中米3ヶ国旅行記3日目その2
2012年12月17日(月曜日)
パレンケ遺跡入口からほとんど歩くことなく、最初に見えてくるのが兎の頭蓋骨の神殿だ。建物の正面の柱の下に漆喰で骸骨が形作られていることから「兎の頭蓋骨の神殿」と通称されている。
パレンケの都市の紋章文字の主字に骨が使われていて、それは「バーク」と読む。「パレンケ」はスペイン語から来た呼び名で、当時の人々が自ら「パレンケ」と名乗っていた訳ではない。当時の人は、その主字の読みから「バーク」か、あるいは「ラカンハ」と自称していたと推測されている。この辺りから、その彫刻が「骸骨」と見られるようになったということもあるらしい。
まず、この兎の頭蓋骨の神殿に上った。
先生の説明の途中でとっとと先に行ってしまう方、とにかく人のいない写真を撮ろうと「どいてください!」と自己主張する方、そこに「写真を撮りに来た訳じゃなくて見に来たんだろう」と反発される方と、見事にバラエティに富んでいるところが凄い。
カラクムルの神殿に比べればこれくらいの高さは軽いものである。ピラミッドの上にある建物(右半分の前面の壁と屋根が崩れ落ちてしまっている)の向かって左にある柱の根本という割と地味な場所にある兎の頭蓋骨のレリーフを目指して上る。
骸骨は、戦争の際に使われていて、首を取って皮を剥ぎ自分のベルトにぶら下げて、自らが優秀な戦士であるということを誇示したそうだ。
判りやすいといえば判りやすいし、残酷といえば残酷なアピールである。
戦争という場、戦士という人々にとって、頭蓋骨は非常に身近な存在であったようだ。だからこそ、建物の意匠にもなっているのかも知れない。
パレンケが素晴らしいと評される理由の一つが、様々なマヤアーチである。
マヤアーチは、なるべく屋根の重さを軽くし、壁が屋根を支えられるよう、支える壁を薄くして内部を広く、光を取り入れられるように工夫した結果だ。
アーチの下のくびれた部分には、元々はリンテル(まぐさ石)が渡されていたと説明して貰った。しかし、「リンテル」も「まぐさ石」も知らない言葉だったので、何故に突然馬の餌の話? と思ってしまった。
後になって調べたところ、リンテルとは「古代の建築で二つの支柱の上に水平に渡されたブロックを指す」そうだ。
そこには、例えば捕虜を捕まえた図などが彫られていたという。
まぐさ「石」と呼ばれているけれど、実際にここに嵌められていたのは木材だったらしい。だから残っていないのだろう。
兎の頭蓋骨の神殿からも宮殿がよく見える。
兎の頭蓋骨の神殿の隣の建物は「発掘中」「修復中」という感じで、そこに建物がある、というだけだ。この位置にある以上はそれなりの意味や地位があっただろうと思うけれど、現在のところは「つなぎ」に見えてしまう。
その一つ向こう、茅葺きのような屋根が斜めに階段の上についている建物が赤の女王の神殿である。
1994年に発見された時、埋葬された人に水銀朱が振りまかれていたことから「赤の女王の神殿」と呼ばれるようになったという。
赤は正しく「血の色」で、古代マヤの人々は、血の色をまとわせることで、その人の再生を祈ったという。この「風習」はパレンケだけではなく、例えばコパンでも同様のことが行われている。
赤の女王の神殿の中に入ると、マヤアーチの通路があり、そこに三つの部屋が並んでいた。今は電灯があるからいいけれど、昼間からこの暗さでは、そもそも内部に人が入ることは想定されていなかったんじゃないかと思ってしまう。
再現された赤の女王の棺がある部屋には、内部が真っ赤になった棺が置かれていた。金網越しにその様子を見ることができる。
しかし、この棺が置かれた部屋に並ぶその他の部屋は空っぽだ。元から空っぽだったのか、あるいは、本来は棺や副葬品が入っていたのか、どちらだろう。
ここに埋葬されていたのが女性だということは確かだけれど(だから「赤の女王」なのだ)、実はそれが誰だったのかは特定されていない。碑文の神殿と隣り合っていることからパカル王の王妃の墓という説もあるようだ。
その更に隣にある建物が、かの有名な「碑文の神殿」である。パカル王の墓が発見された場所だ。
残念ながら、現在はお墓を見ることはもちろん、神殿に上ることもできない。
ここでパカル王の墓が発見されるまでは、マヤのこうした階段状の建物の中にお墓はない、墓所ではないと考えられていた。しかし、1952年に、アルベルト・ルス・ルイリェールという考古学者が非常に大きな棺を発見したことで、一気にその節が覆った訳だ。
アルベルト・ルス・ルイリェールは、このピラミッド上部にある神殿の床を調査していて、非常に大きな石に穴が開いていることを確認し、これは古代マヤの人々がロープ等を通して引っ張るためのものではないか、この石は剥がせるのではないかと推理した。
調査を進め、持ち上げてみたところ、地下に進む階段があったという。ただし、砂利で塞がれていたため、少しずつその砂利をどかし、3〜4年かけて墓室と石棺、真っ赤になった遺体を発見している。
凄い根気である。
発見当時、マヤ文字の解読はほとんど行われていなかったため、その遺体が誰なのか特定できなかったが、70〜80年代にかけて解読が進み、パカル王であったことが判明した。パカル王は12歳で即位し、非常に長い期間パレンケに君臨した王である。
碑文の神殿の基壇部分は9段ある。9という数字は、古代マヤの持つ世界観では「地下の世界」「死後の世界」を表しており、9人の神に支配されていると考えられていた。
9層の段を持つ基壇に王の棺があるということは、「符合」を感じさせるという。この9層という構造は、ティカルの1号神殿にも当てはまる。
「碑文の神殿」と呼ばれているからには当然「碑文」もある訳で、古代マヤでは長い(コパンの碑銘の神殿では2200文字を超える。それに次ぐ617文字という長さ)碑文がピラミッド上部の神殿で発見されている。
碑文の神殿はパカル王のお墓でもあり、パカル王自身が生前に途中まで作っていたとも、パカル王の息子の王が建造したとも言われている。何故「途中まで」かというと、棺が非常に大きくて、墓室の扉から入れることができないからだ。
もっとも、このパカル王のお墓で一般的に有名なのは「宇宙船を操縦しているように見える」と言う人もいる、その棺の紋様というか彫刻である。実際のところ、その図は宇宙船ではなく、パカル王が死後の世界に呑み込まれ、そこから再び再生する様子を表している。
パレンケ遺跡併設の博物館でそのレプリカを見ることができる。
次に「宮殿」に向かった。
振り返ると碑文の神殿、赤の女王の神殿、ひとつ飛んで兎の頭蓋骨の神殿を見ることができる。壮観だ。
当初の予定では、一旦、奥の十字の神殿グループに行くことになっていたけれど、例によって例のごとく、さくさくと宮殿に上ってしまった方がいらして、予定変更となった。
パレンケ遺跡の明るく「整った」というイメージは、この遺跡の周りに整備された芝生によるのではないかと思う。
宮殿は、様々な建物が集まってできている。増築に増築を重ねた格好だ。
「宮殿」と呼ばれているけれど、ここは、パレンケ王家の人々が政治を行ったり、王位継承の認証を行ったり、要するに行政と儀式の主舞台である。
この宮殿の一番の特徴は、塔の存在である。塔の役割については諸説あり、見張り台であった、天体観測に使われていた等々と言われている。今は上れなくなっているのが残念だ。
冬至の日の夕方、この塔に上がって碑文の神殿を見ると、神殿に太陽が沈んで行く様子が見られる。この日は冬至の4日前だから、もしかしたらそれに近い景色が見られたかもしれないと考えると惜しい。
パレンケは、結構「残っている」遺跡で、神殿上部の飾りなども確認することができる。一方、例えばコパンなどでは、上手く作れずに崩れてしまったものがある。それは当時の建築技術、セメントのようなものを作る技術の差による。
また、多用されているマヤアーチや、中をくりぬいたようになっている屋根飾りは、いずれも屋根を軽くするための工夫である。
そうまでして「飾り」を作りたかったのかしらと思う。
宮殿には結構レリーフが残っていて、この写真は、家Eの前にあるパカル王12歳のみぎりの戴冠の図である。彼に王冠を授けている左側に描かれた人物は、母親である前代の王サク・クックである。
金網からフォーカスを外して写真を撮れなかったのが惜しい。しかし、レプリカなのに、どうしてわざわざ金網を張ってあるのか謎である。そして、本物は一体どこにあるのだろう?
意外と大ざっぱな彫り方だなと思う。
それとも、元々はもっと精巧な彫りだったものが、段々丸くなってしまったんだろうか。レプリカというのは、そもそも、レプリカを作った時点でそっくりに作るものなのか、ある程度「修復」をして作るものか、どちらなのだろう。
順路通りに進んでいないこともあって、自分がどこにいるのか全く判らないまま先生たちに付いて行く。
後になって写真を見ると、多分、「凄く気になって」撮ったのだろうということは判るけれど、それがどこにあって、何だったのか、さっぱり判らないことが多いのが残念である。もの凄く勿体ないことをしたなぁと思う。
東の庭は、捕虜の大きなレリーフがあって、珍しく後から写真を見て特定できる場所だ。
冬至、この庭に入れる人は非常に限られていたそうだ。
例えば、外交官を呼び寄せ、レリーフを見せつけ、威嚇というか威圧のために使っていたという。さらに直接的に生け贄の儀式が行われていたのではないかとも言われている。
この写真にも写っているとおり、パレンケ遺跡には、欧米人らしき観光客が多く訪れていた。
宮殿のように音が反響する場所だと、彼らのガイドが説明する言葉と被って、先生の解説が聞き取りにくくてちょっと困った。
現在の壁やレリーフは白っぽいけれど、当時は赤や青に彩色されていたという。私には黴と彩色が残っている部分との違いが全く見分られないけれど、これは間違いなく「当時の名残」である。
人の顔というか額の部分のアップだ。
そういえば、家Eだけは白かったという説明だった。それでは他の建物は何色だったのだろう? 赤だという説明を聞いたような気もするけれど自信がない。
パレンケ遺跡は全体的にフォトジェニックだ。そして、この宮殿は中でも一際フォトジェニックである。
いくらでも写真を撮りたくなってしまう。
そして、相変わらずどこの写真なのか全く判らない。
階段は、多分、家Cに残されていた神聖文字の階段である。ロープが張られているものの、近寄って見ることはできる。
果たしてこの部分だったかどうか定かでないけれど、T字のマークというか穴がある場所は、何らかの装飾品などと埋葬されている例が多く、王家と関係している場所であることが多いという。
確かに、この宮殿内部でこのTの形に開けられた穴を結構見かけている。
先生がコパンで発掘した王墓でも、立体的なもの(と表現されていたけど、一体どういうものなのかよく判らなかった)の頭の部分にやはりこのマークがあったそうだ。
そんなに素晴らしい、由緒ありそうな「穴」には見えないけどなぁなどと不埒なことを考える。
この後は、地下トンネルを通った。次の目的地への近道だったらしい。
地下トンネルからは、さらにマヤアーチの通路が伸びていて、しかし、その先は窓が開いているだけの行き止まりだった。
パレンケはとにかくこの「マヤアーチ」のバリエーションが多い。
地下トンネルを抜けて階段を上がったところに、トイレがあった。
正確には「トイレかも知れない」と言われている場所である。先生はどちらかというと懐疑的な雰囲気を醸し出している。「もしトイレだったとすれば」という風に説明していた。
もしトイレだとするとこの空間はオープンすぎるということらしい。「もっと他にそれらしいところがある」という。そう言われればそんな気がする。
トイレを最後に宮殿の見学は終了となった。
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