カンボジア旅行記3日目その1
2020年1月1日(水曜日)
新年である。
初日の出を見に行くため、4時15分に起床した。35分にモーニングコールも来た。
冷房を26度にしてかけっぱなしで寝ても、少しばかり暑くて寝苦しかった。ただ、洗濯物はほぼ乾いている。
5時20分にロビーに集合する。ツアーメンバーの半分くらいが初日の出を見に行くようだ。思っていたよりも参加者が少ない。
アンコール・ワット前の池には、6時前に到着した。
ガイドさんに「6時20分に集合。」と指示され、まずは朝焼けをバックにした逆さアンコール・ワットを狙いに行く。
池の端に沿ってたくさんの人が何重にも並び、アンコール・ワットの写真を撮るべくカメラやスマホを構えている。
最初のうちは紺が勝っていた空の色が、段々、紫になり、そしてあかねが広がって行く。
風がなく、池の水面が静かで、アンコール・ワットや木々の姿がばっちり映って鏡のようだ。
見とれつつ、何回もシャッターを切る。
明るさが足らずにブレてしまうことも多い。なかなか上手く撮ることができず、却って夢中になってしまった。
危うく遅れそうになりつつも6時20分に再集合し、ガイドさんに案内されて今度は「初日の出の撮影ポイント」に向かった。
振り向くと、遠くに気球が上がっているのが見える。
気球から見る初日の出も乙だろうなぁと思う。
また思い思いの場所に陣取り、初日の出の撮影大会が始まる。
流石に「雲一つない」とまでは行かないものの、綺麗な2020年の初日の出を拝むことができた。
そこそこ長い人生で初日の出を拝んだことはこれまで2〜3回しかなかったと思う。貴重な機会と言えよう。見ることができて良かった。
朝日が昇りきったところでバスに戻る。7時20分くらいにホテルに到着し、そのままレストランで朝食をいただく。
昨日はなかった玉子麺っぽい黄色の麺が用意されていて、そちらをいただく。
この後で、バナナケーキとランブータン、モンキーバナナと紅茶をいただいた。我ながら、相変わらずたっぷりの朝食である。
部屋に戻って初日の出の写真付き年賀メールを家族に送り、改めてのアンコール・ワット見学に出発するたえ再び8時20分にロビーに集合した。
小学校高学年か中学生くらいの男の子とご両親の家族3人でいらしていたご一家は、昨日、一旦お部屋に戻った後、12時少し前にガラディナーの会場に戻り、カウントダウンをして花火をご覧になったとおっしゃっていた。
タフだ。
年が明けるのと同時に上がる筈の花火が数十秒遅れたのはご愛敬だと笑っていらした。
9時くらいにアンコール・ワットに続く西参道前に到着した。
現在、西参道は上智大学を中心としたチームによって修復されており、渡ることはできない。ちょっと残念である。
池で咲く睡蓮を見ながら進み、臨時に用意された浮橋を渡る。
この浮橋が結構、揺れる。
真っ直ぐ歩けないくらいに揺れる。不安定である。
その不安定な橋を大量の人が渡っているところを、チケットをチェックする係の人たちは次々とアンコール・パスを確認して行く。
あれだけの人がいたら見逃されている人もいそうな気がしつつ、人数もたくさん投入されていたし、意外と厳格だなとも思う。
そういえば、タンクトップ姿の女性にガイドさんも注意をしていたし、警備員さん(なのだと思う)も服装を注意していた。これだけたくさんの観光客がいる中、きちんとそういう対応をするということは、カンボジアの人にとってアンコール・ワットは正しくお寺なのだなと思う。
仮の浮橋を渡り、普段カンボジアの人たちが使っているという門から西塔門に入る。
真ん中にある入口は王様用、そのすぐ両脇にあるのは臣下用、一番端っこにあるのは象用である。
象用って何だよと思う。
アンコール・ワットは、スールヤヴァルマン2世が建立したヒンドゥー教寺院で、アンコール・トムのおよそ100年後という感じになる。
その頃は「神=王」という時代だ。「アンコール・ワットといえば」の中央祠堂は「世界の中央にそびえ神々が住む須弥山」を表し、ヴィシュヌ神が降臨して王と一体となる儀式が行われる場所でもあったという。
とりあえず、お寺である。
ほとんどのお寺が東向きに建てられる中、アンコール・ワットが西向きである理由はまだよく分かっていない。
アンコール・ワットの入口である西塔門には、かの有名な笑うデバター様もいらっしゃる。
何というか、割と地味というか、回り込んでぐっと振り向かないとお目にかかれない場所にあったように思う。
西塔門を抜けた後も、あの「アンコール・ワット」と言われてイメージする建物までは結構遠い。
350mの参道が伸びている。
参道の途中にある出っ張りはテラスで、王様が通るときには楽団が演奏した場所らしい。
参道の向こうに見える建物は経蔵だ。
アンコール・ワットの見学に入る前に、北側(向かって右側)の池の前で記念写真撮影があった。この写真はツアーに含まれている。
ちょうど我々が写真撮影を行っている頃は水面が静かで、逆さに映るアンコールワットをくっきりはっきり見ることが出来たし、一緒に写真を撮ることができた。
ちょっと風が吹けば水面は揺れてしまうので、ラッキーである。
ガイドさんは「このツアーのスケジュールを見たときに、どうしてアンコール・ワットに午前中に行くのかと思った。」と言っていた。その御利益はここにもあったと言えよう。
10時頃、アンコール・ワットの第一回廊には西北の角から入った。
ちょうど人の波が切れたのか、西北の角から入る人が少ないのか、人のいない回廊を見ることができた。
なるほど、ここに光の入った様子も見てみたかったと思う。
そのまま西回廊を進み、ラーマーヤナのレリーフを見学する。
と書いてもたものの、正直なところ、ラーマーヤナの物語なんて知らない。
大雑把に言うと、悪の大魔王ラーヴァナにシータ姫をさらわれてしまったヴィシュヌ神(の化身であるラーマ王子)が、シータ姫を取り戻すべくお猿の将軍と軍隊を借りて戦うという物語である。
何というか、おとぎ話っぽい。
写真にすると今ひとつはっきりしないけれど、この右側のレリーフは、ガルーダに乗ったヴィシュヌ神である。
ガイドさんによると、ガルーダのレリーフが綺麗に残っているのは珍しいらしい。
頭とくちばしと翼と爪は鷲で、胴体は人間というガルーダは、神様の乗り物である。綺麗に残っている箇所が少なくとも、元々描かれている場所が少なくとも、仕方がないと言えば仕方がない。
戦闘シーンのレリーフは綺麗な浮き彫りで残っている。
ラーマ王子の軍とラーヴァナの軍とでは、兵士の帽子の形が違っていると説明されたことは覚えているのに、どっちがどっちの帽子だったか忘れてしまった。
全く以て情けない。
ハヌマーンに乗ったラーマ王子のレリーフも綺麗に残っている。
さっきはガルーダに乗っていたラーマ王子は、今度は、軍隊を貸してくれたハヌマーンというお猿の将軍に乗っている。
割と態度がでかい。
将軍の背に乗っていることで、この人物が最高の地位を持つことが分かる、知らしめるという仕組みのようだ。
このお猿はシヴァ神の化身だとガイドさんが言っていて、もはや化身だらけで、さらに訳が分からなくなった。
千手観音みたいな(と例えるのも不遜なのかも知れない)お方が、シータ姫を攫った大魔王ラーヴァナである。
本当に千手観音像のようで、説明してもらわなかったら悪役だとは判断できなかったと思う。顔も特に怖いわけではなく、角が生えているということもない。
このレリーフなど、どう見ても猿の将軍が相手方の誰かの乗った馬に噛みついているようにしか見えない。
この辺りで何故かガイドさんの説明が「シータ姫を攫ったのは阿修羅だ。」と変わっていて、ますます混乱する。
どうして「悪の大魔王」が阿修羅になるのか、私の頭の中は混乱の極みである。
その後、特に説明もないままガイドさんは西面南側に進まずに第2回廊に向けて折れて十字回廊に入った。
そこにかなり手の込んだ彫刻が施されたデバターがいて、ガイドさんはそれを我々に見せてくれたかったらしい。
デバターの頭の飾りは、女神様の場合は一つ、アプサラ(天女)の場合は三つあるという。
女神様の方がたくさん飾られていそうで、何だか逆っぽい気もする。
ガイドさんお勧めだけあって、デバターのスカート部分など確かに細かい。
砂岩というのは加工しやすい岩なんだろう。
人が触れたところは黒光りしたりしているから、色が変わっていないこのスカート部分は、触ったら壊れそうで怖くて触れなかったんだろうなぁと思ったりした。
どこにあったのか既に定かではないけれど、十字回廊のど真ん中に行く前にガイドさんに小部屋に案内された。
そこは端に立って胸を叩くと音が反響するという。
その反響音は、悪いモノが落ちた音だとガイドさんは言う。
私もやってみたけれど、特に反響音はしなかったような気がする。落ちるべき悪いモノがないからだ、ということにする。
また、十字回廊のど真ん中、天井を見上げてちょうど十字に見える場所は、ガイドさん曰く「パワースポット」である。
ガイドさんの先導で、ちょうどこの十字の真下にスマホを置き、上から何人かでのぞき込み、十字と自分たちとが写るようにした写真撮影大会が行われていた。
「意味が分からん」と思ってしまった私は参加せず、我ながら、ノリの悪いツアーメンバーである。
十字回廊の南側の柱の一つに、江戸時代の日本人が残した落書きがある。
森本右近太夫が、母の菩提を弔うために仏像四体を持参し、奉納したと自身で書いたものだ。
鎖国していた江戸時代にそんな個人的な理由でよくもカンボジアまでやってきたものだと思う。いや、でも、山田長政も同じくらいの時代の人の筈だし、東南アジアに日本人が行くことは普通だったのか?
よく分からない。
ガイドさん曰く、森本右近太夫がカンボジアで美味しい麺類を食べ、しかしその名前を忘れてしまったため、その時代にカンボジアの都があった「ウドン」という町の名をそのまま麺類の名前として日本に持ち帰った、らしい。
これが日本のうどんの始まり、と言う。
本当なのか。
真偽は不明である。
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