中米3ヶ国旅行記6日目その2
2012年12月20日(木曜日)
キリグアという国が重要な地位を占めていたことを否定するつもりはもちろん毛頭ない。コパン王朝のヤシュ・クック・モにより426年に作られ、コパンの衛星都市として栄えていたが、738年にコパン13代王である18ウサギ王を捕虜としたことで一気に形勢逆転し、その後、コパンの衰退とは逆に独立して繁栄を築いて行く。
キリグア遺跡は、建物ではなく、砂岩で作られて見事な彫刻が残っているステラと獣形祭壇がその白眉だ。
ステラと獣形祭壇は、マヤ最大の大広場(縦325m、横100m)に点在している。そして、18ウサギ王はこの場所で生け贄にされたと考えられるという。先生曰く「歴史的な場所にいることになります。」ということだ。
もっとも、私たちが行ったときには、この広場の真ん中にイベント用らしい舞台が組まれていて、少々つや消しではあった。
大広場で殺されてしまったコパンの18ウサギ王のお墓がどこにあるのか、今も判っていない。
1970年代にキリグア遺跡の調査が行われたけれど、ダイジェスト版のような調査報告書しか世に出ておらず、指揮を執った考古学者も鬼籍に入ってしまい、もう詳細を知ることはできないだろうという。
キリグア遺跡はアクロポリスも含めて土の中に埋まっている部分が多い。何しろ周りはアメリカ資本のバナナ・プランテーションなので、調査もままならないらしい。
遺跡入口から一番近い場所にあるのが石碑Aだ。
石碑Aは、725年に即位し、738年のコパンからの独立を経て、785年7月までキリグア王として君臨したカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王により建てられたもので、もちろんこの肖像は王自身だ。
それまでコパンの衛星都市だったキリグアが独立し、「コパンの交易窓口」として素通りしていた黒曜石や翡翠、ケツァルの羽などの交易品をキリグアで管理・独占できるようになり、一気に裕福な国となって、ステラもコパンのものを超える高さを目指してばんばん建てたらしい。
現在はキリグア遺跡とモタグア川とは大分離れているけれど、当時は川は本当にキリグア遺跡のすぐ側を流れていて、近くには船着き場もあったという。そうでなければ、交易窓口にわざわざ選ばれる筈もない。
その場での言及はなかったけれど、先生の著作で、コパンの18ウサギ王とカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王は親族、それも親子だったのではないか、だからカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王はコパンを徹底して模倣した都市をキリグアに出現させたのではないか、という仮説が提示されていた。
石碑Cもやはりカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、石碑Aと対になっている。
石碑Cを有名にしているのは、石碑に彫られた王の肖像ではなく、側面に刻まれた日付だ。
マヤの世界創造の日である紀元前3114年8月13日に当たる日の日付が刻まれている。この日付を元に、「明日がマヤ暦が終わる日」だと計算されているこのツアーにとっても重要この上ない日付だ。
石碑A、石碑Cと並んでいるのが石碑Dである。石碑Dには、王の象徴である儀仗を持った姿で彫られている。
そして、何ともいえないアルカイックスマイルだ。阿修羅像を思わせるというのは言いすぎだろうか。
また、石碑Dの側面に彫られているマヤ文字は、いわゆる「全身像文字」である。普通のマヤ文字だって複雑なのに、ここまで来ると複雑怪奇だ。そして、この細かな彫刻が今も綺麗に残っていることが素晴らしい。
しかし、先生は、キリグアのこれらのステラも、前に見たときよりも傷んでいるような気がするとおっしゃる。
コパンではステラと祭壇はセットになっていたけれど、キリグアではどちらかというと同じ比重、同じ種類のものとして扱われているような感じがする。
獣形祭壇Bは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が最後に建てたものだ。まだまだ権力は十分に握っていますよ、衰えていませんよ、という印象である。
赤い色が残っていて、当時は全体が真っ赤に塗られていたのではないかと言われている。
広場の中央近くにある石碑Eは、マヤでもっとも高いステラである。地上部分が8m、地下に3m分埋まっているという。それくらい地中深くに埋めないと倒れちゃうんだろう。
また、石碑Eの膝のあたりに、人の顔を象った飾りが彫られている。これは恐らくは翡翠で、パレンケ王家の女性がコパンに来たときにこうした飾りを持ち込んだものだという。
石碑Eは、雷が落ちて割れたことがある。これだけ何にもない広場に8mの棒が立っていれば、それは雷も落ちそうではある。
真ん中より少し上の右側から左下にかけて斜めに割れてしまい、今はセメントで固めてある。
ティカルでも最近、神殿に雷が落ちて修復が必要になっていて、雷が落ちるというのはよくあることだそうだ。「金属じゃないのに、周りにもっと高い木があるのに」と思うけれど、平らなところに立っているというのと、修復の際に内部に金属を入れた例もあるそうだ。
石碑Fは、石碑Eが建てられるまではマヤで一番高いステラの地位を保っていた。
今は、かなり傾いてしまっている。
また、石碑Fには綺麗にマヤ文字の碑文が残っている。そう説明されてどうして写真を撮っていないのか、我ながら不思議である。
獣形祭壇Gは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王ではなく、その後を継いだ王によって建てられたものだ。
亀と鰐と蛙が合体したような形になっている。
左側の面では、大きく開けられた口から人の顔が覗いている。ちょっと、ラ・ベンダ遺跡公園っぽい。ということは、オルメカ文明っぽいということだろうか。
自然界にいる動物を組み合わせて、超自然的なもの、自然界に存在しないものを作っている。
「そもそも何ために?」と質問したら、大本はコパン遺跡のようにステラとセットになっていて、例えば台座を据えてそこに座ったり、捧げ物を置いたりといった用途だったらしい。
両側に人の顔が彫られているので「正面はどちらでしょう?」と質問したら、正面はなくて両面だという答えだ。片方は生の世界、片方は死の世界を向いているという。
「でも、捧げ物をするのであれば、正面があるのでは?」と食い下がったけれど、この場合はやはり特に決められないみたいだった。
キリグア遺跡はあまり発掘調査が進んでいないので、どなたかが「元々のレベルはどこだったんですか?」と要するに地面の高さはどこ? と質問されていたけれど、実はそれもよく判らないようだった。
大広場が今ここにこうやってあるんだから、今私たちが歩いている高さが昔もやっぱり地面の高さだったのでは? と思ったら、そういうものでもないらしい。
グアテマラ国境から我々の警護についてくれていた観光警察の方々が、広場に散開して見張り役に徹していることに、この頃やっと気がついた。
広場の反対側に行くと、ステラもずんぐりむっくりになり、ステラの台座のようなものもなくなって地面から直接生えているような感じになる。
広場というのは公共の場所で、誰でも入れるようになっている。なので、コパンの王を斬首したと書いた看板を広場に立てているようなものなんだろう。
このステラだけ向きが違っているのは、この石碑Jが当時のキリグアの正面であった川の方を向いて建てられているからだという。
碑文の読み方も説明してもらったけれど、私の頭には全く入って来なかった。申し訳ない。
この石碑Jもカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、碑文には、20年近く前にコパンの18ウサギ王を斬首して、自分が王権の象徴たる儀仗を握ったことが刻まれている。どうせなら、もっと立派なステラに刻めばいいのに勿体ないと思う。
この文字が斧の絵になっていて、「斬首した」という意味を表すと説明して貰ったことだけは覚えている。
それ以前に作られた、祭壇Mや祭壇Nなどは、まだキリグアがコパンの従属下にあった時代に作られたもので、コパンに遠慮しているのか、サイズも小さいし、彫刻もそれほど凝っていない。
この辺り、判りやすいくらいだ。
この祭壇Mと祭壇Nの東側が、まだ発掘されていないけれど、球技場があった場所で、若干、盛り上がっているのが判る、ような気がする。
さらに奥に行くと、アクロポリスに登る階段の手前に、獣形祭壇と獣形祭壇を平たくしたような石のセットが並んでいる。獣形祭壇Oと獣形祭壇Pである。両方ともカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王の息子が作ったものだ。
この低い方の石は、大きい方の石が見つかってからも相当長い時間、見つからなかったそうだ。
獣形祭壇Oの方は、かなり崩れてしまっていて保存状態が悪い。どうして隣同士の獣形祭壇Pとでこんなに違いが出てしまうのか、よく判らない。獣形祭壇Pは、本当に美しい彫刻が残っている。
マイフォトに載せた写真は、アクロポリスを背負っている側の彫刻で、こちらはアクロポリスに向き合った側の彫刻である。
とにかく精緻で、彫りも細かく、図柄もかなり複雑である。マヤ文字も刻まれており、その並べ方も蛇の身体に沿って並んでいたりとこちらも複雑である。それが原因なのかどうか、獣形祭壇OとPに刻まれたマヤ文字はほとんど解読されていない。
そして、獣形祭壇Pの下には、何と、イグアナがいた。
ツアーメンバーの方が「ご存知?」と指さして教えてくださった。この写真で黒っぽく写っているのがそれである。驚いた。
12時過ぎ、キリグア遺跡のアクロポリスに突入である。
この写真の右手前の建物や奥に見えている建物が、キリグアのアクロポリスの一部である。多分、まだ発掘されていない建造物がこの辺りにたくさん残されている筈だ。
今地上に見えている建造物は、9世紀に建てられたものである。
アクロポリスの中に、一部、発掘中なのか8世紀に造られ使われていた部分を見ることができるところがあった。このモザイクもその一部だ。
当時は、モタグア川が本当にこの近くを流れていたので、このモザイク飾りを川から見ることができたのではないかと言う。装飾であることはもちろん、経済力その他諸々の権力を誇示する、示威としての意味もあったということだろう。
こういった飾りは、キリグアがコパンの衛星都市だったので、コパンのものに倣っているという。
復元された建造物に入ると、ベンチの側面といえばいいのか、座面ではないところにマヤ文字が残されていた。
738年にキリグアがコパンの18ウサギ王を捉えて斬首したことで、この2ヶ国の外交関係は恐らく途絶えていただろうと考えられる。しかし、このこのベンチの碑文(ここだけではなく、他の部屋のベンチに彫られた碑文も東から一連の内容になっている)に、コパン最後の王がキリグアを訪問し、ここで一緒に儀礼を行ったと書かれているという。
ちょっと不思議な感じがする。逆にコパンがキリグアに従属するような形になったということなんだろうか。
アクロポリスの見学も終えて入口に引き返す途中、大広場の真ん中に白っぽい衣装を着たそれっぽい人々がセイバの木の根元に集まっているのが目に入った。これは見たいでしょうと、皆して近寄って行く。
印象として「これは儀式か、イベントか」と聞かれたら「イベントだと思う」と答えると思う。実際のところはよく判らない。
白い衣装を着て、この女性のような頭飾りをつけた人達が楽器を持って集まっており、香が焚かれ、リーダーの声に合わせて皆が何かを唱和している。
遺跡のスタッフがとがめ立てしていないから、きちんと届けのようなものが出されていたと思うけれど、しばらく見ていても何が行われていたのかよく判らなかった。
バスに戻ってからガイドさんが話してくれたところによると、先ほどの儀式というかイベントを行っていたのは、マヤの人々ではなく、世界22ヶ国から集まった人々だそうだ。それはそれで凄いような気もする。どうやって知り合い、どうやって集まったのだろう。
我々がマヤ暦の切り替わりの日にその場にいたいと思ったのと同じように、その場にいたいと思った人がいても不思議はない。
13時前にキリグア遺跡の見学を終え、ティカルに向けて出発した。
まずは昼食である。
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