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2014.02.02

中米3ヶ国旅行記3日目その1

2012年12月17日(月曜日)


 時差ぼけに負けているのか、どうにも寝付かれず、寝たり起きたりを繰り返して4時くらいに諦めて起き出した。
 外は、虫の声が響いている。大合唱だ。
 何故だか外に人がいる気配があって、余りにも気になるので覗いて見たけれどもちろん真っ暗な中歩き回っている人がいる筈もない。私はいわゆる霊感の類が全くないにも関わらず、このときだけは不思議と人の気配を感じ続けた。


 5時にモーニングノックがあった。
 早起きしすぎて荷造りもすでにほぼ終了している。何も買っていないし、荷物が増えた筈もないのにキャリーケースを閉めるのにどうして四苦八苦するのか謎だ。
 お茶を淹れて飲みながら、持参した恩田陸の「メガロマニア」を読む。自分は旅に出てもイメージをしないなぁとぼんやり思う。昨日のバスでも、延々窓外に続く森と畑を見ながら、ただ「眠れないなぁ」と思っていた気がする。
 昨日のランチボックスに入っていたジュースを飲みそびれてしまったので、ピローチップと一緒に置いて行くことにした。


朝食 朝食のボックスを配ってもらい、6時にパレンケに向けて出発した。
 目は完全に覚めているし、6時半過ぎに朝食を食べ始めた。ハムとチーズのサンドイッチ、りんごジュース、ゆで卵、バナナ、オレンジ、お水と充実のラインアップである。
 後になってみると、メキシコで一番たくさん食べたものは、ハムとチーズのサンドイッチだったような気がする。


線路 窓の外を眺めていると、7時過ぎくらいから、ジャングルではなく畑が増え、人家がちらほら見えるようになってきた。
 街に近づくと道路にトペが登場する。これまでのところ、カンペチェの街中を除いて信号を見たことはほとんどない。このトペが、バスに乗っているときのほぼ唯一のシャッターチャンスである。
 メキシコに来て初めて見る線路を越えたところで、昨日は朝食に立ち寄ったレストランLa Herraduraでコーヒー休憩となった。
 メキシコに客車が走っている路線は僅か2本しかなく、その他は全て貨物用だという。この線路も貨物専用だろう。


 みなさんがテーブルに適当に散ってコーヒー休憩しているとき、お店の奥の棚にコーヒー豆が売られていることに気がついた。
 シュロのような袋に入り、民芸調の人形が飾りについている。ガイドさんに聞くと、チアバスの先住民の人達がオーガニック栽培しているコーヒーだという。何だか私のポイントをつく単語の数々だ。お土産も兼ねていくつか購入する。もちろん、人形が可愛いものを吟味した。
 買い物に夢中になっていたら、添乗員さんがわざわざコーヒーを淹れてテーブルに呼んでくださった。「こちらもどうぞ」と勧めてくださったプリンはレストランの手作りだったらしい。有り難くいただく。濃厚で硬めの懐かしい味のプリンだった。シナモンが利いていて美味しい。


道ばたの木白い道 30分ほど休憩し、8時に再び出発した。
 トペがあるところでしか写真を撮っていないせいか、昨日よりも道筋に人の気配があるような気がする。


 9時45分くらいにもう一度トイレ休憩があった。公衆トイレに売店が併設されている。
 休憩後、バスの中で、売店で買ったというスナックを添乗員さんが配ってくれた。確か豚の脂を揚げたものだと言っていたと思う。ビールが欲しくなる味だ。


ウスマシンタ川 トイレ休憩後、すぐ渡った大河がウスマシンタ川だ。この川沿いにマヤ文明が栄えたともいえ、例えば、今回のツアーには含まれていないけれどヤシャクトゥン遺跡などもこの川沿いにある。


 川を渡ったところで、ガイドさんのメキシコ案内が始まった。
 最初の話題はマリアッチだ。6〜8人の楽団でみんなで同じ衣装を着てソンブレロを被り、大小のギターやハープなども加わり、マリアッチを歌う。結婚式や、非常に盛大に行われるという15歳の女の子の誕生日パーティなどにも呼ばれ、イベントには欠かせない存在だという。


 お祝いの話からお酒の話になった。
 このときに初めて知ったところでは、テキーラという名前は、テキーラ村で造ったものしか名乗れないそうだ。他の場所で作ったものは、製法は同じでもメスカルと呼ばれるという。
 ガイドさん曰く「シャンパンみたいなものですね。」ということだった。判りやすい。
 そして、テキーラ村は竜舌蘭の畑やテキーラの工場等々を全て含めて世界遺産になっているという。後で調べたら「リュウゼツラン景観と古代テキーラ産業施設群」という名称で2006年に文化遺産として登録されていた。


 また、メキシコにはたくさんのビールがあるけれど、ビール会社自体は2社しかないそうだ。
 一番有名だろうコロナビールを造っているのは、モデロ社というビール会社だ。モデロ社に対抗して作られたビール会社があり、昨夜飲んだSOLビールはそのライバル社の製品である。しかし、両社とも最近、外資に買われてしまったらしい。
 また、メキシコの人はビールはカクテル風に飲むことが多いという。コロナビールにライムを搾るのがその最たる例だ。


 びっくりだったのは、メキシコは実はコカ・コーラの消費量が世界一だという話だ。
 コーラ発祥の国であるアメリカ合衆国よりも多いなんて驚きである。しかも、コカ・コーラはやはり高いので、類似品が山ほどあるという。どれだけ炭酸飲料が好きな人達なんだと思う。
 ガイドさんが言うには、メキシコで売られているコーラはメキシコの黒糖を使っているので、アメリカ合衆国で作られたコーラよりも甘いらしい。
 少なくとも、メキシコが世界一のメタボ率の国になったことと、メキシコ人の80%がメタボまたはメタボ予備軍であることは間違いないという。


アブラヤシの木 この辺り(もうかなりパレンケの街に近い)のアブラヤシの木は最近植えられたものである。
 アブラヤシは生長が早い植物で、実から取れた油は潤滑油などに使われる。近くに製油工場も作られているそうだ。新しい産業ということらしい。
 この辺りの農産物としては、他にパイナップルやバナナ、煙草などもある。


 「油」の話から、ガイドさんの話はメキシコの歴史の話に移った。
 メキシコシティで栄えていたのはアステカ帝国で、その中心となっていたのがメシィカ族、メシィカ族の名前が「メキシコ」の元となっている。
 アステカはスペイン人が300年前にやってきたときに栄えていたので、スペイン人による記録が豊富に残っており、比較的その歴史が明らかになっているという。


 パレンケの街は、チアパス高地の中腹にあって天然の要害となっている。
 パレンケは湿度が高いらしい。高地にあるのだから涼しくて良さそうなものだと思う。
 マヤ民族はもちろん、もう100人くらいにまで減ってしまったというラカンドラ族もチアパス州にいる。もしかしたら、パレンケ遺跡の入口にあるミニ市場のようなところで会えるかも知れないという。長い髪と白いすっぽりと被るような服が特徴である。


昼食のレストラン昼食メインディッシュ 11時前に、HOTEL LEONESのオープンエアのレストランに到着した。先にこちらで昼食をいただいて、それからパレンケ遺跡に向かう。
 昼食のメニューは、クレマ デ チャヤ(ほうれん草のスープ)、白身魚のグリル、アイスクリーム、コーヒーである。
 グリルの付け合わせについてきたハヤトイモが素朴で美味しい。
 この後で遺跡見学があるし、ビールを飲んで昨日のように歩くのは厳しい。そう思って、アルコールは自粛し、フレッシュオレンジジュースを頼んだ。


 これから向かうパレンケは、1987年に登録された世界遺産である。正式な登録名称は「パレンケ古代都市と国立公園」だ。文化遺産である。
 パレンケとは、スペイン語で「柵に囲まれた砦」という意味だ。
 1784年に発見されており、アメリカのジョン・ロイド・スティーブンスと画家のフレデリック・キャサウッドが1841年に発表した旅行記で一躍有名になった。この本は邦訳されていて、中米・チアパス・ユカタンの旅〈上〉―マヤ遺跡探索行1839~40中米・チアパス・ユカタンの旅〈下〉―マヤ遺跡探索行1839~40という上下2巻で発売されている。しかし、如何せん、各6090円というお値段は高い。


 パレンケは、431年に拓かれた比較的新しい都市で、7世紀のパカル王とその息子の時代に最盛期を迎えている。
 今パレンケ遺跡に残っている建物群は全てパカル王の時代以降に造られたものだ。
 このパカル王がマヤ界で有名なのは、パレンケ遺跡内の「碑文の神殿」から彼の未盗掘のお墓が発見されたからである。かなり長い間、「マヤ唯一の未盗掘のお墓」の地位を保っていたらしい。
 このお墓はメキシコシティの人類学博物館やパレンケの遺跡博物館に再現されている。
 棺の上というか表に彫刻された図柄が「すわ、ロケット操縦の様子か」と見えなくもないことで有名だ。


 また、パレンケはカラクムルと対照的にステラが全くない。少なくとも、今確認できるステラは一つもない。
 その代わり、漆喰を使ったレリーフに優れていたそうだ。向き不向きに合わせて記録方法を変えていたということだろう。


チケット 12時過ぎ、パレンケ遺跡に入場した。バスの中で既に手首にチケット代わりに丈夫な紙でできたテープを巻いてもらっている。
 ツアーで行くと遺跡の入場料など気にすることはほとんどない。この写真を見て、「27ドルって高いなぁ」と改めて思った。
 「パレンケは暑いですよ。」と添乗員さんに爽やかに予告され、バスを降りた。
 確かに暑い。基本的に日射しの強いところでは長袖を欠かさない私が早々に半袖Tシャツ1枚になってしまったくらいだ。蒸し暑く、汗が噴き出る。


パレンケ遺跡の地図 パレンケ遺跡の入口前には、屋台というかテントのようなお土産物屋さんが並んでいる。カラクムルにはなかった景色だ。やはりアクセスのしやすさが段違いだからだろう。
 私は結局近づきもしなかったけれど、ツアーの方の中には、一瞬の隙をついて眺めていらした方もいたらしい。
 遺跡の入口で地図を見ながら大体の予定を説明してもらった。


 ガイドさんの説明によると、2週間前には上ることができなかった兎の頭蓋骨の神殿に上ることができ、赤の女王の神殿の墓室を見ることができるそうだ。ラッキーである。
 12月3日から発掘調査が始まった20号神殿はそもそも進入禁止エリアになってしまっているというから、その代わりということだったのかも知れないし、マヤ暦の変わり目に観光客増加を見込んだサービスなのかも知れない。
 12月18日(明日!)からパレンケ遺跡でもフェスティバルが行われるというけれど、そんな風情は特に感じられなかった。


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