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2014.04.13

中米3ヶ国旅行記5日目その4

2012年12月19日(水曜日)


球技場と建造物26全景 コパン遺跡で、球技場のすぐ横にある建造物26、神聖文字の階段に辿り着いたのは15時前だった。
 この写真は、唯一撮ってあった、建造物26と球技場の全景である。この屋根が惜しい。
 アメリカの研究所が1997年から2007年にかけて保存研究を行い、この階段の上にテントというか屋根が張られているのもその成果だという。雨や直射日光、温度差によるひび割れ等から守るために設置されている。
 フォトジェニックかといえば絶対に違うけれど、1940年代に撮られた写真を見ると、今よりもずっと鮮明にマヤ文字が残っていて、保存をしなければ劣化することは明らかだ。


 神聖文字の階段は、2200文字のマヤ文字が彫られた全部で1000を超える石のブロックで形作られており、アメリカ大陸に現存する16世紀以前のものの中では最長の文字碑文記録である。
 これが最長かと思うと、短いような気もする。
 この碑文記録には、歴代コパン王朝史が刻まれていることが明らかになっている。
 足りないというか抜けてる段の部分は、ペンシルバニアの博物館に保管されている。返してくれればいいのにと思ってしまう。


下15段 神聖文字の階段は、コパン遺跡の中でも最も早く、19世紀末に発見されている。
 発見されたときには下の15段以外は崩れており、しかもマヤ文字自体の解読も進んでいなかったので、もの凄く適当に組み直して固めてしまったらしい。おかげで、マヤ文字の文章の意味が通るように復元するために、ただ散らばっているよりもさらに困難さが増してしまったという。それはそうだろう。
 そうした中で、ここまで復元し、かつ内容も明らかにしたという方々の執念と忍耐強さを思うとクラクラする。固有名詞(王の名前とか)や年代から解読を始めたというのも納得だ。ヒエログリフも確かカルトゥーシュの中に書かれた王の名前から解読されたのではなかったろうか。


 また、この神聖文字の階段は内部の調査もされていて、詰められた土等々、構造上の問題が発見されている。どうやら大急ぎで慌てて作られたらしいという。その結果、コパン遺跡にある建造物の中で一番最初に崩れたのはこの神聖文字の階段(というか、階段がある建物そのもの)ではないかと言われている。
 そんな訳で、もちろん、この階段を上ることはできない。
 登れば、上には「建造物26」と呼ばれる神殿がある。


神聖文字の階段の前の祭壇 神聖文字の階段の前には石碑Mが立ち、その更に前には祭壇が置かれている。
 コパンしては珍しい「様式に則った」形といえる。
 祭壇は756年に作られたもので、キリグアにもある「獣形祭壇」のひとつだ。その両側に口があり、それぞれから神が顔を覗かせてる意匠になっている。
 こういう、凝った、モンスター風の祭壇がコパンの流行りというか様式だったんだろうか。しかも、これらが全部赤で塗られていたと思うとちょっとぞっとする。


 神聖文字の階段がある建物も、他の建造物と同様に重層構造になっていて、内部にたくさんの建造物を抱えている。695年に非常に大きな石室が作られており、18ウサギ王の父王である煙イミシュ王の墓所であるらしい。
 ご先祖様のお墓の上に建物を建てちゃうとか、神殿を作っちゃうという感覚はよく判らない。
 この神聖文字の階段の見学に10分くらいしか時間を割いていない我々はどうなのか。何だかもの凄く勿体ないことをしたという気がして仕方がない。


11号神殿石碑N title=


 コパン遺跡はまだまだ広く、予定は詰まっている。早々に神聖文字の階段を後にして、11号神殿に向かう。
 さりげなさすぎる感じでそこにあった建造物11は、ちょうど光が当たらない時間帯だったこともあって、非常に地味な印象である。景色に溶け込んでいる。
 建造物11は、先ほどの神聖文字の階段を完成させた第15代煙リス王の墓所ではないかと言われている。結構重要だと思うけれど、未発掘である。
 その建造物11の前に立つ石碑Nも、ほとんど素通りだったのが勿体ないくらいの見事な透かし彫りが施されている。こちらも煙リス王の姿と言われている。


 この辺りから写真と説明との整合性がつかなくなっている。はっきり言って、次々と石碑や建造物を見ているので、私の脳みそではとてもついて行けない。
 先ほどの石碑を前に持つ建物と、西広場に面して建つ建物と、両方とも建造物11(の表と裏)だったように思うけれど、あまり自信がない。
 (ので、全く違っていたらすみません。私はそう思って見学していた、ということでお許しください。)


西広場から見た建造物11 突然アドベンチャーになって山道風の場所を登り、足もとにある髑髏の石に驚いたりしつつ、アクロポリス西広場に向かう。
 建造物11には、「ここに彫刻を置いてください」と言わんばかりの窪みが等間隔に13個造られている。
 マヤの世界は、天上界、地上、地下と三つに分かれていると考えられていて、13が天上界であり神の世界を表す数字である。だから、13バクトゥンという数字も「神に繋がる数字」として意味がある。
 窪みの中に木で造られた13体の神像が納められていたのではないかと考えられている。


 また、向かって左から三つめと四つめの窪みの間に、「とど」っぽい、単なる石のようなものが横たわって置かれている。
 これは、巻き貝だそうだ。見えない。絶対にとどである。
 巻き貝は水の世界を表し、水の世界イコール地上の世界である。
 その下は地下の世界、つまりは死の世界である。死の世界の9層に分かれていて、それぞれの世界を9人の神が支配している。


死の神 屋根のかかった場所にある石彫は、だから、地下の世界、死の世界にいることになる。
 つまりは、死の神だ。
 伝令の首を掲げている図だというから恐ろしい。しかし、後日、別の本を読んでいたら、左手に掲げているのはガラガラのような楽器だと書かれており、一気にこの像の印象が変わった。実際のところは何なのか、気になる。
 先生が強調したかったのは、マヤの建物やその配置は、こうした石彫・神像が表しているのと同じように、マヤの世界観を表していることだったらしい。


建造物16 段々、どこがコパン遺跡の白眉なのか判らなくなってきたけれど、とにかく、建造物16がコパンで最も高い建造物であることは間違いない。高さが約30mある。
 そして、この建造物16の中には、ロサ・リラと呼ばれている神殿が文字通り「埋められて」おり、そのレプリカがコパン遺跡博物館に復元されている。
 建造物16には、ロサ・リラだけではなく、400年くらいにわたって増改築が行われたことが判っている。マヤ遺跡の建造物はミルフィーユのようになっているものが多いようだ。


祭壇Qと16号神殿 コパン遺跡で最も有名かも知れない祭壇が、16号神殿の前に置かれている。祭壇Qである。ただし、これはレプリカで、本物は、ロサ・リラのレプリカのあるコパン遺跡博物館に保管されている。
 レプリカのくせに、何故か柵で囲われているのが謎だ。だから本物だと思ってパシャパシャと写真を撮っていたら、先生に「それはレプリカですよ。」と指摘されて驚いた。
 祭壇Qの正面には、左側にいるコパン王朝の始祖ヤシュ・クック・モから、右側にいるコパン王朝第16代王に王権の象徴である儀仗を渡そうとしている様子が彫られている。


 祭壇Qの側面には時計回りに、他の歴代王の姿がぐるりと彫られているというから、念が入っている。第16代の王は、よっぽど「正統性」を欲していたのだろう。
 王たちは、それぞれ自分の名前の上に座っていて、初代王のヤシュ・クック・モだけは、コンゴウインコの頭飾りで名前とその存在を表し、「支配者」という文字の上に座っている。
 本当に念の入った話である。


墓地のグループ 次は「トンネル」の見学である。
 ロサ・リラ神殿の一部などを、発掘・研究用に彫ったトンネルから見ることができるという。
 添乗員さんも入れて10名前後のツアーなのに「トンネルには一度に全員は入れません。」と言われた。厳格である。20人とか30人のツアーで来たらどうなっちゃうんだろうと思う。
 先生に「ここからの眺めは撮っておいた方がいい。」と言われた場所を上から撮った。後で調べたところでは、そこは「墓地のグループ」と呼ばれる場所のようだ。しかし、そう呼ばれているけれど、実際には居住区だったらしいから、ややこしすぎる。


建造物18の墓室踊る王 建造物16の奥にある建造物18からは、コパン最後の王ヤシュ・パサウの墓が見つかっている。これがその石室である。
 発見されたときには、すでに盗掘されて空っぽだったそうだ。
 また、この建造物18には、ヤシュ・パサウ王が戦争の儀式のために踊っているレリーフがある。これがまた、半端に残っていて判りにくい。ガイドさんによると、足が上がっているのが「踊っている」ことになるらしいけれど、私には足が上がっているということすらよく判らなかった。
 このレリーフには、珍しくブルーが残っている。


ロサ・リラ 本当に「いよいよ!」という気分でロサ・リラが見られるというトンネルに突入した。
 ロサ・リラのトンネルは考古学者が掘ったトンネルである。調査用だ。
 意気込んでトンネルに入ったものの、ロサ・リラは、プラスチックの壁越しにあって、しかも、このプラスチックの壁が曇っているのか傷ついているのか、透明度が低い。よく見えない。
 プラスチックが曇っているのは、湿度が高いせいでもあるようだ。トンネルのこちら側も蒸し暑かったし、きっと、ロサ・リラ側も相当に湿度が高いのだろう。


オリジナルの壁 ロサ・リラは、遠いし曇っているし暗いし、トンネルは短いし、控えめに言ってかなり拍子抜けという感じである。
 ツアーで行ったので、このトンネルの料金(遺跡見学とは別に料金がかかる)がいくらだったのか知らないけれど、個人で次に行くことがあったら絶対に入らないと思う。
 しかし、トンネルの壁が、いつの時代のものかは判らないけれどオリジナルの壁だというのは興味深かった。その当時から、こういう赤い色だったんだろうか。
 ロサ・リラのトンネルは出入り口の場所が同じなので、再び、アクロポリス東広場に戻ってきた。


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