2008年2月26日(火曜日)
神宮会館の早朝参拝は、宿泊者は無料で参加することができる。
毎朝、神宮会館のスタッフの方が交替で内宮さんを案内してくださるのだ。
この日は、父と息子の二人連れ、友人同士とお見受けした女性二人、そして私たち母娘に、会館の女性が一人ついてくださって7人で出発した。
内宮さんまでの道々も伊勢神宮について語ってくださる。
「天照大御神さまは、2000年前に皇居をお出になって・・・。」とほんの少し前にお隣の家が引越をされたかのようにおっしゃる。
何だか、伊勢の方達と伊勢神宮との近さが羨ましくも妬ましい。
何とかお天気はもちそうである。
昨日のごった返していた宇治橋とは異なり、人影はほとんどない。
うっかり、昨日の夕食のときの設定のまま宇治橋の写真を撮ってしまった。これはこれで、ちょっと違う雰囲気が出て良かったかも知れない。
この宇治橋は長さが100m強あり、木造の橋としては日本で一番長い。
前の20年はご正宮の棟持柱だったという来歴を持つ宇治橋の両端に立つ鳥居の柱は、次の20年は三重県北部にある別のお宮の鳥居としてのお役目が待っているという。
また、外側から二番目の擬宝珠の中に、橋を守るお守りが収められているというお話だ。掛け替えのたびに受け継がれて来たのだろう。
伊勢神宮は、5500平方メートルの神域を持ち、概ね世田谷区と同じ広さだと聞いて驚いた。
神苑には大正天皇が手植えした松の木があるにも関わらず、平等のため、この松も含めて個人名を記した立て札等は一切出していないそうだ。徹底している。
昨日来たときに気がつかなかったわけである。
火除け橋の手前の神苑の辺りまでは、明治時代には神主さんの住まいなどの人家があったという。
御手洗場の反対側には、斎館という神職がお祭りのときなどにお籠もりをして身を浄める場所と、行在所(あんざいしょ)という皇室の方がお祭りなどのときに身を浄める場所がある。
こういったことは、説明してもらって初めて知った。
行在所は、門の隙間から見えたとおり、本当に何もない場所だそうだ。そこに1日とか2日とか籠もるというから、大変なことである。
説明を受けながらゆっくり歩き、御手洗場に到着したときにはすでに7時を回っていた。
この五十鈴川は上流に人家がほとんどないため、水がきれいなのだという。
この辺りの家々には、土用の丑の日に五十鈴川の水を汲み、1年間神棚にあげておくという習慣があるそうだ。やっぱり、羨ましくも妬ましいお話である。
御手洗場に立っているとよく錦鯉が寄って来るらしい。残念ながら今日は会うことができなかった。
瀧祭神にご挨拶する。
瀧祭神は、五十鈴川の水を守っており、土用の丑の日に水を汲みにきたときには、こちらに一度あげてから家に持ち帰るという。ここは所管宮といって、伊勢神宮125社の中では位の高いお宮ではない。そして、祠ではなく、石神様が祀られている。
お隣に空いているスペースがないと思ってお聞きしてみたら、所管社などでは20年ごとのお引っ越しは行われず、傷んだら直すという感じだそうだ。
表参道を行かずに、そのまま五十鈴川沿いの小径を風日祈宮橋に向かう。
早朝ということもあり、昨日よりもさらにシンとして凛とした空気が漂っているように感じられる。
言われて気がついたけれど、この玉砂利の道には、両脇にこれだけの木々があるというのに全く落ち葉がない。伊勢神宮では落ち葉たきをすることはせず、全てを土に還しているのだそうだ。
伊勢神宮の森には人の手が全く入っておらず、豊かな自然が守られており、鹿など追わなければならないほどに増えてしまっているという。
風日祈宮橋周辺の柵はやはり鹿のために設置されているそうだ。残念ながら今日は鹿に会うことはできなかった。
風日祈宮は雨と風を守る(雨と風から守る、だったかも知れない)お宮で、年2回のお祭りのとき、ここにだけは菅笠と蓑が特別にお供えされる。
お供えといえば、内宮さんにいらっしゃる神様は普段は外宮さんに行ってごはんを食べていて、だから内宮さんでは、外宮さんのように毎日のご飯を作ることはしていないという。
ただし、特別の儀式などのときには内宮さんでもごはんを作ることがあり、雨のときにはこの写真の五丈殿でお料理するそうだ。間口が五丈の長さであることから、この名前がついている。
神楽殿を通り過ぎ、表参道をご正宮に向かって進む。この辺りは、木々がとても太いと思って昨日通った辺りだ。しかし、伊勢湾台風でだいぶ木が折れてしまったそうだ。
伊勢神宮で一番太い木を子ども達が囲んでみたところ、小学校3年生が11人でやっと囲めたという。
ご正宮に上がる階段の反対側に、御贄調舎がある。
ここはお祭りのときに、外宮の神様にいらしていただき、鰒を調理する特別な場所である。奥に写っている石の台が神様のいらっしゃる場所で、神職が調理するのをお見守りいただくという。
神様もやっぱり鰒が好物で特に誂えると聞くと、「神様も普通じゃん」というとんでもない感想が浮かぶ。
ご正宮にたどり着いたときには7時40分を回っていた。
昨日とは打って変わって、ご正宮に上がる階段にも人っ子一人いない。
ご正宮は四重の垣に守られており、一番奥まで行くことができるのは天皇だけという。
建物の屋根にある鰹木は、外宮さんでは奇数、内宮さんでは偶数と決まっている。ご正殿の場合、内宮さんは10本で外宮さんは9本と、全てにおいて外宮さんの方が少し小さくなっているという。
ここで千木について説明していただいていたら、母が「そうだったんですか。気がつかなかったわ。」と言うので思わず膝が砕けそうになった。昨日、外宮さんでも内宮さんでも散々私がしゃべったのに全く記憶に残らなかったらしい。
ご正宮では、案内してくださった神宮会館の方がコートを脱いでお参りされていたのがとても印象的だった。
私など昨日も今日も、写真を撮る都合上手袋こそしていなかったものの、コートはずっと着たままである。
やはり、生活の中に溶け込んでいるのだな、神様は「いらっしゃる」「おわす」のだなと思う。
そして、昨日はあまり何とも思っていなかったけれど、ご正宮の白い帳を風が吹き上げているときに出会えるのは、とてもとても幸運なことなのだと教えていただいた。
私は、式年遷宮は新しいお宮が建つのと同時に古いお宮を壊してしまうのかと思っていたけれど、そうではないらしい。
古いお宮を残したまま新しいお宮を作る理由のひとつは、紙に書かれて残されているものだけではよく判らない細かな造作などの見本とするためだそうだ。
そして、神様に新しいお宮にお移りいただいた後も1年くらいは古いお宮がそこにそのままあるという。新旧のお宮が並んでいるときにもう1回来てみたいと思った。
新御敷地の心御柱を守っている覆屋は昨日も見たけれど、その中には柳の木が詰め込まれ、決して扉を開けないようにして心御柱を守っていると聞いてさらに驚いた。
この柳の木は、不思議なことに、次の式年遷宮のときに扉を開くと、まだ青々とした姿を保っているという。
そして、荒祭宮に行く途中、昨日よりもさらにご正殿がよく見える場所を教えていただいた。「写真も大丈夫ですよ。」とおっしゃっていただき、実は昨日はかなりどきどきしながら撮っていたけれど、今日は安心して撮らせていただいた。
荒祭宮に行く途中、昨日見つけることのできなかった「天」の文字に見えるという階段の石を教えていただいた。
見た瞬間、今日だったら教えていただかなくても見つけられたかもと思った。
何故だか石の切れ目に一円玉がびっしりと並べられてあったのだ。
誰がどうしてこんなことをしたのかは謎である。
荒祭宮は、ご正宮の「父」という活動的な性格に比べると、「母」のように柔らかく包むような性格だという。同じ神様の異なる魂がいらっしゃり、それを「わけみたま」という。
そのためか、荒祭宮には他の別宮にある鳥居がないし、第一別宮として、お祭りはご正宮と同じようにご正宮の次の順番で行われるそうだ。
そして、何より案内してくださった神宮会館の方が、ここでもコートを取ってお参りされている姿を見て納得することができた。
敷き詰められた石は、やはり白い石は神様の領分であることを示しているそうだ。
新しいお社ができると、白い石を樽に詰めて運んで来て、神領民の方が白いハンカチに包んで一つずついただき、お社のそばに運び入れる。前回の式年遷宮からは、「一日領民」という制度ができて、この行事に誰でも参加できるようになったそうだ。
まだ神様はいらっしゃらないけれど、神様がいらっしゃる建物のそばに行ける、唯一の機会である。
式年遷宮の際には、今敷いてある石をきれいに洗って敷き、その上に新しく持ってきた石を入れるということだった。
表参道を逆に戻り、こっそりと神楽殿をお掃除する巫女さん達を覗き、8時にお神札授与所が開いていることに少し驚き、早朝参拝は終了となった。
御厩に流石にまだ神馬はいない。ここにいる馬は皇居から来た馬で、馬の名前は、その年の歌会始のお題の一字をいただくのが決まりという。この「その年」というのが馬が生まれた年なのか、伊勢神宮に来た年なのか、聞きそびれてしまった。
昨日も今日も、神馬にも鹿にも錦鯉にも出会えなかったけれど、放し飼いにされているという鶏には会うことができた。
まだお店がほとんど開いていないおはらい町を通って神宮会館に帰った。
唯一、この時間から開いていたのが赤福本店で、神宮会館の方に「今のうちに買っておいた方がいいですよ。」と教えていただいて、お土産に買うために寄り道する。そうして神宮会館に戻ったら、すでに、8時30分を回っていた。
最後の一組になってしまい、急いで朝食をいただく。かなり身体が冷え切っていたので、温かいご飯とお味噌汁が美味しいし嬉しい。
お部屋に戻って、ちょうど部屋の窓から見えるところに桜が咲いていることに気がついた。何だか嬉しい。
荷物を整理して、9時40分くらいにチェックアウトした。
再び、フロントで荷物を預かっていただく。
このままおはらい町をうろうろしようと思っていたけれど、会館を出たところのバス停に人が待っているのを見て気が変わった。「多分、すぐにバスが来るから倭姫宮に行きましょう。」と強引に母に宣言し、そのまま倉田山周辺に向かった。
バスを降りて帰りの時間を確認すると、見学に使える時間は1時間というところである。
倭姫命は、天照大御神を伊勢にご案内し、神宮を創建された齊内親王である。それなのに大正時代までお祀りするお宮がなく、それを残念に思った市民の方の働きかけにより造られのが倭姫宮で、伊勢神宮125社の中で一番新しいお宮である。
新しいといっても緑濃く奥深いお宮で、驚く。
「新しい」と聞いて、白木も美しいお宮を想像していたら、他の別宮よりも黒ずんでいるようにさえ見えることに驚いた。よくよく考えれば20年以上建ち続けているお宮はなく、いくら創建が新しいといっても、式年遷宮で他のお宮と同じだけの時間が経過しているのだから、見た目が違わないのは当たり前である。
今回お参りした中で、内宮さんの荒祭宮とここ、外宮さんの三つの別宮は、内宮さんと外宮さんのご正宮とは逆に、向かって右側が新御敷地になっていた。もっとも、別宮の場合は、この左右にそれほど大きな意味はないらしい。
雨も降ってきたので、倉田山を少し散歩し、再びバスに乗って11時前におはらい町に戻った。
あとはお買い物三昧である。母に、ミキモトで真珠を買ってもらう。どうやら、母は出発前から私に真珠を買ってくれる心づもりでいたらしい。
「おかげさま」という日本酒を父に、伊勢神宮ビールを妹へのお土産にする。
伊賀くみひものお店「くみひも平井」や、松阪木綿の「もめんや藍」、ちりめんのお店や、伊勢一刀彫りのお店、伊勢型紙のお店などを見て歩いた。
この日は、元々は瀧原宮に行くつもりだった。瀧原宮は松阪からバスに乗って行くので、夕ごはんに松阪牛のお弁当でも買って電車で食べようかと思っていた。
その話をしてあったので、母の頭の中には「松阪牛を食べる」ことが決定事項として刻まれていたらしい。
母のリクエストで、お昼ごはんは宝来亭というお店で松阪牛のステーキ丼を食べた。美味しくて満足だ。
お腹いっぱいになったのに、しょうゆの匂いにつられて自然薯入りのぬれせんを食べたり、かまぼこを買ったりしてさらに寄り道をしつつ、14時前に神宮会館に戻った。
神宮会館のお土産物屋で最後のお買い物をし、ずっと迷っていた鈴も買う。必死で荷物整理をしたものの、来るときはボストンバッグ一つずつだった荷物は、袋が一つずつ増えた。
14時15分過ぎのバスに乗って五十鈴川駅に行き、14時48分発の近鉄特急名古屋行きの切符を買おうとしたら、窓口のおじさんが申し訳なさそうに「そこにあるんだけど」と言って張り紙を指差した。
見ると、乗ろうと思っていた特急は四日市駅で架線が切れた影響で運休しますと書かれている。
五十鈴川駅というのは本当に周りに何もない駅だ。次の電車まで40分近くあるので、バスで伊勢市駅まで出ようかと思ったけれど、重い荷物を抱えて移動するのも面倒で、駅の待合室で待つことにした。
15時11分発の近鉄特急で名古屋までは1時間半弱である。二人とも爆睡した。
指定券の座席指定にけっこう長い列ができていて名古屋での乗り換えに手間取り、夕ごはんに駅弁を購入し、17時過ぎののぞみで帰途についた。
ところで、伊勢といえば「赤福」である。
実は、私はこの日、生まれて初めて食べた。
母も妹も「普通のあんころもちだよ」と言うけれど、とても美味しかった。
この旅の心残りといえば、瀧原宮に行かなかったことと、赤福でお汁粉を食べそびれたことくらいだ。
伊勢志摩旅行記2日目その2<-