2005.02.26

ペルー旅行記の入口を完成させる

 ここはペルー旅行記への入口(完成版)である。
 以下の日程をクリックすると、その日の旅行記に飛べるようになっている。
 この先、旅行記に写真を貼ったり、誤変換を直したり、この入口にリンクを増やしたりするかもしれないけれど、外枠としては完成である。
 思えば長い道のりだった!

2004年9月17日 成田 -> アトランタ -> リマ(泊)

2004年9月18日 リマ -> クスコ -> ピサック -> ウルバンバ(泊)

2004年9月19日 ウルバンバ -> チンチェーロ -> モライ -> マラス -> ウルバンバ(泊)

2004年9月20日 ウルバンバ -> オリャンタイタンボ -> ワイポ湖 -> クスコ(泊)

2004年9月21日 クスコ -> マチュピチュ(泊)

2004年9月22日 マチュピチュ -> クスコ(泊)

2004年9月23日 クスコ(泊)

2004年9月24日 クスコ -> リマ(泊)

2004年9月25日 リマ -> ナスカ -> リマ ->(機内泊)

2004年9月26日〜27日 リマ -> アトランタ -> 成田

 

その国の旅を終えて 100の質問 (ペルー編)

持ち物リスト (ペルー編)

2004年9月 ペルー・マチュピチュ遺跡の写真

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2005.01.09

マチュピチュ遺跡の写真をアップする

 マイフォトにマチュピチュ遺跡で撮った写真をアップした。
 400枚以上撮った中から(一応)厳選して30枚を選んだ。
 以前にプリントした30枚をベースに選んだのだけれど、何度も見直したり見比べたりしている内に、どれが自分の気に入った写真なのか判らなくなってきてしまった。
 写真を選んだ後も、ファイル容量を小さくしたり、思ったとおりに写真を並べることができずにアルバムを何度も作り直したり、説明文(というよりも、私の覚え書きだけれども)を書いたり、半日仕事になってしまった。

 アップした写真はこちら。どうぞ、見てやってください。
 
 

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2005.01.06

ペルー旅行記10・11日目

2004年9月26日(日曜日)〜27日(月曜日)

 ペルー旅行の10日目に入った0時10分、デルタ航空DL274便は定刻どおりにリマ空港を飛び立った。
 こうして私のペルー滞在は終わった。

 ペルー滞在は終わったけれど、ペルー旅行はこの後も何だかんだと長時間続く。
 これまで機内ではほとんど眠れたことがなかった私も、昨日は朝が早かったし、アイマスクとマスクと耳栓があり、ビーチサンダルに履き替えて足元を楽にすれば結構眠れることが判った。
 うっかり旅行社からもらったアメリカ入国カードをスーツケースに入れたままにしてしまった。仕方なく機内で入国カードをもらう。リマからアトランタに向かう飛行機の中で日本語版の入国カードがあってちょっと驚いた。

 アトランタには定刻どおりに到着したものの、入国審査に物凄く時間がかかった。
 往路でのアメリカ合衆国入国が割りとスムーズだったし、トランジットに2時間ちょっとあったから心配していなかったけれど、あまりにも列が進まないので段々焦ってくる。
 今思えば、南米から到着する便が集中する時間帯で長期滞在の人が多く、指紋採取や写真撮影が多かったために時間がかかったていたのだろう。しかし、並んでいるときはそんなことを想像している余裕はない。
 何とか1時間くらいで入国審査の列を抜けることができたときはほっとした。
 係員のお兄さんに「あなたはなぜUnited Statesに来たんだ?」と聞かれ、自分でもかなり憎憎しげに「Just Transit.」と答えてしまった。

 アトランタ空港はかなり広い割に、全くお買い物のしがいがない空港である。
 それでも免税店に入ってみたら、行きには見つけられなかったクリニークの化粧品が見つかった。成田空港の免税店よりもずっと安いことにショックを受けつつ、余らせたドルで基礎化粧品を買い足した。
 そういえば、出国カードをどこで誰に渡せばいいのか、最後まで判らないままだった。

 DL55便で飛んだアトランタから成田も、似たような感じで過ごしていたと思う。
 日付変更線を超えたことも気がつかないまま、ひたすら寝ているか、映画を見ているかして、時間を潰す。
 成田空港到着後、いくつかのお土産を取り出してから宅配サービスでスーツケースを自宅に送り、スカイライナーのチケットを慌てて買って飛び乗った。

 無事、帰宅した。

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ペルー旅行記9日目

2004年9月25日(土曜日)

 朝6時前に降りていくと、昨日の夕食のときにお給仕をしてくれたペルー人のお姉さんが待ち構えていて、朝ごはんを出してくれた。
 ごはんとお味噌汁とお漬物があったことは覚えている。とにかく、完全な和食の朝ごはんだ。

 ナスカの地上絵ツアーの迎えの車が来ているはずだけれど、ペンション全体が静まりかえっていて人の気配がない。私たちは玄関の開け方を知らないから外の様子を見ることもできない。
 そのままぼーっとソファに座っていたら、朝ごはんを作ってくれた彼女が心配してくれたようだ。いつの間にか現れた早内さん(旦那さん)に玄関から外へ押し出されると、昨日の市内観光のときに乗った車が待っていた。

 道はそれほど混雑していなくて、すぐ空港に到着した。
 すると、ドライバーさんが「あそこのカウンターに行け。」と指差す。「チケットを持っていない。」と完全にブロークンな英語と身振り手振りで訴えたら、「行けば大丈夫、NAO TOURだと言いなさい。」と言われる。
 頭の中をクエスチョンマークが飛び交ったまま、ランチリ航空のカウンターに行き、「NAO TOURから予約が入っています。私は○○××です。」と言うと、カウンターのお兄さんは「OK,OK」という軽いノリで手元のリストと差し出したパスポートを確認し、ボーディングパスを手渡してくれた。

 でも、行きのボーディングパスだけ? 帰りは? 遊覧飛行のチケットは? と頭の中をクエスチョンマークが飛び交ったまま、ドライバーのおじさんのところに戻ると、「空港税を払え。」と言われ、空港税を払い終わると「セキュリティチェックに行け。」と言われる。
 セキュリティチェックに向かったら、もう後はゲートしか残っていない。
 慌てて「イカに到着したらどうすればいいの?」と英語で聞いたけれど、私の英語がブロークンすぎるのか、おじさんの英語も実はブロークンなのか、全く通じない。このままおじさんと別れたら、それ以降どうすればいいか全く判らないままになってしまう。こちらも必死である。

 そんなやりとりを何度か繰り返した後で、おじさんがいきなり持っていた携帯電話をこちらに向けてくれた。
 とりあえず「もしもし。」と言って出てみると、電話の相手は早内さん(息子さん)だった。安心して日本語で「今は空港にいて、行きのボーディングパスだけ渡されたんですが、この後はどうしたらいいんですか?」と聞いてみる。「もうそこからツアーだから、そのまま指定された飛行機に乗れば、イカの空港には迎えの人がいるから大丈夫。」という返事だ。
 釈然としないながらも、他にどうすることもできず、そのままゲートに向かった。

 ボーディングパスにゲート番号が書いてあったけれど、指定されたゲートには何の表示も出ていない。
 微妙に不安を抱えたまま出来るだけゲートに近い椅子に座って待っていると、いつの間にかゲートのドアが開き、何となく人が集まり出した。人の流れに沿って付いて行き、ボーディングパスを見せるとあっさりと半券を返してくれたので、そのゲートで正しかったことが判った。

 自由席のプロペラ機の機内にはちらほらと日本人の姿もあって何となく安心した。
 イカの空港に到着し、その飛行機に乗った全員がお兄さんに集められて事務所前まで連れて行かれ、ようやく、そもそもリマ−イカ間を飛んだこの飛行機がツアーのチャーター機であったことが判った。

 「地球の歩き方」によると概ね半分はナスカにすぐに飛び半分はイカ市内観光に行くとか、ナスカの地上絵遊覧飛行に参加した人のホームページを見ると日本人だけ集められてまずTBSの世界遺産のビデオを見せられるとか書いてあったけれど、今回はどちらにも該当しなかったらしい。
 お兄さんが事務手続きを終了すると、そのまま全員がバスに乗るように促された。

 バスが出発すると、「涼しいうちにまずオアシスに行きます。」というアナウンスがあった。
 イカの町は砂漠のど真ん中という感じで、道路の両側も白っぽい黄色っぽい砂で、道路上に風に吹かれた砂が薄く舞っている。早朝出発のために着ていたコートが完全に邪魔なくらいの暑さだ。

 オアシスに到着すると、15分間の自由行動になった。
 池があって、何艘かのボートが浮かんでいる。
 その周りにやしの木が植わっていて、お土産物の屋台が何軒か出ていて、すぐそばまで迫っている砂丘で何人かがそり遊びやサーフィンのようなことをしている。
 それで全てだ。
 サンドバギーみたいな車が何台も停まっていて、サンド・スキーをするにはこの車で砂丘の上まで連れて行ってもらうんだなと思ったものの、遊ぶには時間が足りない。のんびり池を半周して戻ると、ちょうど時間だった。

 次に、小さい博物館に向かった。
 ガイドさんが「自分は参加しているみなさんに公平なサービスをしたいので、説明はしない。」とおっしゃる。要するに、ツアー参加者には彼が話す英語を解すだけのヒアリング力がないと判断されたらしい。
 館内は、土器と布がメインなのは天野博物館と一緒だけれど、こちらはもうちょっとカラフルだ。
 「地球の歩き方」の説明によると、ナスカ地方に開けた文化は土器も布もカラフルなのが特徴のひとつである。

 そして、天野博物館になくてイカ博物館にあった最大のものは「ミイラ」だった。
 砂漠地帯であるこの辺りは乾燥していて、そのためミイラが着衣も含めてかなり良い状態で残っているそうだ。
 ひざを抱えた少女のミイラが一番有名かもしれない。
 興味深くはあったけれど、ミイラの展示室はシンと冷たくて寒い印象である。早々に出て、織物の展示室に戻った。

 見学が終わると、博物館の裏に促された。
 何だろうと思いつつ後について階段を上ると、ナスカの地上絵のミニチュアを見ることができるようになっていた。何十分の(何百分の?)一かに縮小し、配置や向きなどを再現してある。
 なるほど、こういう風に見えるのね、と予習・復習させることを目的に作られているようだ。
 今から思えばここで写真を撮っておけば良かったけれど、「この後で本物を見るんだし」と思って写真は撮らなかった。
 実際は、あんなにくっきりはっきりとは見えないし、大きすぎて全体像を見ることもできない。惜しいことをした。

 昼食は、ホテルのレストランでのビュッフェだった。
 食後すぐにセスナに乗るなら控えめにしておかないと酔うだろうなと思いつつ、色々とお皿に盛ってしまう。
 オープンエアのレストランで、中庭にあるプールも見えて、なかなか気持ちよい。
 しかし、次の予定にいつ進むのかが判らないというのは意外と落ち着かないものだ。何人かずつ、先にセスナ遊覧飛行に向かう人たちもいて、さらに落ち着かない。
 とりあえず、酔い止めの薬をここで飲んだ。

 コカ茶を飲みつつ旅行メモを書いていたら、やっと残っていた全員がガイドのお兄さんに集められ、バスで空港に戻ることになった。
 四人グループの日本人の女の子たちは小型のセスナ、残りの11人が少し大きめのセスナに振り分けられる。
 このセスナは自由席で、何となく早い者勝ちという風情だ。全員が窓際に座れるだけの余裕はない。何とか窓際の席に滑り込んだ。

 ガムを噛んでいると酔わないという話を聞いたので、ガムを噛みつつ、セスナに揺られる。
 しばらくは一路ナスカ上空を目指して飛んでいるだけなのに、それでも結構揺れる。30分くらいでナスカの地上絵上空に到達した。
 パイロットのおじさんが「ウチュウジン」と叫んでいる。「ミギガワ、ツバサノシタ、ツバサノシタ、ウチュウジン。」といった感じで、日本語で教えてくれる。同じことをスペイン語でも叫んでいるようだ。
 このツアーは英語ツアーのはずなのにと思っていると、並びの席にいた女の子が「英語でも案内して!」と叫んだ。何度も彼女が訴えて、やっとパイロットのおじさんに通じたらしい。「判った、スペイン語と英語と日本語で案内するよ。」と言って、その後は3ヶ国語で案内してくれるようになった。

 最初に見えた「宇宙人」は山肌に斜めに描かれていた。それ以外に見た地上絵は平らなところに描かれているようだ。パンアメリカン・ハイウエイも見える。ミラドールもかなり小さく見える。
 宇宙人の他に名指しで見せてくれたのは、ハチドリとサルと手と木と直線くらいだったと思う。
 イカからナスカまでの片道の飛行時間よりも、ナスカの地上絵遊覧をしていた時間の方がはるかに短かったと思う。ちょっと悔しい。

 確かに、地上に、飛行機に乗らなければ全体像見えない絵が描かれていて、消えかけた世界遺産にも登録されたその絵を見ている、意外とくっきりと見える、石をどけただけの白い線が今も残っている。
 それは凄いことだ。
 でも、正直に言ってあまり感動はしなかった。
 「あー、見えた!」「どこどこ?」「多分、これだ。」の繰り返しで、見えて判読というか判別できたのは嬉しいものの、「感動」という感じではなかったように思う。

 そんなあっけない気分のまま、セスナ酔いになることもなく、無事にイカの空港に戻って来た。
 お土産物屋ではインカクロスのペンダントやナスカの地上絵生写真が売っていてちょっと魅かれつつ、結局何も買わずに「さあ、飛行機に乗って。」の声でリマに戻った。
 イカの空港は、建物は木造だし、ゲートやセキュリティチェックもない。飛行機を降りてそのまま滑走路を歩いて建物にたどり着く感じである。
 それなのに、屋台を小さくしたようなカウンターがあり、空港税を支払わされたのが何となく釈然としなかった。

 リマに戻ると朝のおじさんが迎えに来てくれていた。
 ちょっとほっとして、おじさんの車でペンション・カンツータに戻った。多分、17時過ぎだったと思う。夕食を食べ、シャワーを浴び、荷物整理をするくらいの時間の余裕は十分にある。
 今日の夜中にリマを発ち、ペルーともお別れだ。 

 イカはかなり埃っぽかったのでまずシャワーを浴びて大体の荷造りをし、夕食前に「ポコ・ア・ポコ」でのお買い物に突入した。とにかくペルー中のおみやげ物が揃っていて、お買い物のしがいがある。
 2階は主に衣料品である。早内さん(奥さん)が製作したアルパカのガーゼ織りのストールやマフラーを始めとして、その他にもセーター、帽子、手袋、インカっぽい文様のバンダナもあったし、ネクタイもある。子供服もある。

 1階は民芸品っぽいものが多い。
 印象に残っているものでは、織り途中の布を道具ごと壁飾りにしたものや、ナスカの地上絵の生写真、ピーナツチョコレート(ピーナツはペルー原産で「職場のお土産にどうぞ」というポップがついていた。)、秋田さんご推奨のピスコ、イカ・ワイン、ペンション・カンツータで作ったらしい焼き物もある。
 お塩も売っていたし、ケーナなどの楽器もあったし、リャマのぬいぐるみ、ペルー産のコーヒー豆もあった。

 私は2階のアルパカのガーゼ織りに夢中になってしまった。
 古代のペルーの染物・織物を再現したもので、お土産を買うことにほとんど興味はないけれど、こういうものに私は果てしなく弱い。
 あっという間に時間がたち、それでも大体何を買うかが決まった辺りで、夕食に呼ばれた。

 夕食が完全手作りの和食だったことは確かだけれど、メニューがどうしても思い出せない。
 あんかけの野菜を載せたラーメンが出たのは覚えている。
 それから、前日に私が「天野博物館のお姉さんがヒラメがイチ押しだと言っていた。」と口を滑らせたためか、白身のお魚のお刺身があった。気を使わせてしまって申し訳なかったけれど、コリコリしていて美味しかった。

 夕食をあまりにもゆっくりいただき過ぎてしまったらしい。恐らく同じ飛行機で帰るのだろう日本人の団体を載せた観光バスが横付けされたのをしおに席を立ち、慌ててお土産の会計をしてもらい、急いで部屋に戻って最後の荷造りをする。
 パジャマ代わりにしていたTシャツなどを捨てたので、お土産も全てスーツケースに納まった。
 荷造りを終えて下に降りて行くと、そのまま車に押し込まれた。そういえば、ツアーの方々もすでに姿を消している。
 早内さんご一家にちゃんと挨拶もできなかったのが心残りだ。

 空港に向かう途中で、入国時に返された入国カードの半券の話になる。「地球の歩き方」にも「出国時に必要なので絶対に失くすな」と書いてあるけれど、失くしてしまっても5ドル(だったと思う)で再発行してもらえるそうだ。
 失くさないように注意するのは当然のこととして、再発行してもらえるならそういう風に書いておいてくれればいいのに、と思う。

 リマの空港では、国際線のカウンターがある一角にはガイドさんも入ることができない。自分達でチェックインをすることになる。秋田さん曰く「上から暖かく見守っていますから。」ということだ。
 カウンターの一角は吹き抜けになっていて、カウンターの上あたりから見下ろせるようになっているらしい。ペルー到着時も含めて4回目のリマ空港なのに、そんなことは全く覚えていなかった。

 カウンターまでは長蛇の列で、まずスーツケースをセキュリティチェックにかける。ここで友人が呼ばれてスーツケースを開けられた。どうもクスコでどこかの大学の先生が言っていたことは正確な情報で、荷物の中にお酒が入っていると必ず開けられるらしい。

 友人がスーツケースの検査に行っている間にチェックインの順番が来てしまったので、彼女のパスポートとチケットを預かって二人分のチェックインをした。
 カウンターのお姉さんは、こちらが何も言わないうちに席を決め、ボーディングパスを発券してくれる。
 「セキュリティの質問は英語でいい?」と聞かれ、確か日本語でも良かったはずだと「できたら日本語で。」とお願いしたら「ちょっと待ってて。」という返事だった。日本語をしゃべる係員の人はやはり少ないらしい。
 その間に彼女の荷物チェックも終了し、荷物を預け入れる。こちらが何も言わないうちに、アトランタではスルーで預け入れが終了する。帰国するだけなんだから、荷物の到着が多少遅れても構わない。
 荷物チェックはやはりお酒が目当てだったらしく、「お酒を持っているか?」と聞かれ、スーツケースを開けたら一目散にお酒を探ったらしい。瓶を取り出して「ピスコ?」と聞かれたので「そう。」と答えたと笑っていた。

 チェックインは無事に終了し、セキュリティチェックに向かう辺りに移動して待っていてくれた秋田さんにご挨拶し、お礼代わりにミルキーを手渡した。
 秋田さんは「周りの人の視線が痛い。」と言っていたけれど、もしかしたらガイドさんも出入できないエリアから荷物を手渡したりするのはいけないことだったのかもしれない。

 セキュリティチェックを抜けると、そこは工事中のエリアだった。ベニヤ板でふさがれて通路が狭くなっている。
 一度サテライト辺りまで行ったものの、そこの免税店は小さかったので、セキュリティチェック近くのお店まで戻った。秋田さんお勧めのピスコやワインがあったら買おうと思って探したけれど、残念ながら見つからなかった。
 その代わり、ピスコが入ったボンボンが売っていて、1箱40個入りだったので「これはちょうど良い!」と職場土産用に購入した。

 このチョコレートは物凄く酒臭かった。リュックに入れておいたらリュックからお酒の匂いが漂い出てくるくらいお酒臭い。
 空港の免税店はドルで値段が表示されていたけれど、ソルで買い物したいと頼んだら換算してくれた。
 ペルーの通貨はドルに戻すこともできたけど、大きな金額でもなかったので、「また来る」という気持ちを込めて、そのまま持ち帰ることにした。。

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2004.12.31

ペルー旅行記8日目

2004年9月24日(金曜日)

 朝6時にロビーで道子さんと待ち合わせする。この日の朝食もマチュピチュに向かった朝と同じ簡易バージョンで、スポンジケーキとクロワッサンとフルーツとコーヒーで済ませた。私としてはこれでも軽いつもりである。

 尾てい骨の痛みも残っているし、4階から重いスーツケースを下げて降りてくる根性はなく、ポーターのお兄さんにお願いする。
 マチュピチュ下山途中でコケたときに骨を折った傘は捨ててしまった。外を見ると普通に雨が降っていて「早まったか」と思う。
 この朝のドライバーは昨日の夜遅くにジャングルから戻ってきたダニエルで、車中を探してくれたのだけれど、やっぱりxdピクチャーカードは発見されなかった。半ば以上諦めていたとはいえ、やっぱり悲しい。

 雨の中を空港に向かう。ロビーはかなり混みあっている。道子さんがチェックインしてくれた。
 そのままロビーの端っこに連れて行かれ、「ここで待っていて。」と言われる。雨のため、リマからクスコに来る(この折り返しに乗る予定だ)飛行機がまだリマを出ていないらしい。
 NAO TOURのお客さんがもう一組、日本人男性の一人旅の方がいて、彼と来ていたペルー人ガイドさんが空港に残ってくれ、私たちはNAO TOURの事務所で飛行機待ちをすることになった。

 車で事務所に戻る途中、道子さんは私たちが泊まっていたホテル・ロス・アンデスで途中下車した。次のお客さんと待ち合わせをしているのだろう。
 そのままNAO TOURの事務所に送り届けられた私たちは、直子さんと、直子さんがやっているペンションのお客さんと一緒にテーブルにつき、NHKの衛星放送など見ながら寛いだ。外は雨が降り続いている。
 空港で一緒になった男性は、一人でトレッキングに来たそうだ。その話が出たからか、テーブルにいた割と年配の男性が、数千メートル級の山に登った話など披露してくれる。

 馬と一緒に行くから登りは馬に揺られていればいいけれど(それだけでも結構な体力を消耗すると思う)、急な下り坂ではとても馬に揺られているどころではなく、歩く必要がある。
 急すぎて馬で下れないような山道を自分の足で下っていくと、あっという間に膝をやられてしまうそうだ。
 それでも引き返すこともできず、とにかく進むしかないらしい。

 日本茶を煎れていただき、犬と遊んだり、お酒を持っていると手荷物検査も厳重になるしスーツケースも開けられるという話を聞いたり、名前を忘れてしまった果物をご馳走になったり、旅のメモを書いたりして過ごす。
 トレッキングの彼は、今日はクスコからリマ、そのままナスカの地上絵の1日ツアーに行く予定だったらしい。この遅延でナスカの地上絵には行けないことが確定し、「頼むから夜の帰国便には間に合って欲しい。」と呟いていた。

 パンフレットで旅程を見たときに、クスコに向かう前ではなく旅の最後にリマの観光とフリータイム(ナスカの地上絵ツアーはオプショナルで申し込んだ)があるのは何故だろうと疑問だったけれど、ここに来て納得した。
 「リマークスコ間の国内線はちゃんと飛ばない」という前提で組んであるのだろう。
 実際に今年の8月にはストで国内線が飛ばない日もあったらしい。
 そうこうしているうちに雨は降り続いているものの空が明るくなってた。雨も止み、空港に残ってくれたスタッフから「飛行機がリマを飛び立った」という電話が入った。直子さんに見送られて再び空港に向かう。

 セキュリティチェックを受けて搭乗口へ向かおうとしたら、私の手荷物が引っかかった。
 そんな怪しいものは入れていないはずなのにと思っていると、係員のお兄さんが「英語しゃべれる?」と聞く。「少しだけ。」と答えると、一瞬困ったような顔をして「Metal?」と聞いてきた。金属??? 
 ハタと思い当たって、S字フックを取り出してお兄さんに渡す。そういえば持参したS字フックははステンレス製だ。ためすがめすしていたものの、危険なものではないと判断されたらしい。「OK.」と返してもらった。

 飛行機はまだ到着しておらず、搭乗口のサテライトの先は空っぽだ。
 何軒かお店もあるものの、長く時間潰しできるほどの品揃えではない。インカクロスのアクセサリに少し魅かれたけれど、銀はすぐ黒くなってしまうので諦める。
 そのうち搭乗のアナウンスがあり、リマから飛んできた飛行機は点検も給油もしないままとんぼがえりする勢いで、定刻の2時間遅れで離陸した。
 リマまで1時間くらい熟睡した。

 リマ到着は11時過ぎくらいだった。空港を出たところでリマでのガイドである秋田さんと会う。
 リマ市内観光の予定も2時間ほど押している。このまま直行すれば衛兵交代が見られるということで、ペルー政庁に向かった。

 衛兵交代は12時からで少し時間があったので、アルマス広場を歩いた。この広場をカテドラルや大統領府、市庁舎が囲んでいる。
 今の大統領がリマ市長だったときに大統領だったのがフジモリさんで、その時代には市庁舎のベランダにある大砲は大統領府に向けてセットしてあったそうだ。フジモリさんが海外に出てしまうと「敵はいなくなった」と言って定位置に戻したそうだから、相当嫌っていることは確かなんだろう。

 ペルー政庁で衛兵交代が始まった。「1mくらい柵から離れなさい。」と言われる。でも、カメラを構えていると柵の近くまで寄って行っても全くOKなのが謎である。観光客へのサービスなのだろうか?
 何となく調子の外れた楽団が演奏している。この曲聴いたことがあるけど何だっけ? と思って聞いたら、友人にあっさりと「コンドルは飛んで行くじゃん。」と言われた。言われてみれば確かにその通りだ。

 旧市街をぶらついて博物館に行きたいというトレッキングの彼とはここで別れた。
 彼の荷物を載せたまま(出発までペンション・カンツータで預かる約束ができていた)、車は教会の多い地域の細い道を走る。ピンク色の可愛い教会や黄色の教会など、本当にたくさんの教会を見た気がする。
 我々は、シーフードレストランでランチである。

 友人が白ワイン(チリワインだったらしい)、私はpilsenというビール、秋田さんはチチャ・モラーダを頼んだ。
 まだ飲んだことがなかったので、お言葉に甘えてチチャ・モラーダの味見をさせてもらう。ムラサキトウモロコシのジュースで、見た目はグレープジュースをドロっと濃くさせたような感じ。見た目よりもさっぱりした味だ。
 「ペルーのワインがなくて残念でしたね。」という話から、イカ・ワインの「TACAMA」という銘柄が美味しい、ピスコでは「サン・アントニオ」という銘柄が美味しい、ピスコサワーにしては勿体ないから自分はロックで飲んでいる、などと教えてもらう。

 お料理は、秋田さんに適当に頼んでもらった。このツアーは、ごはんのメニューが予め決められていないところが良い。
 定番のミックストのセビッチェに、ウニのレモン〆、かに玉(中華風のあんかけではなく炒め物)、シーフードのチャーハン、四谷のペルー料理屋でも食べたトウモロコシのスナックがお通しのような感じで出てきて、あと1、2品あったと思う。
 お酒を飲みながら、ゆっくり時間をかけて信じられないくらいたっぷりとしたランチをいただいた。

 リマは、湿度がもの凄く高いけれどもその分だけ暖かく、海の幸が美味しい。今回は天野博物館にしか行けないけれど博物館も充実している。クスコに比べて暮らしやすいそうだ。
 秋田さんは山登りやパラセーリングなどもするそうで、山系のガイドが必要になると声がかかると言っていた。
 マチュピチュでウエディング写真を撮ったという話から、「マチュピチュでお会いしましたよね。」「ああ、あのとき道子さんと一緒にいたお二人ね。」「ソル・イ・ルナホテルで夕食のときにも会ってるよ。」と話が弾んだ。

 その後は、パラセーリングで一緒に飛びましょうという話になり、恋人達の公園に向かった。
 公園は海沿いの崖っぷちにあって、隣の空き地には、大勢のパラセーラーが集まっていた。今は平日の昼間だぞと思ったけれど、リマではいい風が吹いているとなれば仕事を放っておいて集まってくるのは普通のことだそうだ。

 今はまだ風が弱いなどとおっしゃりつつ、秋田さんは私たちを置き去りに飛ぶ準備を始めている。
 これは太平洋なのね、ずーっとまっすぐ行けば日本に着くんだなぁと思う。
 ペルー人の少年にスペイン語で話しかけられ、「判らないの、ごめんね。」と日本語で言いつつ記念撮影などしている間に、秋田さんが飛んでいた。風がないと言いつつ、結構遠くまで行ってしまう。
 戻って来られるのかしらと思っていると、途中でUターンして飛び立った場所に着地していた。ある程度風がないとタンデムは難しいらしく、飛ぶのは次の機会ということになった。残念である。

 改めて隣の恋人達の公園に行く。今の大統領がリマ市長だったときに作った公園だという。
 公園のど真ん中に抱き合っている恋人同士の巨大な像がある。日本じゃ無理だなという名所だ。
 その像は、グエル公園のようなタイルで飾られてカーブを描いたベンチに囲まれている。ベンチの背もたれや座面にはスペイン語で詩が書かれている。
 そのいくつかを「直訳だよ。」と言いつつ秋田さんが訳してくれたところによると、思いっきりセンチメンタルな愛の言葉が書き連ねられてあるようだ。
 「これって誰が書いたんだろうね。」「工事の人が勝手に書いたのかも。」などと言い合い、「女二人じゃあねぇ。」と言いつつ写真を撮ってもらった。

 15時半から天野博物館の予約が取ってあった。
 住宅街の少し奥まった路地に面して博物館はある。特に目立つ看板も出ていないし、そもそも普段は門が閉められていると思われる。
 アルマス広場で別れたトレッキングの彼も、K社の別ツアーに参加していたらしい女の人も自力でたどり着いていたけれど、私一人だったら無理だったと思う。タクシーの運転手さんも探してぐるぐる回っていた、という話だ。

 入口で名前をチェックしてもらい、サイン帳に記名する。中に天野博士だと思われる人の写真が飾られているのが見える。
 15時半は日本語による説明の回で、お客さんはほぼ全員が日本人だった。30人くらい集まっていただろうか。
 博物館のスタッフによるツアーの最初に、全員に対してペルーの地図と年表を元に、ペルー史のアウトラインの説明をしてくれる。
 チャンカイ文化に着目して調査・研究を始めたのは天野博士が初めてだったこと、インカ帝国の文化はそれまでの数々の文化の土台の上に作られていること、説明の女性がスペイン人を憎んでいることがよく判る。「今でも私、悔しいんですけど。」とスペインの侵略について説明してくれた。

 その後、二手に分かれて説明を聞いた。私が入った方のグループは、土器の部屋から説明が始まった。
 空いているときには手にとったりできるようで、すべて開閉可能なガラスケースに入っている。今日は大勢いるせいか、そういう雰囲気ではない。残念だけれど、仕方がないだろう。

 チャンカイ文化は白黒の文化だったこと(あまり赤く塗られた土器などはない)。
 障害者をモチーフにした像や壷などがあり、この頃には「人は平等である」という意識がすでにあり障害者も大切にされていたと伺えること。
 ペルー原産のジャガイモや唐辛子といった植物をモチーフにした壷も多いこと。
 ペルーには何百種類というジャガイモがあり、説明してくれた女性は(多分農業研究所のようなところで)そのうちの数十種類を食べたこと。
 お魚をモチーフにした像もあり、ペルーの魚介類は美味しくて特にヒラメがお勧めなこと。
 この時代の土器は非常に素朴で色遣いも少ないけれど、どの時代の壷よりも早くチチャを発酵させることができること。
 次から次へと説明してくれる。

 技術的にこの時代は非常に高度なものがあって、入口に置いてある壷は底から直角に立っている。底を直角にする技術は他の時代にはほとんど見当たらないそうだ。その壷はガラスケースに入っていなかったので、内側に手を伸ばしてしっかり触ってみたりした。

 次は織物の部屋である。壁にポンチョのような「一切カットしていません」という織物が飾られていたり、顕微鏡が置かれたりしている。
 その顕微鏡はビーズに糸を通すところが拡大されていて、そんなに細い穴に糸を通す技術が400年前にあったなんて信じられない! というレベルの精密さだと説明がある。

 案内のお姉さんの専門は織物らしく、土器の部屋よりもさらに熱心に説明してくれる。
 お客さんの中にも織物を研究しているという方がいらして、専門的な話で盛り上がっている。よく判らないなりに、そんな話を聞いているのも楽しい。

 お姉さんは旅行で立ち寄った天野博物館所蔵の織物に魅せられて何日も通い詰め、そのまま定住して半年後には説明のボランティアを始めていたそうだ。
 ペルーの織物を集めれば世界各地のありとあらゆる織物の種類をカバーできると言われるくらい、様々な織物があるという。
 また、チャンカイ時代のお墓からは、王様から庶民まで等しくしっかりとした織物の服を着て出土しているそうで、庶民にまで行き渡っているということがチャンカイ時代の文化と生活の豊かさを証明しているのだ、と力強い説明がある。

 絣のような布もあり、「この渋さを理解できるのは、チャンカイの人と日本人だけじゃないか。感性に相通じるものがあるのではないか。」とお姉さんが一際熱心に説明していた。
 またキープの実物もあった。今はその読み方は失われて久しいけれど、キープでかなり色々なことを表現できていたらしい。

 天野博物館の展示室は土器と織物の2室のみで、この2室を1時間かけて説明してもらった。 
 スーベニアショップでは、かなり迷った。この博物館は入場無料なので、入場料と寄付を兼ねて何か買いたいし、また秋田さんからもお買い物が推奨される。
 結局、土器の紋様の魚拓(サルカニ合戦のような意匠が浮き彫りになっている)を1枚買うことにした。もうちょっと安かったら何枚も買ったのだけれど仕方がない。確か20ドルくらいだったと思う。

 これでリマ市内観光は終了だ。博物館で会ったお二人も一緒にペンション・カンツータに向かった。
 天野博物館も判りにくいところにあったけれど、初めて明るい時間に行ったペンション・カンツータも相当に判りにくい。看板も出ていないし、表札も出ていないし、外観がペンションらしかったりお土産物屋らしかったりもしない。

 前に泊まったお部屋は深夜着早朝発の人専用だったようで、今回はお土産物屋を抜けた先の3階のお部屋に案内された。今日は宿泊客が2組だけだそうで、ベッド3つのトリプルルームだ。隣にトイレ兼シャワールームがあって、奥にはテレビとソファのあるスペースがある。
 しばし休んだ後で、近所にあるスーパーマーケットに出かけた。大きな荷物は入り口で預けなければいけないそうなのでリュックは置いて行く。
 帰りの目印(柵があるのはうちだけよ、と言われた)とインターフォンの位置を教えてもらって出発である。

 ショッピングセンターと移動遊園地っぽいけれども恐らくは常設の遊園地の横を通り抜けると、その奥に巨大なスーパーマーケット「e-wong」があった。
 入ってすぐのところでお総菜やアイスクリーム、パンなどが売っている。
 少し奥に入ると普通のスーパーマーケットらしい陳列状態になる。

 日用品の棚でコカの歯磨きを友人が探していたけれど見つからなかったらしい。
 スパイスの棚もあって買おうかと思ったけれど、スペイン語会話集を置いてきてしまってニンニクしか判別できなかったので諦めた。
 響子さんが言っていたとおり、お菓子は外国製品がほとんどだった。「スーパーでペルー土産を買う」のはちょっと難しいようだ。

 何より凄かったのは生鮮食品で、お魚は砕いた氷の上に姿のままどんっと置いてある。中には熱帯魚のように綺麗なブルーのお魚もある。
 野菜売場ではジャガイモが何種類も何種類も並んでいる。パパイヤも何種類も売っている。恐らくキロ単位で書かれていると思われる値段も嘘のように安い。りんごなどの日本でも見慣れた果物も売っている。
 結局、ミネラルウォーターだけを買って、もうすっかり暗くなった頃にペンション・カンツータに戻った。

 併設のお土産物屋さんである「ポコ・ア・ポコ」でお土産を探していたら、お夕食に呼ばれた。
 ダイニングスペースには、今日はナスカまで陸路で行ってきたという響子さんがいた。秋田さん、早内さんご夫婦、仕事で長期滞在しているらしい男性がいて、食卓のメンバーはこれで全員だ。

 食卓には完全手作りの和食が並んでいた。お蕎麦があり、天ぷら、ウニのお刺身があり、お漬け物が山盛りである。ビールは? と聞かれたけれど、ごはんがついた完全和食だし、ダイニングテーブルを囲んで完全に「団らんの夕食」という感じだったので、遠慮する。
 デザートにマンゴーが出てきて「時期じゃないんだけど。」と早内さんが言うのを聞き、今までホテルやレストランでお目にかからなかった理由がやっと判った。

 響子さんと秋田さんは早々に食べ終えてお客さん達を送りに空港に向かい、早内さんが翌日の予定をクスコに電話して確認してくれて、明日は朝6時に出発と言われる。朝ごはんは5時半だ。
 その後、お風呂を勧めてもらう。ペルーに来てバスタブでお湯につかるのは初めてで、「やっぱり日本人はお風呂だよね。」と言い合いつつ、のんびりゆっくりさせてもらった。

 窓から入ってくる車のクラクション音が結構大きいのを気にしつつ、明日のナスカの地上絵に備えて0時くらいに寝た。

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2004.12.27

ペルー旅行記7日目

2004年9月23日(木曜日)

 この日は1日フリーのところ、オプショナル(8500円)でクスコ市内と近郊の観光をつけてもらった。ガイドが引き続き道子さんだったのが嬉しい。

 8時出発だったので、7時くらいに朝食を食べに行く。一昨日は朝食のレストランが開いたばかりのところに行ったから、実はメニューの半分も出ていなかったらしい。そのときは出ていなかった温かいもの(スクランブルエッグ、ジャーマンポテトみたいな料理など)があるし、オムレツも焼いてくれる。嬉しくなって、色々な具を入れてもらってオムレツを頼んだ。
 明日リマに戻る飛行機は朝早いので、この日が唯一、ホテル・ロス・アンデスの朝食を堪能できる日である。

 ロビーに出ると、PCが空いていた。一昨日出したはがきはどう考えても友人の誕生日に間に合わないので、二人でメールを送ることにした。
 電源を入れたらWin98だった。それなら特にパスワードを入れなくてもネットワークにつながるだろう。
 IEを起動し、Webメールに接続するサイトのトップページに行くと日本語が表示された。調べてみると、日本語変換ソフトがインストールされている。流石に日本人観光客の姿をたくさん見かけたホテルだけのことはある。

 しかし、ログインし、メールを書こうとしてハタと手が止まった。どういう操作をしたら日本語入力できるようになるのかが判らない。当たり前だけど半角/全角キーなんてものはキーボードのどこを見てもない。
 結局、ほとんどローマ字、「Happy Birthday!」だけ英語の情けないメールになった。まぁ、気は心である。

 道子さんの顔を見るやいなや、「カメラの媒体をなくしたんです!」と訴え、ここのホテルのフロントに確認し、サンクチュアリロッジに電話をかけてもらった。どちらにもそういう忘れ物は届いていないらしい。あとはダニエルの車の中なのだけれど、今彼はジャングルに行っていて、今日の夜中にならないと帰って来ないという。
 私が使っているカメラはxdピクチャーカードなので、媒体はケースに入れてもかなり小さい。
 道子さんに「ペルーではまだデジカメとかが一般的になっていないし、ケースも小さいし、ごみと間違えて捨てられてしまったかもしれない。」と言われる。多分彼女にはこの時点で忘れ物は出てこないと予測できていたのだろう。今ならそれが判る。

 打てるだけの手を打ってもらい、観光に出かけた。
 まずは、クスコ近郊のサクサイワマンの遺跡だ。
 ピサックに向かった日に、子供たちがマスゲームのような模擬インティライミのようなことをしていた場所である。もちろん夏至の日には本物のインティライミが行われる。
 今年のインティライミには雨が降ったそうだ。ペルーも天候不順なのかもしれない。

 昨日のマチュピチュ下山途中にコケたのが響いて、足を大きく動かすたびに尾てい骨が痛い。
 この時期にマチュピチュで雨が降るなんて、ここ十数年で一度もなかったことらしい。あまりにも私が「痛い」と繰り返すのに辟易したのか、道子さんに「得がたい経験をしたのよ。」と言われたけれど、そもそもマチュピチュに来たこと自体がものすごく得がたい経験である。得がたさはすでに十分だから普通に雨じゃない日に(晴れた日に、なんて贅沢なことは言わない)マチュピチュにいたかった、と思う。

 とにかく、サクサイワマンだ。
 この遺跡は、ものすごく騒がしかった。
 今日は「学校の日」で、遠足に行ったり運動会をしたりする日だという。石組み以外はだだっ広いサクサイワマンの遺跡は子供たちの遊び場と化していた。ボールを持ってきてサッカーをしている子もいるし、一枚岩の筋を滑り台に見立てて繰り返し滑っている子もいる。「僕たちを撮って!」と身振りで言われ、写真のモデルになってもらったりもした。
 ペルーはそんなに強くはないけどサッカーが人気らしい。アルゼンチンのチームに勝ったクスコのクラブチームが、それ以降国内で負け続けていて、昨日やっと勝てたそうだ。

 サクサイワマンの遺跡は、とにかく広い。広場を囲むように巨石の石組みが波打って続いている。
 スペイン人への反逆を企てたマンコ・インカがここに布陣し、クスコに迫ったそうだ。けれどもインカ軍は夜は闘わないのでその隙をつかれて負けてしまい、この遺跡も大部分が破壊されてしまったらしい。
 そのときに破壊された塔の土台だという円形に組まれた石組みも残っている。その足下からでもクスコの街が一望できるのだから、ここに更に塔が立っていれば作戦を立て戦うために十分な見晴らしが確保されたことだろう。

 うねうねと続く石組みは私の身長の2倍を越す巨石が使われていたり、キューブ上の石を緻密に積み上げてあったり、インカの二重の門も残っていて、戦いの跡の場所なのに、気持ちの良い遺跡だ。
 その他にも、大きな石をそのまま削って階段状にしてあったり、マチュピチュのコンドルの神殿のような感じに上下逆の階段状に刻まれた岩があったりする。
 色々な話を聞きながら、ゆっくりと1時間以上も楽しんだ。

 遺跡を遊び場代わりにしているのはサクサイワマンだけではなく、どこの遺跡でも岩の上を飛び跳ねたり岩の下を潜り抜けたりしている子どもの姿があった。
 サクサイワマンの遺跡からすぐのケンコーでは、そうしてボール遊びをしていた女の子達と一緒に写真を撮ったりもした。

 ケンコーの遺跡は、岩を削って作られている。
 大きな石に水路がジグザグに彫られていて、蛇を象っていると言われているという。水路と書いたけれど、地球の歩き方によると、ここは宗教儀式に使われた場所で、水ではなく生贄の血を流したとも言われているらしい。
 また、石畳として敷かれた石に、リャマの形が彫られたりしている。
 足下の岩は掘り抜かれていて、下を歩いている人の姿が時々見える。降りてみると、体を横にしてやっと通れるくらいの通路が切ってあり、捧げ物を置くような棚も削ってあった。

 奥の方から見ると、この遺跡が一枚岩を掘り出したものだということがよく判る。どうも、こちら側が元々は表玄関だったのではないかと思われる。大きめの岩をモニュメントのように立ててあり、そのモニュメントと遺跡を眺められるような位置に王が座ったと言われる岩(きちんと椅子として座れるように削ってある)がある。
 もちろん、できるだけ偉そうに座って写真を撮ってもらった。

 タンボマチャイは王の水浴場として使われていた場所である。
 タンボマチャイを訪れる前に、インカ王が水浴びしている間の見張り場とされていたと言われるプカ・プカラという遺跡に行く。サクサイワマンやケンコーの石は、グレーの石だったけれど、この遺跡は赤い。アドベの色だ。
 この遺跡は明らかに臣下用の実用的な場所で狭い。でも、少し高くなっていて、王の水浴中に周りを見張るには絶好の場所だということが判る。

 プカ・プカラからタンボマチャイの水浴び場は見えないけれど、タンボマチャイに行くとプカ・プカラの遺跡の頭の部分が見える。
 バス1台分の日本人観光客が先着していて、彼らがかわるがわる写真を撮っているのを眺めながら、どうやってタンボマチャイにいる人とプカ・プカラにいる人が信号を送りあったんだろう、という話になった。
 友人は叫んだのに違いない、と言う。私は糸電話を使ったんじゃないか、弓矢で矢文を送ったんじゃないか、と言ってみたけれど、誰の賛同も得られなかった。
 道子さんによると、インカの人々は少なくとも弓矢という武器は使わなかったらしい。

 道子さんが「ほら。」と指差した先にフィコがいた。昨日は女の子の二人組をマチュピチュで案内し、今日は別の団体を連れてクスコ近郊を案内している。日本語がしゃべれるガイドさんが足りないというのは本当らしい。
 今年の8月と9月は今までにない人数の日本人観光客がペルーに来たそうだ。聞いてみたら、昨日の二人を朝空港まで送り(それを知っているということは道子さんも今朝空港にいたということだ)、リマから来た団体をそのまま案内し始めたらしい。忙しすぎる。

 フィコが「足は筋肉痛になっていない?」と聞いてくる。何故か今日はスペイン語で質問し、道子さんが通訳してくれる。正直に「足は痛くないけど尾てい骨が痛い。」と日本語で答えたら、道子さんは丁寧にスペイン語に訳してくれたみたいだ。
 彼らが出発してから、水浴び場に近づく。今も水が湧いていて、その水源がどこにあるのかまだ判っていないそうだ。
 ちょうど神殿の下に水浴び場があるような形で、段々に上の方から流れている。今でもかなりの水量があるのが不思議である。

 ケンコーの遺跡から白いキリスト像が見えていた。「行ってみますか?」と聞かれたので、もちろん連れて行ってもらう。
 そばに行って見ると、そのイエス・キリストはとてもとても太っていた。きっとクスコ市街から見たときに存在感があってバランスがいいような体型になっているのだろう。
 遠目には真っ白なキリスト像も足元はフェンスで囲まれ、何となく薄汚れている。
 キリスト像のところに車が1台到着してその車から子どもが降りてきたのを見て驚いた。後から後から何人も何人も降りてくるのだ。最初の一人が降りるところを見逃したので数えられなかったけれど、10人は超えていたと思う。もちろん運転手は大人だし、車は普通のバンだった。一体どうやって乗っていたのだろうと思う。

 正午くらいにクスコ近郊の遺跡巡りを終えて、クスコ市街に戻った。
 まずは、太陽の神殿に向かう。学校がお休みのせいか、太陽の神殿周辺に学校があるせいか、アイスクリームをなめなめ歩いている小・中学生の姿が目立つ。
 単純に土台の部分がインカの神殿、建物の壁とか床とか天井とかの部分が教会、と思い込んでいたので、インカの石組みとキリスト教会の壁とか入り組んでいる状態がよく掴めない。
 教会では、インカの石組み部分は写真撮影OKで、教会部分は撮影禁止というのも面白かった。
 私たちはインカの石組みを見るために観光スポットとして入場しているけれど、キリスト教徒の人にとってはこの教会は現役の教会である。

 「この石はこの教会の石組みを構成する中で一番小さい石だ。」「人があまりにも触るから黒ずんでいるんだ。」と道子さんに説明してもらったときには気をつけていたのに、「この穴はここを直角に曲がって向こう側に抜けている。」と聞いて、ついその穴に指を入れて試してしまった。道子さんに「ここは触っちゃいけないのよ。」とやんわりと注意される。申し訳ない。
 この教会にも、マチュピチュの太陽の神殿のようにカーブを描いた石組みがあり、それも見に行く。その石組みは外壁にあって、下は緑の公園のようになっている。今は芝生が植えてあるだけだけど、スペイン人が来た頃は黄金で作られた動物の像が飾られていたと言われているそうだ。

 太陽の神殿から十二角の石まで歩く間中、「靴を磨かせて。」と言う少年に目をつけられることになった。私の黒い革のハイカットシューズは、昨日のマチュピチュ登山(というよりも下山)のときに思いっきり汚れていたからだ。一応「靴磨きティッシュ」を持っていたのである限りのティッシュを消費して靴を拭いたけれど、そんなものでは追いつかないくらい、白茶けた靴になっている。
 一瞬「こんなに声をかけられるんだったら磨いてもらおうか」と思ったけれど、磨かれ終わったときの靴の状態に今ひとつ確信がもてなかったのでやめておいた。

 十二角の石は、細い通りにあった。「見つけにくい」とガイドブックには書いてあったけど、妙な民族衣装のおじさん(どうも石に人が触らないように見張るのが役目らしい)が番をして近くに控えていたので、どこにあるのかすぐ判った。探す楽しみが減ってしまったような、変なおじさんに会えて面白かったような、妙な気分だ。
 十二角の石は、周りと比べると大きかったけれど、何ていうかやっぱり感動がなかった。石組みは細かくて隙間もなくて精緻だけれど、十二角だからという感動はなかったような気がする。これまでに「凄い!」と思わず言ってしまうような石組みを見てきたからかも知れない。

 その後、歩いてアルマス広場まで戻った。
 道子さんと広場を一周して、黒板に書かれているレストランの定食メニューがお勧めで安いことを教えてもらい、プカラの通りにアンティークの布を使ってオリジナルのバッグなどを売っているお店があることを教えてもらい、そこのおばさんにお店が何時まで開いているか聞いてもらう。
 「大丈夫?」という問いかけに、自信はないながらも「大丈夫。」と返して、今日の夕食に変更してもらったフォルクローレディナーショーの待ち合わせをホテルのロビーで19時と約束し、道子さんと別れた。

 もう13時を回っている。お腹が空いていたので、お昼ご飯を食べることにする。
 アルマス広場を一周してお店を探したけれど、何故かピザ屋が多い。ペルーまで来てイタリアンというのも何だかしっくりと来ない。
 芸のないことだけれど、昨日もお昼ご飯を食べた「プカラ」に行った。「ランチの定食は安くて美味しい」と教えてもらったけれど、プカラの今日のランチはオムレツで、ペルーまで来てオムレツを食べるというのも何だかしっくりと来ない。
 色々なものを食べたいので、友人と二人で3品とってシェアした。アボガドのサラダと、コロッケと、アンティクーチョの盛り合わせである。高地にも慣れてきた(気が緩んできたとも言う)ので、昼間からクスケーニャビールも頼む。

 コロッケはマッシュポテトの中にひき肉を炒めたものを入れて揚げてある。かなり大きい。マッシュポテト自体に味がついていて美味しい。
 アボガドのサラダは、アボガドの種を除いて、そこに(多分)ツナをベースにマヨネーズで和えたサラダが入っている。
 アンティクーチョの盛り合わせは、定番のハツと、お魚(多分、鱒だと思う)、あともう1本が鶏だったか牛だったかよく覚えていない。全部美味しくて、お腹いっぱいになりながらも完食した。

 そのまま次の予定を相談する。久々に地球の歩き方を取り出した。
 私は「カテドラルに行って、銀の祭壇と、クイを食べている最後の晩餐が見たい!」と希望し、友人は「ビエンナーレ美術館が見たい!」と希望する。とりあえず、その2ヶ所に行くことになった。

 まずは一番近いカテドラルに向かう。正面入口の扉が閉まっていてどこから入ればいいのか一瞬迷ったけれど、向かって左側の建物の入口に椅子に座っているおじさんがいた。
 「地球の歩き方」には、クスコとその近郊の共通チケットで入れると書いてあったけれど、カテドラルを含む3ヶ所が共通チケットから脱退して別の共通チケットを作ったらしい。私たちは他の2ヶ所に行く予定はなかったので、カテドラルだけの入場券を買う。

 中に入ると、石造りの建物はしんとして寒い。ヨーロッパ人(推定)の団体はいるけれど、日本人はいなさそうだ。響子さんも言っていたけれど、欧米人は教会が好きで、日本人はインカが好きなんだろう。
 カテドラルの中はかなり立派で、天井も高く、細かい細工の施された山車のようなものがいくつもいくつも飾られている。写真を撮れないのが惜しい。本当に見事な細工だ。

 カテドラルの中央部分に入り銀の祭壇を目にして、「銀300tを使って作られた」とガイドブックで読んでいたものの、やはり唖然としてしまった。
 その銀の出どころはもちろんインカ帝国で、スペイン人が「銀持ってこい」と言ったら本当に持ってこられて驚いた、というエピソードつきだ。確かに馬鹿馬鹿しいほどの大きさで、流石に近寄れないように柵があったけれど、かなりきらびやかに飾られていて、多分誰かが毎日磨いてピカピカにしているのだろうと思う。
 信者の人が座る席のできるだけ端っこに座り、しばし呆然と眺める。こんなに大量の銀をあっさりと持って来られてしまったら、そりゃあ征服熱も高まるよ、と思う。

 いつまでも呆然と銀の祭壇を眺めているわけにもいかない。さらに先に進もうとしたところで、祭壇の脇に「最後の晩餐」の絵を見つけた。「最後の晩餐」と言えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」が思い浮かぶけれど、それとはかなり違う。
 まず縦横の比率が違った。最初からこの場所に飾られることを予定していたのか、やけに縦に長い。その壁の位置にピタリと収まっている。
 さらに異なっているのは「最後の晩餐」のご馳走で、話に聞いていたとおり、仰向けにひっくり返ってこんがり焼かれたクイがテーブルの中央に載っている。とはいうものの、必死で思い出そうとしても、教科書にも載っているレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」で何を食べていたのかどうしても思い出せなかった。

 後になって調べたら、そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はつい最近まで洗浄を行っていて、晩餐のメニューが何なのか判っていなかったらしい。聖書のストーリーからしてパンとワインが食卓に上っていたことは確かだ。私が子どもの頃ミラノで見たり、教科書に載っていた絵からはその程度しか見て取れなかったと思われる。
 最近の洗浄で、最後の晩餐の食卓には魚料理があったと判ったそうだ。イエス・キリストも動物性たんぱく質を食べていたのね、と思う。

 クスコの「最後の晩餐」の絵はかなり鮮明で、ご馳走のクイもテーブルのど真ん中に載せられていて、見間違えようがない。
 ちょうどよく絵を眺められる場所に置かれたベンチに座り、「この絵はスペイン人画家が描いたのか、ペルー人画家が描いたのか」という話になった。「宗教を広めるために宗教画家をスペンから連れて来たに違いない」と推測したけれど、後で道子さんに尋ねたところ、描いたのはペルー人画家だそうだ。メインディッシュも、クイだという説と、あのマチュピチュにいたあのウサギネズミだという説とがあるらしい。

 「最後の晩餐」も堪能して出口に向かう途中、地下への階段があった。電灯も煌々と輝いている。カタコンベなのではないかと恐る恐る降りてみたら、地下には白い壁の小部屋があるだけだった。ちょっと肩透かしを食った気分で1階に戻る。

 

 1階に戻った正面に、コートを着込んだお姉さんがPCと一緒に立っていた。近づいてみると、クスコ周辺の遺跡や風物を納めたCD-ROMを売る屋台(?)だった。
 このときには、デジカメのカードは戻って来ないだろうと覚悟も決まっていたので、デモ版の映像でマラスの塩田やモライの遺跡が納められていることも確認できたし、何より日本語版があったので購入した。
 もちろん、購入前に「Macintoshでも見られる?」と確認する。まだ見ていない。お姉さんにきちんと質問の意図が通じていることを祈ろう。

 次に美術館に向かった。カテドラル脇のかなり急な坂道を登って行くと、その中腹の曲がり角に、布をたくさん置いてあるお店があった。まるで招かれているように開かれたドアに「入ってみようか。」と入り込み、二人してハマった。
 広めの店内に、新品とアンティークの布やバッグやベルトが、所狭しとでも整然と並んでいる。値札がないのが気になったけど、物が良いのは完全に素人の私にも見て取れた。

 最初はベルトを見たり、お土産を探したけれど、90cm四方くらいの正方形でブルーを基調にした布に一目ぼれし、本気買いに走ってしまった。
 お店自体も木の床と木の壁で、天井が高くて斜めになっていて、なかなか趣がある。店主らしいおじさんもひげを伸ばしてそれらしい感じで、なかなか味がある。
 バッグを見ていた私たちに「それは自分が作ったんだ。」と多分スペイン語と身振り手振りで話しかけてそのままどこかへ行ってしまう。

 ベルトを見ていると、「それはアンティークだ。でも、アンティークと言っても100年も昔のものではない。30年とか50年前のものだ。」と教えてくれる。多分これは英語で教えてくれたんだと思う。要するに私たちとおっつかっつの英語力である。
 ベルトの模様についても色々とスペイン語で説明してくれようとするけれど、私たちにはちんぷんかんぷんだ。そこに、たまたまお店に一人旅の日本人の女の子が入ってきて、彼女がスペイン語を話すことが判ると、彼女を通訳にして教えてくれようとする。おじさんは、来年にはこのお店を発展させて博物館のようにしたいと考えているそうだ。

 思いついてスペイン語会話集を出してみたけれど、載っている単語が少ない。おじさんが伝えたい単語は悉く載っていなかったらしく、しまいには本を取り上げられて投げるマネをされてしまった。
 おまけに、私の発音は明らかにおかしいらしく、おじさんが言ったとおりに復唱しているつもりなのに(それで覚えておいて、後でスペイン語辞書を引けばいいと思ったのだ)、さらに復唱し返され、爆笑される。

 このとき、チンチェーロの市場で買ったベルトを巻いていたら、その結び方がおじさんのお気に召さなかったらしい。そもそも、市場で買ったベルトとおじさんのお店にあったベルトでは長さが全く違う。市場で買ったベルトは一重で巻いて20cmたらすくらいの長さだけれど、おじさんのお店のベルトは私だったら三重くらいに巻けてしまう。その巻き方も教えてもらった。

 結局「化学繊維じゃない」と太鼓判を押され、「ブルー以外は化学染料を使っていない」と保証され、「普通は30cm幅くらいの布を織ってつないであるんだけれど、この布はこの幅で織ってあるんだ」と説明された(と思われる)一目惚れした布と、アンティークのベルトを購入した。
 お勘定の段になったところで、思ったより(というよりも、値段については考えていなかった)高くて、二人ともお財布に買えるだけの現金を持っていなかった。身振り手振りと英語で「ホテルに戻ってお金を取ってくるから待ってて!」と言ったら、どうにか伝わったらしい。「取っておくからね。」とどこかに隠してくれた。

 ホテルに戻り、慌ててお金を用意して、必死で急いでお店に戻ったらおじさんに笑われてしまった。
 無事に購入して、「一緒に写真撮ってもらえる?」と聞いたら残念ながらそれは断られてしまったけれど、おじさんと握手して別れた。

 そのまま坂を上って、当初の目的であるビエンナーレ美術館に向かった。そこは銀行が作った美術館で、中庭にはガラス張りのレストランがあり、かなり洒落た雰囲気のところだ。小さいけれど、ゆったりと収蔵品を展示していて、スペイン語と英語で説明があって、判らないながらものんびり見ることができた。
 プカラの近くの道子さんに教えてもらったお店の閉店時間も迫っていたし、この美術館を巡ったところでクスコの午後は終了だ。

 アルマス広場まで戻りバッグ屋さんに向かったところ、何故か見つからない。「プカラの並びだったよね。」と何度も行き来して探したのだけれど、どうしても見つからない。
 何度も行き来するうちに、どうもこの閉まった扉があのお店なんじゃないかと思われてきて、「あのおばさん、今日は疲れたから早仕舞いとかしちゃったんだよ。」という結論に達した。「このお店はオリジナルの布でオリジナルの小物やバッグを作っている」という話だったし、並んでいたポーチもなかなか良い感じで、お土産用にまとめ買いしようとしていたのに残念である。
 ホテルに戻って一休みし、ロビーで道子さんと待ち合わせた。

 フォルクローレ・ディナーショーのお店はホテルから歩いてすぐのところにあった。お店に入ると、ステージのまん前の席に案内される。
 予約客のテーブルに旗が立てているようで、私たちのテーブルにはもちろん日本の国旗が立っていた。日本人のお客さんが多いんだな、ということがよく判る。
 近くに20人くらいの団体がいて、そこにも日本の国旗が立っていた。その人たちは全員が同じメニューのようで、比べるのも失礼な話かもしれないけれど、小回りの効く旅行でよかったと思う。

 前菜にオニオンスープ(他のスープはインスタントだけれど、オニオンスープはインスタントではない、と教えてもらった)、メインはそれまでペルーで食べていなかった豚肉の料理にした。デザートはフルーツサラダにする。お昼にもお酒を飲んだけれど、クスコ最後の夜なので(と理由をつけて)ピスコサワーを頼む。
 フォルクローレショーの始まりに合わせてお店に入ったようで、食事と前後してショーも始まる。

 物凄く激しく上手いわけではないと思うけれど、色々な大きさのケーナなどの楽器を使い分けて演奏される。やる気のなさそうなお兄ちゃんがテクニック的には一番らしい。淡々と演奏している。ダンサーが四人出てきて、お祭りの音楽や収穫の踊りを披露してくれる。
 結構楽しくて、しげしげと見たり拍手したり写真を撮ったりしていたら、食べるのが物凄く遅くなってしまった。
 そのグループの踊りの最後には、何故か手を取られて真ん中に引っ張り出され、一緒に踊る羽目になった。楽しかったけど、お酒を飲んでくるくる回されて、かなり酔った気がする。

 次のグループは「大学のサークルだ」と自己紹介した(と道子さんが教えてくれた)けれど、リーダーの人だけは大学10年生くらいの年齢に見えた。エレキギターを使ったり、逆に民族楽器は一人一つずつくらいしか使っていなくて、最初のグループの方がずっと上手だった。
 彼らの演奏が始まる頃にはお客も半減していたし、後から出てくるグループほど上手くなるというわけではないらしい。ちょっとがっくりする。前のグループのCDを買えばよかったかな、10ドルだったしと思う。

 翌日は朝早くの便でリマに戻る。その荷造りが大変だった。
 どう考えてもスーツケースの重量は増えているはずだ。お土産を外に出すか、詰め込むかで悩んだ挙げく、無理矢理詰め込む。カップうどんを食べたので、重さはともかく嵩はかなり減っている。
 シャワーを浴びて、荷造りもほぼ完了し、0時くらいに寝た。

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2004.12.23

ベルトの結び方を忘れる

 21日に、以前に職場でご一緒した人々と3人で忘年会をした。
 こういう場にはとりあえずペルー旅行の写真を持って行って自慢することにしているので、もちろん実行した。
 11日間の日程で行ったと言ったら呆れられてしまった。その人は残業と休日出勤を合わせて280時間を超えた月もあったそうだ。何だか申し訳ない気分だった。
 自慢するだけでは心苦しいので、リャマの毛で織った(とチンチェーロの市場で売り子の女の子が言っていた)ベルトをお土産代わりに差し上げた。1本は心臓を表すハートマークの連続模様、1本はインカの動物などの意匠が色々編み込まれているものだ。それを見て「ドンタコスの人がいる!」と言われたときには、反応できなかったけど。
 「Gパンのときなんかにいいかも。どうやって結ぶの?」と聞かれて、ガイドさんに教わった結び方を実演しようとしたのだけれど、酔っ払っていたせいなのか、記憶力が激しく減退しているせいなのか、どうしても教わったとおりに結べなかった。
 結び方を写真に撮っておけば良かった・・・。

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2004.12.19

年賀状の印刷を開始する

 先週末から年賀状の作成に取りかかった。
 ここ数年は旅先で撮った写真を使って年賀状を作っている。今年はもちろんペルー旅行、それもマチュピチュ遺跡の写真で決まりである。
 しかし、来年は酉年である。どうやって「酉」にちなもうか考えて、ナスカの地上絵の「ハチドリ」を使うことにした。どこかでお土産を買ったときの包み紙に地上絵をデザインしたものがあったので、それをお手本にペイントソフトで描いてみた。自慢ではないが私には絵心が皆無なので、必死になってマネしたものの、できあがりはお手本とは似ても似つかないほど歪んでいた。こういう場合は「味がある」と己をごまかすことにしている。そういうわけで、なかなか味のある「ハチドリ」に仕上がった。
 ハチドリの絵とマチュピチュの写真を配置し一応のデザインまでは先週末に完成させていた。
 ところが、今日になって印刷しようとすると、何故か宛名職人がそのたび落ちてくれるのだ。
 仕方がないので、宛名職人を再インストールし、プリンタドライバも再インストールし、Norton先生にもさんざんお世話になって、必死になってPCの修理を試みた。
 とりあえず、何とか印刷はできるようになった。

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温泉旅行の企画が拡大(?)する

 何だか上手く言えないのだけれど、同い年で一昨年までは職場が近接していて全員が「自分は機械じゃなくて人間である」と力強く主張している4人で15日に集まって忘年会をした。
 機会あるごとに精力的にペルー旅行の話をしてついでに写真も強引に見せている私は、もちろん写真を持参して自慢した。
 自慢するだけではあんまりなので、マラスの塩田で購入したお塩を瓶に詰め直してお土産代わりに手渡したら、「これ、食べられるんだよね」と何故か念を押された。もちろん、食べられる。食用として売っていたのである(多分)。

 先月にロンドン旅行を決行した人もいて、そこからこの4人で海外旅行に行こうではないか、という話が盛り上がった。
 盛り上がったのだけれど、全員がふと手を止め「大丈夫かな?」「みんな好き勝手なことするんじゃない?」と顔を見合わせてしまった。
 それで「まずは国内温泉旅行で様子を見よう」と話が進んだ。
 前後の脈絡は忘れてしまったけれど、行き先は日光ということになっている。私が「日光に行ったことがない」と主張したせいかもしれない。
 果たして、温泉の支度は実現に向けて前進したのだろうか・・・。

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2004.12.05

アワイ・マントのジャムを食べる

 ペルーで買ってきたビニル袋入りのアワイ・マントのジャムを入れるちょうどよい大きさの瓶がなかなか見つからず、ずーっと封を開けないままで2ヶ月以上たってしまった。大は小を兼ねると考え直し、無印良品で大きめの瓶を買ってきて、今日やっと袋から瓶にあけた。
 早速、ヨーグルトに混ぜて食べた。
 ジャムのお店で味見させてもらったときは、実は「甘味だけが強い。ソル・イ・ルナホテルの朝食で食べたジャムの方が美味しかった」と思ったのだけれど、今日じっくり食べてみたら強烈な甘さの中にも酸味がしっかり生きていて、やっぱり美味しかった。
 味がしっかりしているのでヨーグルトに混ぜたのは正解だった。
 カリカリに焼いたトーストに薄〜く塗って食べても、きっと美味しいと思う。

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