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2014.02.27

旅行を中止する(高知)

 明日(2014年2月28日)から3泊4日で高知旅行を計画していた。
 2月28日から2泊3日で現地発着のツアーに参加し、その後1泊して高知市内を観光しようという計画である。

 しかし、27日、予定日よりも2週間早く、妹が出産となった。
 行ってしまおうかと思ったのだけれど、妹と共に我が家に滞在していた3歳の甥っ子が「お母さん」と泣くのは目に見えているし、「家族が入院している」という状況であることには間違いない。人手はあった方がいいに決まっているし、これは仕方がないと旅行をキャンセルした。

 ツアー代金のキャンセル料40%や、延泊した分の宿代のキャンセル料20%、マイレージを利用して押さえた航空券もキャンセルなので、3000マイルがキャンセル分として吹っ飛ぶ。
 結構な出費になってしまったのが痛い。

 実は、今年に入って旅行運がなく、1月末にも母と新潟旅行を計画していたところ、自分がインフルエンザに罹患してキャンセルせざるを得なかったことがあった。
 どこかでこの「厄」を落としたいものだと思っている。

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2014.02.26

延泊を手配する(高知)

 2014年2月28日から2泊3日で、四国遍路をテーマにしたツアーに参加する予定である。
 2〜3日前に届いた最終日程表を見たら、最終日の空港解散時刻が15時30分になっていた。
 パンフレット等には15時解散予定とあったので、15時15分くらいの空港バスで高知県立美術館に行き、トンボ帰りして18時25分発の飛行機で帰ってこようと思っていたのだけれど、この計画は実行不可能だ。
 しかも、3月2日の天気予報は高知も東京も雨である。

 3月3日の天気予報は晴れだし、それならば1泊延泊しようかと考えた。
 マイレージのフライトは3日前まで変更可能なので、航空便の変更は問題ない。
 高知駅近くに泊まってぎりぎり日曜市をひやかそうかとも考えたのだけれど、3日の早い内のお天気が良さそうだったので、桂浜の国民宿舎に予約を入れた。
 2日は空港での解散後に桂浜まで移動、翌朝、日の出を眺めて桂浜を散策し、牧野植物園と竹林寺、高知県立美術館を見学して15時55分発の飛行機で帰って来るという計画である。

 これで旅行計画が固まったので、荷造りを始めることにした。

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2014.02.16

中米3ヶ国旅行記5日目その1

2012年12月19日(水曜日)


 今日の出発も早い。朝食はボックスである。
 5時半にバゲージダウンだったのに、目覚まし時計をセットしそびれてしまい、ホテルのモーニングコールで目を覚ました。やはり、数時間では洗濯物は乾かなかったようだ。仕方がない。
 体調も今ひとつな感じがするし、昨日泊まったホテルに忘れ物もしてしまったし、どうも連日の早起きと暑さと長距離移動に疲れが出てきているようだ。


朝焼け バスは6時にホテルを出発した。
 出発してすぐ、車窓から朝焼けが見えた。綺麗だ。
 ガイドさんによると、今日は、グアテマラシティからリオ・オンドという町まで3時間、リオ・オンドから国境まで1時間、約240kmのバス移動である。相変わらず、長い陸路移動だ。長いよと思っていたら、明日はその倍の530kmを移動すると聞いてくらくらした。
 しかし、早起きの甲斐あって、あと1時間もすると大渋滞になるという地区もスムーズに抜けることができた。


20121219_061443 崖にたくさんの家が密集している様子がインセント橋の上から見えた。インセントという名前は、霧が多く発生するところから来ているという。
 この辺りは、1976年に大地震があり、地方も壊滅状態になった際、「首都へ行けば仕事があるのではないか」と出てきた人々が建てた場所だという。
 ガイドさんが「電気は来ているようだ」と言っていたから、ライフラインも不十分な地域だと思う。


 バスは旧市街を抜けて行く。昨晩泊まったホテルはグアテマラシティの新市街というよりも、さらにその外、「近郊」という場所で、元々はたくさんのマウント(つまりは、遺跡)があった場所を全部平らにし、そして開発した場所だという。
 何て勿体ない! と思う。


鉄道の跡 どう考えてもこの上を電車が走るとは考えられない華奢さ加減だけれど、これは鉄道の跡である。
 もちろん、もうずーっと使われていない。
 2000年頃、米国人が既に廃線になったこの鉄道を観光列車に仕立てようとしたことがあり、ガイドさんの友人もその招待列車に乗ったところ「もう絶対に乗りたくない」というくらい怖かったらしい。そりゃそうだろうと思う。
 結局、この鉄橋も含め、線路沿いに既に多くの家々が建っていて危険だということでその計画は中止になっている。


 ガイドさんが資料を回してくれて、グアテマラ基礎知識講座が始まった。
 グアテマラの国旗は、外側の水色部分が大西洋と太平洋、真ん中の白い部分は平和を表している。その平和の白い部分の中央に銃が描かれているところが不可解といえば不可解だ。これは、独立のためには戦争も辞さないという決意表明であり、加えて平和の象徴であるオリーブの葉と自由の象徴であるケツァルという鳥が描かれている。
 様々な意味が込められた国旗だ。
 ケツァルは国鳥でもあって、何故自由の象徴とされているかというと、飼うことができないからだ。飼うと死んでしまうという。


 道路には「**km」という表示がずっと出ている。これは、グアテマラシティの国家宮殿にある賓客用のお部屋にある国旗形の碑からの距離を表しているという。何というか、芸の細かい話である。
 今日は、この標識が83kmの地点コバンに向かい、136km地点でコパンに向かう道に入る。
 ・・・という説明を受けたのが18km地点のことだ。先の長い話である。


 グアテマラは、日本の四国と九州を合わせたくらいの国土を持つ小さな国である。
 人口は1476万人、その人口の多くは中央高原地帯(標高1500mくらい)といわれるグアテマラシティやアンティグアなどの都市がある地域に集まっている。ティカルがある地域はもの凄く蒸し暑いので、やはり、過ごしやすい地域に集中しているのだろう。
 グアテマラには重工業がなく、失業率も高い。統計的な数字では4.1%、ガイドさんの体感ではもっとずっと高いという。
 重工業がないグアテマラの主要な輸出品はコーヒーだ。その他、カルダモン、バナナ、砂糖など農産物がほとんどである。
 コーヒー輸出の3倍くらいの外貨を観光で稼いでいるというから、メキシコよりも、観光への依存度が高い。出稼ぎの人の送金も多いのは、メキシコと同じである。


黒曜石採掘黒曜石


 こういった説明を受けている途中、バスが停まった。
 ガイドさんが、ここで黒曜石が採れると言う。壁は危ないので触らないでくださいという注意があり、少しだけなら拾っていいですよと言われてバスを降りた。
 大きいのを探している人が多い中、持ち帰るのも大変だし荷物もすでにかなり重くなっているしとなるべく黒の濃い小さいものを探した。
 5分ほどの採取時間で、結構みなさん収穫を得ていたようだ。
 ガイドさんから「絶対にスーツケースにしまってくださいね。前にバッグに入れていて、空港で取られてしまったお客様がいらっしゃいますから。」という注意があった。
 カミナルフユ遺跡でもよくよく見ると落ちていることがあるというから、最終日に行ったときに探してみようと思う。


朝食 ガイドさんがマリンバのCDをかけてくれた。
 お腹も空いてきたので、7時過ぎ、朝食をいただく。
 国は違えど、朝食用お弁当の中味は全く変わらない。ハムとチーズのサンドイッチにオレンジジュース、そしてりんごとバナナが付く。
 何となく調子がよくなかったので、バナナとオレンジジュースだけにする。とにかく食べていれば何とかなると思っている私にしては珍しいことである。


護衛のパトカー 7時半くらいに、最初のトイレ休憩があった。正確にいうと、最初に停まったガソリンスタンドのお手洗いは壊れていたので、別のガソリンスタンドに停まり直した。
 このツアーでは、我々一行をパトカーがずっと護衛してくれている。


 添乗員さんによると、旅行社経由で何かをどうにかして、グアテマラでは毎回、警察の護衛を頼んでいるという。それなら安心と考えるか、そんなに危険なのかと思うか、微妙なところだ。
 添乗員さんは「襲われるようなことはまずありません。」と言うし、そんなことがそうそうあっては困る。「交通整理もしてもらえますしね。」というノリだし、実際、私など腕を組んで記念写真を撮ってもらったし、それほど緊張感に溢れている訳でもないと言えると思う。


 再びバスが走り始めたところで、ガイドさんがカカオの豆を配ってくれた。
 少しだけ囓ってみると、苦い。そして、ほんの少し、チョコレートの香りがする。カカオ豆を囓ったのなんて生まれて初めてだ。
 この豆は、ガイドさんがアンティグア郊外にあるチョコレート工場に行って買い求めたものだという。市場で売っているときもある、らしい。
 カフェなどでホットチョコレートを飲むと、とんでもなく甘いという。きっとグアテマラの人は超絶な甘党なんだろう。


村境 ガイドさんが「道ばたを見てください。ごみがたくさん捨ててあるでしょう。」と言うので目を懲らすと、確かに道路脇にごみが点々と捨ててある。
 何かと思ったら、ごみがある場所は「村境」だそうだ。それぞれ、村の人々が自分達の居住場所から一番遠いところに捨てた結果、村境にゴミが集まるという。
 ガイドさんは「最近は少なくなりましたけどね。」とこともなげに言う。
 アンティグアなどではごみ収集も行われているけれど、焼却場がある訳ではなく、ごみは全部山に埋められているそうだ。


川 その後、州都(名前は忘れてしまった)などを通り過ぎ、マヤの時代から流れ通商に使われていたというモダグワ川を渡り、北に向かっていたアトランティック街道を9時くらいに右折して、バスは東に向けて走り始めた。
 この道筋は、グアテマラがスペインから独立した後、イギリス人たちが自由にグアテマラ国内を旅できるようになったときに通った道である。
 パレンケ遺跡でも名前の挙がったイギリス人外交官のキャサウッドなどは、ほとんどマヤ遺跡を探ねるためだけに外交官になったというから、割と極端な人だ。
 そのキャサウッドたちと今ほとんど同じ行程を辿っている。他に道を作りやすい場所がなかったんじゃないかという気がする。


 マヤ遺跡がテーマの我々ツアーでは立ち寄らないけれど、この道筋の近くには、黒いキリスト像があるエスキプーラスという町がある。
 グアテマラだけでなく、中米各国から巡礼に来る人がいるくらい、有名な像だ。
 「黒い」のは元々黒い木に彫った訳ではなく、長い間蝋燭の炎で燻されたり、信者の方々が触ったりした結果として黒くなったというから、どれだけ信仰を集めているか判ろうというものだ。


 10時過ぎにもう1回トイレ休憩が入った。
 「売店で何か買ってくださいね」と案内があり、迷った挙げ句、ハーシーのチョコレートを買った。2ドル出したら、お釣りが5ケツァルきた。1ケツァルが11円くらいだから、150円だ。輸入品だからか、決して安くはない。
 グアテマラのお札にはマヤ文字でもいくらかということが書かれている。ガイドさんによると、特にスペイン人との混血の人々にとっては全く興味もないことであるらしい。「やはり差別が残っているんですね。」とおっしゃる。
 添乗員さんがフライドバナナのスナック菓子を買って配ってくれた。甘しょっぱくて美味しい。そういうグアテマラっぽいものを買うべきだった! と思う。


 トイレ休憩を2回挟んで5時間近く走り、10時45分にグアテマラとホンジュラスとの国境に到着した。ガイドさんの目算よりももうちょっと余計に時間がかかっている。
 ガイドさんが入国手続きに行ってくれる。「ホンジュラスの入国スタンプが欲しい人はパスポートを出してください。」と言う。欲しくなければ(もちろん、この国境にすぐに戻って来るのであればという条件の下での話だ)、別に出入国のスタンプは必要ないし押していないらしい。
 ツアーメンバーはもちろん、全員がパスポートを差し出した。
 この国境は、踏切のようなゲートのみ、あとは手続きをする小さな建物があるきりで非常に地味である。


ホンジュラスの道筋 ホンジュラスに入ると、少し道が良くなったような気がした。グアテマラ国内を走っているときよりも揺れが少ない。
 そう言ってみたら、ガイドさんは「でも、グアテマラ側の道もアスファルトになって随分と楽になったんですよ。」と言っていた。
 ホンジュラスに入ってバスはスピードアップし、30分ほどでコパンの街に到着した。
 お昼ごはんの前に、今日の夜か明日の朝開館予定の博物館を特別に見学させてもらえるという。バスを降りて、コパンの街を歩き始めた。


 中米3ヶ国旅行記4日目その3 <- -> 中米3ヶ国旅行記5日目その2

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2014.02.13

旅行の足を手配する(高知)

 2014年2月28日から始まる2泊3日のツアーは現地発着なので、高知空港までの足は自分で確保しなければならない。

 仮予約を申し込んだ次の日(2014年2月7日)が出発21日前で、特割21の締切でもあった。
 しかし、旅行社からの返事で、特割21より安く航空券を手配できると書いてあったので、行きは旅行社に手配を頼み、帰りは、ANAのマイレージを使うかどうか、検討することにした。
 マイレージも往復で手配した方がはるかにお得なのは承知の上なのだけれど、そのために5時起きして、高知空港で2時間半も待ちぼうけは避けたかったのだ。

 ANAマイレージのサイトで確認したところ、18時25分発はすでになく、15時55分発の便しか押さえられない。
 15時に高知空港解散予定なので、15時55分発でも間に合うか、せっかくだから延泊すれば航空便は何時でも押さえられそうだからそうするか迷う。
 とにかく、15時55分発の便で間に合うかどうか、旅行社に問い合わせを投げたら、8日(土)は営業日である筈なのに返事が来ない。
 ついでに、旅行社に行きの航空券を手配するよう依頼したのだけれど、それが押さえられたかどうかの返事も来ないのが不安である。

 それなのに、10日には申込書と請求書が届き、航空券の手配の状況次第ではキャンセルしようかと思っていたら、12日になってやっと旅行社から返事が届いた。
 曰く、行きの航空券は押さえた、15時55分発で通常は間に合うと思われるがお勧めできない。旅行社としては、事前に推奨したそれ以降の便には間に合うようにするが15時55分発に間に合うように高知空港に到着できるかどうか保証しかねる、という内容だ。

 再度、ANAマイレージのサイトを見たら、18時25分発の便に1席だけ空席があったのでそこを押さえた。
 旅行社の対応に若干の不安と不満はあるのだけれど、結果オーライである。

 これで、行き帰りの足が確保できたので、13日に旅行代金を振り込み、申込書を郵送した。

 帰りは、空港で3時間以上の待ち時間があることになったので、できれば、高知県立美術館に行って、シャガールを見て来たいと思っている。しかし、ミレーをテーマにしたボストン美術館展も開催されていて、そちらも見たいし、どうしようかと迷っているところだ。

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2014.02.12

560000アクセス達成!

 一昨日(2014年2月10日)、どなたかが560000アクセス目を踏んでくださっていた。
 5ヶ月ぶりに、1ヶ月かからずに10000アクセスをいただいた。有り難い。
 スパリゾートハワイアンズの旅行記や、オーロラを見に行ったときの持ち物リストへのアクセスが多いようだ。
 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日
400000アクセス 2012年9月3日
450000アクセス 2013年2月19日
500000アクセス 2013年8月14日

510000アクセス 2013年9月7日
520000アクセス 2013年10月3日
530000アクセス 2013年11月4日
540000アクセス 2013年12月12日
550000アクセス 2014年1月14日

560000アクセス 2014年2月10日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014.02.11

中米3ヶ国旅行記4日目その3

2012年12月18日(火曜日)


 ラ・ベンダ遺跡公園でも添乗員さん同士が電話でやりとりをしており、どうしたのかなと思っていたら、バスに戻ったところでメキシコシティが濃霧に覆われたためフライトキャンセルが相次ぎ、フライトスケジュールも滅茶苦茶になっているという説明があった。
 元々は13時47分発アエロメヒコ506便でメキシコシティに向かう予定が、遅れまくっているので、その1本前の便に振り替えるという。
 ツアーの人数が少ないからこその荒技だ。


 11時にラ・ベンダ遺跡公園を出発し、11時15分には空港に到着してチェックイン開始である。
 チェックインカウンターで測った私のスーツケースの重量が19.2kgで、やはり瓶ものを買いまくったせいだろうと反省する。この先、お買い物をする機会がそうあるとは思えないものの、自粛しようと心に決めた。
 チェックインしたら、何故かボーディングパスを交換された。色々と混乱しているだろう現場で、振替の詳細を知らないまま、そういうことをされると焦る。
 不安になって添乗員さんに訴えたところ、「今まとめて確認します!」と言われ、問題ないということが判明した。合わせて、グアテマラシティの空港では荷物タグのチェックをするので絶対に失くさなように注意を受ける。


 セキュリティチェックを抜け、朝もらったランチボックスでお昼ごはんである。
 うっかり写真を撮るのを忘れてしまったけれど、これまでとそう変わり映えする内容ではない。ハムとチーズのサンドイッチ、ゆで卵、炭酸のアップルジュース、バナナ、デニッシュ、ヨーグルトというメニューだ。
 このうち、ジュースとヨーグルトはセキュリティを抜けられなかったような気がする。あるいは「抜けられないかも」と、先に食べてしまったのだったろうか。覚えていない。
 デザート代わりに、添乗員さんがチリをまぶしたドライチェリーを配ってくれた。後でピリッと来るものの、辛いものが苦手な私でも大丈夫なレベルの辛さである。珍しいし、これで個包装してあったら職場で配りやすいのにと贅沢なことを考える。


 12時発のアエロメヒコ502便に振り替えた筈が、ボーディングパス記載通りの12時55分搭乗開始という表示が出て、結局、飛行機は13時30分過ぎにやっと動き出した。
 乗ってみたら、私の席はEXIT SEATで足もとが広く、ラッキーである。もっとも、バッグを前の座席の下に入れるなと怒られたので、それは不便だ。
 それにしても、わざわざ私を狙ってEXIT SEATに切り替えた理由は今もって謎である。
 スチュワーデスさんにスペイン語が話せるかと聞かれたのでもちろんNoと答え、英語で非常扉の開け方を説明してもらう。とりあえず、ふんふんと頷いて判った振りをしたけれど、いざというときに非常扉を開けられた自信はない。


メキシコシティ上空 メキシコシティの空港は今回を入れて3回乗り継ぎをする。それなのに、今回のツアーにメキシコシティ市内観光は含まれていない。
 せめて上空から確認できそうな、ルイス・バラガンが手がけたというラス・トーレス・デ・サテリテが見られないものかと今回も目を皿のようにして見たけれど、残念ながら発見することはできなかった。
 ガイドさんも言っていたとおり、メキシコシティのスモッグというか排気ガスによる大気汚染はかなり強烈のようだ。
 この写真のときだって、空は晴れ渡っていたのである。


 15時にメキシコシティ国際空港に到着した。ここでグアテマラシティに向かうアエロメヒコ678便に乗り換える。
 元々は、16時22分発予定だったけれど、もちろん濃霧の影響は国際線にも出ており、私たちがメキシコシティ国際空港に到着した時点では、確か離陸予定は不明だったと思う。
 70便近くが押し合いへし合いしていたらしく、アエロメヒコのカウンターのお姉さんも「判らないのよねー」という風情だ。


黒ビール とにかく長い待ち時間があることは確かなので、10日間ツアーの面々は再びアエロメヒコのラウンジに行った。
 飲みそびれていた黒ビール、NEGRO MODEROがあったので、早速いただく。
 ラウンジで座ってお酒を飲んでいるばかりでも退屈なので、暇に任せて売店を覗いていると、パレンケ遺跡で話題に上がった「中米・チアパス・ユカタンの旅」が画集っぽい体裁で売られているのを発見した。
 英語版である。
 重いし、英語なんて読まないし、私は最初から買う気はなかったけれど、ツアーの方が「私も英語なんて読まないけれど、絵を見るだけでも楽しいわ。」と購入した。
 確かにカラーの図版が綺麗で豊富に入っている。


 パレンケの王位継承のレリーフがカラーで載っていたり、宮殿にあった捕虜のレリーフが森に呑み込まれそうになって描かれていたり、なかなか見ごたえがある。
 太陽の神殿のレリーフもカラーで描かれていて、両脇のマヤ文字部分にも彩色が施されていることが判る。この状態で私も見たかったなぁと思う。
 パレンケだけでなく、これから行くコパンの絵もあって楽しい。
 しかし、本当にナナメ読みに本文を読んでみたら、「ガールフレンドができて」みたいなことが書かれていて、別に歴史的考察が書かれている訳じゃないんだなと可笑しかった。


 何度もフライト予定の表示が変わり、しかも、最後には国際線なのにドメスティックのゲートが指定されて、19時15分、やっとゲートオープンとなった。
 この時点で、19時22分離陸は無理である。


 飛行機に乗り込んでビジネスクラスを通り抜けるとき、グリーンの地に花柄の細かい刺繍をしたとても綺麗なウィピルを着ている女性がいた。
 思わず、数少ない知っているスペイン語である「ボニート!」と言ったら、にっこり笑って「グラッシャス」と言ってくれたその女性は、グアテマラで初めてノーベル賞(平和賞)を受賞した、人権活動家であり実業家でもあるリゴベルタ・メンチュウ・トゥム氏だったそうだ。
 添乗員さんにそう聞かされて、もう大びっくりだった。握手して貰えば良かった! と悔しい。


 19時40分に離陸したアエロメヒコ678便は、21時20分にグアテマラシティに到着した。
 グアテマラのガイドさんも長時間待ちぼうけで大変だったろうと思う。
 そういえば、グアテマラでは2台目以降のカメラには税金がかかるという話だったけれど、特にチェックを行っている様子はなかった。
 無事に荷物のピックアップもできて、混乱しているメキシコシティ国際空港で乗り継いだ割にロストバゲージもなかったのが有り難い。


夕食 空港からホテルまでは近く、22時前にホテルに到着できた。
 お部屋に入る前にホテルのレストランに直行して夕食だ。この時刻の夕食というのもなかなか厳しい。機内食で出たサンドイッチとポテトチップを全部平らげてしまったので尚さらである。しかし、それなら何も食べなくて大丈夫かと聞かれると、夜中にお腹が空きそうな気がする。
 夕食は、トマトとモツァレラチーズのサラダ、鱸のオーブン焼き、ティラミス、コーヒーというメニューである。もう夕食をいただいたら寝るだけだし、白ワイン(6ドル)をいただく。
 流石にこの時刻に全部食べるのもどうかと思い、半分くらいずつをいただいた。


 グアテマラの貨幣単位はケツァルだけれど、今回のツアーで行く範囲ではドルで用は足りるでしょうという。
 1ドルが大体7.5ケツァルだから、1ケツァルが11〜12円くらいだ。
 添乗員さんから「グアテマラの郵便事情が悪くなっている」という話は聞いていたけれど、グアテマラ在住のガイドさんは「グアテマラでは現在、切手を印刷していません。」と言う。切手の代わりに、ちょうど日本の料金別納郵便のようなスタンプが使われているらしい。そうなると、オフィスアワーに郵便局に行かなければ手紙は出せないことになる。


ホテルの吹き抜け そんなお話も聞きつつ食事が終了し、お部屋のカードキーをもらって移動した。
 ところが、このカードキーが全く反応しない。この手のものと相性が悪いことが多いので、何度も何度も試してみたけれど、やっぱり反応しない。
 ちょうど吹き抜けから添乗員さんの姿が見えたので、エレベータで移動して窮状を訴える。添乗員さんも試してくれたけれどやっぱりカードキーは反応せず、「これってよく壊れるんですよ。」ということで、フロントでカードキーを作り直してもらった。


お部屋 そんなこんなで、お部屋に入れたのは23時を過ぎていた。
 しかし、このツアー中、恐らくバスタブがあるのはこのホテルが最初で最後である(最終日にもう一度泊まることになっている)。
 折角なので、お風呂に入り、洗濯もし(これは大失敗で、当然のことながら、早朝出発の翌朝までに乾かなかった)、日付の変わった0時30分頃に就寝した。


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2014.02.09

中米3ヶ国旅行記4日目その2

2012年12月18日(火曜日)


創設者の銅像 9時半、ラ・ベンダ遺跡公園に入場した。
 銅像も飾られているカルロス・ベジセル・カマラ氏の提唱により、ラ・ベンダ(これは地名である)で石油開発の際に壊されそうになったオルメカ文明の石造物をこの場所に移し、ラ・ベンダ遺跡公園として整備されたという由来を持つ。
 この公園にはオルメカに特徴的な動植物も集められ、木々の間に配置された石造物を遊歩道に沿って歩きながら見学することができる。ミニ動物園の檻にはジャガーがいるし、遊歩道からはカカオの木も見かけたし、鳥や動物の声が響いていて気持ちのよい場所である。


 オルメカ文明は、紀元前1250年から紀元後という長い期間に栄えた文明で、メキシコ最古の文明と考えられている。オルメカ文明はその後の文明に大きな影響を与えており、そこから「母なる文明」とも言われている。
 中でも有名なのが、入口にもあったオルメカ・ヘッドである。
 私は実は、ラ・ベンダ遺跡公園にはこのオルメカ・ヘッドがごろごろとたくさんあると思い込んでいたので、なかなか現れなくて???と思ってしまった。


 解説書などでおばあさんとされている像は、何だか不思議なフォルムである。
 果たして何なのかは正直判らないというところらしい。言われてみれば、縁側でお茶を飲んでいるおばあちゃんの風情ではある。
 顔の表情というか作りは、オルメカの特徴を表していて、動物と人間の中間を追求したような造形である。そんなもんかなぁと思う私は、あまり美的センスに恵まれていないと言えよう。


ハナグマ 遊歩道を歩いている途中、森の中にたくさんのハナグマを見かけた。
 ここに住んでいる野生のハナグマで、食べ物にする虫を探しているところだったらしい。可愛らしい容姿をして、肉食動物なのだ。
 人間を怖がるような様子は全くなく、私たちが歩いていても平気で遊歩道に飛び出して来て、追いかけっこをしたり、喧嘩したりしている。ツアーメンバーのおじさま方は「やってしまえ!」と大喜びだ。
 さらに、添乗員さんの足を障害物代わりにしているのを見たときには笑ってしまった。
 なかなか可愛い。


墓所墓所の内側 墓所と言われている場所の、中に入っているのは棺だろうか。単なるテーブルのようにも見える。
 この不安定な石組みがそのまま(土中に埋められていたとはいえ)残っていたとすると凄いことである。
 柱は玄武岩でできており、内部には、翡翠などの副葬品が多数納められていたという。相当の身分の人のお墓であることは間違いないだろう。


年老いた戦士若い戦士 入口にあったものを除くと、この左側の大きな頭が、ラ・ベンダ遺跡公園で最初に出会ったオルメカ・ヘッドである。
 左が「若い戦士」、右が「年老いた戦士」と称されている。その若さをどこで見分けているのかよく判らない。大体、「若い戦士」の方はほとんど表情も判らないくらい造作が崩れてしまっている。


 コンセプトは素晴らしいけれど、こうした展示方法では展示物は雨ざらしだし、雨季にかなり雨が降る気候らしいので、どんどん崩れてしまうだろうなと思う。勿体ない気もするし、しかし、ここで例えばオルメカヘッドに屋根がついていたら興ざめかも知れないとも思う。
 よく見ると(この写真では判りにくいかも知れない)、私の指がちょうど突っ込めそうな穴がたくさん空いていて、これも雨のせいか? と思ったらそうではなく、人工的に穴を空けてその像の持つ力を失わせようという意思が働いた結果だという。


 年老いた戦士の顔だと判りやすいように、オルメカ・ヘッドは額にバンドを着けている。
 マヤの時代になると、こうした頭像がたくさん出てきていて、そのルーツかも知れないという話だ。
 オルメカの顔は、団子鼻が特徴だそうだ。ハンサムとは言えないと思う。
 オルメカ・ヘッドを作った玄武岩は、ラ・ベンダから結構離れたところの産で、一体、何のために「トン」のレベルの岩を遠路はるばる運んでこんな大きな頭を作らなければなかったのか、本当に謎である。


子供の祭壇子供の祭壇


 穴から上半身を出した人が子供を抱えていることから、「子供の祭壇」と呼ばれている。単純なネーミングである。
 この子供がジャガー人間だとも言われているらしい。こうもデコボコが丸くなっていると、正直に言うと、子供かどうかすら微妙、という感じだ。
 そして、側面の彫刻から推理して、この子供は生け贄ではないかとも言われている。
 そういう話を聞いてしまうと、例えば雨降りの暗い日に一人でここを歩いているときにこの祭壇がぬーっと現れたら怖かっただろうなと思う。


支配者 次に登場した支配者の像は、割と珍しいことではないかと思うけれど、しっかり後ろ側にも彫刻がされていた。
 支配者と言われているだけのことがあって、このマントも裏側なのに、立派な彫刻が施されている。
 正直言って、真正面から見るよりも、後ろから見る方が立派だ。


 この順路の途中にジャガーの檻を配置しているのは、ジャガーは、オルメカ文明当時、中南米で最強の存在だったため、その力を宿そうと信仰を集めていたということのアピール、なのかも知れない。
 ジャガーはマヤ語で「バラム」というと教えてもらった。


サメ この角度が一番サメらしく見えると思う。ガイドブックには「イルカ」とあったけれど、先生は終始一貫「サメ」で説明していた。
 この像は、上から見ると線で何やら模様が彫られていて、その模様も興味深い。
 他の展示物とは石の色が違っていることも気になる。これだけ時代が違うのか、石の産地が違うのか、魚らしく見えるようにこの色の石を探したのか、そもそも本当は「サメ」なのか「イルカ」なのか。色々と気になる像である。


空を見上げる猿 このやけにキャッチーな像は、「空を見上げる猿」だ。同じポーズで写真を撮る人が続出した。
 ところで、これは何なんだろう。
 何故空を見上げているのか、そもそも猿なのか、もしかして人間なのか、思索している姿なら人間の可能性の方が高いよなぁと色々なことを考えた。


 「空を見上げる猿」の近くにため池があり、鰐と亀がいた。
 鰐と亀もオルメカ縁の動物なのか、それとも、たまたま棲み着いていたのか、どちらなのかは不明である。聞いてみれば良かった。


子供のジャガー やけに頭でっかちの像は「ジャガー」だと主張していたけれど、どうにもジャガーに見えないということで、ツアーの皆の意見が一致する。
 大体、頭が丸すぎるし、ポーズが可愛らし過ぎる。ジャガーというよりは猫みたいだ。だから「子供の」とわざわざ特定しているんだろうか。


 どちらかというと、この後に現れた、「曲芸師」という像の方が禍々しかった。
 頭が大きくてその下で腕を組み、足は頭の上に上げているというとんでもないポーズで、顔が崩れてきていることもあって、オバケっぽいフォルムだ。


勝利者の祭壇 ラ・ベンダ遺跡公園の代表的な展示物として紹介されることの多い、勝利者の祭壇である。
 これも赤っぽく見えるけれど、朱がかけてあったんだろうか。
 穴から出てきている人の頭の上にジャガーの顔が彫られており、その人は縄を掴んでいる。縄はそのまま祭壇の横に回り込み、さらにその縄を支えている人がいる。


 先ほどの「子供の祭壇」のときにも思ったけれど、「穴から人が上半身を出している」というフォルムがそもそも怖い。
 洞窟は死の国に直結すると考えられていたそうで、この穴はその洞窟を表しているともいえるらしい。穴というのは「その奥に何があるか」が判らないことが恐怖を誘うのかも知れない。


 この次にあったモザイクが修理中だったのが惜しい。
 やはり雨ざらしでは補修が必須ということだろう。


オルメカ・ヘッド 久々に登場したオルメカヘッドは、戦士1である。
 ラ・ベンダで見つかったオルメカ・ヘッドの中で一番大きく、高さは2.41mだという。
 ここでも、再び、写真撮影大会が開催された。私も撮ってもらう。本当はすぐ横に立って大きさを強調したいところだけれど、周りに低いながらも柵が作ってあって「入るべからず」という雰囲気を存分に醸し出しているので仕方がない。


若い女神 「若い女神」まで、修理中のものも含めると全33品の展示物を全て見学した。
 この女神も、女の人には見えるけれど、「若い」かどうかは謎な感じである。はっきりしないなら、わざわざ「若い」なんて付けなくてもいいと思うけれど、発見された当時は「若い」ことを特徴付ける何かが残っていたということなのか。
 お天気は良かったけれど木々の間から木洩れ日が落ちるという感じだったし、何より平らな道筋で、思ったよりも快適に巡ることができた。


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2014.02.08

中米3ヶ国旅行記4日目その1

2012年12月18日(火曜日)


 6時のモーニングコール前には目が覚めたものの、それにしても昨日一昨日とは違う熟睡さ加減で、マッサージ様様だ。
 モーニングコールの際、「グアテマラシティは高度があるので涼しいし、アエロメヒコもキンキンに冷やしていることが多いので、手荷物に羽織るものを入れておいてくださいね。」と注意があった。
 今日はラ・ベンダ遺跡公園を見学後、そのままメキシコシティ経由でグアテマラシティまで飛行機移動の予定だ。


朝食 6時半過ぎに、昨夜の夕食をいただいたレストランへ向かった。
 今回のツアーで初めての「ホテルでの朝食」である。嬉しくなって、色々と取ってきてしまい、お腹がいっぱいになった。
 7時15分にバゲージダウン、7時半に出発だ。出発前に、ホテルのフロントで絵はがきを出してもらえるようお願いした。
 ホテルでの朝食も初めてなら、日の出後の出発も初めてだ。朝はどうやらお天気が良くないのがデフォルトらしい。


 バスの中で、これまでの復習という感じで先生のお話があった。
 カラクムルの場合、カレンダーラウンドで王名表を刻んだ壺が11くらいあると言われている。壺の記載が一貫していなかったり、壺の記載と碑文との間で矛盾があったりもしていて、カラクムルの完全な王朝史はまだ確立されていない。
 しかも、カレンダーラウンドは52年ごとに同じ日付が出るので、なかなか特定するのが難しい。
 また、カラクムルのステラは非常に劣化が激しいので、カラクムルの歴史は、周辺の国で見つかったカラクムルに関する記載から推定されつつあるのが実際のところだ。


 一方のパレンケでは、碑文が漆喰のレリーフとしてかなり残されていて、その歴史は431年のクック・バラム王から始まったと言われている。パレンケの王名表にはもっと前の歴史が刻まれているけれど、その部分はいわば神話であったと考えられている。
 日本書紀と同じようなものだろうと理解した。
 十字グループの南の区画にある神殿20の内部から大きなお墓が見つかっており、そのお墓がクック・バラムのものではないかと唱えている学者もいる。今後、この新発見がさらに研究され、発表されるだろうから要注目である。


 カラクムルとパレンケは敵同士で、カラクムルがパレンケを攻撃してパレンケの王朝を断絶させたと言われている。その結果、パレンケではパカル王やその息子であるカン・バラム2世など、本来は王に即けなかった人々が王として君臨することになったので、その王位の正統性を示すために「神話」が利用されたのだろうという。


 カラクムル側には「パレンケと戦った」とか「パレンケに勝った」という記載は残っていない。少なくとも発見されていない。
 逆にパレンケの方に「負けた」という記載が2回出てくる。マヤの場合、普通は「負けた」ことは記録に残さない。その後に大勝利を遂げた場合などは演出として「負けた」ということを書く場合もある。
 カラクムルに負けたことは、その後に大逆転するパカル王の栄光を飾るためのエピソードとして書き残したようだ。


 カラクムルとパレンケは遠い。一昨日と昨日と、チカナ経由とはいえ2日に分けて移動した私たちにはよく判る。しかも、当然のことながら、当時は道も(多分)ないし、自動車などは絶対にない。馬などもいなかったから歩いて移動するしかなかった筈だ。
 しかも、手ぶらで行っても戦いなどできないし、食べ物も運ばなくてはならない。
 欧米の研究者は、「碑文に書いてあるんだからどうにかしてそうしたんだろ」と割とアバウトらしいけれど、先生たち日本の研究者は、「どうやって移動したんだ」とか「どうやって食料を調達したんだ」ということを気にする。


 ユカタン事物記という16世紀にランダというスペイン人宣教師が書いた本に、戦争について詳細が書かれていて、「戦いが長期間にわたることはなかった」、「村々から徴兵が行われた」、「食料は村の女性たちが担いで運んだ」等という記述があり、それが8世紀頃のマヤの戦争の様子と同じとは考えられないけれど、しかし、推定する手がかりにはなる。
 そうして推定すると、恐らくはゲリラ戦のような戦いが行われていたのではないかと考えられる。
 こうなってくると、もう「物語」の世界だなぁと思う。つまるところ、「証拠」が残っていない「仮説」の域を出ていない状況ということだ。


 仮説の中でどの仮説の蓋然性が一番高いかという話になると、やはり、碑文を研究している人々の発言力が強い。考古学的手法ではなかなか判らないこと、特定できないことが、碑文には「書かれて」いる訳だから、それはそうだろうなという気がする。
 明日行くコパンはパレンケと関係の深い国で、コパンに残る碑文に「自分の母はパレンケ王家の出身である」と書かれており、さらに、パレンケの女性が身につけていた装身具がコパンに近いホンジュラス国内で発掘されている。
 しかし碑文には嘘を書くこともできる訳で、碑文の内容と考古学的発見とが相互に補い合っていると「これは事実だろう」という蓋然性がさらに高くなる。


 このツアーのテーマにもなっているように、12月21日にマヤ長期暦が完了する。
 ネットニュースでも結構取り上げられるようになっていて、学者が「預言的内容がマヤ暦に刻まれた事実は一切ない」と言っても、「世界が終わる」などという噂が収まる気配はない。
 私は知らなかったけれど、マヤ暦完了に合わせて惑星が地球に衝突して世界が滅亡するという説まで出ているそうだ。遂に米政府が噂を否定する事態になったというから、笑い話にもなっていない。
 5000年に一度のマヤの歴史的な日であることは間違いないけれど、しかし、「それだけだ」ということはなかなか理解されにくいらしい。


ビジャエルモサへ ここでガイドさんにバトンタッチされた。
 今向かっているビジャエルモサは、「美しい村」という意味である。現在は、タバスコ州の州都だ。
 メキシコは石油産出量が世界7位で、しかし、産出する石油は全て国のものとなり、それを輸出して「国の収入」を得ている。メキシコでは、税金を払う人がほっとんどいないので、そういう形で国の収入を確保している訳だ。(その他にも色々と歴史的経緯があるようだけれど、割愛する。)
 税金を払う人がほとんどいないのは、いわゆる屋台などの裏のお仕事で稼いでいる人が多いためらしい。ついでに、お金持ちの人から税金を徴収するという仕組み(例えば、資産税や相続税など)もない。


 メキシコの外貨獲得手段の1位は石油で、2位は出稼ぎしている人達からの送金である。米国にいる外国人のうち一番多いのはメキシコ人かも、という状況らしい。
 3位は観光収入だと聞いて、そうだよなぁ、カンクンとか、古くはアカプルコとか、有名なリゾート地があるもんなぁと思う。これまでのツアーの感じでは、マヤ遺跡が稼いでいる雰囲気はあまりない。
 石油はパイプラインで運ばれている。そのパイプに何故か蛇口がついていて、そこから石油を盗んじゃう人も多いらしい。しかし、そのパイプラインから漏れた石油に引火して街が一つ火事で失われたということもあったそうだ。その事実も怖いけど、平然と語るガイドさんもかなり怖い。


ビジャエルモサ メキシコには世界各地のメーカーが入り、工場がばんばん建てられている。
 2002年の小泉首相のメキシコ訪問以来、日本との貿易も活発になっていて、日本からメキシコへは工業製品が、メキシコから日本へ一番(重量的に)多い輸出品はお塩だという。意外だ。その他には、豚肉やオレンジの加工品、アボガドや南瓜などの農産物も多い。日本に入っているアボガドの90%はメキシコ産だというから、今度スーパーに行ったら産地を確認してみようと思う。


 メキシコと日本の交流の始まりは1609年まで遡れる。
 フィリピンからメキシコに向かっていたスペインの船が、日本の沖合で難破し、千葉県御宿町に流れ着いた。御宿の人々はその流れ着いた人々にかなり親切にしたようで、最初が気持ちのよい出会いで良かったなぁと思う。
 その後、彼らは徳川秀忠、家康に謁見もしている。謁見を許されたというよりも、どちらかというと連れ回されたという感じが強い。
 そして、彼らがメキシコに帰るための船は、三浦按針が建造したという。
 まるで日本史の授業を受けているような気分だ。


 1610年にメキシコのアカプルコに着いた船には日本人が30人乗り込んでいて、彼らが「メキシコに最初に行った日本人」になる。
 彼らの帰国後、再び日本人がメキシコを訪れたのは、伊達政宗が支倉常長に行かせた天正使節団だ。1回きりの行き来で終わっていないところが何となく凄い。
 というか、天正使節団はヨーロッパに行ったんじゃなかったっけ? と思って調べてみたら、どうやらヨーロッパにはメキシコ(アメリカ大陸)経由で向かったらしい。知らなかった。


 この後は日本も鎖国して交流はなくなり、日本とメキシコが交流を再開したのは明治になってから、しかも自然科学の分野である。
 惑星直列だか金星の何かの現象があり、それを一番観察しやすいのが日本だということで、世界各国から日本に観測するためにやってきて、その中にメキシコ人一行もいたという。これが1874年だ。
 1888年に日墨修好通商条約が結ばれている。これは、日本が最初に結んだ対等の条約だというから、意外と関係は深い。


 その後の日墨交流史もガイドさんが語ってくれたけれど、あまりよく覚えていないので割愛する。
 日産はかなり古くからメキシコに進出していて、日産の工場があるアグアスカリエンテスには日本人学校もあるという話が面白かった。メキシコシティに来るときにお隣の席にいたお兄さんも日産の人だったからだ。
 ガイドさんの強調するところでは、日本からメキシコに来る例が、メキシコから日本に行く例よりも圧倒的に多い。
 メキシコシティにももちろん日本人が多いので、メキシコシティの日本料理は結構美味しいらしい。今回は賞味する機会はないけれど、覚えておこうと思う。


 途中、ビジャエルモサのヒルトンホテルで我々のツアーの添乗員さんがバスを降りた。彼女はここからタクシーで空港に先行し、チェックイン等々の手続きをしておいてくれるという。
 併せて、そろそろ到着ということで、下車後のアナウンスがある。ラ・ベンダ遺跡公園は、大きなバッグは持ち込み禁止という注意がある。扱いとしては博物館と同じだ。
 さらに、虫除けスプレーとかクリーム状のものの持ち込みも禁止である。どうしてなんだろう。暑くて湿度の高い場所だからか、お水だけは持ち込み可だ。


ラ・ベンダ遺跡公園入口 パレンケを出発してから2時間弱、ガイドさん曰く「メキシコシティ以外、通勤ラッシュというようなものはありません。」という交通事情も幸いし、ラ・ベンダ遺跡公園に到着した。
 いきなりのオルメカ・ヘッドのお出迎えはかなりインパクトがある。
 バスを降りると意外と暑くなく、湿度も覚悟していたほどではなくてほっとする。これなら、昨日のパレンケの方が蒸し暑かったくらいだ。
 私のタウン用のリュックは、ほとんど空っぽでぺしゃんこだったおかげか、特に注意を受けずに持って入ることができた。


黒ジャガー 入園してすぐのところはミニ動物園のようになっていて、檻の中にジャガーがいた。
 ガイドさんには「奥の方で寝ちゃっているかも。」と言われていたので、起きて動いているのが嬉しい。しかし、微妙に太りすぎ、短足なのは気のせいだろうか。
 大体、1.5km、1時間半くらい歩きますという添乗員さんの宣言とともに、ラ・ベンダ遺跡公園の見学が始まった。


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中米3ヶ国旅行記3日目その4

2012年12月17日(月曜日)

 ガイドさんが「パレンケ博物館を開けてくれ」という交渉に行っている間、先生がマヤ文字の話をしてくれた。遊歩道で話していた「マヤ文字解読」の続きといったところである。
 マヤ文字は、ある意味で日本語と似ていて、表音文字と表意文字を持っている。
 スペイン人がこの辺りに来たばかりの頃は、マヤ文字を書く人もマヤ語をしゃべる人もたくさんいたし、マヤ文字の書物もたくさん残っていたのに、「これは悪魔の業だ」と言って、スペイン人がユカタン半島のマニというところで燃やしてしまったそうだ。しかも、読み書きを一切禁止し、スペイン語を強要したという。
 この焚書を免れたマヤの文書は4冊だけで、ドレスデン等の博物館に納められている。

 1797年にマヤで最後の国が征服されている。逆に言えば僅か200年前まではマヤ語の読み書きができる人がいたのに、現在、碑文の解読は非常に難しいことになっている。
 碑文には天文学的なことや数字等々しか書かれていないだろうと思われていたそうだ。
 エジプトの象形文字を解読したシャンポリオンに触発されて解読を始め、1952年になってやっとソビエトの学者がマヤ文字を表音文字的に解読することに成功している。

 しかし、冷戦のためソビエトの学者の言うことをアメリカなどの学者は取り上げようとしなかったというから、学問の世界もきな臭い。1975年にそれまでマヤ学の世界を牛耳っていたイギリスの学者が亡くなったことで、やっと、ソビエトの学者と同じアプローチが広まって行ったというから、さらにきな臭い。
 それはともかく、マヤ文字解読の契機となったのは、1976年にパレンケで開催された会議である。
 マヤ文字解読に功績があった人に、リンダ・シーリ氏という女性がいて、彼女は元々は美術史を研究する人だったという。レリーフに感銘を受け、そこからマヤ文字の解読に入ったらしい。
 マヤ学の世界はアマチュアの人たちの情熱で支えられていた面が大きいという。

 そうこうしているうちに、ミサンガをたくさん手にした女の子が来た。
 彼女が可愛かったし、暇を持て余してもいたので、女性陣が色々見せてもらい始める。私は「使わないなぁ」と思って遠目に眺めて満足した。3本10ペソで売られていたようだ。
 何人かの方がミサンガを買ったので、彼女は商機と思ったらしく、同じく民芸品を売っている仲間を何人か連れて来た。可愛らしくも強かな彼女に苦笑の輪が広がる。

 ガイドさんの交渉は実らず、博物館の見学はできなかった。遺跡見学の間も「ここのレリーフは博物館で見ることができます。」という説明を受けて楽しみにしていたので残念である。
 今回のツアーにはメキシコ人類学博物館が含まれていないこともあって、パカル王の墓のレプリカをここでぜひ見てみたかった。しかし、元々、月曜にパレンケに来ることは決まっていたのだし、博物館が休館ということであれば是非もない。
 ツアーメンバーにミュージアムショップでパレンケ遺跡に関する書籍を買いたいと思っていた方が結構いて、とても残念そうにしていた。その後、街中の本屋さんを探しても見つからず、明朝の出発前にミュージアムショップに立ち寄ることもできず、チャンスがあるとすればメキシコシティの空港だという話になったようだ。

ホエザル それではバスに向かいましょうかと歩き始めたら、何だか物凄い声というか叫びというか鳴き声が聞こえてきた。
 低い、怪獣のような声である。ゴジラの声はここから取ったんじゃないかと思ったくらいだ。昔の探検家はこの声をジャガーの声と勘違いしたこともあったらしい。そういう獰猛そうな声である。
 何だ何だとキョロキョロしていたら、博物館の建物の向こうの木立に動く黒い影が見えた。ホエザルである。我々を「テリトリーを侵しに来た敵」と認識して威嚇していたらしい。
 カラクムルで見逃したホエザルを見られて満足である。

 博物館に行く筈の時間が余り、「お買い物がしたい」という要望があったようで、ホテルに戻る前にスーパーマーケットに寄った。
 その移動途中、バスの中で明日の注意がある。
 明日は、今回の旅で初めてホテルで朝食が食べられる。
 出発は7時くらいで、ラ・ベンダ遺跡公園までノンストップで2時間半、見学後にビジャエルモッサの空港に向かう。昼食はランチボックスだから、多分、ハムとチーズのサンドイッチだろう。
 もう、この旅行で一番たくさん食べた物はハムとチーズのサンドイッチに決定である。
 そして、13時47分発の飛行機でメキシコシティに向かい、国際線に乗り継いでグアテマラシティに移動だ。

 「飛行機移動があるので”武器になりそうなもの”はスーツケースに入れてください。」と添乗員さんが言う。「武器になりそうなもの」の例として「ガムテープ」とか「チリソース」が挙がるのが可笑しい。
 アエロメヒコは、スーツケースについて「調べたくなったら勝手に開けます」と公式発表で宣言している。一方、現地のスタッフに聞くと「(調べたりしないから)大丈夫だよ」と言われるらしい。添乗員さんのお勧めは、スーツケースに貴重品を入れずに鍵はかけない、というやり方だった。

スーパーマーケット それにしてもパレンケ遺跡は本当に暑くて、汗びっしょりになった。バスの座席の背もたれに背中をつけると濡れたTシャツが気持ち悪く、背筋を伸ばして真っ直ぐに座っていた。
 スーパーマーケットにはリュックなどの大きな荷物は持ち込めない。写真撮影も禁止というから、意外なところで厳格である。
 ガイドさんから「ペソとカードは使用可、ドルは多分だめ。」と案内があった。また、「レジではアルバイトの子供がレジ袋に買った物を入れてくれるので、チップをあげてもOKです。」と言われた。
 ドライフルーツに唐辛子をかけたものが結構人気らしい。

 CHEDRAUIというスーパーマーケットで16時から30分1本勝負のお買い物タイムになった。
 かなり大きなスーパーマーケットで、品揃えも豊富、なかなか楽しい。
 真っ先に、甥っ子へのお土産になるようなものはないかと子供服やおもちゃのコーナーを見たけれど、どうもピンと来ない。
 職場のお土産に、メキシコでお勧めだとリサーチしていたハーブティを買い込む。カモミールにレモングラス、ミントなどのハーブティがかなりお得なお値段で買えた。ハーブティがかさばって両手に抱える感じになってしまい、添乗員さんが超巨大なカートを持って来てくれ、有り難く使わせてもらう。

サルサソース ガイドさんにサルサソースの売場で「なるべく辛くないのはどれ?」と聞いたら、「それは難しいリクエストです。」と笑われてしまった。それはそうだろう。
 メキシコの人もできあいのサルサソースを買うことが増えていて、売られているのは大型の瓶や缶に入っているものが多い。ガイドさんは、「サルサソースよりもハバネロをタバスコ代わりにお土産にしたらいいんじゃないですか。」と言う。
 添乗員さんは、ハバネロとレモン入りのメキシコオリジナルの日清カップヌードルが気に入ったらしい。軽いし、楽しめるお土産になりそうだけれど、かさばるので断念した。

ラム酒 ガイドさんに教えてもらってラム酒も選ぶ。お菓子づくりに使うので、テキーラよりもラム酒の方が使い勝手がいい。
 バカルディは元々はキューバのメーカーで、しかしメキシコで売られているものはメキシコで作られているという。
 このスーパーでは、ガイドさんお勧めの「中くらい」のレポサードが売られていない。ちょっと迷い、熟成させたものの方がアルコールが飛んでまろやかになっていると説明され、anejo(調べたら、スペイン語で「古い」という意味だった)を選んだ。
 お買い物はトータル220ペソだった。

 バスに戻ると、それぞれの戦利品自慢が始まった。
 添乗員さんが、サルサつきのスナックなどを味見に配ってくれる。これは、最終的にお酒好きのおじさま方がつまみに引き取ったようだ。
 それにしても、瓶入りのものばかり買ってしまい、一体どうやって荷造りすればいいのだろう。

ホテルのお部屋 16時40分頃、今夜の宿である、ミシオン・パレンケホテルに到着した。
 添乗員さんたちがチェックイン手続きや部屋割りをしてくれている間、ウエルカムドリンクをいただきながらおしゃべりに興じる。
 お部屋に入ると、ブルーを基調にしたというか、真っ青な内装である。部屋によってテーマカラーが違うらしく、真っ赤なお部屋の方もいらしたようだ。バスタブはなくてシャワーのみ、綺麗で快適だ。
 17時過ぎにお部屋に入れたので、早速シャワーを浴び、何とか洗濯だけはして、19時の夕食まで瀑睡した。相当暑さに参っていたらしい。

 ロビーに行くと、私と同じようにメキシコペソを余らせていたらしいツアーメンバーの方がホテルのお土産物屋さんでお買い物をしていた。メキシコでよく見る、真っ白なコットンに透かしの刺繍をした可愛らしいブラウスに一目惚れしたらしい。
 同じくお店で買い物をされていたツアーの方が浴衣を着ていて驚いた。「浴衣を持ってきたんですか?」と目を丸くしていたら、「もう一枚持ってきてるから、着せてあげられるわよ。」とおっしゃる。19日間ツアーに参加している方で、そんなに極端に大きなスーツケースを持っているようにも見えなかったのに、一体どんな荷造りをしているのか、ぜひコツを教えていただきたい。

スープと前菜 夕食は、ホテルのレストランでビュッフェ形式だ。
 今日も暑かったし、もちろんビールを頼む。テーブルにはマルガリータを頼んでいる方もいらして、メキシコでテキーラを飲みそびれたことに気がついて惜しい気がしたけれど仕方がない。この暑さでは、カクテルよりもビールである。
 ビュッフェにガイドさんがお勧めしていたサボテンのサラダがあった。とろっとしたというか、ねばっとしたというか、そういう何かがまとわり付いている感じだ。思っていたよりも癖はない。というか、味もない。

 お料理が並んだテーブルと往復しながら、今回のツアーの話で盛り上がる。
 私は元々申し込んでいたツアーが催行された形だけれど、ご友人同士で参加された男性お二方は、グアテマラとホンジュラスを巡る別のツアーに申し込んでいたとおっしゃる。しかし、人数が集まらず、旅行社から「こちらなら催行します」と勧められたのという。そこまでしないと催行できなかったのか、マヤというのはそんなにマイナーな存在なのか、と意外だった。
 もっとも、旅行に出かける前、友人に今回のツアーのことをしゃべっても、次の日に「ダンナは知ってたわ。」と言われたのが最大限に好意的な反応ではあった。

プリンとケーキとフルーツポンチ 迷いに迷って豊富にあるデザートから選んで来た頃、添乗員さんから「このホテルにはスパもあるので、ご利用されたい方は私が予約しますよ。」と案内があり、メキシコペソが余っていたのでお願いすることにした。
 「Tired exective massage」という30分のコースで400ペソである。
 20時30分からの予約ができたので一足早く失礼し、一旦お部屋に戻ってから、ホテル内のスパに向かった。
 スパはちょっと離れた場所にあり、道しるべは出ているものの暗い。「よく覚えておかないと部屋に戻れない」とキョロキョロしながら歩く。

 この日はよっぽど疲れていたらしく、歩いて行く途中に、プールがあったり、池があったり、石の階段があったり、いかにもリゾートホテルの風情だったのに、全く写真を撮っていない。しかも「階段を降りて行くということは、帰りは上らなくちゃならないじゃないか」と思ったのを覚えている。

 スパに到着すると、プールサイドに個室がいくつも並んでいて、お姉さんがスタンバイして待っていてくれた。
 お部屋に入ると、身振り手振りで服を脱ぐよう言われ、そのままスパベッドにうつ伏せで寝るよう言われる。肩と首、背中を中心とするコースをお願いしたところ、ほぼ全身、オイルマッサージをしてくれた。
 気持ちいい。
 うとうとしながら30分を過ごした。

 着替えて外に出ると、「もう一人は仲間か?」と聞かれた。同じツアーの方がお一人スパを予約していたので多分そうだろうと頷くと、「じゃあ、ここで待っていなさい。」とデッキチェアを勧められる。
 「二人なら道に迷わなくて済みますね。」とのんびり歩いてロビーまで戻った。
 ロビー前のロータリーのようなところにお土産物屋さんが出ていると聞いていたので、ちょっと外を覗いてみたら、1店舗だけ何だか寂しい感じで明かりを灯していて、他にお客さんもいない様子だったので気後れしてしまい、見に行かなかったのが少し心残りである。

 昨日と今日、カラクムルとパレンケという二つのマヤ遺跡を見学した。
 今のところ、何だか「行った、見た、登った」という感じなのが不本意だなぁと思う。何というか、もっと「特別な感じ」があるのではないかと思っていた。何故か「感動」とか「感銘」とかがない。
 遺跡が拓けた感じ、明るい感じだからだろうか。
 予習のしすぎかとも思ったけれど、ツアーメンバーにはスペイン語のみならずマヤ語まで勉強して臨んでいる方がいらっしゃるし、それも違うような気がする。
 そんなことをつらつら考えているうちに眠気に対抗できなくなり、21時30分には寝入った。
 1時間後くらいに目は覚ましたものの、その後は、翌朝まで爆睡できた。スパ様様である。

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中米3ヶ国旅行記3日目その3

2012年12月17日(月曜日)


十字のグループへ向かう パレンケ遺跡の宮殿から十字のグループに向かう道筋には、布を敷いて商品を並べただけのお土産物屋さんが並んでいた。ここでだけ商売を許されているのかも知れない。
 13時半過ぎ、パレンケ遺跡内部を流れるオトゥルム川を超え、さらに奥に進んで小山に付けられた階段を上がる。これが結構、急な階段だ。


 階段を上り切って左手前に現れたのが太陽の神殿である。
 夜の太陽というのは(といきなり説明が始まったと思う。多分、太陽の神殿に絡んだ説明だったと思うけれど定かではない)、日が沈んでしまった後も、地下の世界を照らす太陽という趣旨らしい。


十字の神殿のレリーフ 発見した探検家が神殿にあるレリーフを見て「十字架だ」と勘違いしたため、パカル王の息子であるカン・バラム2世が建てたと言われる一帯が「十字のグループ」と呼ばれている。
 しかし、「十字の神殿」と呼ばれる建物にあるレリーフのモチーフは世界樹(セイバの木)だ。その格好がスペイン人には十字に見えたようだ。
 十字架の両脇にいる人間は、建て主であるカン・バラム王の小さい頃と成人後の姿だと言われている。研究者によっては異なる説も唱えている。その「異なる説」の内容を忘れてしまった。かなり詳しく説明して貰ったのに残念である。


十字の神殿十字の神殿から


 何となく半端な説明の後、「三つの神殿に上れます。」、「太陽の神殿には入ることができます。」、「十字の神殿に上ると景色が綺麗ですよ。」という案内があって、自由時間となった。
 まず、上るのが一番大変そうな十字の神殿に行った。カラクムルに比べれば全然低いのに、結構しんどい。
 あまりのしんどさと、景色に夢中になってお互いに写真を撮り合うことに一生懸命になった結果、十字の神殿の入口右にあった筈の、煙草を吸う神のレリーフを見るのをすっかり忘れてしまった。世界最古の「煙草を吸っている」描写だというのに勿体ないことである。


 十字の神殿からは、太陽の神殿や、葉の十字の神殿の建物もよく見える。上から見下ろすと、屋根飾りがよく見えるのが楽しい。
 この屋根飾りの隙間を通る風の音でハリケーンの到来を知ったという説もある。カラクムルと同様に、高い場所に隙間のある建物を作ると風の音が一つのポイントになるようだ。


葉の十字の神殿の全景葉の十字の神殿のレリーフ


 3神殿を制覇するためには、意外と時間がない。
 次に奥にある葉の十字の神殿に向かった。葉の十字の神殿は、ピラミッドというか基壇部分がまだ発掘されておらず、小山に階段が作られている感じだ。
 上に乗っている神殿も、前側の壁がなくなり、柱が露出してしまっている。
 しかし、その神殿の奥に鎮座するレリーフは、黴のせいかも知れないけれど、三つの神殿の中で一番見やすい状態だったと思う。このレリーフのテーマは食べ物だ。


 葉の十字の神殿からの眺めもいい。
 右側に十字の神殿、正面に太陽の神殿が見渡せ、さらに中央奥に宮殿の塔が見える。
 パレンケは本当に湿度が高くて、高いところに上がっても涼しい風が吹いているということがないのが辛い。
 ちょうどやってきた先生に、太陽の神殿の隣にある14号神殿のレリーフも綺麗だと教えていただいた。
 まずは、14号神殿の前に太陽の神殿に向かう。


太陽の神殿内部 ガイドさんに教えてもらったとおり、太陽の神殿だけは中に入ることができる。太陽の神殿は気のせいか他の二つの神殿よりも階段のステップの幅が広くて上りやすいのが有り難い。
 神殿内部に入ると、マヤアーチが綺麗だった。
 流石に、レリーフがある場所には入れないようにロープが張ってある。
 ここにもTの字の窓がある。やはりこの形の窓は、何らかの意味を持っているのだろう。


太陽の神殿のレリーフ 太陽の神殿のレリーフのモチーフは戦争である。
 真ん中の顔のように見える部分は太陽神で、その姿を描かれた「盾」である。その上に角のような角度で付き立っている棒は「槍」である。
 カン・バラク2世の興味は、食べ物と戦争と世界にあったということだろうか。変な言い方かも知れないけれど、当時の王としては健全な世界観だったんじゃないかと思う。
 太陽の神殿の三つのレリーフは、真ん中の何かの両脇に人がいるという構図になっている。


太陽の神殿から 太陽の神殿から、十字の神殿と葉の十字の神殿を見ると、十字の神殿の屋根飾りが本当に正面部分しか残っていないことが判る。
 カラクムルではあまり意識しなかったけれど、パレンケに来て、建物は正面が全てで、横からみたときとか、後ろから見たときとかはあまり考えられていないような気がしてきた。
 もっとも、十字の神殿の場合は、後ろ半分がきちんと露出させられておらず、丘のままになっていることもその原因かも知れない。


14号神殿 太陽の神殿のお隣に、先ほど先生にお勧めしてもらった14号神殿がある。
 レリーフが綺麗に残っているのに通称を付けてもらえなかったのは、この14号神殿がカン・バラム2世の作ではなく、その弟が作った建物だからかも知れない。
 この弟王(名前が分からない)は、近隣の国との戦争で711年に捕虜になってしまったという不幸な人だ。この人が王になったときに作られたのが14号神殿で、このレリーフは、兄と、カフィールという王の守護神を兄に渡している母の姿を描いているという。


 この弟王が捕虜になっていた10年余の間に、王の権威は著しく下がり、パレンケでも貴族による合議で政治が行われるようになったという。
 そうして貴族が強くなった結果、貴族のためのピラミッドが作られるようになり、パレンケにもこの十字のグループの奥にその建物が残っている。しかし、何故かずっと立ち入り禁止になっているそうで、今回も見学することはできなかった。
 14時半くらいに集合し、お宝の数々や、パカル王のお墓のレプリカが展示されているという博物館に向かった。


球技場 元来た道を戻り、宮殿をぐるっと回って球技場に出た。本当に球技場はどの遺跡にもある。
 パレンケの球技場は意外と小さい。
 両脇の盛り上がった部分の角度は、カラクムルに近くあまり傾斜がついていないのが特徴らしい。コパンの球技場などはもっと角度があるという。
 カラクムルの球技場では確認されていない「ボールを通すのかも知れない」という穴というか飾りが、パレンケの球技場では確認されている。


 球技場で行われる競技が「儀式である」と同定(という言葉を先生はよく使っていた)したのはコパンだろうという話だ。
 ボールの動きは天体の動きを表し、マヤの人たちは、太陽は沈んだ後で地下の世界を旅していると思っており、再び太陽が昇ってくることを確かなものにしようとして儀式を行ったのだろうという話だ。
 競技は、王と捕虜が行うこともあり、その場合はいわば出来レースで王が必ず勝ち、負けた捕虜を殺してしまう様子を民衆に見せたりもしていただろうという。昔から八百長というものは存在したらしい。


滝 一部鍵が壊れたりしていたのみで許せる感じのお手洗いに寄った後、どこをどう歩いたのかよく判らないまま、川沿いに整備された階段状の遊歩道に入った。
 ずっと下って行ったところに博物館がある。
 周りは鬱蒼とした緑で、パレンケ遺跡が発掘される以前はこの辺りはずーっとこんな感じだったんだろうなと思う。一人で歩くのはちょっと躊躇するけれど、しかし、気持ちのいい散歩道といった感じだ。
 途中に「女王のトイレ」という微妙なネーミングの滝もある。この「女王」が誰なのかは謎だ。


緑に埋もれる遺跡緑に埋もれる遺跡


 遊歩道沿いにはグループBやグループCと名付けられた遺跡が点在している。緑の中に埋もれるようにひっそりと佇み、突然現れる遺跡で、探検隊気分を味わえる。
 歩きながら「マヤ文字解読」という書籍の話になる。読んだ方も結構いらっしゃって「面白いよ」と言われたけれど、4000円を超えるお値段ではなかなか手が出ない。
 もっとも、「ユカタン風物誌」という書籍の方がさらにお高い。ユカタン風物誌は絵が豊富で、写真がなかった時代故に貴重な資料となっているという。


吊り橋滝


 かなり下がって来たところに吊り橋があり、そこから滝が見えた。
 地元の子なのか、女の子が水遊びをしていて気持ちよさそうだ。もしかしたら、パレンケの人々もここでこうして涼んでいたのかも知れない。パレンケが繁栄していた頃と現在とで、それほど大きく気候が違うことはないだろうと言う。
 ここで、最初に腕に巻いてもらったものは自然保護料支払いの証拠だったとやっと気がついた。遺跡から出る直前まで気がつかなかったとは我ながらマヌケである。


大きな木 滝から少し行ったところに大きな木があった。
 洞もできていて、何故かその洞に向かう階段ができ、石で平らにされている。もしかして、お供えを上げるようになっていたんじゃないかと思う。木の周りの蔦のようなものは、この木をじわじわと締め付けていて、最終的には巻き付いているいわば宿主を枯らしてしまうという。
 そういう木がどことなく特別扱いされているのがちょっと不思議な感じだ。
 この木から出口までは、本当にもうすぐで、15時過ぎに遺跡の外に出た。


 遺跡の出口からすぐのところにある博物館が近づいてくると、ガイドさんが「嫌な予感」と呟いた。
 扉が閉まっている様子だ。
 「今日は何曜日ですか?」「月曜ですよ。」「あちゃ。」という会話が交わされる。19日間ツアーとずっと同行していたガイドさんは、どうやら曜日の感覚がなくなっていたらしい。「パレンケの博物館、月曜休館なんですが、遺跡が開いているときは博物館も開けていることが多いんですよ。」と言いながら、どこやらへ走って行った。
 何とか開けてもらえないかと直談判に行ったらしい。


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2014.02.07

ツアーに申し込む(高知)

 昨年キャンセル待ちを申し込んで結局行けなかった、お遍路をテーマに高知を2泊3日で巡るツアーが2014年にも設定されていた。
 発表直後に気がついてはいたのだけれど、迷っているうちに、ツアーはいつの間にか満席、キャンセル待ちになっていた。

 結局、今年も見送りかと思っていたところ、2月6日になって、キャンセルが出たので追加募集しますという案内があった。
 ちょうど、職場で腹立たしいことがあった直後だったこともあって、勢いで、えいやっと仮予約ボタンを押してしまった。

 仮予約した翌日が出発21日前である。
 現地集合現地解散のツアーなので、往復の飛行機を手配するのに、特割21を使うにはギリギリだ。そう思って焦っていたのだけれど、旅行社から来た案内で、特割21を使うよりも安く手配してくれるとあったので、行きの航空券の手配は旅行社にお願いすることにした。

 帰りは、延泊するかどうか迷っているので、まだ手配していない。
 しかし、正直に言って、延泊してあれこれ調べて手配しようという気力がなかなか沸いてこないので、ツアーに乗っかって行って帰って来るだけにしようかと思っているところだ。
 そして、ANAのマイレージが国内航空券と交換できるくらいに貯まったので、人生初の「マイルで航空券」をやってみようかと思っている。

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2014.02.02

中米3ヶ国旅行記3日目その2

2012年12月17日(月曜日)


兎の頭蓋骨の神殿 パレンケ遺跡入口からほとんど歩くことなく、最初に見えてくるのが兎の頭蓋骨の神殿だ。建物の正面の柱の下に漆喰で骸骨が形作られていることから「兎の頭蓋骨の神殿」と通称されている。
 パレンケの都市の紋章文字の主字に骨が使われていて、それは「バーク」と読む。「パレンケ」はスペイン語から来た呼び名で、当時の人々が自ら「パレンケ」と名乗っていた訳ではない。当時の人は、その主字の読みから「バーク」か、あるいは「ラカンハ」と自称していたと推測されている。この辺りから、その彫刻が「骸骨」と見られるようになったということもあるらしい。


 まず、この兎の頭蓋骨の神殿に上った。
 先生の説明の途中でとっとと先に行ってしまう方、とにかく人のいない写真を撮ろうと「どいてください!」と自己主張する方、そこに「写真を撮りに来た訳じゃなくて見に来たんだろう」と反発される方と、見事にバラエティに富んでいるところが凄い。
 カラクムルの神殿に比べればこれくらいの高さは軽いものである。ピラミッドの上にある建物(右半分の前面の壁と屋根が崩れ落ちてしまっている)の向かって左にある柱の根本という割と地味な場所にある兎の頭蓋骨のレリーフを目指して上る。


兎の頭蓋骨 骸骨は、戦争の際に使われていて、首を取って皮を剥ぎ自分のベルトにぶら下げて、自らが優秀な戦士であるということを誇示したそうだ。
 判りやすいといえば判りやすいし、残酷といえば残酷なアピールである。
 戦争という場、戦士という人々にとって、頭蓋骨は非常に身近な存在であったようだ。だからこそ、建物の意匠にもなっているのかも知れない。


マヤアーチ パレンケが素晴らしいと評される理由の一つが、様々なマヤアーチである。
 マヤアーチは、なるべく屋根の重さを軽くし、壁が屋根を支えられるよう、支える壁を薄くして内部を広く、光を取り入れられるように工夫した結果だ。
 アーチの下のくびれた部分には、元々はリンテル(まぐさ石)が渡されていたと説明して貰った。しかし、「リンテル」も「まぐさ石」も知らない言葉だったので、何故に突然馬の餌の話? と思ってしまった。


 後になって調べたところ、リンテルとは「古代の建築で二つの支柱の上に水平に渡されたブロックを指す」そうだ。
 そこには、例えば捕虜を捕まえた図などが彫られていたという。
 まぐさ「石」と呼ばれているけれど、実際にここに嵌められていたのは木材だったらしい。だから残っていないのだろう。


兎の頭蓋骨の神殿から地上から


 兎の頭蓋骨の神殿からも宮殿がよく見える。
 兎の頭蓋骨の神殿の隣の建物は「発掘中」「修復中」という感じで、そこに建物がある、というだけだ。この位置にある以上はそれなりの意味や地位があっただろうと思うけれど、現在のところは「つなぎ」に見えてしまう。
 その一つ向こう、茅葺きのような屋根が斜めに階段の上についている建物が赤の女王の神殿である。


 1994年に発見された時、埋葬された人に水銀朱が振りまかれていたことから「赤の女王の神殿」と呼ばれるようになったという。
 赤は正しく「血の色」で、古代マヤの人々は、血の色をまとわせることで、その人の再生を祈ったという。この「風習」はパレンケだけではなく、例えばコパンでも同様のことが行われている。


赤の女王の神殿内部 赤の女王の神殿の中に入ると、マヤアーチの通路があり、そこに三つの部屋が並んでいた。今は電灯があるからいいけれど、昼間からこの暗さでは、そもそも内部に人が入ることは想定されていなかったんじゃないかと思ってしまう。
 再現された赤の女王の棺がある部屋には、内部が真っ赤になった棺が置かれていた。金網越しにその様子を見ることができる。
 しかし、この棺が置かれた部屋に並ぶその他の部屋は空っぽだ。元から空っぽだったのか、あるいは、本来は棺や副葬品が入っていたのか、どちらだろう。
 ここに埋葬されていたのが女性だということは確かだけれど(だから「赤の女王」なのだ)、実はそれが誰だったのかは特定されていない。碑文の神殿と隣り合っていることからパカル王の王妃の墓という説もあるようだ。


碑文の神殿 その更に隣にある建物が、かの有名な「碑文の神殿」である。パカル王の墓が発見された場所だ。
 残念ながら、現在はお墓を見ることはもちろん、神殿に上ることもできない。
 ここでパカル王の墓が発見されるまでは、マヤのこうした階段状の建物の中にお墓はない、墓所ではないと考えられていた。しかし、1952年に、アルベルト・ルス・ルイリェールという考古学者が非常に大きな棺を発見したことで、一気にその節が覆った訳だ。


 アルベルト・ルス・ルイリェールは、このピラミッド上部にある神殿の床を調査していて、非常に大きな石に穴が開いていることを確認し、これは古代マヤの人々がロープ等を通して引っ張るためのものではないか、この石は剥がせるのではないかと推理した。
 調査を進め、持ち上げてみたところ、地下に進む階段があったという。ただし、砂利で塞がれていたため、少しずつその砂利をどかし、3〜4年かけて墓室と石棺、真っ赤になった遺体を発見している。
 凄い根気である。
 発見当時、マヤ文字の解読はほとんど行われていなかったため、その遺体が誰なのか特定できなかったが、70〜80年代にかけて解読が進み、パカル王であったことが判明した。パカル王は12歳で即位し、非常に長い期間パレンケに君臨した王である。


 碑文の神殿の基壇部分は9段ある。9という数字は、古代マヤの持つ世界観では「地下の世界」「死後の世界」を表しており、9人の神に支配されていると考えられていた。
 9層の段を持つ基壇に王の棺があるということは、「符合」を感じさせるという。この9層という構造は、ティカルの1号神殿にも当てはまる。
 「碑文の神殿」と呼ばれているからには当然「碑文」もある訳で、古代マヤでは長い(コパンの碑銘の神殿では2200文字を超える。それに次ぐ617文字という長さ)碑文がピラミッド上部の神殿で発見されている。


 碑文の神殿はパカル王のお墓でもあり、パカル王自身が生前に途中まで作っていたとも、パカル王の息子の王が建造したとも言われている。何故「途中まで」かというと、棺が非常に大きくて、墓室の扉から入れることができないからだ。
 もっとも、このパカル王のお墓で一般的に有名なのは「宇宙船を操縦しているように見える」と言う人もいる、その棺の紋様というか彫刻である。実際のところ、その図は宇宙船ではなく、パカル王が死後の世界に呑み込まれ、そこから再び再生する様子を表している。
 パレンケ遺跡併設の博物館でそのレプリカを見ることができる。


宮殿 次に「宮殿」に向かった。
 振り返ると碑文の神殿、赤の女王の神殿、ひとつ飛んで兎の頭蓋骨の神殿を見ることができる。壮観だ。
 当初の予定では、一旦、奥の十字の神殿グループに行くことになっていたけれど、例によって例のごとく、さくさくと宮殿に上ってしまった方がいらして、予定変更となった。
 パレンケ遺跡の明るく「整った」というイメージは、この遺跡の周りに整備された芝生によるのではないかと思う。


宮殿の塔 宮殿は、様々な建物が集まってできている。増築に増築を重ねた格好だ。
 「宮殿」と呼ばれているけれど、ここは、パレンケ王家の人々が政治を行ったり、王位継承の認証を行ったり、要するに行政と儀式の主舞台である。


 この宮殿の一番の特徴は、塔の存在である。塔の役割については諸説あり、見張り台であった、天体観測に使われていた等々と言われている。今は上れなくなっているのが残念だ。
 冬至の日の夕方、この塔に上がって碑文の神殿を見ると、神殿に太陽が沈んで行く様子が見られる。この日は冬至の4日前だから、もしかしたらそれに近い景色が見られたかもしれないと考えると惜しい。


宮殿内部のマヤアーチ柱のレリーフと屋根のレリーフ パレンケは、結構「残っている」遺跡で、神殿上部の飾りなども確認することができる。一方、例えばコパンなどでは、上手く作れずに崩れてしまったものがある。それは当時の建築技術、セメントのようなものを作る技術の差による。
 また、多用されているマヤアーチや、中をくりぬいたようになっている屋根飾りは、いずれも屋根を軽くするための工夫である。
 そうまでして「飾り」を作りたかったのかしらと思う。


パカル王戴冠の図 宮殿には結構レリーフが残っていて、この写真は、家Eの前にあるパカル王12歳のみぎりの戴冠の図である。彼に王冠を授けている左側に描かれた人物は、母親である前代の王サク・クックである。
 金網からフォーカスを外して写真を撮れなかったのが惜しい。しかし、レプリカなのに、どうしてわざわざ金網を張ってあるのか謎である。そして、本物は一体どこにあるのだろう?
 意外と大ざっぱな彫り方だなと思う。
 それとも、元々はもっと精巧な彫りだったものが、段々丸くなってしまったんだろうか。レプリカというのは、そもそも、レプリカを作った時点でそっくりに作るものなのか、ある程度「修復」をして作るものか、どちらなのだろう。


謎の穴宮殿内部から見えた碑文の神殿


 順路通りに進んでいないこともあって、自分がどこにいるのか全く判らないまま先生たちに付いて行く。
 後になって写真を見ると、多分、「凄く気になって」撮ったのだろうということは判るけれど、それがどこにあって、何だったのか、さっぱり判らないことが多いのが残念である。もの凄く勿体ないことをしたなぁと思う。


東の庭 東の庭は、捕虜の大きなレリーフがあって、珍しく後から写真を見て特定できる場所だ。
 冬至、この庭に入れる人は非常に限られていたそうだ。
 例えば、外交官を呼び寄せ、レリーフを見せつけ、威嚇というか威圧のために使っていたという。さらに直接的に生け贄の儀式が行われていたのではないかとも言われている。


捕虜のレリーフ左捕虜のレリーフ右


 この写真にも写っているとおり、パレンケ遺跡には、欧米人らしき観光客が多く訪れていた。
 宮殿のように音が反響する場所だと、彼らのガイドが説明する言葉と被って、先生の解説が聞き取りにくくてちょっと困った。


レリーフに残る色 現在の壁やレリーフは白っぽいけれど、当時は赤や青に彩色されていたという。私には黴と彩色が残っている部分との違いが全く見分られないけれど、これは間違いなく「当時の名残」である。
 人の顔というか額の部分のアップだ。
 そういえば、家Eだけは白かったという説明だった。それでは他の建物は何色だったのだろう? 赤だという説明を聞いたような気もするけれど自信がない。


階段のマヤ文字マヤアーチ


 パレンケ遺跡は全体的にフォトジェニックだ。そして、この宮殿は中でも一際フォトジェニックである。
 いくらでも写真を撮りたくなってしまう。
 そして、相変わらずどこの写真なのか全く判らない。
 階段は、多分、家Cに残されていた神聖文字の階段である。ロープが張られているものの、近寄って見ることはできる。


T字の穴 果たしてこの部分だったかどうか定かでないけれど、T字のマークというか穴がある場所は、何らかの装飾品などと埋葬されている例が多く、王家と関係している場所であることが多いという。
 確かに、この宮殿内部でこのTの形に開けられた穴を結構見かけている。


 先生がコパンで発掘した王墓でも、立体的なもの(と表現されていたけど、一体どういうものなのかよく判らなかった)の頭の部分にやはりこのマークがあったそうだ。
 そんなに素晴らしい、由緒ありそうな「穴」には見えないけどなぁなどと不埒なことを考える。


地下トンネルマヤアーチ この後は、地下トンネルを通った。次の目的地への近道だったらしい。
 地下トンネルからは、さらにマヤアーチの通路が伸びていて、しかし、その先は窓が開いているだけの行き止まりだった。
 パレンケはとにかくこの「マヤアーチ」のバリエーションが多い。


トイレ? 地下トンネルを抜けて階段を上がったところに、トイレがあった。
 正確には「トイレかも知れない」と言われている場所である。先生はどちらかというと懐疑的な雰囲気を醸し出している。「もしトイレだったとすれば」という風に説明していた。
 もしトイレだとするとこの空間はオープンすぎるということらしい。「もっと他にそれらしいところがある」という。そう言われればそんな気がする。
 トイレを最後に宮殿の見学は終了となった。


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中米3ヶ国旅行記3日目その1

2012年12月17日(月曜日)


 時差ぼけに負けているのか、どうにも寝付かれず、寝たり起きたりを繰り返して4時くらいに諦めて起き出した。
 外は、虫の声が響いている。大合唱だ。
 何故だか外に人がいる気配があって、余りにも気になるので覗いて見たけれどもちろん真っ暗な中歩き回っている人がいる筈もない。私はいわゆる霊感の類が全くないにも関わらず、このときだけは不思議と人の気配を感じ続けた。


 5時にモーニングノックがあった。
 早起きしすぎて荷造りもすでにほぼ終了している。何も買っていないし、荷物が増えた筈もないのにキャリーケースを閉めるのにどうして四苦八苦するのか謎だ。
 お茶を淹れて飲みながら、持参した恩田陸の「メガロマニア」を読む。自分は旅に出てもイメージをしないなぁとぼんやり思う。昨日のバスでも、延々窓外に続く森と畑を見ながら、ただ「眠れないなぁ」と思っていた気がする。
 昨日のランチボックスに入っていたジュースを飲みそびれてしまったので、ピローチップと一緒に置いて行くことにした。


朝食 朝食のボックスを配ってもらい、6時にパレンケに向けて出発した。
 目は完全に覚めているし、6時半過ぎに朝食を食べ始めた。ハムとチーズのサンドイッチ、りんごジュース、ゆで卵、バナナ、オレンジ、お水と充実のラインアップである。
 後になってみると、メキシコで一番たくさん食べたものは、ハムとチーズのサンドイッチだったような気がする。


線路 窓の外を眺めていると、7時過ぎくらいから、ジャングルではなく畑が増え、人家がちらほら見えるようになってきた。
 街に近づくと道路にトペが登場する。これまでのところ、カンペチェの街中を除いて信号を見たことはほとんどない。このトペが、バスに乗っているときのほぼ唯一のシャッターチャンスである。
 メキシコに来て初めて見る線路を越えたところで、昨日は朝食に立ち寄ったレストランLa Herraduraでコーヒー休憩となった。
 メキシコに客車が走っている路線は僅か2本しかなく、その他は全て貨物用だという。この線路も貨物専用だろう。


 みなさんがテーブルに適当に散ってコーヒー休憩しているとき、お店の奥の棚にコーヒー豆が売られていることに気がついた。
 シュロのような袋に入り、民芸調の人形が飾りについている。ガイドさんに聞くと、チアバスの先住民の人達がオーガニック栽培しているコーヒーだという。何だか私のポイントをつく単語の数々だ。お土産も兼ねていくつか購入する。もちろん、人形が可愛いものを吟味した。
 買い物に夢中になっていたら、添乗員さんがわざわざコーヒーを淹れてテーブルに呼んでくださった。「こちらもどうぞ」と勧めてくださったプリンはレストランの手作りだったらしい。有り難くいただく。濃厚で硬めの懐かしい味のプリンだった。シナモンが利いていて美味しい。


道ばたの木白い道 30分ほど休憩し、8時に再び出発した。
 トペがあるところでしか写真を撮っていないせいか、昨日よりも道筋に人の気配があるような気がする。


 9時45分くらいにもう一度トイレ休憩があった。公衆トイレに売店が併設されている。
 休憩後、バスの中で、売店で買ったというスナックを添乗員さんが配ってくれた。確か豚の脂を揚げたものだと言っていたと思う。ビールが欲しくなる味だ。


ウスマシンタ川 トイレ休憩後、すぐ渡った大河がウスマシンタ川だ。この川沿いにマヤ文明が栄えたともいえ、例えば、今回のツアーには含まれていないけれどヤシャクトゥン遺跡などもこの川沿いにある。


 川を渡ったところで、ガイドさんのメキシコ案内が始まった。
 最初の話題はマリアッチだ。6〜8人の楽団でみんなで同じ衣装を着てソンブレロを被り、大小のギターやハープなども加わり、マリアッチを歌う。結婚式や、非常に盛大に行われるという15歳の女の子の誕生日パーティなどにも呼ばれ、イベントには欠かせない存在だという。


 お祝いの話からお酒の話になった。
 このときに初めて知ったところでは、テキーラという名前は、テキーラ村で造ったものしか名乗れないそうだ。他の場所で作ったものは、製法は同じでもメスカルと呼ばれるという。
 ガイドさん曰く「シャンパンみたいなものですね。」ということだった。判りやすい。
 そして、テキーラ村は竜舌蘭の畑やテキーラの工場等々を全て含めて世界遺産になっているという。後で調べたら「リュウゼツラン景観と古代テキーラ産業施設群」という名称で2006年に文化遺産として登録されていた。


 また、メキシコにはたくさんのビールがあるけれど、ビール会社自体は2社しかないそうだ。
 一番有名だろうコロナビールを造っているのは、モデロ社というビール会社だ。モデロ社に対抗して作られたビール会社があり、昨夜飲んだSOLビールはそのライバル社の製品である。しかし、両社とも最近、外資に買われてしまったらしい。
 また、メキシコの人はビールはカクテル風に飲むことが多いという。コロナビールにライムを搾るのがその最たる例だ。


 びっくりだったのは、メキシコは実はコカ・コーラの消費量が世界一だという話だ。
 コーラ発祥の国であるアメリカ合衆国よりも多いなんて驚きである。しかも、コカ・コーラはやはり高いので、類似品が山ほどあるという。どれだけ炭酸飲料が好きな人達なんだと思う。
 ガイドさんが言うには、メキシコで売られているコーラはメキシコの黒糖を使っているので、アメリカ合衆国で作られたコーラよりも甘いらしい。
 少なくとも、メキシコが世界一のメタボ率の国になったことと、メキシコ人の80%がメタボまたはメタボ予備軍であることは間違いないという。


アブラヤシの木 この辺り(もうかなりパレンケの街に近い)のアブラヤシの木は最近植えられたものである。
 アブラヤシは生長が早い植物で、実から取れた油は潤滑油などに使われる。近くに製油工場も作られているそうだ。新しい産業ということらしい。
 この辺りの農産物としては、他にパイナップルやバナナ、煙草などもある。


 「油」の話から、ガイドさんの話はメキシコの歴史の話に移った。
 メキシコシティで栄えていたのはアステカ帝国で、その中心となっていたのがメシィカ族、メシィカ族の名前が「メキシコ」の元となっている。
 アステカはスペイン人が300年前にやってきたときに栄えていたので、スペイン人による記録が豊富に残っており、比較的その歴史が明らかになっているという。


 パレンケの街は、チアパス高地の中腹にあって天然の要害となっている。
 パレンケは湿度が高いらしい。高地にあるのだから涼しくて良さそうなものだと思う。
 マヤ民族はもちろん、もう100人くらいにまで減ってしまったというラカンドラ族もチアパス州にいる。もしかしたら、パレンケ遺跡の入口にあるミニ市場のようなところで会えるかも知れないという。長い髪と白いすっぽりと被るような服が特徴である。


昼食のレストラン昼食メインディッシュ 11時前に、HOTEL LEONESのオープンエアのレストランに到着した。先にこちらで昼食をいただいて、それからパレンケ遺跡に向かう。
 昼食のメニューは、クレマ デ チャヤ(ほうれん草のスープ)、白身魚のグリル、アイスクリーム、コーヒーである。
 グリルの付け合わせについてきたハヤトイモが素朴で美味しい。
 この後で遺跡見学があるし、ビールを飲んで昨日のように歩くのは厳しい。そう思って、アルコールは自粛し、フレッシュオレンジジュースを頼んだ。


 これから向かうパレンケは、1987年に登録された世界遺産である。正式な登録名称は「パレンケ古代都市と国立公園」だ。文化遺産である。
 パレンケとは、スペイン語で「柵に囲まれた砦」という意味だ。
 1784年に発見されており、アメリカのジョン・ロイド・スティーブンスと画家のフレデリック・キャサウッドが1841年に発表した旅行記で一躍有名になった。この本は邦訳されていて、中米・チアパス・ユカタンの旅〈上〉―マヤ遺跡探索行1839~40中米・チアパス・ユカタンの旅〈下〉―マヤ遺跡探索行1839~40という上下2巻で発売されている。しかし、如何せん、各6090円というお値段は高い。


 パレンケは、431年に拓かれた比較的新しい都市で、7世紀のパカル王とその息子の時代に最盛期を迎えている。
 今パレンケ遺跡に残っている建物群は全てパカル王の時代以降に造られたものだ。
 このパカル王がマヤ界で有名なのは、パレンケ遺跡内の「碑文の神殿」から彼の未盗掘のお墓が発見されたからである。かなり長い間、「マヤ唯一の未盗掘のお墓」の地位を保っていたらしい。
 このお墓はメキシコシティの人類学博物館やパレンケの遺跡博物館に再現されている。
 棺の上というか表に彫刻された図柄が「すわ、ロケット操縦の様子か」と見えなくもないことで有名だ。


 また、パレンケはカラクムルと対照的にステラが全くない。少なくとも、今確認できるステラは一つもない。
 その代わり、漆喰を使ったレリーフに優れていたそうだ。向き不向きに合わせて記録方法を変えていたということだろう。


チケット 12時過ぎ、パレンケ遺跡に入場した。バスの中で既に手首にチケット代わりに丈夫な紙でできたテープを巻いてもらっている。
 ツアーで行くと遺跡の入場料など気にすることはほとんどない。この写真を見て、「27ドルって高いなぁ」と改めて思った。
 「パレンケは暑いですよ。」と添乗員さんに爽やかに予告され、バスを降りた。
 確かに暑い。基本的に日射しの強いところでは長袖を欠かさない私が早々に半袖Tシャツ1枚になってしまったくらいだ。蒸し暑く、汗が噴き出る。


パレンケ遺跡の地図 パレンケ遺跡の入口前には、屋台というかテントのようなお土産物屋さんが並んでいる。カラクムルにはなかった景色だ。やはりアクセスのしやすさが段違いだからだろう。
 私は結局近づきもしなかったけれど、ツアーの方の中には、一瞬の隙をついて眺めていらした方もいたらしい。
 遺跡の入口で地図を見ながら大体の予定を説明してもらった。


 ガイドさんの説明によると、2週間前には上ることができなかった兎の頭蓋骨の神殿に上ることができ、赤の女王の神殿の墓室を見ることができるそうだ。ラッキーである。
 12月3日から発掘調査が始まった20号神殿はそもそも進入禁止エリアになってしまっているというから、その代わりということだったのかも知れないし、マヤ暦の変わり目に観光客増加を見込んだサービスなのかも知れない。
 12月18日(明日!)からパレンケ遺跡でもフェスティバルが行われるというけれど、そんな風情は特に感じられなかった。


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