中米3ヶ国旅行記5日目その3
2012年12月19日(水曜日)
コパン遺跡で最初に出会った「遺跡っぽい遺跡」は、PATIO10と呼ばれる場所である。
階段のすぐ左下に、辛うじて残っているといった風情で穴がある。そこで翡翠の奉納品が発見されている。もちろん、今覗き込めば単なる「穴」である。
PATIO10は、飛行場建設の際にきっぱりと真っ二つに割られてしまったという過去を持つ。どこまでも祟る飛行場建設という感じだ。しかし、「瓢箪から駒」というべきか、その真っ二つに割られてしまった遺跡を修復する過程で、奉納抗が発見されている。
階段の左側にあったのだから右側にもあるだろうと探してみても、片方にしかなかったという。
併せて、もの凄く豪華な子供のお墓も修復の過程で発見されている。真剣に掘った訳ではなく、修復のついでのように発見されるのは、コパンでは、お墓は壁のすぐそばとか、中庭のど真ん中とかいった場所に造られていることが多いためらしい。
様々な要素から考えて、その子供は王家の息子の一人なのではないかという。この建物自体、方角をきちんと考慮して建てられているし、そもそもこのエリアが王家の人々が住んでいたエリアだということもある。
やや唐突な感じで屈葬のレプリカがあった。
すでに場所の記憶と説明のメモとのリンクが壊れてきているけれど、9L-22、9L-23と呼ばれているこの場所は飛行場建設の際に激しく壊されてしまい、「全面的に調査した」訳ではないので、この屈葬の跡の他に「発見!」というような発見はなかったらしい。
しかし、調査を進めるうちに埋葬跡が多く発見されており、この場所にも他にもまだ墓所がある可能性が非常に高いという。
経験的に「この辺りにありそうだ」と掘るというお話で、考古学ってギャンブルだなぁと思う。
例えば、ベンチが大きく歪んでいるのは、その下に空間があり、そこに大きな石室(お墓)があるためではないかと考えられている。
あるとしたら、多分、地面と同じ高さくらいの場所だろうという。
ただ、調査費用が尽きてしまい、途中まででとりあえず放っておかれているというから何とも勿体ない話である。でも、お陰で、失礼ながら、どなたかの墓所だろう場所の上に登ることができた。
先生がこの場所の発掘を担当したのは、特にアメリカの研究者などは、こういう「滑走路建設のために壊されてしまったアクロポリス」などという場所をやりたがらないためである。
いわば貧乏くじを引かされたような格好だったけれど、その結果、翡翠の奉納品や、豪華な子供のお墓を発見しているのだから、考古学というのは判らないものだなぁと思う。
少し歩いて、14時過ぎにグランプラザに到着した。
この広場の真ん中にある石舞台で王家の人々が踊り、その舞をコパンの人々は周りの観覧席から見ていたと推測されている。我々も、その観覧席からまずグランプラザにお目にかかることになった。なかなかドラマティックである。
カラクムルがそうだったように、マヤでは多くの場合、石碑は建物の前に置かれている。コパンでは異なっていて、広場に独立して配置されている。建物よりも石碑を集中して見てもらいたかったのかしら、何しろ「芸術は王の領分」だったみたいだし、と思う。
今は、芝生の緑の広場に、少し緑がかった凝灰岩の石碑等が建てられていて、何というか落ち着いた寛げる場所といったイメージのグランプラザになっている。当時は、石碑は漆喰がかけられてさらに赤く塗られ、床面も漆喰が敷かれてこちらは真っ白だったという。
想像がつかない。
大体、床一面が白かったら眩しくて仕方がないじゃないかと思う。
しかし、そうした白と赤の世界に、何色かは判らないけれど、白でも赤でもない色彩を身につけた王が立ち、踊ったら、それはかなりの「見世物」だったろうと思う。
グランプラザにある石碑は9本で、コパン最盛期の13代目の王である通称「18ウサギ王」により建てられた石碑がそのうち7本を占める。
・・・と説明を受けたと思うけれど、今、本を色々と当たると書いてあることが時々違っている。とりあえず、18ウサギ王が建てた石碑が一番多い、ということだけは間違いない。
コパン遺跡を有名にしているのは、石碑の彫りの見事さだ。高浮き彫りと言われ、とにかく深く立体的だ。
石碑は概ね祭壇と対になっていて、その祭壇も例えばカラクムルにあったものとは違い、非常に複雑な造りになっている。確かに、何というか、装飾的だ。
石碑Dは珍しく建物を背負った石碑で、その石碑Dの前に置かれた祭壇はジャガーの骸骨がモチーフである。そう言われてみればなるほどと思う。
最初に見たのは、石碑Bだ。コンゴウインコが住む山を支配する神に扮した18ウサギ王が彫られている。数いる18ウサギ王の彫刻の中で、私はこの18ウサギ王が一番ハンサムだと思った。
石碑Bのように、王は象徴的に必ず儀仗を両手で胸のところに抱えている。そして、石碑Bでは、儀仗から伸びた先が蛇の頭に変わっていて、そこからさらに神が生まれてきている、らしい。
また、「彫りが見事だ」というのは芸術的な面だけのことではなく、例えば石碑Bの側面のマヤ文字は綺麗に彫られ、残っている。
コパンはマヤでいえば「僻地」で、だからこそカラクムルなどとは産出する石が異なっていて、カラクムルとは異なる凝灰岩に彫られていることも、今に至るまで残っていることの理由の一つだ。そして、歴史を研究する上で「文字が残っている」ことは大きな意味を持つ。
なるほど、と思う。
グランプラザの石碑は多くがオリジナルだ。いくつかレプリカも置かれていて、レプリカに置き換わっているもののオリジナルは、石像彫刻博物館にある。
先生曰く、コパン遺跡のいいところは、レプリカはレプリカ、オリジナルはオリジナルときちんと表示がされていることだという。確かに、私など、言われなくてはオリジナルとレプリカの見分けなどつかない。それどころか、ちゃんと書いてあっても、区別はほとんどつかない。
その数少ないレプリカのひとつが、石碑Aだ。
ピラミッド側に、731年当時、コパンの人が「マヤの4大都市」と考えていた、カラクムル・パレンケ・コパン・ティカルの紋章文字が彫られている。コパンの人々は、当時から、我々が飛行機とバスで延々移動してこなくてはならないくらい遠くにあった都市を知っていたことになる。
この写真で右上がコパン、真ん中の段が左からティカル、カラクムル、左下がパレンケである。
何度も教えてもらって、でも、結局覚えられずにメモ帳に配置図を書いた。
そして、他のマヤ遺跡の石碑には、王の業績として「いつ即位した」「戦争に勝った」「捕虜を**人捕まえた」というような記述が多いのに対し、コパン遺跡にある石碑には「こういう儀式が行われた」といった平和的な業績が刻まれている。
当時のコパンが戦争とは縁遠かったことの証明だろうという。
いずれにしても、マヤの石碑や碑文には、そういう「歴史的事実」が刻まれていることが特徴的だ。
確かこの石碑Cだけは、何故だか赤い色が残っていた。パレンケ遺跡で話に出た「中米・チアパス・ユカタンの旅」には、この石碑Cが真っ二つに折れている絵が描かれているそうで、逆にいうと、それで空気に触れずに色が残ったのかも知れないと思う。
そしてまた珍しいことに、この石碑Cには前と後ろの両方に18ウサギ王が彫られている。他の石碑はみな、顔というか人の姿が彫られているのは一面だけで、後ろ側はいかにも「裏」というような平面の地味目の模様しか彫られていない。
右を向いている方が「若い18ウサギ王」、左を向いている方が「年老いた18ウサギ王」である。髭があるのはオトナの印だ。
グランプラザにあるオリジナルの石碑には大抵、このような屋根が取り付けられている。もちろん、雨や日光から守るためだ。コパンは遺跡の保存という意味でも進んでいる。それは、先生たちが遺跡の発掘や研究とともに保存にも力を入れてきた証しである。
それでも、全体をカバーするには遠い。写真を撮ることを考えると屋根などない方がいい。観光と保存の共存というのは難しい問題なんだろうと思う。
この辺りまで説明を聞いたところで、15分程度の自由時間となった。「グランプラザからは出ないでください。」と厳重に念を押される。
自由時間になった途端、何故か先生を囲んで記念写真大会になっているのが可笑しい。
先生に「ベストワンはどれですか?」と尋ねると、あまりにも俗な質問に苦笑しつつ、先ほどの石碑Bや「今の光なら石碑Fも綺麗に撮れますよ。」という回答が返って来た。うーん、ちょっと趣旨は違うんだけどと思う。
この石碑Fの太ももの盛り上がり方は凄い。
グランプラザを歩き回っているうちに集合時間になった。
それにしても、これらの石碑は一体どうしてずっと立っていられるのだろう。
それほど安定が良さそうには見えないし、置いておくだけでは、地震がないわけではない中米でずっと立ってはいられない筈である。
先生に聞いてみると、現在はコンクリか何かで固めてあるという。マヤの時代には、少し地面を掘って埋めるような感じで立たせていたらしい。コパンの石碑は、それでも「凄く高い」訳ではないからいいけれど、明日行くキリグア遺跡などでは、4mくらい埋めて立たせてあったそうだ。
次の見学場所に歩いて行く途中、観覧席の一角だけ、緑色のタープが張られている場所があった。
他の観覧席は全く野ざらし状態なのに、1箇所だけ屋根があるなんて、意味があるに違いない。
先生によると、そこは18ウサギ王の前の王が造ったもの(というか場所)だそうだ。その後、18ウサギ王が観覧席を造ったときに、何故かそこだけ避けるように残したという。何故残したのかは長い間議論になっていたけれど、現在では、どうやらコパン王家の創始に関する伝説に関係があるらしいことが判っている。
ロマンだ。
ダッシュして行ってみると、緑の屋根の下にはこの石碑がぽつねんと淋しく立っていた。
12代王である煙ジャガー王の石碑Iである。
残念ながら、煙ジャガー王の時代はそれほど優秀な彫刻家がいなかったのか、あるいは芸術に蕩尽するだけの財力がなかったのか、彫りの出来としては「見事!」という感じではない。でも、他の石碑が表に出て行っているのに、これだけ壁に守られてひっそりと立っているところを見ると、特別感がなくもない。
そういう印象だ。
次に向かったのは建造物10で、芝生を挟んだ反対側に同じ構造の建物である建造物9がある。建造物9と建造物10が向かい合って立っているところを想像すれば判る。球技場である。
今見られる球技場は8世紀のもので、元々5世紀に造られた球技場に増改築を重ねた後の姿である。
そして、その5世紀の球技場跡からは、貴族達が賭けに使っていたと思われる「図形」が発見されているという。5世紀当時の、球技は「負けた方が生け贄になる」命がけの戦いであった可能性があるというから、なかなかにおどろおどろしい話だ。
8世紀には、球技はトウモロコシの豊穣祈願と結びついていただろうという。
その証拠のひとつが、高いところにあるコンゴウインコの頭の彫刻だ。
マヤでは、特に赤く塗られたコンゴウインコは太陽の象徴で、そのコンゴウインコが暗闇の世界を破ってトウモロコシを生育させると考えられていた。だからこそ、球技においてコンゴウインコの像にゴムのボールを当てることで、五穀豊穣(いや、マヤには五穀という概念はなかったと思うけど)を祈る儀式にもなっていたのだろうという。
また、この近くにコパンの最後の日付が刻まれた祭壇Lがある。
向かい合っている人物は左側が16代の王、右側が17代の王だ。
祭壇Lは、正面だけができあがっていて、側面は何も彫られておらず、後ろ側は彫りかけである。作りかけで放棄されたとみられ、果たして17代王がいたのかどうかは不明だ。17代王位を巡って争いがあったと考えられているという。
19世紀の写真などを見ると、この祭壇Lはこの場所にはないらしい。これはそもそもレプリカだし、ますます17代王の実在は疑われる。
そして、次はいよいよ、コパン遺跡の白眉のひとつと言っていいだろう、神聖文字の階段である。
中米3ヶ国旅行記5日目その2 <- -> 中米3ヶ国旅行記5日目その4
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 奥日光旅行記(2024)の入口を作る(2024.08.12)
- 奥日光旅行記(2024)2日目(2024.08.10)
- プロフィール写真を変える(奥日光2024)(2024.08.05)
- 奥日光旅行記(2024)1日目その2(2024.08.04)
- 「ビバ!還暦 60歳海外ひとり旅はじめました」を読む(2024.07.28)
「*201212中米3ヶ国の始末」カテゴリの記事
- 中米3ヶ国旅行記8〜10日目(2014.12.29)
- 中米3ヶ国旅行記6日目その1(2014.05.17)
- 中米3ヶ国旅行記4日目その2(2014.02.09)
- 中米3ヶ国旅行記4日目その1(2014.02.08)
- 中米3ヶ国旅行記3日目その3(2014.02.08)
コメント