伊勢志摩旅行記の入口を作る
ここは、母と出かけた伊勢志摩旅行記への入口である。
以下の日程をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。
この2泊3日の伊勢志摩旅行にかかった費用は、2人で概算13万円だった。(この中には、交通費、宿泊費、食費は含まれているが、お土産代などは含まれていない。)
伊勢志摩旅行に当たってお世話になったサイト&本
(持って行ったガイドブックは「持ち物リスト」に掲載)
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ここは、母と出かけた伊勢志摩旅行記への入口である。
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この2泊3日の伊勢志摩旅行にかかった費用は、2人で概算13万円だった。(この中には、交通費、宿泊費、食費は含まれているが、お土産代などは含まれていない。)
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2008年2月26日(火曜日)
神宮会館の早朝参拝は、宿泊者は無料で参加することができる。
毎朝、神宮会館のスタッフの方が交替で内宮さんを案内してくださるのだ。
この日は、父と息子の二人連れ、友人同士とお見受けした女性二人、そして私たち母娘に、会館の女性が一人ついてくださって7人で出発した。
内宮さんまでの道々も伊勢神宮について語ってくださる。
「天照大御神さまは、2000年前に皇居をお出になって・・・。」とほんの少し前にお隣の家が引越をされたかのようにおっしゃる。
何だか、伊勢の方達と伊勢神宮との近さが羨ましくも妬ましい。
何とかお天気はもちそうである。
昨日のごった返していた宇治橋とは異なり、人影はほとんどない。
うっかり、昨日の夕食のときの設定のまま宇治橋の写真を撮ってしまった。これはこれで、ちょっと違う雰囲気が出て良かったかも知れない。
この宇治橋は長さが100m強あり、木造の橋としては日本で一番長い。
前の20年はご正宮の棟持柱だったという来歴を持つ宇治橋の両端に立つ鳥居の柱は、次の20年は三重県北部にある別のお宮の鳥居としてのお役目が待っているという。
また、外側から二番目の擬宝珠の中に、橋を守るお守りが収められているというお話だ。掛け替えのたびに受け継がれて来たのだろう。
伊勢神宮は、5500平方メートルの神域を持ち、概ね世田谷区と同じ広さだと聞いて驚いた。
神苑には大正天皇が手植えした松の木があるにも関わらず、平等のため、この松も含めて個人名を記した立て札等は一切出していないそうだ。徹底している。
昨日来たときに気がつかなかったわけである。
火除け橋の手前の神苑の辺りまでは、明治時代には神主さんの住まいなどの人家があったという。
御手洗場の反対側には、斎館という神職がお祭りのときなどにお籠もりをして身を浄める場所と、行在所(あんざいしょ)という皇室の方がお祭りなどのときに身を浄める場所がある。
こういったことは、説明してもらって初めて知った。
行在所は、門の隙間から見えたとおり、本当に何もない場所だそうだ。そこに1日とか2日とか籠もるというから、大変なことである。
説明を受けながらゆっくり歩き、御手洗場に到着したときにはすでに7時を回っていた。
この五十鈴川は上流に人家がほとんどないため、水がきれいなのだという。
この辺りの家々には、土用の丑の日に五十鈴川の水を汲み、1年間神棚にあげておくという習慣があるそうだ。やっぱり、羨ましくも妬ましいお話である。
御手洗場に立っているとよく錦鯉が寄って来るらしい。残念ながら今日は会うことができなかった。
瀧祭神にご挨拶する。
瀧祭神は、五十鈴川の水を守っており、土用の丑の日に水を汲みにきたときには、こちらに一度あげてから家に持ち帰るという。ここは所管宮といって、伊勢神宮125社の中では位の高いお宮ではない。そして、祠ではなく、石神様が祀られている。
お隣に空いているスペースがないと思ってお聞きしてみたら、所管社などでは20年ごとのお引っ越しは行われず、傷んだら直すという感じだそうだ。
表参道を行かずに、そのまま五十鈴川沿いの小径を風日祈宮橋に向かう。
早朝ということもあり、昨日よりもさらにシンとして凛とした空気が漂っているように感じられる。
言われて気がついたけれど、この玉砂利の道には、両脇にこれだけの木々があるというのに全く落ち葉がない。伊勢神宮では落ち葉たきをすることはせず、全てを土に還しているのだそうだ。
伊勢神宮の森には人の手が全く入っておらず、豊かな自然が守られており、鹿など追わなければならないほどに増えてしまっているという。
風日祈宮橋周辺の柵はやはり鹿のために設置されているそうだ。残念ながら今日は鹿に会うことはできなかった。
風日祈宮は雨と風を守る(雨と風から守る、だったかも知れない)お宮で、年2回のお祭りのとき、ここにだけは菅笠と蓑が特別にお供えされる。
お供えといえば、内宮さんにいらっしゃる神様は普段は外宮さんに行ってごはんを食べていて、だから内宮さんでは、外宮さんのように毎日のご飯を作ることはしていないという。
ただし、特別の儀式などのときには内宮さんでもごはんを作ることがあり、雨のときにはこの写真の五丈殿でお料理するそうだ。間口が五丈の長さであることから、この名前がついている。
神楽殿を通り過ぎ、表参道をご正宮に向かって進む。この辺りは、木々がとても太いと思って昨日通った辺りだ。しかし、伊勢湾台風でだいぶ木が折れてしまったそうだ。
伊勢神宮で一番太い木を子ども達が囲んでみたところ、小学校3年生が11人でやっと囲めたという。
ご正宮に上がる階段の反対側に、御贄調舎がある。
ここはお祭りのときに、外宮の神様にいらしていただき、鰒を調理する特別な場所である。奥に写っている石の台が神様のいらっしゃる場所で、神職が調理するのをお見守りいただくという。
神様もやっぱり鰒が好物で特に誂えると聞くと、「神様も普通じゃん」というとんでもない感想が浮かぶ。
ご正宮にたどり着いたときには7時40分を回っていた。
昨日とは打って変わって、ご正宮に上がる階段にも人っ子一人いない。
ご正宮は四重の垣に守られており、一番奥まで行くことができるのは天皇だけという。
建物の屋根にある鰹木は、外宮さんでは奇数、内宮さんでは偶数と決まっている。ご正殿の場合、内宮さんは10本で外宮さんは9本と、全てにおいて外宮さんの方が少し小さくなっているという。
ここで千木について説明していただいていたら、母が「そうだったんですか。気がつかなかったわ。」と言うので思わず膝が砕けそうになった。昨日、外宮さんでも内宮さんでも散々私がしゃべったのに全く記憶に残らなかったらしい。
ご正宮では、案内してくださった神宮会館の方がコートを脱いでお参りされていたのがとても印象的だった。
私など昨日も今日も、写真を撮る都合上手袋こそしていなかったものの、コートはずっと着たままである。
やはり、生活の中に溶け込んでいるのだな、神様は「いらっしゃる」「おわす」のだなと思う。
そして、昨日はあまり何とも思っていなかったけれど、ご正宮の白い帳を風が吹き上げているときに出会えるのは、とてもとても幸運なことなのだと教えていただいた。
私は、式年遷宮は新しいお宮が建つのと同時に古いお宮を壊してしまうのかと思っていたけれど、そうではないらしい。
古いお宮を残したまま新しいお宮を作る理由のひとつは、紙に書かれて残されているものだけではよく判らない細かな造作などの見本とするためだそうだ。
そして、神様に新しいお宮にお移りいただいた後も1年くらいは古いお宮がそこにそのままあるという。新旧のお宮が並んでいるときにもう1回来てみたいと思った。
新御敷地の心御柱を守っている覆屋は昨日も見たけれど、その中には柳の木が詰め込まれ、決して扉を開けないようにして心御柱を守っていると聞いてさらに驚いた。
この柳の木は、不思議なことに、次の式年遷宮のときに扉を開くと、まだ青々とした姿を保っているという。
そして、荒祭宮に行く途中、昨日よりもさらにご正殿がよく見える場所を教えていただいた。「写真も大丈夫ですよ。」とおっしゃっていただき、実は昨日はかなりどきどきしながら撮っていたけれど、今日は安心して撮らせていただいた。
荒祭宮に行く途中、昨日見つけることのできなかった「天」の文字に見えるという階段の石を教えていただいた。
見た瞬間、今日だったら教えていただかなくても見つけられたかもと思った。
何故だか石の切れ目に一円玉がびっしりと並べられてあったのだ。
誰がどうしてこんなことをしたのかは謎である。
荒祭宮は、ご正宮の「父」という活動的な性格に比べると、「母」のように柔らかく包むような性格だという。同じ神様の異なる魂がいらっしゃり、それを「わけみたま」という。
そのためか、荒祭宮には他の別宮にある鳥居がないし、第一別宮として、お祭りはご正宮と同じようにご正宮の次の順番で行われるそうだ。
そして、何より案内してくださった神宮会館の方が、ここでもコートを取ってお参りされている姿を見て納得することができた。
敷き詰められた石は、やはり白い石は神様の領分であることを示しているそうだ。
新しいお社ができると、白い石を樽に詰めて運んで来て、神領民の方が白いハンカチに包んで一つずついただき、お社のそばに運び入れる。前回の式年遷宮からは、「一日領民」という制度ができて、この行事に誰でも参加できるようになったそうだ。
まだ神様はいらっしゃらないけれど、神様がいらっしゃる建物のそばに行ける、唯一の機会である。
式年遷宮の際には、今敷いてある石をきれいに洗って敷き、その上に新しく持ってきた石を入れるということだった。
表参道を逆に戻り、こっそりと神楽殿をお掃除する巫女さん達を覗き、8時にお神札授与所が開いていることに少し驚き、早朝参拝は終了となった。
御厩に流石にまだ神馬はいない。ここにいる馬は皇居から来た馬で、馬の名前は、その年の歌会始のお題の一字をいただくのが決まりという。この「その年」というのが馬が生まれた年なのか、伊勢神宮に来た年なのか、聞きそびれてしまった。
昨日も今日も、神馬にも鹿にも錦鯉にも出会えなかったけれど、放し飼いにされているという鶏には会うことができた。
まだお店がほとんど開いていないおはらい町を通って神宮会館に帰った。
唯一、この時間から開いていたのが赤福本店で、神宮会館の方に「今のうちに買っておいた方がいいですよ。」と教えていただいて、お土産に買うために寄り道する。そうして神宮会館に戻ったら、すでに、8時30分を回っていた。
最後の一組になってしまい、急いで朝食をいただく。かなり身体が冷え切っていたので、温かいご飯とお味噌汁が美味しいし嬉しい。
お部屋に戻って、ちょうど部屋の窓から見えるところに桜が咲いていることに気がついた。何だか嬉しい。
荷物を整理して、9時40分くらいにチェックアウトした。
再び、フロントで荷物を預かっていただく。
このままおはらい町をうろうろしようと思っていたけれど、会館を出たところのバス停に人が待っているのを見て気が変わった。「多分、すぐにバスが来るから倭姫宮に行きましょう。」と強引に母に宣言し、そのまま倉田山周辺に向かった。
バスを降りて帰りの時間を確認すると、見学に使える時間は1時間というところである。
倭姫命は、天照大御神を伊勢にご案内し、神宮を創建された齊内親王である。それなのに大正時代までお祀りするお宮がなく、それを残念に思った市民の方の働きかけにより造られのが倭姫宮で、伊勢神宮125社の中で一番新しいお宮である。
新しいといっても緑濃く奥深いお宮で、驚く。
「新しい」と聞いて、白木も美しいお宮を想像していたら、他の別宮よりも黒ずんでいるようにさえ見えることに驚いた。よくよく考えれば20年以上建ち続けているお宮はなく、いくら創建が新しいといっても、式年遷宮で他のお宮と同じだけの時間が経過しているのだから、見た目が違わないのは当たり前である。
今回お参りした中で、内宮さんの荒祭宮とここ、外宮さんの三つの別宮は、内宮さんと外宮さんのご正宮とは逆に、向かって右側が新御敷地になっていた。もっとも、別宮の場合は、この左右にそれほど大きな意味はないらしい。
雨も降ってきたので、倉田山を少し散歩し、再びバスに乗って11時前におはらい町に戻った。
あとはお買い物三昧である。母に、ミキモトで真珠を買ってもらう。どうやら、母は出発前から私に真珠を買ってくれる心づもりでいたらしい。
「おかげさま」という日本酒を父に、伊勢神宮ビールを妹へのお土産にする。
伊賀くみひものお店「くみひも平井」や、松阪木綿の「もめんや藍」、ちりめんのお店や、伊勢一刀彫りのお店、伊勢型紙のお店などを見て歩いた。
この日は、元々は瀧原宮に行くつもりだった。瀧原宮は松阪からバスに乗って行くので、夕ごはんに松阪牛のお弁当でも買って電車で食べようかと思っていた。
その話をしてあったので、母の頭の中には「松阪牛を食べる」ことが決定事項として刻まれていたらしい。
母のリクエストで、お昼ごはんは宝来亭というお店で松阪牛のステーキ丼を食べた。美味しくて満足だ。
お腹いっぱいになったのに、しょうゆの匂いにつられて自然薯入りのぬれせんを食べたり、かまぼこを買ったりしてさらに寄り道をしつつ、14時前に神宮会館に戻った。
神宮会館のお土産物屋で最後のお買い物をし、ずっと迷っていた鈴も買う。必死で荷物整理をしたものの、来るときはボストンバッグ一つずつだった荷物は、袋が一つずつ増えた。
14時15分過ぎのバスに乗って五十鈴川駅に行き、14時48分発の近鉄特急名古屋行きの切符を買おうとしたら、窓口のおじさんが申し訳なさそうに「そこにあるんだけど」と言って張り紙を指差した。
見ると、乗ろうと思っていた特急は四日市駅で架線が切れた影響で運休しますと書かれている。
五十鈴川駅というのは本当に周りに何もない駅だ。次の電車まで40分近くあるので、バスで伊勢市駅まで出ようかと思ったけれど、重い荷物を抱えて移動するのも面倒で、駅の待合室で待つことにした。
15時11分発の近鉄特急で名古屋までは1時間半弱である。二人とも爆睡した。
指定券の座席指定にけっこう長い列ができていて名古屋での乗り換えに手間取り、夕ごはんに駅弁を購入し、17時過ぎののぞみで帰途についた。
ところで、伊勢といえば「赤福」である。
実は、私はこの日、生まれて初めて食べた。
母も妹も「普通のあんころもちだよ」と言うけれど、とても美味しかった。
この旅の心残りといえば、瀧原宮に行かなかったことと、赤福でお汁粉を食べそびれたことくらいだ。
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2008年2月25日(月曜日)
ごったがえしているおはらい町を「ここは原宿か!」と心の中でツッコミを入れつつ足早に通り抜け、内宮さんの宇治橋に到着したときには14時近くになっていた。
駐車場にたくさんの観光バスが見え、平日の月曜日なのにこんなにたくさんの人が来ているのかと思いつつ宇治橋を渡る。
内宮さんでは、外宮さんとは逆に右側を歩く。
宇治橋の両端にある鳥居は、外側の鳥居は外宮さんの、内側の鳥居は内宮さんの、それぞれご正殿の棟持柱だった柱が使われているそうだ。
20年ごとに建て替えられる伊勢神宮では、20年ごとにこうして木材などのリサイクルが行われている。
宇治橋を渡ってすぐは神苑で、ここだけはきれいに刈り込まれた松などが植えられ、頭上を覆う高い木々もなく、砂利が敷かれた道も広くて明るく感じられる。
火除け橋を渡ると右手に手水舎があるけれど、ここはやっぱり本式に行きたい。そのまま一の鳥居をくぐり、御手洗場(みたらし)に降りた。
五十鈴川の流れで手を浄められるよう、石畳が敷かれている。
川の水が驚くほど澄んでいて、もちろん水底がよく見える。そして、冷たい。
この御手洗場のすぐ横、参道に戻らずに川に沿って少し入ると、瀧祭宮という神様がいらっしゃる。
伊勢神宮に来るきっかけとなったテレビ東京の旅番組で、「ご正宮」に行く前にご挨拶をする神様がいらっしゃると紹介されていたと母が言う。
調べたところ、この瀧祭宮には門番のようなお役目をしている神様がいらっしゃり、ご正宮にお参りする前にここで「お取り次ぎをお願いします。」とご挨拶をすると良いそうだ。
母と二人、しっかりとお取り次ぎをお願いした。
元の道に戻って二の鳥居をくぐると、そこからは表参道である。
この辺りになると「鬱蒼とした森の中を歩いている」という感じがしてくる。
樹齢何年になるのだろうと首を傾げたくなるような木や、不思議な形をした木がすぐそこに生えていたりする。
ご正宮に向かう石段で記念写真を撮っている団体さんがいたりして、これだけ人が多いと、残念ながら「かたじけなさに涙こぼるる」と詠った西行法師の心境にたどり着くのは難しい。
それでも、人の多さを考えるとやっぱり静かだし、空気の清浄さを感じることができる。
宇治橋からこの石段にたどり着くまで、寄り道をしながらとはいえ20分以上かかった。それだけでも内宮さんの広さが判ろうというものだ。
ゆっくりと石段を上がり、一礼してご挨拶をしてから板垣南御門をくぐる。写真撮影が許されているはこの御門までだ。
板垣南御門の内側にある、外玉垣南御門の前でお参りする。
白絹の帳が風に吹かれて揺れ、五重の板垣に守られたご正殿にいらっしゃる天照大御神さまの息吹であるかのように、外側に向けて風が吹き抜けている。
一般にはここまでしか入れず、特別参拝の申込みをすると、外玉垣南御門の内側に入れていただいてお参りをすることができる。
ちょうど、そうして特別参拝をされている方々がいらっしゃった。神職の方からの指示で、帽子や手袋、コートなどを取ってお参りされていて、見ているだけで寒さに震えてしまう。
ご正宮の向かって左隣は、新しい神殿を建てるための新御敷地である。
お宮の位置により、向かって右(東側)に神殿があるときは「米蔵」と言われて食料は満ち足りるけれど経済的に停滞しやすくお互い助け合って人の心をつなごうという時代であり、向かって左(西側)に神殿があるときは「金蔵」と言われて世の中が忙しくなって人間関係が疎遠になるけれども経済的に発展する時代であるという。
次の式年遷宮である2013年までの20年が「人の心をつなぐ」時代だとしたら、その後の20年は一体どれほど荒廃した時代になるのだろう。
新御敷地はゆるやかな勾配があり、奥の方に小さな建物の屋根だけがかすかに見えていて、そこが神様がいらっしゃる心御柱のための覆屋である。
随分と奥にいらっしゃることが判る。
そして、新御敷地からは垣ごしにご正殿の屋根を望むことができる。
「個人的なお願いはこちらでしましょう」という、外宮さんの多賀宮に相当する、内宮さんの第一の別宮である「荒祭宮」に向かう途中に、御稲御倉(みしねのみくら)がある。
伊勢神宮のご正殿などの「唯一神明造」を近くで拝見することは叶わない。その建築様式を間近でじっくり見られるのがこの、御稲御倉である。
その名のとおり、神様にお供えするお米が籾の状態で納められている。
この2本ある一番太い柱が棟持柱で、文字通りこの建物を支えており、ご正殿の棟持柱が宇治橋にある鳥居の柱になると考えると不思議な心持ちになる。
流石に荒祭宮の辺りまで来ると、人の姿もあまり見かけなくなった。
表参道に比べて、この暗さとひと気のなさ、階段を下ってまた上がると荒祭宮にたどり着くこの道筋は、内宮さんでも気に入った場所のひとつである。
この階段の途中に、「天」という文字が刻まれた石があるという。そこは「踏まぬ石」と言われ、踏まないように歩かねばならない。ところが、うっかり気づかないまま荒祭宮まで行ってしまった。
なるべく右端を歩くようにしたので踏まずに歩けたと思う。もし踏んでしまっていたら申し訳ないことである。
階段を歩いているときから「カン」というような音が響き、何の音だろうと思っていた。荒祭宮に行ってみると、それは、お掃除の方が石を拾ってはちりとりに入れている音だった。
ここで初めてお宮の前に白い石が敷き詰められた場所と黒い石が敷き詰められた場所があることに気がついた。今までお参りしてきたお宮はどうなっていただろうか。
それは恐らくはお宮の領域かどうかを表していて、その白い石と黒い石が混ざらないように、色の違う石で美しい直線で内と外を示せるよう、手入れをされていたようだった。
個人的なお願いごとといっても、意外と思いつかないものだ。
何をお願いしたのかは、やっぱり秘密である。
いったん表参道に戻り、そのまま風日祈宮橋を渡って風日祈宮に向かう。
このお宮も「奥まったところにある」という感じがする。
単純に、階段を上がって行く荒祭宮は山のお宮、橋を渡って行く風日祈宮は川のお宮という感じがする。
そして、風日祈宮は「ぽっかり」という感じで、明るくそこに在った。
来た道を戻り、風日祈宮橋の橋のたもとを曲がって、五十鈴川沿いの御手洗場に続く小径に入った。
改めて写真で見ると「鬱蒼とした」という雰囲気が強い。歩いているときは、ひと気がないこともあって「シンとした」という空気を感じていたように思う。
緩くカーブして先が見通せないことや川沿いの道ということ、たくさんの木々に囲まれていることで、表参道よりももっと清々しさを感じる道筋だ。
この小径も、内宮さんで私が好きになった場所のひとつである。
御手洗場まで戻ったら、そこからまた二の鳥居をくぐって表参道を戻り、お神札授与所で私は御朱印をいただき、母はお札をいただいた。
そのまま、お神札授与所前の道を折れて、残念ながら神馬は留守にしていた御厩の横を通り、ふと見上げたら木々の間から青空が見えることに何となく嬉しくなりつつ、宇治橋を目指した。
実際は1時間強というところだけれど、随分たくさん歩いたような気がして、参集殿でひと休みする。
参集殿では、伊勢神宮に関するビデオが流れ、お茶が用意され、テーブルと椅子が並んでいた。御手洗いを借りることもできる。
ここで小休止し、明日のお天気があまりよくないことは判っていたし、がんばって月読宮まで行くことにした。
ガイドブックに「徒歩20分」とあったし、まだ15時過ぎだし、バスには乗らずに歩き始めた。
内宮さんの中の玉砂利の道をゆっくり木々を眺めつつ歩くのと、車道をひたすら真っ直ぐ歩くのとでは疲労度が全く違う。
月読宮の入り口についたときには、ほっとした。
この月読宮は、街中にぽっかりとあるというのに、思いの外深い。緩いカーブを描く道が続き、どこにもたどり着かないのではないかと不安になったくらいだ。明るいうちに来てよかったという感じである。
深い森を抜けると、これまたぽっかりという感じで四つのお宮が並んでいた。
これらのお宮は月読尊、月読尊の荒御魂、伊弉諾尊、伊弉冉尊がそれぞれ祀られており、この順番でお参りするようガイドブックに書かれている。
月読尊の両親が伊弉諾尊と伊弉冉尊なのだそうで、ご夫婦の神様をお祀りしていることから、月読宮では縁結びを願う人もいるという。私もその一人に連なった。
帰りは下り坂なので少し楽である。
かなりくたくたになりつつ、途中の猿田彦神社に寄り道した。
猿田彦神は、天狗の元祖とも太陽神ともいわれ、道や境界を守る神様でもある。境内にある佐留女神社は、天照大御神が天の岩戸に籠もっていた時にその前で神楽を舞って外にもう一度お出ましいただいたという天宇受売命をお祀りする芸能の神様としても人気がある。
屋根を飾る千木は、外宮さんはその端が垂直に切られていて「外削ぎ」、内宮さんは水平に切られていて「内削ぎ」といい、猿田彦神社では内削ぎになっていた。
この猿田彦神社からおはらい町はすぐだ。
伊勢神宮もおはらい町も、朝が早い分、夜も早いようだ。
猿田彦神社を出たのが16時30分くらいで、おはらい町に入るとすでに店じまいを始めていたり、すっかり閉まっているお店も多かった。それでも、おはらい町に入ってすぐのところにあった「くつろぎや」というお香のお店に飛び込み、母と二人で迷いつつクンクンと匂いを比べ、「五十鈴川 ほのか」と名付けられたお線香と、涼しげな香りのお香を購入した。
家に帰って開けてみたら、「五十鈴川 ほのか」は長野で作られていた。ちょっとガックリだ。
人影も少なく、お店も閉まりつつあるおはらい町をのんびりと抜け、17時頃に神宮会館にチェックインした。
Webサイトに「神宮会館は、財団法人伊勢神宮崇敬会が運営するお伊勢まいりの宿です。」とあった宿だ。内宮さんから徒歩5分と近い。
ここに泊まりたくて、日程を「土日月」ではなく「日月火」にしたといっても過言ではない。
なかなかバストイレ付きの「本館」のお部屋は取れず、「西館」のお部屋にした。本館のお部屋は各県にある財団法人伊勢神宮崇敬会の方々が泊まりにいらっしゃっていたようだ。
母の万歩計は21481歩を示している。もうクタクタだ。
お部屋でお茶とお菓子をいただいてくつろぎ、明日の予定を相談する。
当初のプランでは倭姫宮と瀧原宮をはしごして伊勢神宮別宮全制覇を目論んでいた。しかし、お天気も悪そうだし、素通りしてしまったおはらい町そぞろ歩きも楽しそうだったので、明日はおはらい町を歩いてお昼を食べ、早めに帰途につこうと決めた。
ひと休みした後で、会館のお土産物屋さんを見に行った。
母は、お部屋に用意されていた、神宮会館のマスコットキャラである「みずほちゃん」が描かれているお菓子が気に入ったらしい。
私は、職場へのバラマキ土産は軽さ最優先で、いといんせんべいに的を絞る。
神宮会館に泊まった最大の理由である、明日の早朝参拝をフロントで申し込んだ。
夕食は18時30分からお願いした。
前菜に「鮫たれ」がついているのが珍しい。説明書きに曰く、「鮫は日本人には身近な存在で、伊勢では昔は塩干し、大正以降はみりん干しが郷土食として食べられており、今でも伊勢神宮の祭典では鮫たれがお供えのひとつとして上げられている」そうだ。
意外と臭みもなく美味しくいただけた。
この夕食のとき、私は、ほぼ10年振りくらいで牡蛎フライを食べることができた。
昔から牡蛎が大の苦手だった。母がやけに美味しそうに食べているし、分量として全部食べ切れそうなところに牡蛎だけ残すのは何とも目立つし申し訳ない。
それで思い切って食べてみたら、これが意外にも美味しい。
温かいものを温かい内に、衣がサクっと揚げられて出されていたからだと思う。自分でも驚いた。
昨日は内風呂しかなかったので、神宮会館に温泉ではないけれど大浴場があるのが嬉しい。
20時ごろから出かけ、ゆっくりのんびり手足を伸ばした。明日の筋肉痛に備えてマッサージもする。
お風呂上がりにちょうどよく「山村牛乳」の瓶牛乳が売られていたので、20年振りくらいでフルーツ牛乳を飲んだ。
昔懐かしい味で嬉しい。口の中がちょっと甘くなってしまった。
明日は、早朝参拝のため、6時25分にロビー集合である。
6時前には起きる必要がある。朝食は、早朝参拝から帰って来た後だ。
たくさん歩いて疲れていたし、22時過ぎには二人揃って就寝した。
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2008年2月25日(月曜日)
母と二人のそれほど急いでいない旅だし、目覚ましもかけていなかったら、7時過ぎに母に起こされた。
外の明るさに障子を開けると、海が蒼く光っていた。ただし、風は強そうで窓を開けると冷たい風が吹いている。
しかし、何にせよ、絶好の「お伊勢詣り」日和である。
8時前に朝食をいただきにレストランに行く。
和食か洋食を選べるようになっていて、二人とも洋食を頼んだ。
テーブルからも蒼い海が見えて気持ちがいい。
部屋に戻る前にホテルのお土産物のお店を覗く。えいやっという感じで母がブラックパールのペンダントトップを購入した。
9時前にチェックアウトし、少しお庭に出たりもして、9時15分の送迎バスで近鉄の賢島駅に向かった。
9時30分に特急がある。伊勢市駅までの所要時間は、特急が45分で普通電車が60分とそれほどの違いはないものの、普通電車の時間までだいぶかなりあったので、特急に乗った。
この辺りで、デジカメの時間をエジプト時間のままにしていたことに気づき、日本時間に戻した。全くもってマヌケである。
伊勢市駅で荷物をコインロッカーに預けてから、外宮に向かった。
出発前、伊勢神宮にお参りするときは、まず外宮さんからお参りするのが「本式」だと色々な人に教わった。
伊勢市駅からまっすぐ伸びる参道を10分もかからないくらいで、外宮、正式名称「豊受大神宮」の火除橋に到着する。外宮は、産業と衣食住の神様である豊受大御神をお祀りしている。
伊勢神宮では「神様から遠い方」を歩くことになっていて、外宮は左側通行である。手水舎も道の左側にある。
一の鳥居をくぐると、そこは駅前とは思えない静かな森の中の参道だった。
平日の10時30分過ぎに、これだけたくさんの人がいるとは少し意外である。
人数の割りに静かに感じられるのは、やはりみなが「お参り」をしに来ているからだろう。砂利を踏む音がうるさく感じられるくらいである。
そう考えると、お参りもする前から写真を撮りまくっている私が一番不遜かも知れない。
右手に、神様がいらっしゃるという「ご正宮」が見えてくる。
このご正宮の前は、木々に日光を遮られることなく明るい。「外宮さんは明るい」という印象はここから来たように思う。
この写真ではぎりぎり角度をつけているけれど、実際はこの鳥居の中を庇うような形で板垣が立てられている。
ガイドブックに教えられたとおり、お賽銭を入れ、二拝二拍手一拝でお参りする。これは伊勢神宮はどこでも共通である。
ガイドブックには、「ご正宮」では個人的・私的なお願いをするのではなく、もっと大きなことを願いなさいと書いてあった。
しかし、いざとなると「大きなこと」など、なかなか思い浮かばない。
思わず世界平和を願ってしまい、旅行後に職場の人にそう言ったら、大爆笑された。
今の「ご正宮」の奥に、平成25年から新しい「ご正宮」が移る、新御敷地が広がっている。
広がっているという表現になってしまうくらい広い。
ご正宮の奥はほとんど見ることはできない。その奥深さは新御敷地を見ることで感じることができる。
ご正宮にお参りした後、外宮さんの中にある三つの別宮にお参りする。
別宮の筆頭である多賀宮は、豊受大御神の荒御霊をお祀りしており、個人的なお願いはこちらでするとよいでしょうとガイドブックが言う。
荒御霊というのは何なのだろうという疑問はさておいて、急な階段を上がり、お参りする。
同じく外宮さんの中にある土宮と風宮には鳥居があるのに、多賀宮には鳥居がない。「荒御霊」といっても、元々はお一人の神様をお祀りしているからということなんだろうか。
こちらで何をお願いしたのかは、もちろん秘密である。
来た道を戻り、このお宮だけ建っている向きが違うという土宮にお参りし、次に風宮にお参りする。
外宮さんのそのさらに別宮にお参りする人はそれほど多くはないようだ。それでも、この写真のようにぽつりぽつりとお参りの方がいらっしゃる。お宮の前が全くの無人になることは滅多にない。
風宮は、元寇の際に内宮さんの風日祈宮とともに神風を吹かせたというし、伊勢湾台風の際には風宮だけが大木が倒れて屋根が折れたという。
また、「現状を打破したい」というときにお参りすると道が拓けると言われているそうだ。
そうと聞いたらお参りせねばと思う人が多いに違いない。
ご正宮の前にあるから「御池」という名がついたという池は、実は以前は外宮さんの中を流れていた川の名残だという。確かに細長い。
そこに、亀の形をしている一枚岩の橋がかかっている。
裏参道に向かう前に、お神札授与所で御朱印帳を購入し、外宮の御朱印をいただいた。
伊勢市駅ができた後、伊勢市駅から近い参道が表参道となり、元々の表参道は裏参道になったそうだ。
その手前にある御厩では、運がよければ白い神馬に出会えると言われてちょっと楽しみにしていた。私たちが通りかかったときには残念ながら空っぽだった。
母と私の外宮さん滞在時間は50分だった。
裏参道の北御門鳥居を出て、そのまま真っ直ぐ続く神路通を歩くとすぐ、外宮さんの外にある別宮である月夜見宮に到着した。
この神路通もなかなか風情のある道で、蔵のような建物があったり、家々の玄関にはしめ縄が飾られていたり、板塀にこんな札が下がっていたりする。
また、「この道は月夜見宮の神様が石垣の石を白馬に変えて夜な夜な外宮さんに通った道なので遠慮して道の真ん中は歩かないようにしましょう。」という説明書きもある。その説明書きに気がつくまで道の真ん中を歩いてしまい、申し訳ないことだった。
月夜見宮の写真の左手前に移っているのが、大楠の木である。
大きな立派な木で、お願いごとをするといいそうだ。
月夜見宮という名前からも想像されるように女性にゆかりのある神様が祀られている。そうと聞いて、丁寧にお参りした。
月夜見宮で気になったのは、お宮の左手にある大きな洞のある木とその洞の中にいたお稲荷さんだった。
御朱印をいただいたときにお聞きしたところ、そのお稲荷さんは地元の方がずっと古くから大切にしていたもので、元々洞ができていた木に雷が落ちて真っ黒焦げになってしまったそうだ。
その木にまた支えをして、今でもずっと大切にされているという。
何だかちょっといい話である。
月夜見宮から5分ほど歩いて伊勢市駅に戻り、コインロッカーから荷物を出して、12時過ぎのバスで内宮に向かった。
前に熊野古道でご一緒させていただいたお姉さんからは「5kmくらいだからぜひ歩いてね。」と言われていたけれど、荷物もあるし、母も一緒だし、バスに乗った。
やってきたバスは臨時バスのようで、乗客はほとんどが修学旅行生だった。
このバスが、内宮の月読宮辺りから全く進まなくなってしまった。
お腹もすいたよと思っていると、バスの運転手さんから「この渋滞は内宮の駐車場待ちの車による渋滞なので駐車場から出る車がないと動きません。もう歩ける距離なのでここで降りて歩いてください。」とアナウンスがあり、乗客のほとんどが猿田彦神社バス停で降りた。
確かに歩いた方が早い。
荷物を抱えて歩いていたら、今日の宿である神宮会館があった。
チェックインの時間には間があったけれど、フロントにお願いして荷物だけ預かっていただいた。有り難い。
身軽になって、お昼ごはんを食べにおはらい町に向かう。おはらい町は、神宮会館からすぐである。
おはらい町では「ひな祭り」のイベントをやっていて、あちこちにお雛様が飾られているのが楽しい。お店のショーウィンドウの中もひな祭りにちなんだ飾り付けになっている。
五十鈴川にかかった橋の上にまで並んでいるのは、赤福本店で赤福を買おう(食べよう)という人の列だ。その行列に恐れをなして、「うんうん、営業再開したのね。」と眺めるだけで通り過ぎ、手こね寿司で有名な「すし久」に向かった。
13時近いのに10組くらい並んでいる。待つこと10分くらいで入ることができた。
お店の中はあちこちに由緒ありげなお雛様が飾ってあった。
母は季節限定のひな膳(写真左)、私は名物だという手こね寿司(写真右)を頼んだ。
「名物に美味いものなし」と言うけれど、この手こね寿司は美味しかった。ほのかに甘みのあるお酢が効いたごはんに、かなり甘みを感じる漬けのかつおが乗っている。
母のひな膳も春らしく可愛らしい。ちょっとずつ交換して食べるのは昨日と同じである。
「このすし酢が」とか「海苔のみそ汁を家でも作ろう」とかしゃべりながら食べていたら、同時に入った同じ座卓の方々からすっかり遅れてしまった。
さて、これからいよいよ内宮にお参りである。
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2008年2月24日(日曜日)
前日は雨風の激しい大荒れの天気だった。
母の「伊勢湾フェリーから富士山が見たい」というリクエストに応えて、行きはフェリー、帰りは近鉄と考えていた。東京ー名古屋と東京ー豊橋の新幹線の切符も買ってある。往復のどちらかは何としてもフェリーに乗らねばならない。
朝現在、東海地方には波浪注意報が出されている。
東京駅に到着するまで迷い、頭上に広がる青空を信じ、新幹線を豊橋で降りてフェリーで行くことにした。
東京発7時56分のこだまで出発した。
考えてみればこだまに乗ったことなんて今までなかったかも知れない。
新幹線に「新富士」という駅があることも、その駅の前後で裾野の長い富士山がこんなに大きく見えることも、今回初めて気がついた。
10時12分に豊橋駅に到着し、10時33分発の豊鉄バスに乗るまでの間に、駅ビルでお昼ごはん用のお弁当でも買おうかと思っていた。
しかし、このバスと伊勢湾フェリーの通し券が2000円とお得だったのでその発売場所を探しているうちに時間が過ぎ、結局買い物をしている余裕もなくバスに乗り込んだ。
このバスが狭い。混雑していてどうしようかと思っていたら、半数以上の人がホテル日航の前で降りた。
バスに残った乗客は、伊良湖岬で開催されている菜の花祭りを見に行く方々のようである。
途中で海が見えてきた。どう見ても白波が立っている。
かなり戦々恐々としているうちに、2時間近くかかってバスは伊良湖岬に到着した。そこは道の駅兼伊勢湾フェリーの乗り場になっている。
道の駅なので、レストランや軽食を食べるスペースはあるけれど、お弁当のようなものは販売されていない。大きな袋にいっぱいの夏みかんが200円とか、この辺りはメロンの産地のようでメロンを使ったお菓子や、ここまでの道中でたくさん看板を見かけた「あさりせんべい」などのお土産がメインのようである。
12時50分発のフェリーに乗りたかったのでその場で食べる余裕もなく、メロンパンなどを購入してフェリー乗り場に急いだ。
ほとんど掘っ立て小屋に近いような待合室に先客が10人くらい、そのうち半分くらいの方はいかにもライダーな格好をしている。
車の人もあまりいなかったらしく、最終的には30〜40人が乗り込んだようだ。余裕で窓際のソファ席をキープできた。
船内で自動販売機を探して甲板で見つけたときに、床がずぶ濡れになっていたのを見て気づくべきだった。船は相当に揺れるらしい。
船内アナウンスでも「港を出ると非常に揺れますので、お手洗い等は今のうちに行っておいてください。」と言っている。慌ててメロンパンと缶コーヒーをお腹に入れた。空きっ腹で船に揺られたらかなわない。
船内アナウンスは伊達ではなかった。
揺れる。
母がどうも船に強いらしい一方で、私は元々苦手意識が強い。
左右に揺られ、窓にざっぶーんと派手に水しぶきがかかり、窓を洗っているのを見ているだけでくらくらしてくる。写真を撮りたくとも、ファインダーを覗いた途端に船酔いが激しくなりそうで、とてもそんなことをする余裕と勇気はない。
はっきり言って、富士山どころではなかった。
私はいよいよ揺れが激しくなって来た頃に眠ってしまったようで、気がついたときには、船は鳥羽側の波穏やかな内海を進んでいた。
13時45分、フェリーは鳥羽水族館の裏手に到着した。
我々は、鳥羽水族館には目もくれず、何はともあれお昼ごはんである。
ガイドブックに載っていた「にしぐち本店」に行き、漁師鍋と伊勢うどんを頼み、母と半分ずつ食べた。メロンパンを食べたし、時間も遅いし、この辺りの量が妥当なところだ。
水族館前の中之郷駅から乗れば電車料金が安いけれど、電車がとことん来なかったときに時間つぶしができるようにと鳥羽駅まで歩き、しかし待つほどもなく15時1分発の普通電車に乗ることができた。
今回の旅のテーマは「伊勢神宮」である。
であれば、鳥羽水族館に入らなくとも、ミキモト真珠島に行かなくとも、志摩スペイン村などかすりもしなくとも、伊雑宮に行かないわけにはいかない。
15時30分、上之郷駅に到着した。無人駅である。
伊雑宮はここから歩いて5分くらいのところにあり、次の電車までの1時間が見学時間である。
見た感じは観光客っぽいのに何故かスーパーのビニル袋だけ持って歩いているご夫婦の後ろにくっついて行ったところ、伊雑宮に到着することができた。
その辺りは住宅街で、しかし伊雑宮は、意外なくらいに奥が深く、広い。
海が近いこともあり、ここは海女や漁師の信仰を集めているという。
伊雑宮は内宮の別宮であり、瀧原宮とともに「遙宮」といわれている。
離れてはいるものの格式の高いお宮で、意外なことにぽつぽつとでも途切れることなく参拝の方がいらっしゃる。
日が傾いてきたためか、意外なくらい深い森のおかげか、空気がしんとしているように感じられる。
前から記念の品が欲しいと思っていたので、社務所に声をかけ、御朱印をいただいた。
御朱印帳を持っておらず、ここでは売っていないということだったので、和紙に押していただく。
後で御朱印帳に貼っておけばよいそうだ。
割と若い方だったのでちょっと心安い気持ちになり、いただきたいと言っておいて何ですがと「御朱印というのはどういう意味があるんでしょうか。」と伺ってみた。
御朱印船について高校日本史か中学社会で習ったとおり、御朱印というのはつまるところ割り符だそうだ。お寺で出していたところ、神社でも同じように「欲しい。」と言われることが多くなったのでお寺のマネをして出すようになったのですとおっしゃる。
「お寺の場合は、亡くなったときにはお棺に一緒に入れて焼き、その集めた御朱印が功徳となって位が上がる仕組みがありますが、神社の場合は出しているだけです。」ともおっしゃる。
率直すぎるお答えに驚いた。
他の神社さんでは、例えば神社の名前を筆で書いたりするけれど、伊勢神宮では御朱印を押し、日付を入れるのみである。「つまらないと思わないでくださいね。」とおっしゃる。初めていただいた身としてはそんな感想は浮かばない。
墨をすり、筆で書いてくださった日付の文字の美しさに惚れ惚れする。私には絶対にできない仕事である。
失礼ついでに「おいくらを・・・?」と尋ねたら、「300円です。」ときっぱり答えていただけたのも、初心者としては有り難い。
伊雑宮は、伊勢神宮で唯一、水田を持っているお宮である。
毎年6月にはお田植式が行われる。
この水田が見たくて、最初、伊雑宮の鳥居に向かって右に進んでみたところ、どうも水田がある気配がない。途中「天の岩戸 おうむ岩」などといういかにも手作りの看板を見かけ、これはこれで気になったけれど電車の時間も迫っている。
鳥居に向かって左側に行ってみたら、すぐ隣に水田があった。儀式が行われるためかきれいに整備されている。
そこに広がる水田を眺めてから、駅に戻った。
今日の宿は、母のリクエストで志摩観光ホテルである。
賢島駅に到着したのは17時前で、駅周辺を少しぶらつこうにも日も落ち始めて風も冷たくなっていたので、ちょうど送迎のバスが停まっていたこともあり、そのままホテルに向かった。
チェックインし、お昼ごはんも遅かったので夕食は19時30分からでお願いする。
母と二人なので、お部屋は和室にしてもらっていた。
ちょうど海を望み、夕陽を眺められる西向きである。嬉しい。
志摩観光ホテルには大浴場がない代わりに、近隣にある系列ホテルの大浴場に送迎付き有料で行くこともできる。しかし、この寒さの中でそんなことをしたら風邪をひきそうである。
お茶とお菓子でまったりくつろぎ、母が「寒い。」と言うのをものともせず窓を開けて夕陽の写真を撮りまくった。
さて、19時30分から夕食である。
今日、志摩観光ホテルに宿泊したのは、このホテルのレストラン「ラ・メール」で鮑のステーキを食べるためと言っても過言ではない。
メニューは以下のとおりである。
鮑のテリーヌ 車海老添え ハーブ風味のドレッシング
伊勢海老クリームスープ
鮑ステーキ 2種類の香草バターソース
シャーベット
牛フィレ肉ステーキ シャトウブリヤンソース
または
タイまたはスズキのポワレ フルーツソース
デザート
コーヒー
二人ともグラスで白ワインを頼み、メインに私は牛フィレ肉ステーキを、母はスズキのポワレを頼んだ。
流石! の美味しさである。
伊勢海老クリームスープはこれでもかというくらい海の味が濃厚である。
鮑ステーキなど、つい嬉しくなって写真を撮る前に食べ始めてしまったくらいだ。小ぶりで、ぷりぷりしていて美味しい。初島で食べた鮑よりも断然こちらの方が柔らかくて美味しい。
メインは、お行儀悪く母と少しずつ交換して味わった結果、牛フィレ肉ステーキの方がいける、ということで意見が一致した。
1時間以上かけて夕食をいただき、大満足である。
その後、交替で部屋のお風呂に入り、意外と母娘ってしゃべることがないのねと思いつつ、ほとんど家にいるのと変わらない感じでテレビを見たりして、23時頃就寝した。
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プロフィール写真を、2008年2月24日から2泊3日で出かけた伊勢神宮で撮った写真に変更した。
これは、3日目の朝、内宮に早朝参拝に行ったときの写真である。
間違いなくデジカメの設定に失敗しているのだけれど(恐らくはホワイトバランスの設定ミス)、でもこれはこれで何だか格好良い写真になったのではないかとこっそり自画自賛している。
プロフィール写真を変えるのと一緒に、旅行前の旅計画でお世話になったサイトを「伊勢志摩の支度(リンク)」にまとめた。
AB-ROADのモアイ飛ばしのブログパーツは、片付けてしまうのも何だか惜しく、でもどうやっても28回以上のクリックができないので、一番下に追いやった。
思い出したらまたチャレンジして、せめて30回を超えられるまでは設置しておこうと思う。
ブログパーツを設置したとき、モアイ像を傷つけた観光客について少し触れたのだけれど、このフィンランド人観光客については、罰金17,000ドル、3年間の同島への立ち入りを禁じる判決が出されたそうだ。
この罰が重いのか軽いのか、何だかよく判らなくなってしまった。
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マイフォトに2008年2月24日から2月26日まで行って来た伊勢志摩の写真をアップした。
この後、多少の写真の入れ替えがあるかも知れない。
かなり迷ってこの30枚にしたのだけれど、旅行記を書いたり、プリントする写真を改めて選んだりしていると入れ替えたくなることが多いのだ。
しかも、今、改めて見直してみたら、妙にピントの合っていない写真が多いような気がする。これはマズイ。
コメントにウソを書いてしまったことに気がついて訂正することもあると思うので、一応、暫定版ということで。
アップした写真はこちら。
どうぞ、見てやってください。
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2008年2月24日から2月26日まで、2泊3日でお伊勢詣りに出かけて来た。
母と2人の旅行で、気分は「旅行社の企画担当者兼添乗員」だった筈が、気がつけば自分の好きなように母を引っ張り回し、2日目など万歩計が21420歩を記録していたらしい。
そして1日目の伊勢湾フェリーは思いっきり横揺れし、3日目の帰りの電車は乗ろうと思っていた近鉄特急が運休し、地元に帰ってきてからも電車が止まり、乗り物運には見放されていたかもしれない。
今思いつく、今回の旅の教訓はこのとおりである。
1 バッグは大きめのものを持って出かけ、お土産もそこに詰め込んで帰ろう。
2 公共交通機関(特にバス)利用の多い旅は、小銭をたくさん持って出かけよう。
もう一つくらいあったような気もしたけれど忘れてしまった。
神様にたくさんお会いした(つもりになっている)旅だった。
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