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2014.05.30

改めて申込書を送付する(香港&クルーズ)

 2014年5月29日、旅行会社から申込書や請求書一式が届いた。
 申込書やパスポートコピーはともかく、29日に届いたのに振込は6月2日までというのは結構、時間がない。
 しかし、電話で確認したとおりの支払金額だったので、満足である。ここは満足するところではないという気もするけれど、この前に依頼した(そしてキャンセルした)旅行社は、問い合わせの回答と請求額が異なり、その点に関する問い合わせを1週間も放置されたのだから、この差は大きいのだ。

 旅行申込書に、行きの航空便と前泊する場合はそのホテル名とを記載する欄があった、クルーズだけの手配以来なので、クルーズに何らかの問題があった場合(あったら困るけれど)、連絡する必要があるからだそうだ。
 JALのサイトで予約した航空券の支払期限も6月1日だったので、まずはこちらを確定させた。

 ホテルについては、まだ若干、迷うところではあったのだけれど、5月31日が有効期限の楽天ポイントがあるので、そのポイントを支払いに充てようと海外ホテルの宿泊を予約しようとしたところ、海外ホテルの宿泊にはポイントは使えないと判った。
 ショックである。
 貯まった楽天ポイントをここで一気に使って宿泊費はタダで行ってこようと思っていたのだ。
 しかし、他のホテル予約サイトと比較してもそれほど条件が悪くなかったので、このまま予約することにした。

 ホテル選びのポイントとしては、一人旅なので便利かつ安全な場所にあること、空港からホテルまでの足とホテルからクルーズ船が発着するターミナルまでの足が確保されることである。
 便利さでいえば尖沙咀がベストだけれど、逆にクルーズ船が停泊する桟橋までも近すぎてタクシーの利用がしにくいのが難点だ。香港の道(歩道)はでこぼこしていたり工事中だったりで、スーツケースを転がして歩くには不向きだったという印象が残っているので、それは避けたい。
 そうなると、ハーバーシティ内のホテルに泊まれば、屋内だからスーツケースを転がすこともできるし、雨が降っても濡れずに移動ができるというのは大きい。
 ホテル代が高過ぎだろうと思いつつ、プリンス ホテルに予約を入れた。ハーバーシティにはマルコポーロ系列のホテルが3軒入っていて、一番リーズナブル(といっても、そもそも香港のホテルは高い)な代わりにクルーズ船のターミナルからは一番遠くなるけれど、ここは値段の方を優先した。

 併せて、旅行代金(どちらでもいいですと言ったら、全額を一括払いすることになった。)の振込を行った。
 あとは、出発の1週間くらい前までに、クルーズ関連の書類が届くことになっている。

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2014.05.24

ツアーのキャンセルを依頼する(香港&クルーズ)

 2014年5月15日に、旅行社(仮にA社としておく)から申込書等一式が届いた。
 しかし、昨今のニュースが気になっていたのと、申込書等の記載内容に疑問があったので、17日に以下の3点について旅行社(A社としておく)にメールで問い合わせをした。

1 昨今、南シナ海の問題を端緒としてベトナムと中国の間で緊張が高まっている旨のニュースを見るが、今回のクルーズに影響はないか。
2 以前の案内では、8月16日出発のシングル追加代金は72000円だったが、今回の予約確認書等では、75000円になっている理由は何か。
3 ホリデーサーチャージとは何か。
4 以上の2点を加味しても、8月出発日の中で、8月16日出発が最安値であることは変わらないのか。

 入金の締切日である5月20日になっても回答はなく、20日に「申込みをするかどうか決めるためにも早く回答をください」と再度、質問事項をメールしたけれど、未だに回答がない。

 安全と料金に関係する質問に答えてもらえないようでは今後の手続き等にも不安が残るし、いざというときに頼りにならなさそうな旅行社にツアーを組んで貰ってもメリットはない。
 「ツアー」という形に何となくケチがついたような気分にもなって、別会社(B社としておく)にクルーズのみの手配が可能かどうか問い合わせを出した。
 こちらの反応は早くて、サイトから問い合わせを出した十数分後には担当者から電話がかかってきた。
 電話でのやりとりは苦手なのだけれど、残室が少ないとなれば仕方がない。そのまま予約をお願いしたところ、しばらくしてから再度B社から電話がかかってきて、すでに私の名前で予約が入っているのでダブルブッキングになってしまうと言われた。

 考えてみれば、問い合わせに対して回答がないだけで、A社の予約が生きているのは当然である。
 恐らくメールでは埒があかないだろうと、A社に電話して「問い合わせに1週間も回答されない状況では不安があるので」とキャンセルを申し出たところ、担当者から折り返しますと言われてしまった。
 担当者と話してもキャンセルの意思は変わらないし、私はこの後すぐ出かけるのでと言ったのだけれど、聞いてもらえない。

 少し待ったけれど電話もかかってこなかったので外出し、夜、帰宅したらA社からメールが入っていた。
 内容は、問い合わせに対する回答だったけれど、3点質問したうちの2点にしか答えておらず、しかも、金額が違っていたのは「最初のメールが打ち間違いで、請求書が正しい」という理由であり、結果として「8月出発日のうち最安値となる日程は、実は30日なので、こちらで検討してください。」と書いてある。
 多少は仕事の調整もした上で申込みをしたので、そう簡単に「別日程で検討してください」と言われると流石に違和感がある。ミスがあったのだからまずは謝罪じゃないの? と思ってしまうのだ。

 再度、キャンセルの手続きを進めるよう依頼するメールを出した。

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2014.05.22

590000アクセス達成!

 今日(2014年5月22日)、どなたかが590000アクセス目を踏んでくださった。
 やはりスパリゾートハワイアンズの旅行記と持ち物リストへのアクセスが多いようだ。
 これまでの経過は以下のとおりである。

 スタート 2004年9月1日
 10000アクセス 2005年7月17日
 50000アクセス 2006年11月22日
100000アクセス 2008年6月15日
150000アクセス 2009年2月21日
200000アクセス 2009年11月30日
250000アクセス 2010年9月16日
300000アクセス 2011年5月26日
350000アクセス 2012年2月8日
400000アクセス 2012年9月3日
450000アクセス 2013年2月19日
500000アクセス 2013年8月14日

510000アクセス 2013年9月7日
520000アクセス 2013年10月3日
530000アクセス 2013年11月4日
540000アクセス 2013年12月12日
550000アクセス 2014年1月14日

560000アクセス 2014年2月10日
570000アクセス 2014年3月13日
580000アクセス 2014年4月21日
590000アクセス 2014年5月22日

 こうして続けていられるのは、遊びに来て、読んでくださる方のおかげです。
 ありがとうございます。
 今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

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2014.05.18

中米3ヶ国旅行記6日目その2

2012年12月20日(木曜日)


大広場 キリグアという国が重要な地位を占めていたことを否定するつもりはもちろん毛頭ない。コパン王朝のヤシュ・クック・モにより426年に作られ、コパンの衛星都市として栄えていたが、738年にコパン13代王である18ウサギ王を捕虜としたことで一気に形勢逆転し、その後、コパンの衰退とは逆に独立して繁栄を築いて行く。
 キリグア遺跡は、建物ではなく、砂岩で作られて見事な彫刻が残っているステラと獣形祭壇がその白眉だ。


 ステラと獣形祭壇は、マヤ最大の大広場(縦325m、横100m)に点在している。そして、18ウサギ王はこの場所で生け贄にされたと考えられるという。先生曰く「歴史的な場所にいることになります。」ということだ。
 もっとも、私たちが行ったときには、この広場の真ん中にイベント用らしい舞台が組まれていて、少々つや消しではあった。


 大広場で殺されてしまったコパンの18ウサギ王のお墓がどこにあるのか、今も判っていない。
 1970年代にキリグア遺跡の調査が行われたけれど、ダイジェスト版のような調査報告書しか世に出ておらず、指揮を執った考古学者も鬼籍に入ってしまい、もう詳細を知ることはできないだろうという。
 キリグア遺跡はアクロポリスも含めて土の中に埋まっている部分が多い。何しろ周りはアメリカ資本のバナナ・プランテーションなので、調査もままならないらしい。


石碑a 遺跡入口から一番近い場所にあるのが石碑Aだ。
 石碑Aは、725年に即位し、738年のコパンからの独立を経て、785年7月までキリグア王として君臨したカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王により建てられたもので、もちろんこの肖像は王自身だ。
 それまでコパンの衛星都市だったキリグアが独立し、「コパンの交易窓口」として素通りしていた黒曜石や翡翠、ケツァルの羽などの交易品をキリグアで管理・独占できるようになり、一気に裕福な国となって、ステラもコパンのものを超える高さを目指してばんばん建てたらしい。


 現在はキリグア遺跡とモタグア川とは大分離れているけれど、当時は川は本当にキリグア遺跡のすぐ側を流れていて、近くには船着き場もあったという。そうでなければ、交易窓口にわざわざ選ばれる筈もない。
 その場での言及はなかったけれど、先生の著作で、コパンの18ウサギ王とカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王は親族、それも親子だったのではないか、だからカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王はコパンを徹底して模倣した都市をキリグアに出現させたのではないか、という仮説が提示されていた。


石碑c最初の日付 石碑Cもやはりカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、石碑Aと対になっている。
 石碑Cを有名にしているのは、石碑に彫られた王の肖像ではなく、側面に刻まれた日付だ。
 マヤの世界創造の日である紀元前3114年8月13日に当たる日の日付が刻まれている。この日付を元に、「明日がマヤ暦が終わる日」だと計算されているこのツアーにとっても重要この上ない日付だ。


石碑d石碑d 石碑A、石碑Cと並んでいるのが石碑Dである。石碑Dには、王の象徴である儀仗を持った姿で彫られている。
 そして、何ともいえないアルカイックスマイルだ。阿修羅像を思わせるというのは言いすぎだろうか。
 また、石碑Dの側面に彫られているマヤ文字は、いわゆる「全身像文字」である。普通のマヤ文字だって複雑なのに、ここまで来ると複雑怪奇だ。そして、この細かな彫刻が今も綺麗に残っていることが素晴らしい。
 しかし、先生は、キリグアのこれらのステラも、前に見たときよりも傷んでいるような気がするとおっしゃる。


獣形祭壇b コパンではステラと祭壇はセットになっていたけれど、キリグアではどちらかというと同じ比重、同じ種類のものとして扱われているような感じがする。
 獣形祭壇Bは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が最後に建てたものだ。まだまだ権力は十分に握っていますよ、衰えていませんよ、という印象である。
 赤い色が残っていて、当時は全体が真っ赤に塗られていたのではないかと言われている。


石碑e石碑eの膝 広場の中央近くにある石碑Eは、マヤでもっとも高いステラである。地上部分が8m、地下に3m分埋まっているという。それくらい地中深くに埋めないと倒れちゃうんだろう。
 また、石碑Eの膝のあたりに、人の顔を象った飾りが彫られている。これは恐らくは翡翠で、パレンケ王家の女性がコパンに来たときにこうした飾りを持ち込んだものだという。


 石碑Eは、雷が落ちて割れたことがある。これだけ何にもない広場に8mの棒が立っていれば、それは雷も落ちそうではある。
 真ん中より少し上の右側から左下にかけて斜めに割れてしまい、今はセメントで固めてある。
 ティカルでも最近、神殿に雷が落ちて修復が必要になっていて、雷が落ちるというのはよくあることだそうだ。「金属じゃないのに、周りにもっと高い木があるのに」と思うけれど、平らなところに立っているというのと、修復の際に内部に金属を入れた例もあるそうだ。


石碑f 石碑Fは、石碑Eが建てられるまではマヤで一番高いステラの地位を保っていた。
 今は、かなり傾いてしまっている。
 また、石碑Fには綺麗にマヤ文字の碑文が残っている。そう説明されてどうして写真を撮っていないのか、我ながら不思議である。


獣形祭壇g 獣形祭壇Gは、カック・ティリュウ・チャン・ヨアート王ではなく、その後を継いだ王によって建てられたものだ。
 亀と鰐と蛙が合体したような形になっている。
 左側の面では、大きく開けられた口から人の顔が覗いている。ちょっと、ラ・ベンダ遺跡公園っぽい。ということは、オルメカ文明っぽいということだろうか。
 自然界にいる動物を組み合わせて、超自然的なもの、自然界に存在しないものを作っている。


 


 「そもそも何ために?」と質問したら、大本はコパン遺跡のようにステラとセットになっていて、例えば台座を据えてそこに座ったり、捧げ物を置いたりといった用途だったらしい。
 両側に人の顔が彫られているので「正面はどちらでしょう?」と質問したら、正面はなくて両面だという答えだ。片方は生の世界、片方は死の世界を向いているという。
 「でも、捧げ物をするのであれば、正面があるのでは?」と食い下がったけれど、この場合はやはり特に決められないみたいだった。


 キリグア遺跡はあまり発掘調査が進んでいないので、どなたかが「元々のレベルはどこだったんですか?」と要するに地面の高さはどこ? と質問されていたけれど、実はそれもよく判らないようだった。
 大広場が今ここにこうやってあるんだから、今私たちが歩いている高さが昔もやっぱり地面の高さだったのでは? と思ったら、そういうものでもないらしい。
 グアテマラ国境から我々の警護についてくれていた観光警察の方々が、広場に散開して見張り役に徹していることに、この頃やっと気がついた。


石碑j 広場の反対側に行くと、ステラもずんぐりむっくりになり、ステラの台座のようなものもなくなって地面から直接生えているような感じになる。
 広場というのは公共の場所で、誰でも入れるようになっている。なので、コパンの王を斬首したと書いた看板を広場に立てているようなものなんだろう。
 このステラだけ向きが違っているのは、この石碑Jが当時のキリグアの正面であった川の方を向いて建てられているからだという。


 


斧 碑文の読み方も説明してもらったけれど、私の頭には全く入って来なかった。申し訳ない。
 この石碑Jもカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王が建てたもので、碑文には、20年近く前にコパンの18ウサギ王を斬首して、自分が王権の象徴たる儀仗を握ったことが刻まれている。どうせなら、もっと立派なステラに刻めばいいのに勿体ないと思う。
 この文字が斧の絵になっていて、「斬首した」という意味を表すと説明して貰ったことだけは覚えている。


 それ以前に作られた、祭壇Mや祭壇Nなどは、まだキリグアがコパンの従属下にあった時代に作られたもので、コパンに遠慮しているのか、サイズも小さいし、彫刻もそれほど凝っていない。
 この辺り、判りやすいくらいだ。
 この祭壇Mと祭壇Nの東側が、まだ発掘されていないけれど、球技場があった場所で、若干、盛り上がっているのが判る、ような気がする。


獣形祭壇o さらに奥に行くと、アクロポリスに登る階段の手前に、獣形祭壇と獣形祭壇を平たくしたような石のセットが並んでいる。獣形祭壇Oと獣形祭壇Pである。両方ともカック・ティリュウ・チャン・ヨアート王の息子が作ったものだ。
 この低い方の石は、大きい方の石が見つかってからも相当長い時間、見つからなかったそうだ。
 獣形祭壇Oの方は、かなり崩れてしまっていて保存状態が悪い。どうして隣同士の獣形祭壇Pとでこんなに違いが出てしまうのか、よく判らない。獣形祭壇Pは、本当に美しい彫刻が残っている。


獣形祭壇P マイフォトに載せた写真は、アクロポリスを背負っている側の彫刻で、こちらはアクロポリスに向き合った側の彫刻である。
 とにかく精緻で、彫りも細かく、図柄もかなり複雑である。マヤ文字も刻まれており、その並べ方も蛇の身体に沿って並んでいたりとこちらも複雑である。それが原因なのかどうか、獣形祭壇OとPに刻まれたマヤ文字はほとんど解読されていない。
 そして、獣形祭壇Pの下には、何と、イグアナがいた。
 ツアーメンバーの方が「ご存知?」と指さして教えてくださった。この写真で黒っぽく写っているのがそれである。驚いた。


アクロポリス 12時過ぎ、キリグア遺跡のアクロポリスに突入である。
 この写真の右手前の建物や奥に見えている建物が、キリグアのアクロポリスの一部である。多分、まだ発掘されていない建造物がこの辺りにたくさん残されている筈だ。
 今地上に見えている建造物は、9世紀に建てられたものである。


モザイク アクロポリスの中に、一部、発掘中なのか8世紀に造られ使われていた部分を見ることができるところがあった。このモザイクもその一部だ。
 当時は、モタグア川が本当にこの近くを流れていたので、このモザイク飾りを川から見ることができたのではないかと言う。装飾であることはもちろん、経済力その他諸々の権力を誇示する、示威としての意味もあったということだろう。
 こういった飾りは、キリグアがコパンの衛星都市だったので、コパンのものに倣っているという。


ベンチの碑文 復元された建造物に入ると、ベンチの側面といえばいいのか、座面ではないところにマヤ文字が残されていた。
 738年にキリグアがコパンの18ウサギ王を捉えて斬首したことで、この2ヶ国の外交関係は恐らく途絶えていただろうと考えられる。しかし、このこのベンチの碑文(ここだけではなく、他の部屋のベンチに彫られた碑文も東から一連の内容になっている)に、コパン最後の王がキリグアを訪問し、ここで一緒に儀礼を行ったと書かれているという。
 ちょっと不思議な感じがする。逆にコパンがキリグアに従属するような形になったということなんだろうか。


キリグア遺跡にて アクロポリスの見学も終えて入口に引き返す途中、大広場の真ん中に白っぽい衣装を着たそれっぽい人々がセイバの木の根元に集まっているのが目に入った。これは見たいでしょうと、皆して近寄って行く。
 印象として「これは儀式か、イベントか」と聞かれたら「イベントだと思う」と答えると思う。実際のところはよく判らない。
 白い衣装を着て、この女性のような頭飾りをつけた人達が楽器を持って集まっており、香が焚かれ、リーダーの声に合わせて皆が何かを唱和している。


イベントか儀式か 遺跡のスタッフがとがめ立てしていないから、きちんと届けのようなものが出されていたと思うけれど、しばらく見ていても何が行われていたのかよく判らなかった。
 バスに戻ってからガイドさんが話してくれたところによると、先ほどの儀式というかイベントを行っていたのは、マヤの人々ではなく、世界22ヶ国から集まった人々だそうだ。それはそれで凄いような気もする。どうやって知り合い、どうやって集まったのだろう。
 我々がマヤ暦の切り替わりの日にその場にいたいと思ったのと同じように、その場にいたいと思った人がいても不思議はない。
 13時前にキリグア遺跡の見学を終え、ティカルに向けて出発した。
 まずは昼食である。


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2014.05.17

中米3ヶ国旅行記6日目その1

2012年12月20日(木曜日)


ホテル全景 昨夜のお酒のせいか、夜中に何度か目が覚め、4時に起き出した。
 何にもしないで寝てしまったので、シートパックをして、コーヒーを飲んで酒気を抜く。湿布も貼らずに寝てしまったので若干筋肉痛が残っている。不思議と二日酔いはない。多分、相当にいいお酒だったんだろうと思う。


 何とかしゃんとしたところで荷造りし、それでも時間が余ったのでホテルの写真を撮る。私の部屋は塔のような建物の最上階にあり、ホテルやコパンの街を見渡すことができた。その後、広場まで行くと「夢の跡」という風情だった。
 朝の内は霧なのか靄なのか、青空が望めないのは毎日のことだ。


 毎日ホテルが変わって毎日長距離バス移動はやっぱり体力的に辛い。今日は、朝食がボックスではなくホテルでいただけるのが嬉しい。
 6時半から朝食だ。
 1時間後にはバスで出発することを考え、パンケーキとコーヒー、フルーツにヨーグルトと軽めの朝食に抑えておいた。
 7時半にホテルを出てバスが待つ坂道の下まで歩く。バスは7時40分にコパン村を出発した。


 本日の予定について説明がある。国境を越えてグアテマラに戻ってまずキリグア遺跡の見学、その後は湖畔でお昼ごはんを食べ、あとはひたすら北上してティカルを目指す。「順調にいって4時間15分くらい。大型バスはあまりスピードが出せないので・・・。」というガイドさんの談だ。19時半くらいにはフローレスに着きたい、という行程だという。
 「国境を越える際には果物の検疫所があるので、持っている人は隠しておいてくださいね。」と言われる。たまに、国境を越える際に、貴重品だけ持って客はバスを降り、荷物検査をされることがあるそうだ。


 コパンは標高600mくらいで多少涼しかったけれど、これから行くキリグアは標高65〜100mくらいでかなり暑いし、虫も出やすいという。また、ティカルやコパンでは木陰を歩けるけれど、キリグアは芝生の広場をひたすら見学するので、直射日光を遮るものがない。余計に暑く感じるという寸法だ。
 ホンジュラスは、本当に国境からちょっと入ってコパン遺跡を見学しそのままトンボ帰りしてしまったので実感がないけれど、グアテマラとホンジュラスでは、ほんの少しだけホンジュラスの方が国土面積が広い。でも、人口は、グアテマラがホンジュラスの倍ほどいるという。
 主要な農産物はグアテマラがコーヒー、ホンジュラスはバナナだ。最近はホンジュラスもコーヒーに力を入れている。


コーヒー(ウエウエテナンゴ) グアテマラのコーヒーは有名だ。
 ガイドさんは、美味しいコーヒーを買いたいなら、空港の免税店にアナカフェ(Association Nacional del Caféの略称)と呼ばれるグアテマラ全国コーヒー協会が出店していて、そこの「アンティグア」という銘柄がお勧めだと言う。また、「ウエウエテナンゴ」という銘柄もお勧めだけれど、こちらは若干酸味が強いそうだ。
 この写真は、ガイドさんのお勧めに半分従ってグアテマラシティの空港で購入した、アナカフェのウエウエテナンゴである。


 コーヒーは、アラビカ種とロブスタ種があって、アラビカ種は熟す時期がバラバラなので手摘みが必須、ロブスタ種は一気に機械での収穫が可能だ。
 しかも、アラビカ種はとても弱くて栽培も難しい。
 ベトナムなどがロブスタ種のコーヒー豆の産地として近年伸びて来ているけれど、でも「あまり美味しくない」というのが定説で、ほとんどがインスタントコーヒー用になっているという。


 ガイドさんはこのコーヒー摘みから飲めるようにするまでの一通りを体験したことがあるという。
 コーヒー豆摘みは乾季の11月ころに行うので、埃が凄い。そして、手で摘むためにコーヒー豆の果汁が手などにつき、その果汁に埃がついて、1日終わる頃にはもう真っ黒になってしまう。
 コーヒー豆の皮を剥くのに手でやっていたら腱鞘炎になりそうだったから足で踏んだり、お肉をミンチにする機械にかけたりして何とかむき終わり、その後は数日干して乾燥させ、さらに薄皮を剥く。お米をつくのと同じように瓶に入れて棒で突くのが一番効率的だったそうだ。
 そこで皮が剥けたコーヒー豆は緑色をしている。輸出するのはこの状態の豆だ。
 飲む場合には、25分くらい焙煎する。


コーヒー農園のお金 待ち時間にガイドさんが回してくれたこのお金は、コーヒー農園の中だけで流通していたお金である。
 1700年代頃まで、農園の中だけで生活が完結するようになっていて、農園主がお金を作り、働いている人たちへの給料もこのお金で払い、生活に必要なものを農園の中で売っていたらしい。
 農園主はいくらでもお金を作れるということになって、これでは、農園主だけが丸儲けである。ガイドさんは割とあっさりと説明していたけれど、ちょっとぞっとした。
 現在も、原住民の方をコーヒー実摘みの労働力として安く使えるからこそグアテマラのコーヒーは国際競争力を維持できているというから、構造としてはほとんど変わらないのかも知れない。


 道ばたにトラクターの列が見えてきた。
 国境越えのための荷物検査を待つ車だそうだ。コパンを出発してから15分くらいである。
 ついでに、闇両替商も商売に励んでいる。我々は出入国手続きはガイドさんにお任せして、バス内で待機だ。
 また、グアテマラに入ると再び観光警察の方に護衛して貰うので、その手続きと支払いも行ったらしい。警察が護衛に付くって凄いよなぁとも思うし、護衛がいないと不安って相当に治安が悪いんだろうなぁとも思う。


車窓 再び出発し、車窓風景を楽しみながら、バスはキリグア遺跡に向かう。8時過ぎになると、霧が晴れ、青空が広がるのはいつものことだ。
 9時前に、ガソリンスタンドでトイレ休憩になった。
 しかし、ここで気になったのは、ガソリンスタンドでもトイレでもなく、そのお隣でコーヒー豆を天日干ししていたところだ。
 カメラを向けるとポーズを取ってくれたこのお兄さんたちが、甲子園球場みたいな道具でコーヒー豆を平らにし、まんべんなく日光が当たるようにしている。
 「少しならOK」と言ってもらい、このうちの何粒かをお土産にいただいた。


モタグア川 9時40分くらいに、モタグア川を渡った。そこからすぐのところに昨日も通った分岐点があり、アトランティック街道に入る。
 カリブ海側のプエルト・バリオスから太平洋側のプエルトケツアルへ抜けるこの街道の交通量は相当多い。パナマ運河を通ると通行料が激しく高くなるからだという。
 この渋滞解消のために鉄道を通すという計画もあるけれど、ガイドさん曰く「この国の事情から考えて、私がガイドをやっている間に鉄道が通ることはないでしょうね。」ということだ。


 長距離バス移動中、ガイドさんからグアテマラの織物の話を聞くことができた。布とか織物とか好きだし、グアテマラのウィピルもかなり興味があるけれど、残念ながらマヤ遺跡に特化したこのツアーでは織物や民族衣装に触れる機会はほぼないと言っていい。だからガイドさんの話は楽しかった。
 しかも、今回案内して貰ったガイドさんは、ご自身でも織物を集めたり、織ったりされていて、その作品を回して見せてくださる。


 見せて頂いたグアテマラの織物は、どこか地方特有のもので、藍とコチニール(サボテンにくっつく虫で赤い色を出す)で染めたものが多いらしい。
 そして、裏表どちらからでも綺麗な模様を見せるのがポイントだ。
 その村に行って、1ヶ月くらい滞在して習ったそうで「今、織れと言われても織れません。」と言う。だから、ご自分で習って織ったものは全て手元に残してあって、今後、再び織るときのお手本とするつもりだと言う。


 グアテマラの織物はいわゆる織機というようなものは使わず、棒と自分の腰とで縦糸を作り、そこに織り込んでいく。
 ホームステイして習っているときに、家の前を行く小学生に「一段織るのにどれくらいかかる?」と聞かれて、「30分くらいかな。」と答えたら、その子に「うちのお姉ちゃんは3分くらいで織るよ。」と言われたらしい。
 グアテマラでは、早い子だと5歳くらいから織物を習い始め、もう柄などは身体にしみ込んでいて、一々確認したりしていないみたいだったとはガイドさんの話だ。
 しかし、グアテマラでもお母さんが外で働くようになって、段々「母から娘へ」教え継がれることが難しくなってきているというから、勿体ないよなぁと思う。


 着る方にも「時代の波」は押し寄せてきていて、これまでは村々で特有の織物があり、その村の人はその村の織物で作ったウィピルを身につけていたけれど、今は違ってきているという。
 交通機関の発達で隣の村に簡単に行けるようになったり、テレビが普及して情報も沢山入るようになったりして、「自分の村の織物」を身につけるのではなく、「自分の気に入った」洋服を着るようになっているらしい。
 それはそうだよなという気持ちと、やっぱり勿体ないよという気持ちとが両方浮かぶ。
 今、流行っているのはレースだそうで、そうなると既に織物ですらない。


織物 茶綿という、お茶の色をしている綿がある。それは繊維が短いため、機械で紡ぐことはできず手で紡ぐしか糸にする方法がない。
 そうなると、もちろん、製品のお値段は跳ね上がる。ガイドさんがついた少し前の同じ旅行社さん主催のツアーで、茶綿を藍で染めた糸で織られたテーブルセンターをお買い求めになった方がいらして「とても高価でしたね。」としみじみとおっしゃっていたのが何となく可笑しい。
 私がグアテマラシティの空港で購入したこちらなどはまさしく「お土産用」だ。やはりお土産用で凄くいいもの、というのはなかなかないらしい。


 キリグアが近づいてきたためか、ガイドさんは、この地で宿を経営している日本人女性のお話を始めた。
 その方は、この場所が気に入って山を買い、地元の人に頼んで宿を建て、土地の食材を使ってグアテマラならではのお料理や日本料理でおもてなしをしているそうだ。
 後で調べたら、その宿は、ポサダ・デ・キリグアというお宿だった。
 もちろん、今回のツアーで訪れることはできないけれど、泊まってみたいなぁと思った。


バナナのプランテーション バスは1時間以上も走り続け、周りがいきなり整った畑状態になったと思ったらそこはアメリカ資本のバナナのプランテーションでだった。11時近くになってキリグア遺跡に到着である。
 キリグア遺跡の周りは、丸ごと全て、バナナのプランテーションである。
 だから、一時期はキリグアには大きな病院があったり、グアテマラ一番のホテルがあったり、ガイドさん曰く「アメリカの飛び地」のような感じだったらしい。現在、そういう片鱗はない、ような気がする。


 暑いので水、タオル、帽子を持って行きましょうという注意があった。バスを降りて遺跡入口に向けて歩き始める。
 これまで訪れた遺跡のなかでキリグア遺跡が一番混雑しているような気がする。混雑といってもたかが知れているけれど、しかし、一番人が多いのは確かだ。
 ガイドさんにそう言うと「パレンケよりもこちらの方が多いんですか?」と驚いていた。なるほど、パレンケ遺跡というのはマヤ遺跡の中でもスターなんだなと思う。
 まずはお手洗いを済ませて落ち着いてから、遺跡に向かう。


 キリグアは1981年にユネスコ世界遺産に登録されている。単純な私などからすると、「キリグアって何だか存在感が薄い。建物ないし。」ということになるけれど、そうブツブツ言うたびに、先生から「世界遺産なんですよ!」という悲鳴のような訂正が入っていた。
 しかし、このツアーで見学する中から「マヤの四大遺跡」を選ぶとすれば、それは、パレンケ、カラクムル、コパン、ティカルの四つに軍配が上がると思う。


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2014.05.11

タラソテラピーの予約を変更する

 2014年5月1日に、半ば自棄になって申し込んだ勝浦のテルムマラン・パシフィークのタラソテラピー2DAYプラン(宿泊付き)だけれど、その後、どうしても外せない仕事の予定とバッティングしていることに気がついた。
 どうやら、私は怒りと絶望の余り、仕事の予定を確認せずに旅の予約を入れたらしい。

 変更しなくては、しかしいつに変更しようと迷っていたのだけれど、仕事の予定やその他の休暇の予定と睨み合わせ、5月末の予定を6月半ばに変更してもらえるよう、メールした。

 メールして数分後、「変更しました」という回答があった。素早い対応に感謝である。

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ツアーに申し込む(香港&クルーズ)

 香港発着のクルーズ旅行をする前に北海道旅行をしようと思いつき、そちらの計画をしたり挫折したりしている間に、ふと気がつくと、2014年7月5日発のツアーについては早割60の期限を過ぎていた。
 また、5月半ばにタラソテラピーに行こうと思っていたところ諸般の事情により遅れ、結局、6月半ばに変更せざるを得なかった。これは7月初旬の海外旅行は、日程的に難しそうである

 しかし、申し込むのが面倒くさくなって旅行自体も取りやめにするような事態を避けるため、今日(2014年5月11日)、8月16日出発のツアーに申し込んだ。
 まだ、キャンセル料が発生する時期には少し時間があるので、仮押さえをしておいて迷えばいいや、と思ったのだ。
 結局、往復の飛行機、宿泊、クルーズ、各種送迎がついた一名から催行しますというスケルトンツアーである。
 
 海側バルコニーのお部屋が空いているといいなぁと思っているところだ。

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2014.05.07

中米3ヶ国旅行記5日目その6

2012年12月19日(水曜日)

 16時半過ぎにセプルトゥーラスに到着した。
 いわゆる貴族の居住区で、先ほど見学してきたコパンの中心部とはサクベで結ばれていたという。
 車で10分もかかっていない。どうしてこんな中途半端に離れたところに居住区を作ったのか謎である。8世紀以降、力を持つようになった貴族らのために作られた、ということだろうか。
 日本の援助で作ったという遊歩道を歩いて、遺跡の中心部に向かう。意外と距離がある。

屋根付きの建物漆喰と彩色

 居住区なので、セプルトゥーラスは地味である。
 ところどころ屋根がかかって保存されている建造物がある。主に、漆喰が残っているところや、彩色(右の写真では赤い色)が残っているところだ。
 この漆喰と赤い彩色が残っているベンチのような部分は、寝所(つまりはベッド)である。
 そういえば、これまでの遺跡で漆喰が残っている部分というのは本当に少なかった(というか、見かけていない)なぁと思う。

 ゴザ目の模様は高貴な印という説明をどこかで聞いたことを覚えている。それを貴族が使ってしまっているところに王家の弱体化が現れているんだろう。
 逆に言うと、貴族の力が増大しているということでもあって、この中庭のような部分を四方から囲んでいる建造物を全て合わせて一軒の家だそうだ。
 貴族の力、推して知るべし、である。

保存実験中 同じ中庭を囲んだ建物の中に、テントのような、ちょっと変わった屋根がかけられている建造物があった。
 これは、ナントカ保存研究所(多分、米国ハーバード大の研究所)が保存実験を行っているところである。階段の保存にはこうした屋根の付け方の方が効果的であるということを証明するために、1/5の大きさの模型を作って、覆われたものの保存状態を調べているという。
 こうした取り組みを「保存実験」という。

階段 階段つながりで説明があったところによると、こういう階段に突然(この部分だけ)文字が刻んであるところがある。
 この文字入りの部分は、実は、古いものを再利用してあるという。剥がして持ってきてしまったというから凄い。マヤの人々もリサイクル精神に富んでいたらしい。
 それにしても、文字や石彫はそもそも王家の特権だったところ、貴族の居住区で使われているというのは、やはり王家の弱体化の現れなんだろう。

削られた建造物 日が陰ってきたのと、川沿いの木々が茂っている辺りを歩いているせいでより薄暗く、写真のピントが合っていない。
 この建造物は奥にもっと長く続いていたけれど半分以上を(多分ハリケーンに)削られてしまい、先生が4ヶ月くらいかけて調査し、ここまで修復したものらしい。
 川は随分と下の方に流れている。
 それでも、水の側というのは多分、暮らすによくても遺跡にはよくないんだろう。

漆喰の床とベンチ20121219_162537

 左がセプルトゥーラス遺跡のベンチと漆喰の床、右が石彫博物館の展示物である。すでにどちらが本物でどちらがレプリカか忘れてしまった。
 セプルトゥーラス遺跡にある建造物の、入口部分の階段はどれも急である。確かマヤの人達は平均身長150cmくらいと聞いたと思うのに、身長170cmの私が「高いよ」と思う高さの階段をどうして作ったのか、本当に謎である。足を置く面の部分が広いのが唯一の救いだ。

ティカラ 遊歩道をバスに向かって戻る途中で見かけたこの実はティカラ(あるいはモーロとも呼ばれる)という。
 マヤの人々もこの実を食器として使っていたくらい、殻が硬い。
 ガイドさんが家に持って帰って割ろうとしてもなかなか割れず、最後にはトンカチでたたき割ったというから、筋金入りの固さである。「実際に使おうとしたら、割るんじゃなくてのこぎりで切るしかありませんね。」と笑っていた。

夕陽 17時20分くらい、コパン川越しに見える夕陽に見送られて、セプルトゥーラスの遺跡を後にした。
 大分駆け足だ。遺跡の見学時間が既に終了していたところを特別に見せてもらったのだから、有り難いことである。

 これで本日の遺跡見学は終了してホテルに戻るのかしらと思っていたら、何もない感じのところでバスが停まった。
 そこが10J-45と名付けられた、先生が発見した「アクロポリスの外で初めて発見された王墓」である。
 確か道路拡張工事がきっかけで発掘がされた筈なので、それは道ばたにあるに決まっている。その建設中だった道路は計画を変更したという。
 残念ながら遺跡自体は今は入場禁止になっている。ガイドさんによると特別許可を受けて見学した日本人が最近いたらしい。

10J-45 奥に立っている木の周辺が遺跡の中心部である。
 その木を切らないように発掘を進めたという。
 発見されたときは、木の辺りが少しだけ盛り上がっていて、その他は牧草地だったらしい。盛り上がっている辺りを他にも掘ってみたけれど、他には建造物は発見されなかったそうだ。
 遠くに見える石碑がこの10J-45の方を向いていることから考えても、かなり大きな王墓であることは間違いないらしい。

 10J-45でも、関連する展示物を納める博物館を作ろう、セプルトゥーラス遺跡とコパン遺跡本体を繋げようといった計画はあるけれど、ホンジュラス政府は金欠なので、実現性はかなり低いという。
 カーボン検査で485年から525年くらいの遺跡と判明しており、セプルトゥーラス遺跡やコパン遺跡で今見られる遺跡より時代的に遡るという。そこまで年代が特定されるなら、誰のお墓か判りそうだけどなぁと思ったけれど、そういうものでもないらしい。

 後になって、先生の著書を読んだところでは、コパンの第5代から第7代までの王のうちの誰かではないかと推測されていた。
 ちょうど500年前後は、コパンの王朝史ではほとんど記録が見つかっていない「空白期」で、「3人のうちに誰か」ということを特定するのも難しい。
 コパン村の博物館にも10J-45で発掘された副葬品が納められていたけれど、先生はそのときも余り積極的に説明しようとしなかった。何だか勿体ないことをしたなぁ、この際、強力に体験談を求めるべきだったなぁと思うけれど後の祭りである。

ホテルのお部屋 バスはコパン村の入口まで戻り、そこから先は道が狭くて進めないため、歩いて本日の宿であるマリーナ・コパンに戻った。18時前にホテルに入れたのが有り難い。
 昼食をいただいたときに閉まっていたホテルのお土産物屋さんは、この時間になってもやっぱり閉まっていた。残念である。ショーウィンドウにあったシルバーのブレスレットがかなり気になる。
 夕食は19時からだ。シャワーを浴びて一休みする。

夕食 夕食は、昼食と同じレストランでいただいた。
 メニューは、サラダ、ピンチョス(チキン、ビーフの串焼き肉)、ライス、アイスまたはフルーツのデザートに、コーヒーまたは紅茶がつく。
 飲み物はビールを頼み、そして、この旅行社お馴染みの素麺が食卓に登場した。さっぱりしていて有り難い。そして、この素麺を我々よりも喜んでいたのが、日本から来ている学生さんだった。曰く「米やカップヌードルは食べられるけど、素麺はなかなか食べられない。」と言う。なるほどと思う。

 20時半のレクチャーまで少しだけ時間があったので、食後、街中に出た。夜の外出が止められなかったのは、今回のツアーでここコパンだけである。博物館が開くという話をしていたなと行ってみたけれど、入口はしっかり門が閉められ、その前にテーブルと椅子が並んで屋外レストランと化していた。

 ホテルに戻ってレクチャーの時間である。
 メモした内容は(だから間違っているかも知れない)大体、以下のとおりである。

*****

・マヤ地域は高低差が大きい。最終日に行くカミナルフユで海抜1500mくらい、コパンで600mくらい、ティカルは250mくらいである。このため、自然環境も大きく変わる。何より、湿度と温度が違う。

・遺跡は資源であり、これらを観光活用するためには、保存と共存させる必要がある。保存しつつ、どう周辺の経済発展に繋げていくかということが、文化資産学の目指すところである。

・米州開発銀行によるマヤプロジェクトでは、文化資産学の考えに基づき、主要遺跡を幹線道路で結ぶこと、出入国手続きを簡単にすることを計画している。
 しかし、実際はカラクムル遺跡とティカル遺跡の間60kmを直接結ぶ道路の建設も全く進められていない。
 マヤ地域は5ヶ国に跨がっているので、横断したプロジェクトの実施はかなり難しい。

・マヤ遺跡の中で、コパンとパレンケが「好きな遺跡」として挙げられることの多い双璧である。

・コパンでは、ファン・カリンドという人が1834年に最初の王墓を発見した。
 1881年から始まったアルフレッド・モーズレイによる調査で、石碑Aが発見された。

・コパンは第13代王の時代(8世紀半ば)が最盛期で、人口は28000人もおり、「古典記マヤの最高レベルの芸術」と言われる石像彫刻が作られたのもこの時代である。

・石彫博物館の入口のトンネルは、「蛇の口から入って行く」「ピラミッドを掘って行く」という二つのイメージで作られている。

・ロサリラ神殿は、コパン遺跡では珍しく神殿部分が残されている。
 ロサリラ神殿が3層になっているのは、天上・地上・地下を表している。

・ヴェニス憲章により「(遺跡の)修復は、推測が始まるところで終わらせるべきである」とされている。
 石彫博物館では、本物ではないレプリカに対して推測も交えた復元を行っている。ただし、この復元等々に展示の専門家は関わっていない。

・明日訪れるキリグア遺跡は、1981年に世界遺産に登録された。
 キリグアは5世紀前半にコパンの衛星都市として成立し、モダグア川沿いの交易を担っていた。
 738年にキリグアがコパンの王を斬首し、それによってコパンは衰退し、キリグアは隆盛した。

・コパン遺跡とキリグア遺跡では、建造物等の配置が似ている。南にアクロポリス、中央に球技場があって、北側に広場がある。
 このため、王家同士が親族関係にあるのではないかとも考えられる。

・キリグア遺跡は、ステラが主である。砂岩で作られているけれど、保存状態が良い。

・ティカル遺跡の見どころは、1・2号神殿と大広場(ここでは現地の人が儀式を行う予定となっているので混雑が予想される)、北のアクロポリス(ただし、保存状態が悪い)、4号神殿が挙げられる。

・ティカル遺跡にある文化遺産保存研究センターは12月20日にオープンする、広域協力の拠点となる場所である。修復保存と有効な保存方法の研究が行われる予定である。
 まずは、2012年夏から先生たちが測量を始めており、5年かけて中心部の正確な地図を作成する予定となっている。北のアクロポリスから初めて、ここの測量は2013年春に終了する予定である。

・具体的な修復保存の対象は35号神殿である。1956年から69年にかけてペンシルバニア大学が修復を行っているが、その65%が間違いであると考えられる。この「間違った修復の見直し」には、7〜8年かかると考えられるが、大学からは3年で成果を出せと言われている。

・遺跡の発掘にはファイバースコープや衛星写真の利用が効果的であり、理系の教室との協力も模索している。透視はできないのかという質問が出たが、これは周りに土や木があると難しい。

*****

ビール レクチャーが終わったのは21時半近かった。
 その後、JICAの派遣で来ている日本の方々とツアーに参加していた女性と4人でお酒を飲みに行った。
 コパンの街は、マヤ暦の一巡を祝ってか、広場等でコンサートが行われていて賑やかである。演奏していたのは有名なヴァイオリニストらしい。
 「ホンジュラスで一番たくさん飲まれているお酒がいいなぁ。」と言って、「命を救う」という凄い名前がついたビールを教えてもらった。

 JICAからの派遣で来ている方のお話を伺うと、ホンジュラスを希望したというよりは、「公園整備」という内容での派遣が可能な場所がそもそも非常に限られていて、ホンジュラスはその一つだったそうだ。
 予算が3ヶ月で4万円だったり、ハサミが必要だと要求して手に入るまでに1ヶ月かかったり、「派遣期間内に何かができるんだろうか」と当初はもの凄く焦ったと笑っていらした。
 「これをやりに来た訳では・・・」と思いつつ、昼間に我々もお世話になった看板などを作っているという。ホンジュラスの人は「あるといいね。」とは言うけれど、自分たちで作ろうとはしないという。

 遺跡で働いている人にお給料が出ていないと聞いて「公務員じゃないんですか?」と驚いて尋ねたら、いわゆる第三セクターのような形になっているという。
 その他、色々と裏話的なことも教えてもらって楽しかった。
 ホテルに戻ったのが23時過ぎで、それから今度は先生とホンジュラスの関係者との集まりに何故か混ざり、再びお酒を飲みに出た。何だかもう滅茶苦茶である。
 スペイン語が飛び交っていたので、話の内容は全く不明である。
 自分がラム酒をストレートで飲める人間だということを初めて知った。

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2014.05.05

中米3ヶ国旅行記5日目その5

2012年12月19日(水曜日)


 


グランプラサ コパン遺跡で、本物のロサ・リラを見学できるトンネルを出て、もう一つのトンネルに入ってしまうともう東の広場には戻ってこられないと言われ、最後の見納めに建造物の何かに登って、グランプラサを見下ろした。右手前に神聖文字の階段を覆う屋根が見える。
 いい眺めである。
 昔の誰かもこの眺めを楽しんだんだろうか。そう思うとちょっと不思議である。


大きな顔のレリーフ踊るジャガー 屋根に覆われた大きな顔のレリーフがあった。屋根に覆われている以上、大切なものだと思うけれど、正体は不明である。
 この広場でもう一つ面白いレリーフがあった。踊るジャガーのレリーフで、左右一対になっている。
 本当に踊っているのかどうかはともかく、なかなか茶目っ気のあるポーズをしている。向かって左にいるジャガーの方が茶目っ気度が一段高いと思う。
 今ひとつ角度というか高さが悪くて顔がよく見えないけれど、結構いかつい顔をしているのにこのポーズというところが可笑しい。


トンネルの通路 そして、今度はアクロポリスの中に突入した。
 天井が低くて頭をぶつけそうだ。
 このトンネルの一部は、先生が「作った」らしい。研究用のトンネルを観光用に転用したということだろうか。
 この通路の片側は下半分が斜めになっていて、この斜めの部分は、元々この建造物の中に埋まっていた建物の外周部分である。
 普通に触れてしまえるなんて、何だか凄い。


トンネル内部の漆喰の仮面 まず対面したのが、やたらと大きな漆喰の仮面だった。もちろん、流石にこのレリーフには触れるようにはなっていない。
 この顔を見て「巨神兵だ」と思ったのは私だけではない筈だ。
 このレリーフも、上から被せるように覆うように増築されたため、今は建物の中に埋まっている昔の建物の一部である。
 この建物を巡るように通路があって、別の角度からも見ることができる。ロサ・リラのトンネルよりも快適だし、よく見ることができて嬉しい。


マヤ文字 レリーフなのかステラの一部なのか判らないけれど、このマヤ文字は何か重要な意味があると聞いたように思う。「どう重要なのか」を覚えていない自分が非常に悲しい。
 本来はこういう状態ではなかったんだろうと思いつつも、上から落ちてくる日光に照らされて綺麗である。
 このマヤ文字がある場所が建物の正面で、ほぼ一周できるようになっている。
 その後は、暗い階段を上がって行く。もはや、方向感覚は皆無である。


水洗トイレ水路


 階段を上がったところにトイレがあった。ちょっと脱力する。
 どこをどう使ったのかは今ひとつ想像できないけれど、「水洗トイレ」である。
 溝のようなところに水を流したとすると、その流された水はどこに行ってしまったのか、非常に気になる。そもそも、この水洗トイレが使われていた時代には、外側の壁はなく、外に流されていたというのが一番可能性が高そうだ。
 そんなことを思っていたら、階段を降りた先に、水路の続きがあった。ほっとするような、人が通るような場所に水路を作って欲しくないような、微妙な気分である。
 パレンケの宮殿では「水洗トイレ」説に懐疑的だった先生も、ここでは割と確定的にしゃべっていた。


漆喰の仮面漆喰の仮面


 こちらにも漆喰の仮面がいくつも残っている。何を表しているのかは判らないけれど、少なくとも、先ほど見たロサ・リラよりは保存状態もいいように見える。
 暗さと天井の低さにくらくらしていたら、やっと外に出ることができた。空気が美味しい。


建造物外観 マヤの建造物はどんどん上に被せるように作られていて、まずは漆喰で床を作るところから始まるという。
 だから、床もどんどん上に上がって行くことになる。最初の建物は、10mくらい下を流れる川と同じくらいの高さに床があったらしい。
 そして、これらの建物は川に浸食されてしまっていたところを、先生が修復を手がけたそうだ。ネットのようなものが被されている。


 この時点で15時半を過ぎていて、先生曰く「とんでもなく時間が押している」状況だったらしい。16時までに石彫博物館に行かなくてはならないと言う。
 もう戻れないと言われたような気がするのに、グランプラサの横を通るので、写真を撮り忘れた人はダッシュで行って来てくださいと言う。平均年齢の高いこのグループに「ダッシュ」を求めるのはどうなのか。
 結局、一緒に回ってくれていた学生さんを押さえ兼交渉のために先行させてくださっていたらしい。


石彫博物館のロサ・リラ神殿さっき見た筈


 何とか16時ぎりぎりにコパン石彫博物館の入口に到着した。
 入口を入ると、何故か暗いトンネルが続く。
 先が見通せないトンネルを抜けると、そこにはどどーんとロサ・リラ神殿の復元模型が鎮座していた。全体が赤く塗られて彩色も施され、これまでの石の色と緑だけの世界から来ると、もの凄いインパクトである。
 ガイドさんによると、さっき「本物」を見たのは、右側の写真の辺りだという。全く判らない。そもそも、私はトンネルの中で、ロサ・リラ神殿の1階部分を見ているとばかり思っていたら、違っていたらしい。ロサ・リラ神殿も、マヤの世界を表すために三層に別れて作られているからややこしい。
 実は未だに「この辺」というのがどこのことを差しているのか、判っていない。


 ロサ・リラ神殿も、強い風が吹くと音を出すようになっている。
 儀式の場でもあったロサ・リラ神殿では香を焚くことも多く、その煙が出るように窓も開けられている。
 ロサ・リラ神殿は初代の王であるヤシャ・クック・モに捧げられた神殿である。
 コパンの石彫博物館には、このロサ・リラ神殿のように、遺跡では一部しか復元されていなかったものを完全な形に復元したレプリカも多く展示されている。


本物の祭壇Q 本物の祭壇Qも展示されている。遺跡にあったものはレプリカだ。
 祭壇Qの最大のポイントは左側の初代王(ヤシュ・クック・モ)から右側の16代王に錫杖を渡している側面部分だ。16代王が王権の正統性をアピールするために造らせたものである。
 上面にはマヤ文字が彫られている。向きとしては、建造物から見て読めるように書かれているそうだ。


 その上面に刻まれているのも正統性アピールで、太陽神ヤシュ・クック・モだとか、クック・モという人が即位することでヤシュ(最初の)クック・モと名乗るようになったとか、そういったことが刻まれている。
 このクック・モという名前が同時代のティカルでも刻まれていたり、クック・モが住んでいた神殿等の様式がティカルのものに似ていたりといった傍証があり、クック・モのお墓が見つかったのでナントカ分析にかけたらその出身地がペテン地方(ティカルがあるところ)であると判明している。それらのことから、このマヤ文字達が書き表していることは事実ではないかとされているそうだ。
 回りくどい話である。


髑髏のレリーフ 頭蓋骨のレリーフは、ここで生け贄として人が捧げられ、皮を剥いだ髑髏をマヤの人々が持っていたことを表しているという。
 16号神殿にもいくつか頭蓋骨のレプリカがあったらしい。観光客にアピールするために置くようになったそうだ。アピールするならもっと判りやすいアピールをお願いしたい。少なくとも、頭蓋骨がいくつかあるだけでは、私にアピールしなかったことは確かである。
 石彫博物館は自由見学だったけれど、ツアーメンバー2〜3人で先生にくっついて説明してもらいながら見学した。


意味ありげな展示物 早速「これは何ですか? 意味ありげですけど。」と質問すると、シャーマンのお墓だという答えだった。この形は死後の世界を表していて、ここでどんな儀礼が行われたかが表面に書かれている。
 左側が初代王、右側が2代目王で、2代目王が死後の世界に行き、初代王と共に儀礼を行った、というところがアピールポイントだという。
 左右どちらが上位かというと、必ずしも全てに当てはまる訳ではないけれどという注釈付きで、主人公は大抵の場合は右側にいるというお答えだった。
 また、この中には、シャーマンやその道具、生け贄が入れられていたらしい。ここで鹿の足を縛って燃やして捧げたという記録も残っていて、そうした儀礼が行われたことが判るという。


 


こうもり コパンの紋章文字の主字はこうもりの頭だそうだ。
 「可愛い」とか言いながら素通りしてはいけない。
 これは殺人コウモリで、マヤの神話であるポポル・ヴフに出てくる。
 やっぱり「可愛い」とか言っている場合ではなかった。


 頭の上に魚を銜えた水鳥がいる彫刻は、「神聖文字の階段の中に埋まっていた」そうだ。説明書きによると、10号建造物の内部を飾っていたらしい。
 掘り当てた人がビックリして思わず言った言葉が、そのままこの彫刻の名前として流通してしまったという話だけれど、本当なんだろうか。ちょっと可笑しい。
 水鳥の彫刻は、この博物館の中で私が一番気に入った彫刻である。「一つ差し上げますから、好きなものを選んでください」ともし万が一言ってもらえたら、迷わずこれを選ぶ。


 コパンは高浮き彫りが有名だし美しいけれど、もちろん常にその水準のものが作られ続けた訳ではない。
 コパンの場合は、10世紀に王朝が崩壊し、その後は、「石彫どころではない」時代が続き、見るべき彫刻も残っていない。
 石彫博物館には、そうした展示物ももちろんある。


鉢巻きをしたおじさん 水鳥以外に私が気に入った(でも、これは欲しくはない)のが、「鉢巻きをしたおじさん」に見える石彫である。おじさんというよりは「老人」らしい。
 絶対に鉢巻きではないと思うけれど、全体として、昔の日本人のおじいさんにいたような、何だか親しみやすさを感じる顔だ。
 実際は、世界の四角を支えている神様の一人で、古い神様らしい。村の博物館にあった手と同じ石彫の頭部分だという。一緒に展示してくれればいいのにと思う。


20121219_162041 ガラスケースに入っていると「すわ、重要なものか」と考えてしまう。だいぶミーハーだけれど、そんなに間違った判断基準ではないと思う。
 この像は、書記の神様である。
 右手に筆を持ち、左手にインク入れになっている二枚貝を持っている。マヤ文字は意匠が複雑だし、文字を書ける書くことは特殊技術で、それだけで崇められていたんだろうなと思う。
 それにしても、さっきの「鉢巻きのおじさん」と言い、この書記の神様と言い、どことなく顔がアジア人っぽい。
 少なくとも、ラ・ベンダ遺跡公園にいたオルメカ・ヘッドとは系統の違う顔のような気がする。


貴族の家壁飾りのアップ


 石彫博物館の2階は、広めのキャットウォークのようになっていて、これから行くセプルトゥーラスのものが多く展示されている。この二つもセプルトゥーラスのものだ。
 パレンケでは建物全体に漆喰が塗られていたけれど、コパンでは、モザイク状に組み合わせて飾る方法も採られていたそうだ。石の一つ一つに異なる色調の漆喰が塗られていたという。
 王家ではなく貴族の家だから、ということではなさそうだった。


 30分を少しオーバーするくらいの時間で石彫博物館を堪能し、バスに乗ってセプルトゥーラスに向かった。
 駐車場に行く途中、イベント用のステージが組まれ、リハーサルが行われている様子が見えた。


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2014.05.01

タラソテラピーの宿泊プランを予約する(勝浦)

 2014年に入って、ストレスから体調を崩しがち、4月からこっち胃痛も始まってあまり食べられない日が続いている。
 これはまずいと思っていたのだけれど、面倒くささが先に立って、旅行計画も立てられずにいた。
 そうしたら、狙っていた日程で、母が先に旅行を決めてしまった。

 今日(2014年5月1日)になって、職場で「とどめの一撃」とも言える事件があって、もうやってられないと散財モードに突入し、千葉県勝浦にあるテルムマラン・パシフィークのタラソテラピー2DAYプラン(宿泊付き)に申し込んだ。
 宿泊は、4月末に改装されたばかり(といっても、客室が綺麗になった訳ではなさそうだけれど)のサヤンテラス、フレンチの一人ディナーを申し込むという、初の試み付きだ。

 予約が取れるよう願っているところである。

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