中米3ヶ国旅行記4日目その1
2012年12月18日(火曜日)
6時のモーニングコール前には目が覚めたものの、それにしても昨日一昨日とは違う熟睡さ加減で、マッサージ様様だ。
モーニングコールの際、「グアテマラシティは高度があるので涼しいし、アエロメヒコもキンキンに冷やしていることが多いので、手荷物に羽織るものを入れておいてくださいね。」と注意があった。
今日はラ・ベンダ遺跡公園を見学後、そのままメキシコシティ経由でグアテマラシティまで飛行機移動の予定だ。
6時半過ぎに、昨夜の夕食をいただいたレストランへ向かった。
今回のツアーで初めての「ホテルでの朝食」である。嬉しくなって、色々と取ってきてしまい、お腹がいっぱいになった。
7時15分にバゲージダウン、7時半に出発だ。出発前に、ホテルのフロントで絵はがきを出してもらえるようお願いした。
ホテルでの朝食も初めてなら、日の出後の出発も初めてだ。朝はどうやらお天気が良くないのがデフォルトらしい。
バスの中で、これまでの復習という感じで先生のお話があった。
カラクムルの場合、カレンダーラウンドで王名表を刻んだ壺が11くらいあると言われている。壺の記載が一貫していなかったり、壺の記載と碑文との間で矛盾があったりもしていて、カラクムルの完全な王朝史はまだ確立されていない。
しかも、カレンダーラウンドは52年ごとに同じ日付が出るので、なかなか特定するのが難しい。
また、カラクムルのステラは非常に劣化が激しいので、カラクムルの歴史は、周辺の国で見つかったカラクムルに関する記載から推定されつつあるのが実際のところだ。
一方のパレンケでは、碑文が漆喰のレリーフとしてかなり残されていて、その歴史は431年のクック・バラム王から始まったと言われている。パレンケの王名表にはもっと前の歴史が刻まれているけれど、その部分はいわば神話であったと考えられている。
日本書紀と同じようなものだろうと理解した。
十字グループの南の区画にある神殿20の内部から大きなお墓が見つかっており、そのお墓がクック・バラムのものではないかと唱えている学者もいる。今後、この新発見がさらに研究され、発表されるだろうから要注目である。
カラクムルとパレンケは敵同士で、カラクムルがパレンケを攻撃してパレンケの王朝を断絶させたと言われている。その結果、パレンケではパカル王やその息子であるカン・バラム2世など、本来は王に即けなかった人々が王として君臨することになったので、その王位の正統性を示すために「神話」が利用されたのだろうという。
カラクムル側には「パレンケと戦った」とか「パレンケに勝った」という記載は残っていない。少なくとも発見されていない。
逆にパレンケの方に「負けた」という記載が2回出てくる。マヤの場合、普通は「負けた」ことは記録に残さない。その後に大勝利を遂げた場合などは演出として「負けた」ということを書く場合もある。
カラクムルに負けたことは、その後に大逆転するパカル王の栄光を飾るためのエピソードとして書き残したようだ。
カラクムルとパレンケは遠い。一昨日と昨日と、チカナ経由とはいえ2日に分けて移動した私たちにはよく判る。しかも、当然のことながら、当時は道も(多分)ないし、自動車などは絶対にない。馬などもいなかったから歩いて移動するしかなかった筈だ。
しかも、手ぶらで行っても戦いなどできないし、食べ物も運ばなくてはならない。
欧米の研究者は、「碑文に書いてあるんだからどうにかしてそうしたんだろ」と割とアバウトらしいけれど、先生たち日本の研究者は、「どうやって移動したんだ」とか「どうやって食料を調達したんだ」ということを気にする。
ユカタン事物記という16世紀にランダというスペイン人宣教師が書いた本に、戦争について詳細が書かれていて、「戦いが長期間にわたることはなかった」、「村々から徴兵が行われた」、「食料は村の女性たちが担いで運んだ」等という記述があり、それが8世紀頃のマヤの戦争の様子と同じとは考えられないけれど、しかし、推定する手がかりにはなる。
そうして推定すると、恐らくはゲリラ戦のような戦いが行われていたのではないかと考えられる。
こうなってくると、もう「物語」の世界だなぁと思う。つまるところ、「証拠」が残っていない「仮説」の域を出ていない状況ということだ。
仮説の中でどの仮説の蓋然性が一番高いかという話になると、やはり、碑文を研究している人々の発言力が強い。考古学的手法ではなかなか判らないこと、特定できないことが、碑文には「書かれて」いる訳だから、それはそうだろうなという気がする。
明日行くコパンはパレンケと関係の深い国で、コパンに残る碑文に「自分の母はパレンケ王家の出身である」と書かれており、さらに、パレンケの女性が身につけていた装身具がコパンに近いホンジュラス国内で発掘されている。
しかし碑文には嘘を書くこともできる訳で、碑文の内容と考古学的発見とが相互に補い合っていると「これは事実だろう」という蓋然性がさらに高くなる。
このツアーのテーマにもなっているように、12月21日にマヤ長期暦が完了する。
ネットニュースでも結構取り上げられるようになっていて、学者が「預言的内容がマヤ暦に刻まれた事実は一切ない」と言っても、「世界が終わる」などという噂が収まる気配はない。
私は知らなかったけれど、マヤ暦完了に合わせて惑星が地球に衝突して世界が滅亡するという説まで出ているそうだ。遂に米政府が噂を否定する事態になったというから、笑い話にもなっていない。
5000年に一度のマヤの歴史的な日であることは間違いないけれど、しかし、「それだけだ」ということはなかなか理解されにくいらしい。
ここでガイドさんにバトンタッチされた。
今向かっているビジャエルモサは、「美しい村」という意味である。現在は、タバスコ州の州都だ。
メキシコは石油産出量が世界7位で、しかし、産出する石油は全て国のものとなり、それを輸出して「国の収入」を得ている。メキシコでは、税金を払う人がほっとんどいないので、そういう形で国の収入を確保している訳だ。(その他にも色々と歴史的経緯があるようだけれど、割愛する。)
税金を払う人がほとんどいないのは、いわゆる屋台などの裏のお仕事で稼いでいる人が多いためらしい。ついでに、お金持ちの人から税金を徴収するという仕組み(例えば、資産税や相続税など)もない。
メキシコの外貨獲得手段の1位は石油で、2位は出稼ぎしている人達からの送金である。米国にいる外国人のうち一番多いのはメキシコ人かも、という状況らしい。
3位は観光収入だと聞いて、そうだよなぁ、カンクンとか、古くはアカプルコとか、有名なリゾート地があるもんなぁと思う。これまでのツアーの感じでは、マヤ遺跡が稼いでいる雰囲気はあまりない。
石油はパイプラインで運ばれている。そのパイプに何故か蛇口がついていて、そこから石油を盗んじゃう人も多いらしい。しかし、そのパイプラインから漏れた石油に引火して街が一つ火事で失われたということもあったそうだ。その事実も怖いけど、平然と語るガイドさんもかなり怖い。
メキシコには世界各地のメーカーが入り、工場がばんばん建てられている。
2002年の小泉首相のメキシコ訪問以来、日本との貿易も活発になっていて、日本からメキシコへは工業製品が、メキシコから日本へ一番(重量的に)多い輸出品はお塩だという。意外だ。その他には、豚肉やオレンジの加工品、アボガドや南瓜などの農産物も多い。日本に入っているアボガドの90%はメキシコ産だというから、今度スーパーに行ったら産地を確認してみようと思う。
メキシコと日本の交流の始まりは1609年まで遡れる。
フィリピンからメキシコに向かっていたスペインの船が、日本の沖合で難破し、千葉県御宿町に流れ着いた。御宿の人々はその流れ着いた人々にかなり親切にしたようで、最初が気持ちのよい出会いで良かったなぁと思う。
その後、彼らは徳川秀忠、家康に謁見もしている。謁見を許されたというよりも、どちらかというと連れ回されたという感じが強い。
そして、彼らがメキシコに帰るための船は、三浦按針が建造したという。
まるで日本史の授業を受けているような気分だ。
1610年にメキシコのアカプルコに着いた船には日本人が30人乗り込んでいて、彼らが「メキシコに最初に行った日本人」になる。
彼らの帰国後、再び日本人がメキシコを訪れたのは、伊達政宗が支倉常長に行かせた天正使節団だ。1回きりの行き来で終わっていないところが何となく凄い。
というか、天正使節団はヨーロッパに行ったんじゃなかったっけ? と思って調べてみたら、どうやらヨーロッパにはメキシコ(アメリカ大陸)経由で向かったらしい。知らなかった。
この後は日本も鎖国して交流はなくなり、日本とメキシコが交流を再開したのは明治になってから、しかも自然科学の分野である。
惑星直列だか金星の何かの現象があり、それを一番観察しやすいのが日本だということで、世界各国から日本に観測するためにやってきて、その中にメキシコ人一行もいたという。これが1874年だ。
1888年に日墨修好通商条約が結ばれている。これは、日本が最初に結んだ対等の条約だというから、意外と関係は深い。
その後の日墨交流史もガイドさんが語ってくれたけれど、あまりよく覚えていないので割愛する。
日産はかなり古くからメキシコに進出していて、日産の工場があるアグアスカリエンテスには日本人学校もあるという話が面白かった。メキシコシティに来るときにお隣の席にいたお兄さんも日産の人だったからだ。
ガイドさんの強調するところでは、日本からメキシコに来る例が、メキシコから日本に行く例よりも圧倒的に多い。
メキシコシティにももちろん日本人が多いので、メキシコシティの日本料理は結構美味しいらしい。今回は賞味する機会はないけれど、覚えておこうと思う。
途中、ビジャエルモサのヒルトンホテルで我々のツアーの添乗員さんがバスを降りた。彼女はここからタクシーで空港に先行し、チェックイン等々の手続きをしておいてくれるという。
併せて、そろそろ到着ということで、下車後のアナウンスがある。ラ・ベンダ遺跡公園は、大きなバッグは持ち込み禁止という注意がある。扱いとしては博物館と同じだ。
さらに、虫除けスプレーとかクリーム状のものの持ち込みも禁止である。どうしてなんだろう。暑くて湿度の高い場所だからか、お水だけは持ち込み可だ。
パレンケを出発してから2時間弱、ガイドさん曰く「メキシコシティ以外、通勤ラッシュというようなものはありません。」という交通事情も幸いし、ラ・ベンダ遺跡公園に到着した。
いきなりのオルメカ・ヘッドのお出迎えはかなりインパクトがある。
バスを降りると意外と暑くなく、湿度も覚悟していたほどではなくてほっとする。これなら、昨日のパレンケの方が蒸し暑かったくらいだ。
私のタウン用のリュックは、ほとんど空っぽでぺしゃんこだったおかげか、特に注意を受けずに持って入ることができた。
入園してすぐのところはミニ動物園のようになっていて、檻の中にジャガーがいた。
ガイドさんには「奥の方で寝ちゃっているかも。」と言われていたので、起きて動いているのが嬉しい。しかし、微妙に太りすぎ、短足なのは気のせいだろうか。
大体、1.5km、1時間半くらい歩きますという添乗員さんの宣言とともに、ラ・ベンダ遺跡公園の見学が始まった。
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