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2014.02.08

中米3ヶ国旅行記3日目その3

2012年12月17日(月曜日)


十字のグループへ向かう パレンケ遺跡の宮殿から十字のグループに向かう道筋には、布を敷いて商品を並べただけのお土産物屋さんが並んでいた。ここでだけ商売を許されているのかも知れない。
 13時半過ぎ、パレンケ遺跡内部を流れるオトゥルム川を超え、さらに奥に進んで小山に付けられた階段を上がる。これが結構、急な階段だ。


 階段を上り切って左手前に現れたのが太陽の神殿である。
 夜の太陽というのは(といきなり説明が始まったと思う。多分、太陽の神殿に絡んだ説明だったと思うけれど定かではない)、日が沈んでしまった後も、地下の世界を照らす太陽という趣旨らしい。


十字の神殿のレリーフ 発見した探検家が神殿にあるレリーフを見て「十字架だ」と勘違いしたため、パカル王の息子であるカン・バラム2世が建てたと言われる一帯が「十字のグループ」と呼ばれている。
 しかし、「十字の神殿」と呼ばれる建物にあるレリーフのモチーフは世界樹(セイバの木)だ。その格好がスペイン人には十字に見えたようだ。
 十字架の両脇にいる人間は、建て主であるカン・バラム王の小さい頃と成人後の姿だと言われている。研究者によっては異なる説も唱えている。その「異なる説」の内容を忘れてしまった。かなり詳しく説明して貰ったのに残念である。


十字の神殿十字の神殿から


 何となく半端な説明の後、「三つの神殿に上れます。」、「太陽の神殿には入ることができます。」、「十字の神殿に上ると景色が綺麗ですよ。」という案内があって、自由時間となった。
 まず、上るのが一番大変そうな十字の神殿に行った。カラクムルに比べれば全然低いのに、結構しんどい。
 あまりのしんどさと、景色に夢中になってお互いに写真を撮り合うことに一生懸命になった結果、十字の神殿の入口右にあった筈の、煙草を吸う神のレリーフを見るのをすっかり忘れてしまった。世界最古の「煙草を吸っている」描写だというのに勿体ないことである。


 十字の神殿からは、太陽の神殿や、葉の十字の神殿の建物もよく見える。上から見下ろすと、屋根飾りがよく見えるのが楽しい。
 この屋根飾りの隙間を通る風の音でハリケーンの到来を知ったという説もある。カラクムルと同様に、高い場所に隙間のある建物を作ると風の音が一つのポイントになるようだ。


葉の十字の神殿の全景葉の十字の神殿のレリーフ


 3神殿を制覇するためには、意外と時間がない。
 次に奥にある葉の十字の神殿に向かった。葉の十字の神殿は、ピラミッドというか基壇部分がまだ発掘されておらず、小山に階段が作られている感じだ。
 上に乗っている神殿も、前側の壁がなくなり、柱が露出してしまっている。
 しかし、その神殿の奥に鎮座するレリーフは、黴のせいかも知れないけれど、三つの神殿の中で一番見やすい状態だったと思う。このレリーフのテーマは食べ物だ。


 葉の十字の神殿からの眺めもいい。
 右側に十字の神殿、正面に太陽の神殿が見渡せ、さらに中央奥に宮殿の塔が見える。
 パレンケは本当に湿度が高くて、高いところに上がっても涼しい風が吹いているということがないのが辛い。
 ちょうどやってきた先生に、太陽の神殿の隣にある14号神殿のレリーフも綺麗だと教えていただいた。
 まずは、14号神殿の前に太陽の神殿に向かう。


太陽の神殿内部 ガイドさんに教えてもらったとおり、太陽の神殿だけは中に入ることができる。太陽の神殿は気のせいか他の二つの神殿よりも階段のステップの幅が広くて上りやすいのが有り難い。
 神殿内部に入ると、マヤアーチが綺麗だった。
 流石に、レリーフがある場所には入れないようにロープが張ってある。
 ここにもTの字の窓がある。やはりこの形の窓は、何らかの意味を持っているのだろう。


太陽の神殿のレリーフ 太陽の神殿のレリーフのモチーフは戦争である。
 真ん中の顔のように見える部分は太陽神で、その姿を描かれた「盾」である。その上に角のような角度で付き立っている棒は「槍」である。
 カン・バラク2世の興味は、食べ物と戦争と世界にあったということだろうか。変な言い方かも知れないけれど、当時の王としては健全な世界観だったんじゃないかと思う。
 太陽の神殿の三つのレリーフは、真ん中の何かの両脇に人がいるという構図になっている。


太陽の神殿から 太陽の神殿から、十字の神殿と葉の十字の神殿を見ると、十字の神殿の屋根飾りが本当に正面部分しか残っていないことが判る。
 カラクムルではあまり意識しなかったけれど、パレンケに来て、建物は正面が全てで、横からみたときとか、後ろから見たときとかはあまり考えられていないような気がしてきた。
 もっとも、十字の神殿の場合は、後ろ半分がきちんと露出させられておらず、丘のままになっていることもその原因かも知れない。


14号神殿 太陽の神殿のお隣に、先ほど先生にお勧めしてもらった14号神殿がある。
 レリーフが綺麗に残っているのに通称を付けてもらえなかったのは、この14号神殿がカン・バラム2世の作ではなく、その弟が作った建物だからかも知れない。
 この弟王(名前が分からない)は、近隣の国との戦争で711年に捕虜になってしまったという不幸な人だ。この人が王になったときに作られたのが14号神殿で、このレリーフは、兄と、カフィールという王の守護神を兄に渡している母の姿を描いているという。


 この弟王が捕虜になっていた10年余の間に、王の権威は著しく下がり、パレンケでも貴族による合議で政治が行われるようになったという。
 そうして貴族が強くなった結果、貴族のためのピラミッドが作られるようになり、パレンケにもこの十字のグループの奥にその建物が残っている。しかし、何故かずっと立ち入り禁止になっているそうで、今回も見学することはできなかった。
 14時半くらいに集合し、お宝の数々や、パカル王のお墓のレプリカが展示されているという博物館に向かった。


球技場 元来た道を戻り、宮殿をぐるっと回って球技場に出た。本当に球技場はどの遺跡にもある。
 パレンケの球技場は意外と小さい。
 両脇の盛り上がった部分の角度は、カラクムルに近くあまり傾斜がついていないのが特徴らしい。コパンの球技場などはもっと角度があるという。
 カラクムルの球技場では確認されていない「ボールを通すのかも知れない」という穴というか飾りが、パレンケの球技場では確認されている。


 球技場で行われる競技が「儀式である」と同定(という言葉を先生はよく使っていた)したのはコパンだろうという話だ。
 ボールの動きは天体の動きを表し、マヤの人たちは、太陽は沈んだ後で地下の世界を旅していると思っており、再び太陽が昇ってくることを確かなものにしようとして儀式を行ったのだろうという話だ。
 競技は、王と捕虜が行うこともあり、その場合はいわば出来レースで王が必ず勝ち、負けた捕虜を殺してしまう様子を民衆に見せたりもしていただろうという。昔から八百長というものは存在したらしい。


滝 一部鍵が壊れたりしていたのみで許せる感じのお手洗いに寄った後、どこをどう歩いたのかよく判らないまま、川沿いに整備された階段状の遊歩道に入った。
 ずっと下って行ったところに博物館がある。
 周りは鬱蒼とした緑で、パレンケ遺跡が発掘される以前はこの辺りはずーっとこんな感じだったんだろうなと思う。一人で歩くのはちょっと躊躇するけれど、しかし、気持ちのいい散歩道といった感じだ。
 途中に「女王のトイレ」という微妙なネーミングの滝もある。この「女王」が誰なのかは謎だ。


緑に埋もれる遺跡緑に埋もれる遺跡


 遊歩道沿いにはグループBやグループCと名付けられた遺跡が点在している。緑の中に埋もれるようにひっそりと佇み、突然現れる遺跡で、探検隊気分を味わえる。
 歩きながら「マヤ文字解読」という書籍の話になる。読んだ方も結構いらっしゃって「面白いよ」と言われたけれど、4000円を超えるお値段ではなかなか手が出ない。
 もっとも、「ユカタン風物誌」という書籍の方がさらにお高い。ユカタン風物誌は絵が豊富で、写真がなかった時代故に貴重な資料となっているという。


吊り橋滝


 かなり下がって来たところに吊り橋があり、そこから滝が見えた。
 地元の子なのか、女の子が水遊びをしていて気持ちよさそうだ。もしかしたら、パレンケの人々もここでこうして涼んでいたのかも知れない。パレンケが繁栄していた頃と現在とで、それほど大きく気候が違うことはないだろうと言う。
 ここで、最初に腕に巻いてもらったものは自然保護料支払いの証拠だったとやっと気がついた。遺跡から出る直前まで気がつかなかったとは我ながらマヌケである。


大きな木 滝から少し行ったところに大きな木があった。
 洞もできていて、何故かその洞に向かう階段ができ、石で平らにされている。もしかして、お供えを上げるようになっていたんじゃないかと思う。木の周りの蔦のようなものは、この木をじわじわと締め付けていて、最終的には巻き付いているいわば宿主を枯らしてしまうという。
 そういう木がどことなく特別扱いされているのがちょっと不思議な感じだ。
 この木から出口までは、本当にもうすぐで、15時過ぎに遺跡の外に出た。


 遺跡の出口からすぐのところにある博物館が近づいてくると、ガイドさんが「嫌な予感」と呟いた。
 扉が閉まっている様子だ。
 「今日は何曜日ですか?」「月曜ですよ。」「あちゃ。」という会話が交わされる。19日間ツアーとずっと同行していたガイドさんは、どうやら曜日の感覚がなくなっていたらしい。「パレンケの博物館、月曜休館なんですが、遺跡が開いているときは博物館も開けていることが多いんですよ。」と言いながら、どこやらへ走って行った。
 何とか開けてもらえないかと直談判に行ったらしい。


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