2006年4月30日(日曜日)
旅館とちごでの朝ごはんは7時からだ。
ごはん、わかめと豆腐のおみそ汁、サワラの塩焼き、地卵の卵焼き、さといもと蕗の煮物、ほうれん草のごま和え、キュウリの糠漬け、という「これぞ日本の朝ごはん」というメニューだ。
お昼のお弁当をいただき、ペットボトルにお茶を詰めていただく。
今日はここからタクシーに分乗して歩きの出発地点まで向かう。大きな荷物は旅館のお父さんが車に乗せて今日の宿まで運んでくださる。
お母さんと旅館の前で撮影大会をし、8時に出発した。
乗せてもらったタクシーの運転手さんがまた面白い人で、「とちごの女将さんはうちのおかんに似てる」などとおっしゃる。和歌山県は格好良いお母さんの宝庫なのかも知れない。
車で走ること30分、今日の歩きの出発地点に到着した。
旅程表では、湯川王子から熊野本宮大社まで歩くことになっていたけれど、昨日が雨であまり歩けなかったためなのか、それ以外の理由なのか、昨日のうちに語り部の宇江先生から「予定よりもう少し手前から歩き始めます。30分くらい登りが続きます。」と宣言されていた。
結局どこから歩き始めたか定かではないけれど、後になって思い返し、地図と照らし合わせてみたところでは、岩神王子手前の女坂付近から歩き始めたのではないかと思う。
8時半に、歩き始めた。
林道を外れ、川に渡された小さな橋を踏んで、山中の熊野古道を出発である。
出発してすぐ、炭焼き釜の跡があった。ここから出発した理由のひとつは、宇江先生がこの炭焼きの跡を見せたいと思ったからではないかと思う。先生は若い頃は炭焼きのお仕事をされていたそうだ。
紀州備長炭は江戸時代から熊野の特産物で、上等の炭なら15kgで7000円くらいするらしい。お米と同じくらいの値段である。
紀州の特産物だから杉の木から作っているのかと思ったら、炭は樫の木から作るそうだ。杉の木からは作れないらしい。
窯を作り、運んで来られる範囲の樫の木を全て炭にしてしまうと、その窯を捨て、また次の場所で窯を作る(あるいは、古い窯を作り直して使う)。その繰り返しだ。
修験道の山伏でもある宇江先生の法螺貝の音の応援を受け、再び出発である。
最初は、ひたすら上り坂だった。出発前に旅行社から送られてきた案内には「息が切れるような難所はありませんが、踏む距離は長いです。」と書いてあったけれど、大嘘である。
土の山道はところどころ石が半分埋まっていて、滑らないようになっている(のだと思う)。
見上げるような結構な急坂が続き、しかも見上げても終点が見えない。
このまま永遠に上り坂が続くんじゃないかと思いつつ、黙って一歩一歩足を出す。息が切れてしゃべることもできやしない。
30分くらい登ったところでふと下を見ると、さっき歩き始めた林道が遙か下に見えた。我ながら、よくがんばっている。
沢ガニを見つけてみんなでのぞき込む。私は「写真を撮る」と称してしょっちゅう自主的に休憩していたけれど、ツアーのみなさんは本当に黙々と歩いている。そんな中、沢ガニ発見はかなりのイベントだ。
沢ガニと別れて10分くらいで岩神王子に到着した。休憩である。
とっくに汗だくになっていたので、上に羽織っていたゴアテックスを脱ぎTシャツになる。
岩神王子は岩神峠からすぐのところにある。今は社も失われ、「岩神王子」と彫られた石が立っているだけだ。
ここからしばらくは下りとなる。息は楽になるけれど、今度は膝と足の指に負担が来る。
足の指が痛いのは、私がいわゆるトレッキングシューズではない、紐ではなくマジックテープで締める山用でない靴を履いていたせいだと思う。その靴で踏ん張ると親指に全体重がかかる気がする。
木を渡して階段状になっているところでは、足の指は楽になるけれど、今度は膝が笑い始める。立ち止まると膝が震えているのが見て判るくらいだ。
30分くらい歩き、少し道が平らになって楽になったな、と思ったところで、杉林の上の方が開けた。陽が射して若い緑がキラキラ輝いているように見える。
添乗員さんに「写真、撮るんでしょう?」と言われ、謹んでカメラを構える。そういえば、せっかくリュックを背負って両手を開けていたにもかかわらず、私はこの日、1日中カメラとタオルを手に持って歩いていた。山歩きに慣れていない上に体力も運動神経もないくせに、我ながらふざけた態度である。
沢に沿って歩いたり、その沢にかけられた黄色く真新しい丸太橋を渡ったり、もう架けられて何年もたつのか土や葉が積もっているような丸太橋を渡ったりして進む。
10時少し前におぎん地蔵を通過した。この近くの古道が、私たちが通った約1週間後に崩れている。
もうこの頃からすでに、私は最後尾を歩くことが多くなった。写真を撮っては遅れ、追いつくために急ぐ体力などカケラもない。
10時15分くらいに蛇形地蔵に到着した。
遅れ気味の私は、宇江先生のお話も途中から聞いたり、追いつく頃にはお話の中心は終わったりしていたことが多かった。
しかし、蛇形地蔵では、お手洗いもあって長めの休憩を取ったので、「だるがつく」という言葉を教わることができた。急に疲労困憊して歩けなくなってしまうことを表す言葉である。
私たちみんなが疲労困憊して見えたらしく、励ますための法螺貝も吹いてくださる。
ツアーの方があんこのお団子を配ってくださる。甘さが染み渡るようだ。
法螺貝についてのお話も伺う。
奥駆けの修行をするときに、勤行をする。勤行と聞いて「滝に打たれるんですか?」と聞き返してツアーのみなさんに笑われてしまった。真言を唱えることを勤行というそうだ。
その勤行を始める前に「これから勤行します」、歩き始める前に「これから出発します」、宿に着いたときに「これから宿に入ります」ということを知らせるために法螺貝を吹く。山の上で吹くと宿の人が到着を知り、ごはんの用意を始められるという仕組みだ。
法螺貝には音が五つあって、吹き方によって変えられる。その五つの音で奏でる旋律により、違う内容を伝えられる。ただし、高音を出すのはかなり難しい。
10時半くらいに休憩を終えて出発した。
蛇形地蔵を出てすぐ、渓流沿いを歩く。リュックを背負った背中は汗だくだし、この頃から膝が笑ったり足の指に体重がかかるだけでなく、背中が妙に突っ張っているような気がし始めた。それでも、とりあえず気温が少し下がったような気がするし、何より水音が爽やかである。
蛇形地蔵から10分くらいで、湯川王子に着いた。
そういえば、元々の予定ではここから歩き始めることになっていたんだよな、2時間かけて出発点にたどり着いたのか、としみじみする。
湯川王子は九十九王子の中でも比較的格式の高い准五体王子のひとつで、道湯川(多分ここまで沿って歩いてきた渓流の名前だろう)の氏神様である。明治時代に近くの神社に合祀され、昭和30年代以降は無人になっていたけれど、最近、小社殿が再建されている。
この再建された小社殿の上屋が再び倒れたのは2006年7月上旬のことだ。
湯川王子近くに後鳥羽上皇が御所を築き、宿泊や休息、谷川で禊ぎをしたと言われているが、その場所は今も特定できていない。
明治時代からこの地が無人になる昭和30年代くらいまで、この辺りは「義務教育免除地」だったそうだ。
集落に住む人が少なく学校は維持できない、こちらの学校までは7km、あちらの集落までは10km、しかも山道となると通いきれない、という事情だ。全国的にも珍しいらしい。
湯川王子から三越峠まで、またしばらく登りが続いた。
添乗員さんは「軽い登りです。」と説明しているが、登りながら撮った動画には私の息が切れている音だけがくっきりと入っている。しかも「朝より辛い。」と呟く声が入っているから、相当キツかったのだと思う。
岩神王子までの登りよりもキツく感じたのは、すでに2時間強歩いていることや、坂ではなく階段だったためではないかと思う。
それでも、登り始めて25分で三越峠に到着した。
やはり峠だ。風が通ってとても涼しい。
休憩所やその周辺に皆して座り込む。水分を補給し、チョコレートなどを囓る。休憩所の近くに水道があったので、思いっきり顔を洗うとサッパリした。
10分ほどの休憩の後、11時15分、今度は道を下り始める。
再び渓流沿いの道を歩いていると、急に「ゲッゲッ(と聞こえた)」と声がした。道沿いに石組みが組まれ、苔やシダが生えていて、その辺りから声がしている。立ち止まって目をこらしてみたけれど、蛙の姿は見つけられなかった。
30分ほど歩いたところに、綺麗な石組みが残っている集落跡があった。結構大きな集落っぽい。しかし、もう建物などは残っていない。石組み跡にも綺麗に植林されていた。
何となく気後れして写真を撮らなかったしメモも取らなかったのでうろ覚えだけれど、多分この辺りを歩いているときに、宇江先生から「この家では幽霊が出たんです。」というお話を聞いたと思う。
何軒かの無人の家が集まっているうちの一軒で、もうすでにそのおうちの方は別の場所に引っ越し、無人の家の筈なのに、そこを通りかかった旅人がおうちにいた方に招かれ、お茶を振る舞われたという。
そんなお話を聞いていたら、ツアーの方が「さっきから、後ろから誰かが付いてきている気がする。」とおっしゃる。今は10人以上の人が固まって歩いているからいいけれど、それでもかなり怖い話だ。その話を聞いていた別の方が「そういうときは、お先にどうぞ、って道を譲るといいのよ。」とおっしゃる。
少し道が広くなったところで、「お先にどうぞ。」と通して差し上げたら、その後は「後ろから付いてきている」という感じはなくなったそうだ。良かった・・・。
私はこういう感覚に襲われることはまずない(もしかしたら生まれてから一度もないかも知れない)タイプだけれど、覚えておこうと思う。
そろそろ正午近くなり、お腹もかなり空いてきた。そんなところにこんな坂(というか階段)はかなりキツい。
それでも、この坂を登り切った辺りから、道も平坦に広くなり、格段に楽になった。遅れた私たちについていた添乗員さんが、走って先頭にいる宇江先生を追いかけて行く。お昼ごはんの相談に行ったようだ。
川沿いの山桜を見ながらのんびり歩いて、公園のような広場のようなところに到着した。
12時15分、待望のお昼ごはんとなった。お弁当は、朝、とちごのお母さんに渡されたもので、おかかの入っためはり寿司のおにぎり、梅干しのおにぎり、めはりを刻んでご飯に混ぜ込んだおにぎり、卵焼きとウィンナと佃煮が入っている。
普段ならおにぎり(それも結構大きい)三つなんてとても食べられないけれど、歩き続けているせいか、美味しさのせいか、「お腹いっぱいだよ」と思いつつ完食した。
この広場には、川舟が一艘、展示されていた。
こういう舟を伝馬船というらしい。昭和の中頃までは渡し船として、その後は鮎漁で使われていたものだ。この後向かう船玉神社まで、漁師が鰹を担いでお参りしに来ることもあったという。
30分ほどのお昼休憩後、出発し、2分くらいでその船玉神社に到着した。この神社から峰沿いを歩いて今日の宿である湯の峯温泉まで3時間くらいで歩ける道があるそうだ。松林が続きマツタケも取れるらしい。心惹かれるけれど、今は熊野本宮大社を目指さなければならない。
もっとも、「目指さなければ」と力むほどのことはなく、船玉神社から30分弱で猪鼻王子に到着した。この辺りから眺めた山の稜線がイノシシの鼻のように見えたことから「猪鼻王子」と名付けられたそうだ。
現在は「跡」という感じでほとんど何も残っていない。
猪鼻王子から発心門王子までの道筋に濃いピンクの山つつじが咲いていた。熊野古道を歩きながら、この時期、この山つつじを一番たくさん見かけたような気がする。
13時20分、発心門王子に到着した。
発心門王子は五体王子に列せられていた格式の高い王子であり、ここから熊野本宮大社の境内だと考えていいそうだ。
「ここから境内」だからか、距離として手頃なためか、観光バスで来たらしいツアーの一団をいくつも見かけるようになった。
理由はすっかり忘れたけれど、私は発心門王子の写真を一枚も撮っていない。何故だろう? 疲れ果てていた、というのが一番ありそうである。
発心というのは仏教用語で「菩提心を起こすこと」という意味だ。
そして、菩提心というのは、「悟りを求め仏道を行おうとする心」という意味だと広辞苑に書いてある。
どうして「熊野本宮大社」という神社に入るのに「仏道を行おうとする心」なのかというと、熊野信仰は昔から神仏混淆だったからだ。仏様と神様は一緒だと考えられていて、仏様だと考えて般若心経を唱えてもいいし、神様だと考えて祝詞を唱えてもいいらしい。
昔の人は、今までの道ももちろんのこと、熊野本宮大社の境内であるここからは特に、願いごとを持って歩いていた。生きている今のこととともに、「来世」への願いを強く持って歩いたらしい。
熊野本宮大社と熊野新宮大社、熊野那智大社のそれぞれに修験道があり、宇江先生は那智大社に所属する山伏である。那智大社から吉野までの山道を1週間で走破する奥駆けもするという。
昔の山伏は加持祈祷をしてそれで生計を立てていたけれど、今は宇江先生が知っている範囲でそうやって生計を立てている山伏の人は女性が一人いらっしゃるだけだそうだ。
何か願いごとを思いつつ歩こうと思ったし、そうしたと思うけれど、何を願ったのかどうしても思い出せない。こんなことでは、きっと、聞き届けてもらえないだろう。
ここからの道は、水田などに面した、細いけれど舗装された道が多くなった。昨日のお話にもあった通り、熊野古道(の一部)は生活道でもある。
道から見上げた山にポツポツと白くぼんやり霞んでいるところがあった。山桜である。目一杯ズームさせてファインダーを覗いてもよく分からなかった。残念である。。
前方に鯉のぼりが見えてきたな、そういえばあと5日で子どもの日だ、とのんびりと歩いて到着したその場所が水呑王子だった。
もちろん水飲み場(というと、どうも情緒に欠ける)があり、ひしゃくが置いてあって飲むことができる。ついでに、ペットボトルの水が残り少ない人は補給する。美味しい水だ。
水呑王子は、元小学校分校の敷地跡にある。
ここから先またしばらくは杉林の中の土の道に戻ったり、舗装道になったりする。
両脇に水田の広がる舗装道では、あちこちに無人販売所があり、野菜やお茶、梅やミカンなどが売られていた。見つけるたびに覗き込み、「買いたいけど、我慢しよう。」などと言っていたけれど、ついに我慢しきれなくなって梅ジャム100円を購入した。家に帰ってトーストに塗って食べたら、思っていたほど酸味が強くなく、とても美味しいジャムだった。
庭先の水道で大きなウコンを洗っているお母さんと小さい男の子がいた。「こんにちは。」と声をかけると恥ずかしげに顔を隠してしまった。可愛い。
この辺りは水田が広がっているけれど、熊野全体をみると山が海際ぎりぎりまで迫っているためお米を作るには不向きである。だからお米は貴重品で、熊野ではずっと茶がゆにして食べるのが一般的だったらしい。
「茶」はこの場合は番茶で、そういえば道々見かけた無人販売所でも大きな袋に入った番茶が売られていた。
そうこうしているうちに、また前を歩く方たちとの間が開いてしまう。私が伏拝王子に到着したのは14時30分を過ぎた頃だった。
伏拝王子は少し小高くなっていて、その10段くらいの階段の向かい側にお茶屋さんがある。梅ジュース(買って飲もうか迷った末買わなかったので覚えている)などなどをその場で座って飲むことができる。このお茶屋さんでお手洗い休憩も兼ねて一休みし、伏拝王子に上がった
熊野本宮大社は元々は熊野川の中州にあったけれど、明治22年の大水害で流されてしまい、現在の場所に移されている。
中州にあった頃は、伏拝王子からまさに目の前に熊野本宮大社を望むことができ、「伏拝王子」と名付けられた。
そう説明してもらったけれど、残念ながら私には、肉眼でも、撮った写真でも、伏拝王子から熊野川中州を確認することはできなかった。
また、和泉式部が熊野本宮大社にお参りした際に、伏拝王子の地で月の障りになってしまい「お参りできない」と嘆いて歌を詠んだところ、夢に熊野の神様が現れて「お参りしても良い」とおっしゃったという伝説が残っている。
以来なのかそれ以前からもなのか、とにかく、熊野の神様は男女の別などにこだわることなく万民の神様である、ということである。
和泉式部の歌について後で調べてみたら、み熊野ねっとというサイトの「熊野の歌」というページが見つかった。その説明によると、
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」
と詠んだところ、その夜、式部の夢に熊野権現が現われて、
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」
と返歌したので、和泉式部はそのまま参詣することができたという物語が残っている。
実際のところ、和泉式部が本当に熊野にお参りしたかどうかは明確には判っていないらしい。
伏拝王子の近くに、何年か前に放映されたNHKの連続テレビ小説「ほんまもん」の主人公の家のロケ地が残されている。
家の中の様子はスタジオで撮影し、その家の外観と家の周りの風景を「ロケ地」で撮影したそうだ。今でも、それを目当てに訪れる人がいるという。
池脇千鶴演じる主人公の祖父を演じていたのが佐藤慶で、山伏という設定だったそうだ。奥駆けのシーンがドラマの中にあって、宇江先生もエキストラで出演したという。「ゆっくりと、でも速く走っているように走ってくれ」と言われて難儀したと笑っていらっしゃった。
伏拝王子から熊野本宮大社裏手の祓戸王子まで、1時間くらいだった。
写真を見ると、結構アップダウンがあったようだし、祓戸王子に着くまでに前を歩く宇江先生やツアーの方々を見失って少し焦ったことも覚えている。
それでも、やっぱり「のんびりと歩いた」という記憶が残っているのは、それまでの道が(私にとって)過酷だったからだろう。
伏拝王子から熊野本宮大社裏手の祓戸王子までの道のりは、土の道だったり、石畳ぽかったり、階段状だったりで、舗装道はほとんどなかった。
熊野の山は、昔は雑木林が8割で植林した杉林が2割くらいだったが、現在はその割合が逆転している。確かにこれまで歩いてきた道筋は綺麗に整って植えられた杉の木を多く見てきたけれど、この間は雑木林っぽいところが多かったように思う。
やっと到着した祓戸王子は、熊野本宮大社のすぐ裏手にある。(裏門に当たる?)鳥居もすぐそこに見えている。この鳥居は、木で作られていて、何となくタテヨコのバランスの不思議な地味な鳥居で、意外な感じがする。
ここで全員が揃うまで少し休憩した。
祓戸王子自体は石の小さな祠があるだけだ。木に囲まれていて、少し平らに広くなっていて、妙な例えで申し訳ないけれど、田舎のおばあちゃんちのお墓のような感じである。
何はともあれ、朝8時半に出発して歩くこと7時間20分、15時50分に熊野本宮大社に到着した。
熊野本宮大社がいつの時代に祀られたのかは判っていない。古い古い、記録に残るよりずっと以前から信仰を集めていたのだろうという。
熊野本宮大社は、家津美御子大神(私には「スサノオ」と言ってもらった方がまだ馴染みやすい)と阿弥陀如来をお祀りしている。元々の信仰の最初は、熊野川の流れを崇拝していたのだろう、というお話だ。
明日行く予定の熊野速玉神社は、今の神倉神社の大岩を、熊野那智大社はもちろん那智の大滝を、ご神体としていた。熊野三山は自然崇拝を元にした信仰から始まっている。
昔から熊野詣でをする人は、牛王符をいただくことを目的としていた。大事にいただいて帰り、魔除けとして貼っていたという。
授与してくれた巫女さんに伺ったところ、南面または東面するように飾るとよいそうだ。または、玄関に貼っておけば泥棒よけになるという。
この牛王符は熊野三山にそれぞれあり、異なるデザインではあるものの、いずれも八咫烏を図案化し並べている。
熊野本宮大社の神門の中には、本殿(というか、四つの社)がある。元々は十二神が祀られていたけれど、あと八つの社は明治の水害で流されてしまい、この地に移されたのは、格の高い神様がいらっしゃる四つの社だけである。
この移設を手伝ったのが浅草寺だというのも何だか面白い。
本宮大社では神門の中は撮影禁止だった。だからなのか、何故かここでだけメモを取っていて、第一殿が「夫須美大神」、第二殿が「速玉大神」、第三殿が「家津御子大神」、第四殿が「天照大神」をそれぞれ祀っている。
四人の神様にそれぞれお参りした。でも何をお願いしたのかやっぱり覚えていない。「熊野古道を歩く」ことは考えていたけれど、「熊野詣でをする」ことは全く考えていなかったのだ。
せっかくたどり着いたというのに、熊野本宮大社についての記憶はもの凄く曖昧である。
集合が熊野本宮大社の正門といえる大鳥居の前で、そこまで長く続く階段を降りながら「これを上がらなくて済んでよかった」と思ったことや、その大鳥居の下で法螺貝を吹く宇江先生をデジカメの動画で撮影したこと、鳥居の横に八咫烏の意匠がついた幟が掲げられていたこと、バスを待っている間にその幟が降ろされてたたまれてしまったことくらいしか覚えていないのが情けない。
湯の峰温泉行きのバスの時間まで少しあったので、大齊原まで皆で行ってみた。緑とれんげの花と鯉のぼりが何とものどかである。
熊野川の中州には、今はこの真っ黒な大鳥居と「世界遺産」の碑が立つだけである。後鳥羽上皇や後白河法皇が詣でたのは、もちろんこちらにあった熊野本宮大社である。
そんな昔から川の中州にあってびくともしなかった本宮大社を移転させた明治の水害というのがもの凄い天変地異だったことが想像できる。
鳥居の真ん中の金色の印は八咫烏だ。
熊野本宮大社前のバス停で宇江先生とはお別れし、湯の峯温泉行きの路線バスに乗った。運良く全員座れてほっとする。終点の湯の峯温泉まで290円だ。
30分くらい揺られ、17時15分に今日の宿である「旅館よしのや」に到着した。すぐにお風呂をいただき、18時30分から夕食である。
夕食のメニューは、お刺身、鮎の塩焼き、酢の物、温泉で炊いた湯豆腐、茶碗蒸し、煮物、フライ、ごはん、お吸い物、山ももである。
これでお酒を飲んだらすぐ寝ちゃうよね、と同じお部屋になったお姉さんと意見が一致してアルコールは自粛する。お腹は空いているし、とても美味しいごはんだった。
ツアーの中に、湯の峯温泉に到着すると同時に「つぼ湯(小栗判官を甦らせたという温泉で、世界遺産にも登録されている)」を予約した方がいらっしゃり、ちょうど予約時間になって向かっているところに行き合わせた私は、ちょっとだけ中を覗かせていただいた。岩風呂と岩の洗い場(水道などはなさそうだった)に木の小屋をかけてある感じだ。
もちろん源泉に近いところにあり、効能がありそうでちょっと雰囲気のあるお湯だった。
宿から歩いて2〜3分のところに公衆浴場があり、ツアーに一人参加していた女性4人で行ってみることになった。
券売機で、普通のお風呂と薬湯のお風呂のどちらかを選ぶようになっている。係のおじさんに「どこが違うんですか?」と尋ねると、「薬湯」というのは源泉そのままの薄めていないお湯だと言われ、もちろん、そちらを選ぶ。
お風呂には先客がお二人いらっしゃった。この近く(といっても車で30分くらいかかるらしい)から毎週のようにいらしているそうだ。何か持病をお持ちで、定期的にこのお湯を使っていると大丈夫だけれど、少し時間をおいてしまうと大変なのだ、と語っていらっしゃった。
小栗判官を甦らせたお湯だ。霊験も効能もあらたかなのだろう。
しかし、かなり熱いお湯で、我々は3分とは浸かっていられなかったと思う。
公衆浴場からの帰り道、暗い中に浮かび上がる湯の峯温泉の源泉の流れ(だと思われる)の写真を撮った。
この写真の左奥に写っている木枠のところでは、タマゴやさつまいもをゆでることができるように網をひっかける釘が打ってあり、熱そうなお湯がこんこんと沸いていた。お風呂からあがったら試してみようと思っていたら、その時間には売店がすでに閉まっていて挑戦しそびれてしまったのが残念だ。
明日の午前中いっぱいで、このツアーは終了する。
4人それぞれに翌日の午後以降の予定を話し(青岸渡寺の宿坊に泊まって翌日伊勢神宮に行く方、大阪の実家に寄り道される方、京都でおいしいものを食べる方)、熊野本宮大社のバス停横のお店で買ったという夏みかんをご馳走になる。
おまけに、私はその後、同じお部屋になったお姉さんに足のマッサージまでしていただいた。「痛い〜。」とか「膝が笑う〜。」とか騒いでいたからだろう。申し訳なかったけれど、でもとても気持ちよかったし、翌日かなり楽になっていた。
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