中米3ヶ国旅行記5日目その6
2012年12月19日(水曜日)
16時半過ぎにセプルトゥーラスに到着した。
いわゆる貴族の居住区で、先ほど見学してきたコパンの中心部とはサクベで結ばれていたという。
車で10分もかかっていない。どうしてこんな中途半端に離れたところに居住区を作ったのか謎である。8世紀以降、力を持つようになった貴族らのために作られた、ということだろうか。
日本の援助で作ったという遊歩道を歩いて、遺跡の中心部に向かう。意外と距離がある。
居住区なので、セプルトゥーラスは地味である。
ところどころ屋根がかかって保存されている建造物がある。主に、漆喰が残っているところや、彩色(右の写真では赤い色)が残っているところだ。
この漆喰と赤い彩色が残っているベンチのような部分は、寝所(つまりはベッド)である。
そういえば、これまでの遺跡で漆喰が残っている部分というのは本当に少なかった(というか、見かけていない)なぁと思う。
ゴザ目の模様は高貴な印という説明をどこかで聞いたことを覚えている。それを貴族が使ってしまっているところに王家の弱体化が現れているんだろう。
逆に言うと、貴族の力が増大しているということでもあって、この中庭のような部分を四方から囲んでいる建造物を全て合わせて一軒の家だそうだ。
貴族の力、推して知るべし、である。
同じ中庭を囲んだ建物の中に、テントのような、ちょっと変わった屋根がかけられている建造物があった。
これは、ナントカ保存研究所(多分、米国ハーバード大の研究所)が保存実験を行っているところである。階段の保存にはこうした屋根の付け方の方が効果的であるということを証明するために、1/5の大きさの模型を作って、覆われたものの保存状態を調べているという。
こうした取り組みを「保存実験」という。
階段つながりで説明があったところによると、こういう階段に突然(この部分だけ)文字が刻んであるところがある。
この文字入りの部分は、実は、古いものを再利用してあるという。剥がして持ってきてしまったというから凄い。マヤの人々もリサイクル精神に富んでいたらしい。
それにしても、文字や石彫はそもそも王家の特権だったところ、貴族の居住区で使われているというのは、やはり王家の弱体化の現れなんだろう。
日が陰ってきたのと、川沿いの木々が茂っている辺りを歩いているせいでより薄暗く、写真のピントが合っていない。
この建造物は奥にもっと長く続いていたけれど半分以上を(多分ハリケーンに)削られてしまい、先生が4ヶ月くらいかけて調査し、ここまで修復したものらしい。
川は随分と下の方に流れている。
それでも、水の側というのは多分、暮らすによくても遺跡にはよくないんだろう。
左がセプルトゥーラス遺跡のベンチと漆喰の床、右が石彫博物館の展示物である。すでにどちらが本物でどちらがレプリカか忘れてしまった。
セプルトゥーラス遺跡にある建造物の、入口部分の階段はどれも急である。確かマヤの人達は平均身長150cmくらいと聞いたと思うのに、身長170cmの私が「高いよ」と思う高さの階段をどうして作ったのか、本当に謎である。足を置く面の部分が広いのが唯一の救いだ。
遊歩道をバスに向かって戻る途中で見かけたこの実はティカラ(あるいはモーロとも呼ばれる)という。
マヤの人々もこの実を食器として使っていたくらい、殻が硬い。
ガイドさんが家に持って帰って割ろうとしてもなかなか割れず、最後にはトンカチでたたき割ったというから、筋金入りの固さである。「実際に使おうとしたら、割るんじゃなくてのこぎりで切るしかありませんね。」と笑っていた。
17時20分くらい、コパン川越しに見える夕陽に見送られて、セプルトゥーラスの遺跡を後にした。
大分駆け足だ。遺跡の見学時間が既に終了していたところを特別に見せてもらったのだから、有り難いことである。
これで本日の遺跡見学は終了してホテルに戻るのかしらと思っていたら、何もない感じのところでバスが停まった。
そこが10J-45と名付けられた、先生が発見した「アクロポリスの外で初めて発見された王墓」である。
確か道路拡張工事がきっかけで発掘がされた筈なので、それは道ばたにあるに決まっている。その建設中だった道路は計画を変更したという。
残念ながら遺跡自体は今は入場禁止になっている。ガイドさんによると特別許可を受けて見学した日本人が最近いたらしい。
奥に立っている木の周辺が遺跡の中心部である。
その木を切らないように発掘を進めたという。
発見されたときは、木の辺りが少しだけ盛り上がっていて、その他は牧草地だったらしい。盛り上がっている辺りを他にも掘ってみたけれど、他には建造物は発見されなかったそうだ。
遠くに見える石碑がこの10J-45の方を向いていることから考えても、かなり大きな王墓であることは間違いないらしい。
10J-45でも、関連する展示物を納める博物館を作ろう、セプルトゥーラス遺跡とコパン遺跡本体を繋げようといった計画はあるけれど、ホンジュラス政府は金欠なので、実現性はかなり低いという。
カーボン検査で485年から525年くらいの遺跡と判明しており、セプルトゥーラス遺跡やコパン遺跡で今見られる遺跡より時代的に遡るという。そこまで年代が特定されるなら、誰のお墓か判りそうだけどなぁと思ったけれど、そういうものでもないらしい。
後になって、先生の著書を読んだところでは、コパンの第5代から第7代までの王のうちの誰かではないかと推測されていた。
ちょうど500年前後は、コパンの王朝史ではほとんど記録が見つかっていない「空白期」で、「3人のうちに誰か」ということを特定するのも難しい。
コパン村の博物館にも10J-45で発掘された副葬品が納められていたけれど、先生はそのときも余り積極的に説明しようとしなかった。何だか勿体ないことをしたなぁ、この際、強力に体験談を求めるべきだったなぁと思うけれど後の祭りである。
バスはコパン村の入口まで戻り、そこから先は道が狭くて進めないため、歩いて本日の宿であるマリーナ・コパンに戻った。18時前にホテルに入れたのが有り難い。
昼食をいただいたときに閉まっていたホテルのお土産物屋さんは、この時間になってもやっぱり閉まっていた。残念である。ショーウィンドウにあったシルバーのブレスレットがかなり気になる。
夕食は19時からだ。シャワーを浴びて一休みする。
夕食は、昼食と同じレストランでいただいた。
メニューは、サラダ、ピンチョス(チキン、ビーフの串焼き肉)、ライス、アイスまたはフルーツのデザートに、コーヒーまたは紅茶がつく。
飲み物はビールを頼み、そして、この旅行社お馴染みの素麺が食卓に登場した。さっぱりしていて有り難い。そして、この素麺を我々よりも喜んでいたのが、日本から来ている学生さんだった。曰く「米やカップヌードルは食べられるけど、素麺はなかなか食べられない。」と言う。なるほどと思う。
20時半のレクチャーまで少しだけ時間があったので、食後、街中に出た。夜の外出が止められなかったのは、今回のツアーでここコパンだけである。博物館が開くという話をしていたなと行ってみたけれど、入口はしっかり門が閉められ、その前にテーブルと椅子が並んで屋外レストランと化していた。
ホテルに戻ってレクチャーの時間である。
メモした内容は(だから間違っているかも知れない)大体、以下のとおりである。
*****
・マヤ地域は高低差が大きい。最終日に行くカミナルフユで海抜1500mくらい、コパンで600mくらい、ティカルは250mくらいである。このため、自然環境も大きく変わる。何より、湿度と温度が違う。
・遺跡は資源であり、これらを観光活用するためには、保存と共存させる必要がある。保存しつつ、どう周辺の経済発展に繋げていくかということが、文化資産学の目指すところである。
・米州開発銀行によるマヤプロジェクトでは、文化資産学の考えに基づき、主要遺跡を幹線道路で結ぶこと、出入国手続きを簡単にすることを計画している。
しかし、実際はカラクムル遺跡とティカル遺跡の間60kmを直接結ぶ道路の建設も全く進められていない。
マヤ地域は5ヶ国に跨がっているので、横断したプロジェクトの実施はかなり難しい。
・マヤ遺跡の中で、コパンとパレンケが「好きな遺跡」として挙げられることの多い双璧である。
・コパンでは、ファン・カリンドという人が1834年に最初の王墓を発見した。
1881年から始まったアルフレッド・モーズレイによる調査で、石碑Aが発見された。
・コパンは第13代王の時代(8世紀半ば)が最盛期で、人口は28000人もおり、「古典記マヤの最高レベルの芸術」と言われる石像彫刻が作られたのもこの時代である。
・石彫博物館の入口のトンネルは、「蛇の口から入って行く」「ピラミッドを掘って行く」という二つのイメージで作られている。
・ロサリラ神殿は、コパン遺跡では珍しく神殿部分が残されている。
ロサリラ神殿が3層になっているのは、天上・地上・地下を表している。
・ヴェニス憲章により「(遺跡の)修復は、推測が始まるところで終わらせるべきである」とされている。
石彫博物館では、本物ではないレプリカに対して推測も交えた復元を行っている。ただし、この復元等々に展示の専門家は関わっていない。
・明日訪れるキリグア遺跡は、1981年に世界遺産に登録された。
キリグアは5世紀前半にコパンの衛星都市として成立し、モダグア川沿いの交易を担っていた。
738年にキリグアがコパンの王を斬首し、それによってコパンは衰退し、キリグアは隆盛した。
・コパン遺跡とキリグア遺跡では、建造物等の配置が似ている。南にアクロポリス、中央に球技場があって、北側に広場がある。
このため、王家同士が親族関係にあるのではないかとも考えられる。
・キリグア遺跡は、ステラが主である。砂岩で作られているけれど、保存状態が良い。
・ティカル遺跡の見どころは、1・2号神殿と大広場(ここでは現地の人が儀式を行う予定となっているので混雑が予想される)、北のアクロポリス(ただし、保存状態が悪い)、4号神殿が挙げられる。
・ティカル遺跡にある文化遺産保存研究センターは12月20日にオープンする、広域協力の拠点となる場所である。修復保存と有効な保存方法の研究が行われる予定である。
まずは、2012年夏から先生たちが測量を始めており、5年かけて中心部の正確な地図を作成する予定となっている。北のアクロポリスから初めて、ここの測量は2013年春に終了する予定である。
・具体的な修復保存の対象は35号神殿である。1956年から69年にかけてペンシルバニア大学が修復を行っているが、その65%が間違いであると考えられる。この「間違った修復の見直し」には、7〜8年かかると考えられるが、大学からは3年で成果を出せと言われている。
・遺跡の発掘にはファイバースコープや衛星写真の利用が効果的であり、理系の教室との協力も模索している。透視はできないのかという質問が出たが、これは周りに土や木があると難しい。
*****
レクチャーが終わったのは21時半近かった。
その後、JICAの派遣で来ている日本の方々とツアーに参加していた女性と4人でお酒を飲みに行った。
コパンの街は、マヤ暦の一巡を祝ってか、広場等でコンサートが行われていて賑やかである。演奏していたのは有名なヴァイオリニストらしい。
「ホンジュラスで一番たくさん飲まれているお酒がいいなぁ。」と言って、「命を救う」という凄い名前がついたビールを教えてもらった。
JICAからの派遣で来ている方のお話を伺うと、ホンジュラスを希望したというよりは、「公園整備」という内容での派遣が可能な場所がそもそも非常に限られていて、ホンジュラスはその一つだったそうだ。
予算が3ヶ月で4万円だったり、ハサミが必要だと要求して手に入るまでに1ヶ月かかったり、「派遣期間内に何かができるんだろうか」と当初はもの凄く焦ったと笑っていらした。
「これをやりに来た訳では・・・」と思いつつ、昼間に我々もお世話になった看板などを作っているという。ホンジュラスの人は「あるといいね。」とは言うけれど、自分たちで作ろうとはしないという。
遺跡で働いている人にお給料が出ていないと聞いて「公務員じゃないんですか?」と驚いて尋ねたら、いわゆる第三セクターのような形になっているという。
その他、色々と裏話的なことも教えてもらって楽しかった。
ホテルに戻ったのが23時過ぎで、それから今度は先生とホンジュラスの関係者との集まりに何故か混ざり、再びお酒を飲みに出た。何だかもう滅茶苦茶である。
スペイン語が飛び交っていたので、話の内容は全く不明である。
自分がラム酒をストレートで飲める人間だということを初めて知った。
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