭 18時半くらいにUBC人類学博物館に到着すると、専門ガイドの宮田さんが待っていてくださった。
 早速、中庭に向かう。
 「ここに見覚えはありませんか?」と聞かれて皆で首を傾げたら、トーテムポールや家が建ち、池が配されたこの場所は、スカン・グアイの村を模していると説明があった。しかし、そう言われてもやっぱりピンと来なかった。申し訳ない限りである。
 スカン・グアイは星野道夫氏が何度も訪れており、シャチを彫ったポールの前に何時間もいたらしい。


 トーテムポールには、大きく3種類あり、墓棺柱、家の一部として建てられたポール(この場合は、その家に住む人々の出自やご先祖を表していることが多い)、家から離れて建てられたポール(概ね、争いごとなどを記録するためのもの)である。
 ハイダの人々は、この「ポール」を拝んだ訳ではなく、もちろん大切に扱っていたけれど、あくまでも記録として使っていたのであって、永久に保存しようという発想は持っていなかったという。世界遺産に登録されようというときも、ハイダの長達は、トーテムポールに保存処理を施すことに強く反対し、結局「倒れないように支える」ことだけ了解したという。
 トーテムポールの材料に使われた杉の木には自然の保存液のようなものが木材自体に含まれているけれど、しかし、倒れてしまえばどんどん朽ちて行く素材だそうだ。


 UBC人類学博物館では、1970年代から研究が始まっていて、博物館自体の建物にも先住民(宮田さんは「この言葉自体にも違和感がある、英語のFirst Nationsという言葉に相応しい日本語訳がないものか。」とおっしゃっていた)の家の構造が取り入れられている。
 ちなみに、設計者はアーサー・エリクソン氏である。


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2014.01.03

ハイダ・グアイ旅行記5日目その2

2013年6月17日(月曜日)


昼食 ハイダ族の「女系」という考え方についてさらにこんがらがってきたところで、ウォッチマンの家をお借りしてランチタイムとなった。
 お昼ごはんをいただいた13時過ぎには雨も止んで晴れ上がったけれど、この日は寒かったこともあって屋内でいただけるようお願いしたようだ。


 エリン曰く「今日は朝が遅かったので軽い昼食」だそうだ。
 たくさんの種類のお茶を用意してくれていて、自分が選ぶために説明して貰うついでに周りの方々にも配っていたら、添乗員さんに「働かないでください!」と悲鳴を上げられてしまった。申し訳ないとは思うけれど、性分&ボートツアー初日の夜のインパクトが未だに尾を引いているので仕方がない。


 エリンが、隅っこのテーブルを借りて記念スタンプを押し、エンボスを押していたので、私もやらせてもらった。ここまで私が気がつかなかっただけで、ウォッチマンのいる島々でエリンは全員分のスタンプを押してくれていたらしい。
 スタンプ帳はガイドブックを兼ねていて、ボートツアー終了後に全員に配られた。読めばかなり面白そうだけれど、如何せん英語なので、私がいつ読もうという気になるかはかなり疑問である。未だに手を付けていない。


 昼食後、レイヴンちゃんに手を差し伸べたら、素直に抱っこされてくれた。可愛い。
 嬉しくなって抱っこしたまま外を歩いたり、写真を撮ってもらったりしていたら、レイヴンちゃん一家との写真撮影大会が始まった。
 ちょうどそこに、カヌーでやってきた青年二人組が現れ、その様子を見て苦笑していた。「一緒に入る?」と聞いたら笑って首を振る。お一人は日本語が話せるらしかった。
 メアリーさんは彼らを案内するために歩き出したし、私たちもそろそろ出発の時間である。


ゲイブルズ 来るときは海沿いを、戻るときは1本奥の家を見渡せる高い場所の道を歩いた。
 珍しく添乗員さんが通訳に四苦八苦していて、「切り妻屋根って?」とおっしゃる。電子辞書があまり親切ではなかったらしい。「赤毛のアンのおうちみたいな屋根だって。」と、私としては「ビジュアルイメージまで伝えきった完璧な説明だ!」というつもりで言ったのに、どうやら今回のツアーメンバーの誰にも響かなかったらしい。
 男の子も、ある一定以上の年齢の方も、「赤毛のアン」は読まない(あるいは、子供の頃に読まなかった)のだと気がついた。ある意味、カルチャーショックである。


木? 帰り道もガイドをしてもらいながら歩き、カヌーで来ていた青年二人を見送って、15時近くにタヌー島を出発した。
 タヌー島見学の間はほとんど雨に降られることもなく、陽も射してきた中を歩けてラッキーだった。
 島を離れた後で、タヌー島にビル・リードが埋葬されていた筈なのに彼のお墓に詣でられなかったことに気がついた。事前に調べていたのに、すっかり忘れていた。
 今でも残念に思っていることの一つである。


ヘリで搬出?ルイーズ・ナロウ ルイーズ・ナロウと呼ばれる細い水路(島と島の間)は、細いだけではなく水深が浅かったようで、エリンは海図を見ながらゆっくり慎重にボートを進めていた。エリンは、ルイーズ・ナロウを抜けたら1時間半くらいでモレスビー・キャンプに戻れるでしょうと言う。


 ルイーズ・ナロウを抜けたところで、エリン曰く「Crazy! But cool!」な光景が目に入った。
 遠目ではっきりとは判らなかったけれど、ヘリが崖の中腹にある集積所から下の岸辺まで木材を吊り下げてピストンで移動させているらしい。
 皆でしばし見つめる。残念ながらこの辺りからまた雨脚が強くなってきたためほどほどで出発し、20分くらいでモレズビーキャンプに到着した。16時半くらいのことだ。


 私たちは荷物をボートに残したまま、行きにレインコートを借りて着込んだ倉庫まで戻った。エリンがボートをトラックにつないで回ってきてくれるのを待つ。雨脚がどんどん強くなり、見学中ではなくて良かったとほっとする。
 借りたレインコートを整理して元の場所に戻し、ボートから荷物を降ろして車に移し、車に弱い方には前の方の席に乗っていただいて、エリンの運転で再びホテルに向かった。その途中、熊が車の前を走って横切るのを見てびっくりした。
 18時過ぎ、イン・アット・サンドスピットに到着した。
 「今まで会ったお客さんの中で、みなさんが一番タフで元気だった。」というコメントに笑いつつ、皆でエリンとハグしてお別れした。


 「夕食の前にシャワーを浴びたい!」とワガママを言って、夕食は19時15分開始にしてもらった。とにかく冷えていて、風邪をひきそうだ。
 人心地ついてレストランに行くと「ちょっと先にこっちへ。」と呼ばれた。何かと思ったら、この日がお誕生日という方がいらして、みなで寄せ書きのカードをプレゼントしましょうという添乗員さんの企画だった。いつの間にか、このツアー中に全員で撮った記念写真までプリントアウトしてある。


ツナサラダ 前菜はサラダかスープを選べますと言われたのに、スープを頼んだ方が「サラダも食べたい!」と言ったか、サラダを頼んだ方が「スープも飲みたい!」と言ったか、とにかく無邪気にリクエストしたところ、シェフが「あるだけなら。」と言って出してくれた。結局、ほとんどのメンバーが両方食べたと思う。
 このサラダに載っていた鮪が燻製っぽくて、「何だか鮪っぽくないね。」「お肉っぽいね。」「ツナサラダじゃないんじゃない?」などという話になった。皆して、お料理の説明を通訳してくれた添乗員さんを疑いの眼で見始めると、添乗員さんが焦って「ツナって言いましたよね?!」と何故か私に向かって確認してくる。


 「添乗員さんはツナって言っていたね。」と素で返したら、どうやら「お店の人がツナって説明していましたよね?」という趣旨の確認だったらしい。
 すぐに訳してもらえると判っているのに英語を聞き取ろうって努力はしないよ、そもそも聞き取ろうと身構えて集中しなくちゃ全く聞き取りなんてできないんだよと思いつつ、「だから、添乗員さんがツナって言ってたのは聞いたよ。」と冗談半分に答えるとツアーメンバーも笑い出し、ついに添乗員さんがウエイトレスのお姉さんを呼んで「これ、本当にツナ? 100%間違いなくツナ?」と大袈裟に確認してウエイトレスさんからも大笑いされていた。


銀ダラのソテー 今回のディナーのメインディッシュはサーモン、銀ダラ、牛ステーキから選ぶことができた。私は銀ダラをお願いした
 素材も新鮮だし、ここのレストランのお料理は美味しい。
 景気よくアルコールを飲んでいるツアーメンバーはどんどんできあがってきて、私のグラスには左右から缶ビールを注がれ、お店のお姉さんに目を丸くされてしまった。


 エリンが食事の途中で再度現れ,何かと思ったら忘れ物を届けてくれたらしい。まだレインウエアを着ていて、ボートツアーの後始末が終わっていなかったのだろう。何だか申し訳ない気持ちになったけれど、何ぶん、酔っ払いなのですぐに忘れてしまった。重ねて申し訳ない。


ケーキ お食事が終わったところで、ホワイトチョコのバースデーケーキが運ばれてきて、プレゼントが渡された。
 喜んでくださったのが何よりだ。
 「甘い物は苦手。」とおっしゃって80代の男性から私のところにケーキが一切れ回ってきて、これは断るわけにはいかないでしょうとこのサイズのケーキを2切れ平らげた。自分で言うのも何だけれど、我ながらなかなか男前である。
 このメンバーで近々に国内旅行をしましょうという話まで持ち上がり、2時間以上かけた賑やかで楽しい夕食となった。


 この後、2次会が行われ、添乗員さんと二人でお招きいただいた。最終日(最後のディナーがある日)はどうしても慌ただしくなってしまうので、その1日前にこうして飲み会をするのがお二方の習慣だそうだ。日付が変わった辺りまで「飲み」が続いた。
 なかなか人には言えないコアなお話が多くて面白かったけれど、だいぶアルコールが入っていたのでかなり眠くて辛かったのも本当である。


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ハイダ・グアイ旅行記5日目その1

2013年6月17日(月曜日)


ハミングバード 全身が激しく筋肉痛でなかなか眠れなかった。
 生身で風を切ってボートに乗ることは、自分では判らないけれど結構な全身運動なのかも知れない。というよりも、日頃の運動不足の賜である。
 おかげで、2時頃、かなり雨足が強くなっていることに気がついた。それでも、5時くらいから1時間半程度は熟睡できたような気がする。


 6時半を過ぎると、朝の早い周りの方々の荷造りの音が聞こえ始めた。8時の朝食までに、私を除く全員が荷造りを終えていたと思う。
 朝食前のひととき、テラスに出て上の方を眺めている方がいらして、何かと思ったらハミングバード(ハチドリ)が来ていた。赤いポットに蜂蜜を入れて鳥寄せをしているらしい。本当に素早く細かく羽ばたいていて愛らしい。


朝食 朝食のとき、添乗員さんが昨日の海老の頭でお味噌汁を作ってくれた。「お味噌汁を注ぐカップでお水の量を量ればいい」というところまでは伝えたけれど「蒸発する分を見込んで多めに」と言いそびれたせいで、気持ち少なめにできあがった。申し訳ない。
 お味噌汁に合わせて、フリーズドライのごはんも供され、エッグベネディクトととの組み合わせはどうかというところだけれど、奈良漬けを提供してくださった方もいらして、豪華な和朝食になった。美味しい。


 雨は降り続き、少し様子を見ようということになった。
 「今日って寒い?」と聞くと、添乗員さんもエリンも「雨が降っているから少し冷えるかも知れないけど判らない。」という答えだ。もっともである。
 寒さ対策とびしょ濡れになったときのことを考え、上はいつもどおりのレイヤーにし、下はヒートテックのレギンスにナイロンパンツを重ねた。
 これまではリュックを座席の下に入れてもらい、乗り降りのたびに取り出してもらっていた。今日それをやると座席の下に入れた他の荷物まで雨に濡らしてしまうことになる。座席の下に分散して詰め込んでいた靴も大きなビニル袋に入れて床に転がすことにしたようなので、今日はリュックをビニル袋に入れて手元に置くことにした。


 荷造りや身支度をしている間に雨も少し小降りになってきたし、着々とレインウエアを装着するツアーメンバーを見て「行く気満々」という判断になったらしく、9時半過ぎに出発した。
 エリンが、雨風があんまり激しいようなら皆後ろ向きにボートに乗ってもらうと言う。現状の判断は「それほどではない」らしく、これまでと同じように前を向いて座るよう指示された。
 荷物を手元に置くことにした私はリュックを転がすスペースを確保すべく今日も一番後ろを希望した。


 フローティングキャビンのある入り江をさらに奥に進んだ。
 一番奥まったところに辿り着いたところで、ハクトウワシを見つけた。見上げると雨が顔に当たるのが辛い。しかし、雨を透かして見える、葉の落ちた高い木に止まっているハクトウワシはかなり格好いい。
 羽を広げて飛ぶ姿がさらに格好いいのはもちろんのことだ。


ブラックベア エリンの声に呼ばれて視線を巡らすと、そこに、ブラックベアがいた!
 岸辺の草か何かを食べているらしく、口に何かくわえているのが判る。
 割と太っているように見える。餌が豊富にあるということだろうか。のっそりと歩いている。
 エリンがゾディアックのエンジンを切ってゆっくり見せてくれる。ブラックベアが森の奥に戻って行くまでほんの5分足らずだったけれど、かなり堪能した。
 緑の草の中、手前には緑色の海、奥は緑の森に黒い熊はフォトジェニックだ。


あざらし 入り江の奥から引き返す途中、再びハクトウワシが高い木に止まっているところに出会えた。
 エリンがまた、ボートのエンジンを止めてくれる。入り江の奥なので、エンジンを止めてもそれほど大きく揺れないのが有り難い。
 さらに20分もボートを走らせると、波打ち際に鹿が出てきていたり、垂直に立った岸辺に沿って泳ぐあざらしがいたり、フローティングキャビンのある入り江にはたくさんの動物がいた。
 遊んでいるように2頭が連なって泳ぐあざらしに皆で夢中になる。


 あざらしに出会った辺りから雨は止み、青空もちらほら見えるようになって、エリンはゾディアックを飛ばし始め、11時15分頃、タヌー島に到着した。
 ウォッチマンであるウォルター夫妻と、孫娘のレイヴンちゃんが迎えてくれる。ワタリガラスちゃんなんて、ハイダらしいお名前の赤ちゃんである。まだおしめも取れていないし、歩けないので、メアリーお祖母ちゃんに背負われている。


 ハイダ全体でもいわゆる「ハイダ語」をしゃべれる人は50人くらいしかいないらしい。単語くらいなら何とかという人が多く、ほとんどの人は英語をしゃべっている。
 ただ、オールドアセットやスキットゲート、クィーンシャーロットの学校でハイダ語を教え始めており、またハイダ語が戻って来るかも知れないと言う。レイヴンちゃんも学校でハイダ語を習うようになるのだろう。
 タヌーというのは海草の名前で、ここに住んでいた人々がその海草が好きでよく泳いでいたことから、そう呼ばれるようになったそうだ。


20130617_114207 ご夫妻の案内でタヌー島の見学が始まった。
 タヌー島には25軒の家(の跡)が残っている。立っているトーテムポールは既にない。墓棺柱が二つ、フロントポールが一つ、倒れた状態で残っているのみで、他は全て1953年から54年にかけて博物館に持って行かれてしまったという。
 タヌー島の家は、お隣との間隔が他に比べて近くなっていて、それは攻め込まれたときに武器を持った人が通りにくくするためである。
 ハイダは、大陸にいた人々と争って人や物を奪い取ってきたり、ハイダの人々の間でも争いが起こったりしていたと言われており、勝手に「穏健な人々」というイメージを持っていたので驚いた。


村長さんの家? タヌー島の村長さん(「村長」という言葉のニュアンスが合っているかどうかよく分からないけれども)の家の最大の特徴は「泉(あるいは井戸)があった」とことである。
 さらに3レベルに掘られているから、相当に「強い」村長であったことは間違いないだろう。
 普通の村人の家の中には、地面を掘らずに建てた家もあったらしい。


洪水を刻むトーテムポール 倒れた墓棺柱について、ウォルターさんは「ビーバーの意匠」と説明し、ちょうど私の隣にいたメアリーさんが「違うわ。」と言いたげにボソっとダメ出しをしていた。
 彼女によれば「多分そうだろう」と言われているだけで、実際のところはよく判らない、というのが正確らしい。
 また、タヌー島には、ポトラッチの数ではなく洪水の回数を刻んだトーテムポールがある。タヌー島では洪水が何度も起きたし、洪水が村の生活に大きな影響を与えていたということだろう。


墓棺柱 もう1本だけ墓棺柱が残っている。サンダーバード(雷鳥)の意匠は、クアキトゥル族のトーテムポールで多く彫られた意匠だという。何となく羽が彫られていることが分かる。
 このトーテムポールは顔の部分は燃やされてしまい、一番上にあった棺は失われている。


 ツアーメンバーの方で、墓棺柱の「一番上にあった棺」にとても興味を示された方がいて、この方の質問を訳すのに添乗員さんが困り切りつつ何とか失礼のないようにと四苦八苦していた。
 その苦心のやりとりで、墓棺柱はまず滅多に倒れることはないし、倒れたとしてもやがて苔に覆われて自然に返って行くこと、博物館等に持ち去られた墓棺柱のうちその遺骨だけでも戻して欲しいと運動した結果400体ほどは取り戻せたということが判った。
 
海に向かって ハイダ族の家は、ほぼ全て、海に向かって建てられている。添乗員さんに「どうして?」と質問してもらったけれど、余りにも当たり前のこと過ぎたからか、明確な回答はもらえなかった。
 ただ、どこに誰が住むかを決めたのは村長さんだったらしい。
 この「村長」という言葉も、実は複雑だ。
 「村」にはハクトウワシの家系とワタリガラスの家系があり、それぞれのクランに長がいる。しかし、その二人のクランの長から村長が選ばれるのではなく、村長はクランの長二人とは別にいる。そして、さらに、クランの長だけではなく村長も世襲だという。


 ハイダの家族は女系ということだから、村長が世襲でも、男性が村長になる限りは特定のクランに偏らない筈で、それなら問題がないということなんだろうか。
 この辺りの「女系」や「世襲」の考え方は何度か説明してもらったし、帰国後に添乗員さんから届いたレポートに改めて図入りで説明してあったけれど、未だに理解出来ていないような気がする。
 そういえば、メアリーさんと話していたときにも、メアリーさんはレイヴン・クランで、レイヴンちゃんももちろんレイヴン・クランだけれど、養子の問題があって云々とお話されていて、この辺りから私の英語力では全く付いて行けなくなってしまった。せっかくお話ししてくださったのに本当に申し訳ない。


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