2004年9月23日(木曜日)
この日は1日フリーのところ、オプショナル(8500円)でクスコ市内と近郊の観光をつけてもらった。ガイドが引き続き道子さんだったのが嬉しい。
8時出発だったので、7時くらいに朝食を食べに行く。一昨日は朝食のレストランが開いたばかりのところに行ったから、実はメニューの半分も出ていなかったらしい。そのときは出ていなかった温かいもの(スクランブルエッグ、ジャーマンポテトみたいな料理など)があるし、オムレツも焼いてくれる。嬉しくなって、色々な具を入れてもらってオムレツを頼んだ。
明日リマに戻る飛行機は朝早いので、この日が唯一、ホテル・ロス・アンデスの朝食を堪能できる日である。
ロビーに出ると、PCが空いていた。一昨日出したはがきはどう考えても友人の誕生日に間に合わないので、二人でメールを送ることにした。
電源を入れたらWin98だった。それなら特にパスワードを入れなくてもネットワークにつながるだろう。
IEを起動し、Webメールに接続するサイトのトップページに行くと日本語が表示された。調べてみると、日本語変換ソフトがインストールされている。流石に日本人観光客の姿をたくさん見かけたホテルだけのことはある。
しかし、ログインし、メールを書こうとしてハタと手が止まった。どういう操作をしたら日本語入力できるようになるのかが判らない。当たり前だけど半角/全角キーなんてものはキーボードのどこを見てもない。
結局、ほとんどローマ字、「Happy Birthday!」だけ英語の情けないメールになった。まぁ、気は心である。
道子さんの顔を見るやいなや、「カメラの媒体をなくしたんです!」と訴え、ここのホテルのフロントに確認し、サンクチュアリロッジに電話をかけてもらった。どちらにもそういう忘れ物は届いていないらしい。あとはダニエルの車の中なのだけれど、今彼はジャングルに行っていて、今日の夜中にならないと帰って来ないという。
私が使っているカメラはxdピクチャーカードなので、媒体はケースに入れてもかなり小さい。
道子さんに「ペルーではまだデジカメとかが一般的になっていないし、ケースも小さいし、ごみと間違えて捨てられてしまったかもしれない。」と言われる。多分彼女にはこの時点で忘れ物は出てこないと予測できていたのだろう。今ならそれが判る。
打てるだけの手を打ってもらい、観光に出かけた。
まずは、クスコ近郊のサクサイワマンの遺跡だ。
ピサックに向かった日に、子供たちがマスゲームのような模擬インティライミのようなことをしていた場所である。もちろん夏至の日には本物のインティライミが行われる。
今年のインティライミには雨が降ったそうだ。ペルーも天候不順なのかもしれない。
昨日のマチュピチュ下山途中にコケたのが響いて、足を大きく動かすたびに尾てい骨が痛い。
この時期にマチュピチュで雨が降るなんて、ここ十数年で一度もなかったことらしい。あまりにも私が「痛い」と繰り返すのに辟易したのか、道子さんに「得がたい経験をしたのよ。」と言われたけれど、そもそもマチュピチュに来たこと自体がものすごく得がたい経験である。得がたさはすでに十分だから普通に雨じゃない日に(晴れた日に、なんて贅沢なことは言わない)マチュピチュにいたかった、と思う。
とにかく、サクサイワマンだ。
この遺跡は、ものすごく騒がしかった。
今日は「学校の日」で、遠足に行ったり運動会をしたりする日だという。石組み以外はだだっ広いサクサイワマンの遺跡は子供たちの遊び場と化していた。ボールを持ってきてサッカーをしている子もいるし、一枚岩の筋を滑り台に見立てて繰り返し滑っている子もいる。「僕たちを撮って!」と身振りで言われ、写真のモデルになってもらったりもした。
ペルーはそんなに強くはないけどサッカーが人気らしい。アルゼンチンのチームに勝ったクスコのクラブチームが、それ以降国内で負け続けていて、昨日やっと勝てたそうだ。
サクサイワマンの遺跡は、とにかく広い。広場を囲むように巨石の石組みが波打って続いている。
スペイン人への反逆を企てたマンコ・インカがここに布陣し、クスコに迫ったそうだ。けれどもインカ軍は夜は闘わないのでその隙をつかれて負けてしまい、この遺跡も大部分が破壊されてしまったらしい。
そのときに破壊された塔の土台だという円形に組まれた石組みも残っている。その足下からでもクスコの街が一望できるのだから、ここに更に塔が立っていれば作戦を立て戦うために十分な見晴らしが確保されたことだろう。
うねうねと続く石組みは私の身長の2倍を越す巨石が使われていたり、キューブ上の石を緻密に積み上げてあったり、インカの二重の門も残っていて、戦いの跡の場所なのに、気持ちの良い遺跡だ。
その他にも、大きな石をそのまま削って階段状にしてあったり、マチュピチュのコンドルの神殿のような感じに上下逆の階段状に刻まれた岩があったりする。
色々な話を聞きながら、ゆっくりと1時間以上も楽しんだ。
遺跡を遊び場代わりにしているのはサクサイワマンだけではなく、どこの遺跡でも岩の上を飛び跳ねたり岩の下を潜り抜けたりしている子どもの姿があった。
サクサイワマンの遺跡からすぐのケンコーでは、そうしてボール遊びをしていた女の子達と一緒に写真を撮ったりもした。
ケンコーの遺跡は、岩を削って作られている。
大きな石に水路がジグザグに彫られていて、蛇を象っていると言われているという。水路と書いたけれど、地球の歩き方によると、ここは宗教儀式に使われた場所で、水ではなく生贄の血を流したとも言われているらしい。
また、石畳として敷かれた石に、リャマの形が彫られたりしている。
足下の岩は掘り抜かれていて、下を歩いている人の姿が時々見える。降りてみると、体を横にしてやっと通れるくらいの通路が切ってあり、捧げ物を置くような棚も削ってあった。
奥の方から見ると、この遺跡が一枚岩を掘り出したものだということがよく判る。どうも、こちら側が元々は表玄関だったのではないかと思われる。大きめの岩をモニュメントのように立ててあり、そのモニュメントと遺跡を眺められるような位置に王が座ったと言われる岩(きちんと椅子として座れるように削ってある)がある。
もちろん、できるだけ偉そうに座って写真を撮ってもらった。
タンボマチャイは王の水浴場として使われていた場所である。
タンボマチャイを訪れる前に、インカ王が水浴びしている間の見張り場とされていたと言われるプカ・プカラという遺跡に行く。サクサイワマンやケンコーの石は、グレーの石だったけれど、この遺跡は赤い。アドベの色だ。
この遺跡は明らかに臣下用の実用的な場所で狭い。でも、少し高くなっていて、王の水浴中に周りを見張るには絶好の場所だということが判る。
プカ・プカラからタンボマチャイの水浴び場は見えないけれど、タンボマチャイに行くとプカ・プカラの遺跡の頭の部分が見える。
バス1台分の日本人観光客が先着していて、彼らがかわるがわる写真を撮っているのを眺めながら、どうやってタンボマチャイにいる人とプカ・プカラにいる人が信号を送りあったんだろう、という話になった。
友人は叫んだのに違いない、と言う。私は糸電話を使ったんじゃないか、弓矢で矢文を送ったんじゃないか、と言ってみたけれど、誰の賛同も得られなかった。
道子さんによると、インカの人々は少なくとも弓矢という武器は使わなかったらしい。
道子さんが「ほら。」と指差した先にフィコがいた。昨日は女の子の二人組をマチュピチュで案内し、今日は別の団体を連れてクスコ近郊を案内している。日本語がしゃべれるガイドさんが足りないというのは本当らしい。
今年の8月と9月は今までにない人数の日本人観光客がペルーに来たそうだ。聞いてみたら、昨日の二人を朝空港まで送り(それを知っているということは道子さんも今朝空港にいたということだ)、リマから来た団体をそのまま案内し始めたらしい。忙しすぎる。
フィコが「足は筋肉痛になっていない?」と聞いてくる。何故か今日はスペイン語で質問し、道子さんが通訳してくれる。正直に「足は痛くないけど尾てい骨が痛い。」と日本語で答えたら、道子さんは丁寧にスペイン語に訳してくれたみたいだ。
彼らが出発してから、水浴び場に近づく。今も水が湧いていて、その水源がどこにあるのかまだ判っていないそうだ。
ちょうど神殿の下に水浴び場があるような形で、段々に上の方から流れている。今でもかなりの水量があるのが不思議である。
ケンコーの遺跡から白いキリスト像が見えていた。「行ってみますか?」と聞かれたので、もちろん連れて行ってもらう。
そばに行って見ると、そのイエス・キリストはとてもとても太っていた。きっとクスコ市街から見たときに存在感があってバランスがいいような体型になっているのだろう。
遠目には真っ白なキリスト像も足元はフェンスで囲まれ、何となく薄汚れている。
キリスト像のところに車が1台到着してその車から子どもが降りてきたのを見て驚いた。後から後から何人も何人も降りてくるのだ。最初の一人が降りるところを見逃したので数えられなかったけれど、10人は超えていたと思う。もちろん運転手は大人だし、車は普通のバンだった。一体どうやって乗っていたのだろうと思う。
正午くらいにクスコ近郊の遺跡巡りを終えて、クスコ市街に戻った。
まずは、太陽の神殿に向かう。学校がお休みのせいか、太陽の神殿周辺に学校があるせいか、アイスクリームをなめなめ歩いている小・中学生の姿が目立つ。
単純に土台の部分がインカの神殿、建物の壁とか床とか天井とかの部分が教会、と思い込んでいたので、インカの石組みとキリスト教会の壁とか入り組んでいる状態がよく掴めない。
教会では、インカの石組み部分は写真撮影OKで、教会部分は撮影禁止というのも面白かった。
私たちはインカの石組みを見るために観光スポットとして入場しているけれど、キリスト教徒の人にとってはこの教会は現役の教会である。
「この石はこの教会の石組みを構成する中で一番小さい石だ。」「人があまりにも触るから黒ずんでいるんだ。」と道子さんに説明してもらったときには気をつけていたのに、「この穴はここを直角に曲がって向こう側に抜けている。」と聞いて、ついその穴に指を入れて試してしまった。道子さんに「ここは触っちゃいけないのよ。」とやんわりと注意される。申し訳ない。
この教会にも、マチュピチュの太陽の神殿のようにカーブを描いた石組みがあり、それも見に行く。その石組みは外壁にあって、下は緑の公園のようになっている。今は芝生が植えてあるだけだけど、スペイン人が来た頃は黄金で作られた動物の像が飾られていたと言われているそうだ。
太陽の神殿から十二角の石まで歩く間中、「靴を磨かせて。」と言う少年に目をつけられることになった。私の黒い革のハイカットシューズは、昨日のマチュピチュ登山(というよりも下山)のときに思いっきり汚れていたからだ。一応「靴磨きティッシュ」を持っていたのである限りのティッシュを消費して靴を拭いたけれど、そんなものでは追いつかないくらい、白茶けた靴になっている。
一瞬「こんなに声をかけられるんだったら磨いてもらおうか」と思ったけれど、磨かれ終わったときの靴の状態に今ひとつ確信がもてなかったのでやめておいた。
十二角の石は、細い通りにあった。「見つけにくい」とガイドブックには書いてあったけど、妙な民族衣装のおじさん(どうも石に人が触らないように見張るのが役目らしい)が番をして近くに控えていたので、どこにあるのかすぐ判った。探す楽しみが減ってしまったような、変なおじさんに会えて面白かったような、妙な気分だ。
十二角の石は、周りと比べると大きかったけれど、何ていうかやっぱり感動がなかった。石組みは細かくて隙間もなくて精緻だけれど、十二角だからという感動はなかったような気がする。これまでに「凄い!」と思わず言ってしまうような石組みを見てきたからかも知れない。
その後、歩いてアルマス広場まで戻った。
道子さんと広場を一周して、黒板に書かれているレストランの定食メニューがお勧めで安いことを教えてもらい、プカラの通りにアンティークの布を使ってオリジナルのバッグなどを売っているお店があることを教えてもらい、そこのおばさんにお店が何時まで開いているか聞いてもらう。
「大丈夫?」という問いかけに、自信はないながらも「大丈夫。」と返して、今日の夕食に変更してもらったフォルクローレディナーショーの待ち合わせをホテルのロビーで19時と約束し、道子さんと別れた。
もう13時を回っている。お腹が空いていたので、お昼ご飯を食べることにする。
アルマス広場を一周してお店を探したけれど、何故かピザ屋が多い。ペルーまで来てイタリアンというのも何だかしっくりと来ない。
芸のないことだけれど、昨日もお昼ご飯を食べた「プカラ」に行った。「ランチの定食は安くて美味しい」と教えてもらったけれど、プカラの今日のランチはオムレツで、ペルーまで来てオムレツを食べるというのも何だかしっくりと来ない。
色々なものを食べたいので、友人と二人で3品とってシェアした。アボガドのサラダと、コロッケと、アンティクーチョの盛り合わせである。高地にも慣れてきた(気が緩んできたとも言う)ので、昼間からクスケーニャビールも頼む。
コロッケはマッシュポテトの中にひき肉を炒めたものを入れて揚げてある。かなり大きい。マッシュポテト自体に味がついていて美味しい。
アボガドのサラダは、アボガドの種を除いて、そこに(多分)ツナをベースにマヨネーズで和えたサラダが入っている。
アンティクーチョの盛り合わせは、定番のハツと、お魚(多分、鱒だと思う)、あともう1本が鶏だったか牛だったかよく覚えていない。全部美味しくて、お腹いっぱいになりながらも完食した。
そのまま次の予定を相談する。久々に地球の歩き方を取り出した。
私は「カテドラルに行って、銀の祭壇と、クイを食べている最後の晩餐が見たい!」と希望し、友人は「ビエンナーレ美術館が見たい!」と希望する。とりあえず、その2ヶ所に行くことになった。
まずは一番近いカテドラルに向かう。正面入口の扉が閉まっていてどこから入ればいいのか一瞬迷ったけれど、向かって左側の建物の入口に椅子に座っているおじさんがいた。
「地球の歩き方」には、クスコとその近郊の共通チケットで入れると書いてあったけれど、カテドラルを含む3ヶ所が共通チケットから脱退して別の共通チケットを作ったらしい。私たちは他の2ヶ所に行く予定はなかったので、カテドラルだけの入場券を買う。
中に入ると、石造りの建物はしんとして寒い。ヨーロッパ人(推定)の団体はいるけれど、日本人はいなさそうだ。響子さんも言っていたけれど、欧米人は教会が好きで、日本人はインカが好きなんだろう。
カテドラルの中はかなり立派で、天井も高く、細かい細工の施された山車のようなものがいくつもいくつも飾られている。写真を撮れないのが惜しい。本当に見事な細工だ。
カテドラルの中央部分に入り銀の祭壇を目にして、「銀300tを使って作られた」とガイドブックで読んでいたものの、やはり唖然としてしまった。
その銀の出どころはもちろんインカ帝国で、スペイン人が「銀持ってこい」と言ったら本当に持ってこられて驚いた、というエピソードつきだ。確かに馬鹿馬鹿しいほどの大きさで、流石に近寄れないように柵があったけれど、かなりきらびやかに飾られていて、多分誰かが毎日磨いてピカピカにしているのだろうと思う。
信者の人が座る席のできるだけ端っこに座り、しばし呆然と眺める。こんなに大量の銀をあっさりと持って来られてしまったら、そりゃあ征服熱も高まるよ、と思う。
いつまでも呆然と銀の祭壇を眺めているわけにもいかない。さらに先に進もうとしたところで、祭壇の脇に「最後の晩餐」の絵を見つけた。「最後の晩餐」と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が思い浮かぶけれど、それとはかなり違う。
まず縦横の比率が違った。最初からこの場所に飾られることを予定していたのか、やけに縦に長い。その壁の位置にピタリと収まっている。
さらに異なっているのは「最後の晩餐」のご馳走で、話に聞いていたとおり、仰向けにひっくり返ってこんがり焼かれたクイがテーブルの中央に載っている。とはいうものの、必死で思い出そうとしても、教科書にも載っているレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で何を食べていたのかどうしても思い出せなかった。
後になって調べたら、そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はつい最近まで洗浄を行っていて、晩餐のメニューが何なのか判っていなかったらしい。聖書のストーリーからしてパンとワインが食卓に上っていたことは確かだ。私が子どもの頃ミラノで見たり、教科書に載っていた絵からはその程度しか見て取れなかったと思われる。
最近の洗浄で、最後の晩餐の食卓には魚料理があったと判ったそうだ。イエス・キリストも動物性たんぱく質を食べていたのね、と思う。
クスコの「最後の晩餐」の絵はかなり鮮明で、ご馳走のクイもテーブルのど真ん中に載せられていて、見間違えようがない。
ちょうどよく絵を眺められる場所に置かれたベンチに座り、「この絵はスペイン人画家が描いたのか、ペルー人画家が描いたのか」という話になった。「宗教を広めるために宗教画家をスペンから連れて来たに違いない」と推測したけれど、後で道子さんに尋ねたところ、描いたのはペルー人画家だそうだ。メインディッシュも、クイだという説と、あのマチュピチュにいたあのウサギネズミだという説とがあるらしい。
「最後の晩餐」も堪能して出口に向かう途中、地下への階段があった。電灯も煌々と輝いている。カタコンベなのではないかと恐る恐る降りてみたら、地下には白い壁の小部屋があるだけだった。ちょっと肩透かしを食った気分で1階に戻る。
1階に戻った正面に、コートを着込んだお姉さんがPCと一緒に立っていた。近づいてみると、クスコ周辺の遺跡や風物を納めたCD-ROMを売る屋台(?)だった。
このときには、デジカメのカードは戻って来ないだろうと覚悟も決まっていたので、デモ版の映像でマラスの塩田やモライの遺跡が納められていることも確認できたし、何より日本語版があったので購入した。
もちろん、購入前に「Macintoshでも見られる?」と確認する。まだ見ていない。お姉さんにきちんと質問の意図が通じていることを祈ろう。
次に美術館に向かった。カテドラル脇のかなり急な坂道を登って行くと、その中腹の曲がり角に、布をたくさん置いてあるお店があった。まるで招かれているように開かれたドアに「入ってみようか。」と入り込み、二人してハマった。
広めの店内に、新品とアンティークの布やバッグやベルトが、所狭しとでも整然と並んでいる。値札がないのが気になったけど、物が良いのは完全に素人の私にも見て取れた。
最初はベルトを見たり、お土産を探したけれど、90cm四方くらいの正方形でブルーを基調にした布に一目ぼれし、本気買いに走ってしまった。
お店自体も木の床と木の壁で、天井が高くて斜めになっていて、なかなか趣がある。店主らしいおじさんもひげを伸ばしてそれらしい感じで、なかなか味がある。
バッグを見ていた私たちに「それは自分が作ったんだ。」と多分スペイン語と身振り手振りで話しかけてそのままどこかへ行ってしまう。
ベルトを見ていると、「それはアンティークだ。でも、アンティークと言っても100年も昔のものではない。30年とか50年前のものだ。」と教えてくれる。多分これは英語で教えてくれたんだと思う。要するに私たちとおっつかっつの英語力である。
ベルトの模様についても色々とスペイン語で説明してくれようとするけれど、私たちにはちんぷんかんぷんだ。そこに、たまたまお店に一人旅の日本人の女の子が入ってきて、彼女がスペイン語を話すことが判ると、彼女を通訳にして教えてくれようとする。おじさんは、来年にはこのお店を発展させて博物館のようにしたいと考えているそうだ。
思いついてスペイン語会話集を出してみたけれど、載っている単語が少ない。おじさんが伝えたい単語は悉く載っていなかったらしく、しまいには本を取り上げられて投げるマネをされてしまった。
おまけに、私の発音は明らかにおかしいらしく、おじさんが言ったとおりに復唱しているつもりなのに(それで覚えておいて、後でスペイン語辞書を引けばいいと思ったのだ)、さらに復唱し返され、爆笑される。
このとき、チンチェーロの市場で買ったベルトを巻いていたら、その結び方がおじさんのお気に召さなかったらしい。そもそも、市場で買ったベルトとおじさんのお店にあったベルトでは長さが全く違う。市場で買ったベルトは一重で巻いて20cmたらすくらいの長さだけれど、おじさんのお店のベルトは私だったら三重くらいに巻けてしまう。その巻き方も教えてもらった。
結局「化学繊維じゃない」と太鼓判を押され、「ブルー以外は化学染料を使っていない」と保証され、「普通は30cm幅くらいの布を織ってつないであるんだけれど、この布はこの幅で織ってあるんだ」と説明された(と思われる)一目惚れした布と、アンティークのベルトを購入した。
お勘定の段になったところで、思ったより(というよりも、値段については考えていなかった)高くて、二人ともお財布に買えるだけの現金を持っていなかった。身振り手振りと英語で「ホテルに戻ってお金を取ってくるから待ってて!」と言ったら、どうにか伝わったらしい。「取っておくからね。」とどこかに隠してくれた。
ホテルに戻り、慌ててお金を用意して、必死で急いでお店に戻ったらおじさんに笑われてしまった。
無事に購入して、「一緒に写真撮ってもらえる?」と聞いたら残念ながらそれは断られてしまったけれど、おじさんと握手して別れた。
そのまま坂を上って、当初の目的であるビエンナーレ美術館に向かった。そこは銀行が作った美術館で、中庭にはガラス張りのレストランがあり、かなり洒落た雰囲気のところだ。小さいけれど、ゆったりと収蔵品を展示していて、スペイン語と英語で説明があって、判らないながらものんびり見ることができた。
プカラの近くの道子さんに教えてもらったお店の閉店時間も迫っていたし、この美術館を巡ったところでクスコの午後は終了だ。
アルマス広場まで戻りバッグ屋さんに向かったところ、何故か見つからない。「プカラの並びだったよね。」と何度も行き来して探したのだけれど、どうしても見つからない。
何度も行き来するうちに、どうもこの閉まった扉があのお店なんじゃないかと思われてきて、「あのおばさん、今日は疲れたから早仕舞いとかしちゃったんだよ。」という結論に達した。「このお店はオリジナルの布でオリジナルの小物やバッグを作っている」という話だったし、並んでいたポーチもなかなか良い感じで、お土産用にまとめ買いしようとしていたのに残念である。
ホテルに戻って一休みし、ロビーで道子さんと待ち合わせた。
フォルクローレ・ディナーショーのお店はホテルから歩いてすぐのところにあった。お店に入ると、ステージのまん前の席に案内される。
予約客のテーブルに旗が立てているようで、私たちのテーブルにはもちろん日本の国旗が立っていた。日本人のお客さんが多いんだな、ということがよく判る。
近くに20人くらいの団体がいて、そこにも日本の国旗が立っていた。その人たちは全員が同じメニューのようで、比べるのも失礼な話かもしれないけれど、小回りの効く旅行でよかったと思う。
前菜にオニオンスープ(他のスープはインスタントだけれど、オニオンスープはインスタントではない、と教えてもらった)、メインはそれまでペルーで食べていなかった豚肉の料理にした。デザートはフルーツサラダにする。お昼にもお酒を飲んだけれど、クスコ最後の夜なので(と理由をつけて)ピスコサワーを頼む。
フォルクローレショーの始まりに合わせてお店に入ったようで、食事と前後してショーも始まる。
物凄く激しく上手いわけではないと思うけれど、色々な大きさのケーナなどの楽器を使い分けて演奏される。やる気のなさそうなお兄ちゃんがテクニック的には一番らしい。淡々と演奏している。ダンサーが四人出てきて、お祭りの音楽や収穫の踊りを披露してくれる。
結構楽しくて、しげしげと見たり拍手したり写真を撮ったりしていたら、食べるのが物凄く遅くなってしまった。
そのグループの踊りの最後には、何故か手を取られて真ん中に引っ張り出され、一緒に踊る羽目になった。楽しかったけど、お酒を飲んでくるくる回されて、かなり酔った気がする。
次のグループは「大学のサークルだ」と自己紹介した(と道子さんが教えてくれた)けれど、リーダーの人だけは大学10年生くらいの年齢に見えた。エレキギターを使ったり、逆に民族楽器は一人一つずつくらいしか使っていなくて、最初のグループの方がずっと上手だった。
彼らの演奏が始まる頃にはお客も半減していたし、後から出てくるグループほど上手くなるというわけではないらしい。ちょっとがっくりする。前のグループのCDを買えばよかったかな、10ドルだったしと思う。
翌日は朝早くの便でリマに戻る。その荷造りが大変だった。
どう考えてもスーツケースの重量は増えているはずだ。お土産を外に出すか、詰め込むかで悩んだ挙げく、無理矢理詰め込む。カップうどんを食べたので、重さはともかく嵩はかなり減っている。
シャワーを浴びて、荷造りもほぼ完了し、0時くらいに寝た。
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