2010年9月21日(火曜日)
6時30分に起きた。ペトラの山に囲まれたような感じになっていることもあって、日の出は7時と遅い。
7時15分くらいから朝食をいただく。その場で焼いてくれるオムレツがあるのが嬉しい。
昨日バスの中でもらったイチジクとデーツも食べてみた。イチジクは熟していて甘くて美味しく、フレッシュ・デーツはとんでもなく渋かった。私がもらったデーツがことさらに「ハズレ」だったのか、渋さの良さを判らないお子様の舌しか持っていないせいなのか、よく判らない。
今日は1日ペトラ遺跡で過ごすことになっている。
紀元前7世紀頃には、モーセ率いるヘブライ人が土地を通過することを拒んだと旧約聖書に書かれているエドム人がペトラに都市を築いていたようだ。しかし、現在のペトラで見られる遺跡のほとんどは、ナバテア人が建造したものだ。
それでは、ナバテア人とは何者かということは、実はよく判っていないらしい。紀元前4世紀頃にアラビア半島から移動してきた遊牧を生業とする人々だとされている。
資料によって「ナバテア人」となっていたり「ナバタイ人」となっていたりする。
ナバテア王国は、紀元前1世紀から1世紀にかけて、中国とローマを結ぶ収益性の高い交易ルートに位置したペトラで豊富な水を提供し、略奪者からキャラバンを保護する見返りとして通過するすべての商品に税を課して、最大の繁栄期を迎えている。
2世紀にはローマ帝国の属州に組み入れられ、ビザンチン帝国時代の度重なる地震でほとんどの建物が崩壊し、再建されることはないまま、7世紀以降、歴史上から姿を消してしまっていたらしい。
19世紀初頭にスイス人探検家が「再発見」するまで、ペトラは「失われた都市」だった。
こういった基本知識は後から仕入れたもので、予備知識はインディ・ジョーンズだけという状態で、9時にホテルを出発した。
遺跡の入口からシークの入口まで、昨日のペトラ・バイ・ナイトのときは歩いた道を今日は馬に乗って行く。我々に渡された今日の1日入場券(30JD)には馬に乗る分のチケットも含まれている。馬から下りるときに2JDか3USDのチップを渡してくださいと注意を受け、順番に馬に乗せてもらう。
遺跡の入口からエルカズネまで馬車に乗ることもでき、料金20JD、チップに5JDが必要という説明もあった。全員がシーク入口からは歩くことを選択したようだ。
馬に揺られて15分ほどでシーク入口に到着した。
馬に揺られているうちにあっという間に到着してしまい、馬の頭ばかり見て周りの景色をじっくり見ることができなかった。
実は遺跡入口からシーク入口までの間にも、ジン・ブロックスと呼ばれている岩塊の墳墓や、上部にオベリスクが四つ並んでいるオベリスクの墓や、その1階部分のように見えつつも実は全く違うお墓だというトリクリニウムの墓と呼ばれるお墓もある。
楽をさせてもらった代わりに、こうしたものを見逃した(というか、見たことは覚えているけれど何の感慨もなく通り過ぎてしまった)のは、勿体なかったなぁとも思う。
シークの入口部分は砂岩のアーチになっていたけれど、1869年の地震で壊れてしまっている。
シーク入口には、ナバテア人が峡谷に水が流れ込まないように作ったダム(今はその機能を失っている)などもあるし、この正面にそびえる岩窟には広間が掘られている。
その見学は後回しにして、午前中の光を浴びたエル・ハズネを見るため、私たちは先を急いだ。
シークは天然の峡谷で、エル・ハズネまで約1.5kmある。シークの左側の岩肌には水路が掘られており、ワディ・ムサなどから水を集めてきていたという。シークの足もとは石灰岩だから、水は浸透せずにそのまま流れて行く訳だ。
シークは、ペトラ内部に至る主要な交通路であったのと同時に、宗教的な価値も高かったらしい。
その証拠に、シークの両側には岩を掘って様々な彫刻がなされている。
例えば、シークのほぼ中間地点に立つ岩は「神様の家」だ。真ん中にくりぬかれた祈願用の壁龕があり、その両側はナバテア式の角柱で挟まれ、上部には装飾が施されている。
祈願用の壁龕の左側の大きい方には、様式化された四角い目と筋で掘られた鼻があり、これは、アル・ウザ女神の象徴として典型的なものだという。口がないのは、神はモノを食べないからだ。
また、上半分が失われてしまっている像も、下半分だけで、ラクダを人が引いているところだと判る。
この像から10分も歩かないうちに、ついにシークの向こうが明るくなり、そこにエル・ハズネが見えてきた!
当然のことながら、しばらくはみなして写真撮影に夢中である。
私も、エル・ハズネの真下に行ってこんな写真を撮ってみたりした。
エル・ハズネの真下に行ったついでに地下を覗くと、金網越しに見ることができた。
この先に、「インディ・ジョーンズ」のような地下迷宮が広がっていると楽しいが、エル・ハズネの奥行きは浅い。
この地下部分は8年前に発見され、王室の一員か関係者のお墓ではないかと考えられている。つまり、まだ決定的な何ものも出土していない。そもそも、エル・ハズネの主だって判っていないのだ。
「エル・ハズネ」とは、「宝物殿」という意味である。
エル・ハズネの一番上にある壺に宝が入っていると信じたエジプト人がそう名付けたという。名付けただけならともかく、そのお宝を取りだそうと壊してしまったのはいただけない。
もちろん、壺の中には何も入っていなかったそうだ。
エル・ハズネは、神殿ではなくお墓として使われていたとガイドさんは言う。
もし神殿として神を崇めるために使われていたのならあった筈の生け贄台が見つかっていない。
また、1階部分の両脇の彫刻は壊されてしまっているけれど、馬が彫られていたと判っている。馬は神聖なものとされ、お墓に葬られた人の眠りを守る魔除けと考えられていたという。
2階部分のアマゾネス像は、イスラム教で偶像崇拝が禁止されているため、何となくの輪郭だけを残して破壊されてしまっている。
1階の馬を連れて立つ人物は、ギリシア神話のゼウスとレダの間に産まれたカストルとポルクスの双子の兄弟と考えられている。
ファサード1階部分の柱や三角の屋根には明らかにローマの影響が見られ、エル・ハズネは、ギリシャ、ローマ、エジプト、シリアの文化の特徴をミックスした建造物だと言える。
1849年に発見されたとき、エル・ハズネのすぐ前のこの広場には川が流れており、6本の柱のうち真ん中向かって左側の1本は折れていたそうだ。
ナバテア人は加工しやすい砂岩にこうした「お墓」を掘り出している。
ただし、いくら掘りやすいといってもこれだけ大きいとやはり作るのに時間がかかるので、王妃が妊娠するのと同時にその子の墓を作り始めたというから驚く。
加工しやすいということは崩れやすいということでもあるけれど、エル・ハズネなどは岩を掘って作られているので額縁が付いているのと同じ強度があり、また、出っ張った部分がないので浸食されにくいという特徴も持つ。
現在、エル・ハズネ内部に入ることはできない。これは、望遠で無理矢理撮った入口から見える内部の写真である。
エル・ハズネ内部は待合室と小さな3つの部屋があるだけだ。壁面なども、素っ気ない岩肌に漆喰が塗られていただけらしい。
また、奥には壁を切り込んだアルコーブがあって、そこには棺が置かれていたと考えられている。
エル・ハズネがお墓として使われていたことはほぼ確かな一方で、「誰のお墓か」ということは判っていない。
ガイドさんは紀元前1世紀にいた二人の有名なナバテアの王のうちどちらかの墓だろうと言う。一人は、ギリシャ文化をナバテアにもたらしたアレタス3世、もう一人は(名前は忘れたけれど)非常に人民を保護した王だ
エル・ハズネはまず2階部分から掘り始められているう。
2階部分の両脇には踊る女性が描かれ、真ん中の奥まったところにいる羽を持った女性像も含めた3体がアマゾネスだ。
1階の上にある三角屋根の一番上には王冠があり、またその下の2段に分かれたところには玉があったが、いずれも壊されている。
この三角屋根に彫られたざくろはお金持ちの象徴で、ワイン(ぶどう)は長生きの象徴である。三角屋根の外に彫られた薔薇の花もやはり生命の象徴だというし、きっとエル・ハズネの彫刻の一つ一つには意味があるのだろう。何だか陽明門みたいだ。
エル・ハズネ前の広場には、写真モデル兼遺跡内の足となるラクダたちがたくさん控えている。
ベンチがあって、冷たい飲み物なども売られている。
エル・ハズネに向かって左側に階段が掘られていて、階段を上がるとそこはナバテア人が作った天体観測のための場所になっている。
ペトラはこれだけで終わりかのように見せて、実はさらに奥にもの凄い広さの遺跡が広がっている。エル・ハズネに向かって右に回り込むと、再び短いシークが現れる。
結局、エル・ハズネ前に私たち一行は40分くらいも留まっていた。
エル・ハズネ右横のシークの両脇にはお墓が並んでいる。そして、お墓の他にもここには有名なものがある。
サンドボトルだ。
サンドボトルに使う砂は、着色されたものではなく、全て自然の砂が使われている。
実演を見せてもらったところ、赤っぽい砂をボトルに入れ、その赤い砂を傾けて黒っぽい砂を上から入れる。黒っぽい砂を突いて細い棒を赤い砂のところまで差し込むと、その細い棒で空いた空間に黒い砂が落ちて行く。
あっという間にラクダが形作られて、思わず拍手した。
今頼めば帰りまでに名前入りのオリジナルサンドボトルを作って貰えると言われ、何人かの方が注文していた。
まだ11時過ぎだったけれど、この近くにあったお茶屋に入っての休憩になった。
何しろ、暑い。
日陰に入ってかなりほっとした。
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