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2014.03.03

中米3ヶ国旅行記5日目その2

2012年12月19日(水曜日)


看板 今朝早くにグアテマラシティを出発したのは、コパン遺跡見学前に、今日14時にオープン(正確には、リニューアルオープン)予定の市立博物館を見学できるかも知れない、からだったそうだ。
 同行の先生の拠点がコパンだったこともあって、準備にまだ余念がなく本当に14時にオープンできるのかかなり微妙な状況の内部を見学させていただけることになった。
 この建物は、1935年にカーネギーによって建てられたものだという。
 コパン・ルイナスの街の結構な一等地にあって、外観も、博物館というよりは普通よりちょっと贅沢なお宅という感じである。


 ホンジュラスでクーデターがあった際、文化財行政を管轄する政府とコパン市との間で交換協定が結ばれ、この建物が市役所に渡される代わりに、目の前にある旧小学校の建物を政府に渡すことになったそうだ。その小学校は、ホンジュラスの考古学者の名前が冠されているというから、何か縁の建物だったのかも知れない。
 この博物館は、今日のオープンはマヤ暦が一巡するこの時期に合わせた仮オープンで、本格的なリニューアル・オープンは来年1月以降の予定だという。
 コパン遺跡近くでもコパンの街でもマヤ暦関連のイベントが企画されており、その一環ということだろう。


カカオの実お庭のステラ 入口を入ってすぐの庭に、何本かのステラが展示してある。ここまでは写真OKだけれど、内部は撮影禁止だったのが残念だ。
 ステラにはちゃんと屋根がつけられ、保護されている。
 そして、庭に植えられたカカオの木に実がなっていた。カカオの実なんて初めて見た。こんなに美味しそうな色をしているんだなとちょっと意外だ。


 オープン前に見せていただこうというのだから、手続き(というよりも責任者の方との折衝)が色々と必要だったらしい。ついには「ホンジュラスの博物館の専門家である」という方も現れて、中に入れてもらうことができた。
 最初に入った部屋は、翡翠や黒曜石などコパンのいわばお宝が集められている。
 翡翠とウニギク貝とを組み合わせたものもある。ウニギク貝は水の世界・死後の世界を象徴し、翡翠が生命を象徴している。王家の埋葬は、この二つのセットで飾られ、送られる。
 展示されている副葬品が出た王墓では、石室の中だけではなく、周りにもたくさん飾られていたという。


 また、黒曜石の原石から作られた鏃やナイフのようなものもある。コパンでは、黒曜石で作られた石斧で、石碑などを彫っていた。
 やっぱり道具って重要だよねと思う。
 コパンでは青銅器の時代がなかったので、黒曜石などの石斧か、あるいは石で石を彫っていたらしい。研磨材を使いながらだというから、相当に苦労したはずである。
 コパンは、こうした「石を彫る」技術に長けていて、素晴らしい作品がたくさん残っている。


 翡翠製のもので覚えているのは、縄目のような模様のついた、棒状の胸飾りだ。
 幅4〜5cmくらい、長さ20cmはあったと思う。その表面に縄目の模様がついている。地味といえば地味だし、スタイリッシュといえばスタイリッシュだ。
 この縄目模様は、王権や統治権の象徴として扱われていたものだ。
 先生が発掘した10J-45というお墓が王墓と推定されているのは、この縄目模様の翡翠の胸飾りが一緒に発見されたことも理由の一つだという。


 コパンでは、マルガリータと呼ばれる赤い神殿が見つかっていて、そこからは山ほど翡翠製品が発見されている。パレンケの赤の女王の神殿と同様に水銀朱が使われていたという。
 そのマルガリータを守るように周りから戦士の墓が見つかっているらしい。その戦士がつけていたゴーグルなども展示されている。


 また、貴族のお墓から見つかった祭壇というかベンチの本物がどーんと壁際に置かれていたり、儀礼酒を入れるのに使ったという壺や器があったり、狭くて地味な割に、結構たくさんの展示物が置かれている。
 コパンでも、パレンケと同様に、時代が下がって王権が弱体化していくと、それまで王家にしか許されていなかった意匠などを、貴族が、まるでそこが王の家であるかのように装飾に使うようになって行く。「貴族の家にあったもの」が豪華なのはそういう理由であるという。


マリーナ・コパン 博物館で30〜40分くらい見学した後、本日宿泊予定のホテルであるマリーナ・コパンに行って昼食をいただいた。
 ホテルは博物館から本当にもう歩いてすぐのところである。コロニアルな感じが漂う建物で、いかにも「街一番のホテル」という印象である。
 レストランに行く途中にあったお土産物屋さんのショーウィンドウに恐らくはシルバー製のいい感じのバングルが飾られていた。添乗員さんに「このお店、開かないでしょうか。」と言ってみると、「今日、遺跡から戻ってきたら開いているんじゃないでしょうか。昼間はみなさん遺跡に行っちゃいますから。」という回答で、帰って来たときに開いているといいなぁと、しばしガラス越しに見惚れた。


プリンステーキ 昼食のメニューは、アスパラガスのスープ、ステーキ、プリン、コーヒーだ。これから暑い中を遺跡見学に行くのでアルコールは避け、ビタミン補給の必要を感じてレモンジュースを頼む。
 最初に聞いたときは、やけに普通なメニューだなと思ったけれど、食べてみると、スープの塩加減もちょうど良く、なかなか美味しかった。


 13時過ぎにホテルを出発し、いよいよコパン遺跡の見学に向かった。
 コパンは、紀元前1400年にまで遡ることができる、歴史のある都市である。426年のヤシュ・クック・モの即位により王朝が開かれ、第13代の18ウサギ王(もちろん、ニックネームである)の時代に最も栄えた。


 しかし、この18ウサギ王は、735年にキリグアに捉えられ殺されてしまう。彼の死を契機にコパンは衰退し、王権が弱くなって貴族による共同統治体制へ移行し、822年には歴史から姿を消してしまう。
 コパンは、主なマヤの都市の中で最南東部にある。その割に、川を利用して交易も盛んだったし、辺境ということを上手く生かしていた都市であり王国であったと言えると思う。


コパン遺跡入口コパン遺跡模型


 コパン遺跡では、青年海外協力隊で来ているという日本人大学院生の方も一緒に回ってくれることになった。
 入口にあったマヤ地域全体を描いた地図の前で説明してもらったところによると、コパンとキリグアは今でこそ(というか時代が下がってくると)別々の王国だけれど、その昔は一つの王国を形成していたそうだ。
 キリグアがコパンに反抗して独立し、今現在は、二つの遺跡がともに世界遺産に登録されている。
 元々が同じ王国だったので、この二つの遺跡には類似点が多い。そもそも、コパンもキリグアもいわば「辺境」に属していたという地理的な大きな共通点がある。
 そして、例えばカラクムルなどとは産出し使用された石材が異なる。コパンやキリグアでは石材がいいので、保存状態もいい。保存状態のいいステラなどを保護するため屋根がつけられているのは、主に先生の仕事だという。


 今回のツアーの目玉ともいえるコパン遺跡なので、見学予定が目白押しだ。
 コパン遺跡自体も、グランプラサに球技場、神聖文字の階段も見るし、唯一コパンでだけトンネルを掘ってマヤの重層建築の様子を見られるようになっているのでそこも見るし、石彫博物館では、重層建築の内部にあってその全貌を見ることができないロサ・リラという建物を復元している様子も見ることができる。
 さらに、セプルトゥーラスという貴族の居住区も時間延長して見られるように手配してあるというから凄い。
 こういう感想はどうかと思うし、先生がこのコネクションを作るまでにどれだけ苦労されたんだろうとも思うけれど、世の中やっぱりコネだ、という感想が頭に浮かんだのも本当である。


セイバの木 2003年に当時の紀宮内親王が訪れた際に植樹したというセイバの木があった。
 10年ちょっとで本当にこんなに大きく育つのかしらと思ったら、トゲがあるこの木はまだまだ「若い木」らしい。


 入口近くの辺りは、マウントなどもまだたくさんあって発掘が待たれている状況だ。にも関わらず、数年前には、ホンジュラス政府により滑走路が作られ、飛行機が離着陸していたというから驚きである。1960年代に観光誘致のために推進しようとしたらしい。
 しかし、その滑走路をさらに拡張しようとすると、すでに存在が明らかになっていた遺跡を壊すことになるため、その滑走路計画は放棄され、危うく潰されそうになったその遺跡の発掘が日本の資金で6年間にわたって行われたという。
 恐ろしい話である。


コンゴウインコ 排水溝跡などを見ながら歩いて行くと、数羽のコンゴウインコが目に入った。
 初めて見た。綺麗だ。
 これらのコンゴウインコたちは別に飼われている訳ではなく、普通に飛び回って過ごしているらしい。
 姿は綺麗だけれど、鳴き声は今イチである。ホエザルほどではないけれど、聞いていると何だか威嚇されているような気がする。
 確かに野生のようで、少し近づいて一緒に写真に収まろうとしたらあっというまに逃げられてしまった。


説明板 入口から遺跡の集まっている辺りまでの道筋に整備されている説明板は、コパンの動植物や発掘の様子などが解説されており、裏表にスペイン語と英語で説明が書かれている。コパンには、一緒に回ってくれている考古学の学生さんの他にも公園整備ということで日本からの海外青年協力隊の人が来ている。
 説明板もその方の「成果」である。
 草の根技術協力事業という日本からの贈与資金を使っていて、額はそれほど大きくはなく、800万円くらいじゃないかと言う。「日本語の説明もあればいいのに。」と言ってみたら、「たくさん日本人が来るようになったらできるでしょう。」と至極真っ当な答えが返ってきた。


 日本とホンジュラスとの国交は1935年に始まっていて、こうした遺跡保護等の援助もかなり早い時期に始まっているという。
 先生が1986年にホンジュラスに来たのも、文化支援の一環だ。コパンの村の人達などは、そうした経緯をよく覚えていて、日本からの観光客に便宜を図ってくれたりするのは、そうした繋がりがあればこそだという。
 日本は基本的に支援をしても弱腰、というのがパターンらしいけれど、最近は少し強気になって、こうした説明などに日本語を入れるように求めたりするようになったという。
 正直、どこまで弱腰なんだと思わなくもない話だ。


 さて、いよいよ本格的な遺跡見学の始まりである。


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